第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
桃山文化を代表するものに城郭(じょうかく)建築が挙げられます。鉄砲の伝来などによる軍事技術の発達によって、それまでのように山城(やまじろ)に籠(こも)っていても遠くから鉄砲で狙い撃ちされる危険性が高まったことや、城下町の建設などの領国支配の必要から、平山城(ひらやまじろ)から平城(ひらじろ)へと変化し、城を平野部に建築するようになりました。しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があった...
織田信長や豊臣秀吉が政治の実権を握った頃のことを、それぞれの居城(きょじょう)の名前にちなんで「安土桃山(ももやま)時代」といい、この時期の文化を「桃山文化」といいます。なお、秀吉の晩年の居城は伏見城(ふしみじょう)ですが、江戸時代にその城跡に桃の木が植えられたことから、当地を「桃山」と呼ぶようになりました。この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商たちが文化の...
加えて、秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、いかに実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。秀吉は慶長3(1598)年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼する直筆の書状が残されています。間もなく秀...
そして文禄4(1595)年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山に入って出家しましたがその後に切腹を命じられ、また秀次の女子供を含む一族郎党の39人が京都で処刑されました。それまでの「人たらし」の面影が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷な行動は、我が子可愛さからきたものであると同時に、独裁者となったことで彼の猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと...
また、明は秀吉の出兵から約半世紀後の1644年に満州の女真族(じょしんぞく)のヌルハチによって滅ぼされ、新たに清(しん)が誕生するわけですが、清が建国できた原因の一つに「明が我が国と戦ったことで勢力が低下していた」という事情があったことは間違いありません。これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。秀吉による朝鮮...
ところで、秀吉による朝鮮出兵が失敗に終ったことで、待ってましたとばかりにイスパニアが我が国との戦いで体力の弱った明を攻め込みそうなものですよね。しかし、現実にはイスパニアが明を侵略することはありませんでした。なぜでしょうか。それは、秀吉が死亡した頃までに、イスパニアの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリス...
朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに許されざる侵略者ではありますが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせて世の中に平和をもたらすきっかけをつくってくれた恩人でもあります。秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が...
ところで、秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは今もなお深く、文禄の役は「壬辰倭乱(じんしんわらん)」、慶長の役は「丁酉(ていゆう)倭乱」と呼ばれるなど、秀吉はまさに悪魔のような人物とみなされているのが現実です。加えて、秀吉は最近の国内の歴史学説においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などといった散々な扱いを受けており、さらには多くの歴...
その後、我が国と朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、文禄5(1596)年に我が国に使者を送った明が「秀吉を日本国王に封ずる」という一方的な内容の国書を送り返したこともあり、失敗に終わりました。翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮...
自ら計画した明の征服に対して「唐入(からい)り」と名付けた秀吉でしたが、先述したように我が国は明へ直接攻め込むことが可能な大きな船の建造能力が当時はありませんでした。だとすれば、我が国と地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に手段がないのです。秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほ...
我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。これらの点に着目...
さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。当時の我が国が合計で数十万の兵力や数を同じくする鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは我が国を直ちに侵略することは現実的には難しいと考えていました。そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国のキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我...
イエズス会とイスパニアによる我が国侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒するとともに直ちにバテレン追放令(=宣教師追放令)を出してカトリックの信仰を禁止し、長崎も天正16(1588)年にイエズス会から没収して秀吉の直轄地(ちょっかつち)としました。しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。後に徳川...
秀吉が九州に上陸してまず驚いたことは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、前回(第91回)述べたとおりキリシタン大名であった大村純忠(おおむらすみただ)によってイエズス会に寄進されてしまっていたことでした。いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土...
南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。もちろんキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためにヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、織田信長も前回(第91回)述べたとおり貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。信長の後を継いだ秀吉も当初はカトリックの...
国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易も盛んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきましたが、秀吉も莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出すとともに、天正16(1588)年に「海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)」を出して倭寇(わこう)を取り締まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助して貿易の保護と促進をはかりました。当時の我が国は銀の産...
天正16(1588)年、秀吉は「刀狩令」を出し、全国の農民から武器を取り上げて兵士との身分の違いを明確にするとともに、一揆を防止して検地を行いやすくするようにしました。要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように天下を統一して、それこそ数十万の兵力を持つようになったことで...
太閤検地によって、土地の生産力がそれまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを「石高制」といいます。なお、田畑や屋敷地の等級に応じて、米の生産高を踏まえて定めた基準額である石盛(こくもり)を決め、石盛に面積を乗じたものが石高となりました。ちなみに、石盛の算定には先述した京枡を統一して使用しました。また、検地帳(別名を御前帳=ご...
豊臣政権における様々な事業の中で、特に内政面において後世にまで大きな影響を与えたものに「検地(けんち)」と「刀狩(かたながり)」がありました。天正10(1582)年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を「太閤検地」、または「天正の石(こく)直し」といいます。太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定め...
