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  • 「転落の解剖学」(3)

    他殺か自殺か。裁判(初審)は自殺と判断した。ストーリーの「展開」に満足するだけの観客なら、この映画の結末は「腑に落ちない」だろう。すっきりしないだろう。「ああ、よかった」と満足しないだろう。しかし、映画に限らず、どんな作品であり、あらゆる評価は終わったところからはじまる。終わったところから受け手が何を考えるか。監督も役者も、もう動かない。観客を誘導しない。動くのは観客の考え(ことば)だけである。さて。私の考えるのは、こういうことである。男が自殺した。「事実」がそうであるとして、女(妻)は本当に自由になれるか。「無罪」判決が出たからといって、女は本当に自由になったのか、という問題が残る。簡単に言い換えれば、女には、なぜ自殺を防ぐことができなかったのか、夫をなぜ救えなかったのかという問題が残る。これは、たとえ...「転落の解剖学」(3)

  • Estoy Loco por España(番外篇435)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazUnamujerconlasrodillassobreelringylasmanosagarrandolapartesuperiordelring.¿DedóndepartióLucianoalcrearestaformademujer?Lasmanossemueven,lospiessemueven,lascaderassemueven,elpechosemueve,lacarasemueve.Naceunanuevavida.Loquesemueveenesemomentoeselcuerpodebronce,ytambiénelpropiocuerpodeLuciano.LasmanosdeLucianocreanlamujerdebronce,yen...EstoyLocoporEspaña(番外篇435)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 池田清子「ロウム」ほか

    池田清子「ロウム」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年02月19日)受講生の作品。ロウム池田清子古代ローマ帝国の初代皇帝はオクタウィアヌス(アウグストゥス)という人らしい私の中のローマは映画の中「ベン・ハー」「十戒」強大なローマ帝国の司令官メッサラがユダヤ人の貴族ベン・ハーをガレー船に送る復讐の戦車レースの為に馬を提供したのはアラブ人の豪商ヘブライ人の男の子を拾って育てたのはエジプトの王女モーゼと名付けた若いチャールトン・ヘストン最高!「シンドラーのリスト」「サウンドオブミュージック」「アラビアのロレンス」ユダヤ、アラブの人たちの苦難を私は映画で知ったほんの上っ面な理解かもしれないけれどイスラエルとガザ楽しいものもある「ローマの休日」イタリア訪問中の王女が記者会見で言う「一番印象に残った訪問地は?...池田清子「ロウム」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(19)

    ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。ベルグソンの書いて...こころ(精神)は存在するか(19)

  • こころ(精神)は存在するか(18)

    ベルグソンのことばは刺戟的である。目は見るだけではない。目で見たものが有効だと判断すれば、そのときひとは存在に近づくのだが、このとき目は実質的に肉体を動かしている。ここに「脳が判断し、手足を動かしている(手足に動けと命令している)」ということばを挿入したとすれば、それは「付け足し」だろうと私は思う。あらゆる運動、それが激しい肉体の運動ではなくても、ある瞬間目だけが動くのではない。手だけが動くのでもないし、足だけが動くのでもない。ことによると性器も動くのである。それも同時に、いくつもの場所(肉体の部署)で動いている。心臓とか内臓とか、そういう「不随意」の器官(組織)だけではなく、あらゆる肉体が動いている。なかには動くのを怠けている部分もあるかもしれないが。こころ(精神)は存在するか(18)

  • こころ(精神)は存在するか(17)

    和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私...こころ(精神)は存在するか(17)

  • こころ(精神)は存在するか(16)

    和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。「知識(技巧/技術)」...こころ(精神)は存在するか(16)

  • こころ(精神)は存在するか(15)

    人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。「知らず」は意識できない、ということだろう。だから、こうつづける。理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十...こころ(精神)は存在するか(15)

  • 「転落の解剖学」(つづき)

    前回書いた感想の「つづき」。というよりも、前回書いたものは「メモ」である。この映画は「音」が全体を動かしている。いわば、映画のエネルギー源は「音」である。「ストーリー」の本質は、音のなかにある。象徴的なシーンが、前回も書いた少年の弾くピアノの音。音楽。練習しているときは、ぎこちない音楽である。ところが、最終証言の前に弾くそのピアノの音が、一瞬、透明な音楽、とても美しい音楽にかわる。これは少年の心が「澄みきった」ことを象徴している。少年には事件のすべてがわかったのである。この「わかった」は、少年が「結論を出した」ということである。それを裏付けるのが、判決の日のテレビ放送。少年の家でもテレビをつけている。しかし、そのときレポーターの声が聞こえない。少年は判決を聞く必要がないのだ。母親が無罪かどうか、裁判がどう...「転落の解剖学」(つづき)

