いやあ、参っちまいました。「6月に誕生日を迎えられたので、身体検査をしますなんて、月一回の定期検診でいわれました。「体重は……。あらあ、大台ですねえ、80.5kgです」「身長は……。あらあ、縮んじゃいましたねえ、171.3cmです」「あらあ」が、口ぐせの看護師さん。すこし、ショックが和らぎましたけど……。でもほんとに、「あらあ」でした、ものの見事に。じつは、もういっちよ!「あらあ……。お腹周り、81cmですねえ。メタボの更新ですねえ……」身体検査
「女将、女将、女将。聞いてるか?この佐伯正三くんはな、驚くなかれ、恐れ多くもだ、逓信省の次官さまになられるお方なんだよ。我々とは、まるで違うお方なんだ」「そうですよ、そうです。年次としては、我々の後輩ではありますよ。年下です。突然にこの極秘プロジェクトに参入した、新人ですよ。でもね、佐伯局長さまの甥っ子さまであらせられる。控えおろう!ってな、もんですよ」ネクタイをねじり鉢巻にした二人が、口々に正三を持て囃した。「まあまあ、そうですか。佐伯局長さまの甥っ子さまですか。いつも、佐伯さまにはご贔屓にしていただいて、ありがとうございます」「でな、女将。今夜の……」。口ごもる正三に対して、「まあまあ、みなまで仰いますな。分かっておりますですよ、万事お任せあれえ、です。どうぞ、心行くまでお遊びくださいまし。もうそろそろ、芸...水たまりの中の青空~第二部~(百四十二)
“この報告書を書き上げれば、小夜子さんに逢えるんだ”。正三は、隣町に出かけて観た映画のあとに、暗くなった公園での「約束よ」という声と共に触れられた、小夜子の柔らかい唇の感触が忘れられなかった。夢の中で幾度となく吸い合った小夜子との接吻に、毎日毎日、思いを馳せていた。“もうすぐです、もうすぐです。今日中に報告書を書き上げます。徹夜してでも、書き上げます。そうすれば、僕は、僕は、、、貴女の下に馳せ参じます。もうすぐです、もうすぐです”翌朝大役を果たし終えた正三は、早退届を提出した。報告書を受け取った室長は、「うん、ご苦労さん。よく頑張ってくれたな。疲れたろう、ごくろうさん」と、機嫌よく了承した。昼休みの折に中庭に出た正三は、久しぶりの俗界に触れた気がした。正三の気持ちは昂ぶっていた。大きく背伸びをして、一、二と声を...水たまりの中の青空~第二部~(百四十一)
「佐伯君、この案件を報告書にまとめてくれ給え。次官様提出用だから、頼むよ」「かしこまりました。すぐにも、取り掛かります」正三は声を掛けられた途端、弾かれたように立ち上がった。やっと、ここまでに辿り着いたのだ。逓信省に入省後すぐに総理府内の電波管理委員会に出向を命じられ、テレビ放送に関する免許交付に関わってきた。大きな利権が絡んでいるだけに、正三の行動は厳しく制限されていた。先輩職員らと同様に外部との接触が一切禁じられ、府内への泊り込みもしばしばだった。そもそも新任の正三如きが組み入れられるようなプロジェクトではなかったが、叔父である佐伯源之助の強引な引きがそこにあった。源之助にとって本家筋の跡取りである正三を、一介の官吏で終わらせるわけにはいかないのだ。この後一旦休職とし、東大の法学部へ入学させる手筈を整えてい...水たまりの中の青空~第二部~(百四十)
もう何年前になるでしょうか、生まれ故郷である伊万里市に帰ってみたいなと思い始めたのは。きっかけは「まるで違う街みたいだったぞ」という兄のひと言でした。兄の言葉がきっかけではありましたが、もう一つあります。そしてそれが一番の動機なのです。あることを確かめたくて――本人の口から直接聞くことができれば、それが一番なのですが。今どこで何をしているやら。いや、おそらくはもうこの世には居ないでしょう。そもそも小説を諸々の賞に応募しているのは、その人に気付いてもらいたいということなのですから。あなたが捨てたわたしは、ここに居ます。そしてこんなわたしになりました、と知らしめたいのですから。そのためにも、わたしがわたし自身をより深く知らねばならぬと思っているのです。恥を晒すようですが、人間としての資質に疑問を抱いているのです。失...ボク、みつけたよ!(四)
相好を崩して手を叩く武蔵に、他の客たちの視線が一斉に集まった。「こりゃいかん。どうも、お騒がせしまして、申し訳ありません。ワイフの英語上達に、つい」深々とお辞儀をしてトイレへと入り込む武蔵に、「お父さん、ワイフってなによ!お嫁さんにはならないって、言ってるでしょうに」と、小声で言う小夜子。しかし武蔵は、まるで口笛を吹きながらのような軽い足取りで意に介さない。「言った者勝ちさ!」席に戻った武蔵に膨れっ面を見せながらも、目が笑っている小夜子だ。「もう、お父さんったら!口、利いてあげないから!」「そんなこと言うなら、ジャズ演奏、連れて行かないぞお、だ」「ずるい!約束してる、じゃない!」「ハハハ、口、利いてくれたな。俺の勝ちだ、ハハハ」ますます頬を膨らませて、まるでおたふく顔になる小夜子だ。「鏡で見てみろ、面白い顔して...水たまりの中の青空~第二部~(百三十九)
これぞ、[昭和のドラマ]でっせえ!噂には聞いていたのですが、ほんとに実現するとは……。もう今、興奮の極みです。青春真っ只中!わくわく、ドキドキです。高齢者のお方たち、[どてらい男(やつ)]覚えてみえますよね。花登筐原作・脚本の、テレビドラマですけど。大ヒットの後に舞台化されましてね、わたしも観ました。友人の奥方のお婆ちゃんに連れて行ってもらいました。名古屋の御園座だったと記憶しています。ご夫婦で観覧に来られていた方が、離ればなれの席になっておられました。たまたまわたしの席がその方たちのお役に立って、交換です。かぶりつきの席でした、役者さんの息づかいが聞こえてくるような。笑いが渦巻くシーンなんかでは、他の役者さんが下を向いて笑いをこらえているのですが、それがバッチリと見えるんです。西郷輝彦さんも笑いをこらえるのに...That’s昭和のドラマ
