冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。
本当のなつかしさ、本当のやさしさ、そういったしみじみとしたものだけが好みです。 気になるもの 錬金術、冥想、瞑想、オカルト、坐禅、気功、ヨーガ、オーパーツ、超能力、霊能力、前世記憶、PTSD、トラウマ、修験道、アトランティス、レムリア、ケルト、クンダリーニ,チャクラ、洗脳、情報操作、テレビっ子、個人主義、疎外、おひとり様、悟り世代、アセンション、無私、敬虔、清貧
◎宮中の洞窟に消える呉道元は、最初書を学んだが何の得るところがなく、絵画に転じ、その名声は朝廷にまで聞こえた。宮中に高さ数尋の墻壁があり、彼はそこに山水画を描くことを命じられた。その山水画では、木も草も人も鳥も一々生きて動いているように思われた。呉道元は、皇帝を前にいちいち山水画の各箇所を説明したのだが、ある岩を指さして「この岩の下に一つの洞窟があって、一人の仙人が住んでいる。」と言いながら件の岩の上を指で軽く叩いた。すると忽然として一つの門が現れ、中から一人の童子が出てきた。呉道元は、「洞窟の中の景色をご案内しましょう。」と、自ら洞窟に入り、皇帝を洞窟の中へ手招きした。その時皇帝は、しばらく入ることを躊躇しているうちに、その門はパタリと閉められ、今まであったはずの山水画も消え、元の白壁に戻った。中国では、壺中...呉道元
◎悟っている師は一代限りだが真理を知るとか、本当の自分に出会うとか、神人合一とか、即身成仏とか、カイバリヤなどということは、内部で起こるものだ。そしてそれは、他人に伝える手段がないので、一代限り。その人が死んだら、それは一代限りで終わる。よく口述で伝授という話もあるが、師の死期が迫って来ても弟子がダメなら何も口述では伝授できない。臨済が、死の床で高弟三聖のことを罵ったように、どんな立派な師でも、それが伝授できる弟子を持てるかどうかは定かでないものだ。一方で、禅で授記という覚者の系図があるということは、その点で奇跡的なことである。古仏は頑張ってきたのだ。チベット密教で、リンポチェという尊称がつけば、まず覚者。だがダライラマの選定方法は、神おろしや情実人事や抽選による等時代によって変わったが、一人の人物を間違いなく...器としての教団と法統
◎精神のステージ・ランクや洗脳深化精神状態にもとよりステージもランクの高低もない。それは、覚者の側から見た場合であって、真理や悟りの何たるかがわかっていない人々にとっては、このあらゆる洗脳手法が横行する世界では参考になるのも事実である。映画ランボーの最初の作品では、ベトナム帰還兵のシルヴェスター・スタローンが、最後のシーンで、コンバットのエリートでありながら、『駐車場の番人としても自分を雇ってくれない』と、その社会的不適応ぶりを嘆く。こうしたベトナム帰還兵向けに開発された心理手法が、①カール・ロジャースのエンカウンター・グループ療法(メンバーがそれぞれ本音を言い合うことにより、自分自身の受容と成長、対人関係の改善などを目指す)や、②エリック・バーンの交流分析(エゴグラム分析で、対人関係の改善を図る)、③フリッツ...大金を見返りにノウハウや位、称号をもらう
◎SNS今昔ネット通販で物を買うのは、運送業界の人は大変だったが、コロナ禍の中で大いに人々を助けた。ネット通販で物を買う際にまず注目するのは、効能、機能で、その次は五段階評価のどれに当たるかである。私も最低評価と最高評価のコメントは見るようにしている。だが、販売者側や生産者側がIT業者を雇って、好意的なコメントばかり書きこませたり、ライバル企業の製品を貶めたりするコメントを書き込ませていることは世の中に知られるようになった。これは企業活動とか商業活動という面であって、当然にそんなことはあるものだと思う。だが、無辜の書き手が書く内容だって問題はある。その商品の評価の良し悪しを人生経験の少ない小学生が書く場合もあり、専門家やマニアや有識者が書く場合があるが、字面だけではその書き手を判別することはできないということ。...小学生のコメントも有識者のコメントも見分けられない
