ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
ところで、日清戦争が起こった理由の一つとして「日清両国が朝鮮半島への影響を強めようと争ったからだ」という見解が一般的な歴史教育では知られていますが、これは本当のことなのでしょうか。両国のお互いへの宣戦布告の文章を読み比べれば、その謎は明らかとなります。宣戦布告において、清国が「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢(ちょうこう)している」と主張しているのに対して、我が国からは「朝...
明治27(1894)年、朝鮮の民間信仰団体である東学党(とうがくとう)の信者を中心とする農民が朝鮮半島の各地で反乱を起こしました。これを「甲午(こうご)農民戦争」または「東学党の乱」といいます。自国では反乱を鎮圧できないと判断した朝鮮が清国に対して国内への派兵を要請すると、清国は直ちに出兵するとともに、先の「天津(てんしん)条約」の規定どおりに出兵の事実を我が国に通知しました。通知文書を読んだ我が国は、...
甲申事変以後、清国はますます朝鮮への影響を強めましたが、その勢いは朝鮮国内の事大党でさえ辟易(へきえき)とするものであったため、朝鮮は清国の影響を少しでも和らげるために「別の大国」であるロシアへ縋(すが)ろうとしました。朝鮮の国王や閔氏一族はロシアに軍事的な保護を求めて密かに接近しましたが(これを「露朝(ろちょう)密約事件」といいます)、これらの動きが発覚すると、清国はまたしても袁世凱を実質的な朝...
甲申事変で酷(むご)い仕打ちを受けた我が国でしたが、国力の充実を優先して清国との武力衝突を避けようとしました。翌明治18(1885)年に伊藤博文(いとうひろぶみ)が全権大使として天津(てんしん)へ渡ると、清国の全権大使である李鴻章(りこうしょう)との間で「天津条約」を結び、日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務づけました。二つの事変を通じて、我が国は朝鮮を独立...
さて、壬午事変の際に朝鮮の兵士が国際法上で我が国の管轄となる日本の公使館に危害を加えたことは、国際的にも大きな問題でした。朝鮮は謝罪の使者として金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した岩倉使節団が欧米列強の発展ぶりに驚いたのと同じ思いを抱...
壬午事変による日本人外交官殺害という一大事件を受けて我が国が朝鮮へ出兵すると、朝鮮の宗主国として清国(しんこく)も同時に出兵し、すわ戦争かと思われましたが、我が国はあくまで平和的な解決を目指しました。清国が朝鮮に対して我が国への賠償や謝罪に応じるよう勧告したこともあり、日朝両国は明治15(1882)年に「済物浦(さいもっぽ)条約」を結び、我が国への賠償金の支払いや日本公使館守備のために日本兵を置くこと、...
※今回より「第104回歴史講座」の内容を更新します(10月25日までの予定)。明治9(1876)年に我が国と李氏(りし)朝鮮との間で日朝修好条規が結ばれて以来、朝鮮では国王高宗(こうそう)の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)の閔氏(びんし)一族が開国派として我が国と結んで積極的に開化政策を進めたことで円満となりました。両国の貿易が年々拡大し、朝鮮における日本人の居留民も増加するなど、日朝関係は喜ばしい流れとな...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(9月24日)からは「第104回歴史講座」の内容を更新します(10月25日までの予定)。第二次内閣時の平成17(2005)年1月に小泉首相は皇室典範(こうしつてんぱん)に関する有識者会議を発足させ、同年11月には女性天皇や、男系に神武(じんむ)天皇の血統を受け継いでいない、いわゆる「女系天皇」の容認、皇位継承における長子の優先を柱とした報告書が提出されました。これを受けて、...
さて、二度にわたる衆議院総選挙を勝ち抜き、長期政権を維持した小泉首相でしたが、その任期中には様々な動きがみられました。例えば、第一次内閣時の平成14(2002)年3月には、人権に対する規定が曖昧(あいまい)で、結果として自由な言論を封じたり、あるいは外国人参政権につながったりしかねない「人権擁護(ようご)法案」が法務省と自民党によって国会に上程されました(ただし、その後に廃案となりました)。なお、小泉首...
【ハイブリッド方式】第104回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年9月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第104回黒田裕樹の歴史講座...
