今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
元和3年(1617)、秀忠公により日光に東照宮が建立され、家康公の御霊が、久能山から遷座されました。位置的に江戸城の真っ直ぐ北にあり、江戸の守護神としての位置…
日光山の中心地に建つ、日光山の開基「勝道上人」の銅像です。 「勝道上人」は、奈良時代の僧。少年のときから山林修行を続け、天平宝字6年(762)に、下野薬師寺の…
神橋の袂に、日光PJの推進者である「天海僧正」像が建っています。 「天海僧正=光秀」説は根強くあり、その根拠の一つとして、日光で最も眺望の良い場所を、「明智平…
日光山発祥の地に、766年に、勝道上人により草創された「四本龍寺」です。発祥当時は、「紫雲立寺」と称していました。 天平神護2年(766)のある朝、勝道上人が…
二荒山神社の別宮である「本宮神社」です。神橋近く日光橋正面の山中に鎮座しています。本社(新宮)、滝尾神社とともに、日光三社大権現に数えられます。此処は二荒山神…
「神橋」を渡って直ぐ。「深沙王堂」があります。「山菅の蛇橋」伝説による、勝道上人が大谷川の急流を渡れなく困っているとき、「深沙大王(蛇沙権現)」が、二匹を蛇を…
遠国奉行は、幕府の重要直轄地に設置されました。京・大坂・駿府は「町奉行」。伏見・奈良・堺・山田・日光・下田・浦賀・新潟・佐渡・長崎・函館(のちに松前)そして幕…
誰もが知る「お爺ちゃん子」だった家光、父母を嫌い、神君家康公と春日局を愛した(実際に、その2人の息子という俗説もあるくらい)だった家光公が、祖父の側に眠る「日…
3代将軍・家光公は、大好きだった祖父の神君家康公の側で眠っています。「決して祖父を凌いではならない」とし、東照宮に比すれば、装飾などは少し控えめですが、黒を基…
二荒山神社の大鳥居です。 大きな「打ち出の小槌」があります。直ぐ前に、輪王寺の「常行堂(2つ堂、重文)」があります。比叡山延暦寺の西塔にある「にない堂」に模し…
「二荒山神社」の「神苑(有料エリア)」です。御神木も立派。 主祭神「大己貴命」を祀る「大国殿」です。 「御本殿」を臨みます。2代将軍・秀忠が造営した優美な八棟…
日光の古社「二荒山神社」は、御神体は「二荒山(現在の男体山)」、主祭神は、縁結びの神「大己貴命(おおなむちのみこと)」です。故に、女性の参拝者が多くいます。 …
東照宮の「大鳥居」を左へ。「二荒山神社」へ進みます。「二荒」を「にこう」と読み「にっこう」の語源とする説もあるように、「男体山」を御神体とし、1200年以上前…
数年前の大河ドラマで有名になった「常盤橋公園内の渋沢栄一像」です。彼が創設した「第一国立銀行(現みずほ銀行兜町支店)」の方向を向いて立っています。 此処「常盤…
神楽坂と大久保通りの交差点(神楽坂上)の東北角にある「安養寺」です。いつも扉が閉まっており参拝出来なかったのですが、此の日は扉が開いており、参拝させて戴きまし…
神楽坂は寺社の多い街で、「赤城神社」、「筑土八幡神社」、「若宮八幡神社」などが鎮座していますが、街の中心におられるお寺が「善国寺(毘沙門天さま)」です。毘沙門…
神楽坂で珠玉のイタリアンを発見。三菱U銀行の、もう1筋飯田橋寄り路地を少々西へ。「リストランテ アルベラータ」です。神楽坂は、路地の奥に限ります。露路を1本入…
神楽坂の赤城神社。本殿右のマンション、社務所、カフエなどは、隈研吾氏の設計による近代建築です。有難いような、割り切りのような。末社も、あまたあり。まずは、真ん…
「日光シリーズ」の途中ですが、ちょっと神楽坂へ。「日光シリーズ」は神楽坂のあと、「二荒山神社」そして大改修なった「東照宮」へ進んで参ります。 東京メトロ「神楽…
東京スカイツリー(634m)と同じ高さに、東照宮一の鳥居(石鳥居)と五重塔があります。東照宮一の鳥居は、八坂神社や鶴岡八幡宮の大鳥居と共に、日本三大石鳥居とい…
日光五大稲荷のひとつ「光明院稲荷社」です。大護摩堂の隣に鎮座されています。 仁治元年(1240)日光第24世「弁覚法印」が、日光山の総本坊として「光明院」を建…
本堂(三仏堂)の真裏に、輪王寺の護摩祈祷中心道場「大護摩堂」があります。 日光山内で随一の護摩祈祷所です。毎日3~5回の護摩祈祷が行われています。内陣には、御…
「日光山輪王寺」の広い境内。「逍遥園」の直ぐ前に「三仏(さんぶつ)堂」があります。日光山随一。そして東日本でも最大の木造建築です。平安時代の創建です。天台密教…
「輪王寺宮さまの庭園」である「逍遥園」です。伝小堀遠州作庭らしく、小規模ながら見事な池泉回遊式庭園です。「逍遥園」の命名者「佐藤一斎(儒学者)」は、その著書「…
「日光シリーズ」に戻ります。「日光2社1寺」と言いますが、「1寺=輪王寺」で、日光で「お寺さん」と言えば「輪王寺」のことです。 その「日光山輪王寺」の「三仏堂…
日本橋室町(本町)は、大阪の道修町と並ぶ「薬種問屋」の街です。江戸時代から「薬の町」として発展してきました。道修町に「少彦名神社(神農さん)」があるように、日…
貞観年間(9世紀)には既に鎮座していたと言われている古社です。家康は勿論、源 義家、太田道灌などの尊崇も厚い神社でした。但し、今のように整備されたのは、平成2…
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今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…