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私的海潮音 英米詩訳選 https://blog.goo.ne.jp/kozakana_2009/

主に十七から二十世紀初頭の英語詩の訳を試みています。多いのはT・S・エリオット。

ひっそりと一人で続けていた英詩翻訳マラソンです。二日にいっぺん二、三行ほど牛歩の歩みで細々と。人さまにお見せするのは訳のみで! と意気込み、二年来匿名でやっていましたがだんだんさみしくなりました。勇気をだして世の中? とつながってみよう。ので、あまりにも目に余る誤訳が目につきましたらぜひともご指摘ください。ちなみに私は英文学は素人に毛が三本生えた程度です。

コザカナ
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2011/06/04

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  • 失楽園 143~155行目

    *128行目から引き続きサタンの呼びかけに対するベルゼブブの返答です。楽園の喪失ジョン・ミルトン143しかしもしかの者すなわち我らの征服者が(今や144かの者が武力において全能であると信じるのは145我らほどの武力を圧倒し得たからに他ならない)146我らの精神〔ココロ〕と強さとを痛みを忍んで147耐え得るほどにも欠けなく強いまま残すことで148己が憤怒を充たしていたり149さらに力ある奉仕を己が奴どもに150戦の権利としてその務めのあたう限り負わせて151此処にて地獄の中心で焔のなかで働かせたり152仄暗い淵で己の使い走りを務めさせたりするなら153一体何の役に立とう?たとえ我らが154己らの強さは減じられぬと非時〔トクジク〕の155処罰に耐えうる非時の存在だと感じていようと143ButwhatifheourC...失楽園143~155行目

  • 失楽園 125~142行目

    楽園の喪失ジョン・ミルトン125導きの天使はそのように語った痛みのうちにあろうとも126声高に自賛してだが深い絶望に苦しみながら127すぐさま応えを返したのは大胆なる同輩だった128おお公〔キミ〕よ座につく多くの能天使の首長〔オビト〕よ129戦仕度を調えたセラフの群れを闘いへと導き130汝の指揮のもとで怖れを知らぬ凄まじい行い131によって天の恒なる王を脅かして132かの者の至高の優越を強さや133機会や定めによって覆せるかを試みた方よ134余りにも私は眺めて悔やみすぎたこの悍ましい出来事が135嘆くべき転覆と穢れた挫折とともに136我らをして天を失わせしめた様をかの遍く力ある敵が137恐るべき破壊によって神々と天なる精粋を138消し得るかぎりの低みに我らを139横たえたことを精神〔ココロ〕と気概は140不屈の...失楽園125~142行目

  • 失楽園 110~124行目

    楽園の喪失巻一ジョン・ミルトン110その誉れをかの者の瞋恚も権勢を決して111俺から騙し取れはしまい頭を低めて恩寵を求め112嘆願して跪いてこの武力への怖れから己が帝国を113疑うにはあまりに遅すぎたかの者の114御稜威を崇めるのは実は賎しいことであり115この転落よりもさえ不名誉で116恥ずべきことだ定めによって神々の強さと117この至高の天の実在は衰え得ぬうえに118この大いなる出来事を通じて119武力においては劣らなければ先見では優っていたのだから120我らはもっと上首尾な希望をもって心を定め121力か策によって決して譲らぬ非時〔トキジク〕の122闘いを執り行うのがよいのだ我らの大敵に対して123今や勝ち誇ってただ独り君臨する歓びに124浸りすぎて天の専制を保ちづづける者に対して110Thatgloryn...失楽園110~124行目

  • 失楽園 84~109行目

    *昨年十一月から滞っていたParadiseLostの訳を再開いたします。毎日は厳しいかもしれませんが、少なくとも巻一は終わらせられるよう努力いたします。念のため、前回既に訳した84~91行目ももう一度お目にかけます。状況としては、神に弓引いて、同じく叛いた堕天使の群れとともに地獄の最下層に落とされたサタンが、業火に悶えるナンバー2のベルセブブを眼にして呼びかけている……というシーンです。「俺」=サタン。「汝」=ベルセブブ。「かの者」はGodです。楽園の喪失巻一ジョン・ミルトン84汝〔ナレ〕がもし彼奴〔キャツ〕であるならおおだが何という堕落か!何と85変わり果てたか幸ある光の王国にあってさえ86抜きんでた輝きを身に帯びて照り映え87光ある者どもの万〔ヨロズ〕に勝っていた様とはもし彼奴がともに心を合わせて88思いと...失楽園84~109行目

