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  • 與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町大字川上1)

    訪問日令和5年5月23日與止日女神社(よどひめじんじゃ)創建は、欽明天皇25年(564年)肥前国一宮「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」三の鳥居(佐賀市指定文化財)佐賀初代藩主鍋島勝茂公が慶長13年(1608年)に寄進した鳥居柱や貫、笠木が三本継ぎになっていて、柱の下部が太くなっている形状は「肥前鳥居」の特徴を示している與止日女神社の楠(クスノキ)樹齢1400年樹高20m幹回り7.2m枝張り22m河上神社金精さん手水舎龍の彫刻の口から水が出ている與止日女神社略記狛犬1狛犬2拝殿拝殿内に入ることができるとの案内があった過去を振り返ってみてもこのようなことは珍しく貴重だ副島種臣公揮毫扁額「火国鎮守」祭神:與止日女命(よどひめのみこと)神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える拝殿内部三...與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町大字川上1)

  • 戒壇院(福岡県太宰府市観世音寺5-6-1)

    訪問日令和5年5月22日観世音寺を訪れたときに金堂をずっと戒壇院だと思い発信してきた金堂の奥に戒壇院があり今回初めて訪れた戒壇院奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設筑紫野の戒壇は天平宝字5年(761年)聖武天皇勅願により観音寺境内に設置された「筑紫戒壇院」「西戒壇」とも称される西戒壇として、中央戒壇(奈良の東大寺)・東戒壇(栃木の下野薬師寺)とともに「天下三戒壇」の1つである元禄16年(1703年)福岡藩主黒田光之の藩命により博多禅宗、四ヶ寺(聖福寺、崇福寺、承天寺、妙楽寺)の管理下に置かれ観世音寺から独立明治6年(1873年)臨済宗妙心寺派博多聖福寺の末寺となった戒壇院の菩提樹(太宰府市指定天然記念物)境内の石仏地蔵菩薩地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩...戒壇院(福岡県太宰府市観世音寺5-6-1)

  • 清水山 観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号)

    訪問日令和5年5月22日清水山観世音寺天台宗の寺院天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願した発願から約80年も経った天平18年(746年)に完成した講堂(福岡県指定文化財)観世音寺は空海ゆかりの寺でもある大同元年(806年)年8月に寧波から出航した空海は同年10月に九州に着き、観世音寺に落ち着いた空海は、20年の留学の期間をわずか2年ほどで帰国したことで入京の許可が得られなかった先に帰国していた最澄は太政官に送られた空海の請来目録を見て驚く真言密教のことでは最澄が請来したものと大きな隔りがあるため最澄はそれを書写して手許に置いた空海の請来したものが貴重と認識され始め、3年後に入京を許され、高雄山の神護寺に住むこととなったその後天平宝字5年(761年)鑑真によって「戒壇院」が設けられた僧になる者が受戒をする...清水山観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号)

  • 太宰府天満宮(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)

    訪問日令和5年5月22日太宰府天満宮駐車場から天満宮への参道予想通りの観光客の多さ、カメラを大きく出た腹の上に固定し歩きながら撮る社号標には「太宰府天満宮」と刻まれている今回で3回目の参拝になるが個人で訪れたのは初めてである前回は退職の年で職場の同僚と訪れた。それから10年以上も経つ記憶が正しければ、並んでいる先には有名な……「御神牛」があり、撫でられるのを待っている菅原道真は承和12年(845年)の乙丑(きのとうし)に生まれた大宰府の地で亡くなった道真の遺骸を牽いていた牛が、あるところで伏して動かなくなったその場所に門弟の味酒安行が墓所を造営したことが、御本殿の創建につながった境内に奉納されている11体の御神牛像のすべてが臥牛であるのは、これに由来する石造鳥居不確かではあるが「福岡県指定文化財」狛犬心字...太宰府天満宮(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)

  • 筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎1丁目22番地1号)

    訪問日令和5年5月22日筥崎宮筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられる「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字である筥崎宮の所在地・駅名など地名「はこざき」は筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して畏れ多いとして「箱崎」と表記している石造一ノ鳥居(重要文化財)本宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一之鳥居、二之鳥居と呼ばれている慶長14年(1609年)藩主黒田長政が建立したとその銘にある鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いている笠木と島木は1つの石材で造られている貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれている鳥居の額には「八幡宮」筥崎宮は筥崎八幡宮とも称している狛犬福岡市内は交通量も多く駐車場が完備されている神社と云うことで選んだため予備知識は...筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎1丁目22番地1号)