  • 「世界のおきく」のつづき。

    「世界のおきく」に問題があるとすれば、「さぼる」ということば以上に大きな問題がある。「さぼる」は「表現されたミス」だが、もう一つの問題は「表現されなかった何か」にある。「循環型の世界」を描いたと傑作といわれる映画だが、あの映画には「描かれなかった大事なもの」がある。ユーチューブの「批判者」は「糞尿のつまった樽(桶)を手で触るなんて、おかしい。汚いだろう」と言っていたが、問題は、その「汚い糞」をどうやって「美しい肉体」から引き離すか。つまり、どうやって「肉体」を清潔に保つか。糞をしたあと、どうやって、肉体にこびりついている「汚れ」を引き剥がしたか。いまならトイレットペーパーがある。ウォシュレット(これは、商品名か)というさらに進んだ装置もある。江戸時代は、どうしていた?ウォシュレットがないのはもちろん、トイ...「世界のおきく」のつづき。

  • ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

    ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」(2024年02月23日、キノシネマ天神、スクリーン3)山荘で男が死ぬ。自殺か、他殺か、目撃者はいない。第一発見者は男の息子、視覚障害がある。殺人なら男の妻が犯人だ。裁判になる。裁判劇のようだが、、、、。映画が始まってすぐ、男の妻がインタビューを受けている時、大音響の音楽。男(夫)が大工仕事をしながら、かけている。この音楽を聴いた瞬間から、この映画は映像ではなく、音の映画だと気づく。実に繊細に音が拾われている。山荘での会話には屋外の風の音が混じりこむ。必要がない音だが、観客に耳をすませと要求する。音を聞き逃すな、と。実際、裁判の最初のクライマックスは、男が録音していた夫婦喧嘩の声、物音である。それを、どう理解するか。しかし、これは見かけのトリックというか、ほんとう...ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

  • こころ(精神)は存在するか(14)

    和辻哲郎全集8。「風土」のつづき。大事なことは、だれでも、それを繰り返して言う。書く。そして、そのとき、そこには不思議な変化がある。飛躍がある。たとえば。明朗なるギリシャ的自然が彼らの肉体となったとき、彼らはこの隠さない自然から「見る」ことを教わった。(81ページ)ここから、こう変わる。「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだしていくことである。(89ページ)「見いだしていく」という動詞をつかっているが、この「見いだす」は「創造する」の方が近いだろう。私は「見いだす」を「創造する」と「誤読」して、理解する。最初の引用の「肉体」という表現も、私はとても気に入っている。和辻はここでは「身体」とは書かずに「肉体」と書いている。「肉体」で見る。「肉体」で「創造する」。「見いだ...こころ(精神)は存在するか(14)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(81)

    「青い記憶の歳」。「年」ではなく「歳」なのは、そこに「人間」がいるからである。詩人は思い出している。「ある年」ではなく「あの歳」を。悲しみである。ほかの行は、それぞれに長い。だから、そこに「意味」を見つけ出すことができる。つまり感情移入することができる。感情移入することで、読者は、そのことばを書いた詩人になることができる。しかし、この「悲しみである。」という一行は、それができない。「悲しみ」は、だれもが知っている感情である。そして、その「悲しみ」にはいろいろなものが含まれている。「悲しみ」だけでは、そのいろいろがわからない。だから感情移入できない。ここでは、詩人は読者を拒んでいる。詩の中には、いろいろな「悲しみ」につながることばが書かれている。どのことばも「悲しみ」につながる。しかし、その肝心の「悲しみ」...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(81)

  • Estoy Loco por España(番外篇434)Obra, 川田良樹 Kawada Yoshiki

    Obra,川田良樹KawadaYoshiki初雪primeranevada140×47×33CuandomiroestaesculturadeYoshikiKawata,losdesnivelesmeparecenmisteriosos.Engeneral,losdesnivelesdanlaimpresióndeserduros.Mismanosseasustancuandotocolosdesniveles.Noessolosentidotáctil.Visualmentedeberíacausarunaimpresiónsimilar.Losdesnivelesprovocanunasensaciónáspera,duraeincómoda.Sinembargo,enlaobradeKawadaoc...EstoyLocoporEspaña(番外篇434)Obra,川田良樹KawadaYoshiki