  • T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:最終段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturep.106T・S・エリオット「宗教と文学」106頁今のところ、これがある種の倫理性であって諸制限の内では偉大な善を為し得ることを否みはしない。しかし、思うに、我々は皆それよりも高い理想を提示しない倫理性は拒むべきである。それは勿論我々の目撃している、共同体はひとえに諸個人の利益のためにあるという見解に反する暴力的な反発を表している。しかし、それは同じほどこの世界の福音であって、この世界にはそれしかないのだ。現代の文学に対する私の不満も同じ類のものである。現代の文学が通常の意味で「非倫理的」だったり、あるいはいっそ「倫理に叶って」いたりして、どちらの場合でも責任が充分ではないと思いたがっているわけではない。単にそれ〔*訳注:現代文学〕が我々の最も基本的...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:最終段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第二十段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturep.106T・S・エリオット「宗教と文学」106頁今日、世界の極めて多くの人々がすべての害悪は根本的に経済上のものだと信じている。種々の特別な経済上の変化が世界を正すにも足ると信じる者もいれば、その上に多かれ少なかれ猛烈な社会上の変化を求める者もいる。主として相反する二つのタイプの変化である。求められたり時には執り行われたりするこれらの変化はある一つの面で似通っている。私の呼ぶところの世俗性という考え方を有しているのだ。彼らは時間的な、物質的な、現象的な性質の変化にのみ関心を向け、集団の倫理にのみ関心を向ける。この新たな信仰の掲示を私は次のような物言いに読む。「我々の倫理性において論理を問うただ一つの検めは、それが個人の国家に奉仕する力を何であれ妨げ...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第二十段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」第十九段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.105-106T・S・エリオット「宗教と文学」105~106頁何を好むかを知ることは文学の読み手としての我々の務めである。何を好むべきかを知ることは、文学の読み手であるのと同様にキリスト教徒としての我々の務めである。何であれ我々の好むものこそが我々の好むべきものだと仮定しないことが誠実な人間としての我々の務めである。そして我々の現に好んでいるものが我々の好むべきものだと仮定しないことが誠実なキリスト教徒としての我々の務めである。最後のものは私が望むに二つの文学として存在するだろう。一つはキリスト教徒の消費のためであり、もう一つは異教徒の世界のためである。すべてのキリスト教徒に責務として課されていると私が信じるのは、世界の残りの部分によって適用さ...T・S・エリオット「宗教と文学」第十九段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十八段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturep.105T・S・エリオット「宗教と文学」105頁私は文学に対するリベラルな態度は働かないだろうと示唆してきた。もし仮に「人生観」を我々に押し付けがちな書き手たちが本当に別個の諸個人であって、もし仮に読み手としての我々が別個の諸個人であったとしても、その結果は何になるのか?まずもって確かに各々の読み手は、その読書によって、己が前もって感銘を受けようと支度してきたものによってのみ感銘を受けるばかりだろう。彼は「最小抵抗線」に従うはずだ。それが彼をより良い者にするという保証はないだろう。文学的な判断のために、我々は直ちに二つのことに鋭く気付く必要がある。「我々は何を好むか」と「何を好むべきか」に。どちらか一方でも知っているほど誠実な人々は殆どいない。一つ...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十八段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」第十六・十七段落