「ああ、美味しかったぁ。さてと、最後のお菓子は、…やっぱり冷たくて甘いものよね。あれ、何て名前だったっけ?」「アイスクリームのことか?」「そうそう、それそれ。頼んでくれる?」武蔵が手を挙げると、すぐさまウェイターが飛んできた。「こちらのお姫さまが、アイスクリームをご所望だ。頼むよ」承知しましたと、深々と礼をして下がる。「ふうん。お父さんって、どこに行っても、上客なんだね。他のお客さんと、扱いが違うみたい」「まあな。俺は紳士だからな。敵に対しては容赦しないが、味方にはとことん応援する」「それって、お父さん。あたしに、言ってるの?恩知らずって、思ってるんでしょ?あたしだって、いろいろ考えてるから。お父さんには、キチンとお世話になった分、お返しをするつもりだから」ポッと頬を染める小夜子だが、武蔵には酔いが回ったせいと...水たまりの中の青空~第二部~(百三十八)
「ジャズ?小夜子はジャズが好きなのか?」「知らなかった?英語の勉強もだけど、ジャズを聞きたいというのもあるの」思いも寄らぬ返答に、普段の小夜子からは感じられぬその嗜好に驚きを隠せなかった。小夜子のすべてを知りぬいたつもりの武蔵だったが、アナスターシアとのことといいジャズ音楽への入れ込みようといい、底の知れぬ女だと嬉しくなる武蔵だった。「どうして早く言わないんだ。連れてってやろうか、本場のジャズが聞けるところに。日本人は聞けないぞ」「ほんと、ほんと、ほんと?約束だよ、絶対だよ」身を乗り出して、武蔵の前にナイフを振り回す。「おいおい、危ないじゃないか」「ごめんなさい。で、いつ?明日?明後日?」「いや、そんなに早くは無理だ。二、三ヶ月は先だろうさ。先月に来たばかりだからなあ、慰問団が。そう、しょげ返るな。日本人のバン...水たまりの中の青空~第二部~(百三十七)
わたしには兄が一人居ます。父親は平成七年に死去しています。母親は多分ですが他界しているでしょう。多分というのは、両親は離婚していますので。父親に育てられて、母とは音信不通です。中学二年の冬でした。母が家出してしまい、そのまま帰らずです。大正14年生まれです。ですので多分他界しているでしょう。兄は、わたしの子ども二人を除けば、唯一の肉親です。言い忘れていました、わたしもまた離婚をしています。子どもたちとは恥ずかしい話ですが、現在は音信不通です。正直、良い父親とは言えません。経済的にも苦労をかけましたが、何より父親としての愛情を注ぐことに失敗した気がします。わたしのidentity確立失敗に関わることなのですが。唐突ですが、お尋ねします。あなたは、愛情を信じられますか?感じられますか?お持ちですか?そもそも愛情とは...ボク、みつけたよ!(三)
「お父さん。だから、あたしのこと、どう言ったの」肉を頬張りながら、怒りの言葉を武蔵にぶつける。「ううむ。やっぱり、美味しいわ!お肉が、全然違うのよね。だから、あたしをどう紹介したの?」「おいおい、食べながらじゃ怒ってるのかどうか分かんないぞ」苦笑いしながら、武蔵が受ける。高い天井には大きなシャンデリアがあるが、輝度は弱めだ。壁にもランプ形の灯りがあり、それらで以て店内を柔らかい照度で照らしている。各テーブル上のランプの炎が、シーリングファンの微風でゆらりと動いた。小夜子の眉がピクリと動き、八の字になった。「怒ってるに決まってるでしょ」「ハハハ、まぁそう怒るな。高井の早とちりなんだから」「そういう言い方したんでしょ?うわあ、このじゃがいも、ホクホクしてる!」怒りの口調の中に嬉々として頬張る様は、どうしてもそぐわな...水たまりの中の青空~第二部~(百三十六)
「誠に申し訳ありません。教育がなっておりませんで。森田くん。頼むよ、ほんとに。御手洗さまとのご縁が切れたら、僕はクビですよ。今、ご婚礼時の調度品のお約束を頂いたところなんだから」怪訝な顔を見せる小夜子に対し、小声で耳元に囁いた。「さすがに御手洗社長は、お目が高い。小夜子さまなら、いいご伴侶になられますです」小夜子は武蔵から、何も言われていない。まさか今日の外食が、このデパート目当てだとは、思いも寄らぬことだ。そして今も、疑いはない。あくまで、いつもの小夜子のご機嫌取りだと思っている。しかし高井の言葉に、悪い気はしない。“まったくもう!そんなことを言いふらしてるのかしら?あとで、とっちめなくっちゃ”と、軽く受け止めていた。「小夜子さま。本日はどのようなお靴をお考えでしょうか?」森田の慇懃な態度が、小夜子には面映ゆ...水たまりの中の青空~第二部~(百三十五)
小夜子は一人、靴売り場の入り口で、所在なげに立っている。正三と訪れた折には、1階からすぐにエレベーターに乗り、催事場のある5階へと向かった。そこで坂田という係員に見咎められて、言い争いを起こしてしまった。そしてマッケンジーとうデザイナーの目に留まり、そしてそして運命の女性とでも言うべきアナスターシアとの結びつきが出来た。小夜子にとって聖地とも言えるその場所に今日は来た。ひとりで来た。そこかしこで、ヒソヒソ話が始まった。場にそぐわぬ小娘に、視線が強い。相手をしている店員たちもまた「そうでございますね」と相づちを打っている。その中の独りがツンケンとした朽ちようで「何かご用でしょうか、お嬢さま」と、棘のある口調で声をかけた。“あんたなんかの来る場所じゃないわよ”。そんな声が聞こえてきそうな雰囲気だった。「小夜子さま、...水たまりの中の青空~第二部~(百三十四)
「実は……。もう一点、4Kチューナーをご購入して頂くことになります」。おいおい、話が違うだろうが。で、いくらするの?という話ですが、これまた五桁の金額で。心が折れました、大きな音が頭の中で響きました。まだ残暑の名残りが残っていたのですが、ピューピューと身体の中を木枯らしが吹き荒んでいる感じです。多分肩を落として、背中が15度ほど曲がった状態で店を出たと思います。話が違うじゃないか、というご指摘、ごもっともです。「買い求めた」と、冒頭でお話ししました。ですので、少し補足をしなければなりません。このエピソードは、数年前の秋の十月の話です。買い求めたというのは、昨年末のことです。悩みに悩み、うじうじと考え続け、コロナ禍のおかげで外に飛び出すことも出来ずに、とうとう……。清水の舞台から飛び降りたのは事実です。幾ばくかの...ボク、みつけたよ!(二)
