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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 桃山文化 その2

    桃山文化を代表するものに城郭(じょうかく)建築が挙げられます。鉄砲の伝来などによる軍事技術の発達によって、それまでのように山城(やまじろ)に籠(こも)っていても遠くから鉄砲で狙い撃ちされる危険性が高まったことや、城下町の建設などの領国支配の必要から、平山城(ひらやまじろ)から平城(ひらじろ)へと変化し、城を平野部に建築するようになりました。しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があった...

  • 桃山文化 その1

    織田信長や豊臣秀吉が政治の実権を握った頃のことを、それぞれの居城(きょじょう)の名前にちなんで「安土桃山(ももやま)時代」といい、この時期の文化を「桃山文化」といいます。なお、秀吉の晩年の居城は伏見城(ふしみじょう)ですが、江戸時代にその城跡に桃の木が植えられたことから、当地を「桃山」と呼ぶようになりました。この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商たちが文化の...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その6

    加えて、秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、いかに実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。秀吉は慶長3(1598)年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼する直筆の書状が残されています。間もなく秀...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その5

    そして文禄4(1595)年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山に入って出家しましたがその後に切腹を命じられ、また秀次の女子供を含む一族郎党の39人が京都で処刑されました。それまでの「人たらし」の面影が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷な行動は、我が子可愛さからきたものであると同時に、独裁者となったことで彼の猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その4

    また、明は秀吉の出兵から約半世紀後の1644年に満州の女真族(じょしんぞく)のヌルハチによって滅ぼされ、新たに清(しん)が誕生するわけですが、清が建国できた原因の一つに「明が我が国と戦ったことで勢力が低下していた」という事情があったことは間違いありません。これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。秀吉による朝鮮...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その3

    ところで、秀吉による朝鮮出兵が失敗に終ったことで、待ってましたとばかりにイスパニアが我が国との戦いで体力の弱った明を攻め込みそうなものですよね。しかし、現実にはイスパニアが明を侵略することはありませんでした。なぜでしょうか。それは、秀吉が死亡した頃までに、イスパニアの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリス...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その2

    朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに許されざる侵略者ではありますが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせて世の中に平和をもたらすきっかけをつくってくれた恩人でもあります。秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が...

  • 朝鮮出兵の影響と豊臣家の落日 その1

    ところで、秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは今もなお深く、文禄の役は「壬辰倭乱(じんしんわらん)」、慶長の役は「丁酉(ていゆう)倭乱」と呼ばれるなど、秀吉はまさに悪魔のような人物とみなされているのが現実です。加えて、秀吉は最近の国内の歴史学説においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などといった散々な扱いを受けており、さらには多くの歴...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その8

    その後、我が国と朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、文禄5(1596)年に我が国に使者を送った明が「秀吉を日本国王に封ずる」という一方的な内容の国書を送り返したこともあり、失敗に終わりました。翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その7

    自ら計画した明の征服に対して「唐入(からい)り」と名付けた秀吉でしたが、先述したように我が国は明へ直接攻め込むことが可能な大きな船の建造能力が当時はありませんでした。だとすれば、我が国と地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に手段がないのです。秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほ...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その6

    我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。これらの点に着目...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その5

    さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。当時の我が国が合計で数十万の兵力や数を同じくする鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは我が国を直ちに侵略することは現実的には難しいと考えていました。そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国のキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その4

    イエズス会とイスパニアによる我が国侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒するとともに直ちにバテレン追放令(=宣教師追放令)を出してカトリックの信仰を禁止し、長崎も天正16(1588)年にイエズス会から没収して秀吉の直轄地(ちょっかつち)としました。しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。後に徳川...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その3

    秀吉が九州に上陸してまず驚いたことは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、前回(第91回)述べたとおりキリシタン大名であった大村純忠(おおむらすみただ)によってイエズス会に寄進されてしまっていたことでした。いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その2

    南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。もちろんキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためにヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、織田信長も前回(第91回)述べたとおり貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。信長の後を継いだ秀吉も当初はカトリックの...

  • 秀吉の対外政策と朝鮮への出兵 その1

    国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易も盛んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきましたが、秀吉も莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出すとともに、天正16(1588)年に「海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)」を出して倭寇(わこう)を取り締まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助して貿易の保護と促進をはかりました。当時の我が国は銀の産...

  • 太閤検地と刀狩 その3

    天正16(1588)年、秀吉は「刀狩令」を出し、全国の農民から武器を取り上げて兵士との身分の違いを明確にするとともに、一揆を防止して検地を行いやすくするようにしました。要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように天下を統一して、それこそ数十万の兵力を持つようになったことで...

  • 太閤検地と刀狩 その2

    太閤検地によって、土地の生産力がそれまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを「石高制」といいます。なお、田畑や屋敷地の等級に応じて、米の生産高を踏まえて定めた基準額である石盛(こくもり)を決め、石盛に面積を乗じたものが石高となりました。ちなみに、石盛の算定には先述した京枡を統一して使用しました。また、検地帳(別名を御前帳=ご...

