幕末・維新に係る記事。史跡訪問。幕末維新系の時代劇レビュー。最近の事件を歴史に絡て考えてみたり。
高杉晋作と幕末志士を紹介するHP「ぬしと朝寝がしてみたい」のブログです。 http://www.access21-co.jp/sinsaku/top.html 住んでる山口県下関市を拠点に観光や出張などで史跡をまわったり、幕末・維新に係るいろいろな記事を書いたりします。
岡崎八幡宮は船木の産土神。船木は神功皇后が三韓征伐の際、この地に生えていた楠の大木を斬り倒し、48艘の軍船を造…
第27回 「篤太夫、駿府で励む」第28回 「篤太夫、八百万の神」篤太夫は駿府藩の勘定組頭を命じられますが、民部…
長州藩では直轄地を宰判という行政区分に分け、各地に代官を置いて行政を行わせていました。宰判には勘場と呼ばれた役…
第26回 「篤太夫、再開する」またしても観るのが億劫に。6年ぶりに血洗島へ帰った篤太夫。妻子との再会に喜びます…
萩と山口の間の国道262号沿いに、吉田松陰の記念碑があります。萩市佐々並中の作周辺(東送通過之地碑の場所)日南…
小室氏が帰国してついに結婚秒読み。批判的な報道や世論も多いようです。しかし確かに金銭トラブルはあったにせよ、僕…
明治3年に発生した奇兵隊脱隊騒動では、藩の軍制改革に不満を持つ諸隊士達が、山口藩議事館を包囲しましたが、この騒…
藩主の領内巡視などに使用された御茶屋は、各地の街道沿いや温泉地に置かれ、他藩や幕府使節の迎賓にも使用されました…
長州藩では直轄地を宰判という行政区分に分け、各地に代官を置いて行政を行わせていました。宰判には勘場と呼ばれた役…
戦場ヶ原公園。この殺伐とした名称の公園は、一聞すると古戦場であろうと想像しますが、別に古戦場だった訳ではありま…
本博多町に設置されていた長崎奉行所は、寛文3年(1663)の大火で焼失してしまった為、東役所、西役所の2つに分…
あ ■関連記事■・山口県山口市 洞春寺(井上馨墓所) 幕末期に常栄寺のあった場所。・防府市 桑山招魂場 鴻城隊…
今更ながら本陣伊藤家の記事。伊藤家は鎌倉時代よりの名家の家柄で、室町時代、江戸時代には町の大年寄を務め、町代官…
柳河藩3代藩主立花鑑虎は隠居後、集景亭を建設して余生を過ごしていますが、※集景亭は後に会所、御花畠を経て、 現…
南関御茶屋跡の駐車場より南関城跡へ。「南関城の登城口」。南関城は加藤清正の家臣加藤正次により、慶長5年(160…
南関は豊前街道の筑後国と肥後国の国境で、関所や御番所が置かれた他に、熊本藩の御茶屋が設置されており、領内巡視や…
①/② 三池藩歴代墓所から更に右手奥へ登っていくと、家祖高橋紹運、立花直次の五輪塔があります。それ程広くないス…
①/② 紹運寺より道路を隔てて法輪寺跡があります。法輪寺は三池藩歴代藩主の菩提寺で、初代藩主立花種次以外の墓所…
元和7年(1621)に旗本立花種次は、5千石を加増されて1万石に達します。大名となった種次は新町に三池陣屋を構…
早馬神社の近くに大石進の墓所があります。大牟田市宮部近辺(早馬神社の場所)細道なので車で行くには注意が必要です…
江戸時代の中之島や土佐堀南岸には、諸藩の蔵屋敷が建ち並んでおり、各地の米や物産が集められています。大坂は天下の…
山陽小野田市の皿山はその昔、焼物が盛んに作られていました。天保末期に周防の焼物師が周辺の畑土をみて、焼物に適し…
下関は幕末の重要な事件が多数発生しており、※攘夷戦、功山寺挙兵、小倉戦争など。幕末史跡の多い場所なのですが、明…
①/② 益田での敗戦後、征長軍は数度の軍議を開き、陣容の立て直しを図ります。先鋒総督名代安藤直裕率いる和歌山藩…
①/② 第二次長州征伐で幕府は長州藩への攻撃を決定。芸州口、大島口、小倉口、石州口の四ヶ所から、長州藩領へ侵攻…
新保宿で降伏した天狗党は敦賀に送られ、首領武田耕雲斎以下353名が斬首となります。幕末史最大の虐殺であるこの処…
郡司家は大内家に仕える砲術の家系で、大内家が滅びた後は毛利家に仕え、砲術家五家、鋳造家二家に分れました。鋳造家…
松陰神社前のバス停の後ろあたりは、吉田松陰門下の松浦松洞の生まれた場所です。「松浦松洞誕生之地」。バス停後ろは…
松陰神社の駐車場の脇に、薩摩藩士、長州藩士、土佐藩士が集まり、連合について密議した場所の碑が建っています。「薩…
「ブログリーダー」を活用して、kiiさんをフォローしませんか?