ところで、皆さんは「蹴鞠(けまり)」をご存知でしょうか。蹴鞠は7世紀前半までに中国から我が国に伝わったとされており、貴族から武士あるいは一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で蹴鞠の会が盛大に行...
桃山文化を代表するものに城郭(じょうかく)建築が挙げられます。鉄砲の伝来などによる軍事技術の発達によって、それまでのように山城(やまじろ)に籠(こも)っていても遠くから鉄砲で狙い撃ちされる危険性が高まったことや、城下町の建設などの領国支配の必要から、平山城(ひらやまじろ)から平城(ひらじろ)へと変化し、城を平野部に建築するようになりました。しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があった...
織田信長や豊臣秀吉が政治の実権を握った頃のことを、それぞれの居城(きょじょう)の名前にちなんで「安土桃山(ももやま)時代」といい、この時期の文化を「桃山文化」といいます。なお、秀吉の晩年の居城は伏見城(ふしみじょう)ですが、江戸時代にその城跡に桃の木が植えられたことから、当地を「桃山」と呼ぶようになりました。この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商たちが文化の...
加えて、秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、いかに実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。秀吉は慶長3(1598)年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼する直筆の書状が残されています。間もなく秀...
そして文禄4(1595)年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山に入って出家しましたがその後に切腹を命じられ、また秀次の女子供を含む一族郎党の39人が京都で処刑されました。それまでの「人たらし」の面影が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷な行動は、我が子可愛さからきたものであると同時に、独裁者となったことで彼の猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと...
また、明は秀吉の出兵から約半世紀後の1644年に満州の女真族(じょしんぞく)のヌルハチによって滅ぼされ、新たに清(しん)が誕生するわけですが、清が建国できた原因の一つに「明が我が国と戦ったことで勢力が低下していた」という事情があったことは間違いありません。これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。秀吉による朝鮮...
ところで、秀吉による朝鮮出兵が失敗に終ったことで、待ってましたとばかりにイスパニアが我が国との戦いで体力の弱った明を攻め込みそうなものですよね。しかし、現実にはイスパニアが明を侵略することはありませんでした。なぜでしょうか。それは、秀吉が死亡した頃までに、イスパニアの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリス...
朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに許されざる侵略者ではありますが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせて世の中に平和をもたらすきっかけをつくってくれた恩人でもあります。秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が...
ところで、秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは今もなお深く、文禄の役は「壬辰倭乱(じんしんわらん)」、慶長の役は「丁酉(ていゆう)倭乱」と呼ばれるなど、秀吉はまさに悪魔のような人物とみなされているのが現実です。加えて、秀吉は最近の国内の歴史学説においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などといった散々な扱いを受けており、さらには多くの歴...
その後、我が国と朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、文禄5(1596)年に我が国に使者を送った明が「秀吉を日本国王に封ずる」という一方的な内容の国書を送り返したこともあり、失敗に終わりました。翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮...
自ら計画した明の征服に対して「唐入(からい)り」と名付けた秀吉でしたが、先述したように我が国は明へ直接攻め込むことが可能な大きな船の建造能力が当時はありませんでした。だとすれば、我が国と地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に手段がないのです。秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほ...
我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。これらの点に着目...
さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。当時の我が国が合計で数十万の兵力や数を同じくする鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは我が国を直ちに侵略することは現実的には難しいと考えていました。そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国のキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我...
イエズス会とイスパニアによる我が国侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒するとともに直ちにバテレン追放令(=宣教師追放令)を出してカトリックの信仰を禁止し、長崎も天正16(1588)年にイエズス会から没収して秀吉の直轄地(ちょっかつち)としました。しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。後に徳川...
秀吉が九州に上陸してまず驚いたことは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、前回(第91回)述べたとおりキリシタン大名であった大村純忠(おおむらすみただ)によってイエズス会に寄進されてしまっていたことでした。いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土...
南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。もちろんキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためにヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、織田信長も前回(第91回)述べたとおり貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。信長の後を継いだ秀吉も当初はカトリックの...
国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易も盛んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきましたが、秀吉も莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出すとともに、天正16(1588)年に「海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)」を出して倭寇(わこう)を取り締まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助して貿易の保護と促進をはかりました。当時の我が国は銀の産...
天正16(1588)年、秀吉は「刀狩令」を出し、全国の農民から武器を取り上げて兵士との身分の違いを明確にするとともに、一揆を防止して検地を行いやすくするようにしました。要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように天下を統一して、それこそ数十万の兵力を持つようになったことで...