  • 太閤検地と刀狩 その1

    豊臣政権における様々な事業の中で、特に内政面において後世にまで大きな影響を与えたものに「検地(けんち)」と「刀狩(かたながり)」がありました。天正10(1582)年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を「太閤検地」、または「天正の石(こく)直し」といいます。太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定め...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その6

    信長と同様に、秀吉も豊富な経済力を誇っていました。その基盤(きばん)となったのは、畿内(きない)を中心とした約200万石(まんごく)の直轄領(ちょっかつりょう)たる蔵入地(くらいりち)でした。また、秀吉が天下を統一する頃までに京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山を支配し、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ち...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その5

    天正13(1585)年、秀吉は朝廷から関白(かんぱく)に任じられ、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させました。翌天正14(1586)年には朝廷から新たに「豊臣」の姓を賜(たまわ)り、太政大臣(だじょうだいじん)に就任しました。なお、秀吉のことを後に「太閤(たいこう)」と呼ぶようになりますが、これは関白の前任者のことを意味しています。関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その4

    天正11(1583)年、秀吉は信長が築城した安土城(あづちじょう)を手本として、水陸交通の要所であった大坂の石山本願寺の跡地に「大坂城」の築城を開始し、天下統一への自らの意思を天下に示しました。天正12(1584)年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」に挑みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その3

    信長の死を知った秀吉は愕然(がくぜん)としましたが、ピンチはチャンスでもありました。信長の敵(かたき)である光秀を他の家臣よりもいち早く討つことで信長亡き後の自分の地位を高め、あわよくば天下を我が手にしようと決意したのです。秀吉は毛利氏が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し」です。そして同月13日には京都の山崎(やまざき)で光秀と戦...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その2

    秀吉の出自については諸説あり、例えば父親が百姓かもしくは足軽であったとか定かではありません。いずれにせよ、秀吉が根っからの戦国武士でなかった可能性は高く、逆にそのことが秀吉の出世を助けることになりました。秀吉は、先述した墨俣築城において現地の土豪に協力を仰いだことや、三木城(みきじょう、現在の兵庫県)や鳥取城の攻略において現地の商人から兵糧をすべて買い取って「兵糧攻め」にしたり、高松城(たかまつじ...

  • 豊臣秀吉の天下統一 その1

    ※今回より「第92回歴史講座」の内容の更新を開始します(11月3日までの予定)。織田信長(おだのぶなが)の後を継いで天下統一を果たしたのは、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし、別名を羽柴秀吉=はしばひでよし)でした。信長の血を引く後継者や多くの家臣が存在したなかで、なぜ秀吉が天下取りに名乗りを挙げることができたのでしょうか。その謎を探るためにも、まずは彼の生い立ちから振り返ってみましょう。豊臣...

  • 戦時下の国民生活 その3

    ※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(10月7日)からは「第92回歴史講座」の内容を更新します(11月3日までの予定)。大東亜戦争当時、軍隊に動員された青壮年(せいそうねん)男性は400万人から500万人に達したため、日本国内で生産に必要な労働力は学徒勤労動員でも挽回できないほど慢性的に不足しました。また、制海権や制空権を日本軍が喪失(そうしつ)したことで南方諸地域からの海上輸送が困難となったため...

  • 戦時下の国民生活 その2

    学徒出陣しなかった残りの学生や生徒も、国家の危機に際して労働に励むようになりました。昭和13(1938)年から文部省は休業時の一定日数を勤労奉仕に充(あ)てるように通達し、翌昭和14(1939)年には恒久化され、学徒勤労動員が本格化しました。昭和19(1944)年に入ると、学徒出陣で徴兵されなかった学生・生徒は軍需工業に動員され、高学年の生徒の男女を問わない深夜作業も許可されました。そして昭和20(1945)年3月には決...

  • 戦時下の国民生活 その1

    当時の我が国は徴兵制であり、満20歳に達した男子は全員徴兵検査を受けて兵役に就(つ)く義務がありましたが、その一方で大学や高等学校、あるいは専門学校(いずれも当時の学制による)などに在学する者は、成年後も卒業までは徴兵が延期されるという特例がありました。しかし、大東亜戦争開戦前の昭和16(1941)年10月には大学及び専門学校の卒業予定者を3か月繰り上げ卒業させて翌昭和17(1942)年2月に入隊させたほか、翌年度...

  • 戦局の暗転 その11

    1943(昭和18)年11月、テヘラン会談の前にアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、中華民国国民政府の蒋介石(しょうかいせき)主席が北アフリカのカイロで会談し、対日戦争方針を決定した「カイロ宣言」を発表しました。カイロ宣言の主な内容は、第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や、満州(現在の中国東北部)・台湾などの中華民国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行...

  • 戦局の暗転 その10

    大東亜戦争における我が国の戦局が暗転していくなかで、枢軸国(すうじくこく)として同盟を結んでいたドイツやイタリアにも大きな動きが見られるようになりました。当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連(現在のロシア)などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率...

  • 戦局の暗転 その9

    最後の突撃に参加した日本軍の兵士は約2,000人とされ、いずれも「ワッショイ、ワッショイ」「バンザイ、バンザイ」の叫び声とともに、敵の弾丸をものともせずに突進していく「バンザイ攻撃」を行い、アメリカ軍兵士を恐怖のどん底に陥れるとともに、多数の死傷者を出させました。一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人が、アメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下(へいか)、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自...

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