◎実は無神論砂漠のJAPANキリスト教には、万を超す聖者がいて、毎日の暦には、必ず複数の聖者が該当するものだ。日本でも言霊の幸はふ国として八百万もの天津神国津神が津々浦々におはします。更に仏教と習合したものだから、ありとあらゆる諸仏像が寺院陋巷に鎮座しまくっている。これらは、応仁の乱、戦国時代、全国大都市が焼夷弾による空襲を受けた第二次世界大戦を経ても、氏子檀家の神仏への崇敬の気持ちは変わるものでなかった。だが、所詮八百万神も諸仏も他人であって自分ではなく、各宗派における聖者も他人、教祖も他人。神像、仏像を愛でるのも、ラーマクリシュナのように神像なる太母と都度神人合一するのであれば、問題はないが、綺麗とか、美しいとか、神々しいとか言っているうちは先に進まない。古代中東のバアル信仰の昔から、出来のよい神像を愛でる...聖者という他人、教祖という他人
◎気吹戸主神近江の伊吹山は素盞鳴尊の鼻であって、世の中の邪気妖気を祓う時に気吹く。出口王仁三郎は、気吹かれたらえらいことになると言っている。『大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂すのである。』(霊界物語第10巻29章言霊解三から引用。)この書きぶりだと気吹戸主神とは、クンダリーニのエネルギー・コード。出口王仁三郎は、人は毎日大祓祝詞を奏上し、神人一致、罪と穢れの累積を祓い清めるように努力することが、いつの時代を通じても必要であるとしている。自己の身体、家庭、国土、全地球、全宇宙から迅速に邪気妖気を掃蕩して神代にしなければ神に対して相済まない、とまでいう。これに対して世の中全体の修祓がある。『(八)地球の...素盞鳴尊の鼻、伊吹山
◎処女懐胎と不貞日本人の大方は、処女が懐胎したということで欺瞞性に耐えられず、思考停止してしまい、そこから先へは進まない。そこでキリスト教内部でも黒い聖母像というのが、太母として登場してきた。だが、イエスの母が処女のままだったというのは、彼女が地母神、太母だったことを指している。決して文字通りの処女で、何だか悪いものを食べたか、人工授精して妊娠したということを言っているのではない。太陽を産むのは月であって、月は有だから第六身体アートマンにして、それが第七身体、無なるニルヴァーナである太陽を産む。マリアは太陽を着て月を踏んで現れる女性なのだ。(ヨハネの黙示録第12章1:ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。)。キリスト教の教義では、イエスは父なる神の子だから人間ではないので...聖母マリアの謎
◎北朝鮮の水、韓国の水昔、モーセの師のハディルが人類に警告を発し、やがて特別に貯めておいた水以外はすべて干上がってしまう。その時期より後の水は人々を狂わせてしまう、と。ただ一人の男がこの予言を信じて水を集めて安全な場所に保管して、その日に備えることにした。ある日、井戸は干上がり、川は流れを消した。これを見て件の男は、とっておいた以前の水を飲んで日々をやり過ごした。やがて小川が流れ始め、滝も落ちるのを見て、男は町に戻っていった。町の人々は、以前とは全く違ったやり方で話したり、ものを考えたりしていた。しかも彼らは、水が干上がった時期があったこともそれを予告したハディルのことも全く知らなかった。男は、彼らと話しているうちに自分が気ちがいだと思われていることに気がついた。というのは、人々は、彼のことを哀れだと思ったり、...古い水と新しい水
