富山県高岡市古城の古城公園内に射水神社(いみずじんじゃ)があります。射水神社の社殿は明治33年(1900)の高岡大火の時に類焼して焼失しました。2年後の明治35年(1902)に再建されています。拝殿は木造平屋建て、間口3間、奥行2間、切妻造り、平入、銅板葺です。本殿は神明造り、銅板葺きです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/射水神社社殿
富山県高岡市古城の古城公園内に射水神社(いみずじんじゃ)があります。射水神社の社殿は明治33年(1900)の高岡大火の時に類焼して焼失しました。2年後の明治35年(1902)に再建されています。拝殿は木造平屋建て、間口3間、奥行2間、切妻造り、平入、銅板葺です。本殿は神明造り、銅板葺きです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/射水神社社殿
富山県高岡市古城の古城公園内に射水神社(いみずじんじゃ)があります。射水神社は越中総鎮守として二上山に祀られていた古社で、延喜式では名神大社に列し、越中式内34社の首位に置かれていました。二上山自体を神とし、その麓に鎮座していましたが養老元年(717)、元正天皇の勅願により行基が養老寺を開山し、射水神社の別当にしました。祭神の二上神を二上権現として祀り、神仏混合の大社として繁栄しました。越中では高瀬神社と同階で最高位になり、越中国一宮でもあります。ただ越中一宮と主張する神社は射水神社のほか気多神社、高瀬神社、雄山神社などがあります承平年間(931-938)に兵火にかかり社殿、社宝など灰燼に帰しました。天暦年間(947-957)に空也が再建し、社殿も整備されましたが、天正年間(1573-1592)に度々兵火...射水神社
富山県高岡市古城に高岡古城公園があります。高岡古城公園は加賀藩2代藩主、前田利長が築いた高岡城の城址を、明治8年(1875)公園として開放したものです。園内には無料の動物園、蒸気機関車、芝生広場、遊具、博物館、体育館などがあります。桜の名所としても有名で日本さくら名所100選に選定されています。加賀前田家2代の利長は、慶長3年(1598)に利家の後を継ぎ当主となりました。慶長10年(1605)に利常を3代藩主にして、自らは隠居して富山城に移りました。慶長14年(1609)3月の大火により富山城は焼失しました。そこで、当時関野と呼ばれていた地に新しく城をつくることにしました。高岡城の縄張は当時、前田家の客将だった高山右近とされています。右近はキリシタン大名で、築城の名手として有名でした。利長は、「詩経」の一...高岡古城公園
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の石廟は瑞龍寺を造営したとき,開山の広山恕陽禅師が利長、利家の父子に織田信長、信忠と信長の側室も加えて同じ形式の5基を建造しました。利長の石廟には壁面に25菩薩が刻まれています。石造建築の貴重な遺構で富山県の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺石廟
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の大庫裏は調理配膳や寺務運営を行う堂で、山門を入り右手に位置し僧堂と相対しています。桁行10間(19.7m)、梁間6間(13.9m)で、切妻造り、こけら葺きで向拝型玄開を付けています。万治年間(1658-1660)の建立ですが、幕末から明治初年にかけ撤去されました。古図面などから当初の姿に復元されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺大庫裏
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の回廊は大伽藍をとり囲み、周囲約300mにも及びます。左右対象の回廊が残っている寺院は極めて少なく、禅宗寺院最古のものです。板戸の黒と障子の白が交互に規則正しく配され、上部に小壁の白い線が通り、上下を腰板とこけら屋根の黒でひきしめています。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺回廊
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の大茶堂は創建当初に造られた建物で、全国に2つしかない貴重なものです。他の建物から伽藍への類焼を防ぐ防火壁の役目をする建物でもありました。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺大茶堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の禅堂は坐禅修行をする建物で、坐禅だけを行う場合は禅堂、食事などの修行もする場合は僧堂といわれます。延享3年(1746)に焼失し、その直後に再建されました。幕末には3分の1に縮小され、明王様の御祈祷場となっていました。平成2年(1990)に往時のように復元されました。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺禅堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の山門は禅宗様の手法形式の三間一戸の二重門です。入母屋造り、こけら葺きで左右に山廊が付いています。双方とも桁行3間、梁間1間、1重、切妻造り、こけら葺きです。文政3年(1820)に再建された建物です。通常の禅宗二重門に比べて、下層屋根に対する上層屋根の低減率が低く、雪などによって下層屋根を傷めないための雪国独自の工夫が見られます。瑞龍寺山門は平成9年(1997)に国宝に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺山門
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の総門は、正面3間の薬医門です。正保年間(1644-1648)の建立で、後世に伽藍配置の関係から現在の場所に移築されました。正面の扉は城の城門に類した造りで、四葉金具・八双金具などの金具が使われ、格の高さがうかがえます。昭和3年旧国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺総門
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の法堂(ほっとう)は、禅宗以外では講堂といわれ仏教教理を講義する場所で、明暦元年(1655)に建てられています。ここでは前後に3室ずつ6室で構成され客殿も兼ねています。桁行11間、梁間10間、1重、入母屋造り、銅板葺きです。向拝は桁行2間、梁間1間、向唐破風造りで、その前面に高廊下、さらに前面1間通りは回廊の一部で土間になっています。中央奥が仏間、左右に上下客殿が設けられ、手前は外陣に相当し説法、法要等に使用する畳敷きの間となっています。外陣も柱と欄間により3室に分けられ、さまざまな法要に対応する近世の仏堂様式となっています。屋根は始めはこけら葺きでしたが現在は銅板葺です。瑞龍寺の法堂は平成9年(1997)に国宝に指定されています。下記のサイトに...瑞龍寺法堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の仏殿は総欅造で、方三間裳階付の禅宗様建築です。桁行3間、梁間3間、1重、裳階付、入母屋造り鉛瓦葺きです。棟札により万治2年(1659年)に建立されています。屋根は始めはこけら葺きでしたが、総重量約47トンの鉛瓦葺きになっています。仏殿は平成9年(1997)に国宝に指定されています。瑞龍寺仏殿の内部は土間床になっています。天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点、柱、扉、窓などの細部様式など禅宗様建築の特色です。須弥壇には中央に釈迦如来、脇侍に文殊、普賢菩薩の釈迦三尊を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一...瑞龍寺仏殿
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。高岡山瑞龍寺は曹洞宗のお寺で、山門、法堂、仏殿は国宝に指定されています。富山県にある国宝はこの瑞龍寺だけだそうです。加賀藩2代藩主・前田利長の菩提寺で、利長の義弟で3代藩主になった前田利常によって建立されました。文禄3年(1594)に加賀藩2代藩主・前田利長は金沢に織田信長・信忠の追善のため、宝円寺を建立しました。44歳の若さで家督を異母弟の利常に譲り、隠居して金沢から富山に移りました。富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築き、法円寺(宝円寺を改称)を、慶長18年(1613)に高岡に移しました。翌、慶長19年(1614)に利長は没し、後を継いだ3代藩主・前田利常は、法円寺を利長の菩提寺としたのです。そして利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞...瑞龍寺
富山県高岡市関町に総持寺があります。六十六部とは、廻国し納経する聖のことです。総持寺に六十六の石仏が納められました。現在は三十九体が残されています。平成14年(2002)にこの石仏を含む関町の町並みが高岡市の景観賞に選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/六十六部石仏
富山県高岡市関町に総持寺があります。総持寺の本尊は十一面千手観音座像です。年に一度11月15日にだけ御開帳されます。像高は72.5㎝で、昭和12年(1937)に旧国宝に指定され、昭和25年(1950)に改めて国の重要文化財に指定されています。曼荼羅堂内には12体の仏像を安置しており、弘法大師の伝えた真言密教の曼荼羅世界を表しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/総持寺十一面千手観音座像
富山県高岡市関町に総持寺があります。衆徳山胎生院総持寺は高野山真言宗のお寺です。22世の快雄和尚は高岡の町を開くとき、前田利長に「関野」と呼ばれていたこの地を、中国の古典の「詩経」から「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に」から「高岡」という地名にするよう提案したことで有名です。総持寺は平安時代に旧礪波郡五位荘に開かれたのが始まりといわれています。正平8年(1353)、禅恵和尚が中興し、高岡市の石堤付近に移りました。前田利長が高岡城を築城した慶長年間(1596-1615)に現在地に移りました。境内には本堂にあたる曼荼羅堂や観音堂、聖天堂、薬師堂、位牌堂、鐘楼などが建てられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...総持寺
富山県高岡市福岡町下向田に旧福岡町役場(福岡町歴史民俗資料館)があります。福岡公園内にある旧福岡町役場は現在、福岡町歴史民俗資料館になっています。この建物は、大正13年(1924)、地元の篤志家壽原英太郎(すはらえいたろう)の寄贈により、洋風をまねた公会堂として福岡駅前通りに面して建設されました。公会堂・町役場として使用され、昭和38年(1963)、役場新庁舎建設とともに町立図書館・中央公民館として使用されました。その後、歴史民俗資料館として保存活用することになり、昭和63年(1988)にかけて移転・修改築がなされました。富山の建築百選に選定され、平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。木造2階建ての洋風建築です。寄棟、桟瓦葺き、建築面積265㎡、外壁はモルタルで石造風に仕上げ外観を石...旧福岡町役場(福岡町歴史民俗資料館)