「さ、降りるぞ」武蔵の呼びかけに、夢想から引き戻された小夜子が「えっ、は、はい」と、らしからぬ声を挙げて立ち上がった。素直な返事など、小夜子には似つかわしくない。「勝手に降りたらいいわ、あたしはまだ乗っていたいの」。天邪鬼な性格の小夜子が発するのはこうだろうと想像していた武蔵には、面食らう返事だった。「どうした?今日は変だぞ、小夜子。まだ心配事でもあるのか?」「何でもない」。それでも、力ない声で答える小夜子だ。半分ほどの乗客たちが一斉に降りていく。お先にどうぞと手を動かす武蔵に対して、「失礼」「お先に」といった言葉がかけられていく。大人の風格を漂わせる武蔵の振る舞いが、小夜子には誇らしく感じられる。が、先陣を切ってバスから降りたいとも思う小夜子でもあり、後回しにされているー小夜子を一番だと遇してくれる武蔵らしか...水たまりの中の青空~第二部~(百三十三)
出かける段になって、武蔵が小夜子に注文を付けた。活発に動き回りたがる小夜子にとって、武蔵の出不精は不満の大きな種だった。出不精と言っても、外出を嫌がるわけではない。ぶらりぶらりと、ただ歩く散歩を嫌う武蔵だった。なにか目的があっての外出には、否と答えたことは一度もない。しかし暑い日中やら木枯らしの吹く折ならばいざ知らず、日差しが落ち着いた夕暮れ時や雨上がりの虹を見たいという小夜子の希望には、何やかやと言い訳をしては出かけようとはしない。そのくせ、外食や買い物ーといっても日常の買い物ではなく、銀座に出かけてのショッピングだがーそして映画鑑賞に観劇は、武蔵が旗を振る。但し、移動手段に問題がある。「小夜子、ハイヤーにするか?」「いいわよ、電車で」「小夜子は良くても、俺は、どうも人込みが嫌いでな」武蔵の人付き合いの悪さは...水たまりの中の青空~第二部~(百三十二)
「うそ!ちっとも帰って来ない!二ヶ月ぶりよ、お日さまの高い時間に、お家にいるの」いつもの武蔵を詰る声が、やっと出た。「そんなに、なるか?」「そうよ!帰って来ない日だってあったんだから」ぷーっと頬をふくらませて、口を尖らせる。「いやそれは。関東から離れると、どうしてもな」「ほんとに、全部お仕事?浮気してないの!お土産のない時がある!」立て続けに非難の言葉を吐く小夜子に「そりゃ、すまんすまん。今度からは、忘れないようにするから。な、な、忘れないようにするから」と防戦一方の武蔵だ。“女っていうのは、ほんとに鋭いな”と、舌を巻く。確かに出張だと偽っての浮気もある。英雄は色を好むものだとばかりに「和食ばかりじゃ飽きも来るもんさ、たまには洋食や中華も食べてみたくもなるさ」と、五平にうそぶいたことがある。「女の嗅覚は馬鹿に出...水たまりの中の青空~第二部~(百三十一)
すでに旅行記にてお話ししたことですが、九州旅行に出かけた折のことを、物語り風にしてみようと思い立ちました。キャラを際だたせるつもりですので、違和感を感じられる方もいらっしゃるかも?まあ最後まで進めば、そのキャラも許されることになるのでは……、なんて勝手に思い描いていますけれども。できますれば最後までお付き合い願えればと思うしだいです。コロナが落ち着いたら、もう一度九州旅行に出かけてみるつもりですが、今度は鹿児島から回ろうと思っているんです。復興中の熊本城をどうしても見てみたいのです。そして伊万里市に入り周辺の町をじっくりと回ってみたいものです。そして博多に寄って、福岡市のお城を見るつもりです。その後広島市で原爆ドームの見学です。ここは、日本人のルーツの一つみたいなものでしょうから。-----齢七十となり、チラホ...ぼく、みつけたよ!(一)
久しぶりに自宅でくつろぐ武蔵に対し、小夜子はあれこれと世話を焼いている。鼻歌混じりで洗濯物を干した。出涸らしのお茶っ葉を畳の上に撒いての掃き掃除も、今日は楽しいものに感じられる。「何だあ、小夜子。えらくご機嫌じゃないか?何か、良い事でもあったのか。英語学校の先生にでも、誉められたか」「別に、何もないよ。お天気が良いから、気分が良いの」武蔵に声を掛けられて、高揚している気持ちに気付いた小夜子だった。“別に、武蔵だからじゃないわ。そうよ、誰でもいいのよ。一人ぼっちが、つまんないのよ”武蔵が居てくれるからだとは、思いたくなかった。あくまでも武蔵は足長おじさんであり、小夜子の思い人は正三でなくてはならないのだ。葉書きの一枚も送らない不実な男であっても、小夜子にとっては唯一人の男なのだ。そうでなくてはいけない、と言い聞か...水たまりの中の青空~第二部~(百三十)
“将来の為よ。正三さんに、美味しいものを食べて頂く為の練習なの。そして、アーシアに和食を食べさせるの。ホテル住まいばかりじゃなくて、どこの国でもいいから……そうね、やっぱりアメリカかしら。お家を買うの、お庭の付いてる。そこであたしが待ってるのよ。疲れて帰ってくるアーシアに、美味しい和食をたくさん食べさせて……。ああ、だめなのよね。いいわ!少しの量で、たくさんの種類を用意してあげるの。とにかく、お野菜とお魚と、そしてたまにお肉。そういえば、アーシアって、お肉は全然口にしなかったわ。だめなのかしら?食べちゃ。嫌い、ということはないわよね。ああ、早く会いたいわ。会いたいと言えば、正三さん、どうしたのかしら?”矛盾を矛盾と感じない小夜子だ。正三とアーシア、同一人物かのごとくに思っているように見える。「正三さんとかいう彼...水たまりの中の青空~第二部~(百二十九)
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いやあ、参っちまいました。「6月に誕生日を迎えられたので、身体検査をしますなんて、月一回の定期検診でいわれました。「体重は……。あらあ、大台ですねえ、80.5kgです」「身長は……。あらあ、縮んじゃいましたねえ、171.3cmです」「あらあ」が、口ぐせの看護師さん。すこし、ショックが和らぎましたけど……。でもほんとに、「あらあ」でした、ものの見事に。じつは、もういっちよ!「あらあ……。お腹周り、81cmですねえ。メタボの更新ですねえ……」身体検査
彼は、心のなかを見せない。たにんの侵入を極端にきらう。それゆえか、彼の部屋をおとずれる者はいない。そのくせ彼自身は、ひとの部屋にズカズカと入ってくる。仲間と友人。彼は、区切りをつけている。それが何故なのか?いままで考えもしなかった。が、学友との口論から、それを考えるに至った。町工場での俺は、労働の代価を受け取る。しかし夜学での俺は、支払う側のわけだ。とうぜん、時間の自由があってしかるべきだ。労働中の俺に、自由のないことは理解できる。しかし何故に、授業の選択が許されない?規則だからと、諦めにも似た気持ちになっている。入学時の誓約書は、強制であり交渉事ではなかった。町工場への就職時には、形だけであっても交渉があった。奇天烈~蒼い殺意~人間性(一)