  • 宮地嶽神社 その2(福岡県福津市宮司元町7-1)

    訪問日令和5年5月22日宮地嶽神社「奥の宮八社巡り」境内に設置されていた案内板初めて訪れる神社ということもあり巡ることにした「一社一社をお参りすれば大願がかなう」という鳥居「奥の宮八社巡り」の入口となる中央の額には「奥之宮不動社」参道にはこのような案内板がある一番社・七福神社<福を運ぶ七福神>七福・大黒堂奥に巫女の姿が見えたので近づくと、お堂の開扉と清掃を行っていた堂内には、大黒天を中心に大きさの異なる七福神が安置していた二番社・稲荷神社<食物とお米の方策を守る神様>三番社・不動神社<災いや厄を除く神社>この神社だけ他とは異なり石室の奥に不動尊が祀られ、社殿内は撮影禁止となっている神官に尋ねてみると横穴式石室古墳の中あるという少し離れて社殿を見るとよく理解できたこの古墳は地下の正倉院と呼ばれ、金の鐙・冠・...宮地嶽神社その2(福岡県福津市宮司元町7-1)

  • 宮地嶽神社 その1(福岡県福津市宮司元町7-1)

    訪問日令和5年5月22日宮地嶽神社宮地嶽神社の総本社年間参拝者数220万人を数え初詣参拝者(100万人以上)は太宰府天満宮に次ぐ2番目と九州を代表する神社の一つ三之鳥居初めて訪れる神社で600台規模の第1駐車場にも驚いたが年末年始には第6駐車場まで稼働するというこの鳥居は駐車場から歩き2つ目の鳥居になる一之鳥居というのは約1キロ先にある宮地浜にあるという男坂とよばれる参道石段2016年「嵐」のテレビCM「光の道」の舞台になり、宮地嶽神社の名前は全国に知れ渡ることになったらしい神馬1六百俵の碑狛犬1歴史を感じる石灯籠五之鳥居「光の道」最後の鳥居となり階段はこの先で終わる階段上から眺めていると何か仕掛けがあると直感した2月下旬、10月下旬の年に2度、男坂の石段から宮地浜まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日...宮地嶽神社その1(福岡県福津市宮司元町7-1)

  • 宗像大社 辺津宮(福岡県宗像市田島2331)

    訪問日令和5年5月21日宗像大社(世界遺産)宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界文化遺産登録されている鳥居4・5年前に一度訪れているが、参拝者の数はその頃と同じように思えた社号標には「官幣大社宗像神社」と彫られている宗像神社境内は国の史跡になっている太鼓橋鳥居から真っ直ぐ伸びた参道祓舎手水舎柄杓がなく直接水を受ける狛犬文政7年(1824年)奉納山鹿平十郎作神門拝殿前には参拝者が並んで待っている拝殿(重要文化財)天正18年(1590年)、時の筑前領主・小早川隆景が再建切妻妻入造で屋根は柿葺額には「宗像宮」拝殿内部案内板本殿(重要文化財)辺津宮祭神:市杵島姫神(イ...宗像大社辺津宮(福岡県宗像市田島2331)

  • 屏風山 鎮国寺(福岡県宗像市吉田966)

    訪問日令和5年5月21日屏風山鎮国寺宗派は真言宗御室派で別格本山創建は大同元年(806年)開山は空海(弘法大師)昔は宗像大社の神宮寺であった仁王像九州に入ると(感覚的に)仁王像は石造りで野ざらしが多い境内このような可愛い置物もある手水舎文殊堂堂内の仏像ぼけ封じいきいき観音地蔵堂内部大師堂木食上人座像木喰(もくじき)とは、米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいい、そのような僧を木喰上人と呼ぶ享鎮国寺の子院「華蔵院」の清算法師貞享元年(1684年)に入定弘法大師空海が遣唐使船で唐に渡航中に大暴風雨に遭遇した際に、海の守護神・宗像三神などに祈誓を込めたところ、波間に不動明王が現れた右手に持っていた利剣で波を左右に振り払い、暴風雨を静め、空海は無事に入唐することが出来たというその後、長安(現在の西安)に於...屏風山鎮国寺(福岡県宗像市吉田966)

  • 日清講和記念館(山口県下関市阿弥陀寺町4-3)