富山県高岡市福岡町蓑島に佐伯家住宅があります。佐伯家住宅は、間口10間(18.2m)、奥行7間(12.7m)の入母屋造り、平入の建物で、建築面積は212.1㎡、外壁は真壁造り、土壁鏝押え、腰壁は下見板張り縦押縁押え、背後は杉皮で外壁を保護しています。移築前は主屋背面に「中つの」がありましたが、移築されたのは主屋だけで、その後「つの」「おろし」「しょくじば」が増築されました。正面にあたる3間半が茅葺きの主屋とひさし、背後の3間半が桟瓦葺きの「おろし」となっています。江戸時代後期の文化年間(1804-1818)と明治時代以降に何度か改修、増築されていますが母屋部分は江戸時代中期に建てられたものです。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定され、昭和48年(1973)には復元工事がなされています。下記のサイ...佐伯家住宅主屋
富山県高岡市福岡町蓑島に佐伯家住宅があります。佐伯家は旧蓑島村の旧家で、家蔵の「家作諸入用一巻」に、明和4年(1767)工事に着手し、翌5年に約15km離れた所にある旧川崎村(現南砺市上川崎)の十村役(庄屋)を務めた三之助の住宅を佐伯氏が買い取って移築したと記してあるそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐伯家住宅
富山県小矢部市芹川(せりかわ)に旧宮島村役場があります。旧宮島村役場は石川県境に近い旧宮島村にあった建物で小矢部市に残る数少ない洋風建築です。昭和61年(1986)に現在地に移築され個人の宅邸兼アトリエとして再利用されています。平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録され、平成21年(2009)に「とやまの近代歴史遺産」に選定されています。大正15年(1926)に宮島村役場として建てられたもので、木造2階建て、建築面積は131㎡です。むくりのついた寄棟造り、桟瓦葺き、下見板張の洋風建築です。正面中央2階上部の半円形ブロークンペディメントと瓦葺きのマンサード屋根などは独特です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキ...旧宮島村役場
富山県南砺市安居(やすい)に安居寺(あんごじ)があります。安居寺寺内の入口に高さ36mもある大ケヤキが立っています。推定樹齢は500年といわれ、幹周7.6mもあります。ニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹で、昭和37年(1962)に南砺市の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/安居寺大ケヤキ
富山県南砺市安居(やすい)に安居寺(あんごじ)があります。安居寺の観音堂は加賀藩の重臣岡島備中守の婦人月清大姉の寄進で、明和3年(1766)に再建された建物です。間口7間、奥行7間の単層入母屋造り、妻入、桟瓦葺きで、正面に1間の向拝が付けられています。観音堂は富山県の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/安居寺観音堂
富山県南砺市安居(やすい)に安居寺(あんごじ)があります。安居寺の仁王立像は総高約3.3mもあり、慶長20年(1615)に造られています。仏敵が仏殿に入り込むのを防ぐ守護神です。阿形像と吽形像が一体となり仁王門の下層の左右に立っています。万治2年(1659)に造られた鰐口と共に南砺市の有形文化財に指定されています。・下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/安居寺仁王立像
富山県南砺市安居(やすい)に安居寺(あんごじ)があります。安居寺の仁王門は明和9年(1772)に建てられています。三間一戸の八脚楼門で入母屋造り、桟瓦葺き、外壁は真壁造り板張りで、上層部には高欄が廻されています。下層部には仁王立像が安置されています。仁王門は南砺市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/安居寺仁王門
富山県南砺市安居(やすい)に安居寺(あんごじ)があります。弥勒山安居寺は高野山真言宗のお寺です。養老2年(718)、インドから渡来した善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が招来した聖観音像を安置して一宇を創建したのが始まりといわれています。聖武天皇の時(724-749年)、勅願所と定められ、行基が勅令により壮大な大伽藍を造営したと伝えられています。平安時代後期には花山法王がこの地を訪れ参籠しています。また中世には兼好法師や宗祗法師なども巡錫で訪れています。天皇の勅願所として寺運も隆盛し最盛期には24坊を擁していましたが、平安時代末期に木曽義仲の兵乱により多くの堂宇、記録、寺宝が焼失し衰微しました。その後、室町幕府8代将軍足利義政が再興しましたが、元亀・天正年間(1570-1592)に再びしばしば兵火を受け衰退し...安居寺
富山県南砺市安居に冨田家住宅があります。冨田家住宅の北土蔵は南土蔵と並んで建ち、明治前期の建物です。切妻造り、置屋根式桟瓦葺き、二階建てで、東面に南土蔵と一連の吹放し下屋を通しています。掛子塗戸(かけこぬりど)には「波に亀」の鏝絵(こてえ)が飾られています。令和元年(2019)に国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/冨田家住宅北土蔵
富山県南砺市安居に冨田家住宅があります。冨田家住宅の南土蔵は安居寺参道側にあり、主屋背面の石垣の上に北土蔵と並んで建っています。切妻造り、置屋根式桟瓦葺きの二階建てで、昭和前期の建物です。戸前には北土蔵と一連の吹放しの下屋を通しています。令和元年(2019)に国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/冨田家住宅南土蔵
富山県南砺市安居に冨田家住宅があります。冨田家住宅の長屋門は主屋正面に東面して建てられています。切妻造り、桟瓦葺で、北を門口、南を真壁漆喰塗の物置としています。門口は間口3.2mで本柱を立てて板扉を備え、南に袖壁、北に潜戸を設けています。梁に文化、天保の墨書があることから江戸時代後期の1804-1843年の間に建てられたと思われます。桐木(東石黒)の肝煎(きもいり)であった丹羽家の門を移築したと伝えられています。当初は物置のない薬医門であったと思われます。旧家の屋敷構えに厳かな趣を添える表門であるといえます。令和元年(2019)に国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ...冨田家住宅長屋門
富山県南砺市安居に冨田家住宅があります。冨田家住宅の主屋は大正12年(1923)から5年をかけて建てられています。入母屋造り、平入の木造2階建ての大型住宅で、四周に下屋を廻し、屋根は総桟瓦葺きです。間口11間半(21.1m)、奥行9間(16.7m)で、建築面積は365平方mです。伝統的な形式を基調とし、良材を用いて質の高い大工技術が隅々まで行き渡っています。透き漆塗を施した木部、ガラスを多用した建具などには近代の和風の意匠が使われています。座敷の欄間には井波彫刻が施されています。平成16年(2004)に国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.f...冨田家住宅主屋
富山県南砺市安居に冨田家住宅があります。冨田家の初代、冨田斉宮は織田信長に仕え、その後、柴田勝家、豊臣秀吉に奉公しました。大阪城落城の時に現在地に越し、藩政期に肝煎(きもいり)を務めた家柄です。冨田家住宅は現在でも木組や建具には寸分の狂いも無いということです。座敷の欄間は民間住宅に井波彫刻が取り入れられる初期の作品として貴重です。主屋、長屋門、味噌蔵、南土蔵、北土蔵が国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/冨田家住宅
富山県南砺市福光に棟方志功記念館「愛染苑」があります。鯉雨画斎(りうがさい)は、棟方が初めて持った新築の住まいで、「滝登りの鯉」「雨に打たれた鯉」にちなんで「鯉雨画斎」と名づけました。棟方は大変喜び、家の中の板戸や柱、風呂桶や厠まで絵が描かれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/鯉雨画斎
富山県南砺市福光に棟方志功記念館「愛染苑」があります。板画家棟方志功は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)4月から26年(1951)11月までの6年間、福光に疎開していました。当時、棟方のお世話をしていた石崎俊彦氏が作品を寄贈し、昭和57年(1982)に記念館として設立されたのが、棟方志功記念館「愛染苑」です。「愛染苑」では棟方志功の福光での生活が感じられるように展示を工夫し、疎開時代に制作した作品を中心に展示しています。隣には「青花堂」や「棟方志功資料館」、棟方が暮らした住まいである「鯉雨画斎」などが建てられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.c...棟方志功記念館「愛染苑」
富山県南砺市福光(ふくみつ)宮脇町に宇佐八幡宮があります。宇佐八幡宮の拝殿は江戸後期の天保15年(1844)に建てられています。間口3間、奥行3間、木造平屋建て、入母屋造り、平入、銅板葺きで、正面には千鳥破風が施され、正面に1間の軒唐破風の向拝が設けられています。奥に続く本殿は覆屋の中に鎮座しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宇佐八幡宮拝殿
富山県南砺市福光(ふくみつ)宮脇町に宇佐八幡宮があります。福光の宇佐八幡宮は福光の市街地の中央に位置しています。祭神は誉田別命・息長帯日売命・誉田別比売神で旧郷社です。江戸時代には八幡宮と称されていました。天平勝宝2年(730)、当時の領主大伴持豊が宇佐八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。この八幡宮は石黒郷の総社として石黒一族の崇敬が厚く、慶長年間(1596-1615)には加賀藩主の祈願所になりました。寛仁元年(1017)に寛仁寺が別当寺として創建され神仏習合していましたが明治時代初頭の神仏分離令により寺は廃されました。社宝である猛虎図は文化5年(1808)に描かれたもので、円山応挙と並び有名だった岸駒の手によるものです。昭和49年(1974)に南砺市の有形文化財に指定されています。江戸後...宇佐八幡宮
光龍館の建物は一部平屋建ての木造2階建て、寄棟造りで玄関の突出部は入母屋造り、平屋部は切妻造りになっています。桟瓦葺き、平入で、外壁は下見板張り、玄関突出部は白漆喰です。「旧高宮医院(光龍館)」として昭和54年(1979)に南砺市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧高宮医院(光龍館)