それが9時近くになって、やっと帰ってきた。その時間が麗子には長く感じられ、不安だけが募った。裏通りにあるアパートである。人通りはまるでない。街頭にしても、アパートの階段に設置してある電灯だけだ。しかもまだ修理されていない。あとは、50mほど先にある。しかも、何時になるのかわからない。麗子の心は、恐怖感におそわれていた。いつなんどき暴漢が現れるかもしれない。そのときには誰かの部屋をノックすればいい。いやこのアパートの住人すらあぶない。〝どんな人が住んでいるのか、まるで分からないんだ。素性はもちろん、男か女かもわからない。というより、こんな場所だ。おとこだろうけどね〟男にきいた話だ。といって帰る気にもなれず、途方に暮れていた。そんなときの、男の帰宅だった。ムラムラと、怒りの気持ちと嫉妬心が渦巻いた。で、悪態を...[淫(あふれる想い)]舟のない港(三十四)それが9時近くになって、
話をもどします。まいどまいど、横道にそれてすみません。校舎のうら手に車をまわしたところで、思わず「ああ!」と叫んでしまいました。見覚えのある大木と、その横に土俵が見えました。あれえ……。でも土俵はあっちではなく、こっちの角のはずじゃ……。すみません。あっちやらこっちやらでは、どこなのかわかりませんよね。東西南北の観念がないので。(ナビで調べれば一発でしたね)。車の進行方向の向こうがあっちで、敷地にそって曲がってそしてまたまがってすぐの角で、停車した場所がこっちなんです。土俵のうえに屋根があるんですが、大木の枝がおおいかぶさっています。台風の進路によっては、屋根をおしつぶしませんかねえ。すこし心配です。たしか、相撲が体育の授業にはいっていると聞いた気がします。やせぎすだったわたしは、それがいやでいやでしてね...[ライフ!]ボク、みつけたよ!(四十五)話を戻します。
「山本さん、5番におはいんなさい」当初は聞きまちがいかと思ったが、なんど思い返しても、「おはいんなさい」だった。わたしの前に数人が呼ばれていたが、たしかに「おはいんなさい」だった。なんとも、暖かさを感じさせる呼びかけで、嬉しさを感じたわたしだった。名医だ、瞬間的にそう思った。「良い先生ですよ」が頭で反すうされた。こころがある、なぜか直感的に思った。ドアを開けると背筋がピンと伸びた老医師が、にこやかに迎えてくれた。「はいはい、山本さん。きょうは気分が良さそうだね。うん、良かったよかった。さあさあ、お座んなさい」またしても、「り」ではなく「ん」だった。なんとも、人なつっこい話し方だ。やはりベテラン医師はちがう。なんというか、お医者さま、という雰囲気がある。患者に人気があるのもムリはないと感じた。「ほうほう。山...ドール [お取り扱い注意!](十六)山本さん、5番におはいんなさい
しかしふと不安になった。武蔵のいないいま、だれが「奥さま」と呼んでくれるだろう。「ミタライさん」と呼ばれるのだろうか。御手洗家の主はあるけれども、武蔵はいないけれども、それでもやはり「奥さん」と呼ばれたい。御手洗家の主は、やっぱり武蔵であってほしいと願う小夜子だった。「パッ、パッ、パアー!」。けたたましいクラクションが鳴った。「バカヤロー!」。だれ?だれへの叫び声なの?大勢が立ち止まっている交差点。なのに小夜子は足を止めなかった。赤になっていることに気づかなかった。「ごめんなさい」と、頭をさげる小夜子に「気をつけろ、この有閑マダムが!」と、捨てゼリフをのこして、商用車が行く。やめて、そのことばは。小夜子のもっとも忌み嫌う、有閑マダム。新しい女の対極ともいえる、蔑称ととらえている小夜子。夫の地位そして財力に...水たまりの中の青空~第二部~(四百八十三)
異端の天才ベートーベン「運命」その烈しさに魂が揺さぶられるああ佳きかな佳きかないにしえの旋律(背景と解説)好きなクラシック音楽家のひとりです。他にも好きな楽曲はあるのですが、まずはこの作品をえらんでみました。キモはですねえ、……ないです。強いて言えば、「畏怖」でしょうか。そうだ。初めて聞き入ったクラシックでしたよ。ジャジャジャーン!ジャジャジャーン!jajajajajaja,jajaja~n!CDで、パソコンやら車で聴いています。ポエム~五行歌~クラシック賛歌(ベートーベン)
シゲ子は、その日のうちに長男に問いただした。シゲ子のたしなめるような物言いに萎縮してしまった長男は、口をつぐんでしまった。幼いときから、人に甘えるということのできない長男で、とくに祖母であるシゲ子にたいしては身構えてしまう。シゲ子の長男にたいするぎこちなさが、そうさせてしまっていた。シゲ子のしつような追求にたえきれず「ごめんなさい」と、あやまる長男だった。孝道が「目くじらを立てるほどのことでもないだろうに」と、長男をかばうと「いいんです、食べたことは。でもね、翌日にでも『ありがとう、美味しかった』と、ひと言ぐらいあっても。ほんとに、卑しい子だよ」と、長男を叱りつけてしまった。美味しいサツマイモをほのかに食べさせてやれなかったということ、すこしだけでも残していれば…という、たしょうの罪悪感にもにた感情にとら...[青春群像]にあんちゃん((通夜の席でのことだ。))(十)
彼の頭のなかでは、数多の声がとびかっている。ひとつひとつの言葉は、断定的でしかも独善である。無道徳とはいったい何か?社会いっぱんの道徳は、常識なのか?幾多の矛盾を擁する道徳でもか?住みなれた町の地図は必要か?コンパスまでもか?俺は無道徳か?道徳はどうとく、常識はじょうしき?俺は反道徳だ!では、ニュー道徳を創るべきか?では、それに従えるか?違うぞ!単にスネているだけだ!ニュー道徳は、偽善の産物だ!ホワイトカラー族の目的は?教師とは、如何なる人種か?教える義務と、従わせる権利。学ぶ権利と、従う義務。そして反発する権利。殺す自由、生きる権利。人間を殺すことは罪であり、「家畜類の屠殺は許される」という現実。and,その是非は論外、という現実。食べる自由と権利。断食もまた然り。自然界の法則とは?地球の歴史、人間のれ...奇天烈~蒼い殺意~いち日の過ごし方(五)