  • 江戸時代は、いつまでか

    私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。(1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「...江戸時代は、いつまでか

  • 細田傳造「まじめなマンション」

    細田傳造「まじめなマンション」(「妃」25、2023年12月28日)細田傳造「まじめなマンション」を読みながら、「まじめ」の定義はなかなかむずかしい、と思う。税務申告はやく済ませましょうまじめなことに税金をつかっていただきましょうさよならおげんきでまたね家に還ってNHK正午のニュースを見る政治家のお顔が映っているまじめかしらついつい疑ってしまうこれは、まあ、だれもが考える「まじめ」の部類かなあ。このあとに、細田の「まじめ」がぬっと顔を出す。信頼しなくてはいけませんよねともだちもじぶんの近々の邪念を語るあれからずっとセックスしていないのしなさいよ誰と返事につまるもうかれこれ一年前から彼女のつれあいは天国にいらっしゃる天国でなさいなさいよとはいえないこの世で誰かとしちゃえばともいえない「この世で誰かとしちゃえ...細田傳造「まじめなマンション」

  • 杉惠美子「茜さす」ほか

    杉惠美子「茜さす」ほか(朝日カルチャー講座福岡、2024年02月15日)受講生の作品。茜さす杉惠美子夕焼けに染まる海岸線は一面の古代色その輝きの静けさと儚さ遠い光の淋しさと懐かしさ色となり影となり音となり風となり消え入るほどに我をなくす波音に吸い込まれて音をなくす波頭を飛び渡って静謐の時に溺れている「最後の2行が目に見える。色が印象的。ことばが最終行に収斂していく。きれいな、静かな景色が思い浮かぶ」「最初の2行と最後の2行が詩を生かしている」「古代色ということばのインパクトが強い。最終行の結び方が抽象的だが、古代色と静謐の対比が静けさをかもしだしている。途中の変化、対比が少し書かれすぎかも。少し抽象的かもしれない。そのため響いてこない」最後の感想は三連目だろうか。この部分を他の受講生は、どう読んだか、聞い...杉惠美子「茜さす」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(14)

    和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。15ページに、ベルグソンに通じることばがある。人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、...こころ(精神)は存在するか(14)

  • こころ(精神)は存在するか(13)

    ベルグソン・メモ(つづき)。誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、時間=と=空間という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。ベルグソ...こころ(精神)は存在するか(13)

  • こころ(精神)は存在するか(12)

    ベルグソンは書いている。ただ一つの実在的時間が存在し、他のすべての時間は虚構の時間である。「実在的時間」は「生きられた時間」を言いなおしたものである。個人個人によって「生きられた時間」だけがほんとうの時間であり、そのほかは虚構の時間である。私はこれを利用して逆に言いなおす。「実在的」とは「生きられたもの/体験されたこと」である、と。「実在的ことば」とは「生きられたことば」であり、その対極に「虚構のことば」がある。「実在的肉体(ベルグソンは、実在的身体、と書くかもしれない)」は「生きられた肉体」であり、その対極に「虚構の肉体」である。「虚構のことば」「虚構の肉体」であるにもかかわらず、私がそのことば、肉体に反応するとすれば、それはその虚構のなかに私の「体験」を直観するからである。実感するからである。*また、...こころ(精神)は存在するか(12)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(80)

    「岩の小舟溜まり」。聞け。言葉は老いたる者の叡知。この一行は、不思議だ。突然「言葉」が登場する。「言葉は叡知」を「叡知は言葉」と読み直すこともできるだろう。そのとき「老いたる者の」という修飾語を必要とするかどうかは、わからない。いや、そうではなく、この一行では「老いたる者」が、間接的に、重要なのかもしれない。間接的に重要、というのは奇妙な言い方になるが。言いなおそう。もし「老いたる者」のかわりに「若者の」ということばがこの一行にあったとしたら、その前後の表現はどうなるのだろうか。「肉体は若者の叡知」とならないだろうか。「叡知は肉体」である。それは「肉体は叡知」にかわり、そして、その「叡知」は「無知(恐れを知らない)」かもしれない。そこには輝かしい「いのち」がある。「いのち」は「叡知」など必要としない。その...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(80)