富山県南砺市高宮にがあります。光龍館は明治18年(1885)に高宮病院として大井精医師によって建てられました。擬洋風建築では富山県では最も古い建物です。現在は南砺市福光福祉の家「光龍館」として利用されています。建物は、国の重要文化財に指定されている長崎のグラバー邸と同じく東洋のコロニアルスタイルの建築様式です。玄関付近には凝った意匠が施されています。手摺は洋風バルコニー風で、曲線や飾り金物が使われています。懸魚や破風の鏝絵などと調和させ、雪割り瓦で仕上げられています。光龍館の建物は南砺市の有形文化財に指定され、平成21年(2009)には富山県教育委員会による「とやまの近代歴史遺産」に選定されています。そして富山の建築百選にも選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda...光龍館
富山県砺波市庄川町金屋に庄川合口ダムがあります。庄川合口ダムの道路を挟んだ隣には庄川水記念公園があります。庄川特産館、庄川ウッドプラザ、庄川ふれあいプラザが公園内にあり、伝統的工芸品や特産品の展示、販売をしています。公園の周囲にはコシノヒガンが植樹され、富山さくらの名所70選に選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/庄川水記念公園
富山県砺波市庄川町金屋に庄川合口ダムがあります。庄川合口ダムは、舟戸ダムとも呼ばれています。正式には庄川合口堰堤(えんてい)です。一級河川の庄川にある18のダムのうちの一つで、最も下流に位置しています。昭和14年に完成した重力式コンクリートダムで、堤高は18.5m、堤頂長は103.3m、貯留面積156000平方m、貯留容量405000立方mです。庄川平野部の以前の農業用水は左岸に6ヶ所、右岸に4ケ所の用水があり、取水口がありました。合理的な取水のため合口にするダムが造られました。また関西電力の中野発電所と雄神発電所による水力発電にも利用されています。ダムの左岸には川に階段式の魚道が整備されています。平成16年(2004)に国の有形文化財に登録され、農林水産庁による水土里の文化遺産に選定され、平成21年(2...庄川合口ダム
富山県南砺市井波に井波八幡宮があります。井波八幡宮本殿西側に蚕堂があります。文久元年(1861)に地元の蚕業者達が蚕の霊をともらうために建立した総ケヤキ造りの建物です。御堂建築の遺構として南砺市の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/井波八幡宮蚕堂
富山県南砺市井波に井波八幡宮があります。井波八幡宮の境内には松島大杉と呼ばれる大木があります。推定樹齢500年を超し、樹高40.4m、幹周7.6m、1本杉としては富山県内10本の指に入る大きなものです。井波城の追手門付近にあった事から追手門の杉とも呼ばれたそうです。昭和41年(1966)に南砺市指定天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/松島大杉
富山県南砺市井波に井波八幡宮があります。井波城跡は八乙女山の裾に築かれた平山城です。本願寺勢力下の瑞泉寺によって建てられた城郭伽藍で、城域は東西250m、南北230mあります。天正9年(1581)に佐々成政の侵攻で支配下に入り、天正13年(1585)に前田利家により落城しました。南砺市の史跡に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/井波城跡
富山県南砺市井波に井波八幡宮があります。井波八幡宮本殿は江戸時代末期の嘉永5年(1852)に造営されました。拝殿は間口4間、入母屋造り、銅板葺き、平入で正面に1間の向拝が付けられ、千鳥破風の豪華な建物です。南部栄輔が棟梁として手掛け、嘉永6年(1853)に造営されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/井波八幡宮本殿拝殿
富山県南砺市井波に井波八幡宮があります。井波八幡宮の境内は瑞泉寺の隣にあり、昔は瑞泉寺の土地で戦国時代は浄土真宗の一大拠点になった井波城の本丸でした。広い境内の左手には綽如上人瑞泉寺創立之霊跡、霊水・臼浪水があります。南北朝の頃、本願寺五世綽如上人が建立した瑞泉寺の古跡でもあります。井波八幡宮の宮司は町長でもあった砺波運輸社長の綿貫学氏が務めました。その息子で衆議院議長・自民党幹事長も歴任した綿貫民輔がその後務め、今はその息子さんが務めています。井波八幡宮の創建は明徳4年(1393)石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられ、近郷四十八ヶ村の総社として広く信仰されました。毎年5月3日に行われる春祭りは天保4年(1833)に始まったよいやさ祭りとして知られています。下記のサイトにもお立ち寄りください!...井波八幡宮
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺の司晨楼(ししんろう)は間口5.1m、奥行4.6mの一重入母屋造り、上層は鉄板葺き、下層が桟瓦葺きの太鼓堂です。「すでに暁天(ぎょうてん)明けなんとすれば、是を打ちて人の睡魔を破りて仏前に向かわしめ、礼仏恭敬をすすむる鼓なり」と瑞泉寺11世で、俳人として知られる浪化(なみか)が司晨楼と命名しています。浪化の司晨楼之記にあるように、広い講堂に読経などの時を告げる合図として、太鼓が鳴らされたということです。たびたび類焼した太鼓堂ですが天保13年(1842)に再建され、昭和50年(1975)に修復されています。平成12年(2000)に南砺市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/jap...瑞泉寺司晨楼
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺には後小松天皇廟があります。大正15年(1926)に砺波の相撲講の募財で建立されました。後小松天皇は南北朝末期から室町初期の持明院統の天皇です。後円融天皇の第1皇子で。明徳3年(1392)、南北両朝合一に際し大覚寺統の後亀山天皇から神器を受け、応永19年(1412)譲位して院政をとりました。和歌・連歌に長じ、琵琶なども愛好したようです。一休宗純の父親でもあります。「周圓上人」の号を開基の綽如(しゃくにょ)上人に授けています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/後小松天皇廟
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺の式台門は一間一戸、入母屋造り、銅板葺きの向唐門です。勅使参向の際の出入りに使われる勅使門です。菊の紋章が掲げられているので菊の門とも呼ばれています。宝暦12年(1762)の大火で全焼し、寛政4年(1792)に再建された門です。平成17年(2005)の大法要で大修復されています。棟梁は井波出身の柴田清右衛門、彫刻は番匠屋9代の北村七左衛門があたり井波彫刻の源流を示す名作といわれています。昭和30年(1955)に南砺市の有形文化財に指定されています。門の両脇には、井波彫刻の元祖番匠屋七左衛門作の「獅子の子落し」の彫刻などがあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほ...瑞泉寺式台門
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺の鐘楼は間口5.1m、奥行4.6mの一重入母屋造りです。婦人団体「徳円会」によって建てられ、昭和7年(1932)に落慶しました。鐘楼に吊下げられている。大梵鐘は口径4.1尺(124cm)、重さ900貫(3372kg)で北陸随一です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞泉寺鐘楼
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺境内は昭和30年(1955)に南砺市の史跡に指定されています。広々とした境内には、本堂、太子堂、書院、鐘楼、山門、茶所、鼓楼、庫裏、詰所などが建ち並び、格式の高い佇まいをみせています。八乙女山を背景に美しい桜や藤の花々などが咲き乱れます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞泉寺境内
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺太子堂は大正7年(1918)に井波彫刻の粋を集めて再建されました。間口16間、奥行16間、重層入母屋造り、本瓦葺き、平入で、正面に3間の軒唐破風の向拝が付けられています。外壁は真壁造り板張りで、内部には後小松天皇から賜った聖徳太子2歳像が安置されています。太子堂は南砺市の有形文化財に指定されています。もともと井波には太子信仰があり、浄土真宗とともに仏の教えがこの地域に広げられました。太子堂には大正時代の井波建築の粋を集めた大工や彫刻師の優れた技が発揮されています。屋根を支えている手挟みは精緻な造りで一本の木から掘り出されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほ...瑞泉寺太子堂
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺の山門(大門)は、三間一戸、入母屋造り、本瓦葺きです。間口20.3m、奥行15.5m、高さ17.4mの総ケヤキ造り、八脚二重門です。真宗寺院建築の山門形式を代表する建造物で、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。宝暦12年(1762)、瑞泉寺は全焼し、京都の本山(東本願寺)から肝煎(きもいり)方大工・柴田新八郎などが派遣されて各伽藍の再建が進められました。山門の工事は天明5年(1785)に始まりました。その工事中に本山である東本願寺が全焼してしまったのです。そちらを再建するために本山派遣の大工たちは引き上げてしまいました。そのため、地元の大工・松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)上棟式を行ない、見事に山門を完成させたそうです。山門...瑞泉寺山門
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺の本堂は単層入母屋造り、銅板葺き、平入、間口25間(46m)、奥行23間半(43m)、面積590坪(1950㎡)です。明治12年(1879)、火災により焼失し、明治18年(1885)に再建された建物です。瑞泉寺本堂は北陸地方の真宗寺院の中でも最大級の木造建築物で、棟梁は井波出身の松井角平恒広があたり、向拝などには井波彫刻が随所に施されています。本尊は阿弥陀如来、両脇壇には宗祖・新鸞上人や先門主の御影があり、右余間壇には後小松天皇尊牌が安置されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞泉寺本堂
富山県南砺市井波に瑞泉寺があります。瑞泉寺は南北朝時代の永和年間(1375-1379)に本願寺5世・綽如(しゃくにょ)上人が巡錫で当地を訪れた際、霊地と悟り草庵を設けたのが始まりといわれています。後小松天皇から「周圓上人」の号と聖徳太子南無佛木像、聖徳太子絵伝(8巻)を賜り、明徳元年(1390)に堂宇を造営し「瑞泉寺」の勅号を賜りました。そして後小松天皇の勅願所として繁栄しました。綽如上人は瑞泉寺を拠点に浄土真宗を広め、2世の如乗(巧如上人の子)、3世蓮乗(蓮如上人2男)が続き、北陸地方で数多くの信者を得ました。北陸地方の一向宗の中心となり、加賀、越中、能登の一向宗の370ものお寺を束ねる一大拠点となりました。文明13年(1481)には領主である越中福光城主・石黒光義と天台宗の惣海寺の連合軍に勝利し、砺波...瑞泉寺
