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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 戦局の暗転 その8

    絶対国防圏を設定して防備を強化しながら反転攻勢の機会を狙(ねら)っていた我が国でしたが、その作戦準備が不十分なうちに、アメリカ軍の圏内への侵入を許すようになっていきました。昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え...

  • 戦局の暗転 その7

    ミッドウェー海戦の敗北やガダルカナル島からの撤退など、大東亜戦争において守勢に立たされた我が国は、昭和18(1943)年9月に、敵の第一線から遠く離れた後方に、本土防衛の確保や戦争継続のために不可欠である圏域(けんいき)を設定しようとしました。これを「絶対国防圏」といいます。我が国は絶対国防圏として、千島(ちしま)・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかく...

  • 戦局の暗転 その6

    大東亜戦争において我が国が劣勢に転じつつあった昭和18(1943)年、ビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンが日本軍の支持のもとで独立を宣言し、インドでは自由インド仮政府が樹立されるなど、それまでの欧米列強による植民地支配から脱しようとする動きが、アジアのあちらこちらで見られるようになりました。昭和18(1943)年11月5日、東條英機(とうじょうひでき)首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地...

  • 戦局の暗転 その5

    また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて、日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる「玉砕(ぎょくさい)」の悲劇が初めて起きてしまいました。なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。アッツ島の玉砕によって、すぐそばにあ...

  • 戦局の暗転 その4

    もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。そうなれば、アメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますから、イギリスを援護することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を...

  • 【ハイブリッド方式】第92回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年9月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 戦局の暗転 その3

    こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇るべき戦闘機である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)が、アメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握り、また敵空母から襲ってきた雷撃機約70機も落とした一方で、零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神のごとき活躍を見せました。ところが、日本軍が攻撃を急ぐあまり、空母の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があっ...

  • 戦局の暗転 その2

    大東亜戦争の緒戦の頃、10隻以上の航空母艦(=空母)を持ち、かつ機動部隊を編成できたのは我が国とアメリカだけでした。その両国が「一騎討ち」のかたちで昭和17(1942)年6月5日から激突したのがミッドウェー海戦だったのです。なお、これだけの編成が可能なのは現在ではアメリカだけであり、その後も世界史上で空母機動部隊を編成運用できた国はありません。我が国はこういった民族的経験をしっかりと記憶すべきでしょう。さて...

  • 戦局の暗転 その1

    ※今回より「昭和時代・戦中」の更新を再開します(10月6日までの予定)。大東亜戦争の緒戦において苦戦続きだった一方で、航空機の活用が戦局を有利に導くと判断したアメリカは、圧倒的な国力を背景に、高速空母攻撃部隊の編成に力を入れました。昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(=空母)ホーネットからアメリカB25爆撃機16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後にチャイナの基地へ...

  • 織田信長の統一事業・後編 その10

    ※「第91回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(9月23日)からは「昭和時代・戦中」の更新を再開します(10月6日までの予定)。信長には「もう一つの顔」があることを皆さんはご存知でしょうか。20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が、平成25(2013)年に厳(おごそ)かに行われたのは記憶に新しいですね。式年遷宮は飛鳥時代の7世紀から原則として20年ごとに行われてきましたが、戦国時代を...

  • 織田信長の統一事業・後編 その9

    そんな折に、信長が子の織田信孝(おだのぶたか)に四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を滅ぼすべく出陣させようとしましたが、これは光秀にとっては絶対に許されないことでした。なぜなら、信長は元親と当初は同盟を結んでいたのですが、その仲を取り持ったのが光秀自身だったからです。しかも、光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁いでおり、その間に跡継ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。それなのに、嗚呼(ああ)...

  • 織田信長の統一事業・後編 その8

    例えば天正8(1580)年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林秀貞(はやしひでさだ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、天正10(1582)年旧暦4月には、自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしています。信長による狂気じみた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという...

  • 織田信長の統一事業・後編 その7

    若い頃の信長は、実は「非常に甘い」武将でもありました。なぜなら、何度も裏切ろうとした実弟の織田信行(おだのぶゆき)を殺害したことを除いては、一時は信長に逆らった武将であっても助命しているからです。例えば、信行側についた柴田勝家(しばたかついえ)らも許していますし、美濃の斎藤氏を滅ぼした際も、当主の斎藤龍興(さいとうたつおき)は追放されただけでした。しかし、妹の婿(むこ)であり、絶対的な信頼を寄せて...

  • 織田信長の統一事業・後編 その6

    皆さんは、家康が現在どこで眠っているかご存知でしょうか。もちろん栃木県にある日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)ですね。東照宮において家康は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀られているのですが、これは家康が死の直前に「自分を日光に権現として祀るように」と遺言したのがそもそもの由来です。つまり、東照大権現として祀られるのは家康自身の意思によるものなのです。しかも、権現とは神の化身(けし...

  • 織田信長の統一事業・後編 その5

    安土城は後述する本能寺(ほんのうじ)の変の影響で消失しましたが、その後の発掘調査や復元図などでその全容が次第に明らかになってきています。安土城の天守閣は、他の城とは違って「天主」と呼ばれていました。これは当時のキリスト教の別名であった「天主教」にもつながり、天主に存在する信長は神の生まれ変わりであると考えることもできます。また、信長が完成した安土城に入城するのは天正7(1579)年旧暦5月11日ですが、こ...

  • 織田信長の統一事業・後編 その4

    さて、宗教勢力や室町幕府などの旧来の勢力を打ち破って天下統一へと着実に進んでいった信長でしたが、元々は尾張の守護代の家老の一族に過ぎなかった彼にとっては、自己の「権威の後ろ盾」がどうしても不足してしまうという宿命的な問題が浮上していました。後に同じような悩みを抱えることになった豊臣秀吉や徳川家康は、関白(かんぱく)や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで天皇あるいは朝廷の後ろ盾を利用しまし...