  • 野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

    野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」(「イリプスⅢ」6、2024年01月20日発行)私は「誤読」が大好きな人間であるから、他人の誤読を指摘しても意味はないのだが、しかし、まあ、驚いた。あらためて認識しよう。詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない。この部分だけを取り出せば、野沢がこれまで書いてきた「言語隠喩論」の「復習」と読めないわけではないのだが(野沢はそのつもりだろうが)、ここで書かれている「起源」というのは、実は藤井貞和の書いた文章からの借用である。「イリプスⅢ」5で藤井が野沢の「言語隠喩論」に対する好意的な批評を書いたので、今度は野沢が、藤井の論を紹介しながら藤井を持ち上げているのだが、藤井の書いている「起源」は「一般的」なものではない。藤井は「和歌」をとりあげ、「類歌」...野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(79)

    「サントリーニ島讃歌」。世界に躍り出た初子。「初子」には「ういご」のルビがついている。いまも多くの人がつかうことばかどうか、私は知らないが、自分ではつかわないし、聞いた記憶もない。しかし、読めば、意味はわかる。音を聞いてだけでも、たぶん、文脈から意味はわかる。このあとには「海の産んだ子。」という補足的な一行もある。そして、たぶんその補足的な一行があるからこそ、「初子」ということばを中井は選んだのかもしれない。つまり、ここでは「わかりにくさ」が選ばれているのだ。わかりにくいことばで読者を立ち止まらせる。そして、いったん立ち止まったあと、簡単なことばで想像力を後押しする。ことばの動きに緩急が生まれる。想像力に緩急が生まれる。そのリズムに合わせて世界が豊かになる。中井は、さまざまなことばで「意味」を超える。「意...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(79)

  • こころ(精神)は存在するか(11)

    ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。そのあと、こう書いている。われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応してい...こころ(精神)は存在するか(11)

  • こころ(精神)は存在するか(10)

    ベルグソン全集3(白水社)、「持続と同時性」を読む。ベルグソンと和辻哲郎をつなぐ「ことば」は「直観」である。ベルグソンは「直観」と同時に「直接」ということばの方を好むかもしれない。アインシュタインの理論に触れながら、「知覚」について、こんなことを書いている。人が走るとき、人が地球の上を走るのだが、これは他者から見れば人の足の下を地球が動くととらえることもできる。これはもちろん物理(数学/論理)の可能性の問題である。しかし、実際に走る人(行為する人)は、自分の行為を「直接」知覚している。この知覚は意識と呼ぶこともできる。それは「内的絶対性」であり、「事実」である。運動する人(走る人)にとって、これはその人の内部で起きる「直接」の感覚(知覚)であり、この「直接」は「確実」であって、ゆるぎがない。そして、この「...こころ(精神)は存在するか(10)

  • Estoy Loco por España(番外篇433)Obra, Juan Gamino

    Obra,JuanGaminoUnhombreyunamujerteniendosexo.Inclusosilosantiguosescultoresgriegoshubierancreadoaunhombreyunamujerteniendosexo,probablementenohabríancreadoalgocomoesto.TampocoMiguelÁngelquerenovólaesculturagriega.NiRodin,niGiacometti.Hayuna"forma",peroloqueveonoesuna"formaexterna".Entonces,¿seexpresala“formainterna”?Enotraspalabras,¿representaelcorazónyel...EstoyLocoporEspaña(番外篇433)Obra,JuanGamino

  • 九段理江「東京都同情塔」

    東京都同情塔九段理江新潮社九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言...九段理江「東京都同情塔」

  • こころ(精神)は存在するか(9)

    父が死んだ年齢に近づいてきたせいか、しきりに死について考えるようになった。私は父の死に目(臨終)には立ち会っていないのだが、葬式のあと、いや焼骨のあと自宅に帰ったとき、姉が「父が自宅の前の道から碁石が峰を見ていた」とぽつりと漏らした。それは死ぬ直前のことではなく、たぶん手術後、いったん退院したときのことなのだろうが、まるで碁石が峰を見ながら死んでいったという具合に聞こえた。私はすぐに父がいただろう道に出てみた。道の向こうに田んぼが広がり、その向こうに山が見える。いつも見える山である。見慣れた山である。しかし、驚いた。それは変わらぬ山であったが、何かが違う。違うものが見える。山を見ていた父の姿が消え、父が隠していたものが見える、と感じたのである。父の肉体の形が透明になり、その透明ななかに碁石が峰が見えた。そ...こころ(精神)は存在するか(9)

  • ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)

    ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』(★★★★★)(キノシネマ天神スクリーン3、2024年02月09日)監督ビクトル・エリセ出演マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレントアナ・トレントが、また「アナ」という役で出演している、というのは、もしかするとどうでもいいことではなく、とても重要なことかもしれない。テーマが「記憶」だからね。私は、アナ・トレントはいつ出てくるんだ、出てこないんじゃないかと、半分不安な気持ちで見ていた。というのも、最初の部分は、なんといえばいいのか、いかにも「仕掛け」という感じのつくり方になっているからだ。人間を見せるというよりも、「ストーリー」を仕掛けの新しさで見せるという映画に見えなくもないからだ。「哀れなるものたち」を、ちょっと思い出してしまったのだ。しかし。後半がすごいなあ。映画...ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』(★★★★★)

  • Estoy Loco por España(番外篇432)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo"Paisajeinterior"serie,Acrílicolienzo,70x70cm."¿Quéeselinterior?Cuandoelinteriorexiste,¿dóndeestáelexterior?""Existealmismotiempoquelaconcienciadelinterior.Elexterioreselinteriorconsciente"."¿Noexisteelexterior?""Cuandoelinteriorrechazaelserinteriorybrotadelinterior,naceelexterior".*Unanotaquequedóprofundamentegrabadaenlamemoria.Deveze...EstoyLocoporEspaña(番外篇432)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころ(精神)は存在するか(8)

    和辻哲郎全集第七巻。「ボリス的人間の倫理学」。この本は、和辻によれば、先人の研究などをたよりに、その考えを「まとめたものにすぎない」(「序」、153ページ)。だから、これは意地悪い見方をすれば「剽窃」の部類かもしれないが、こうしたことを「剽窃」と呼ばないのは、林達夫の「タイスの『饗宴』」が書いている通り。林達夫と和辻は、この「剽窃」かどうかをめぐる「構想力」という考え方で共通していると思う。また、人間の「構想力」を考察するときに、個人を社会に還元しながらとらえるところで共通すると私は感じている。その「構想力」について、和辻は「構想力」ということばをつかっているわけではないのだが、183ページに、こんなことを書いている。ポリスは(略)部族と部族との結合によって漸進的に成ったものとはいえない。それはむしろ氏族...こころ(精神)は存在するか(8)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(78)

    「日の青春」。「青春の日」ではない。しかし、「青春の日」であり「日の青春」でもあるだろう。それは融合している。その融合は、東西南北の風にという一行にもある。あるいは、この一行にこそ象徴されているというべきか。現実には「東西南北の風」というのはない。しかし、中空は東西南北に開かれている。そこにはどんな風が吹いてもいい。可能性、しかも開かれた可能性が存在する場所がある。同じように、開かれた可能性としての時間がある。青春だ。もしかするとエリティスは「東西南北の風」とは書いていないかもしれない。あらゆる方向に吹く風のように書いているかもしれない、と私は想像してみる。それから、もし中井があらゆるということばをつかうなら「凡ゆる」と漢字で書くかもしれない、と思ったりした。***********************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(78)

  • 最果タヒ『落雷はすべてキス』

    落雷はすべてキス最果タヒ新潮社最果タヒ『落雷はすべてキス』(新潮社、2024年01月30日発行)最果タヒは「谷川俊太郎」である。こう書くと、最果タヒにも谷川俊太郎にも不満があるかもしれないが、とても似ていると思う。たとえば、「指輪の詩」。遠くのほうで死んでしまった恋人たちの指輪が、土星の輪よりも、ずっと遠くで、無人で回転していた、愛してるって言って、伝わらない間、その言葉は唯一、永遠のことばになる。最後の二行の中にある矛盾。愛してるということばが伝わって永遠になるのではなく、「伝わらない間」「永遠」になる。この矛盾のあり方が、私には谷川のことばの運動と同じものに思える。そして、その矛盾を「死んでしまった恋人たち」という一種の違和感のあることばで誘い出す構造も、同じことばの構想力だと思う。しかしもちろん最果...最果タヒ『落雷はすべてキス』

  • こころ(精神)は存在するか(7)