    訪問日日清講和記念館(国登録有形文化財)明治維新後、日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894年)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦した日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した伊藤博文・陸奥宗光胸像下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催されたこの講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した日本側は内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた日清講和記念館(国登録有形文化財)明治28年(1895年)春、日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、...日清講和記念館(山口県下関市阿弥陀寺町4-3)

  • 赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町4-1)

    訪問日令和5年5月20日赤間神宮初めて訪れたときには歴史的背景も理解していなかった大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に興味を持ち、この時代の本なども購入しての再訪である水天門及び回廊(国登録有形文化財)壇ノ浦を望む竜宮造の楼門屋根の大棟両端に鴟尾(しび)を飾り、門の両脇に回廊が延びる「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる由緒太鼓楼獅子父獅子母獅子外拝殿外拝殿側から水天門を観る水天門の奥の海は関門海峡(壇ノ浦)である勅額内拝殿貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開かれた文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水建久2年(1191年)赤間関(下関)に、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称明治8年(187...赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町4-1)

  • 角島大橋(山口県下関市本土 - 角島間)

    訪問日令和5年5月20日角島大橋若い頃から車の運転は好きだったが初めて角島大橋を走ったときには鳥肌が立った北海道からは遠いが2年に一度は訪れている平成5年(1993年)に着工し、平成12年(2000年)11月3日に開通した全長1780m。完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを抑え、周囲の景観に配慮した構造となっている横断歩道を渡りながら橋の両側の海は晴れた日には、エメラルドグリーンやコバルトブルーの美しい色をしている今日は波もありサーファーの姿も見えるいつもならこの数キロ先にある角島灯台まで行くのだが、この後の予定もあり断念した天気の良い日に訪れた時の動画撮影令和5年5月20日角島大橋(山口県下関市本土-角島間)

  • 元乃隅神社(山口県長門市油谷津黄498)

    訪問日令和5年5月20日元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)外国人観光客が日本に凄い神社があるとインスタで紹介し外国で話題になった神社であるそのことが日本でも紹介され人気となり、訪れてみたいと思っていたその頃、地元の方からは渋滞で3~4時間はかかる、道が狭くUターンもできないハイエースでは離合困難であるなど云われ決断できないでいた前日、道の駅の案内所で確認すると最近はそれほど混雑していないと話してくれた曇天ではあったが土曜日、渋滞を避けるため早めに出発した拍子抜けするほど順調で駐車場に着く一般の人の滞在時間は平均30分程度だというアメリカのCNNが平成27年(2015年)3月に発表した日本の最も美しい場所31選の一つとして選ばれた外国人を含む観光客の参拝が急増したが、長い社名(旧称:元乃隅稲成神社)が外国人に...元乃隅神社(山口県長門市油谷津黄498)

  • 松陰神社・松下村塾(山口県萩市椿東1537)

    訪問日令和5年5月19日松陰神社明治維新の先覚者吉田松陰を祀る大鳥居石柱の「松陰神社」は吉田松陰自筆の文字(松陰の書簡等から文字を抜き出したもの)鳥居扁額の「松陰神社」は岸信介元首相により揮毫されたもの表参道を進む境内案内図吉田松陰歌碑松陰が家族にあてた別れの手紙の中の短歌親思ふこころにまさる親ごころけふの音ずれ何ときくらん幼時の名字は杉。幼名は寅之助。吉田家に養子入り、大次郎に改める。通称は寅次郎石碑天皇陛下皇后陛下行幸啓(上皇陛下)石碑皇太子殿下皇太子妃殿下(天皇陛下)松下村塾(世界遺産)天保13年(1842年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き「松下村塾」と名付け、少年だった松陰も入門したついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった長州藩の公立校である明倫館は武...松陰神社・松下村塾(山口県萩市椿東1537)

  • 清瀧山 浄光院 萬福寺(島根県益田市東町25-33)