富山県南砺市井波に池波正太郎ふれあい館があります。池波正太郎ふれあい館は、池波正太郎の作品や人柄、地元の人達との結びつきを知ることができる小さな博物館で、八日町通り沿いのよいとこ井波の中にあります。正太郎の父方の先祖が井波から江戸へ出た宮大工であった縁でこの館が生まれました。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛け人藤枝梅安」などの人気時代小説を執筆した池波正太郎と井波のつながりや井波の人達と交わした書簡や自筆絵画、色紙、写真、さらには著書本、池波正太郎氏愛用の品々を展示しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/池波正太郎ふれあい館
富山県南砺市北川に井波町物産展示館(旧井波駅駅舎)があります。旧井波駅駅舎は井波町が寄付金を集め、全国的にも珍しい純ヒノキ造りの、木造仏閣院風の建物にしました。木造平屋建て、入母屋造り、瓦葺き、間口9.5間、奥行3.5間、建築面積253㎡で、正面と背面に千鳥破風があり、屋根上部には宝形造りの楼閣を乗せ仏閣建築風の意匠となっています。この駅舎は、井波を代表する宮大工・松井角平によって建てられています。宝形屋根の楼閣の金色の屋根飾りや、千鳥破風の拝みに懸魚(けぎょ)が下がり、楼閣隅木に風鐸があるなど特色ある建物になっています。平成8年(1996)には駅舎が登録有形文化財に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログラン...旧井波駅駅舎
富山県南砺市北川に井波町物産展示館(旧井波駅駅舎)があります。井波町物産展示館は昭和9年(1934)に建築された旧加越線の駅舎で、瑞泉寺後小松天皇500回御正忌法要を記念して建てられたものです。かつて富山県東礪波郡井波町(現在の南砺市)にあった加越能鉄道加越線の駅でした。昭和47年(1972)、加越線の廃止により廃駅となり、駅舎は井波町に返還されました。それ以降は井波町物産展示館として、木彫刻品などの展示に使われ、バスターミナルとしても活用されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/井波町物産展示館(旧井波駅駅舎)
富山県南砺市高瀬に高瀬神社があります。髙瀬神社の本殿と拝殿は国費で昭和17年(1942)より工事が始まりましたが、昭和20年(1945)の終戦でGHQの指令により中止となりました。地方の有志によって昭和22年(1947)に流造りの本殿、翌年に入母屋造りの拝殿、更に昭和62年(1987)に唐破風の向拝殿が完成しました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/髙瀬神社本殿と拝殿
富山県南砺市高瀬に高瀬神社があります。髙瀬神社の手水舎は昭和45年(1970)に伊勢神宮より下付され、外宮から移築されたものです。中にある水鉢は、新潟県只見川上流から運ばれた自然石でつくられた「洗心」の禊場であります。石の裏には「水神」の文字が刻まれているそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/髙瀬神社手水舎
富山県南砺市高瀬に高瀬神社があります。髙瀬神社の大鳥居は昭和60年(1985)、昭和天皇の在位60年を祝って、故・西田東作氏(株式会社ゴールドウイン創業者)の寄進で建立されました。大鳥居の中には奉写された大祓詞が収められており、鳥居をくぐる人々の罪やけがれを祓い清めています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/髙瀬神社大鳥居
富山県南砺市高瀬に高瀬神社があります。髙瀬神社は昭和41年(1966)に南砺市の史跡に指定されています。続日本紀の中に高瀬神として記され、延喜式神名帳にも記されていることから、農耕地として朝廷にとって重要な所だと考えられていたようです。また高瀬神社の御旅所跡も同じく南砺市の史跡に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/髙瀬神社
富山県南砺市高瀬に高瀬神社があります。髙瀬神社は延長5年(927)の「延喜式神名帳」に小社として列せられ、礪波郡の式内社7座の筆頭に記載された古社です。越中国一宮として古くから人々から崇敬されてきました。(越中国一宮を名乗る神社は射水神社、気多神社、雄山神社などもあります)日本海沿岸と関連が深い大己貴命(大国主命)が祭神で能登や伏木の気多社も同じ祭神です。奈良時代の宝亀11年(780)に従五位下に叙され、平安時代の貞観元年(859)には正三位に昇進しています。射水神社と同時・同階で、共に越中国最高位の神社として朝廷の崇敬を受けていました。中世には越中国の一向宗徒の支配下に入り、戦国時代の戦乱により荒廃しました。江戸時代には加賀と越中藩主・前田氏の崇敬を受け、手厚く保護されました。明治6年(1873)に県社...髙瀬神社
富山県南砺市苗島(なわしま)に旧富山県立農学校本館(厳浄閣)があります。旧富山県立農学校本館は福野高等学校入口の右手に残されています。明治36年(1903)に建てられた木造2階建て、寄棟造り、桟瓦葺きで、建築面積は333.3㎡の和洋折衷の建物です。設計施工は砺波市太田出身の藤井助之丞が手懸けています。コロニアル様式という木造下見板張りペンキ塗り、縦長の上げ下げ窓の西洋建築のデザインを基本としています。正面屋根中央部に半円形屋根の特徴ある塔屋が付いています。ポーチの上の窓はギリシャ風の飾り窓になっています。建物の床は高く、玄関の開き扉の上は、半円形の欄間となっています。明治42年(1909)には皇太子(後の大正天皇)の御座所としても利用されました。昭和62年(1987)「富山県の建築百選」に選定され、平成9...旧富山県立農学校本館
富山県南砺市苗島(なわしま)に旧富山県立農学校本館(厳浄閣)があります。富山県立南砺福野高等学校は富山県簡易農学校として、明治27年(1894)に発足しました。権正寺の島巌氏が遺言で農学校建設を願って家財全部を時の石川県令(県知事)に寄付したことから始まりました。昭和43年(1968)、移築と修復工事を終えた旧本館は、時の吉田知事により巖浄閣と命名されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧富山県立農学校本館
富山県砺波市苗加に万福寺(まんぷくじ)があります。万福寺の本堂は木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺き、平入です。間口6間、正面に1間の向拝が付けられています。外壁は真壁造り白漆喰仕上げです。本尊の阿弥陀如来が祀られています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/万福寺本堂
富山県砺波市苗加に万福寺(まんぷくじ)があります。万福寺の山門は県内に残っている城の門としては最も古い遺構です。切妻造り、本瓦葺き、2間一戸、薬医門形式、潜戸付きです。妻飾りなども室町時代から桃山時代の作風も見られる貴重なもので昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。万福寺の山門は昭和29年(1954)に台風によで倒壊しました。翌年復元されましたが、その時発見された墨書から貞享5年(1688)の建立であることと、「城主荒木六兵衛大手之門」ともあり、大手門のあった場所に新たに建立されたか、大手門の部材を用いて再建したものと推察されます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村htt...万福寺山門
富山県砺波市苗加に万福寺(まんぷくじ)があります。万福寺は浄土真宗東本願寺派のお寺です。「寺院明細帳」によると平安時代後期の嘉応2年(1170)に開かれ、室町時代初期の延文5年(1360)に現在地に移ったとされています。また貞享2年(1685)に書かれた「寺社由緒書」には、室町時代の明応3年(1494)に開かれたと記されているそうです。風情ある万福寺の入口には立派な山門が建っています。享和元年(1801)に善徳寺から譲られたものでした、善徳寺ではその前年に楼閣の新しい山門が建立されていました。善徳寺境内は戦国時代は荒木館、城ヶ鼻城とも呼ばれた城端城(じょうはなじょう)だったようで、山門は大手門だったのです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/jap...万福寺
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。中越弁慶号はイギリスのナスミス・ウィルソン株式会社の明治29年(1896)製の機関車です。明治30年(1897)から大正9年(1920)まで、中越鉄道では甲一形三号として登録され、客車、貨車の牽引に携わりました。昭和40年(1965)に砺波市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/中越弁慶号
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。公園内のシンボルであるチューリップタワーは1970年大阪万博の太陽の塔に魅せられて建設されました。令和3年(2021)に高さは約26mの二代目タワーが完成しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/チューリップタワー
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。公園内には全国でも最大級の五連陽水水車が動いています。最も大きい水車は直径5.5m、幅1mで、外周の両側にある224個の柄杓で毎分6.4トンの水を汲み上げています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/五連陽水水車
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。旧中島家住宅は18世紀末に建てられています。間口10間(18..2m)、奥行3間半(6.3m)、寄棟造り、茅葺き、平入で、主屋の後ろに3間半(6.3m)、4間(7.3m)の「つの屋」を逆T字型に取り付けています。昭和51年(1976)に砺波市の有形文化財に指定されています。中嶋家は代々江波村の肝煎(村長)を務めていた家柄で、旧中島家住宅は江波に建てられていました。昭和51年(1976)に砺波チューリップ公園内に移築保存されました。内部はオイ(広間)を中心に座敷、ネワ(土間)、茶の間、台所、ヘヤ(寝室)が配された砺波地方の典型的な農家です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブロ...旧中島家住宅
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。旧中越銀行本店は砺波郷土資料館になっています。中越銀行は砺波地方の地主層の発起で明治27年(1894)に設立されています。この旧本店は明治42年(1909)に建てられたもので、昭和57年(1982)に砺波市の有形文化財に指定されています。中越銀行は昭和18年(1943)に統合して北陸銀行になっています。旧中越銀行本店は洋風を取り入れた土蔵造り2階建て、入母屋造り、妻入り、銅瓦棒葺き(元は本瓦葺き)で、三方に下屋をおろし、後方にT字型に入母屋根を組合わせています。間口9間(16.36m)で、奥行は10間(18.79m)あります。内部は吹抜けの営業室を中心に、三方をロビーで囲み、化粧材はすべて欅を用いて、全体をコリント様式の彫刻でまとめています。現在は、砺波...旧中越銀行本店