    「日記」を書くというのも、なかなか時間がかかる。書きたいことはたくさんあったのだが、時間がとれない。和辻哲郎全集第七巻。「原始キリスト教の文化的意義」を読む。私はキリスト教徒ではない。和辻もキリスト教徒ではない。だから、キリスト教を、あるいは「聖書(新約、旧約)」を「宗教」としてではなく「作品(文学)」として読み進み、そこからことばを展開する。聖母マリアについて書いた部分がとても刺戟的だ。聖母マリアを「想像の所産」と断定し、こう書いている。本質の把握にとっては、与えられているものが知覚的経験的に与えられているか、あるいは想像力によって与えられているかは問わない。(147ページ)聖母マリアが「歴史的人物」ではない、つまり「事実」ではないとしても、そこに「本質」があれば、それで問題ではない。人間にとって重要な...こころ(精神)は存在するか(7)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(77)

    「エレニ」は恋人の名前だろう。この詩も長いのだが、後悔はもう、見えない音楽、暖炉の火、壁の大きい時計のチャイムに変わった。この一行が、私にはいちばん印象に残る。「後悔(する)」と「変わった」が呼応する。そう、何かが「変わった」のだ。「変わる」という動詞は、この詩の中に、ここに一回だけ出てくる。しかし、それは随所に隠れている。「見えない音楽、暖炉の火、壁の大きい時計のチャイム」の三つの「もの」は、どうつながっているか。つないでいたのは「エレナ」だろう。つまり「エレナ」が「変わった」言うことなのかもしれないが、詩人が「変わった」のだとエレナは言うかもしれない。それは、区別がつかない。ただ「変わった」ということだけがある。そして、悲しいことに「変わった」と理解するのは「変わらない」何かである。それが「後悔」を支...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(77)

  • Estoy Loco por España(番外篇431)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazDospersonasbailando.Elhombre(probablemente)estádepieylamujerdoblasucuerpo.Sinembargo,tiendoaconfundirloconunhombrequeelevaaunamujerenalto.Apartirdeahora,elhombrevaalevantaralasmujeresenelaire.Quizáslosdosesténtrabajandojuntosparaalcanzarlugaresmásaltosalosquenopuedenllegarsolos.Elhombrelevantaalamujer,ylamujerlevantadasacaalhombred...EstoyLocoporEspaña(番外篇431)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(76)

    「記念日」は長い詩である。四連で構成されている。どの連も、私の人生もここまで来た。と、始まる。なぜ繰り返したのか。書いても書いても書き切れないからだ。書く度に、書いたことの奥から、また書かなければならないことが現われてくる。それは、詩人がいるところへ打ち寄せる波のように。それは一行であって、一行ではない。そして四回繰り返されているのだが、四行というわけでもない。絶対的な一行なのだ。繰り返すことで、ほかのすべてのことばを飲み込み、融合させてしまう。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。メール(宛て先=y...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(76)

  • 青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか

    青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡「現代詩講座」、2024年01月29日)受講生の作品。ひまわりのみずうみ青柳俊哉地下から吸い上げた水が顔へ湛えられていく風が水面をゆっくりと撫ぜてそれぞれの花びらの形を縁取る溢れだす水はひまわりの花と種子額も頬もゆるやかにひらかれて太陽へ吸われていくひとつにむすばれる地下水と太陽維管束から空へみちあふれていく環状の洪水虹の帯のように空をおおっていくひまわりのみずうみこの作品は、二バージョンあった。第四連が、少し違う。もうひとつの作品は「ひとつにむすばれる地下水と太陽/ひまわりのみずうみ/維管束から空へみちあふれていく/環状の洪水」。「環状の洪水」で終わる方が切れがいい、という意見があった。作者の意図も、水の運動を象徴するものとしての虹(地下水が...青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(75)

    「七つの夜想曲」は文字通り七つの作品群。書き出しの「夢は夢に続いて」のことばどおり、ことばがことばにつづいて広がる。象徴的な一行なので、この書き出しについて書こうかとも思ったのだが、朝残ったは消えそうな影、「Ⅱ」の二連目に登場する、この行。「夜想曲」なのに「朝」が出てくる。そのあとに、一字分の空白、一字空き。「残ったは」の「は」のつかい方というか、「残ったのは」ではなく「残ったは」という言い方、そして行末の読点「、」。非常に工夫が凝らされている。この詩では、中井は、読点、句点を駆使してリズムに変化を与えている。行末に句読点がないものもあるが、それは句読点がないのではなく、一字空きが見えない形で書かれているのかもしれない。もしそうであるなら、「朝残ったは消えそうな影、」は「改行」を隠していることになる。句読...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(75)

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