総選挙後、直ちに第三次内閣を発足させた小泉首相は、国民の「民意」を背景に郵政民営化関連法案を成立へと導き、長年の悲願を実現させました。しかし、小泉首相による「イメージを優先させるとともに、マスコミも抱き込んで自己の政党に有利に選挙戦を展開させる」手法は、国民に政治を深く考えさせる機会を与えないという弊害(へいがい)も生み出していました。こうした流れは選挙のたびに「国民の意思が大きな風となる」現象を...
衆議院を解散した小泉首相は、郵政民営化関連法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、反対した前議員の選挙区に自民党公認の「刺客」候補を落下傘(らっかさん)的に送り込む戦術を展開しました。また、首相は今回の解散を自ら「郵政解散」と命名して、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にした一方で、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略を打ち立てました。選挙戦において、首相は自らの戦略を実現させるた...
小泉首相は「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンとして特殊法人の民営化や、国と地方公共団体に関する行財政システムに関する3つの改革、すなわち「三位一体(さんみいったい)の改革」などの「聖域なき構造改革」を打ち出しました。首相による様々な政策は国民の支持を受け、平成15(2003)年に行われた衆議院総選挙において自民党などの与党は絶対安定多数を確保し、第二次小泉内閣が発足しました。しかし、小泉首相の...
平成14(2002)年の「日朝平壌宣言」において「拉致問題の解決」や「植民地支配の過去の清算」あるいは「日朝国交正常化交渉の開始」などが盛り込まれましたが、日本政府は一貫して「拉致問題の解決なくして国交正常化はありえない」と主張し続けています。一方、態度を硬化させた北朝鮮が2003(平成15)年1月に核拡散防止条約からの脱退を宣言したほか、2006(平成18)年10月から何度も核実験を実施したり、日本近海に向けて頻繁...
小泉首相と金正日総書記は会談後に「日朝平壌宣言」に署名し、その日のうちに小泉首相らが帰国しましたが、横田めぐみさんら8名が既(すで)に死亡していると発表されたことに対して、多くの国民が衝撃を受けるとともに、北朝鮮に対して激高しました。その後、会談の翌月となる平成14(2002)年10月に5人の拉致被害者が一時帰国を条件に我が国に帰国しましたが、国民世論の高まりや家族会の要望、さらには安倍晋三内閣官房副長官や...
「拉致被害者の生存者5名、死者は横田めぐみさんを含む8名」という衝撃的な情報に、小泉首相や安倍内閣官房副長官らは言葉を失いました。午前11時から始まった首脳会談において、小泉首相は「8名死亡は大きなショックであり、強く抗議する」と不信感をあらわにしました。小泉首相は、続いて「拉致や工作船などの問題に対して誠意ある回答がない限り、正常化交渉再開はあり得ない」ことを告げましたが、これに対して金正日総書記が...
平成9(1997)年2月の西村眞悟衆議院議員による国会質疑を受けて、北朝鮮による拉致被害者を救出するための国民運動の機運が高まり、翌3月には「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(通称:家族会)」が設立され、さらに翌平成10(1998)年には、有志のボランティアによって全国各地に「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称:救う会)」が活動を開始しました。家族会や救う会などによって全国で署名運動が展...
1970年代から80年代にかけて、北朝鮮の工作員が日本人を拉致(らち)する事件が多発しました。いわゆる「北朝鮮による日本人拉致事件(以下『拉致事件』と表記します)」であり、その目的としては、工作員の日本人化教育のための人材確保や、拉致被害者に成り代わっての工作員の日本潜入などが推測されています。拉致事件は、昭和52(1977)年9月のダッカ日航機ハイジャック事件が起きた際に福田赳夫(ふくだたけお)首相(当時)...
さて、2001(平成13)年の同時多発テロ事件を受けて、アメリカのブッシュ大統領(当時)が「テロとの戦い」を公言してアフガニスタンへの攻撃を開始すると、我が国の小泉純一郎首相は直ちにこれを支持して、同年にテロ対策特別措置法などのテロ関連三法を成立させると、アメリカ軍らの後方支援のために海上自衛隊をインド洋へ派遣しました。また、2003(平成15)年にイラク戦争が勃発(ぼっぱつ)すると小泉首相は真っ先にアメリカ...
2001(平成13)年に起きた同時多発テロ事件以降、アメリカはテロリズムに対する対決姿勢を明確にして、2003(平成15)年3月にはイラクの武装解除とサダム・フセイン政権打倒をめざして、イギリスとともにイラクへの武力攻撃を開始しました。これを「イラク戦争」といいます。イラク戦争によってフセイン政権は崩壊し、アメリカは同年5月に戦争終結を宣言して民主的な暫定(ざんてい)政府が樹立されましたが、その後のイラクはテロ...
