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敏洋 ’s 昭和の恋物語り https://blog.goo.ne.jp/toppy_0024

[水たまりの中の青空]小夜子という女性の一代記です。戦後の荒廃からのし上がった御手洗武蔵と結ばれて…

敏ちゃん
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住所
岐阜市
出身
伊万里市
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2014/10/10

1件〜100件

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百六十二)

    式後の武蔵は、以前にも増して商売に精を出した。持てる財を使い果たしたということもあるが、それにも増して事業欲がムクムクとわき出していた。ひとり小夜子を残して会社に立ち戻った武蔵は、「新婚旅行に出かけられるんじゃ?」と言う五平に「そんなものは、いつでも行けるさ。猛烈に働きたいんだよ、今は。すかんぴんになっちまったことだしな」と、笑う。昨年早々のことだ。「社長。東北の名産品あたりを、売(ばい)してみませんか?細いながらもつてはありますが」と、進言する五平に対して「いや、まだいい」と、腰を上げない武蔵だった。「面白いと思うんですがね。もう安物ばかりのご時世でもないと思いますが」と、なおも食い下がる五平に「その内にな」と、にべもない。なぜ東北物を扱わないのか、いや東北地方の話そのものを嫌がるのか、武蔵の心底が分か...水たまりの中の青空~第二部~(二百六十二)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百六十一)

    小夜子が去ってからの茂作は、己でも予期せぬ日々を送った。本家の心配をよそに、茂作自身も寂しさに耐え切れぬだろうと考えていたが、あにはからんや嬉々として村中を飛び回っている。繁蔵の村長出馬を受けて、繁蔵本人はもちろんのこと大婆さままでもが、茂作に頭を下げたのだ。かつては土間に座らせての対応をしていた茂作に、だ。いまでは座敷にあげて歓待する。しかも、三日と空けずに夕食だなんだと歓待する。そして村長選に向けての作戦を、茂作と共にはかっている。作戦と言っても、陳情やら相談を持ちかけてくる村人宅にでむき、村長選のことをにおわすのだ。「兄の繁蔵が役場におれば、わしも色々とやりやすくなる。むこへの連絡も、役場の電話を使えることになろうし」しかし実のところ、茂作の心内は穏やかではない。“あんな大正男の金に目がくらみよって...水たまりの中の青空~第二部~(二百六十一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百六十)

    「お怒りになるでしようか?ご相談と言うのは、他でもありません」いったんは口を開いたものの、また無言がつづいた。時計の針は、七時十分過ぎを指している。特急は、七時三十四分発のはずだ。あるようでない時間だ。列車の到着時にバタバタと走り回りたくはない。小夜子の顔に険が表れ始めたことに気づいた幸子が、あわててことばをつないだ。「あつかましいとお思いになるかもしれませんが、小夜子さまにおすがりしたいのです」「ですから、何をなさりたいの?それを言ってくれなきゃ、お返事のしようがないわ!」焦れったさから、つい声を荒げてしまった。「申し訳ありません。あたし、自立した女性になりたいのです。小夜子さまには、とうてい及ばないことは分かっております。でも、少しでも小夜子さまに近づきたいのです。以前に仰られていた、自立した女性にな...水たまりの中の青空~第二部~(二百六十)

  • 恨みます (二十三)

    雨の上がった、翌朝。「堀井くん。どうかな?上客になってくれそうかな。なんにしても、じっくりと、ねっちりと、成仏させなさい。君も早くランクアップしなくちゃ、な」「はい、頑張ります」直立不動で、頭を深々と下げる一樹だった。俯いたままで、ニタニタとにやついてもいた。“へっ。言われなくても、頑張るよ。おいしい、おいしいものが、待ってるんでね。ねっ!奥、さん。”と、ななめまえに陣取る社長夫人の加代をぬすみ見た。加代もまた、顔を下に落としつつ、上目遣いで一樹を見ていた。“頑張るのよ、早くランクアップしなさい。あたしは、テータスのない男は、相手にしないからね”「沢木専務、よろしく指導頼むよ」「分かりました、社長」知ってか知らずか、上機嫌で一樹と沢木の肩をたたいて、社長室に消えた。「よくやった。この女をうまく使えば、ラン...恨みます(二十三)

  • 恨みます (二十二)

    一樹さんのお役、、、むっ、むうぅぅ」「小百合!」一気に手元に引き寄せると、そのまま小百合の唇を奪った。突然のことに目を丸くしながら“なに、なに?どういうこと?”と、いまが理解できない小百合だった。“ありがとさん、です。これから、いい思いをさせてやっから。上客になってくれ、頼むぜ。おブス、さん”一樹の素っ頓狂な声が部屋に響いた。「なんだよ、これえ!こんなん、ありい?なんで、おっぱい、小さく見せるかなあ?」小百合への問いかけというよりは、驚嘆の声を上げた一樹だった。Fカップはあろうかという乳房が、窮屈に閉じ込められた布切れから解放され、ぶるるんと大きく揺れた。心の準備がまるでないままの、突然の凶事に思えた。その時、小百合の頭の中に恐ろしい考えが、浮かんだ。“やっぱり、痴漢行為は、あの男の人じゃなくて。一樹さん...恨みます(二十二)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十九)

    迎えの車が時間通り、六時半に来た。太陽は山かげから顔をだしていない。駅までは三十分ほどかかる。特急列車との接続を考えて、始発はやめにした。「そんなにあわてて出ることもなかろうに」という茂作のことばに、ほだされる思いが小夜子の中に生まれてのことだった。物陰からじっと見つめる茂作に気付いた小夜子だが、素知らぬ振りをして戸口を出た。「行ってしまうのか、小夜子。もう会えぬかもしれぬわしを置いて、行ってしまうのか。いつお迎えが来るかも分からぬわしを置いて、行ってしまうのか」ぶつぶつと気弱な言葉を吐きつつ、見送る茂作だった。「ふふ……気が付いたかしら?幸恵さん」車中で、幸恵に問い掛ける。「なにを、ですか?」「お爺さまったら、声をかけることもできずに。あれで隠れていたつもりなのかしらね、丸見えだったわ」思わず後ろを振り...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十九)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十八)

    茂作のことが気になりだした小夜子だが、思いつめた幸恵を見ていると、むげな態度もとりづらくなっていた。「申し訳ありません。小夜子さまのお立場も考えずに、勝手なことを申しました。あら、もう日が落ちてしまいました。こんな時間までもうしわけありません。まだお話したいことがいっぱいありますのに……」このまま立ち去るのが心残りだとばかりに、すがるような視線を小夜子に投げかける。家中に入れてもらえないかと、目が訴えている。しかし小夜子には、身支度がすんでいない。それよりなにより、いまの憔悴しきった茂作を見られたくない。「小夜子さま。明日のお帰りを、お見送りさせていただけませんか。よろしかったら、駅までお送りさせていただけませんか」これ以上の無理強いはできぬと、とっさに浮かんだ思いをことばに変えた。ぶしつけであることは分...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十八)

  • 水たまりの中の青空 第二部 (二百五十七)

    大粒の涙が、拭いても拭いても溢れ出てくる。幸恵のハンカチが使い物にならなくなってしまい、小夜子の差し出すハンカチもすぐに、涙でぐしょぐしょになってしまった。「そんなことになっていますの、それは大変ね。で、お母さまの具合はいかがですの?大事にならなければおよろしいのだけれど。でも、正三さんも……。男は、良き伴侶を得てこそ、大仕事を成しとげることができますものね。そんな女性をお選びになって、ご出世の道を自らお断ちになるとは。正三さんらしくありませんわね。でも最後にお会いした時は、堂々としてらしたのに。そうね、きっと一時の気の迷いですわよ。そのうちに、お目が醒められますわ。大丈夫!過去のこととはいえ、あたくしが選んだ正三さんですもの」勝ち誇ったように幸恵を見下ろす小夜子がいた。それみたことか!と目を細める小夜子...水たまりの中の青空第二部(二百五十七)

  • 恨みます (二十)

    「小百合さん。ありがとう、ありがとう。あなたはやっぱり、心のきれいなひとだ」キッチンで泣きつづける小百合を抱きよせて、耳元でささやいた。と、とつぜんに小百合の体が、小刻みにふるえはじめた。「どうした?」あわてて小百合から離れると、うつむいた小百合をのぞき込んだ。「ごめんなさい、ごめんなさい」体をふるえさせながらも、ただあやまる小百合だった。“なんだよ、これって。なんで、ふるえるんだよ。寒い?っていうか、こわがってる?俺を。どうしてだよ。かんぺきだろう、いままで。うーん、こんなことって、聞いてないぞ。ど、どうすりゃ、いいんだよ”=======訳のわかんない状態になっちまったら、突拍子もない事態になっちまったら、なんでもいいから抱きしめてろ。いいんだよ。相手がいやがろうがなにしようが。ダメなときはなにをやって...恨みます(二十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~(二百五十六)

    茂作には聞かせたくないと、外に出た。「正三兄さんの小夜子さまへの仕打ち、あたし納得がいきません。そりゃ烈火のごとくに怒った父に、恐れを為すのはわかります。あんなに怒った父を見たこと、あたしありませんでした。でもでも、音信不通状態をつづけるなんて、あんまりだと思います。たしかに秘密のお仕事で、外部との連絡をいっさい禁じられてはいたのですが。でも、でもやっぱり……」と、結局のところは、正三を擁護する言葉で終わった。「いいのよ、もう。ご縁がなかったということ、正三さんとは。それでいまは、どうしてらっしゃるの?お仕事もお忙しいでしょうけれど、どなたかとご婚約の話があるのでしょうね」たっぷりの皮肉を込めた小夜子なのだが、幸恵には届かない。「はい。仕事が忙しいのは相変わらずなのですが、実は、良からぬ話が聞こえてまいり...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十六)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十五)

    いそいそと荷物を詰めている小夜子の後姿を、茂作が恨めしげに見ている。「お父さん、夕べは飲みすぎてない?お銚子は一本までにしてね。夕食をね、お茂さんにお願いしたから。もし本家でご馳走になる時は、早く連絡してあげてよ。それから、いくら本家からの頼みだからって、無理しちゃだめよ。あまり熱を入れるのはやめてね。村長さんを支持している人たちとのいさかいなんかに、巻き込まれないようにしてよ。本当を言うと、武蔵は良く思ってないの。身内に政治家がいるとね、大変なんだって。手が後ろに回るようなことに巻き込まれないかって、心配してたわ。あたしも、なんだか嫌な予感がするし。もう本家の言いなりにはならないでね」身支度を終えた小夜子が、囲炉裏端で背を丸けてお茶をすする茂作のそばで、あれこれと話しかける。。「ああ、分かってる。わしも...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十四)

    小夜子詣でのとなりで、同じようにいやそれ以上に、茂作詣でがあった。武蔵が残した言葉は、小夜子の思う以上に大きかった。「茂作さんに言ってくだされば結構です」。このひと言で、茂作の存在感がぐんと増した。「どんなことでも、茂作さぁに言えばええ。村長に頼むよりなんぼか確かじゃて」村の角々でこんな声が聞かれた。床に就いている小夜子の耳に、秋の夜長の虫たちほどの声声声が聞こえてくる。「娘の進学なんじゃけれど」「家の前の道が、雨が降るたんびにぬかるんで」「ばばの家がいたんでしもうて、というて借りるあてもないし」そして帰り際には必ず「小夜子嬢さんに、ちょこっと挨拶を」と、付け加えていく。今ほど、武蔵の妻となった実感を感じることはない。ひしひしと、感じさせられている。武蔵の財力と権力に群がってくる村人たち。それらは皆、かつ...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~(二百五十三)

