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イキイキと生きる! https://blog.goo.ne.jp/hiroyuki-mori051201/

「生き甲斐の心理学」の知恵を活かし、イキイキと毎日を生きましょう。私は縄文小説も楽しんでます!

東京生まれ。7才のときに米国アラスカで暮らす経験をもつ。外資系コンピュータ会社に勤め、52歳で円満退職。その後、生き甲斐の心理学を学び特定非営利活動法人CULLカリタスカウンセリング学会理事兼講師。縄文小説を2017年に上梓し縄文文化の研究もしている。

マリオ
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八王子市
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新宿区
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2011/07/25

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  • 真善美が広げてくれる自由な世界・・今も縄文も (4/10 縄文を五感で探る)

    人は生涯を通して「思い込み」と共に暮らす存在のようだ。私が「生き甲斐の心理学」を学ぶようになったのも、6歳の時のある事件とその解釈(思い込み)と関係があるように今となっては考えるのだが、その時の「思い込み」は何と50年たってから解放された。これは一つの事例だが、多分私はまだ多くの「思い込み」を持ち、生涯を終えるに違いない。さて、最近私は大栗川の下流域(聖蹟桜ヶ丘周辺)を良く散歩するようになった。この下流域に私は40年前ごろから20年近く暮らしていた。しかし、当時は縄文時代に興味は殆どなく、大栗川の下流域も交通公園や市民プールで楽しんだりするくらいだった。ところで、この20年くらいだが、東京の下町の川の歴史の面白さに気が付き、ある時隅田川で水上バスを楽しんだ。その時私は不思議な感覚を持った。例えば勝鬨橋であ...真善美が広げてくれる自由な世界・・今も縄文も(4/10縄文を五感で探る)

  • 座禅をしていた縄文人がいたか・・柔軟に変化をする(3/10 五感で縄文を探る)

    U先生の「生き甲斐の心理学」を学んで20年くらい経つが、U先生のご紹介もあって10年位前から太極拳・気功をA先生から学んでいる。私は身体を動かすことは幼い頃は好きだったが、時々思いついたように1年くらい、ジョギングにこったりすることはあっても、大人になってからは全く続かなかった。しかし、太極拳・気功はA先生のご指導のすばらしさもあり、ずっと続けることができている。続けられたのは、体調がよくなったとか、楽しい時間とかいくつの理由があるが、もう一つ大事なことがあることに気づいた。それは自分の身体性の不思議な世界に触れられるということだ。昔、友達と有名なお寺で短時間であったが座禅を体験させていただいたことがあった。その時の自分の内部に沈潜する体験にも似ているように思う。呼吸を整える事もあるのだと思うが、朝から晩...座禅をしていた縄文人がいたか・・柔軟に変化をする(3/10五感で縄文を探る)

  • 縄文人の愛のイメージ・・(2/10 五感で縄文を探る)

    比較文化論や比較宗教学の影響を受けたU先生の「生き甲斐の心理学」の愛の定義は(その人が心の中で愛を感じたものを愛とする)である。「生き甲斐の心理学」は臨床心理系でもあるので当然の定義だと思うが、アガペーとか慈愛など定義や意味をを学んだことがあったので、なにか拍子抜けのところがあった。しかし、いくら高邁な定義であったとしてもその人がなにも感じなければ論外なので、この定義は価値あるものと納得している。さて、人それぞれが自分が思っている愛。それは生育史上の愛の原型(幼児期や少年少女期などで作られる)から導かれるような愛であるが、ここでは愛のイメージと呼んでみよう。勿論、定義から、それは人それぞれ異なるということがわかる。例えば、私が幼いころは野球が流行っていて、父と時々楽しいキャッチボールをし、またラジオやテレ...縄文人の愛のイメージ・・(2/10五感で縄文を探る)

  • 他者との違いを楽しむ縄文の世界(1/10 縄文を五感で探る)