富山県砺波市花園町に砺波チューリップ公園があります。砺波チューリップ公園は富山県の県花、砺波市の市花であるチューリップを中心に四季折々の花を楽しみながら散策できる都市公園(総合公園)です。300万本のチューリップや、コキア、パンジーなどが咲き乱れます。チューリップ公園のシンボルのチューリップタワーを中心に公園内外には日本最大級の五連陽水水車やチューリップ四季彩館、砺波市美術館、砺波市指定有形文化財の砺波郷土資料館(旧中越銀行本店)や、旧中島家住宅、SL中越弁慶号などがあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/砺波チューリップ公園
富山県高岡市戸出町に永安寺(えいあんじ)があります。海雲山永安寺は曹洞宗のお寺です。明徳4年(1393)に瑞雲恵俊により礪波郡下中条村に「海雲寺」として創建されました。寛永20年(1643)に豪農で十村役の川合家の当主・3代目川合又右衛門広満が現在地に海雲寺に移し「永安寺」と改め、川合家歴代の菩提寺としました。昭和33年(1958)、戸出御旅屋{加賀藩主の宿泊や休憩の屋敷として寛永19年(1642)に前田利常によって建てられた建物}が老朽化のため取り壊され、正門だけが川合家が払い下げを受けた関係で永安寺に移築されました。御旅屋の門としての価値が認められ、昭和42年(1967)には高岡市指定文化財に指定されました。平成25年(2013)にこの門は戸出コミュニティセンターに移築・修復されています。永安寺には本...永安寺
富山県高岡市戸出町の戸出コミュニティーセンターの入口に戸出御旅屋の門(といでおたやのもん)が復元されています。戸出御旅屋は加賀藩主の宿泊や休憩の屋敷として寛永19年(1642)に本町(現在の戸出町3丁目北陸銀行戸出支店付近)に加賀藩3代藩主・前田利常(まえだとしつね:前田利家の4男)の命で建てられました。御旅屋門はその正門として上使街道沿いに建てられていました。豪農で十村役の川合家が管理していましたが、わずか45年で川合家に払い下げられました。御旅屋の建物の一部は昭和33年(1958)まで残っていましたが、老朽化のため取り壊されました。門だけは川合家の菩提寺である永安寺に運ばれ、平成25年(2013)に戸出コミュニティセンターに移築されました。移転・修復された御旅屋の門は高さ5.1m、幅10.8m、奥行3...戸出御旅屋の門
富山県砺波市福岡に厳照寺(ごんしょうじ)があります。厳照寺の梵鐘は寛永15年(1638)に砺波郡西保(現在地ー高岡市西部金屋)の鋳物師によって鋳造されたものです。鐘身96cm、竜頭(りゅうず)21cm、口径(外径)70cmの銅製です。江戸時代的な過飾はみられず、室町時代様式を踏襲しています。昭和42年(1967)に砺波市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/厳照寺の梵鐘
日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/r="0">厳照寺の門杉
富山県砺波市福岡に厳照寺(ごんしょうじ)があります。厳照寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。室町時代の明徳元年(1390)、本願寺5世の綽如上人(1350-1393)が開いたのが始まりと伝えられています。厳照寺は天正13年(1585)11月の大地震で庄川が大洪水になり境内が流されたため移転し、正保4年(1647)、加賀藩から100間4方のこの地を与えられ移りました。本尊の木造阿弥陀仏如来像は恵心僧都(源信)が刻んだといわれ、昭和42年(1967)に砺波市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/厳照寺
富山県砺波市芹谷に千光寺(せんこうじ)があります。千光寺の観音堂は文政2年(1819)に井波大工棟梁の松井角平恒徳によって建てられています。間口11.8m、奥行14.25m、正面に唐破風の向拝が付けられています。入母屋の建物をT字型に組み合わせた複合入母屋造りで、総欅の銅板葺きです。向拝の迫力のある龍の欄間や「竹に虎」の彫刻、室内の欄間の唐獅子彫刻は見ごとです。観音堂は昭和50年(1975)に砺波市の有形文化財に指定されています。本尊の聖観世音菩薩は銅で造られた秘仏で、富山県指定文化財です。白鳳期の特色をもつ童顔・童形像で三面飾りの唐式宝冠をつけた頭部と肩は大きく、腕は長い造りです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログラン...千光寺観音堂
富山県砺波市芹谷に千光寺(せんこうじ)があります。千光寺の御幸門は通用門で、高岡市の国宝瑞龍寺にあった裏門を明治5年(1872)に移築した門です。武家屋敷や大寺院の正門に多い「一間薬医門」様式で、高さ5.3m、幅5.5mです。北陸では最古級のもので、砺波市の有形文化財に指定されています。昭和44年(1969)に砺波市で全国植樹祭が開かれた際、昭和天皇が通られたことから御幸門と呼ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/千光寺御幸門
富山県砺波市芹谷に千光寺(せんこうじ)があります。千光寺の山門は入母屋造り、間口3.8間(6.9m)、奥行2.3間(4.2m)、本瓦葺き、総欅造り、禅宗様形式の、三間一戸の八脚二階二重楼門です。第64世・行編の時の寛政9年(1797)に井波大工棟梁・柴田清右衛門によって建立されました。二階二重門は、県内には瑞泉寺、瑞龍寺、善徳寺と千光寺の4ケ所しかなく、この形式の門としては県内最古の建物です。山門は江戸時代後期の楼門建築の遺構として大変貴重で平成12年(2000)に砺波市指定文化財に指定されています。また附として山門棟札、山門棟上一巻覚帳も同様に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ...千光寺山門
富山県富山市婦中町千里に常楽寺があります。木造聖観音立像は、もとは山田村の宿坊に安置されていたと伝えられています。像高185.8㎝で、栴壇の一木造りです。木造十一面観音立像よりも早い時期に造られたと思われます。力強く神秘的で、大正15年(1926)に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/木造聖観音立像
富山県富山市婦中町千里に常楽寺があります。常楽寺本堂は間口6間、奥行6間の木造平屋建て、宝形造り、桟瓦葺きです。正面に1間の向拝が付けられています。昭和59年(1984)に再建された建物です。内部の内陣には本尊である大日如来像が安置され、新西国観音三十三札所第25番札所、北陸三十三観音霊場第29番札所になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/常楽寺本堂
富山県富山市婦中町千里に常楽寺があります。法界山常楽寺は高野山真言宗のお寺です。大宝2年(702)、文武天皇の勅願により行基が開いたのが始まりと伝えられています。仁寿2年(852)に常楽寺の寺号を賜り、七堂伽藍が建ち並ぶ大寺だったそうです。戦国時代、上杉謙信や武田信玄が越中に侵攻し、堂宇は焼失し衰退しました。寛永年間(1624-1644)に立藩した富山藩から庇護され再興されました。大正15年(1926)に2体の観音像が国宝に指定され(現在は国指定重要文化財)、観音堂、本堂が再建されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/常楽寺
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。2代藩主前田正甫によって詠まれた「各願寺観花の詠」の掛幅装が各願寺の寺宝として保存されています。縦31.0cm、横45.2cmの紙本墨跡(しほんぼくせき)の掛幅装で富山市の文化財に指定されています。初冬の頃の雪景色を詠んでいます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/各願寺観花の詠
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。各願寺の寺宝に初代富山藩主・前田利次の黒印が押された寺領寄進状が残されています。縦39.9cm、横50.8cmの紙本墨跡(しほんぼくせき)の掛幅装(かけふくそう)で延宝2年(1674)のものと思われます。富山市の文化財に指定されています。朝夕の勤行を怠慢しないことと記されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/寺領寄進状
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。各願寺の寺宝に南北朝時代から室町時代初期(14世紀後期ー15世紀初頭)に制作された絹本著色(ちゃくしょく)不動明王像があります。縦113.3cm、横59.5cmで平成11年(1999)に富山市の文化財に指定されています。元禄3年(1690)に高野山大楽院の第29代の問津より下付されたものです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/絹本著色不動明王像
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。各願寺の山門は切妻造り、桟瓦葺きで、三間一戸の門です。中央部の屋根が高く左右には左甚五郎が彫刻したと伝わる仁王像が安置され、「北叡山」の山号額が掲げられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/各願寺山門
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。各願寺の本堂は木造平屋建て、切妻造り、桟瓦葺き、平入です。間口は8間あり、正面に1間の唐破風向拝が付けられています。外壁は真壁造り、白漆喰仕上げです。北陸白寿三十三観音霊場第26番札所。北陸三十六不動霊場第17番札所になっています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/各願寺本堂
富山県富山市婦中町長沢に各願寺(かくがんじ)があります。北叡山各願寺は呉羽丘陵の麓にある高野山真言宗のお寺です。大宝年間(701-703)、文武天皇の勅命により仏性聖人(天武天皇第7皇子自信院一品(いっぽん)親王)が法相宗の寺として開山したのが始まりと伝えられています。平安時代初期に伝教大師最澄が各願寺を訪れ天台宗に改宗しています。2躯の木造薬師如来坐像を自ら彫り込み、1躯を各願寺の本尊に、もう1躯を比叡山延暦寺に収めたそうです。朝廷の勅願所として繁栄し、最盛期には七堂伽藍が整備され3千坊を数え、比叡山に対して北叡山と称しました。建武年間(1334-1336)に守護の井上俊清(普門利清)と対立し、国司の中院少将定清とともに立ち向かいましたが、兵火により全山焼失しました。再興後、天正3年(1575)の上杉侵...各願寺
富山県富山市婦中町安田に安田城跡があります。安田城入口にある安田城跡資料館では、安田城を紹介する出土品の展示のほか、映像による史跡の解説、企画展示や歴史講座を開いています。2階の展望所から背後に立山連峰がある安田城を一望できます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/田城跡資料館