    奥の部屋で横になりながら、ガーデンパーティを思い起こした。鹿鳴館を想像していた小夜子で、あまりのざっくばらんさに、拍子抜けしてしまった。家を出る時の、あの緊張感。不安の高まりから、武蔵の腕をぐっと握った小夜子だった。こわばった表情を見せながら車に乗り込んだ小夜子だった。「なんだ、なんだ。敵討ちにいくんじゃないぞ、おいしいものを食べにいくんだから。肩から力を抜いて、大きく息を吸い込んでゆっくり吐け。そうそう、肩を上下させて。どうだ、落ち着いたか?きれいだぞ、小夜子。みんなびっくりだ、お姫さまだってな。なあ、運転手君。可愛いだろう、俺の小夜子は」と、大はしゃぎだ。「はあ、まったくです。お姫さまですか、確かにです。東映の時代劇映画のお姫さまですよ、本当に。いやあ、ありがたいです。わたしも今日一日楽しい日になりそ...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十二)

    小夜子の話が、一旦、止まった。なにごとかと、ざわつきだした。「お疲れかしら」いう声があちこちから飛んだが、「ごめんなさいね。ちょっと自慢話というか、奢りだって言われないかとおもいましたの」と、らしからぬことに「そんなことありません。ぜひ、つづきをお聞かせください」と、催促の声が上がった。「小夜子さまのお話が信じられないなんていうひとがいたら、承知しないわよ!そんなひとは、すぐにここから立ち去りなさい!」つよい口調の声が、部屋にひびいた。「そうよ、そうよ!帰りなさい!」「レディファースト。ご存じないわよね」聞き慣れぬことばに、みながうなづく中、英語教師が声をあげた。「女性を大事にするという、西洋文化の代名詞だ。いままでの日本は女性を下に見る傾向があったが、これからはちがうぞ。竹田嬢は、その先鞭だな。おめでと...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十二)

  • 恨みます (十九)

    「そうですか。あたし、マズかったでしょうか。こんなあたしですから、もう二度とないと、思うんですけど」「あまい!それは、あまいよ。やっぱり、訴えるべきだったんだ」語気鋭く、一樹が言い放った。「でも実は。以前、一度訴えたんです」「ええっ?前にもあったの!あ、ごめん。こんな言い方は失礼だよね」「いえ、いいんです」話し辛そうな表情を見せる小百合に、一樹は「話してよ、気が楽になるかもよ」と、催促した。「交番で、男の人に、逆ギレされて。あたし、ブスだから」「なに言ってるの。そんなの、関係ないよ」いつの間にか、一樹が小百合の隣に来ていた。願望として抱いたことが、いま現実となっていた。一樹にしてみれば、小百合を見ないですむ位置に移っただけのことだったが。「今日と同じように、『こんなブス相手に、しませんよ』って。そしたら警...恨みます(十九)

  • 恨みます (十八)

    「あの…ひとつ、聞いてもいいですか?」聞きたい、でも聞くのが恐い…。逡巡する気持ちが強く、ことばがとぎれてしまう。小百合は、意を決して思いを吐き出した。。「どうして、会社のそばにいらっしゃったんですか?」「偶然に、なんて、通用しないよね」一樹は、小百合の目をのぞき込んだ。大きめの目の中に、嘘はやめてと訴える光があった。「実はね、あなたが早退すること、分かってたんだ。だから、待ってたんだ(あんたをカモるためだよ。これが、本心さ)」「ど、どういうことですか?」目を丸くして、小百合は一樹の次のことばを待った。「ぼくの姉も、以前、チカンに襲われたことがあるんだ。で、やはりあなたのように体調を崩しちゃって」「お姉さんも、ですか?あっ、そうですよね。一樹さんのお姉さんだったら、きっとお綺麗でいらっしゃるから」(ちょっ...恨みます(十八)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~(二百五十一)

    「変わっていないね、竹田嬢は」「そうだね、相変わらずの女王さま気取りだ。」車座からはなれた場所で、ふたりの恩師がささやきあう。「でも、そんな彼女を、皆さん認めてらっしゃるんでしょ?在学時から、特別待遇でしたものね」遅れて来た女教師が話の輪にくわわった。「そう、そうなんですよ。どうもね、あの娘にかぎっては許してしまうんですよ。不思議と腹もたたないんですね」「同感です。某教師は『卒業したら求婚してみるかな。へなちょこ坊主の佐伯正三なんぞに渡してなるものか!』なんて、真顔で言ってましたから」じっと小夜子のはじけるような笑顔を見ながら「それにしても、美人になりましたねえ」と、付け加えることを忘れなかった。そして「あのとき、『おれんとこに来るか?』って、こなをかけときゃ……。いや、冗談ですけどね」と、目を遠くへはせ...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十一)

  • 恨みます (十七)

    「狭くて、ごめんなさい。あたし一人だけなら、十分なんです。バスルームの狭いことだけが、不満といえば不満なんですけど」「1階に、駄菓子屋さんがあったんです。おばあちゃんがひとりで、なんですけど。朝はあいさつだけなんですけど、帰りは店先ではなしこんだりして」「土・日なんか、あたしが店番をしてたんですよ。近所の子どもさんとか、そのお父さんなんかも買い物してくれたりしてくれて」ひたすら小百合は話し続けた。沈黙が流れることに、恐怖感に近いものを感じ始めた。部屋に招き入れてからというもの、一樹の口数が一気にへってしまった。というより、ひと言も発しなくなってしまった。三杯目のお茶を出したとき、「ごめんなさい」。やっと口を開いた。「実は、ぼく、はじめてなんですよ、女性の部屋って。一人っ子なんで、妹も姉もいなくて」====...恨みます(十七)

  • 恨みます (十七)

    「狭くて、ごめんなさい。あたしひとりだけなら、十分なんです。バスルームの狭いことだけが、不満といえば不満なんですけど」「1階に、駄菓子屋さんがあったんです。おばあちゃんがひとりで、なんですけど。朝はあいさつだけなんですけど、帰りは店先ではなしこんだりして」「土・日なんか、あたしが店番をしてたんですよ。近所の子どもさんとか、そのお父さんなんかも買い物してくれたりしてくれて」ひたすら小百合は話し続けた。ことばを発しつづけた。今日はじめて会った男を招き入れているということではなく、沈黙が流れることに恐怖感に近いものを感じているのだ。饒舌だった一樹の口数が、一気にへってしまった。というより、ひと言も発しなくなってしまった。立ち動いている小百合をじっと見つめている。ベッドと小さな丸テーブル、そしてハンガーラックが置...恨みます(十七)

  • 恨みます (十六)

    思いもかけぬ一樹の行動に、小百合はパニック状態に陥ってしまった。からかい半分に小百合にモーションをかけてくる者はいた。しかしすぐに「ジョーダンだよ、ジョーダン!」と離れていく。初対面の相手でも、小百合の正面に回ると、チッと舌打ちをして離れていく。高校時代、クラスメートに言われた言葉が今も小百合の心に突き刺さっている。「整形したら、少しはマシになるかもね……」。(あたしなんか、あたしなんか……)。10年近く経ったいまでも、突き刺さっている。タクシーの中から見えた、キラキラと光る水面をすべるように泳ぐ水鳥を思い出した。小百合の中に、映画のワンシーン――ベネチアの運河をゴンドラに乗った恋人二人が、ゆっくりと唇を重ね……――が浮かんだ。どうしてタクシーの中で思い浮かべたのか。そしてなぜいま、そのことを思い出したの...恨みます(十六)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五十)

    「女給さんたちって、きっとおきれいですよね。それでも、小夜子さまを旦那さまは選ばれたんですね?」聞き覚えのある声に、「ひよっとして、幸恵さん?」と振り向いた。「覚えていてくださったのですか?感激です!」。思わず小躍りする幸恵だった。「あらあ、お久しぶりね。どう、お元気でした?もう、学校は卒業かしら?」小夜子をとり囲む娘たちの中に入り込んで、幸恵の手をしっかりと握りしめた。羨望と嫉妬心の入り交じった視線を受けながらも、小夜子の在学中でのことを思い出した。やっかみの声やらを受けながらも、小夜子のそばを離れることのない幸恵だった。兄である正三との交際が公然の秘密となっていたが、幸恵はそのことについては堅く口を閉ざしたままだった。二人が結ばれる日が来るまでは――親が許すはずがないと半信半疑であり、駆け落ちするので...水たまりの中の青空~第二部~(二百五十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~(二百四十九)

    「ごめんなさい、悪い口でした」と、消え入りそうな声が小夜子の耳に届いた。「あたくしこそ、声を荒げてしまったわね。まあね、周りの人から見れば、タケゾーに嫁ぐあたしは玉の輿でしょうね。でもね、タケゾーに拝み倒されての婚姻なのよ。とにかくあたくしは、アーシアと世界を旅することに決めていたから」「おかわいそうですわ、小夜子さま。アナスターシアさんがあんな亡くなり方をなさるなんて、思いもかけぬことだったでしょうから」「そうね、ほんとに。あたしが付いていてあげれば、きっと死ぬなんてことは……」小夜子が目頭をそっと押さえると、その時を待っていたかのごとくに、取り囲んでいた娘たちすべてが、それぞれにハンカチで目を押さえた。「終わったことよ、もう。くよくよとしていたら、アーシアが悲しむわ。そうそう、出会いでしたね。あたしは...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十九)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十八)

    武蔵のとなりに体を寄せて目をとじた。もう三月が経っているのに、昨日のように思い出される。披露宴の翌早朝に武蔵を見おくり、茂作の元に戻った小夜子だった。一緒に帰りたかったのに、と不満の思いが渦巻いている。茂作の顔を見た途端に暴言を吐いてしまわないかと不安な思いを抱えてもいた。しかしそんなおそいくる悲しみの心を持てあまし気味の小夜子を待っていたのは、女学校の同級生と後輩たち、そして恩師たちだった。他校へと転じていた恩師たちも、次々に小夜子への祝福に訪れてきた。「キャア、小夜子さまあ。ほんとに、おきれいでした。まるでひな人形のおひなさまみたいでした」「ううん、もう女優さんでした。やっぱり、お誘いがあったのはホントなんでしょうね」「ステキな旦那さまですね。うらやましいです、ホントに。キャバレーとかいうお店で知り合...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十八)

  • 恨みます (十五)

    一樹の大げさな反応に、いちいち答えをさがしてしまう。しかし当の一樹の耳にはまるで入ってこない。「ほんとにお一人暮らしなんですね。女性ものの靴しかないや。男性がいたらどうしよう、なんてビクビクでした」なにか答えなくてはと焦る小百合をよそに「やっぱり、キチンとした方なんだ。サンダルの一つもあるかと思ったのに、なんにもないんだから」と、たたみかけた。「あ、いえ。そんなことはないです。あたし、サンダルとかは好きじゃなくて、スニーカー派なんです」所々うす緑色のペンキがはげかかった鉄製の重いドアを閉めようとしない小百合に、“この女、まだ警戒してるのか?”と、一樹の中に焦りが生まれた。=====とにかくドアには鍵をかけろ。セールストーク中に他人が来たらまずいからな。恋人関係にはやく持ち込むためにも、密室だということを、...恨みます(十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十七)

    突き抜けるような青空の下、嬌声を上げながら白い飛沫に追いかけられている小夜子の姿があった。「ほら、ほら。また来たぞ!急げ、急げ。つかまったら、こんやの食事は格下げだ」武蔵の声が、小夜子を急き立てる。砂地の上に海水にまで足を取られては、小夜子ならずとも機敏な動きは容易ではない。「イヤ、イヤ、バカ!」と声を上げながら、必死に足を動かす小夜子だ。しかし容赦なく白い飛沫が迫ってくる。しかし、すんでのところで逃れた小夜子に、また容赦ない声が飛ぶ。「ほら、今度は引いていくぞ。追いかけろ、追いかけろ!」と、武蔵が囃す。「波の頭を叩いて来い!うまく行ったら、ニューモードだ」武蔵は麦わら帽子を頭にかぶり、ビールを喉に流し込んでいる。突き刺す陽射しの下、はしゃぎ回っている小夜子をまぶしく見ている。武蔵の肌には、灼熱の太陽はき...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十六)