    人を愛し愛されるノウハウは個人の幼い頃の生育史に縛られやすい傾向があるので、自分だけでなく他者の世界を柔軟に知れば、だいぶ世界は広がり心の世界は豊かになると思う。大事な人とのかかわりあいで、意見の相違など「違い」とどう付き合って行くかが大事なようだ。普通は「違い」に遭遇すると愛の孤独を感じ、心を開くというより閉じる方向に行きやすい。つまり防衛機制を働かせ自他肯定のスタンスが崩れやすい。このときにうまく間をとったりしながら傾聴モードに切り替えて、相手の愛の原型を探ったり、こちらの愛の原型に関する思いを語ったり出来ると良いのだが。とはいえ、なかなかそうはいかない。好転する時を待つことも大事だと思う。その時に、日常生活を五感体感でイキイキと真善美に触れつつ過ごすということがとても大事な気がする。今の世の中はマス...他者との違いを楽しむ縄文の世界(1/10縄文を五感で探る)

  • 希望は最後の切り札・・今も縄文時代も (10/10 五感と縄文)

    先日の旅ほど素敵な縄文時代の文化に親しんだことはなかった。国宝級の土器や土偶、石棒などを博物館で楽しませていただいたが、東京ではなかなか味わえない、縄文の雰囲気の溢れる遺跡公園や景観を五感で味合わせていただいたことは至福の時だった。津南町の石落とし縄文時代は氷河期のころまで遡れるが、その一万年以上の縄文時代は私たちの列島の祖先に様々な災難をもたらせたのだと思う。その中にあって、すべての縄文人は生きそして死に私たちに命のバトンタッチをしてくれたのだと思う。そして、その遺物をじっくり見たりしていると、今この近くに縄文人が現存するようなリアルさを感じてしまう。人間は、死に対して実に無力である。身体は簡単に滅んでしまう。しかし、祖先たちは死に対しても絶望せず希望を持ち続けた。今回の旅では夥しい数の土器(氷河期のこ...希望は最後の切り札・・今も縄文時代も(10/10五感と縄文)

  • 愛の原型を意識すると愛の多様性に気がつく・・今も縄文時代も (五感と縄文)

    一家団欒で家でご馳走を食べるのと、一家で外食を楽しむのとどちらが嬉しいか?私は外食も勿論好きだが、父の影響か家でご馳走を食べるほうだった。ところが妻は外食が特にお好きのようだった。他者との愛し愛される幼い頃の経験は原型となって、その人の人生を左右するという理論がある。それを踏襲すると、私のそれは家でご馳走を皆で楽しむという愛の原型があるようだし、妻の場合はどうも外食を家族で楽しむという原型があるようだった。この場合、愛の原型のことを知らないと、夫婦間のちょっとした深層意識のずれは、微妙な問題になったりする。外食に愛を感じる人は家でのご馳走はここ一つ喜べないし、場合によれば煩わしくは感じるかも知れない。人それぞれの愛の原型を意識すると、例えば私が外食は良いものだと思うようになり(教育されたのかもしれないが)...愛の原型を意識すると愛の多様性に気がつく・・今も縄文時代も(五感と縄文)

  • コツコツと旅する人生・・今も縄文時代も (8/10 五感と縄文)

    縄文小説を書くために最近学生時代に読んだ「悲しき熱帯」を納戸の書棚から引っ張り出して、それこそ40~50年ぶりに読んだ。昔読んだ本は、良かったとかつまらなかったという感想の記憶は微かに残っているものの、内容はすっかり忘れているのもおかしい(笑)。そして、ところとどころ読み直すともう一つ気づくことがある。かつては抵抗なく読め好印象だったのに、今読むと抵抗感を感じたり、印象がかなり変わってしまっていたり。その一番の原因は、自分の哲学というかアイデンティティがいつのまにか変わったこと、現実吟味力も学生のそれと違っていること、防衛機制の使い方も変化しているということかもしれない。心理学の用語ではわかりにくいかもしれない。平たく言えば個人が成長したとか、年輪を積んだとか、個性的になったとか、そういう領域のことなのだ...コツコツと旅する人生・・今も縄文時代も(8/10五感と縄文)

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