◎出神メモ高藤聡一郎のメモ『仙道においては、陽神を作るのが最終の目標ではない。最後は、この陽神さえ虚空に戻していくのである。これを煉神還虚あるいは気化と呼ぶ。この宇宙に本来なかったおのれというものを再び無に戻すのである。これが完全にできた状態を還虚合道と呼ぶのだ。道と一つになった状態である。陽神とは本来この目的のために作られるのである。』(現代中国の仙人/高藤聡一郎P94から引用)高藤聡一郎は台湾中の道士に出神とはどのようなものか聞いてまわったらしいが、はかばかしくなかった。唯一盧勝彦だけが、出神体験を3例目撃したことがあったという。一童子なる陽神が頭頂の外側に出現したという。そういうことに価値があると気づく人が増えないとどうにもならない。陽神が体外に出るのは、いわゆるアストラル・トリップなどの通俗超能力とは別...煉神還虚
◎無自覚に罪業を重ねる人の増加アメリカでは、コロナ禍を一つのきっかけとし、黒人差別反対運動が、全米に広がり、その結果、各地で白人を対象とする暴力行為が多発し、白人を殴る蹴るの画像がSNSに流れるようになっている。他方、中国のように中国人の差別反対を声高に唱えるくせに、ウイグル、チベットなど国内少数民族への差別には積極的に人権抑圧政策を取る国家もある。いずれも差別反対が旗印だが、これはいずれも危険な兆候である。この動きが広がると地獄が地上の至るところに現出するということだからである。地獄とは、自分は働かないで他人の物を奪ったり盗むことを第一に考える世界であって、農業や工業のように生産するのは苦手で、他人を騙して儲けようと考える人ばかり。自分が差別されている側であることを口実に殴る蹴るという運動は、やがて気ままに他...差別反対と地獄世界
◎乱倫、娼婦ラーマクリシュナが語る。素封家出身のモッリク某という女性がいたが、若いうちはさんざん悪いことをしたが年を取ってから称名に励んでいる。まあ、何もしないよりはまし。彼女が、ある時、売春婦などでも救われるものでしょうかと尋ねてきた。自分はそれ以前にそれに似たことをかなりしてきたらしいので、そんなことを聞いてくる。ラーマクリシュナは「救われます。心の底から懺悔して、泣きながら神様に祈って、もう二度と致しませんと誓えば。」と即座に答えた。(人類の知的遺産ラーマクリシュナP251参照)これは、乱倫も極まれば反転し収まるということだが、世界の混乱も極まって反転せねば治まらないということでは、同じ原理。売春婦は貶めるくせに、ネットポルノ愛好家は無数にいる。そういう人間が大多数な乱れた時代に、次の世界大戦がないことを...称名、マントラで懺悔
◎女性のタオイスム劉綱は、晋の土虞という所の長官だった。妻は樊夫人といい、夫婦そろって仙道に熟達して、鬼神を使役していた。だが両人は他人に仙術ができることを堅く隠していたので、それを知る人は少なかった。一方彼の政治は善く行われ、領内は旱魃水害なく、五穀能く実り、人民は富み栄えていた。夫婦は、時間ができると、術比べをした。劉綱が術で火を起こせば、妻は雨を呼んで鎮める。夫人が庭の桃を呪えば、枝の桃は必ず彼女の手に落ちてきたが、夫がそれをやると桃の一部は庭の籬の外に落ちる場合があった。このように仙術では、妻の方が一枚上手だった。夫妻の昇天時、劉綱は、役所の庭の栗の木によじ登り、数丈の高さになってからようやく昇天できた。一方妻は直ちに床の上から昇天していった(坐脱)。求道は須らく男性の側の修行がメインではあるが、そうい...劉綱
◎男も女も、恋愛に、ライフ・プランに惑う本木くんの出演する映画ファンシィダンスの法戦式シーンでは、華麗な禅問答が漢語で次々と戦われるのだが、初めて聞いてわかる人は相当に禅籍を読みこなせている人だけだろう。事ほど左様に中国の禅問答は、よほど古代中国の歴史と仏教の歴史、禅僧の来歴、中国の風俗、生活習慣に詳しくないと意味がとれないところがある。十牛図であってもそう。そこで、中国公案では単なる記憶力ゲームになるとして白隠が和風公案を出してきた。「海上の帆掛け船をここにいて止めなさい」「印籠の中から富士山を出してみなさい」「東海道に一人も人が通らないのはなぜか」「両手をうてば声がするが、隻手(せきしゅ)(片方の手)には何の音があるか」こうして漢文の素養のない者でもストレートに疑団に取り組むことができるようになったが、帆掛...白隠の和風公案