    訪問日令和5年5月19日清瀧山浄光院萬福寺応安7年(1374年)益田七尾城11代城主益田兼見により建立益田道場浄光院萬福寺と改め、益田氏の菩提寺とした山門額には寺号の「萬福寺」本堂(重要文化財)萬福寺の前身は「安福寺(天台宗)」といい平安時代に建立された万寿3年(1026年)大津波のため流失元応元年(1319年)遊行呑海上人が入寺された際、時宗の道場になった応安7年(1374年)益田七尾城11代城主益田兼見が現在の地に移築して「萬福寺」と改称した室町時代前期(1374年)の建立桁行七間、梁間七間、一重、寄棟造、桟瓦葺案内板雪舟像文明11年(1479年)15代城主益田兼堯(かねたか)が画聖雪舟を招き、石庭を造らせた本堂額には山号の「清瀧山」本堂内部に入る<拝観料:500円>襖絵慶応2年(1866年)第2次長...清瀧山浄光院萬福寺(島根県益田市東町25-33)

  • 岩谷山 心覚院 来迎寺(島根県浜田市松原町266)

    訪問日令和5年5月19日岩谷山心覚院来迎寺この日は昨夜からの雨が降り止まず観光は無理かなと思いながら道の駅で待機していた9時過ぎに雨が止み、「最寄りの有名寺社」で検索し選択した寺である重要文化財の「木造阿弥陀如来立像」の拝観が主な目的である創建は大同3年(808年)当初は来迎寺と称した天台宗の寺院で亀山にあった元和5年(1619年)亀山に浜田城が築かれる事になりこの地に移された寛文3年(1663年)当時の浜田藩主松平康映が生母(心覚院)の菩提所に定めた事で心覚院と寺号を改め遍挙を招いて浄土宗に改宗開山した松原湾を見下ろす閑寂なたたずまいの中に本堂や観音堂などが建っている仏像拝観をお願いすると寺の歴史と仏像の説明なども丁寧にしていただいた仏像を観るのが好きだが多くの寺院では撮影禁止なのが残念だと話すと「自由...岩谷山心覚院来迎寺(島根県浜田市松原町266)

  • 稲佐の浜(島根県出雲市大社町杵築北稲佐)

    訪問日令和5年6月18日稲佐の浜出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる浜出雲大社には数度訪れているが、稲佐の浜を訪れたのは初めてである国譲り神話の舞台でもあり、古事記では「伊那佐之小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記されているこの浜は旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある弁天島かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていた神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていたが、明治のころから「豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)」が祀られている弁天島の前にある砂浜の砂を袋に入れている人を見かけた近くにいた若者に尋ねてみると、出雲大社の砂と交換すると御利益があるとこの日の1時間ほど前に出雲大社で見たある光景を思い出した自宅に戻り調べてみるとその勘...稲佐の浜(島根県出雲市大社町杵築北稲佐)

  • 出雲阿国の墓(島根県出雲市大社町杵築北)

    訪問日令和5年6月18日歌舞伎の創始者出雲阿国の墓出雲大社から稲佐浜へ向かう途中にある出雲の阿国は慶長8年(1603年)、京でかぶき踊りを演じ、歌舞伎をはじめた人物といわれている石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られている出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録があるヤヤコ踊りとは、ヤヤコ(幼女・少女)による小歌踊の芸能で出雲の阿国が歌舞伎踊を創始する前に演じていたという3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作ら...出雲阿国の墓(島根県出雲市大社町杵築北)

  • 出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195)

    訪問日令和5年6月18日出雲大社創建は神代出雲国一宮松の参道出雲古代歴史博物館から100m程歩くと松の参道に出る中央にあるこの道は神様の通る道なので通行することはできない参拝者は左右にある参道を進むことになるムスビの御神像大国主神は海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇するその光が御身に宿る幸魂・奇魂であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得る大国主神が、幸魂・奇魂のお蔭を頂いて神性を養われ『ムスビの大神』になられたという意味を象徴している像である境内案内図銅鳥居(重要文化財)寛文6年(1666年)長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進拝殿通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる周囲から「注連縄が思ったより小さい」という声が耳に入ってきた……八足門(重要文化財...出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195)

  • 島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東 99 番地 4)

    訪問日令和5年6月18日島根県立古代出雲歴史博物館出雲を旅すると必ず訪れる場所がこの博物館(出雲大社の隣にある)主に出雲大社を中心とした古代出雲についての展示を行っている常設展示室では写真撮影が許されているため何度も訪れている出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱(重要文化財)平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されたこれは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱で、古くから「宇豆柱(うづばしら)」と呼ばれてきたもの直径が最大で約6mもある柱穴には、大きな石がぎっしりと積み込まれ、掘立柱の地下構造も明らかになったその後の調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くな...島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東99番地4)