  • 織田信長の統一事業・後編 その3

    信長に対して反逆さえしなければ、たとえ激しく戦った相手であっても信教の自由を認める。ここから導き出される結論は、信長は「宗教弾圧をしていない」ということです。そう言われてみれば、比叡山延暦寺を焼打ちした後でも、確かに信長は天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していません。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(=カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことと比べれば対照的で...

  • 織田信長の統一事業・後編 その2

    信長軍が村上水軍に敗れたのは、敵の火器で自軍の船が燃やされたからでした。だとすれば、燃えない船をつくることができれば勝てるはずです。船を燃やされないようにするには頑丈な鉄を使えばよいのですが、鉄は重たくて沈んでしまいます。通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつきました。「鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈ま...

  • 織田信長の統一事業・後編 その1

    宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつくことの多かった仏教が嫌悪(けんお)の対象でしかなかった一方で、西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長はすぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえるエピソードですね。さて...

  • 織田信長の統一事業・中編 その10

    山城から平山城へと城の建築方法が変わった大きな原因は、鉄砲の出現でした。いかに堅固な山城であっても、鉄砲の射程距離の範囲内であれば、結局は攻撃を受けてしまいます。一方、平山城であれば城の周囲に大きな堀を設けたり、あるいは城自身を高く設計したりすることで、射程距離にかからないようにすることが可能になりますし、さらに城に立てこもれば、内部へと迫ってくる敵を鉄砲で狙い撃ちすることもできます。しかも、山城...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年9月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 織田信長の統一事業・中編 その9

    信玄の死後、家督を継いだ子の武田勝頼(たけだかつより)は攻勢に出て、東美濃や遠江に入って信長や家康の城を次々と落としました。しかし、天正3(1575)年に三河の長篠(ながしの)まで進出した際に、信長・家康が用意した多数の鉄砲隊の前に武田軍が率いた騎馬隊が壊滅的な打撃を受けました。これが有名な「長篠合戦」です。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途(いっと)をたどり、天正10(1582)年旧暦3月に信長...

  • 織田信長の統一事業・中編 その8

    信玄が挙兵し、三方ヶ原の戦いで家康を破ったことを知った義昭は喜び、信玄の動きを警戒して岐阜に戻っていた信長の隙(すき)をついて、居住していた将軍御所の周囲に堀をめぐらせて防備を固めたうえで、信長に対して挙兵しました。しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、元亀4(1573)年旧暦7月に義昭は信長によって京...

  • 織田信長の統一事業・中編 その7

    年が明けて元亀2(1571)年、信長は近江の姉川を封鎖して佐和山城(さわやまじょう)を落とし、南近江の支配権を確立するとともに、朝倉氏や浅井氏、あるいは本願寺などの連絡網を断つことに成功しました。包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に信長に抵抗を続けた比叡山延暦寺の焼打ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず...

  • 織田信長の統一事業・中編 その6

    浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとはしませんでしたが、もし信長が京から離れればすぐにでも占領できる距離にいたために、信長自身も京から動くことができず、そうこうしている間に本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発となり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたの...

  • 織田信長の統一事業・中編 その5

    岐阜がそうであったように、信長は大胆な発想で城下町を建設していきましたが、その際に当時の常識であった通行税を徴収するための関所や、商売をするために必要な組合、すなわち座を設けませんでした。先述した「楽市・楽座」の制度を採用したのです。楽市・楽座によって商売の自由が認められた信長の支配地では、多くの人口を頼りに各地の商人がこぞって集まり、大変な賑(にぎ)わいを見せました。その結果、信長の領内は他の大...

  • 織田信長の統一事業・中編 その4

    信長はわずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。こうして朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦の屈辱を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康とともに、元亀(げんき)元(...

  • 織田信長の統一事業・中編 その3

    堺に対する支配権を手に入れて経済力をさらに高めた信長は、次なる領地の目標を越前の朝倉義景と定め、永禄13(1570)年旧暦4月に京を出陣し、敦賀(つるが)の金ヶ崎城(かねがさきじょう)を落とすなど、緒戦で勝利を収めました。ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟であり、最も信頼を寄せていた武将の一人であった浅井長政が、信長を裏切って北近江から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたの...

  • 織田信長の統一事業・中編 その2

    ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は「自身による天下統一」ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。いくら戦国の世とはいえ...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年9月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 織田信長の統一事業・中編 その1

    信長が美濃の攻略を目指していた頃は室町幕府の権威がさらに低下しており、将軍の足利義輝が、先述のとおり永禄8(1565)年に松永久秀らによって暗殺されてしまいました。次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景に仕えていた明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。それまでに北近江の浅井長政(あざ...

  • 織田信長の統一事業・前編 その8

    さて、信長は兵農分離の長所を最大限に利用して岐阜に本拠地を移動すると、それまでの戦国大名と同じように、家臣たちを城下に住まわせることで人や物資の流れをつくるという、いわゆる「城下町」の建設に乗り出しましたが、信長のやり方は実に徹底していました。信長は、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽に至るまで半ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、そ...

  • 織田信長の統一事業・前編 その7

    美濃を我が領地とした信長は、それまでの尾張から岐阜城を自らの本拠地に定めましたが、彼のように「本拠地を変える」ということは、他の戦国大名にはそう簡単にはできないことでした。なぜなら、先述のとおり、この頃の戦国大名の兵力は大半が農民兵だったからです。地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑でした。農民は田植えや稲刈りなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、当然田畑に釘付けになります...

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