    式の後、新婚旅行を後回しにせざるを得なかった武蔵だった。不満を募らせるれる小夜子をなだめるためにと、「小夜子、お前への愛の証しだ」と、武蔵が刺青を入れた。朱色に彫られたそれは、武蔵の白い肌にくっきりと、そして鮮やかに浮かび上がっている。「いたかったでしょ、いたかったでしょ」と大粒の涙をこぼしながら、頬ずりした小夜子だ。そして三ヶ月おくれの新婚旅行となった。小夜子にとっては、はじめての旅行だ。東北・北海道への旅行を勧める五平に、「それじゃ、仕事が入ってしまう。小夜子が可哀想じゃないか」と、取り合わなかった。“生まれ故郷に足を”と思ってみなかったわけではない。五平の意がそこにあると分かってもいたが、“苦しかった頃の想い出だけが残る地に行ったところで……”と考えた。「新婚旅行は、九州だ。海は、どうだ?海はいいぞ...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十六)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十五)

    「二人目をな、産めなくなったらしい。そのおかげで命びろいよ。けども乳が出ないってのは、赤子してみりゃ死活問題だ。おまんまなんだから、赤子の唯一のな。で仕方なく、もらい乳だ。ところが間が悪く、ご近所に誰も居ないときてる。で止むなく、米のとぎ汁ということだ。とぎ汁が乳代わりだったんだぜ」「それは難儀なことだ。おふくろさん、さぞ辛かったでしょう」「だろうな。鳥越八幡宮って知ってるか?山形の新庄市なんだが。武運長久のご利益があるらしい。お袋がな、お百度参りしたらしい。兵隊になるんじゃないぞ、何とか育ちますようにってだ」「しかし今じゃ、この頑丈さだ。どういうことで?」「盗みに走っちまったよ。とに角腹ぺこだ、手当たり次第だったよ。近所じゃ顔を知られててまずいってんで、となり町に遠征さ。んでもって、走った。店先から盗ん...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十五)

  • 恨みます (十四)

    しかしいま、一樹が小百合のエスコートよろしく一歩一歩に力を入れて上がっている。「ひとりで上がれますから」という小百合に対して、「いいからいいから」と、抱きかかえるように手を回した。ゆっくりと歩を進めるため、足音がほとんどしなくなっている。こんなときにすれ違う相手がいたらと、気が気でない。いつもは足音を立てて上り下りするのだが、今日はまるではた目を気にするがごとくに無音だ。“こんなすてきな男性のエスコートよ”と誇らしくもあるが、不釣り合いな相手であることも十分すぎるほどに分かっている小百合でもある。“どうしてこんなわたしに親切なのかしら”。疑念が湧かないわけではない。といっていまは、陽が高い日中なのだ。お礼を要求されたら応じればいい。そんな気持ちが、いまは小百合の中に生まれている。ドアを開けると、甘ったるい...恨みます(十四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十四)

    資料に目を落としながら、怪訝な表情を見せた。「うん?北海道はどうした?青森までしかないぞ。まさか青函連絡船だからやめたなんていうんじゃないだろうに。陸つづきじゃねえからなんていうなよ。どうせなら、全国総ナメと行こうや」「分かりました、すぐにも調べます。ところで社長、なんで東北はだめだったんで?手が回らなかったと言えばそうなんですが、らしくないと思ってたんですが」「いや、どうということはないんだ。まあ、ただ何となくでは、納得できんだろうな」「らしくないです、まったく社長らしくない。まさか方角がわるいなんて言いませんよね」「東北出身なんだよ、俺は。良い思い出がなくってな。ふん、あやうく間引きされかかったんだよ。母親の乳の出が悪くて、虚弱体質に育っちまってな。ひょろひょろだったよ。いま風に言えば、聞くも涙、語る...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十三)

    式後の武蔵は、前にも増して商売に精をだした。持てる財をつかい果たしたということもあるが、それにも増して事業欲がムクムクとわきだしていた。ひとり小夜子を残して会社に立ち戻った武蔵は、「新婚旅行に出かけられるんじゃ?」と言う五平に、「そんなものは、いつでも行けるさ。猛烈に働きたいんだよ、今は。すかんぴんになっちまったことだしな」と、笑った。昨年早々のことだ。「社長。東北の名産品あたりを、売してみませんか?細いながらも伝はありますが」と、進言する五平に対して「いや、まだいい」と、腰を上げなかった。「面白いと思うんですがね。そろそろ嗜好品を取り扱ってもいいんじゃないか、なんて考えたりしているんですが」と、なおも食い下がる五平に「まあ、その内にな」と、にべもない。なぜ東北物を扱わないのか、いや東北地方の話そのものを...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十二)

    「婿さんよ、ちょっと」ひとつの座から声がかかった。「なんでしょう?」茂作の口撃に辟易し始めていた武蔵が、すぐに席を立った。「婿さん、あちらではおモテになるでしょうな」「どんな具合ですかの?」嫁を娶っていない村人が、目を輝かせて聞いてきた。「都会のおなご子らは嫁さんになっても、やっぱりあれですかの?」「小夜子よりべっぴんは、おらんですかの?」「いやいや、都会の女は、いかんです。男をすぐに、値踏みします。金持ちには媚を売って、貧乏人は鼻にも引っ掛けません。けしからんもんです、まったく。わたしもね、今は儲けていますから良いんですが。不景気風の吹いている折は、散々でした。見向きもしません。しかし小夜子は違いました」「へえへえ。違いますか、田舎の娘は」涎をたらさんばかりに、身を乗り出してくる。「小夜子は違いました。...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十二)

  • 恨みます (十三)

    「良かったら、お茶でも」。小百合から、思いもかけぬ言葉が口から出た。初対面の男を部屋に入れることに抵抗感がなくはなかったが、このまま返してはいけないという気持ちをすてることができなかった。お礼をならにもせずに帰すなんて、人間としてそれはしてはいけない、そう思ってしまった。「あちゃあ!」。心内でつぶやいたつもりが、運転手の声となって出てしまった。「すみません。ちょっと思い出しちゃって」。あわててあやまったものの、小百合にはとんと響かないものだった。「ご迷惑ですよね。お仕事のじゃまをしてはいけませんよね」と、耳たぶまで赤くした。“やったあ!落としたぞ”。声に出せない言葉が、一樹のなかで跳ねまわる。「ありがたいなあ。正直、喉がカラカラで」と、これでもかとばかりに笑顔を作った。さゆりのが会社を早退するまでの2時間...恨みます(十三)

  • 恨みます (十二)

    「不安ですよね、ぼくが自宅まで一緒にというのは。わかってます、小百合さんの気持ちは。実は、ぼくには妹がいるんですが……」大きく息を吐くと、話を続けるべきかここでやめようかと思い悩む様子をみせてから、意を決した風を装ってつづけた。「いま、病院通いしてます。小百合さんみたいにチカンにあったんです。通学途中でした。帰ってくればいいのにムリして登校しちゃって、それでおかしくなって……」感極まったように両手で顔を隠し「すみません、とりみだして」と、横を向いた。「ごめんなさい、ごめんなさい。そんな辛いことを思い出させてしまって。そんな事情も知らずに、あたしこそごめんなさい」一樹の作り話になんの疑いも抱かずに、なんどもなんども小百合があやまりつづけた。とっさの思いつきで無理筋なのだが、からめとられている小百合には冷静な...恨みます(十二)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十一)

    「この男はじつになさけけない。軍隊時代、かわやのそうじばかりさせられていての。皆みな馬鹿にされていたのよ。大正生まれの、なんじゃく男よ」この言葉は、一同に大きな衝撃をあたえた。軍隊の中において厠番になるということが、どれほどの屈辱感を与えられるか、みながみな、身にしみていたからである。しかし当の武蔵は、しれっとした顔付きで答えた。「あれは、いい経験でした。現在のわたしを、あの経験が作り上げてくれましたよ。厠というところはですね、人間の本性が現れるところです。本音が出るところです」「なるほど、なるほどの。」「ほお、ほお。そういうもんですか」「わしらみたいな凡人には、とうてい分からんことがあるんですの」「ふん。地べたに這はつくばって、米つきバッタみたいにぺこぺこじゃろうが」なおも茂作の侮蔑は続く。「いい加減に...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四十)

    金屏風を背にして、武蔵と小夜子が座る。小夜子の横に、茂作が仏頂面で座っている。そして武蔵の横には、大婆が陣取っている。二人に向かって右の列には、助役以下村役場の面々が座り、左の列には、繁蔵以下の縁戚連が陣取った。あとの村人連は、そこかしこに十人程度が集まり車座に席を構えている。二十畳はあろうかという部屋を三部屋、襖を取り外してひとつの部屋と使っている。竹田家本家分家と隣家のの女子衆が、総勢二十と三人が忙しく立ち回っている。武蔵が連れてきた料理人たちが用意する料理を、あちらへこちらへと運びまわる。宴席の支度にかり出された女子衆全員には、男どもには内緒の化粧品セットが武蔵から先々夜に届けられていた。「こんな田舎じゃ、のお」と口々に愚痴りながらも、口元がゆるんでいる。さらには、竹田家の女子衆には、明日一日が休息...水たまりの中の青空~第二部~(二百四十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十九)

    突然、佐伯本家の当主が小夜子の前に座り込んだ。先日の茂作の罵声に対する意趣返しかと色めきたった。「小夜子さん。あんたには、色々とすまんかった。正三のことで、色々とあったけれども。どうか、許してくれや。正三はの、逓信省の官吏さまになったんじゃ。行く行くは局長になって、次官さまとやらまで行かなきゃならんのじゃ。でな、甥の源之助に任せたんじゃ。それでまあ、あんたに連絡をさせなんだみたいで。勘弁じゃ、この通りじゃ」他人に頭を下げることなど、まず有りえない佐伯本家の当主があやまった。村一番の実力者が、小娘である小夜子に土下座をしたのだ。ざわついていた座が、一瞬の内に静まり返った。「ご、ご当主さま。おやめください。小夜子は、なんとも思っていませんから。そうじゃろう、小夜子。いけませんて、それは。どうぞ、頭を上げてください」...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十九)

  • 恨みます(十一)

    思いも寄らぬ一樹の出現は、どう解釈すべきかと、小百合を混乱の極地におとしいれた。“どういうことなの、なんで一樹さんが居たわけ?”“あたしのこと、見張ってたの?うそ、うそ。そんなこと、あるわけないわ”タクシーに乗り込んだ小百合は、激しい動悸にさいなまれた。一樹の腕の中に、しっかりと抱かれているのだ。シトラスの香が、小百合の鼻腔を刺激した。エレベーター内での煙草と体臭の入り交じった臭いではなく、柑橘類の爽やかな涼風が、小百合を包んだ。もう一度会いたいとは、思った。お礼をする為に会わなくちゃ、と考えた。しかしまさか、それが今日だとは。信じがたいことだった。「かかりつけの医者は、います?」一樹の吐息が耳を攻める。しかし小百合には記号のように感じられて、意味不明だった。体がふわふわと宙に浮き、鼓動がさらに激しくなっていく...恨みます(十一)

  • 恨みます(十)

