西郷入水に関する吉井友実の回想——西郷入水後の大久保利通について
前回、前々回に引き続いて西郷入水騒動と大久保利通について。今回はまず、小河一敏が筆録した吉井友実の回想を紹介したい。 吉井友実が語る入水後の西郷 西郷は16日の午後四時頃、人々に介抱されながら家に帰った。ただ眠るが如き状態で無言だったが、夜の九時頃になり尿意をもよおすと訴え、吉井に扶けられて尿をし、ふたたび褥(しとね)に戻ると、「己の紙入れを見よ、月照の辞世あるべし」と言ったので、吉井が濡れた紙入れをひらくと、月照の辞世の歌があった。 以上は『明烏』にある吉井の回想を読みやすくするため現代語表記にし、また原文の意味を損なわない程度に簡略な表現に直したものである。吉井によれば人々に介抱されながら…
西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言
前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。 ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない。当時、救命作業にあたったのは平野国臣と月照の下男重助、藩庁の命で同行していた阪口周右衛門、それと阪口により呼び集められた花倉の若者たちだったようで、同志はその場にはいない。 月照は「衣帯に勝(た)へぬやうな清僧」だったためそのまま息を引き取ってしまったが、強壮な西郷は意識こそ戻らないものの息を吹きかえした。そこで阪口は、月照の遺骸と西郷を船に乗せて鹿児島…
斉彬歿後の薩藩の形勢 安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保利通も御徒目付の職を免ぜられ、閑散の身となっていた。 西郷の帰藩と有志の奔走 俗論党が権勢を振るっていた安政5年10月6日、それまで京都で活動していたが西郷隆盛が帰藩した。西郷は、禁闕を守護する義兵を挙げることと近衛家より依頼された月照の保護を藩庁に訴え、大久保もそのために「尽力奔走」していた*1。 佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』によれば、この頃から大久保…
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