◎第四の気づきである無心へ第一の気づきは、思考という客体を見つめるが、第二の気づきは思考も思考している自分も見つめる。主体と客体両方に注意を払い続ける。OSHOバグワンによれば、これがグルジェフの言うところの自己想起。第一の気づきでもって、記憶から非記憶へと進み、第二の気づきで頭(マインド)は、非発生となる。第二の気づきでは、集中力を主体と客体に向け、集中力を使っているが、第三の気づきでは、主体を忘れ、客体を忘れ、集中をすべて落とす。第三の気づきでは、ただ覚醒しているだけ。これが第四の気づきである無心へと導く。無心こそ成就であり、ニルヴァーナであり、至高善。(以上参照:タントラの変容/和尚/市民出版社P216-220)この和訳では、非記憶とか非発生と訳しているが、不記憶とか不発生の方が意味が取りやすいように思う...第二の気づき、自己想起
◎記憶から非記憶へ第三の封印であるサマヤ・ムドラーとは、この瞬間にあること。これを成功させるためには、OSHOバグワンは、思考の動きを観照しなければならないとする。これは、クリシュナムルティが『無選択の気づき』と呼んだものであって、判断や反応することなく思考を観照し続ければ、ある日思考の速度が落ちる。そしてある日、隙間が現れ始め、思考が去った後、しばらく次の思考が現れないということが起こる。こうして思考は何時間も消え、無思考となる。これを第一の気づきとし、記憶から非記憶への架け橋と呼ぶ。だがここでは、観照している自分、見ている自分は何も変わっちゃいない。(以上参照:タントラの変容/和尚/市民出版社P214-217)これが禅僧臨済の言うところの境を奪うという視点ではないかと思う。奪境とは表現が短すぎてよくわからな...第一の気づき、客体を気づく
◎道の枢タントリズムで、七チャクラの下方6チャクラは、それぞれ結婚するという封印を持ち、最後のサハスラーラは単独だがそれも封印と呼ばれ、ここに四つの封印あるいは四つのムドラーがある。修行者は、セックスをジャンプ台として、四つの封印を破ることになる。OSHOバグワンによれば、ムラダーラとスワジスターナの第一の結婚が、第一の封印であり、行為において意識的であり全一になること。カルマ・ムドラーと呼ばれる。マニピュラとアナハタの第二の結婚が、第二の封印であり、本当は知らないことを信じ込むのではなく本当に知ること、本当の知識。ギャーナムドラーと呼ばれる。ヴィシュダとアジナーの第三の結婚が第三の封印であり、今、この瞬間にあること。サマヤ・ムドラーと呼ばれる。サマヤは時間という意味。過去もなく記憶もなく、未来もなく、現在だけ...四つの封印
◎意識の清明と夢見と体力本木くんの出する禅寺映画ファンシィダンスでもプロ禅修行僧の粗食と睡眠不足ぶりが描かれる。粗食と睡眠不足は、一般にトランスに導きやすいものであるが、トランス以前にもいろいろなファクターがある。OSHOバグワンは、さる発狂寸前の冥想修行者の青年に会った。彼の手を握ると全身が震えていた。青年は別のグルに8時間睡眠は寝過ぎだから3時間にしろ言われて3時間にしたところ精神はますます不安定となった。そして一日中眠気を感じるようになった。そこで、グルに眠くなるような食事を摂っているからだと言われ、ミルクだけで過ごすようにしたら、ますます身心は衰弱した。OSHOバグワンに言わせれば、眠りの最初には、肉体が休息し、十分にリラックスできたところで、頭が休息に入り、そこで無意識の活動が夢として行われ、やがて頭...睡眠不足と胃袋と正気