    「あの日かしら、吉永さん」「よっぽど、重いのね」これ見よがしに囁きあう声を背に、「課長、申し訳ありません。」と、頭を下げた。「ああ、いいよ、いいよ。吉永さんも女性だったんだね。再確認しちゃった」泣き出したくなる思いをグッとこらえながら、部屋を出た。ときおり吐き気が襲ってくることが、最大の苦痛だった。「詐欺だぜ、まったく!」。チカン男の言葉が、頭の中で何度もこだました。“好きでブスに、生まれたわけじゃないわ!”廊下ですれ違う社員たちは、うつむき加減で歩く――足を引きずっていく小百合に、目をひそめた。“堀井さんに、お礼しなくちゃ”突然、小百合の中に一樹の心配げな顔が浮かんだ。キュン!と、胸が締め付けられもした。“もう一度、会えるわ”「お大事に、ね」。受付嬢から、声がかかった。課の方から連絡が入っていたこともあり、無...恨みます(十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十八)

    そんな陰口など、どこ吹く風とばかりに「そらそら、お着きじゃ、お着きじゃて。準備は出来とろうな?村の衆には座ってもらおとるか?」と、声を張り上げる。「もう皆さんには、お座りいただいております。ただ、村長さんがまだお見えじゃ……。」「村長は来ぬ、出張だと。陳情に行って来るとかで、昨日出かけた。むりやり作ったんじゃろう。のお、これから張り合うものじゃから。ま、いい。おらぬ方が、いろいろとの」頭を畳にこすり付けての初江の報告に、大婆は素っ気ない。繁蔵の目が、初江にあやまっている。“もうちーと、待ってくれ。なあに、婆さまもとしじゃ。長くはないんじゃ”「さあさあ、皆の衆。お待たせしましたの、ご到着じゃご到着じゃ。さあさあ、祝うてくだされ」大婆の先導で、武蔵と小夜子が屏風の前に座った。「ほおー!」。一斉に感嘆の声が洩れた。「...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十八)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十七)

    式前夜のこと。「お父さん。今まで、ほんとにありがとう。わたしの我がままを通させてくれて。これからは、いっぱい親孝行するから」目にいっぱいの涙を溜めて、小夜子が言う。「い、いや、そんなことは……。それより小夜子、ほんとにこれで良いのか?正三じゃなくて、良いのか?まだ間に合うぞ。どうなんじゃ?」「いいのよ」。小夜子がきっぱりと言い放った。「縁がなかったのよ、正三さんとは。お別れはすんでるし」「そうか、そうか。この……わしなんかの為に。すまんのう」「なに言ってるの!わたしは望まれて行くのよ。三国一の花婿さんに望まれて行くのよ」“そうよ、そうよ。わたしは幸せ者なの。財産すべてを、わたしの為につかい果たすんだから。これからもわたしの好きなようにしていいって、言ってくれたのよ”“みんな褒めてくれてるじゃない、あの婆さまだっ...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十六)

    ひとみと言う女、年のころは二十代前半か?痩せぎすの体型が若く見せるきらいがあると考えると、後半かもしれない。顔立ちは、不美人ではないけれど、美人でもない。正三の知る女性ー小夜子を除けば、年上ばかりだ。源之助の息がかかった女性で、正三の教育係りのようなものだ。痒いところに手が届かんばかりの対応をしてくれる。正三の目線の動きで察知し、口に出すまでもなくことが済む。選民だと意識させられている正三にとっては、実に居心地の良い場所だ。「いいか、正三。我々は選ばれし者なのだ。日本国民を正しい道に導くために選ばれたのだ。ユダヤ民族が選民であるように、我々官吏はお上に選ばれし選民なのだ。その自覚を常に持って行動をしなさい」そんな正三を認めない女性ーそれが、小夜子だった。そしてそれが苦痛にならない正三だった。あの再会の日までは。...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十六)

  • 恨みます(九)

    「課長。申し訳ありませんが、きょうは早退させてください」「うん?どうした、吉永くん。早退したいだなんて、君らしくもない。淋しくなるじゃないか、君が居ないと。まさか、デート、かな?いや、それはないか。太陽が西から昇ることがあっても、君がデートというのは有り得ん・・。どうした?気分が悪いのか?分かった、分かった。すぐ、帰りなさい」真っ青な顔色の小百合に気付いた課長の木下が、慌てて課内を見わたした。「えぇっと、誰か、居ないか、と。おぉっ、山本さん。すまんが、吉永君をたのむよ」クスクスと失笑がこぼれていた課内に、サッと緊張が走った。「今日の課長、いびり過ぎだぜ」「ちょっと、今日のはきつかったな」「来たときから、何だか辛そうだったよね」「うん。顔色、悪かったね」いつもは課長のいびりを愉しんでいる女子社員たちも、今日ばかり...恨みます(九)

  • 恨みます(八)

    「もしもーし。あ、奥さんですかあ?ぼくです、堀井です。奥さんを一番愛してる、一樹でーす」「一樹くん?何やってんのよ、あんたって子は!今日は当番でしょうに、まったくもう。で、今どこなのお?」甘ったるい声が、一樹の耳に入ってきた。「実はですねえ、ぼくの奥さーん。カモをですねえ、引っかけられそうなんです。ホントですよお。寝坊した言い訳じゃないですよお。証拠を聞かせますね」水を運んできたウェイトレスに、携帯電話に出るよう手渡した。怪訝そうな顔をしつつも、手を合わせて哀願する一樹に苦笑いしつつ「もしもし」と、呼びかけた。「あなた、誰?誰なの!」「あ、あたしは、喫茶・ボヌールの者ですけど」「いいわ、代わって!」。キツイ言葉が飛んだ。「なんなの、この人」。一樹に頼まれて電話を替わっただけだというのに、と一樹をにらみつけた。「...恨みます(八)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十五)

    「ちょっとやり過ぎか?」「出入り禁止なんてことにならんだろうな?」「新聞沙汰になりでもしたら、とんでもないぞ」「いやそこまでには、ならんだろうさ」「いやいや、客の一人が面白おかしく喋ったら……」ひそひそと話し合うが、今夜の正三を制御することは難しいことだった。「佐伯君、局長の立場を考えなくちゃね」杉田の耳打ちに、やっとひとみの手を離した。正三の急所を突かれた。どんなに酩酊していても、源之助を忘れることはない。じっとひとみを見つめる虚ろな正三。力なく、離れ行くひとみに手を振りつづけた。「何を言ったんです?課長。」「なに、大したことじゃ。佐伯君の急所を突付いただけさ。彼を黙らせる唯一をね」「何です、それは。後学のために教えてくださいな」「いやいや、こればかりはね。さあさあ、飲み直そう」「そうおっしゃらずに。我々だっ...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十四)

    大きな箱の中に入れられたひとみが、ほんの数秒後には箱から忽然と消え失せていた。拍手喝采をマジシャンが受けた後、ステージの裾からひとみが現れ出るに至って、割れんばかりの拍手が沸いた。そしてメインの胴体のこぎり切断ショーでは、またしてもひとみの独壇上となった。「それではこれから美女が、棺桶に入ります。無事この世に生還できましたら、是非とも拍手大喝采でお迎えを~!」「なに、この床は。お布団かなんか欲しいわあ。お尻が痛いやん。ちょっと、待ってえな。心積もりもありますさかいに」「ああ、あ、あ、のこぎりの刃が、うちの白玉のような肌に当たってるう」「あっ、あっ、痛い!あっ、あっ、閻魔はんがお迎えに。ちゃう、ちゃう、天使はんがお迎えに……」そして大のこぎりで棺桶なる箱が二つに切り離された。そしてその離された箱が再び戻されると、...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十三)

    「それ、切れるの?ちょっとそこの木を、切ってみて。ええ、ほんとに切れるんだ。恐くなってきたわ、うち。大丈夫なのよね、死ぬことはないわよね。まだ男を知らないんだから、今夜は処女よ」マジックの内容を説明している助手の声を掻き消さんばかりに、喋りまくっている。しかしマジックの説明は当を得ている。助手の説明よりもわかりやすく、客の間からやんやの喝采を受けた。両手を大きく広げて、マジシャンがお手上げだとばかりのポーズを見せた。口に指を立てるマジシャンだが、ひとみの独演は止まらない。「この箱に入って、体を横たえるのね。それじゃ皆さん、さようなら。二階のしょう坊、今夜はありがとう。もしこのまま還らぬ人になったら、お線香の一本でもお願いね」ひとみに呼応するように、二階席の正三たちにスポットライトならぬ懐中電灯の灯りが当てられた...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十九)

    「申し訳ございませんでした、杉田さま。当方の手違いで、このような場所にご案内いたしまして。ただいまお席のご用意ができましたので、どうぞお二階の方へ」薫の悪戦苦闘ぶりに気づいたマネージャーが、2階席に用意させた。杉田の来店には気づいたのだが、いつものひとり来店と決めつけてしまったことを悔やんだ。そして正三に対する他の者たちの気の遣いようから、相当の上客になると判断もした。「本日のご会計は、大サービスさせていただきますので」と、杉田に耳打ちする。それが隣に陣取っていた正三に聞こえた。「不愉快です、ぼくは。金をけちろうなどとは思わない。楽しませてもらった分だけは、きちんと正当に払います。信用できないと思われるなら、前金でもいいんだ!」“職員の前では、尊大にしろ。店の女どもになめられるようなことはするな。金払いもキチン...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十九)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十八)

    「薫ちゃん、マネージャーを呼んでよ」。泣き顔をみせながら杉田が言う。素知らぬ顔で「どうして?」と女給がききかえす。「坊ちゃんの、初めてのキャバレーでこんな思いをさせられるなんて、実に情けない」「たしかに!あまりに失敬だ」。「我々だけのときでさえも、こんな場所には着かない」。小山と坂井がかみついた。杉田は怒り出した部下を、ただただオドオドと見るだけだ。正三自身も、この場所には納得がいかない。腹だたしくも思う。しかしここは、小夜子の働いてたキャバレーではないのか、そんな思いがわいている。すぐにも席を立ちたい、いや立たねば男がすたる、そう思う。しかしその裏では、小夜子の、ある意味神聖な場を汚してはならぬもそうも思えている。いつもは寡黙な津田が「いつもの料亭に行きましょう、坊ちゃん」と、席を立った。料亭と言う言葉に、薫...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十八)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三十九)

    突然、佐伯本家が小夜子の前に座り込んだ。先日の茂作の罵声に対する意趣返しかと色めきたった。「小夜子さん。あんたには、色々とすまんかった。正三のことで、色々とあったけれども。どうか、許してくれや。正三はの、逓信省の官吏さまになったんじゃ。行く行くは局長になって、次官さまとやらまで行かなきゃならんのじゃ。でな、甥の源之助に任せたんじゃ。それでまあ、あんたに連絡をさせなんだみたいで。勘弁じゃ、この通りじゃ」他人に頭を下げることなど、まず有りえない佐伯本家の当主があやまった。村一番の実力者が、小娘である小夜子に土下座をしたのだ。ざわついていた座が、一瞬の内に静まり返った。「ご、ご当主さん。おやめください。小夜子は、なんとも思っていませんから。そうじゃろう、小夜子。いけませんて、それは。どうぞ、頭を上げてください」慌てて...水たまりの中の青空~第二部~(二百三十九)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十七)

    店の中から女給たちの嬌声に送られて男たちが出てきた。皆が皆、高揚した観で、緩みっぱなしだ。中には女給に抱きついて「キスしてくれなきゃ帰らないぞ」と懇願したりする者もいた。「もう一度入る?」。「こらこら、もう帰るぞ」。そんな会話が聞こえる中、別の一団がボーイに促されて店内に入っていく。大きなドアが開いたとたんに、中からブラスバンドの音が漏れてきた。と、今の今まではしゃぎ回っていた正三が、突然黙りこくった。キャバレーと聞いた折に正三の頭に浮かんだのは、初めて東京の地を踏んだあの日のことだった。「生バンド演奏を聞きたいわ」。駅のホームに降り立ってすぐの、小夜子のことばを思い出した。あの日は、小夜子に振り回され続けた一日だった。腹立たしいはずの、屈辱的な一日だった。はずなのだ。しかしそれが正三の胸を甘酸っぱさで一杯にな...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十七)