「そう、あのむすめね…。あの娘のこと、好きなのね」と、小声で呟いた。いつもの男なら、そのまま聞きながしてしまう。しかし、今夜の男はちがった。このまま無言をとおせば、気性の激しい麗子のことだ。どんなしっぺ返しをくらうやもしれない。それこそ私立探偵をつかってでも、ミドリの特定をしてしまうかもしれない。そして……。考えるだけでもおそろしい。気色ばんで男は言った。「な、なにを言いだ出すんだ。あの人とは何でもない。友人の妹だ。3人での食事の約束だったんだ。友人の都合が悪くなってのことだ。だからふたりだけの食事になっただけだ」「あら、そう。お食事のできるナイトクラブがあるとは、知らなかったわ」服を着おわった麗子は、いつもの麗子に戻っていた。「時間が早かったからだ。ナイトクラブを知らないと言うから、連れて行ったんだ。だ...[淫(あふれる想い)]舟のない港(三十三)そう、あのむすめね…。
そうでした、学校です。当然ながら、まるで違います。当時は木造でしたが、いまはコンクリートの校舎です。正門まえに立ちますが、まるで思い出せません。車をうごかして、裏手にまわることにしました。運動場なんですが、意外にちいさいです。もっと広く大きかった記憶なんですが。敷地に沿ってまがると、せまい道路です。大型の車がきたらすれ違えないかもしれません。学校のフェンスをこするか、相手の車が畑に落ちてしまうか、どちらかでしょうね。いっそのこと一方通行にしてしまえばいいのに、なんて勝手なことを考えてしまいました。そういえば、こんなことがありました。いくつだったか、五十過ぎたころだったと記憶しています。両側が畑のせまい道で、ここではすれ違うことはできません。半分以上を過ぎたところで、中型の車がはいってきました。当然ながらわ...[ライフ!]ボク、みつけたよ!(四十四)そうでした、学校です。
待合の席にすわろうとしたわたしに、通りがかった看護婦が声をかけてきた。この間の入院時に世話をしてくれた看護婦だった。じつに気立ての良い娘で、いつも明るく笑う娘だった。退院するときに「ありがとうね」と声をかけたかったのだが、シフトで会えずだった。「山本さん、ラッキーでしたね」「なんで?」。笑みを返しながら、尋ねてみた。「良い先生ですよ、岩井先生って。いつもは予約だけの先生なんですよ。ね、島田さん」「きょうはね、畑中先生が休みなものだから、急きょピンチヒッターでお願いしたの」「山本さん、ついてるわ」。うんうんと頷きながら、ひとり納得して去って行った。良い先生かどうかは、診察を受けてからだと、あまり期待もせずにいた。しかしこの医師に会ったことで、わたしの人生が一変したと言っても過言ではなかった。ほどなく看護婦に...ドール [お取り扱い注意!](十五)待合の席にすわろうとしたわたしに
感傷的になるかと思っていた小夜子だったが、意外にもサバサバとした気持ちになった。空はあいにくの曇り空なのに、ウキウキとした気分でビルを出た。全員がお見送りをしたいと申し出たが、五平と竹田のふたりが通りで見送った。最敬礼をするふたりに「やめてよ、そんな大げさなことを」と言いつつも、感慨ぶかいものがあった。はじめて会社におとずれたとき、水たまりがあるからと、武蔵にお姫さま抱っこで車からおろされた。大きな歓声と冷やかしの声、また近隣ビルの窓から、なにごとかと覗かれたこともなつかしい。なにからなにまで、なつかしい想い出だ。帰りの車をことわり、ひとり日本橋界隈をねりあるくことにした。そういえば通りをあるいた記憶がない。いつも契約ハイヤーで会社前まで乗りつけた。竹田の送迎もあったわね、と思いだす。〝大層なご身分だった...水たまりの中の青空~第二部~(四百八十二)
茶目っ気モーツァルト「25番ト短調」そのミステリアスな曲調にこころがうち震えるああ佳きかな佳きかないにしえの旋律(背景と解説)好きなクラシック音楽家のひとりです。他にも好きな楽曲はあるのですが、まずはこの作品をえらんでみました。CDで、パソコンやら車で聴いています。ポエム~五行歌~クラシック賛歌(モーツァルト)
翌日のこと。「きのうのお芋さんは美味しかったろう。ばあちゃんもね、おじいさんとおいしく食べたんだよ」ほのかかキョトンとした顔つきで、「きのうはよらずにかえったよ」と、こたえた。誰かが食べたはずなのだ。「ツグオちゃんだったかね」首をふりながら、つづけてこたえた。「にあんちゃんは、ほのかといっしょだったよ」思いもよらぬ返事がかえってきた。「それじゃだれだったんだろうね。ツグオでもないんだね。近所のだれかかしらね」そうことばにしつつも、だれもいない家にはいりこんで、ましてやなにかを食べていくなどありえない。“まさかナガオが…。いやいや、あの子は寄りはしない”と、否定してしまった。「あんちゃんだよ、きっと。夕食、めずらしくすこししか食べなかったから。それに、もしにあんちゃんだったら、きっとぜんぶ食べてたよ。にあん...[青春群像]にあんちゃん((通夜の席でのことだ。))(九)
実はこの1週間、彼は悩んでいる。学友との些細な口論のためだった。さっこん耳にする”フリーセックス”についてだ。まだ青い我々は、真面目に論じあった。勉学上の口論はまるでない我らだが、ことセックスに類するものは好んで論じあう。が、残念ながらお互い言いっ放しで終わってしまう。面白いのは、”革新”そして”保守”と、イデオロギーの立場をお互いに押しつける―なすりつけて終わることだ。革新にしろ保守にしろ、じつの所あまり分かっていないのに。『70年安保』の後遺症といっては失礼か。「アンポ、ハンタイ!」が流行語になっていた頃を、多感な中学時代に我々は過ごした。彼はいま窓際でひざを抱いている。そしてときにそのひざに接吻をしたりして、体のぬくもりを感じている。生きている実感があるという。ときおり、バサバサの髪をかき上げては、...奇天烈~蒼い殺意~いち日の過ごし方(四)
「舟のない港」というタイトルが気に入って書きはじめた作品です。気乗りのしないままにストーリーを重ねて、次第しだいに二人のヒロインたちの心情にとらわれだしました。なかなか女性心理がわからず、キーボードをたたいてはDeleteを押して、またたたいて、また消しての連続です。時間の移動がはげしいためご迷惑をおかけしていますが、一気読みをご希望の方には、4月の初めには[やせっぽちの愛]にてupする予定です。よろしければ、どうぞ。------------麗子が起きるころには、母親はすでに台所にいる。父親もまた、食卓に着いていた。気むずかしい顔つきで、新聞を読みふけっている父親だった。一日のはじまりに家族そろって食卓を囲む。なによりも大切にしている父親だった。夜の食事は父親の仕事しだいではそろうことが難しい。休日にして...[淫(あふれる想い)]舟のない港(三十二)麗子が起きるころには、