◎タントラとは自由であるOSHOバグワンが、『タントラの変容』において、まともな“性的ヨーガのアーキテクチャ”について多分初めて概説している。それは、次のようなものだ。セックスは、7段あるはしごの最初のとかかり。セックスのオルガズムは冥想に入るとっかかりにすぎない。この時内なる扉が開く。七段とは、七チャクラ。ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ、アナハタ、ヴィシュダ、アジナーと進み、サハスラーラに至る。ムラダーラから、アジナーまでは、男女いずれかの二元性を持つ。サハスラーラは非二元のブラフマランドラ。男性では、ムラダーラは男性で、スワジスターナは女性。一方女性にあっては逆の、ムラダーラは女性で、スワジスターナは男性。ここで男も女もムラダーラとスワジスターナが結婚、内側での性交をしなくてはならない。以下同様にマ...性的ヨーガのアーキテクチャ
◎黒石の岩と白石の岩から地獄、天国を覗き込む大本教のご神体を崑崙山に奉還した笹目秀和が、仙師に促されて、黒石の岩と白石の岩に座ってみよと命じられるシーンがある。黒石の岩に座れば地獄の惨状を目にすることができるが、あまりの悲惨さに10分とは見ていられないだろうと仙師は語る。一方白石の岩に座れば天国の歓喜を目にすることができる、と。先に地獄を見て、後に天国。出口王仁三郎プロデュースの神劇は、先に地獄を含むプロットで最後は七福神登場。第二次世界大戦まで地獄を見た世界は、そこから至福千年への滑走路を疾走しているが、まだ離陸はしていない。『ほんまの火の雨はこれからじゃ』と出口王仁三郎は、終戦直後にもう一度地獄があることを予言する一方で、『これからは善い型を出す』(新月の光下巻/出口王仁三郎P304)とも予言する。善い型と...悪い型出し、善い型出し
◎捨てきれず介象元則は、諸子百家の書に精通しており、仙術も修行しており、一里四方で人家で火を焚いても燃えつかなくしたり、人々を坐ったまま起き上がることができないようにしたりした。また自分の姿を草木鳥獣に変ずることもできた。さて介象は、一層深く仙術を極めようと思い、諸国を遍歴し達道の仙人を捜し歩いたけれど一人も出会わなかった。そこで彼は思い切って山奥に引っ込み、思いを凝らして正師に出会うことを神に祈っていた。ある日疲れ切って石の上に寝ていると、そこに一頭の虎がやってきた。彼は、天帝が彼を護衛するためにつかわしたものなら居ても構わないが、山の神が私を試そうとしているなら去れと言うと件の虎は頭を垂れ尾を巻いて去った。彼が穀山に登るとそこにあまたの石があり、中に鶏卵大の紫の光を放っているのを二つばかり拾って袂に入れ、麓...介象と仙女
◎それでも事上磨錬禅家は言う。この身このままでも何の不足があるのかと。それは、個なる人間は必ず死ぬものであり、いつ死ぬかわからぬ不安定な日常である。また自分の力で髪の毛一本白くも黒くもできない無力さの延長線の上で、何の不足もないと言っているところがクリティカル。禅語録をみると、その訓練は、不条理から逃げない訓練、絶望の訓練であって、自分が生きることに何の解決もないところを勘所としている。だから戦争から帰って来て寺に入ってきた青年に対し住職が寺の修行は物足りないでしょうなどと言う。白隠だって幼少時、地獄が怖くて震えていたところから始まっている。地獄の恐怖、人間として生きることの絶望と無力感、厭世、ネガティブ予言で引き起こされる将来への不安には、すべて共通の根っこがある。私が、最初にネガティブ予言を見たのは五島勉の...ネガティブ予言下の半生と厭世と
◎素朴でシンプルな生活ぶりから七つの身体民族浄化は、最近では、チベット、ウィグルで問題になっているが、古今東西、日本でも同一民族との結婚禁止とか男女を別々に居住させるとか似たようなことをやっているものだ。だから今のチベットのことは知らない。ナムカイ・ノルブの知っているのも1950年代までのチベットのこと。中共侵攻によりダライラマがチベットを脱出したのが1959年。その頃チベットを脱出したチベット密教僧も多かったのだろう。天安門事件後、日本に渡った中国人もいるように。ナムカイ・ノルブの叔父の近所に一人暮らしの老人がいて、彼は石に真言を彫って暮らしを立てていた。彼は若い頃、最初は仕立屋をやり、後に高名なラマであるドドゥプチェン(1865-1926)の馬の馬丁になっていた。誰も彼がちゃんとした修行者だと思っていなかっ...フツーの人がフツーに悟ったチベット
