第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
絶対国防圏を設定して防備を強化しながら反転攻勢の機会を狙(ねら)っていた我が国でしたが、その作戦準備が不十分なうちに、アメリカ軍の圏内への侵入を許すようになっていきました。昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え...
ミッドウェー海戦の敗北やガダルカナル島からの撤退など、大東亜戦争において守勢に立たされた我が国は、昭和18(1943)年9月に、敵の第一線から遠く離れた後方に、本土防衛の確保や戦争継続のために不可欠である圏域(けんいき)を設定しようとしました。これを「絶対国防圏」といいます。我が国は絶対国防圏として、千島(ちしま)・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかく...
大東亜戦争において我が国が劣勢に転じつつあった昭和18(1943)年、ビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンが日本軍の支持のもとで独立を宣言し、インドでは自由インド仮政府が樹立されるなど、それまでの欧米列強による植民地支配から脱しようとする動きが、アジアのあちらこちらで見られるようになりました。昭和18(1943)年11月5日、東條英機(とうじょうひでき)首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地...
また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて、日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる「玉砕(ぎょくさい)」の悲劇が初めて起きてしまいました。なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。アッツ島の玉砕によって、すぐそばにあ...
もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。そうなれば、アメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますから、イギリスを援護することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を...
【ハイブリッド方式】第92回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年9月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇るべき戦闘機である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)が、アメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握り、また敵空母から襲ってきた雷撃機約70機も落とした一方で、零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神のごとき活躍を見せました。ところが、日本軍が攻撃を急ぐあまり、空母の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があっ...
大東亜戦争の緒戦の頃、10隻以上の航空母艦(=空母)を持ち、かつ機動部隊を編成できたのは我が国とアメリカだけでした。その両国が「一騎討ち」のかたちで昭和17(1942)年6月5日から激突したのがミッドウェー海戦だったのです。なお、これだけの編成が可能なのは現在ではアメリカだけであり、その後も世界史上で空母機動部隊を編成運用できた国はありません。我が国はこういった民族的経験をしっかりと記憶すべきでしょう。さて...
※今回より「昭和時代・戦中」の更新を再開します(10月6日までの予定)。大東亜戦争の緒戦において苦戦続きだった一方で、航空機の活用が戦局を有利に導くと判断したアメリカは、圧倒的な国力を背景に、高速空母攻撃部隊の編成に力を入れました。昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(=空母)ホーネットからアメリカB25爆撃機16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後にチャイナの基地へ...
※「第91回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(9月23日)からは「昭和時代・戦中」の更新を再開します(10月6日までの予定)。信長には「もう一つの顔」があることを皆さんはご存知でしょうか。20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が、平成25(2013)年に厳(おごそ)かに行われたのは記憶に新しいですね。式年遷宮は飛鳥時代の7世紀から原則として20年ごとに行われてきましたが、戦国時代を...
そんな折に、信長が子の織田信孝(おだのぶたか)に四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を滅ぼすべく出陣させようとしましたが、これは光秀にとっては絶対に許されないことでした。なぜなら、信長は元親と当初は同盟を結んでいたのですが、その仲を取り持ったのが光秀自身だったからです。しかも、光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁いでおり、その間に跡継ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。それなのに、嗚呼(ああ)...
例えば天正8(1580)年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林秀貞(はやしひでさだ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、天正10(1582)年旧暦4月には、自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしています。信長による狂気じみた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという...
若い頃の信長は、実は「非常に甘い」武将でもありました。なぜなら、何度も裏切ろうとした実弟の織田信行(おだのぶゆき)を殺害したことを除いては、一時は信長に逆らった武将であっても助命しているからです。例えば、信行側についた柴田勝家(しばたかついえ)らも許していますし、美濃の斎藤氏を滅ぼした際も、当主の斎藤龍興(さいとうたつおき)は追放されただけでした。しかし、妹の婿(むこ)であり、絶対的な信頼を寄せて...
皆さんは、家康が現在どこで眠っているかご存知でしょうか。もちろん栃木県にある日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)ですね。東照宮において家康は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀られているのですが、これは家康が死の直前に「自分を日光に権現として祀るように」と遺言したのがそもそもの由来です。つまり、東照大権現として祀られるのは家康自身の意思によるものなのです。しかも、権現とは神の化身(けし...
安土城は後述する本能寺(ほんのうじ)の変の影響で消失しましたが、その後の発掘調査や復元図などでその全容が次第に明らかになってきています。安土城の天守閣は、他の城とは違って「天主」と呼ばれていました。これは当時のキリスト教の別名であった「天主教」にもつながり、天主に存在する信長は神の生まれ変わりであると考えることもできます。また、信長が完成した安土城に入城するのは天正7(1579)年旧暦5月11日ですが、こ...