吉野ヶ里遺跡公園をあとにして、福岡県柳川市の昭代第一小学校へ向かいました。小学なん年生だったか、低学年には違いありませんが新入生ではなかったはずです。幼稚園児だった頃に伊万里市をはなれて、それからどこに移り住んだか。柳川市?いや待て、もう1ヶ所、どこかの……そうだ!大分県の佐伯市に入ったような……。そこで幼稚園に入る予定だったのが、いまでいう引きこもりになったのか、通ったという記憶がありませんね。それじゃ、佐伯市の小学校に入学した?うーん……。新入学したのはどこの小学校だったのか、まるで記憶がない……。昭代第一小学校まえでお店――駄菓子屋さんだと思っていたら、じっさいは酒屋さんでした。店の横にビールびんやら酒びんが山積みされていました。失礼ながら、小学校の真ん前なんですが。でも、すこしばかりの文具もありま...[ライフ!]ボク、みつけたよ!(四十三)吉野ヶ里遺跡公園をあとにして、
“やれやれ今はやりの自己責任ですか。大丈夫、先生を訴えたりしませんよ”「はい、これで良いですか?」「ほんとにね、生命に危険があるんですよ。考え直しませんか?山本さん」「先生の言うことを聞いた方が良いですよ」なおもしつこく入院を迫ってくる。わたしのことを考えてくれているとは分かるが、イライラしてきた。「今夜ひと晩だけで良いんです。経過をね、観察したいんです」真剣な目で、せまってくる。「お気持ちだけいただいておきます。ほんとにね、もうずいぶんと楽になりましたから」意地の突っぱり合いの様相をていしてきた。しかし意地っ張りということに関しては、わたしの方にいち日の長がある。医師に書面をわたして、看護婦に会釈をして、意気軒昂にベッドをはなれた。あの老婆、わたしと目があったとたんに目をそらしてきた。聞いてはならぬこと...ドール [お取り扱い注意!](十四)やれやれ今はやりの自己責任ですか。
自宅でのこと、その毎日がなくなるのかと思うと、ここで感傷的になった。平日の朝9時、閑静な住宅街にある自宅を出る。日々の暮らしは、もうはじまっている。学童たちのげんきな声は、もう聞こえない。おはようございますと声をかけあう人々にあふれ、「あら、ごめんなさい」と、声をかけあいながら、ほこりっぽい道路に水をまいている。「小夜子おくさま、おはようございます。これからご出勤ですか?」ななめ向かいの佐藤家のよめである道子が声をかけてくる。「おはようございます」と返事をし、かるく会釈する。するととなりの家からあわてて、大西家の姑であるサトが出てくる。「もうこんな時間ですか、行ってらっしゃいませ」わざわざ外に出てこなくとも、と小夜子は思うのだが、女性たちは必ず声をかける。小夜子にあいさつをするが、じつは小夜子ではない。御...水たまりの中の青空~第二部~(四百八十一)
その女子は真面目派より一学年下だったが、幸か不幸かふたりと同じバレーボール部だ。ゆえに、放課後にふたりに帯同すれば、ひんぱんに会える。行動派が部活動に熱心なこともあり、ヒネクレ派も必然とがんばっている。そんなふたりを待つという口実のもとに居残りをきめこんでいた。三年ほど前の夏季大会ののちに、理由は分からないが部員ゼロとなってしまった。そして今年までの三年間、廃部となっていた。そんな男子バレーボール部を、行動派が復活させたのだ。気乗りのしないヒネクレ派をムリヤり入部させ、ほかに数人の幽霊部員を仕立て上げた。大会ごとに集合して、試合前のわずかな時間だけ練習をする。そして作戦も何もなく、むろんコーチもいない。どころか、役割すらあいまいだ。皆がみなアタッカーであり、やむなくレシーバーやらセッターにもなる。正直、勝...原木【Takeitfast!】(九)初恋
とうとう、結婚式の前夜がやって参りました。式の日が近づくにつれ平静さをとりもどしつつあったわたくしは、暖かく送りだしてやろうという気持ちになっていました。が、いざ前夜になりますと、どうしてもフッ切れないのでございます。いっそのこと、あの合宿時のいまわしい事件を相手につげて、破談にもちこもうかとも考えはじめました。いえ、考えるだけでなく、受話器を手に持ちもしました。ハハハ、勇気がございません。娘の悲しむ顔が浮かんで、どうにもなりません。そのまま、受話器を下ろしてしまいました。妻は、ひとりで張り切っております。ひとりっ子の娘でございます。最初でさいごのことでございます。一世一代の晴れ舞台にと、いそがしく動きまわっております。わたくしはといえば、何をするでもなく、ただただ家の中をグルグルと歩きまわっては、妻にた...愛の横顔~地獄変~(二十一)式前夜:前
「けどもこんどは、本場で聞こうな。アメリカに行って、アナスターシアだったか?お墓参りをすませてから、ラスベガスに寄ろう。な、なあ。それで機嫌を直してくれよ」涙があふれ出した。揺り起こそうかとも思った小夜子だったが、いまはこのまま夢のなかの小夜子でいいかと思いなおした。「小夜子。俺ほど小夜子を知っているものはいないぞ。頭の髪の毛一本から足のつま先でも、俺は小夜子を当てられる。はらわたの一つひとつまで知っている。肺も心臓も、胃袋だって知っている。きれいだぞ、とっても」ふーっと大きく息を吐いて、カッと目を見開いた。起きたのかと思いきや、またすぐに目を閉じてしまった。「おおおお、ステーキを食べたな?いま胃をとおって、腸にはいった。栄養素に分化されて、肝臓やら腎臓にとどけられるんだ。そしてそのカスが便となって外に出...水たまりの中の青空~第二部~(四百三十二)
時の流れは今川となりました銀の皿は流れるのですその上に空を乗せたままその夜空は消えましたその朝には太陽が消えました(背景と解説)女友だちとの間が冷え切っていたという時期ではないのです。二股交際という言葉がありますが、わたしの場合は殆ど重なりません。不思議なのですが、ある女性との付き合いが疎遠になると、新たな出会いがあるのです。浮気ぐせ、とも違います。そりゃ、血気盛んな青年時代ですから、色んな女性に目が動くことはあったと思います。でも、この年になって色々思い直して-己を見つめ直してみると、一番の原因は、自分に自信が持てなかったのだと思います。短期間ならば薄っぺらい自分を隠せますからね。当時の連絡手段と言えば、固定電話か手紙ぐらいのものでした。手紙は、正直言ってお手のものでしたから。話を戻します。この詩は、自...ポエム焦燥編(朝、太陽が消えた)