  • 恨みます (三)

    「明日は久しぶりの晴天ですよ。梅雨のなか休み、といったところですね。みなさん、お洗濯、がんばりましょうね」昨夜のテレビ画面に、満面に笑みをたたえて女性天気予報士が誇らしげにでていた。ミニスカートでその美脚を見せてくると、ネットで騒がれている予報士だ。面長で目がパッチリ系の、かわいい女性だと評判になっている、らしい。「らしい」といういうのは、一樹の美意識には、かわいい系は存在しない。美人かそうでないか、二者択一なのだ。そして大半の女性たちが、美人ではないの部類に入ってしまう。だからといって、いわゆるブスだと思っているわけでもない。一樹にとっての女性は異性ではなく、お客さまという感覚が染みついてる。といっても、女性に対する無関心はいまに始まったことではないのだが。「くそが!はずれちまってるじゃねえか。こんや、土下座...恨みます(三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十六)

    「ここは日本国だ。アメリカ国じゃないんだ!日本のアクセントで良いんだ。なあ、上ちゃん」と、正三が援護する。いつもは泰然として、五三会の面々の話には割り込まない。その正三が、今夜ははしゃぎ回っている。顔を見合わせて不思議がる面々だが、そんな彼らを尻目に、「さあ、着いたぞ!キャバレー・ムーンライトだ。ぼくの大事な、薫さまは居るかな。八千草薫さまー!」と、杉田の嬌声が響いた。きらびやかなネオンの光に、星々の光も弱々しい。浮かんでいる月もまた、寂しげな色に見える。この星空の下で大勢の家族が生の営みをつづけている。三代、四代の大家族もいれば、親子三人四人の小さな家族がいる。ひとり暮らしの青年もいれば、夫婦二人だけの世帯も――そこに思いが至ったときに、正三の思考が停止した。夫婦二人――瞬時に小夜子が浮かび、少し遅れて武蔵が...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十六)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十五)

    杉田の先導で、きらびやかなネオンサインの下を歩いた。キョロキョロと辺りを見回す正三に、「坊ちゃん、まるでお上りさんですよ。恥ずかしいからやめてくださいよ」と、上本が正三の袖を引っ張った。「だって、初めていや二度目なんだぜ。ここが夜の銀座という所かい?いゃあ、凄いねえ。まったく別天地だ。日本復興のすさまじさを、確かに感じるね」上本の言などまるで意に介せずに、立ち止まってぐるりと見渡したりしている。「坊ちゃん、坊ちゃん。ほら、あそこで婦女子が笑っていますよ。あれれ、手なんか振り出した。ひょっとして知り合いですか?」小山の指差す先を見ると、正三たちに確かに手をふる女性がいる。「あれえ?誰だあ、彼女は。手招きしてるじゃないか、行かなくちゃならんのかな」と、車の行き交う中に飛び出さんばかりに正三が動いた。「おいおい、佐伯...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十四)

    「課長。局長への報告、済ませてきました」小柄な五十を数える杉田課長も、今では正三に頼りきっている。乱雑に積み上げられた書類の陰から、くぐもった声が返ってきた。「ありがとう、ご苦労さんでした。佐伯くんが行ってくれると助かるよ。本来ならあたしがご説明に行くべきなんだが、質問をされると困っちゃってね。結局、佐伯くんを呼ぶことになる。で、局長のひと声で佐伯くんになった。これからもよろしく頼むよ」「課長、今晩の予定は大丈夫ですね。ちょっと趣向を変えて、キャバレー辺りに繰り出そうかと思うんですが。お嫌いですか、そういった場所は」小声で正三が確認をする。“上司を手なづけるのも大事なことだ。飲み食いをしっかりさせて、お前のシンパにしておけ”とは、源之助のご託宣だ。「キャバレー?こりゃ意外だ。佐伯くんの口からそんな言葉を聞けると...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十四)

  • 恨みます (二)

    「5万円からとなっています」と受付で告げられたとき、「金はかかっていいから、とにかく早くきれいにしてくれ」と財布をとり出して数十枚の一万円札を見せた。ある意図を持ってのことだったが、受付の歯科助手には見せびらかしと受けとめられてしまった。「ご予約を」と告げられたが、割増料金を払ってもいいからすぐに頼みたいと、強引に押しきった。不遜な男だという情報がつたえられて、腫れ物にふれるようなお客さま扱いとなった。笑みを浮かべて接する衛生士だったが、ぎこちなさが一樹をいらだたせる。「フレンドリーな店だぞ。狙ってみろ」というアドバイスを受けて、肩に力が入っている一樹だった。獲物をねらう狼という印象をさけるための、裕福な家庭のお坊ちゃんという設定での一万円札の見せびらかしが裏目に出てしまった。一樹にしてみれば、自分の商売が詐欺...恨みます(二)

  • 恨みます (一)

    朝。「なんだよ、おい。話がちがうじゃないか!」曇り空を、恨めしそうに一樹が見上げている。「おれは、くもり空がいっちばんきらいなんだよ。晴れなら晴れ、雨なら雨って、はっきりしろよ。中途半端はよお、俺だけで十分なんだよ、まったく」洗面台に顔をつっこみながら、口いっぱいに泡だった歯磨き粉をはきだした。ガラガラとうがいをして、昨日にホワイトニングを施した白い歯を鏡のなかに映しだした。正面から見る、右横に顔をうごかして、左にまたうごかして見る。どの方向から見ても真っ白だ。大きく口をあけて下歯の裏がわをのぞいてみる。つづいて上歯の裏がわも。こちらも真っ白だ。「プロはちがうな」。高額な金額だったことにも納得ができた。「歯が汚いとお客がにげるぞ」との、先輩社員からのお小言にあわてて歯医者に飛び込んだ。「セルフの方が断然安いよ」...恨みます(一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十三)

    茂作にそしられた正三、小夜子に絶縁を宣告された正三だが、しかし落ち込んでいる暇はない。省内の廊下を歩く折には、必ず五三会の面々が後ろにつづいている。「佐伯さん、佐伯さん」いつものように背筋を伸ばして前を向き、すれ違う省内の者に対して慇懃な挨拶を返す正三を呼ぶ者がいる。「誰だ、あれは?」「M無線じゃないか?テレビジョン製造問題で、通産が揺れてるらしいじゃないか」大柄な体を小さくしてもみ手をしながら、男が正三に近づいてきた。深々とお辞儀をしてから「今晩、お時間を頂けませんか?ちょっと趣向を変えて、キャバレーなどいかがです?」と、にやけ顔でお伺いを立てた。「M無線さん。何だよ、そりゃ。そんな下世話な所に、坊ちゃんを連れて行くって言うのかい?」と、山田が言う。しかし「いや、案外面白いかもな?ドレス姿の女給というのも、い...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十二)

    「さ、小夜子、お前、まさか!」茂作の怒声が部屋にひびき渡った。まさかとは思いつつも、懐妊という二文字が頭の中で飛び回りはじめたのだ。「なに、考えてるの!ちがうわよ、ちがう!」手を振りながらふるえ気味の声で打ち消した。武蔵もまた茂作の心配事に気付き「だと良いんですが、それはないでしょう」と、否定した。ほっと安堵の表情を見せる茂作に、「おめでた、ということか?」と、繁蔵が小夜子の顔をのぞき込んだ。「だとしたら、めで、、」。「だから、ないんです」と、キッと睨み付けながら声をかぶせた。「おっと、いかんいかん。それではわたしはこれで。今日中に戻らなければならんのです。明日、約束があるものですから。小夜子は、泊まっていけ。二、三日ゆっくりしてから戻ってこい」武蔵が身体を起こすと、「いや、一緒にかえる」と、その袖をつかんだ。...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十二)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十一)

    母親の位牌の前で手を合わせる小夜子の耳に「良かったね、小夜子。幸せになるのですよ」と、そんな声が聞こえた気がした。「お母さん、あたしはお母さんのようにはならないわ。きっと幸せになってみせる、あたしを見守っていてね」目を閉じて母を思い浮かべると、床に就いている姿がある。青白い顔色の澄江が、精一杯の笑顔で小夜子を見ている。しかし小夜子が澄江の傍に近づこうとすると、きまって「だめ!お部屋に入ってはいけません」と、か細いながらも強い声が飛ぶ。「小夜子、大丈夫か?入るぞ、俺にも挨拶をさせてくれ」と、武蔵の声がかぶった。「いいわよ、入って」。ほほを伝った涙の筋をハンカチでおさえてから答えた。小夜子の隣に座ると、両の手を合わせて「御手洗武蔵と申します。小夜子を伴侶として迎える男でございます。どうぞ、お見知りおきください」と、...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十一)

  • [毎日が日曜日]

    若い頃は寿命なんて考えたこともなかったんです。いつまでも未来があると考えていた気がします。結婚生活は諸々の制約を受けながらも、その空気感を愉しんだはずです。遅めの子どもを授かり、家庭団らんという、正直のところ味わったことのないふんわり感は楽しかったし、そしてまた窮屈でもありました。けれど、二十年間ほどで結婚生活にピリオドを打つことになっちゃって。独りになって自由気ままな生活はありがたいなんて、強がりもしたんですけどね。65歳になって突然に活動的になりました。2014年10月、高校時代の友との三人旅が始まりでしたなあ。回春旅行だなんて、盛り上がりましたよ(わたしだけでしたかね、そう思ったのは)。そしてその年の12月に出雲大社に出かけて、それ以来あちこちの神社仏閣巡り・美術館巡りやらにのめりこんだということです。三...[毎日が日曜日]

  • 次回作のこと

    ボク、みつけたよ!を終えさせたことによる、ロス状態に陥っています。書き終えたのが2月28日でした。ある文学賞向けに急ピッチで仕上げたものですから、疲れています。当初は応募作品にするつもりはありませんでした。数年にわたり応募したこともあり(敢えなく撃沈です)「参加しませんか」メールが届いたものですから、「こりゃ応募しなくちゃ」なんて義務感みたいものが湧いてきちゃいまして。ねえ、別に義理立てする必要はないんですけどね。以前ほど応募に対する意欲もありませんし、年齢的なことを考えると商業的観点から難しいのかなとも思いますし。でもまあ宝くじと同じで、参加しなくちゃ先は絶対にないわけですし。ということで、次回作について迷いに迷いましたが、これまた中断してしまった[恨みます]を仕上げようかと思い立ちました。この作品は、疑似恋...次回作のこと

  • ボク、みつけたよ! (五十七)

    「あんた、だれ?」呆然と立ちつくすあなたでした。快感でしたよ、それは。じつに、愉快だ。おおごえで笑いたい……。でも、引きつった表情のあなたを見たとたん、背筋になにか冷たいものが流れた気がしました。ぞみぞみと背中が波打ち、お腹がゴロゴロとゆるくなり、のどが干からびていく。「いまさら……」。そう言ったつもりが、「なんだよ、いまごろ」とことばが変わっていました。がっくりとひざを落としたあなたは、「としちゃん、としちゃん」と、嗚咽のなかにわたしの名前を呼びました。初めてじゃないですか、わたしを名前で呼んだのは。いつも「ボクちゃん、ボクちゃん」としか呼ばなかったあなたが、初めて名前で呼んだ、呼んでくれた。ボタボタと大粒の涙をこぼしながら、なんどもなんども「ごめんね、ごめんね」と。そうなんだ、そうだったんだ。あなたがわたし...ボク、みつけたよ!(五十七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十)