2001(平成13)年9月11日朝(現地時間)、アメリカのニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(=WTCビル)のツインタワーに民間航空旅客機の2機が次々と突っ込みました。ビルは大炎上した後に完全に崩壊(ほうかい)しましたが、その様子が世界に中継されて大きな衝撃を与えました。しかし、旅客機の衝突はそれだけではありませんでした。ほぼ同時刻にワシントンの国防総省(=ペンタゴン)も同じように被害を受けてい...
森首相の辞任を受けて、自民党では次の総裁を決めるべく選挙を行いました。当初は橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)元総裁の勝利が有力視されていましたが、自民党員を中心とする予備選において、自身の清新なイメージもあって小泉純一郎氏が大きな注目を集め、予備選で地滑り的大勝を果たすと、本選挙でも圧倒的な支持を集めて総裁に就任し、平成13(2001)年4月26日に第一次内閣を組織しました。小泉首相の就任当初の内閣支持...
前首相の病気による急な登板という緊急事態や、就任の際の不透明な問題など様々な事情があったとはいえ、在任中に大きな失政と言えるものがなかったことから、森内閣の時代が「暗黒」であったと断定するのには無理があります。しかしながら、当時のマスコミが首相の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)に対して執拗(しつよう)に食い下がり、いわゆる「神の国発言」を問題視して直後の衆院選に影響を与えたり、えひめ丸の沈...
総選挙を経て新たに第二次内閣を組織した森首相でしたが、不祥事で内閣官房長官が辞任したり、野党から内閣不信任案が出された際に自民党の一部議員が同調する姿勢を見せたりするなど、内閣の運営は必ずしも順調にいかず、支持率も上昇しませんでした。その後、平成13(2001)年2月にハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」がアメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没し、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」が起きま...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(9月23日までの予定)。平成12(2000)年4月に小渕恵三(おぶちけいぞう)首相が脳梗塞(のうこうそく)で倒れたことを受けて、新たに森喜朗(もりよしろう)氏が自民党や公明党並びに自由党から分離した保守党の3党連立で内閣を組織しました。しかし、前任者の急病で時間がなかったとはいえ、選挙ではなく有力議員の話し合いで森氏が自民党の総裁に就任したという噂(うわさ)が流れたこ...
※「第103回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(9月7日)からは「平成時代」の更新を再開します(9月23日までの予定)。明治25(1892)年に外務大臣に就任した陸奥宗光(むつむねみつ)は各国と個別交渉を行い、ドイツ駐在の公使となっていた元外相の青木周蔵にイギリス駐在公使を兼任させ、青木にイギリスとの交渉をさせました。約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27(1894)年7月16日に両国は日英通商...
大津事件の顛末(てんまつ)は世界中に大きく報じられ、結果的に司法権の独立を守った我が国に対する国際的な信頼が大きく高まるとともに、我が国が欧米列強にも引けを取らない近代国家であるということを証明することになりました。当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速(じんそく)な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上...
通常の刑罰では津田を死刑にできないことに気づいた政府は、裁判所に対して皇族に対する罪である大逆(たいぎゃく)罪を類推適用するか、あるいは戒厳令(かいげんれい)や緊急勅令(ちょくれい)を出してでも死刑にするように強く迫りました。しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても「...
明治24(1891)年、シベリア鉄道の起工式に出席するためにウラジオストックへ向かっていたロシアの皇太子のニコライがその中途で我が国を訪問すると、大国ロシアの皇太子の来日に対して政府は国を挙げて歓迎し、各地で記念式典が行われました。そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵(つださんぞう)が突然ニコライに襲いかかりました。これを「大津...
条約改正という悲願に向けて我が国が試行錯誤を繰り返す間に、世界の情勢が様変わりしていきました。ロシアがシベリア鉄道を計画して1891(明治24)年までに建設を始めると、ロシアの東アジアへの本格的な進出に対して利害関係にあるイギリスが危機感を持ち始めました。東アジアにおける権益を守るためには日本が持つ軍事力を利用したほうが自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我...
井上馨の後を受けて外務大臣となったのは大隈重信でした。大隈は井上とは異なって条約改正に好意的な国から個別に交渉を始め、明治22(1889)年にはアメリカ・イギリス・ロシアとの改正条約の調印を行いました。しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...