    *十六・十七段落は短いため二つまとめます。……二行目に出てくる「Miss.Mannin」が何者であるかは〔少なくとも広辞苑とウィキペディアでは〕確かめられませんでした。文脈からして「高尚な文学/バーナード・ショーとウルフ夫人」に対する「低俗な文学/ノエル・カワードとマン嬢」となるため、ヴァージニア・ウルフと同時代の大衆的に人気を博した女性の流行作家ではないかと推測されます。しかしエリオット氏は素敵に皮肉で厭味ったらしい。「俺以外は世の中馬鹿ばかりだ」と率直に言ってしまえよ。T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.104-195T・S・エリオット「宗教と文学」104~105頁現代の文学はそれ自体の内に善し悪しの、より善いか悪いかの妥当な区別を完璧に有している。私は自分がバーナード・ショ...T・S・エリオット「宗教と文学」第十六・十七段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十五段落

    ★思いがけず長い寄り道になりましたが、「宗教と文学」はあと六段落ばかりで終了いたします。そろそろ失楽園に手をつけねば……二行目の大文字の「ブレイクたち/Blakes」は、正直これでよいのか自信がありませんが、同じ行の「vision」からの連想でウィリアム・ブレイクではないかということにしておきました。ブレイクの作品についてはカテゴリ「W・ブレイク」でTigerとTheSickRoseを訳しております。以下は雑感になります。今回の第十五段落の後半の'thereneverwasatime'を三回繰り返すリフレインの部分には、理知的な散文作者のなかにふと詩人が顔を出してしまったような、おこがましいながら微笑ましさを感じました。そしてふと「バーント・ノートン」の冒頭を思い出しました。↓今在るときと過ぎたときとはおそらく...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十五段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十四段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.103-104T・S・エリオット「宗教と文学」103~104頁この点について私はリベラルな気質からや、もしあらゆる者が考えたことを語り、好むことを行ったならば、物事はどういうわけか自動的な埋め合わせや調整によって正しい結末へと至ると信じている輩かららの言い返しを予期している。「誰にも試みさせよ」と彼らは語る。「もし誤りであったとしたら、我々は経験から学ぶだろう」と。この主張には幾何の価値があるかもしれない。もし我々がこの世で常に同じ世代であったり、そうでないことは承知のように、人々が恒に年長者の経験から多くを学んだりするのであれば。これらのリベラルな輩は抑制されない個人主義と呼ばれるものによってだけ恒に真実が現れると信じている。彼らの考えでは観...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十四段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第十三段落

    T.S.ElliotReligionandliteraturep.103T・S・エリオット「宗教と文学」103頁私の言わんとしてきたことの主題との関わりが今や多少は明らかになるだろう。たとえ我々が「娯楽」であろうと「審美的な享楽」のためであろうとただ歓びのためだけに文学を読むのだとしても、この読書は決して単に特別な意味の種類にだけ効果は及ぼさない。それは我々に全き人間としての効果を及ぼし、道徳的かつ宗教的な存在としての我々に効果を及ぼす。とある傑出した現代の書き手個人が向上し得る一方で、同時代の文学は全体とて堕落しつつあるということだ。そして我々のような時代にあってはそう悪くない書き手の影響さえも幾何の読み手を堕落させるだろう。書き手が人々のためにもたらすものは必ずしも彼が意図したものである必要はないのだから。...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十三段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第十二段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturep.103T・S・エリオット「宗教と文学」103頁段階的に育つにつれてより多くを読み、より多様な著者について読むようになって手に入るのは様々な人生観である。しかし、私は疑っているのだが、人々は一般に他者の人生観の経験は「進歩的な読書」によってのみ手に入れるものだと見做している。仮定するならば、それを我々がシェイクスピアやダンテやゲーテやエマーソンやカーライルや、その他数ダースの尊敬すべき書き手に専念した報酬としているのだ。愉しみのための他の読書は時間の無駄というわけである。しかし、私は次のような愕くべき結論に至りたい気分に駆られる。すなわち、「愉しみのため」か、「純粋の歓びのため」に読む文学こそがもっとも大きくかつ幾分疑わしい影響を及ぼすだろうと。最...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十二段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第十一段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.102-103T・S・エリオット「宗教と文学」102~103頁韻文であれ散文であれ創作による作品が、すなわち想像上の人間の行動や思考や熱情を描いた作品が直接に我々の人生の知識へ拡がるというのは単純には真実ではない。直接の人生の知識とは直接に我々自身に関わるものであり、人々が一般にどのように振舞うのか、一般に何に似ているのかといった我々の知識であって、我々が自身を参加させる人生の一部分における限りで一般化のための材料を与えるものである。創作物を通じて獲得する人生の知恵は過剰な自意識の次の段階によってのみ可能となる。すなわち、それは他の人々の人生の知恵であり得るのみであり、人生そのものではありないのだ。我々が何らかの小説のなかで起こった出来事に、眼...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十一段落