◎イクストランへの旅路人間には、することとしないことがある。これは、ソーマ・ヨーギであるドン・ファン・マトゥスの考え方。1962年4月13日、ドン・ファンは、カルロス・カスタネダをさる垂直壁の手前の岩棚で、『しないこと』を感得させようとした。『すること』とは、世界に意味を与えること。それによって世界は世界として成立する。社会とは、同じ意味を世界として認識している人間たちが集まることで社会として成立している。カスタネダにとって『すること』とは、しゃべったり、ノートをとったりすること。これに対してしないことの極みは、『世界を止めること』。『世界を止めること』と言えば、想念停止だが、それは単に自分の頭の中のごちゃごちゃがストップするという意味ではない。時間のない世界であるということ。それは、イクストランへの旅路。イク...しないことを学ぶ
◎宗教なき冥想道日本では焚書坑儒はなかったことになっている。だが『日本神代文字古代和字総観吾郷清彦/著大陸書房』を見ると日本の神代文字は、何十種にも及びそれを用いた文献は残っている。何が世界文化遺産と言って、神代文字を世界文化遺産と言わない不思議。敗戦後、日本が国力を盛り返してくる一方で、日本精神、大和魂の復興が手探りで試みられるようになったが、せいぜいが教育勅語の復興の動きなどであまり成功しているとは言い難い。何しろそれは国家神道という国家を挙げての戦争推進体制の一部だったのだからさもありなむ。古事記にも原古事記があったであろうことは言われている。古事記の時代以前は日本には文字がなかったことになっているが、中国にもない神代文字が残されていることから、それは日本のとある時代に用いられていたものだろうと思う。今東...日本の焚書坑儒
◎霊縛彭宗は周代の人。20歳の時、杜冲に師事し、道を学んだ。師のいいつけで薬草を取りに山に入ったとき、道でつまづいて谷底に転落して手足を怪我し、一時人事不省となった。息を吹き返してからは以前のように恭粛の姿勢を崩さなかった。また師の言いつけで山に薪取りに出かけたさいに、毒蛇に噛まれたが、少しも修行を怠ける気色を見せなかった。師の杜冲は、彭宗に丹経五千文と守一の道を授け、毎日修行した結果、道の玄妙を極めた。彭宗が山中を通って毒蛇や猛獣に出会っても、ウンと気合をかければ件の毒蛇や猛獣は皆そこに慴伏して身動きもできず、彼がその法を解いて初めて身が自由になった。これを知って、禽獣は彭宗が来ると前もって身を隠した。かつて一人の猟師が彼を見て口を極めて罵詈雑言を吐いただけでなく、刃物で彭宗を殺害しようとする様子があった。彼...彭宗
◎至道無難の即心記江戸時代初期の禅僧至道無難の言葉(即心記より)。『ものには習熟する時があるものだ。幼少の頃いろはを習い、世間に出る頃には中国のことも何でも書けるようになっている。これはいろはが成熟したものである。仏道も修行者が自らの悪業を無くするうちは苦しいが、それを除き去り尽くして仏になってから後は、何事にも苦しみはない。また慈悲についても同じこと。慈悲を行ううちは、慈悲をするという意識がある。だが慈悲が熟する時は、慈悲をするということを意識しない。慈悲を行って、慈悲を意識しないとき、これを仏という。慈悲はみな菩薩のなせる業なれば身のわざわいのいかでかあるべき(慈悲は既に見仏見性体験を経た菩薩の行為なのだから、身に災いがあるはずもない)』今はやさしさを尊ぶ時代であり、慈悲が熟しやすい時期である。この説話にも...慈悲が成熟する
