第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
さて、信長は苦労の末に永禄10(1567)年に美濃を攻め落とすことに成功しましたが、その頃から自身の印判に「天下布武(てんかふぶ)」と記すようになりました。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「武力によって天下を支配する」という意味が込められており、自分の最終目的が天下統一であることを高らかに宣言したのです。なお、近年の調査では「天下」を「畿内(きない)」に限定する説もあるようです。さらに、美...
ここで信長になったつもりで今後の対策を考えてみましょう。「宝の山」ともいえる今川氏の領地は確かに欲しいですが、仮に自身が三河・遠江・駿河の三国の領有に成功したとしても、武田信玄や北条氏康といった強力な戦国大名と領地が接してしまうことになります。ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯」の情勢...
義元の死によって今川氏は没落しました。ということは、勢力が衰えた今川氏の領地を奪い取ることは比較的容易だったのです。当時の今川氏は三河から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫も多く、海の幸にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの...
後の世で「桶狭間の戦い」と呼ばれたこの戦は、信長による大逆転の勝利だったわけですが、戦後の論功行賞(ろんこうこうしょう)が、それまでの慣例とは明らかに異なっていたことをご存知でしょうか。義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制する...
駿河を本拠地とする戦国大名の今川義元が、永禄3(1560)年に尾張を狙(ねら)って侵攻してきたのです。25,000人ともいわれる今川氏の軍勢に対して、信長が動員できる人数はそのわずか10分の1以下の2,000人程度でした。まともに戦っては勝ち目がありません。家臣からは籠城(ろうじょう)を勧める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣し、熱田(あつた)神宮で...
戦国時代には全国各地に数多くの戦国大名が存在していましたが、その多くは自分の足元を固めたり、あわよくば隣国を征服しようかと考えたりするなど、どちらかといえば地域的な対立が中心でした。そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑んだ人物が現れました。もちろん「織田信長」のことです。さて、信長の出身である織田家はもともと尾張の守護大名であっ...
フランシスコ=ザビエル自身は2年余りで我が国を離れましたが、我が国における布教活動に道筋をつけたことで、この後もルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日し、我が国に教会堂である南蛮寺(なんばんじ)や宣教師の養成学校であるコレジオ、神学校(しんがっこう)であるセミナリオなどを次々と建てました。ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿...
大航海時代のきっかけのひとつとなった宗教改革によって、カトリックは新興のプロテスタントの圧迫を受けることになりましたが、巻き返しを図りたいカトリックはイエズス会(別名を耶蘇会=やそかい)を設立して、アフリカやアジアなどヨーロッパ以外の各地での布教を目指しました。イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰さ...
我が国との貿易が大きな利益をもたらすことを知ったポルトガル人は、やがて毎年のように我が国に来航するようになりました。さらにはイスパニア人も天正(てんしょう)12(1584)年に肥前(ひぜん、ここでは現在の長崎県)の平戸(ひらど)に来航して、我が国との貿易を始めました。当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを「南蛮人(なんばんじん)」と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」といいます。南蛮...
天文12(1543)年、ポルトガル人を乗せた明の船が九州南方の種子島(たねがしま)に漂着(ひょうちゃく、ただよい流れて岸に着くこと)しました。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人です。領主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、ポルトガル人が所有していた「鉄砲」に興味を示してこれを購入すると、家臣にその使用法と製造法を学ばせました。手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると...
ところで、大航海時代という言葉だけを耳にすると、大海原(おおうなばら)に新たな希望を見つけようとした開拓の時代という良いイメージしか浮かばないのですが、実は、この時代には多くの人々が虐殺(ぎゃくさつ)されたという恐るべき側面が隠されていました。当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発...
ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから明(みん)のマカオにも拠点を築きました。一方、イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領してルソン島のマニラを根拠地としました。要するにポルトガルは東廻りで、イスパニアは西廻りでそれぞれアジアに進出した...
我が国では戦国時代にあたる15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパでは、ルネサンスや宗教改革によって近代社会へと移行しつつありました。宗教改革によるカトリックとプロテスタントの激しい争いや、イスラームの世界への対抗もあって、ヨーロッパの諸国はキリスト教(特にカトリック)の布教や海外貿易の拡大を目指して世界へと乗り出しました。いわゆる「大航海(だいこうかい)時代」の始まりです。大航海時代の先頭に立っ...
各地の城下町と京都とをつなぐ遠距離の商業活動も盛んとなり、物資などを輸送するために陸上では馬借(ばしゃく)が、海上では廻船(かいせん)が活躍し、大きな千石船(せんごくぶね)もつくられました。交通手段の発達が人の流れを活発にしたことで、行商(ぎょうしょう)や巡礼(じゅんれい、聖地や霊場をめぐって旅をすること)が盛んとなり、各地で港町(みなとまち)や宿場町(しゅくばまち)が繁栄(はんえい)しました。こ...