  • 八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

    訪問日令和5年6月17日八重垣神社日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である鳥居訪れてみたい神社の一つでもあり、楽しみにしていた額には「八重垣神社」手水舎随神像参拝者が多かったため随神門を撮るのを忘れていた狛犬歴史を感じる狛犬由緒古事記や日本書紀に出てくる神話の舞台である文字を読んでいるだけでわくわくしてくる拝殿素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた。そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた。老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった。素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた。老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇とい...八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

  • 熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451番)

    訪問日令和5年6月17日熊野大社「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」というYouTuberの動画で熊野大社の存在を知り訪れた山の奥深い場所にあるが、平日でも参拝者も多いのには驚いた火の発祥の神社として「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲大社と共に「出雲国一宮」であるさざれ石鳥居初めての場所は見逃しのないように注意深く歩くようにしている神橋鳥居手水舎境内図後に写真を整理し発信する際には、この境内図は大変役に立つ狛犬随神門明治19年(1886)昭和3年(1928)に改築された大きな注連縄が張られている「夫婦和合連理の榊」石碑には日本の和歌の最初の歌「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」作者は戔嗚尊(スサノオノミコト)<熊野大社の祭神>拝殿『出雲國風土記』(733年)に熊野大社、『延喜式神名帳』(...熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451番)

  • 平濱八幡宮・武内神社(島根県松江市八幡町303)

    訪問日令和5年6月17日平濱八幡宮・武内神社この日の朝に訪問予定地を検索していたところ「武内神社」の名を発見した武内宿禰に興味があったので目的地に決定した急な坂の上に駐車場があった鳥居鳥居の額には「武内神社」とあったので、この時は何も考えず先に進んだ神門手水舎神門手水舎の前に神門があり、平濱八幡宮と武内神社の参道が交差している場所とは全く知らなかったというより、平濱八幡宮の存在さえこの時は知らなかった*現在でも整理ができていない狛犬平濱八幡宮拝殿笑い話のようだがここが武内神社だと思って写真を撮っている額には「平濱八幡宮」とあるので普通ならこのあたりで気付くのだが疑いもなく通り過ぎる文字は松江市出身、第25代内閣総理大臣若槻禮次郎謹書拝殿内部由緒も武内神社だけ読んでいた記憶があり、この時点でも武内神社と思い...平濱八幡宮・武内神社(島根県松江市八幡町303)

  • 会見山 安養寺(鳥取県米子市福市724)

    訪問日令和5年6月17日会見山安養寺時宗の寺院創建は南北朝時代に後醍醐天皇皇女瓊子内親王が開基したのが始まりと伝えられてるここには「瓊子(たまこ)内親王」の御廟がある後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の計画が露呈した事で捕縛され隠岐に流されることになった内親王も変装して随行したが、渡航の直前に身分が知られ隠岐に渡ることが許されなかった内親王は隠岐に近いこの地に留まり遊行五代安国上人の弟子となる16歳の時に尼(西月院宮安養尼)となり後醍醐天皇の勅願寺として安養寺を開基したこの時代の歴史については「鎌倉殿の13人」で興味を持っていた大河ドラマでは後醍醐天皇は悪役になっていたが「瓊子内親王」の話しはなかったここは初めて訪れる寺で、この石段の上にはどのような景色があるのだろうか初めての場所ではできるだけ見逃すことのないよう...会見山安養寺(鳥取県米子市福市724)

  • 鳥取東照宮<旧 樗谿神社>(鳥取県鳥取市上町87)

    訪問日令和5年5月16日鳥取東照宮<旧樗谿神社>江戸時代慶安3年(1650年)の創建創建より因幡東照宮と称され、明治7年(1874年)から平成23年(2011年)までは樗谿(おうちだに)神社と称されていた鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された光仲はわずか3歳で藩主となり、藩主となって16年目の慶安元年12月(1649年)に初のお国入りを果たした藩主としての威厳を示すため、鳥取城下への東照宮勧進を願い出て許可された近くにある樗谿公園は梅林、遊歩道、芝生公園が整備され、奥には周囲の緑を映す大宮池があり、憩いの場として知られている随神門東照宮のイメージとは異なる簡素な建物だ気象条件等もあり、偶々なのかも知れないがこれは酷すぎる拝殿まで少し距離があることもあり、この場所から手を合わせる人を何人か見かけた手水舎随...鳥取東照宮<旧樗谿神社>(鳥取県鳥取市上町87)

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