    「茂作、そうなのか?そんな話が持ち上がっていたのか?それで、正三との話をご破算にしたのか?なんで言うてくれんのじゃ、そんな大事なことを。お前ひとりで、どうするつもりじゃった!」思いもかけぬ話に、繁蔵が茂作を問い詰めた。「別に本家の世話になるつもりはなかったですけ」。冷たく言い放つ茂作に、次の言葉が出ない繁蔵だ。「ところが、その話が頓挫してしまいまして」「はあはあ、そうでしょうとも。そんな夢物語りみたいなこと、あるわけがないでしょう」得心したように助役は頷くが、繁蔵は不機嫌な色を隠さない。そして茂作は俯いたままで、ひとり武蔵だけが、嬉々として語った。三人に話すと言うよりは、事の顛末を思い起こす―己に言い聞かせるようだった。「いやいや頓挫といっても、ある意味不可抗力なんです。いや別の角度からすると、遅すぎたとも言え...水たまりの中の青空~第二部~(二百二十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十九)

    ひとり合点する武蔵、しかし茂作にはいまいましく聞こえる。“ふん。なんで、わしが行かにゃならん!娘婿が来るのが当然じゃろうが。仕事が忙しいからと、舅をないがしろにするような男なんぞ!まあいい、こんな男に会いたいとも思わん。しっかりと金を稼いでくれればいいさ”憤慨する茂作だったが、“我ながらいい口実を作ったもんだ。小夜子を実家に帰らせれば爺さんも喜ぶし。俺もまた、命の洗濯としゃれこむこともできる。こいつは一挙両得の妙案じゃないか”と、武蔵に浮気心がむくむくと起き上がってくる。つい、不遜な笑みをつい洩らしてしまった。「小夜子、どうした?お前、泣いているのか?初めて見たぞ、お前の涙なぞ。感の強い娘じゃとおはばさまがおっしゃられていたが」と、涙をこぼす小夜子に声をかけた。「そりゃ、泣けてもくるじゃろう。好いた殿御と結ばれ...水たまりの中の青空~第二部~(二百十九)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十八)

    “えっ?なんのことなの!あたし、そんなこと話してないわ。寄付って、どういうこと?”思いもかけぬ寄付の話に、思わず武蔵の顔を見やった。「いやいや、そうでしたか。村長選のことは知りませんでした。小夜子が生まれ育った地です。感謝の意味を込めてのことでしたが。そりゃいい、結構なことでした。加藤という男がGHQの中にコネを持っています。お困りのことが起きましたら、どうぞ遠慮なく。お義父さんからご連絡もらえましたら、すぐに対処させます」あくまで茂作を前面に押し立てる武蔵に、引きつった笑顔で感謝の言葉を述べる二人だった。「ほうほう。有難いお言葉をありがとうございます。中央にコネが有る無しでは、えらい違いですで」「ほんに、ほんに。村長は佐伯家を後ろ盾にしとりまして、源之助という官吏を使っておりまして」「ああ、逓信省の保険局の局...水たまりの中の青空~第二部~(二百十八)

  • ボク、みつけたよ! (五十六)

    結局は手っとり早く収入を得るためにと、母が夜の商売に身を投じました。父は昼間にも仕事をし、夜は夜とて皿洗いのバイトに時間をついやしました。母の迎えをかねてのことだったようです。ですので、わたしたち兄弟はふたりだけで夜を過ごすことになり、ますます母とのつながりがうすくなりました。そうそう、思い出でした。父がよく映画館に連れて行ってくれました。そのおりはわたしだけで、兄は留守番――というより、中学3年生でしたから受験勉強にはげんでいたのでしょう。その甲斐あって、岐阜県でも一番の進学校に入学できましたから。ああそういえば、ひとつだけ母との思い出がありました。虫歯です。歯のいたみにたえかねて、なんどもなんども歯ブラシでゴシゴシとしました。そんなことで痛みが収まるはずもありません。ですが、なにかしていなければたえられませ...ボク、みつけたよ!(五十六)

  • ボク、みつけたよ! (五十五)

    ああ、もうひとりいました。ちえちゃんです。店の売り子さんで、熊本だったっけから来ている15、6歳のむすめさんです。住み込みでいるんですが、父も母も実の娘のように大事にしています。ちえちゃんなんか、はしるのがおそいようです。どんどん離れていきます。まああんな風にドタバタとはしっていては、だめでしょう。父の弟さんだったっけ、呉服屋さんなんですがね。あんまり仲が良くはないんですが、なにごとかとそとに飛びだしてこられました。そりゃそうでしょ。血だらけの幼児をかかえて、兄嫁がはしっていくんですから。「どうした!なにがあった!」怒鳴る声がきこえますが、もちろん母はなにも言わずに離れます。となりのおじさんが立ち止まって、事の経緯を説明しているみたいです。ちえちゃんがやっとおじさんに追いついて、「もうだめ、おじさん行って」と頼...ボク、みつけたよ!(五十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十七)

    繁蔵と助役の出現に、“よし、決まりだ!”と武蔵がほくそえむ。そして“なんで、今ごろ!”と苦虫をかむ表情の茂作がいた。「もう日取りは、決まったかいの?」と、助役がにこやかに話しかけると、続けて「お婆さまが、本家で宴をやればいいと言うてくださっとるぞ」と、繁蔵が告げた。「み、御手洗さん。どうなさったんで?なんで土下座みたいな真似を。茂作、やめてもらわんかい!」床に頭をこすりつけている武蔵を見て、繁蔵が茂作をにらみ付けた。「もういい、頭を上げてくれ。わかった、わかったわ。小夜子も納得してのことじゃろう。もういい、わしはなんも言わんぞ」武蔵の時代がかった芝居に付き合わされた茂作こそ、いい面の皮だ。「そりゃいい、そりゃいい。御手洗社長。先ずもって、村を代表してお祝いを申し上げます。おめでとうございます。茂作さん、いいお婿...水たまりの中の青空~第二部~(二百十七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十五)

    「村長、わたしがお供しますわ」ここぞとばかりに、助役が手を上げた。別段、役場の人間がしゃしゃり出ることでもない。「おうおう、そうしてもらおう。助役さん、それじゃ車を出してくれるか?」と、繁蔵が呼応する。「山田くん、すぐ車を回すように」眉間にしわを寄せる村長を後に、二台の車が走る。「助役の奴、でしゃばりが過ぎる」。はき捨てるように呟くと、固まっている職員たちを怒鳴りつけて部屋にもどっていった。「いいわねえ、玉の輿こしね」「ほんとよね。言っちゃなんだけど、正三さんも勝てないわよ」「それにしても、都会に行くとあんなに変わるものなのかしら」小夜子の幼なじみである二人の事務員が、大きくため息を吐いて、席に戻った。「元がちがうよ、元が」。一人が小声で呟くと、「姫と侍女みたいなもんだったからな」と、すぐに同調する声がとんだ。...水たまりの中の青空~第二部~(二百十五)

  • ボク、みつけたよ! (五十四)

    やっと包帯もとれて前歯のはりがねも外され、なんとか声を出すことができるようになったときのことです。病室で母に事故の話をしました。いやがる母でしたが、「ボク、鼻からジゴがでてたよね。いっぱい、たくさん」というわたしのことばに血相を変えて「誰に聞いたの!」と叱られました。そのあまりの剣幕に、わたしの目からどっとなみだがあふれ出て「ごめんなさい、ごめんなさい」としゃくり上げたんです。すぐさま母もキツイ言い方だったと気づき、ほほのなみだを拭いてくれながらあやまってくれました。「だれにきいたの、そんなこと。そんなことはなかったわよ」。こんどは、やさしく言って聞かせるような口調でしたが、わたしは見ていたんです。母は化粧パックの途中だったらしく、目の下と鼻の横、そして口元に少しパックが残っていたのをおぼえていました。パックは...ボク、みつけたよ!(五十四)

  • ボク、みつけたよ! (五十三)

    あまりこういうことばは使いたくないのですが、正真正銘の「九死に一生を得た」という事例です。幼稚園の年中だったか年長だったかの、大事故です。真っ青な空にぷかりぷかりと浮かぶ白い雲が、二つ三つほどありましたかね。孫悟空みたいに、きん斗雲に乗ってみたくて、精いっぱいの力をつかって舞い上がったんです。別府温泉の地獄めぐりでのことは、おぼえていてくださいますか?血の池地獄へと向かうおりにお話しした、あの浮遊術は、じつはこのときが始まりなんです。その途中でした。電線にひっかかっちゃって、下を見たんです。そこには、十円玉をにぎりしめて向かい側にある洋菓子店にかけ出しているわたしがいました。その洋菓子店は、カステラの切れ端ばかりが入った袋を、なん十円かで分けてくれるお店なんです。すぐに売り切れちゃいます。お店に「切れ端袋できま...ボク、みつけたよ!(五十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十四)

    繁蔵が役場を出ると、タクシー運転手が「あのお、すみませんが……」と、声をかけてきた。後ろからは村長の声が聞こえてきている。早くこの場を去りたい繁蔵としては迷惑な声かけだった。富雄に対して、お前が聞けとばかりに顎をしゃくり上げた。「竹田茂作さんのお宅は、どちらになりますか?」。思いも寄らぬ名前が繁蔵の耳に入った。茂作じゃと?まさか、さっきのタクシーなのか?この村に、一日の内に二台のタクシーが来ることなど、確かにありえぬことではある。運転手によると、小夜子は車酔いが収まらず、あっちだこっちだと指さすがその先に民家がないと嘆いた。少し離れた場所にある民家に声をかけるが、あいにくと誰もおらず確認がとれない。困りはてた運転手が「役場までもどっていいでしょうか」と、武蔵にお伺いをかけた。今日は終日貸し切りなので、賃走ではな...水たまりの中の青空~第二部~(二百十四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十三)

    久しぶりに車中から見る田畑、そして車中に流れ込む雑多な匂い。懐かしさを感じる前に、嫌悪感を覚える小夜子だった。「どうした?」駅を降りてタクシーに乗り込んでから寡黙になってしまった。心なしか、顔も青ざめている。「酔ったのか?道が悪いからなぁ。運転手さん、停めてくれ。外で空気を吸わせよう」「いや!このまま行って!」。小夜子の金切り声が車中に響いた。「分かった、分かった。それじゃこのまま行こう。運転手さん、少し速度を落としてくれ。ゆっくり走ってくれ」これほどに取り乱す小夜子を武蔵は知らない。金切り声などはじめて聞く。今にも泣き出しそうな空の下、役場の前をタクシーがゆっくりと過ぎた。「あっ!だんなさん、だんなさん」。大きく目を見開いた若い男が、茂作の兄である繁蔵の着物の袖を引っ張った。「なんじゃ、びっくりするじゃろうが...水たまりの中の青空~第二部~(二百十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十二)

    しかし嬉々とした表情を見せる武蔵――はじめて見る屈託のない笑顔の武蔵に、小夜子もまた嬉しくなってくる。ワイシャツの袖をまくり上げて、ふーふーと熱い中華そばをかけ込んでいる。「中華そばってのはな、上品に食べたんじゃ、ちっともうまくないぞ。こうやって、ずーずーと吸い込むんだ。このスープが飛び散るくらいに勢いよくだ。小夜子もやってみろ、くせになるぞ」一本二本を口に入れていたのでは、おいしいとは感じない。不満げな表情を見せている小夜子に、武蔵の指南が飛んだ。周りを見ても、皆が皆ずーずーと音を立てている。いかにもうまそうに食べる武蔵に、額に汗をふきだしながら食べる武蔵に、憎らしささえ感じてくる。「どうした?食べさせてやろうか、小夜子」。突然に小夜子のとなりに移ってきた。「いいわよ、食べるから」。もう子供じゃないの!と言わ...水たまりの中の青空~第二部~(二百十二)

  • ボク、みつけたよ! (五十二)