戦国時代には城下町が地方の政治や経済あるいは文化の中心として栄えた一方で、農村では手工業(しゅこうぎょう)や商品経済が発達したことによって、農村の市場や町が飛躍的に増加し発展しました。この頃には各地の寺社が参詣者(さんけいしゃ)の増加に努めたため、門前町(もんぜんまち)や寺内町(じないまち)が発展しました。特に寺内町には門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の商工業者が集結したことで、新設の市...
各地の戦国大名は富国強兵(ふこくきょうへい)を行って領国支配を強化しました。例えば、武器などの大量の物資の生産や調達が必要な場合は有力な商工業者を取り立てて、家臣団とともに領国内の城下(じょうか)に集めました。城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上...
戦国大名の中には、家臣団を統制したり、あるいは領国を安定して支配したりするために、基本法となる分国法(ぶんこくほう、別名を家法=かほう)を制定する者もあらわれました。分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘を行った当事者の双方を処罰してすべての紛争を大名による裁定に委ねるという喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団...
自らの地位を実力で手に入れた戦国大名は、武力によって領地や領民を強力に支配していきました。彼らは服属させた国人(こくじん)や地侍(じざむらい、大名や国人などと主従関係を結んだ有力農民のこと)らを新たに家臣に組み入れました。国人や地侍らの収入の基準には耕地に課せられた税を銭に換算した貫高(かんだか)が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。こ...
北陸では、越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の守護大名であった斯波(しば)氏が守護代の朝倉(あさくら)氏によって政治の実権を奪われました。また、越後(えちご、現在の新潟県)では関東管領の上杉氏の守護代であった長尾(ながお)氏から景虎(かげとら)が出て、後に関東管領を継いで「上杉謙信(うえすぎけんしん)」と名乗りました。甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田(たけだ)氏がそのまま戦国大名...
それでは、各地の戦国大名の動きを見てみましょう。まず関東ですが、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が永享(えいきょう)11(1439)年の永享の乱で敗死した後は、関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏が実権を握っていました。しかし、後に鎌倉公方が下総(しもうさ、現在の千葉県北部など)の古河公方(こがくぼう)と伊豆(いず、現在の静岡県南東部など)の堀越公方(ほりごえくぼう)とに分裂する...
※今回より「第91回歴史講座」の内容の更新を開始しますす(9月22日までの予定)。応仁の乱を経て室町幕府の権威は有名無実と化し、幕府の実権をめぐって内部の権力争いが激化しました。幕府の実権は、当初は管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)の細川(ほそかわ)氏が握りましたが、細川晴元(ほそかわはるもと)が執事(しつじ)の三好長慶(みよしながよし)の台頭を許し、その長慶も家臣の松永久秀(まつ...
※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(8月11日)からは「第91回歴史講座」の内容を更新します(9月22日までの予定)。これまで述べてきたように、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を見せており、もし戦局が有利な段階で諸外国との講和が結ばれていれば、戦争を勝利のうちに終わらせることは十分に可能でした。大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争ある...
統帥権干犯問題によって、事実上「軍部は政府のいうことを聞く必要がない」こととなりましたが、では「陸軍と海軍とが対立した場合」はどうなるのでしょうか。実は、陸海軍お互いが同等の統帥権を持っていたがゆえに、その場合の根本的な解決方法は何も存在しませんでした。例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトッ...
ところが、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって当時の内閣を攻撃したことが、憲政を擁護(ようご)する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまいました。なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められ...
日露戦争と大東亜戦争とを比較した場合、まず目立つのは「人材の差」です。日露戦争の頃には明治天皇の厚い信任を受けた「維新の元勲(げんくん、国家に尽くした大きな功績のある人のこと)」たる「元老(げんろう)」が存在しており、戦争の際に彼らが指導権を握ることが当然と思われていました。しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時...
他国と戦争となった場合、勝利を得るために「戦略」を練って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それは「政略」を行う政治家の仕事です。我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前...
大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露(にちろ)戦争のことです。日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがア...
我が国では、毎年正月に皇族の方々や一般の国民が、一つのお題に対して和歌を詠(よ)む「歌会始(うたかいはじめ)」という行事がありますが、大東亜戦争が始まった直後の昭和17(1942)年の歌会始で、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠みになられました。「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という...
昭和17(1942)年4月、東條英機(とうじょうひでき)内閣の下で、前回からの任期を1年間延長したうえで、大東亜戦争中に唯一となった衆議院の総選挙が行われました。この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力...
大東亜戦争における緒戦の勝利によって、日本軍は開戦後わずか半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下に置きました。日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しまし...
さて、真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16(1941)年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は、山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた一方で、12月10日には、日本海軍航空隊がマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(げきちん)しました。東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決...
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第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...