太閤検地によって、土地の生産力がそれまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを「石高制」といいます。なお、田畑や屋敷地の等級に応じて、米の生産高を踏まえて定めた基準額である石盛(こくもり)を決め、石盛に面積を乗じたものが石高となりました。ちなみに、石盛の算定には先述した京枡を統一して使用しました。また、検地帳(別名を御前帳=ご...
豊臣政権における様々な事業の中で、特に内政面において後世にまで大きな影響を与えたものに「検地(けんち)」と「刀狩(かたながり)」がありました。天正10(1582)年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を「太閤検地」、または「天正の石(こく)直し」といいます。太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定め...
信長と同様に、秀吉も豊富な経済力を誇っていました。その基盤(きばん)となったのは、畿内(きない)を中心とした約200万石(まんごく)の直轄領(ちょっかつりょう)たる蔵入地(くらいりち)でした。また、秀吉が天下を統一する頃までに京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山を支配し、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ち...
天正13(1585)年、秀吉は朝廷から関白(かんぱく)に任じられ、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させました。翌天正14(1586)年には朝廷から新たに「豊臣」の姓を賜(たまわ)り、太政大臣(だじょうだいじん)に就任しました。なお、秀吉のことを後に「太閤(たいこう)」と呼ぶようになりますが、これは関白の前任者のことを意味しています。関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(...
天正11(1583)年、秀吉は信長が築城した安土城(あづちじょう)を手本として、水陸交通の要所であった大坂の石山本願寺の跡地に「大坂城」の築城を開始し、天下統一への自らの意思を天下に示しました。天正12(1584)年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」に挑みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に...
信長の死を知った秀吉は愕然(がくぜん)としましたが、ピンチはチャンスでもありました。信長の敵(かたき)である光秀を他の家臣よりもいち早く討つことで信長亡き後の自分の地位を高め、あわよくば天下を我が手にしようと決意したのです。秀吉は毛利氏が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し」です。そして同月13日には京都の山崎(やまざき)で光秀と戦...
秀吉の出自については諸説あり、例えば父親が百姓かもしくは足軽であったとか定かではありません。いずれにせよ、秀吉が根っからの戦国武士でなかった可能性は高く、逆にそのことが秀吉の出世を助けることになりました。秀吉は、先述した墨俣築城において現地の土豪に協力を仰いだことや、三木城(みきじょう、現在の兵庫県)や鳥取城の攻略において現地の商人から兵糧をすべて買い取って「兵糧攻め」にしたり、高松城(たかまつじ...
※今回より「第92回歴史講座」の内容の更新を開始します(11月3日までの予定)。織田信長(おだのぶなが)の後を継いで天下統一を果たしたのは、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし、別名を羽柴秀吉=はしばひでよし)でした。信長の血を引く後継者や多くの家臣が存在したなかで、なぜ秀吉が天下取りに名乗りを挙げることができたのでしょうか。その謎を探るためにも、まずは彼の生い立ちから振り返ってみましょう。豊臣...
※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(10月7日)からは「第92回歴史講座」の内容を更新します(11月3日までの予定)。大東亜戦争当時、軍隊に動員された青壮年(せいそうねん)男性は400万人から500万人に達したため、日本国内で生産に必要な労働力は学徒勤労動員でも挽回できないほど慢性的に不足しました。また、制海権や制空権を日本軍が喪失(そうしつ)したことで南方諸地域からの海上輸送が困難となったため...
学徒出陣しなかった残りの学生や生徒も、国家の危機に際して労働に励むようになりました。昭和13(1938)年から文部省は休業時の一定日数を勤労奉仕に充(あ)てるように通達し、翌昭和14(1939)年には恒久化され、学徒勤労動員が本格化しました。昭和19(1944)年に入ると、学徒出陣で徴兵されなかった学生・生徒は軍需工業に動員され、高学年の生徒の男女を問わない深夜作業も許可されました。そして昭和20(1945)年3月には決...
当時の我が国は徴兵制であり、満20歳に達した男子は全員徴兵検査を受けて兵役に就(つ)く義務がありましたが、その一方で大学や高等学校、あるいは専門学校(いずれも当時の学制による)などに在学する者は、成年後も卒業までは徴兵が延期されるという特例がありました。しかし、大東亜戦争開戦前の昭和16(1941)年10月には大学及び専門学校の卒業予定者を3か月繰り上げ卒業させて翌昭和17(1942)年2月に入隊させたほか、翌年度...
1943(昭和18)年11月、テヘラン会談の前にアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、中華民国国民政府の蒋介石(しょうかいせき)主席が北アフリカのカイロで会談し、対日戦争方針を決定した「カイロ宣言」を発表しました。カイロ宣言の主な内容は、第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や、満州(現在の中国東北部)・台湾などの中華民国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行...