◎人間の誠は、ハートにあり政治の理念と言えば、外交なら国家の安寧、内政なら公共の福祉。だが現実は、バブル崩壊以降20年以上の長期不況により国民の貧困化が進み、この度のコロナ禍では、その負の面が一挙に露見しようとしている。アメリカは、過去80年以上オバマ時代まで紛れもなく親中政策を継続してきており、その影響の下に日本企業の中国展開が行われてきた。ところが肝心の中国は、近年反米方針に転換し、一帯一路と国連への食い込み等に加え、孔子学院の輸出による共産主義洗脳の拡大など、世界制覇に向けて国を挙げて邁進しているところである。核戦力を持たぬ日本は、既に中国によってマスコミ、政界、財界、官界が相当に食い込まれていて、人間(じんかん)至るところチャイナスクールありとでもいうべき惨状である。コロナ禍に際しては、感染源としての中...洗脳の舞台としての頭(マインド)
◎高地文明大阪の人には常識なのかもしれないが、古墳時代には、大阪市の西半分は海水の入り込む湖であって、東は生駒山地の手前まで、北は交野、枚方の手前まで海岸線だったという。これを特に仁徳天皇の時代にこの河内湖の干拓を推進し、次第に今の河内平野となったという。これに比べれば、京都南部の巨椋池の干拓は規模が小さい。大阪の低地と言えば、大津波でも四天王寺までは到達しなかったなど、それなりの史実があるものだ。関東だって、江戸時代に利根川が南流していたものを茨城県方面に東流するように付け替えて、江戸の水害はよほど減ったということがある。このように日本では、治水による低地開発を千年単位で推し進め、人口増に対応してきたが、次の至福千年の時代は、出口王仁三郎のビジョンでは高地文明である。近鉄奈良線で難波から奈良に向かうと生駒のあ...水都大阪と河内湖
◎人口減少と経済ブロックと武装解除出口王仁三郎説によれば、次の時代の人口規模は、外国が3%、日本が2%と大きく減少する。世界人口は、2億くらいで、日本の人口は、2百万強か。それを背景に世界の経済ブロックが成立する。山陰ブロック、山陽ブロック、四国ブロックなどで各ブロックの人口は10万がいいところ。各経済ブロックは、自給自足が原則で、農業が主体。そうした国内の経済ブロックを基礎にアジア・ブロック、アメリカ・ブロック、アフリカ・ブロック、ヨーロッパ・ブロック、オーストラリア・ブロックなど大規模なブロックがあり、各々自給自足だが、特色ある産品の輸出入も行われる。現代は、グローバリゼーションで、地球規模の貿易が既に盛んに行われているが、出口王仁三郎ビジョンとの相違は、人口規模と軍備である。軍備で言えば、人間同士がもう参...出口王仁三郎予言の全容
◎最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きいユダヤ教ハシディズムから。『天と地との創造は、無から有を展開させることであり、上なるものが下なるものの中に降りることである。しかし、存在界から身を離して、つねに神に着く聖者たちは、真剣に神を眺め、捉えるのである――――――彼らは有を変容させて無のなかに返すのだ。そしてより不可思議なことはこれである、無すなわち下なるものを上へと高めることである。「最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きい」とゲマラに書いてあるように。』(忘我の告白叢書・ウニベルシタスマルティン・ブ-バ-/編田口義弘/訳法政大学出版局P254-255から引用)※ゲマラはタルムードの中の一部。この文では、無は最初の方では上だと言い、最後の方では下だと言うので落ちつかない。『上なるものが下なるものの中に降りる』は、トリスメギス...有を変容させて無のなかに返す
「ブログリーダー」を活用して、naitoukonanさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。