信長と同様に、秀吉も豊富な経済力を誇っていました。その基盤(きばん)となったのは、畿内(きない)を中心とした約200万石(まんごく)の直轄領(ちょっかつりょう)たる蔵入地(くらいりち)でした。また、秀吉が天下を統一する頃までに京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山を支配し、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ち...
天正13(1585)年、秀吉は朝廷から関白(かんぱく)に任じられ、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させました。翌天正14(1586)年には朝廷から新たに「豊臣」の姓を賜(たまわ)り、太政大臣(だじょうだいじん)に就任しました。なお、秀吉のことを後に「太閤(たいこう)」と呼ぶようになりますが、これは関白の前任者のことを意味しています。関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(...
天正11(1583)年、秀吉は信長が築城した安土城(あづちじょう)を手本として、水陸交通の要所であった大坂の石山本願寺の跡地に「大坂城」の築城を開始し、天下統一への自らの意思を天下に示しました。天正12(1584)年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」に挑みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に...
信長の死を知った秀吉は愕然(がくぜん)としましたが、ピンチはチャンスでもありました。信長の敵(かたき)である光秀を他の家臣よりもいち早く討つことで信長亡き後の自分の地位を高め、あわよくば天下を我が手にしようと決意したのです。秀吉は毛利氏が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し」です。そして同月13日には京都の山崎(やまざき)で光秀と戦...
秀吉の出自については諸説あり、例えば父親が百姓かもしくは足軽であったとか定かではありません。いずれにせよ、秀吉が根っからの戦国武士でなかった可能性は高く、逆にそのことが秀吉の出世を助けることになりました。秀吉は、先述した墨俣築城において現地の土豪に協力を仰いだことや、三木城(みきじょう、現在の兵庫県)や鳥取城の攻略において現地の商人から兵糧をすべて買い取って「兵糧攻め」にしたり、高松城(たかまつじ...
※今回より「第92回歴史講座」の内容の更新を開始します(11月3日までの予定)。織田信長(おだのぶなが)の後を継いで天下統一を果たしたのは、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし、別名を羽柴秀吉=はしばひでよし)でした。信長の血を引く後継者や多くの家臣が存在したなかで、なぜ秀吉が天下取りに名乗りを挙げることができたのでしょうか。その謎を探るためにも、まずは彼の生い立ちから振り返ってみましょう。豊臣...
※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(10月7日)からは「第92回歴史講座」の内容を更新します(11月3日までの予定)。大東亜戦争当時、軍隊に動員された青壮年(せいそうねん)男性は400万人から500万人に達したため、日本国内で生産に必要な労働力は学徒勤労動員でも挽回できないほど慢性的に不足しました。また、制海権や制空権を日本軍が喪失(そうしつ)したことで南方諸地域からの海上輸送が困難となったため...
学徒出陣しなかった残りの学生や生徒も、国家の危機に際して労働に励むようになりました。昭和13(1938)年から文部省は休業時の一定日数を勤労奉仕に充(あ)てるように通達し、翌昭和14(1939)年には恒久化され、学徒勤労動員が本格化しました。昭和19(1944)年に入ると、学徒出陣で徴兵されなかった学生・生徒は軍需工業に動員され、高学年の生徒の男女を問わない深夜作業も許可されました。そして昭和20(1945)年3月には決...
当時の我が国は徴兵制であり、満20歳に達した男子は全員徴兵検査を受けて兵役に就(つ)く義務がありましたが、その一方で大学や高等学校、あるいは専門学校(いずれも当時の学制による)などに在学する者は、成年後も卒業までは徴兵が延期されるという特例がありました。しかし、大東亜戦争開戦前の昭和16(1941)年10月には大学及び専門学校の卒業予定者を3か月繰り上げ卒業させて翌昭和17(1942)年2月に入隊させたほか、翌年度...
1943(昭和18)年11月、テヘラン会談の前にアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、中華民国国民政府の蒋介石(しょうかいせき)主席が北アフリカのカイロで会談し、対日戦争方針を決定した「カイロ宣言」を発表しました。カイロ宣言の主な内容は、第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や、満州(現在の中国東北部)・台湾などの中華民国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行...
大東亜戦争における我が国の戦局が暗転していくなかで、枢軸国(すうじくこく)として同盟を結んでいたドイツやイタリアにも大きな動きが見られるようになりました。当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、1943(昭和18)年を境にイギリスやアメリカ・ソ連(現在のロシア)などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率...
最後の突撃に参加した日本軍の兵士は約2,000人とされ、いずれも「ワッショイ、ワッショイ」「バンザイ、バンザイ」の叫び声とともに、敵の弾丸をものともせずに突進していく「バンザイ攻撃」を行い、アメリカ軍兵士を恐怖のどん底に陥れるとともに、多数の死傷者を出させました。一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人が、アメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下(へいか)、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自...
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第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...