大東亜戦争における我が国の戦局が暗転していくなかで、枢軸国(すうじくこく)として同盟を結んでいたドイツやイタリアにも大きな動きが見られるようになりました。当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連(現在のロシア)などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率...
最後の突撃に参加した日本軍の兵士は約2,000人とされ、いずれも「ワッショイ、ワッショイ」「バンザイ、バンザイ」の叫び声とともに、敵の弾丸をものともせずに突進していく「バンザイ攻撃」を行い、アメリカ軍兵士を恐怖のどん底に陥れるとともに、多数の死傷者を出させました。一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人が、アメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下(へいか)、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自...
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?
ところで、皆さんは「蹴鞠(けまり)」をご存知でしょうか。蹴鞠は7世紀前半までに中国から我が国に伝わったとされており、貴族から武士あるいは一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で蹴鞠の会が盛大に行...
皇極天皇を後継にしたのは、蘇我蝦夷の息子(=馬子の孫)の蘇我入鹿(そがのいるか)でした。入鹿は自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権を我が手に握ろうとしていましたが、そのためには優秀な山背大兄王の存在が目障(めざわ)りだったのです。643年、父親である蘇我蝦夷から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自...
推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が34代の舒明(じょめい)天皇として即位されました。舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀...
我が国初の女帝となられた推古(すいこ)天皇の皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)となってから、我が国のために内政・外交とも大活躍を見せた聖徳太子(しょうとくたいし)でしたが、622年に49歳で逝去(せいきょ)すると、それを待っていたかのように蘇我(そが)氏の横暴が再び始まりました。老いてなお盛んであった蘇我馬子(そがのうまこ)は、聖徳太子という後...
法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、平成5(1993)年には「法隆寺地域の仏教建造物」が我が国で初のユネスコの世界文化遺産として登録されました。仏教の信仰によって、数多くの仏像が造られました。中でも有名なのは鞍作鳥(くらつくりのとり、別名を止利仏師=とりぶっし)が制作した金銅像(こんどうぞう)である法隆寺金堂(こんどう)の釈迦三尊像...
仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
平成7(1995)年3月20日の朝、東京の地下鉄の車内や駅の数か所で毒物サリンがばらまかれ、都心は大パニックとなりました。いわゆる「地下鉄サリン事件」です。サリンを製造したのはオウム真理教であり、計画的なテロであったことが後に分かりましたが、我が国では化学物によるテロを想定していなかったため、消防や警察では毒物が除去できず、化学兵器に対する防護服を持っていた陸上自衛隊の化学防護隊のみが対応可能でした。平成...
平成7(1995)年1月17日午前5時46分に発生した「阪神・淡路大震災」は、関西地方一帯を襲ったマグニチュード7.3の巨大地震であり、兵庫県の一部地域では国内史上初の震度7が観測されました。関連死を含めて約6,400人の生命が失われたほか、高速道路や新幹線、あるいは在来線といった鉄道が寸断され、ライフラインを失った人々の生活は長期にわたって不便を余儀なくされました。大正12(1923)年に発生した関東大震災など、我が国は...
平成5(1993)年8月に成立した非自民8党派による連立である細川護熙内閣は、衆議院総選挙において「小選挙区比例代表並立制」を導入し、選挙制度改革を含んだ一連の政治改革法案を成立させました。しかし、細川首相が3%の消費税を廃止して新たに7%の税率による国民福祉税を導入する構想を発表した頃から政権の求心力が低下し、また首相自身による佐川急便グループからの借入金処理問題の発覚もあって、細川内閣は平成6(1994)年...
衆議院総選挙に敗北して宮澤内閣が退陣する直前の平成5(1993)年8月4日、当時の河野洋平(こうのようへい)内閣官房長官による「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」が発表されました。いわゆる「河野談話」のことです。この談話は、1990年代から朝日新聞などの日本のマスコミや韓国によって盛んに主張され始めたいわゆる「従軍慰安婦問題」に関し、その幕引きを図るべく、当時の宮澤首相と河野官房長官とが旧...
昭和63(1988)年に発覚したリクルート事件を受けて国民の政治不信が強まっていたことから、抜本的な政治改革を行って国民の信頼を取り戻すべきだという声が政府の内外から次第に高まってきました。また、宮澤内閣当時の平成4(1992)年には佐川急便事件が、翌平成5(1993)年にはゼネコン汚職事件が相次いで発覚し、国民の激しい非難を浴びたことから、選挙制度改革や政界再編を目指す動きが与野党を巻き込んで見られるようになり...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...