富山県富山市婦中町安田に安田城跡があります。安田城は戦国時代末の平城で、東西約150m、南北約240m、約3万4千平方mあります。存城期間が短かったため改変がなく、当時の遺構がそのまま残っている全国的にも貴重な城跡で、古絵図「安田古城之図」とも一致しているため、昭和56年(1981)に国の史跡に指定されています。天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が越中の佐々成政を攻めた際、秀吉の本陣となった白鳥城の支城といわれています。先鋒の前田家の武将岡嶋喜三郎一吉が城主として入り、同年、成政が降伏した後も、越中東部の新川郡が佐々領のまま残ったため、引き続きそのまま前田家の前線拠点として使用されました。慶長4年(1599)、前田利家死去により、利長は金沢へ帰還し、岡嶋一吉もそれに従いました。その後しばらく代官平野...安田城跡
富山県富山市宮尾に旧内山邸があります。旧内山邸の庭園は本格的な日本庭園のように遠くの山などを借景にして池や谷を組み合わせるといったような事はしていません。屋敷から見る樹木の移り変わりや石との調和を重用しています。種類の違う梅や桜がたくさん植えられており、太い桜の大木は歴史を感じさせます。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧内山邸庭園
富山県富山市宮尾に旧内山邸があります。旧内山邸塀中門は主屋の西にある客用便所に接続して建つ塀にある門です。石造の柱の上部に石造の笠木をのせた簡略な形式の門口に木戸を入れた変わった門です。塀は腰まで自然石を積み上部を切石積みにしています。明治中期(1868-1911)に造られた塀のある石造りの門で、平成10年(1998)に国の有形文化財に.旧内山家住宅塀中門として登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧内山邸塀中門
富山県富山市宮尾に旧内山邸があります。旧内山邸の主屋は慶応4年(1868)に建てられています。明治20年頃(1887)に南側の表座敷、書院などを増築し、明治末(1868-1911)には東側の桜香の間などを増築して現在の姿になっています。木造平屋建てで、一部2階建てのところがあります。切妻造り、瓦葺きで、建築面積は860㎡もあります。正面の玄関には式台が付いており、豪農としての格式が感じられます。長大な部材を用いた大広間や銘木を駆使した書院などの意匠は優れていて、それぞれに時代の違いがよくあらわれています。平成10年(1998)に旧内山家住宅主屋として国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログラン...旧内山邸主屋
富山県富山市宮尾に旧内山邸があります。旧内山邸の表門は慶応4年(1868)に建てられた木造りの薬医門です。屋根は茅葺きだったものを昭和16年(1941)に桟瓦葺きに変えています。両側には屋根塀が付いています。旧内山家住宅表門として平成10年(1998)に国の有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧内山邸表門
富山県富山市宮尾に旧内山邸があります。旧内山邸は豪農であった内山家の屋敷や庭園などを昭和52年(1977)に13代内山季友氏が富山県へ寄付した邸宅です。現在は富山県民会館の分館として一般に開放し、観覧のほか、お茶・お花などの文化的諸行事の会場などにも利用されています。映画「散り椿」のロケ地にもなりました。内山家は大永・享禄年間(1521-1531)にこの地に移り、新田開発をして大地主となりました。江戸時代には富山藩の十村役(大庄屋)を歴任し1千7百石を管理、苗字帯刀が許されました。地域の勧農・治水にあたり、たびたび富山藩主の来訪も受けています。明治以降地主制度のもとで最大の繁栄をむかえ、徳富蘇峰、若槻礼次郎ら文人、政治家らも来訪しています。3759坪の敷地内には広大な庭園が広がっています。文人などを招待し...旧内山邸
富山県富山市本丸に富山城があります。本丸南側の城門の石垣上に模擬天守が建っています。3層4階の鉄筋コンクリート造りで、昭和29年(1954)に開かれた富山産業大博覧会を記念して建てられたもので郷土博物館となっています。平成16年(2004)に、「地域の景観の核」との評価により富山市郷土博物館(富山城)が、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/富山城天守
富山県富山市本丸に富山城があります。富山は加賀前田氏の支藩のひとつでした。古くは越中の豪族神保氏の居城でした。天正9年(1581)に織田家の家臣であった佐々成政が入封して、大改修を施して富山城の基礎を築きました。信長が本能寺の変で倒れた後も、成政は富山城を根拠地として越中から上杉勢を追い出し、やがて越中を平定しました。秀吉嫌いで有名だった成政は、形勢が秀吉に傾く中、有名なさらさら越えで徳川家康に謁見しました。柴田勝家滅亡後、成政は最後に秀吉の軍門に下りました。天正15年(1546)の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封させられ代わって前田氏が治めました。前田利長は隠居後、富山城に入りましたが、火事で城が全焼した為、高岡に新たに城を築いて移りました。寛永16年(1661)に3代利常の次男利次が入城し...富山城
富山県富山市安養坊に富山市民俗民芸村があります。富山市民俗民芸村の敷地には佐々成政剃髪址の石碑が建てられています。富山城主であった成政が天正13年(1585)攻め立てる豊臣秀吉の先鋒・前田利家の軍に敗れました。成政はここで髪を剃り僧衣を着けて服従の意志を示したそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐々成政剃髪址石碑
富山県富山市安養坊に富山市民俗民芸村があります。富山市民俗民芸村の敷地内の呉羽丘陵に番神山横穴墓群があります。昭和3年(1928)、40年(1965)、43年(1968)の土砂工事で15基の横穴墓が発見されました。奥に向かって5mほどの所に墓室(玄室)があり人骨が発見されています。古墳時代終期の有力家族墓と考えられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/番神山横穴墓群
富山県富山市安養坊に富山市民俗民芸村があります。富山市には千以上の遺跡があります。日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(縄文時代)、国史跡の北代遺跡(縄文時代中期)、山陰との交流を示す墳丘墓である四隅突出型墳丘墓(弥生時代)など。昭和54年(1979)、これらの遺跡で発掘された出土品を展示・保管するためこの考古資料館は開かれました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/考古資料館
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富山県高岡市古城の古城公園内に射水神社(いみずじんじゃ)があります。射水神社の社殿は明治33年(1900)の高岡大火の時に類焼して焼失しました。2年後の明治35年(1902)に再建されています。拝殿は木造平屋建て、間口3間、奥行2間、切妻造り、平入、銅板葺です。本殿は神明造り、銅板葺きです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/射水神社社殿
富山県高岡市古城の古城公園内に射水神社(いみずじんじゃ)があります。射水神社は越中総鎮守として二上山に祀られていた古社で、延喜式では名神大社に列し、越中式内34社の首位に置かれていました。二上山自体を神とし、その麓に鎮座していましたが養老元年(717)、元正天皇の勅願により行基が養老寺を開山し、射水神社の別当にしました。祭神の二上神を二上権現として祀り、神仏混合の大社として繁栄しました。越中では高瀬神社と同階で最高位になり、越中国一宮でもあります。ただ越中一宮と主張する神社は射水神社のほか気多神社、高瀬神社、雄山神社などがあります承平年間(931-938)に兵火にかかり社殿、社宝など灰燼に帰しました。天暦年間(947-957)に空也が再建し、社殿も整備されましたが、天正年間(1573-1592)に度々兵火...射水神社
富山県高岡市古城に高岡古城公園があります。高岡古城公園は加賀藩2代藩主、前田利長が築いた高岡城の城址を、明治8年(1875)公園として開放したものです。園内には無料の動物園、蒸気機関車、芝生広場、遊具、博物館、体育館などがあります。桜の名所としても有名で日本さくら名所100選に選定されています。加賀前田家2代の利長は、慶長3年(1598)に利家の後を継ぎ当主となりました。慶長10年(1605)に利常を3代藩主にして、自らは隠居して富山城に移りました。慶長14年(1609)3月の大火により富山城は焼失しました。そこで、当時関野と呼ばれていた地に新しく城をつくることにしました。高岡城の縄張は当時、前田家の客将だった高山右近とされています。右近はキリシタン大名で、築城の名手として有名でした。利長は、「詩経」の一...高岡古城公園
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の石廟は瑞龍寺を造営したとき,開山の広山恕陽禅師が利長、利家の父子に織田信長、信忠と信長の側室も加えて同じ形式の5基を建造しました。利長の石廟には壁面に25菩薩が刻まれています。石造建築の貴重な遺構で富山県の文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺石廟
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の大庫裏は調理配膳や寺務運営を行う堂で、山門を入り右手に位置し僧堂と相対しています。桁行10間(19.7m)、梁間6間(13.9m)で、切妻造り、こけら葺きで向拝型玄開を付けています。万治年間(1658-1660)の建立ですが、幕末から明治初年にかけ撤去されました。古図面などから当初の姿に復元されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺大庫裏
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の回廊は大伽藍をとり囲み、周囲約300mにも及びます。左右対象の回廊が残っている寺院は極めて少なく、禅宗寺院最古のものです。板戸の黒と障子の白が交互に規則正しく配され、上部に小壁の白い線が通り、上下を腰板とこけら屋根の黒でひきしめています。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺回廊