時計の針は、二時半をさしている。貴子の希望で、南麓の岩戸公園口におりることになった。こちらの道は彼にもはじめてだった。こちら側の眼下にはビル群はすくなく、二階建ての個人宅がおおく見うけられた。国道ぞいに車のディーラーやら銀行、そして飲食店がチラホラとあるだけだった。すこし行くと、小ぢんまりとした台地があった。貴子の提案で、時間も早いし腹ごなしもかねて散歩でもということになった。彼に異はなく、真理子もまたすぐに賛成した。外にでた貴子が大きく深呼吸すると、真理子もならんで、大きく空気を吸いこんだ。とその時、強い風がふき、ふたりの体が大きく揺らいだ。とっさに真理子の背を抱くようにし、片方の手で貴子の腕をしっかりとつかんだ。悲鳴にもちかい声を出した真理子だったが、強風に驚いた声だったのか、彼の対応におどろいての声...青春群像ごめんね……えそらごと(三十)
訝しげに見る目を気にしつつ、付け足した。「目が、痛いんだ!」言葉が空を横切った途端、“嘘だ!”と、心が叫んでいた。そう、心が叫ぶまでもなく脳は刺激され、サングラスのない世界の恐ろしさが瞼の裏に醸し出された。そこによぎる全てが眩しいものだった。“信じられないんです”ある時、目に見えぬ何ものかに向かってそう叫んだ時、また心は叫んでいた。“嘘だ!”決して言葉のせいではなく、といって“信じなさい、信じることが唯一の道です”という言葉をはねつけたせいでもない。[ブルーの住人]第七章:もう一つの「じゃあず」(二)
日一日と、光子への周りの視線が変わってきた。子をうしなった母親という憐憫の視線がしだいに、子を産まぬ女という蔑視さえ感じるようになった。そもそもが清子を産んだあとに、二子、三子を産もうとする気配のないことに疑念が持たれていた。そして清子の死という事態をむかえて、導火線に火がついた。光子の年齢からしてためらう必要などなにもないはずなのだから、もうそろそろおめでたの話が出ても……と、口の端にのりはじめた。折に触れてかばってくれた珠恵からも、ことばには出さないが「もうそろそろ」という声が聞こえてくる気がしている光子だった。合原家という家系を考えたとき、光子は言わずもがなで、清二もまた妾の息子ということで他所者として扱われている。ふたりの間にまた娘が産まれたとして、女将を継ぐだろう事は想像にかたくない。しかしそれ...スピンオフ作品~名水館女将、光子!~(十四)(光子の駆け落ち:二)
行動派にもヒネクレ派にも、ガールフレンドがいる。しかし、真面目派にはいない。ふたりに比べると、ハンサムである。成績にしても、当然ながらトップグループにいる。しかし、女子からも敬遠されている。モテていいはずなのだが、作者だけの思いこみだろうか?もっとも、その原因は性格にあるのだろう。なにせ、内向的だし、おとなしい。そんな真面目派のきょうのの発言は、わたしもまた驚かされた。はじめてのことだ。もっとも、当の本人がいちばんん驚いていはいるが。そんな真面目派が、最近だれかに恋をしたらしい。いや、いままでも“いいなあ”とも思える女子生徒がいるにはいた。ただ憧れに近い気分を抱いていることが多かったし、それよりなにより、彼氏がいた。が、今回は違うようだ。“恋している”という、実感があるらしい。夜、ひとりになると、その女子...原木【Takeitfast!】(八)“キュン!”
その翌日、もちろん娘をまともに見られるわけがありません。その翌日も、そしてまたその次の日も……、わたくしは娘を避けました。しかし、そんなわたくしの気持ちも知らず、娘はなにくれと世話をやいてくれます。そしてそうこうしている内に、結納もすみ、式のひどりも一ヶ月後と近づきました。娘としては、嫁ぐまえのさいごの親孝行のつもりの、世話やきなのでございましょう。私の布団の上げ下げやら、下着の洗濯やら、そして又、服の見立て迄もしてくれました。妻は、そういった娘を微笑ましく見ていたようでございます。なにも知らぬ妻も、哀れではあります。しかしわたくしにとっては、感謝のこころどころか苦痛なのでございます。耐えられない事でございました。いちじは、本気になって自殺も考えました。が、娘の「お父さん、長生きしてね!」のことばに、鈍っ...愛の横顔~地獄変~(二十)陵辱
「小夜子。おまえは、ヴァイオリンだ」突然に己のことをふられて、なんと答えれば良いのか窮してしまった。しかし武蔵はお構いなしにことばをつづけた。「おまえは、ビッグバンドの、いやオーケストラのといっても良い、ヴァイオリンなんだよ。そこにいるだけで、あるだけで、光を放っている。華やかな、存在だ。誰もがひれ伏す存在だ。いや、ヴァイオリンがなければ成り立たない」あまりの褒めことばは、小夜子には面はゆい。「やめてよ、もう。どうしたの、今日の武蔵は。熱でもあるんじゃない?」といって、熱に浮かされている節もない。心底からのことばに聞こえる。目を見ればわかる。しっかりとした瞳がそこにあり、そしてしっかりと小夜子を見ている。まるですぐにも居なくなってしまう小夜子を見忘れないようにと、しっかりとめにやきつけようとしているかのご...水たまりの中の青空~第二部~(四百三十一)
ある冬の街角で……、そう、少し雪の散らつく寒い夜のこと。ダウンジャケットのポケットに迄、冷たさが忍び込んできた。路面がうっすらと雪の化粧をし、街灯の灯りで眩しい。ひっそりとして、明かりの消えたビルの前を、ポケットの中の小銭をちゃらつかせながら歩いていた。とその時、後ろから恐ろしく気味の悪いーかすれた、腹からしぼり出すような声がする。”だめだ!左はだめだ。右に、行くんだ!”どぎまぎしながらも後ろを振り向いた。全身が血だらけで、片腕のちぎれかけた男が、呼び止める。生々しいタイヤの跡が、顔面に刻み込まれている。その男、確かにどこかで見たような気がする。が、あまりの形相に思わず目をそむけた。そのまま逃げ出し、左へ折れた。そう。男の言う、行ってはならない左へ行った。と、ふと思い出す。血だらけの男の居た場所は、雪が白...ポエム~焦燥編~(右に、行け!)