さて、宗教勢力や室町幕府などの旧来の勢力を打ち破って天下統一へと着実に進んでいった信長でしたが、元々は尾張の守護代の家老の一族に過ぎなかった彼にとっては、自己の「権威の後ろ盾」がどうしても不足してしまうという宿命的な問題が浮上していました。後に同じような悩みを抱えることになった豊臣秀吉や徳川家康は、関白(かんぱく)や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで天皇あるいは朝廷の後ろ盾を利用しまし...
信長に対して反逆さえしなければ、たとえ激しく戦った相手であっても信教の自由を認める。ここから導き出される結論は、信長は「宗教弾圧をしていない」ということです。そう言われてみれば、比叡山延暦寺を焼打ちした後でも、確かに信長は天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していません。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(=カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことと比べれば対照的で...
信長軍が村上水軍に敗れたのは、敵の火器で自軍の船が燃やされたからでした。だとすれば、燃えない船をつくることができれば勝てるはずです。船を燃やされないようにするには頑丈な鉄を使えばよいのですが、鉄は重たくて沈んでしまいます。通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつきました。「鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈ま...
宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつくことの多かった仏教が嫌悪(けんお)の対象でしかなかった一方で、西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長はすぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえるエピソードですね。さて...
山城から平山城へと城の建築方法が変わった大きな原因は、鉄砲の出現でした。いかに堅固な山城であっても、鉄砲の射程距離の範囲内であれば、結局は攻撃を受けてしまいます。一方、平山城であれば城の周囲に大きな堀を設けたり、あるいは城自身を高く設計したりすることで、射程距離にかからないようにすることが可能になりますし、さらに城に立てこもれば、内部へと迫ってくる敵を鉄砲で狙い撃ちすることもできます。しかも、山城...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年9月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
信玄の死後、家督を継いだ子の武田勝頼(たけだかつより)は攻勢に出て、東美濃や遠江に入って信長や家康の城を次々と落としました。しかし、天正3(1575)年に三河の長篠(ながしの)まで進出した際に、信長・家康が用意した多数の鉄砲隊の前に武田軍が率いた騎馬隊が壊滅的な打撃を受けました。これが有名な「長篠合戦」です。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途(いっと)をたどり、天正10(1582)年旧暦3月に信長...
信玄が挙兵し、三方ヶ原の戦いで家康を破ったことを知った義昭は喜び、信玄の動きを警戒して岐阜に戻っていた信長の隙(すき)をついて、居住していた将軍御所の周囲に堀をめぐらせて防備を固めたうえで、信長に対して挙兵しました。しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、元亀4(1573)年旧暦7月に義昭は信長によって京...
年が明けて元亀2(1571)年、信長は近江の姉川を封鎖して佐和山城(さわやまじょう)を落とし、南近江の支配権を確立するとともに、朝倉氏や浅井氏、あるいは本願寺などの連絡網を断つことに成功しました。包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に信長に抵抗を続けた比叡山延暦寺の焼打ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず...
浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとはしませんでしたが、もし信長が京から離れればすぐにでも占領できる距離にいたために、信長自身も京から動くことができず、そうこうしている間に本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発となり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたの...
岐阜がそうであったように、信長は大胆な発想で城下町を建設していきましたが、その際に当時の常識であった通行税を徴収するための関所や、商売をするために必要な組合、すなわち座を設けませんでした。先述した「楽市・楽座」の制度を採用したのです。楽市・楽座によって商売の自由が認められた信長の支配地では、多くの人口を頼りに各地の商人がこぞって集まり、大変な賑(にぎ)わいを見せました。その結果、信長の領内は他の大...
信長はわずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。こうして朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦の屈辱を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康とともに、元亀(げんき)元(...
堺に対する支配権を手に入れて経済力をさらに高めた信長は、次なる領地の目標を越前の朝倉義景と定め、永禄13(1570)年旧暦4月に京を出陣し、敦賀(つるが)の金ヶ崎城(かねがさきじょう)を落とすなど、緒戦で勝利を収めました。ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟であり、最も信頼を寄せていた武将の一人であった浅井長政が、信長を裏切って北近江から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたの...
ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は「自身による天下統一」ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。いくら戦国の世とはいえ...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年9月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
信長が美濃の攻略を目指していた頃は室町幕府の権威がさらに低下しており、将軍の足利義輝が、先述のとおり永禄8(1565)年に松永久秀らによって暗殺されてしまいました。次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景に仕えていた明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。それまでに北近江の浅井長政(あざ...
さて、信長は兵農分離の長所を最大限に利用して岐阜に本拠地を移動すると、それまでの戦国大名と同じように、家臣たちを城下に住まわせることで人や物資の流れをつくるという、いわゆる「城下町」の建設に乗り出しましたが、信長のやり方は実に徹底していました。信長は、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽に至るまで半ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、そ...
美濃を我が領地とした信長は、それまでの尾張から岐阜城を自らの本拠地に定めましたが、彼のように「本拠地を変える」ということは、他の戦国大名にはそう簡単にはできないことでした。なぜなら、先述のとおり、この頃の戦国大名の兵力は大半が農民兵だったからです。地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑でした。農民は田植えや稲刈りなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、当然田畑に釘付けになります...
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第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...