    伊万里小を出てから、まだ初詣でに出かけていないことを思い出しました。いつもは大晦日に大きな有名神社に出かけています。そして大体新年2日に、岐阜市の金神社(こがねじんじゃと読みます。)を参拝です。その名の通りに商売繁盛の神さまですが、慈悲深き母の神さまとしても鎮座されているんです。今回は小晦日の30日に出発していますが、まだどこの神社にも参拝していません。大丈夫です、神さまは意地悪をなさいません。1月いっぱいの初詣でも許していただけるということのようですから。ということで、伊万里神社に参拝させていただきます。おそらくは幼児のおりに参拝していると思うのですよ。伊万里川沿いに東へ走ります。どうしてなのか、親不孝通りと名打たれていて幸橋ちかくに、伊万里神社はありました。急な階段がつづき、ハアハアと息を切らしながら手すり...ボク、みつけたよ!(五十二)

  • ボク、みつけたよ! (五十一)

    ピッカピッカの一年生として入学したのは、どこだったんだろう。大分県の佐伯市だったはずなんです。でも、学校の名前が浮かばないんです。それよりもなによりも、通学した記憶がまるでないんです。これは大問題ですぞ、ほんとに。頭の中のひきだしをあちこち開けてみますが、なかなかに。片っ端から開けていくうちに、なにやらうっすらと浮かんできたことが。学校とは関係のないシーンなのですが、辺りが暗く街灯の付いていた道路わきの屋台に。たぶん佐伯市だとおもうのですけれども、駅舎近くでした。ラーメンをすすったような、すすってないような。親父に食べさせてもらったような、やっぱり自分で食べたような。ただ不思議なことに、その場には母も兄もいないんです。父とわたしのふたりだけでして。おかしいですよ、これは。実のところは、いたと思います、というより...ボク、みつけたよ!(五十一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十一)

    「う、うーん。タケゾー、タケゾー!」となりに居たはずの武蔵がいないことに、声を大きくして呼んだ、叫んだ。手にグラスを持って小夜子を振り返る武蔵が目に入った時、小夜子の胸の奥底をぐっと締めつけるものがあった。「小夜子。どうだ、中華そばを食べに行かんか?若いもんたちが食べたらしいんだが、美味いと言ってる」「行く、行く。おいしいもの、食べたい。お腹へっちゃった。お昼、食べそこねちゃったの。着替えてくるね」小間物を並べている店の横に、間口が二間ほどで奥行きが五間ほどの縦長な小屋のようなものがあった。元々は倉庫として使っていたのだが、小間物店の次男が始めたと、武蔵は聞いている。三人組の一人である山田が常連になっている食堂だ。土間を利用しての店の造りに、顔をのぞかせただけできびすを返す客もいる。「店はきたないですが、味は絶...水たまりの中の青空~第二部~(二百十一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百十)

    その怒りの矛先が、いま武蔵に向けられている。「そうか、悪かった。俺が悪かったよ、小夜子。そうか、小夜子の夢をうばったのは俺だったのか。心配するな、な、小夜子」幼子を抱え込むように、あやすように、ゆっくりと武蔵が語りかける。「どうだ、アメリカに行こうじゃないか。すぐにと言うわけにはいかんが、アナスターシアのお墓参りに行こう。それで、アナスターシアに報告しよう」「ほんとに?ほんとに、連れて行ってくれる?」涙でくしゃのくしゃの顔を上げる小夜子。うんうんと頷く武蔵。ぼんやりとした月明かりの中、ゆっくりと武蔵の胸にしずむ小夜子だった。一時間ほど経ったろうか、小夜子がすやすやと軽い寝息をたてはじめた。そっと小夜子の体をはずし、ソファに横たえさせた。ひじ掛けに頭をのせて、満足げに微笑んでいる小夜子の寝顔をのぞきこんだ。“ふん...水たまりの中の青空~第二部~(二百十)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百九)

    「どうしたんだ、灯りも点けずに。寝てたのか、このソファは良いだろう?このひじ掛けを枕にして眠ると、良く眠れるんだ。俺もよく眠るぞ。そうだろ?小夜子にいつも起こされているよな」饒舌な武蔵に対し、唇を真一文字に結んだままの小夜子が、一点を凝視して身動きひとつしない。灯りを点けると、出かけたままの洋装姿だ。帰宅時には着替えるのが常の、小夜子なのにだ。「どうしたんだ?正三くんには会えただろう?喧嘩でもしたのか、それとも変わってしまった正三くんに、驚いたのか?まあ男というのは、三日会わないとと変わるものだからな。まして、官吏さまとなると、いろいろあるだ、、、」「タケゾー!タケゾーのせいよ!タケゾーのせいで、わたしの人生は無茶苦茶よ。あの人は、正三さんじゃない!わたしの正三さんじゃない。別人よ、他人よ。タケゾーのせいよ、タ...水たまりの中の青空~第二部~(二百九)

  • ボク、みつけたよ! (五十)

    伊万里駅から北に延びる伊万里大通りを走ると、伊万里川があります。相生橋の欄干端にある親柱に、少しくすんでいますが本来は派手派手しい彩色の伊万里焼の陶器ががすえられています。橋をわたりさらにすすむと、右手に時計台がありました。伊万里市立伊万里小学校の看板です。平成元年度卒業記念、とあります。バブリーですねえ、時計台とは。さあ、この坂を上がると学校に着くようです。校門前に着き、校内の駐車場に車を停車しました。が、まだ気付かずです。車から降りてコンクリートの校舎を眺めても、正直、感慨の念は湧きません。もう60年の以上が流れて、木造だったはずの校舎が立派なコンクリート製に建て替えられているのですからねえ。まったく、見覚えがありません。「こんなに立派な建物になったのか……」。これは、回った全ての小学校に共通した感情です。...ボク、みつけたよ!(五十)

  • ボク、みつけたよ! (四十九)

    思春期に注がれなかった――と感じている家族愛を、自分で自分にたっぷりとふり注いでいるんです。宿をビジネスホテルにしているのも、できるだけマイカーによる移動にしているのも、節約のためです。疲れますよ、そりゃ。東京のような大都会に出向く場合には夜行の高速バスをつかいますしね。新幹線等をつかっての移動のほうが、そりゃ楽ですよ。とにかく移動やら休息に関しては、ケチケチです。収入が少ないですから、本来はそんなには旅行なんて出かけられません。ですので日々の遣いを節約して、旅行費用に充てているわけです。「お大尽はちがうねえ」。会社の同僚やらお隣さんたちから言われますが「いま愉しまなくちゃ、いつ愉しむの」と、ことばを返しています。刹那主義?かもしれませんね。ですが「あと何年うごける?」と、よく自問自答しているんです。おそらくは...ボク、みつけたよ!(四十九)

  • I have a Dream!

    ”IhaveaDream!”良いことばですねえ。「わたしには夢があります」。故ルーサー・キング牧師の演説からの引用だそうですが、ウクライナ大統領であるゼレンスキー氏には、ただただ感服するばかりです。そしてウクライナ国民のみなさんの、祖国に対する思いにも、です。「子どもたちには戦争を見せたくない」。ウクライナ国民としての思いが、そのことばの中にしっかりと聞きとれる気がします。返すことばが見つかりません。無邪気に遊ぶ「こどもたちに幸あれ」。こんなエールしか送れません。そして、「わたしには、夢があります」。昨年に、親友を失いました。「おまえより先に逝くとは思わなかった」。余命宣告を受けての、彼のことばです。コロナ禍のもとでは、入院中の彼を見舞うこともできず、でした。退院後に電話で会話した折りには、明らかに生気がみなぎ...IhaveaDream!

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百八)

    「小夜子ー、帰ったぞ!どうだった?元気にしていたか、正三くんは。つもる話もあったろうが、故郷の話に花が咲いたか?小夜子、小夜子ー、いないのかー」矢継ぎ早に声を上げるのは、小夜子の反応が気になっているからだ。早く小夜子に聞きたい気持ちとともに、先延ばしにしたいという気持ちもある。そんな相反する思いが錯綜するなか、大声を張り上げつづけた。大きな門灯が武蔵を出迎えた。そして玄関の灯りは、煌々と点いている。廊下もまた明るい。しかし居間に客間、そして台所の灯りは点いていない。そして奥からは、なんの返事もない。階段下から二階をのぞきこんでみるが、ぴっちりと襖が閉じられている。どかどかと大きな音を立てて、階段を上がった。その足音に小さなふくみ笑いが返ってくるのが常なのに、今夜は声がない。“まさか……”背筋を冷水が滑り落ちた気...水たまりの中の青空~第二部~(二百八)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百七)

    しかし床が用意された部屋に入ったとたん、正三の意識が一変した。「ぼ、ぼくは、小夜子さんひとすじ決めている」と、身体を固くした。「ほらほら。なにごとも、お勉強ですよ。すべての殿方は、みなさんお勉強をされてから事にのぞむものですよ」芸者の言葉に真実味を感じてしまった。小夜子との初接吻。いきなりとはいえ、体が硬直してしまった。あのおりのことが、小夜子と正三との主従を決定づけたんだと考えた。呆れる芸者をしり目に、正三が脱いだ服をたたんでいく。「早くいらっしゃいな」と急かす芸者に、「明日の出勤に着ていかなければならんから」と、言い張る正三だった。「ふふふ、照れ屋さんなのね」。芸者の妖艶な声が、いま、はっきりと思いだされた。小夜子にきつくなじられる正三――逓信省に入省以来、源之助以外にはない。皆が皆、正三にかしずいている。...水たまりの中の青空~第二部~(二百七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百六)

    目を伏せて、テーブルの一点をみつめてはなす正三に、小夜子から三の矢が射られた。「男らしくありませんことよ!」「違います、違います。ほんとうに正気ではなかったのです。ですから、ですから……、けっして小夜子さんを裏ぎってはいません」正三の必死のさけび、それは小夜子の許しを請うというよりは、己に対する言いわけだ。“ぼくは悪くない、酩酊状態のぼくになにができるというのか。芸者と情交をかわしたかどうかすら、怪しいものだ。いや仮にだ、仮にそうだとしても。かたわらにあった物体を抱いてねたというにすぎない”執拗に否定する正三だが、しづのところ、少しずつ記憶が蘇ってきている。あれこれと世話をする芸者に対して、不遜な態度をとりつづけたことを思いだしている。連れの二人を残して、芸者にうながされるままに席をたった。「さーさ、行きましょ...水たまりの中の青空~第二部~(二百六)

  • ボク、みつけたよ! (四十八)

    疲れました、今日は。あちこち歩き回りすぎたかもしれません。って、変なの?別府での地獄巡りやら吉野ヶ里遺跡公園なんかも、けっこう歩いたんですよね。今日の方が、距離からすると少ないです。きのうの疲れがのこってる?否定はしませんが、でもねえ。たぶん、もろもろのことを思い出すうちに、こころが疲れたんですよ。ということで、早めにホテルに入ることに。わたしの生地である伊万里市のビジネスホテルです。基本的に宿はビジネスホテルと決めています。なんといっても安いですから。それに昔とちがって、ホテル側もビジネス客のみとは考えていませんからね。あれは東京でしたかね、大挙した観光目当てのグループとはち合わせしましたから。朝の食事どきだったんですが、どっと入ってきて大変でした。どちらかといえば小さめの場所でしてね、テーブル席が……10い...ボク、みつけたよ!(四十八)

  • ボク、みつけたよ! (四十七)

    翌日に、父にはないしょで母のもとにいきました。前夜しこたま叱られた兄が、もうおまえの相手はしてられんとばかりに、母親に投げたわけです。うち沈んだ表情をみせる母親にたいして「かあちゃん、ズルイぞ。じぶんだけたべて!」と、部屋にはいるなり、なじりました。甘いにおいが充満していたのです。なつかしいにおいでしたが、すぐにはそれが何なのかを思い出すことはできませんでした。きょろきょろと部屋をながめますが、わかりません。そのにおいをかもし出すお花があるわけでもありませんし、果物があるわけでもありません。そこは殺風景な部屋で、真っしろなかべが印象的でした。ベッドの横にいすがひとつと、小さな正方形の台があるだけです。そしてその台の上にあるのは、水差しだけです。くすりを飲むおりにつかうのでしょうが、ひょっとしてその水がにおいの正...ボク、みつけたよ!(四十七)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百五)