五月日ざしは肌に悪いからという貴子のことばで、山肌の木陰で食事をとることになった。「三角おにぎりのつもりなんですけど……」と、真理子がはじめて握ったというおにぎりが出された。「形が悪くてごめんなさい」というそれは、すこしいびつな丸っこい形をしていた。「お味はどう?」と問いかけられ、「うまい!」となんども叫ぶように言いながらぱくついた。満足げに頷く彼にうながされて、ふたりも頬ばった。とたん「塩辛い!」と、目を白黒させながら声をそろえて言った。「ちょうど良いって」という彼の必死のことばに、真理子の警戒心がとれてきた。会社ではぶっきらぼうな態度をとる彼だが、それが照れ隠しによるものなのだと知り、そんな彼に親近感を覚えた。(やっぱり、九州男児なのよね)再確認する真理子だった。そして彼を、故郷にいる兄にダブらせた。...青春群像ごめんね……えそらごと(二十九)
部屋の照明は落としたまま、ベッドぎわの灯りだけを点けた。上向きの灯りは、うす暗くはあったが落ち着いた雰囲気で、気持ちも和やかになってくる。ふとんの中に入れと、小夜子を迎え入れた。しわになりにくい素地の服だということで、小夜子も久しぶりに武蔵に触れられるとウキウキしてくる。しかし武蔵の体を感じたとたん、あまりの痩身ぶりに驚かされた。たしかに腕にしろ足にしろ、細くなっていることは見ていた。が、直接に小夜子の体全体で感じる物とは異質のものだった。“こんなに痩せ細ってるの?ううん、だいじょうぶ。退院したらしっかりと栄養を摂らせるから”小夜子のそんな思いを推し量ってか、「小夜子。病院食ってのは、精進料理そのものだな。まるで脂っ気がないぞ。ああ、中華そば食いたい、ステーキもがっつりといきたいぞ」と、両手を合わせてお願...水たまりの中の青空~第三部~(四百二十九)
海はいつか日暮れてぼくの胸に恋の剣を刺したままその波間に消えた追いかけてもきみは見えない白い闇が迫りくるだけ恋はいつか消えてぼくの胸に涙の粒を残したままその波間に消えていった追いかけてもきみは見えない白い闇が迫りくるだけ昨日も今日もそして明日も夏の渚に立ってきみを探してもあの日のきみはいないあの日のきみはもういない遥かな海………どこまでもどこまでも果てしなく……が、その海もまた…………限りない空……どこまでもどこまでも広がり続く……が、その空もまた…………水平線では、空と海が一つになるなのに………きみとぼくは追いかけても追いかけても水平線はどこまでも果てしなく広がり続ける……わからないわからない追いかけるほどわからない……(背景と解説)彼女が逃げていくわけではないのです。自分の想いと彼女の思惑がずれている...ポエム~焦燥編~(太陽の詩(うた))
(不良だって、俺が?)しかしつらつらと考えてみるに、そう思われるのが当たり前のような気がしてきた。ポマードをしっかり使って、エルビス・プレスリーばりのリーゼントスタイルに髪を整えている。普段は不良っぽさを意識した言葉遣いで話しているし、口ずさむ歌と言えばロックンロール系が多かった。「日ごろの行いって大事なんだよね」そうつぶやく岩田の顔が突如浮かんだ。「年寄りみたいなこと言うなよ」と反論したものの、確かに損をしていると感じる彼だった。同じようなミスをしても、岩田なら仕方ないさとかばわれ、彼のミスには「集中心が足りない」と、小言になる。(不良だと思っているんだ、やっぱり。仕方ないか。不良まがいの日ごろの態度では)と、じくじたる思いが湧いてきた。写真で見た断崖絶壁の縁に立たされたような思いに囚われている彼に、貴...青春群像ごめんね……えそらごと(二十七)
(五)視線その他には、ぐるりと見回しても、とりたてて言うほどのものはない。強いて言うなら、紺いろにいろどられた扉があることか。小さなのぞき窓があり、ときおり神のような冷たい視線がそこから投げつけられる。しかしそれが、どうだと言うのか。冷たい視線など、どれ程のものと言うのか。忘れたころに訪れる、女よ。いくらでも泣くが良い。たとえそれで体中がびしょ濡れになってとしても、それがなんだと言うのだ。ただ無視すれば良いだけのこと。そんなことに気を取られるほどに、暇人ではない。このこころは、深遠な世界にあるのだ。知りたければ、……。はいってくるが良い。そっと足音を忍ばせて、のぞき込めば良い。ごっちんこをすればいい、ドアはいつも開けてあるのだから。窓の外にはポプラがそびえ立ち、その葉をすける太陽の光、そして遙かかなたにか...[ブルーの住人]第六章:蒼い部屋~じゃあーず~
(十一)(周囲の目:二)無事出産を終えて明水館に戻ったとき、大女将の珠恵を始め、番頭に板長そして仲居頭の豊子たちの出迎えを受けた。然も、玄関口でだ。初めてのことだった、これほどの人に笑顔で出迎えられるのは。思わず後ずさりをした。娘だけを取り上げられて、光子はそのまま叩き出されるのではないか、そんな思いにとらえられていた。「お帰りなさい、若女将!」。「お帰り。さあさあ早く入りなさい、奥の部屋で休むと良いわ」。珠恵の優しい言葉は心底のもので、温かい慈愛が感じられるものだった。そしてそのことばで、やっと光子はこの合原家の一員となったことを実感した。それは突然のことだった。珠恵がお使いから帰ったところを見た清子が「おばあちゃま、おかえりなさい!」と、通りの向かい側に飛び出した。急ブレーキ音とともに、ドン!という音...スピンオフ作品~名水館女将、光子!~
行動派が言う。「誰も反対しないようだ。委員長、やってくれ。時間が勿体ない」眼鏡をかけたやせっぽちの男が、渋々と立つ。と、あろうことか「待ってください。みんながそれでいいと言うのなら僕もそうしますが、僕としては、自習とした方がいいと思います。第一、先生も居ないことだし。それに、あと二十分足らずの時間です。討論の時間には少ないと思います。風紀については、重要なことですから、誰かが調査して、その結果を元に討論してはどうでしょうか」と、小声ながらも、はっきりと胸を張って、真面目派が言った。クラス内に、割れんばかりの拍手が起こった。真面目派は、“ドクン・ドクン”という心臓音を耳にしながら、真っ赤になっていた。さすがの行動派も、いつも連れ立っている仲間の一人に反対されては、反論のしようがなかった。「それでは、俺とあと...原木【Takeitfast!】(五)意外なこと
断じて許すことはできません。八つ裂きにしても足りない男どもでございます。しかしもうわたしには気力がございません。お話しする気力が、ございません。もう、このまま死にたい思いでございます。まさしく地獄でございます。……地獄?そう、地獄はこれからでございました。じつは不思議なことに、男どもには顔がなかったのでございます。もちろん、その男どもをわたくしは知りません。見たことがありません。だから顔がない、そうも思えるのではございます。しかし、……。そうですか、お気づきですか?ご聡明なあなたさまは、すべてお見通しでございますか。”申し訳ありません!申し訳ありません!!”わたしは、犬畜生にも劣る人間でございます。“殺してください、わたしをこの場で殺してください。この大罪人の、人非人を!”そうなんでございます、男どもは、...愛の横顔~地獄変~(十七)銀蝿などと!
「おお、来たきた。俺の、観音さまだ。富士商会の姫であり、そして俺の守護霊さまだ。さあさあ、ここに来い」と、ベッドの端をポンポンと叩く。強い西日の光をさえぎろうと、看護婦がカーテンの前に立った。「おいおい、そのままにしてくれ。小夜子の顔がはっきり見えるだから」と、怒気のふくんだ声が飛んだ。そこに、医師と婦長が入ってきた。「なんだなんだ、今日は。小夜子とふたりだけの時間は作ってくれないのか。先生、婦長までもか。そんなにおれは悪いのか?まるで臨終の儀式みたいじゃないか」おどけた口調で言う武蔵だったが、「なんてことを!先生、ちがうわよね」と、涙声で小夜子が問いただした。己の死期がちかいことは、武蔵は知っている。しかしそのことは小夜子には言わないでくれと、何度も武蔵が口にしている。気持ちの変化でも起きたのかといぶか...水たまりの中の青空~第三部~(四百二十八)