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の大茶堂は創建当初に造られた建物で、全国に2つしかない貴重なものです。他の建物から伽藍への類焼を防ぐ防火壁の役目をする建物でもありました。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されました。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺大茶堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の禅堂は坐禅修行をする建物で、坐禅だけを行う場合は禅堂、食事などの修行もする場合は僧堂といわれます。延享3年(1746)に焼失し、その直後に再建されました。幕末には3分の1に縮小され、明王様の御祈祷場となっていました。平成2年(1990)に往時のように復元されました。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺禅堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の山門は禅宗様の手法形式の三間一戸の二重門です。入母屋造り、こけら葺きで左右に山廊が付いています。双方とも桁行3間、梁間1間、1重、切妻造り、こけら葺きです。文政3年(1820)に再建された建物です。通常の禅宗二重門に比べて、下層屋根に対する上層屋根の低減率が低く、雪などによって下層屋根を傷めないための雪国独自の工夫が見られます。瑞龍寺山門は平成9年(1997)に国宝に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺山門
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の総門は、正面3間の薬医門です。正保年間(1644-1648)の建立で、後世に伽藍配置の関係から現在の場所に移築されました。正面の扉は城の城門に類した造りで、四葉金具・八双金具などの金具が使われ、格の高さがうかがえます。昭和3年旧国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/瑞龍寺総門
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の法堂(ほっとう)は、禅宗以外では講堂といわれ仏教教理を講義する場所で、明暦元年(1655)に建てられています。ここでは前後に3室ずつ6室で構成され客殿も兼ねています。桁行11間、梁間10間、1重、入母屋造り、銅板葺きです。向拝は桁行2間、梁間1間、向唐破風造りで、その前面に高廊下、さらに前面1間通りは回廊の一部で土間になっています。中央奥が仏間、左右に上下客殿が設けられ、手前は外陣に相当し説法、法要等に使用する畳敷きの間となっています。外陣も柱と欄間により3室に分けられ、さまざまな法要に対応する近世の仏堂様式となっています。屋根は始めはこけら葺きでしたが現在は銅板葺です。瑞龍寺の法堂は平成9年(1997)に国宝に指定されています。下記のサイトに...瑞龍寺法堂
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。瑞龍寺の仏殿は総欅造で、方三間裳階付の禅宗様建築です。桁行3間、梁間3間、1重、裳階付、入母屋造り鉛瓦葺きです。棟札により万治2年(1659年)に建立されています。屋根は始めはこけら葺きでしたが、総重量約47トンの鉛瓦葺きになっています。仏殿は平成9年(1997)に国宝に指定されています。瑞龍寺仏殿の内部は土間床になっています。天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点、柱、扉、窓などの細部様式など禅宗様建築の特色です。須弥壇には中央に釈迦如来、脇侍に文殊、普賢菩薩の釈迦三尊を祀っています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一...瑞龍寺仏殿
富山県高岡市関本町に瑞龍寺(ずいりゅうじ)があります。高岡山瑞龍寺は曹洞宗のお寺で、山門、法堂、仏殿は国宝に指定されています。富山県にある国宝はこの瑞龍寺だけだそうです。加賀藩2代藩主・前田利長の菩提寺で、利長の義弟で3代藩主になった前田利常によって建立されました。文禄3年(1594)に加賀藩2代藩主・前田利長は金沢に織田信長・信忠の追善のため、宝円寺を建立しました。44歳の若さで家督を異母弟の利常に譲り、隠居して金沢から富山に移りました。富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築き、法円寺(宝円寺を改称)を、慶長18年(1613)に高岡に移しました。翌、慶長19年(1614)に利長は没し、後を継いだ3代藩主・前田利常は、法円寺を利長の菩提寺としたのです。そして利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞...瑞龍寺
富山県高岡市関町に総持寺があります。六十六部とは、廻国し納経する聖のことです。総持寺に六十六の石仏が納められました。現在は三十九体が残されています。平成14年(2002)にこの石仏を含む関町の町並みが高岡市の景観賞に選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/六十六部石仏
富山県高岡市関町に総持寺があります。総持寺の本尊は十一面千手観音座像です。年に一度11月15日にだけ御開帳されます。像高は72.5㎝で、昭和12年(1937)に旧国宝に指定され、昭和25年(1950)に改めて国の重要文化財に指定されています。曼荼羅堂内には12体の仏像を安置しており、弘法大師の伝えた真言密教の曼荼羅世界を表しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/総持寺十一面千手観音座像
富山県高岡市関町に総持寺があります。衆徳山胎生院総持寺は高野山真言宗のお寺です。22世の快雄和尚は高岡の町を開くとき、前田利長に「関野」と呼ばれていたこの地を、中国の古典の「詩経」から「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に」から「高岡」という地名にするよう提案したことで有名です。総持寺は平安時代に旧礪波郡五位荘に開かれたのが始まりといわれています。正平8年(1353)、禅恵和尚が中興し、高岡市の石堤付近に移りました。前田利長が高岡城を築城した慶長年間(1596-1615)に現在地に移りました。境内には本堂にあたる曼荼羅堂や観音堂、聖天堂、薬師堂、位牌堂、鐘楼などが建てられています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほん...総持寺
富山県高岡市福岡町下向田に旧福岡町役場(福岡町歴史民俗資料館)があります。福岡公園内にある旧福岡町役場は現在、福岡町歴史民俗資料館になっています。この建物は、大正13年(1924)、地元の篤志家壽原英太郎(すはらえいたろう)の寄贈により、洋風をまねた公会堂として福岡駅前通りに面して建設されました。公会堂・町役場として使用され、昭和38年(1963)、役場新庁舎建設とともに町立図書館・中央公民館として使用されました。その後、歴史民俗資料館として保存活用することになり、昭和63年(1988)にかけて移転・修改築がなされました。富山の建築百選に選定され、平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されています。木造2階建ての洋風建築です。寄棟、桟瓦葺き、建築面積265㎡、外壁はモルタルで石造風に仕上げ外観を石...旧福岡町役場(福岡町歴史民俗資料館)
富山県高岡市福岡町蓑島に佐伯家住宅があります。佐伯家住宅は、間口10間(18.2m)、奥行7間(12.7m)の入母屋造り、平入の建物で、建築面積は212.1㎡、外壁は真壁造り、土壁鏝押え、腰壁は下見板張り縦押縁押え、背後は杉皮で外壁を保護しています。移築前は主屋背面に「中つの」がありましたが、移築されたのは主屋だけで、その後「つの」「おろし」「しょくじば」が増築されました。正面にあたる3間半が茅葺きの主屋とひさし、背後の3間半が桟瓦葺きの「おろし」となっています。江戸時代後期の文化年間(1804-1818)と明治時代以降に何度か改修、増築されていますが母屋部分は江戸時代中期に建てられたものです。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定され、昭和48年(1973)には復元工事がなされています。下記のサイ...佐伯家住宅主屋
富山県高岡市福岡町蓑島に佐伯家住宅があります。佐伯家は旧蓑島村の旧家で、家蔵の「家作諸入用一巻」に、明和4年(1767)工事に着手し、翌5年に約15km離れた所にある旧川崎村(現南砺市上川崎)の十村役(庄屋)を務めた三之助の住宅を佐伯氏が買い取って移築したと記してあるそうです。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/佐伯家住宅
富山県小矢部市芹川(せりかわ)に旧宮島村役場があります。旧宮島村役場は石川県境に近い旧宮島村にあった建物で小矢部市に残る数少ない洋風建築です。昭和61年(1986)に現在地に移築され個人の宅邸兼アトリエとして再利用されています。平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録され、平成21年(2009)に「とやまの近代歴史遺産」に選定されています。大正15年(1926)に宮島村役場として建てられたもので、木造2階建て、建築面積は131㎡です。むくりのついた寄棟造り、桟瓦葺き、下見板張の洋風建築です。正面中央2階上部の半円形ブロークンペディメントと瓦葺きのマンサード屋根などは独特です。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキ...旧宮島村役場
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の太鼓楼(鐘楼)は入母屋造り、銅板葺きで、袴腰が付いています。上層部は柱のみの吹き放しで高欄が付けられています。昔は12坊を持つ格式の高い大聖寺という大寺の鐘楼でしたが、明治の神仏分離令により廃寺になり、鐘楼だけが太鼓楼として生き残りました。武芸川町で最も古い建築物であり、関市の有形文化財でもあります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮太鼓楼
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の神門(随身門)は永和3年(1377)に建立され、平成4年(1992)に再建された門です。間口3間奥行2間、切妻造り、銅板葺きの三間一戸の門で、左右に随神像が安置されています。「これより先は神の聖域で、邪悪なものの侵入を防ぐ」という意味が込められています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮神門
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の参道沿いに神木といわれるひときわ大きな杉があります。推定樹齢は約千年、樹高38m、目通7.5mもあり、非常に貴重な事から昭和36年(1961)に岐阜県の天然記念物に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮神木
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の下馬標は高さ1.4m、幅0.39mで、太鼓橋を渡った西側に建てられています。これより奥へは馬や駕篭から降りて歩けという命令を下した標識です。永禄5年(1562)に織田信長によって建てられています。下馬標は岐阜県の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮の下馬標