    二の矢がきた。正三が必死のいいわけをする。「えっ?!そ、それは……。いえいえ、ぼくとしましても。役所というのは文書によってうごくものでして。その、実体のない情のようなものでは、だめなのです。なにごとも前例によって事がすすみます。上にお伺いをたてて、その許可なり了解がないものはだめなのです。がんじがらめの状態なのです。どうぞ、ぼくの立場をおわかりください。ぼくの心のなかでは、小夜子さんは身内です。生涯の伴侶とおもっておりました。しかし、法律上では他人なのです。戸籍に載っていないことには、身内としてみとめてもらえないのです。ぼくとしましても、どれほどに連絡をとりたかったことか。しかし許されない行為なのですよ。ぼくの苦衷も、どうぞお察しください」ハンカチで額の汗をぬぐいながらの、正三の精いっぱいの弁解だった。しかし小...水たまりの中の青空~第二部~(二百五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百四)

    じっと黙したまま、正三のことばを聞きつづけた小夜子。蝶ネクタイ姿の正三をまのあたりにして、三年という歳月がみじかいものではないことを知らされた。口べたで、おのれの思うところの半分、いや十分の一も語れなかったはずの正三。ときとして口ごももってしまい、うつむいてしまう正三だった。しかしそれでも、意図することは伝わってきた。“違う、けっして違う。この男性は、正三さんではない”いまそれぞれに、たがいの知る相手ではないと感じた。小夜子、正三ともに、たがいが思うふたりとはまったく異質なふたり人になったと気づいた。「すてきな殿方だこと、ほれぼれしてしまうわ」「ご令嬢もうつくしいわ、うっとりしそうよ」「ほんとにお似合いのおふたりだこと」「ほんとに。美男美女とは、このおふたりのことね」そこかしこからもれる、ため息と賛辞。ふたりの...水たまりの中の青空~第二部~(二百四)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百三)

    昨夜のことだ。屈託なくわらう武蔵に、小夜子は頬をふくらませる。“どうしてなの?不安に思ってないの?正三さんに気持ちがうつるとは考えないの?”「御手洗小夜子だ、と言えばいい。ロビーに、佐伯正三が待っているはずだ。すこし話をして、それから食事しろ。窓ぎわの席を用意させておく。ゆっくりと話をしていこい」「ホテルだなんて、なにを考えているの」「食事のためさ。いつものステーキの店はだめだ。あそこは、俺と小夜子のためだけの店だからな」いま、対峙する二人。やくそくの接吻から、はや三年ほどが経っている。そして今、やっとの再会だ。喜びに打ち震える正三に対し、小夜子の高ぶりは、意外なほどにおだやかなものだった。「本当に申し訳ありませんでした。すぐにも連絡をとりたかったのですが、連絡先がふめいで。あとから分かったのですが、手紙をかく...水たまりの中の青空~第二部~(二百三)

  • ボク、みつけたよ! (四十六)

    海水浴場に着きました。ええっ!ここが?まるで様がわりわりです。防風林のあいだを国道がはしっているのですが、そこは記憶とおなじです。ちがうのは、海岸までの距離です。まるでせまい。いくら幼児のころだったから大きく感じたとしても、こんなにちっちゃな砂浜じゃなかったのに。第一、海の家がないんです。いや、それを設置するスペースがないんです。それに、砂浜にあった散髪屋がない!野球中継で大騒ぎしていた大人たちがいたのに。八百屋がないと、スイカが買えないじゃないか!それにそれに、あの岩山はどこ?トンボロ現象で、干潮時に岩山までの道がうまれたはずですぞ。ここじゃなかったのか、でもここしか考えられないんです。兄がそういったのだから。兄がまちがえるはずはないんです。話をつづけましょう。病院、いや診療所だったでしょうか。母が入院してい...ボク、みつけたよ!(四十六)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百九)

    「どうしたんだ、灯りも点けずに。寝てたのか、このソファは良いだろう?このひじ掛けを枕にして眠ると、良く眠れるんだ。俺もよく眠るぞ。そうだろ?小夜子にいつも起こされているよな」饒舌な武蔵に対し、唇を真一文字に結んだままの小夜子が、一点を凝視して身動きひとつしない。灯りを点けると、出かけたままの洋装姿だ。帰宅時には着替えるのが常の、小夜子なのにだ。「どうしたんだ?正三くんには会えただろう?喧嘩でもしたのか、それとも変わってしまった正三くんに、驚いたのか?まあ男というのは、三日会わないとと変わるものだからな。まして、官吏さまとなると、いろいろあるだ、、、」「タケゾー!タケゾーのせいよ!タケゾーのせいで、わたしの人生は無茶苦茶よ。あの人は、正三さんじゃない!わたしの正三さんじゃない。別人よ、他人よ。タケゾーのせいよ、タ...水たまりの中の青空~第二部~(二百九)

  • ボク、みつけたよ! (四十五)

    昭和33年でした。わたし、9歳です。小学3年生です。ミスターこと長嶋茂雄さんがプロデビューされた年です。母を講師とした「お化粧教室」なる企画で、あちこち田舎をまわりました。夏休みに女子中学生をあつめての、お化粧の仕方を教えるといったものです。九州の片田舎のことですから、ほっぺの赤い純朴ないなか娘ばかりです。もうねえ、大騒ぎのはずです。うれし恥ずかし、そうじゃないですかね。そこにわたしも連れられていったんです。と、記憶しています。まあねえ、9歳の子どもです。じっとしていろというのが無理な話でしょ?そこでとんでもないことを、しでかしたんです。教室ですから、教壇があります。本来は中央には教卓があるのですが、確か横にずらしていたとおもいます。お化粧をする女子生徒を、中央にすえた椅子に座らせてのことだったはずですから。当...ボク、みつけたよ!(四十五)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二)

    小夜子さんは、アナスターシアとか言うモデルでしょうな。それまで無理をしていたと思いますよ。砂上の楼閣でしたでしょう。いつくずれるとも分からぬ、ですな。必死の演技でしたでしょう。それを、アナスターシアというモデルによって、演技ではなくなった。いや演技をする必要がなくなった。これは大きい。よろいを身にまとう必要がなくなったんですから。ところが、突然の死だ。ふわふわの状態に逆戻りだ。大きな船から、大海原に落ちたもどうぜんだ。飛行機からジャングルの中に落ちたもどうぜんです。全身から針を出している、やまあらしですよ。そんな折に、白馬の騎士だ。御手洗武蔵と言う、ね。ところが、今まで邪険にしてきている。ほいほい貢いでくれる男ぐらいにしか考えていなかった」五平の長口舌のあいだ、聞いているのかいないのかわからぬふうの武蔵。“いい...水たまりの中の青空~第二部~(二百二)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百一)

    「頼まれてくれ、五平。佐伯正三という男にれんらくをとってくれ。小夜子にあわせる」腹の底からしぼりだすような、重い声だった。沈痛な面持ちの武蔵から、思いもかけぬことばがでた。「社、社長。どういうことです、そりゃ」ひっくり返った声で、五平が言う。伏せられた武蔵の目を追いかけてのぞき込んだ。「いいんだ、いいんだ。いまのままじゃ埒があかんのだ。小夜子の中から、消さなきゃならん。小夜子の時間は、まだ止まっているみたいだ。普段の生活ぶりから、もうふっ切れていると思っていたが、まだこね切れていないみたいだ」キッと、五平の目を見すえる武蔵。腹をくくったときの武蔵の射るような目が、五平にそそがれた。こうなると、なにを言っても武蔵の意思はかわらない。己に不利な状況に追いこまれようとも、かえはしない。「そうですか。まだたち切れていな...水たまりの中の青空~第二部~(二百一)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百)

    いや武蔵ばかりではない、実のところは小夜子にも分からないのだ。いや、ひとつは分かっている。正三に対する不実さを認めたくないのだ。しかしそれだけではない。まだ他のなにかが小夜子を苦しめている。武蔵に、処女を与えてしまった。いくら新時代の女を自認する小夜子といえども、肌を許すことの重大さは認識している。いまさら他の男に嫁ぐことできない。それは分かっている。しかしそれでも正三の元に飛び込むかもしれない。世間の聞こえを気にする小夜子ではない。“こんなに世話になったんだもの、仕方のないことよ。それに、お父さんの借金まで肩代わりしてくれてたんだし。それに正三さんなら何も言わないわよ。許してくれるわ、きっと”「約束する、小夜子。不自由な思いは絶対にさせんから。もちろん茂作さんにもだ。な、だから俺の嫁さんになれ。アメリカさん相...水たまりの中の青空~第二部~(二百)

  • ボク、みつけたよ! (四十四)

    一月二日です。いよいよ物語りも佳境に入りますので。今日の予定では長崎のオランダ商館に行ってみようかと思っているんですが、その前にどうしても立ち寄りたい場所があるんです。虹ノ松原海水浴場、佐賀県の唐津湾なんですけどね。小学二年生ぐらいじゃないかと思うんですが。夏休みのあいだ中、その海水浴場に滞在しました。といって、別荘があるとかそういったことじゃないですよ。海の家の一角を借り切ってのことです。両親はそこを拠点にして、あちこちに商売で出かけていました。実はこれからお話しするのは、その折のことだったかどうかはっきりしません。場所もどこだったかまったくわからない、ある学校でのことです。最近では聞きませんが、わたしが中学を卒業する前にある講座が開かれました。実際に料理が出たかどうかまでは記憶にないのですが、マナー教室とい...ボク、みつけたよ!(四十四)

  • ボク、みつけたよ! (四十三)

    「男の沽券に関わる」と、男の美学から口にしないという逃げ口上を考えちゃうんです。でも実のところは修羅場になるのがいやなわけで、怖いわけです。いままで、誰にもいつのときでも、本音を吐露したことがないわたしです。どんなに辛辣なことばを投げつけられても、体をかわしつづけてきちゃったんです。まともに反論することはありませんでした。おのれに非がないと思っていても「面目ない」とばかりに頭を下げてしまうんです。それで収まるならいいじゃないか、とばかりに。言い訳をしないことが男の美学だとばかりに応じてきました。「男らしいじゃないか」。昭和の御代では、それでよかったのかもしれません。いっぱしの男として、クドクドだらだらと言い訳をしないことが、ある意味立派なこととして見られたかもしれないです。でもいまは、平成そして令和の時代ですし...ボク、みつけたよ!(四十三)

  • 水たまりの中の青空 ~第二部~ (百九十九)

    ピンクのエプロンに身を包んだ小夜子――割烹着姿がまだ幅を利かせていてるなか、新時代の女を自認する小夜子の面目躍如だ。エプロンを身に付けた小夜子は、いつも機嫌がいい。ルンルンとおさんどんに精を出している。「小夜子。どうだろう、そろそろ」「なあに、そろそろって」「うん。だからな、月が変わったらな……」歯切れの悪い武蔵のことばに「月がかわったら、なあに?」と、あくまでとぼけてしまう。分かっている、分かっているのだ。そしてそのことが、小夜子を不機嫌にさせる一因だとも知っているのだ。「いやなにな、そろそろご挨拶にな、行こうかと」振り向いた武蔵の眼前に、眉間にしわをよせた小夜子がいた。「挨拶って、なあに?なにしに、どこに行くのかな、タケゾーは」軽やかなトーンの声が、武蔵の耳に鋭くつきささる。「いや、もういいかな、と。茂作さ...水たまりの中の青空~第二部~(百九十九)

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