  • T・S・エリオット 「宗教と文学」第十段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.101-102T・S・エリオット「宗教と文学」101~102頁我々の読むものは単に「文学的な味わい」と呼ばれる何かに関わるばかりではなく、多くの他の影響のなかのひとつに過ぎなかろうと、我々の存在の総体に直接の影響を与えるという事実は、思うに、我々の個人的な文学教育の来歴の意識的な吟味によってもっともよく引き出される。ある種の文学的な多感さと共にあった何びとかの青春期の読書を鑑みて欲しい。私は信じているのだが、仮初にも詩の魅惑を感ずる者は誰でも、彼あるいは彼女が若い頃にとある詩人の作品によって彼方へ運ばれた瞬間を思い出し得る筈だ。まずもっておそらく彼は種々の詩人たちに次から次へと魅了されただろう。このつかの間の心酔の理由は、単に我らの詩に対する多...T・S・エリオット「宗教と文学」第十段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第九段落

    T.S.ElliotReligiousandLiteraturep.101T・S・エリオット「宗教と文学」101頁我々は、先入観や確信をわきによけて創作物は創作物として、劇は劇として眺めるために、文学に対して偏見を持たないことを期待されている。この国で不正確に「検閲」と呼ばれているもの――無責任な民主制における諸個人の意見を代表しているために公の検閲よりもさえ対抗するのが難しい――に、私は殆ど全く共感を抱かない。部分的には、それがきわめてしばしば間違った書物を抑圧するからであり、禁酒法よりさして効果的ではないからであり、国家による統制が相応の国内の影響力にとって代わりたいという切望のひとつの明示だからである。そして、総体としては、それがただ習慣や習癖によって働くものであって、確固たる神学的かつ倫理的な信条による...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第九段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第八段落

    T.S.ElliotReligionandLiteraturepp.100-101T・S・エリオット「宗教と文学」100~101頁今、一般に人々は限定された意見を宗教的なものであれ非宗教的なものであれ抱き、小説や詩をその問題に即して精神の内の分離された仕切りにおいて読んでいるだろうか?宗教と創作物のあいだに共通する基盤は行動である。我々の宗教は後に続く人々に対する我々自身およびその行動への道徳観と判断と批評とを負わせる。我々が作者によって承認され、作者自身が調整するその結果への態度によって祝福を与えられた何某の行動を人がとるのを読むとき、我々は同じ方法による行動へ向かう影響を受け得る。同時代の小説家が孤立して彼自身の思考の内にあるとき、彼は受け取りえる者たちにたいして重要な何かを提供するだろう。しかし、小説家の...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第八段落

  • T・S・エリオット「宗教と文学」 翻訳:第七段落

    T.S.ElliotReligionandliteraturep.100T・S・エリオット「宗教と文学」100頁確信するに、我々はじつに完全に、そして未だに無分別に、文学を宗教的な判断から分離し損ねている。もし完全な分離があり得るならば、おそらくそれは問題にならないだろう。しかし、分離はなく、おそらく決して完全にはなされ得ない。もし我々が小説によって文学を例証するなら――というのも、小説は文学がもっとも多くの数に対して影響を与える形式であるからだが――少なくとも過去三百年の漸進的な文学の世俗化に気付くことになるだろう。バニヤンからデフォーあたりまでは倫理的な目的を持っていた。前者は懐疑を超越し、後者はおそらく疑いを抱いていた。しかし、デフォー以来、小説の世俗化は途絶えずに続いている。そこには三つの主な段階があっ...T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第七段落

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