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の太鼓橋は元禄7年(1694)、大阪府泉南郡の石橋長右衛門によって、御嶽山から持ってきた石で造られています。神域を尊厳するための橋であり、祭礼の時に神様が御旅所まで向かわれる「渡御(とぎょ)」の時だけ使われます。大聖寺住職、法印和尚の筆書きが残されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮太鼓橋
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮の御旅所(おたびしょ)は第一鳥居から600m奥に建てられています。例祭である「花馬まつり」がここを中心に開かれます。この祭りは造花を背負った馬が境内に駆け込み、参拝者達がその造花を取り合うという祭りです。その造花を家の屋根に掲げると「落雷防止」や「家運隆盛」に御利益があると伝えられています。この時奉納される武芸八幡神楽は関市の無形民俗文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/武芸八幡宮御旅所
岐阜県関市武芸川町八幡に武芸八幡宮(むげはちまんぐう)があります。武芸八幡宮は養老元年(717)、泰澄(たいちょう)大師が巡錫して大碓命(おおうすのみこと)の伝説を聞き、大碓命を祭神にして八幡神社を創建したと伝えられています。後、宇多天皇が美濃に行幸された時、別当神宮寺に臣下の者を留め置き、神社に奉仕させたそうです。古くから武将の崇敬が厚く、観応2年(1351)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が、社殿を再興しています。本殿、拝殿、五重塔、鐘楼などを建てられたそうです。その頃、不動を含め塔頭12坊が存在していたそうです。また、永禄10年(1567)、斎藤氏を滅ぼした織田信長は、井ノ口を岐阜と改め、稲葉山城を岐阜城としました。岐阜城からすると、武芸八幡宮は丑寅といって北東の方角に当たり、城の鬼門守護神として...武芸八幡宮
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社一帯の楓谷(かえでだに)には、約3千本のヤマモミジの原生林があり、樹齢千年以上の古木もあります。昭和5年(1930)に楓谷のヤマモミジ樹林として国の天然記念物に指定されました。また平成16年(2004)には飛騨・美濃紅葉三十三選の一つに選ばれています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大矢田神社のヤマモミジ
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社の本殿は江戸中期の寛文12年(1672)に名古屋の大工、曽根源右衛門によって再建された社殿です。三間二面の流造りで、檜皮葺きで、切妻造り、中央に向拝を設けています。向拝の中央を唐破風(からはふ)としてその上に千鳥破風(ちどりはふ)を配しています。各所に彫刻、極彩色を施すなど派手な意匠になっています。斗組(ときょう)は出組(でぐみ)で、建物の妻をはじめ、各部に精巧な彫刻と彩色を加えた豪華な造りです。二重虹梁(にじゅうこうりょう)の妻は特に美しく、梁を三人の力士で支えています。大矢田神社の本殿は市内第一の華麗さを誇る優秀な建築で、平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www...大矢田神社本殿
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社の拝殿は江戸中期の寛文12年(1672)以前に再建されたと思われます。間口3間、奥行3間の三間三面妻入り(つまいり)、一重、切妻造り、檜皮葺きの社殿です。妻入り拝殿は市内には他に例を見ない特徴ある形式で、尾張地方の大社の拝殿と類似しています。拝殿の柱は杉の角柱で、斗組(ときょう)は舟肘木(ふなひじき)、妻は二重虹梁(にじゅうこうりょう)で背面の中央に蟇股(かえるまた)を入れています。内陣として円柱を立て、格天井(ごうてんじょう)を貼っています。棟札(むなふだ)は見つかりませんでしたが本殿より少し前に完成しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログラン...大矢田神社拝殿
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社の太鼓橋は神様が渡られる橋で、神橋とも呼ばれています。下を流れる川が結界となって、これを境に手前が俗界、向こう側が神域となります。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大矢田神社太鼓橋
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社の楼門は享保8年(1723)に京都の大工谷口五兵衛と当村大工広田平兵衛によって再建された建物です。弘治2年(1556)の戦乱で大矢田神社の大半は焼失しましたがこの仁王門のみが残りました。しかし享保7年(1722)に破損して修復途中、完成間際に大工小屋からの出火で全焼、1年後やっと完成したと伝えられています。昭和44年(1969)に美濃市の有形文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/大矢田神社楼門
岐阜県美濃市大矢田に大矢田神社(おやだじんじゃ)があります。大矢田神社は天王山の中腹にある古社です。孝霊天皇の御代(BC290-215)、建速須佐之男命(すさのうのみこと)と天若日子命(あめのわかひこのみこと)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。天若日子命は真木倉神社の祭神・天稚彦命と同じ人で喪山伝説の中心人物です。<喪山伝説とは天稚彦が不審な雉を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって亡くなったという伝説です。>その後、大矢田神社は養老年間(712-723)に泰澄大師によって開基されたと伝えられています。弘治2年(1556)、戦乱で大矢田神社は灰燼に帰しました。塔頭7坊のうち、極楽坊と常泉坊の2坊だけは後に再建されました。明治3年(1870)、神仏分離・廃仏毀釈により牛頭天王を...大矢田神社
岐阜県美濃市泉町に宝勝院(旧有知学校校舎)があります。宝勝院の庫裏は明治9年(1876)に建てられた旧有知学校(きゅううちがっこう)の本館校舎を移築したものです。寄棟造り、桟瓦葺きの木造2階建てで、明治時代初期に建てたられた擬洋風校舎建築です。旧有知学校校舎として、平成10年(1998)に美濃市の有形指定文化財に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/旧有知学校校舎
岐阜県美濃市泉町に宝勝院(旧有知学校校舎)があります。金毘羅山宝勝院(ほうしょういん)は不動明王を本尊とする真言宗醍醐派のお寺で、美濃三十三観音4番札所でもあります。創建はよくわかりませんが、天正18年(1590)に南渡快俊僧都により再興され、不動明王が安置されました。金森長近が上有知を領地とすると、長良川の水運を利用した川湊を設置しました。慶長年間その川湊の水運の加護として金毘羅大権現を讃岐より勧請したと伝えられています。天明年間(1781-1789)に火災により焼失しましたが文化4年(1807)に再興しています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/宝勝院(旧有知学校校舎)
岐阜県美濃市本住町に美濃和紙あかりアート館があります。美濃和紙あかりアート館には毎年秋に美濃市で開催される「美濃和紙あかりアート展」の入賞作品を展示しています。美濃和紙あかりアート展は、歴史ある美濃和紙を使ったあかりアート作品を全国から募集し、「うだつのあがる町並み」を会場に展示、コンテストするものです。美濃和紙あかりアート館の建物自体は、昭和16年(1941)に美濃町産業会館として美濃町信用購買販売利用組合が建設したものです。美濃町農業共同組合、美濃商工会議所、美濃市農業共同組合本店として使われました。平成17年(2005)に国の登録有形文化財に登録されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブロ...美濃和紙あかりアート館
岐阜県美濃市泉町に今井家住宅があります。旧今井家住宅は江戸時代中期に建てられた商家です。美濃市内最大級の町屋建築で、平成6年(1994)に美濃市指定文化財に指定されています。美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区の中の主要な建物で、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。主屋は間口12間、奥行8間、切妻造り、桟瓦葺き、平入の木造2階建てで、外壁は真壁造り、漆喰仕上げです。1、2階正面には格子戸、屋根両脇には高くうだつが掲げられています。中庭にある水琴窟は環境省選定で「日本の音風景100選」に選定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/今井家住宅
岐阜県美濃市港町に上有知湊(こうずちみなと)があります。上有知湊(こうずちみなと)渡船場(とせんじょう)灯台は江戸時代中期以後に建てられたもので、その形は摂津の住吉神社の灯台を模したものといわれ住吉神社の献灯を兼ねています。高さが9mもある灯台で、全国的に見ても現存する数少ない川湊灯台として貴重な存在です。上有知湊跡は渡船場灯台を含め、昭和45年(1970)に岐阜県指定史跡に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/日本一周ブログランキングへにほんブログ村http://blog.fc2.com/上有知湊渡船場灯台
岐阜県美濃市港町に上有知湊(こうずちみなと)があります。上有知湊は長良川舟運の一大拠点で、最盛期には美濃国4大川湊に数えられ大きく発展しました。慶長10年(1605)この地の領主になった金森長近によって開かれた湊で、町の繁栄策として六斎市を開かせ、物資輸送の玄関口として上有知湊を開いたのでした。番船40隻をおいて長良川下流への船搬の拠点としました。上有知湊は長良川舟運の重要な拠点として整備され、物資の輸送と共に上流で切り出された木材を組んだ筏の発着場としても大きく発展しました。美濃和紙をはじめ荏胡麻、生糸、酒などがここを拠点にして各地に運ばれていきました。船着場跡の石畳、住吉型川湊灯台が残っていて岐阜県の史跡に指定されています。下記のサイトにもお立ち寄りください!http://www.ueda.ne.jp...上有知湊
岐阜県美濃市上有知ー美濃市前野にかけて美濃橋(みのはし)があります。美濃橋は岐阜県美濃市曽代・前野、小倉山の西方を長良川が湾曲して流れる地点に位置しています。岐阜県技師戸谷亥名蔵を中心に建設が進められ、大正5年(1916)に完成しました。現存する最古の近代吊橋として知られています。橋の長さは113.0m、支間116.0m、幅員3.1m、型式は単径間補剛吊橋です。両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛しています。近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現しました。平成13年(2001)に土木学会選奨土木遺産に選定されました。現存する最古の近代吊橋で、橋梁建設史上高い価値があることから...美濃橋