「元和偃武」後、徳川幕府は、全国主要街道の整備を進めました。「一里塚」の設置も、そのひとつです。旅人の目印のために1里(約3.927km)毎に塚を設置し、榎の…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
1件〜100件
福岡天神駅(北口)から新天町商店街を少し西へ行くと「西鉄グランドホテル」があり、「松風」さんへお邪魔しました。半個室でもあり、安心してゆっくりと、博多の和食を…
直ぐ右手は「福岡天神駅(福岡三越)」です。これほど、繁華街の真っただ中に鎮座している古社は珍しいでしょう。「警固(家後)神社」です。福岡城を築城した福岡藩黒田…
貞応元年(1222)袖の湊の海辺から出現した「人魚」を寺内に埋葬したと言われる「龍宮寺(浄土宗)」です。開山は、谷阿上人。人魚の出現は「国家長久の瑞兆」と占わ…
聖福寺の国史跡区域に隣接してあります「妙楽寺」です。臨済宗大徳寺派の寺院で、正和5年(1316)大応国師の法弟「月堂宗規」が開基となり創世されました。 石城山…
福岡のビル街に、整った「池泉回遊式庭園」があります。「楽水」とは、博多商人の下澤善右衛門親正の雅号です。親正は、2代にわたり博多の発展に貢献した商人でした。 …
大阪と下関の住吉神社と併せて「日本三大住吉」と呼ばれています。全国2129社の住吉神社の中で最も古い住吉神社が、博多の「筑前国一之宮住吉神社」です。 御祭神は…
太宰府天満宮シリーズの最後に「光明禅寺」を記します。太宰府天満宮の入り口にあります。文永10年(1273)鉄牛円心により創建された禅寺です。重森三玲作庭による…
新元号が「令和」に決まった時、注目された「坂本八幡宮」です。応神天皇を御祭神とする産土神として地元では大切に信仰されてきました。730年の初春、当時の大宰師(…
7世紀後半から12世紀前半にかけて、最大の地方官庁だった「大宰府」政庁が設置されていた場所です。親しみを込めて、「都府楼」跡とも呼ばれています。「大宰府」は、…
「観世音寺」の直ぐ隣りにある「戒壇院」です(観世音寺の一部ですが)。東大寺、下野薬師寺と並び、天下の「三大戒壇院」と呼ばれ、鑑真や空海も、此処に滞在したといわ…
「太宰府天満宮」からコミュニテーィバスに乗り、幾つかの寺社を回遊します。まずは「観世音寺」ですが、奈良時代に、母親の斉明天皇の追悼のために天智天皇の発願により…
道真公の一生を、16場面で展示している「菅公歴史館」です。展示に用いられている「装着博多人形」は、古い手法で制作されています。 道真公は、代々、文章博士、…
道真公が左遷されたときの役職は「大宰権師(だざいのごんのそち)」。そして「大宰府」は、律令制のもとで筑前国に置かれた外交施設との交渉や接待、中央との連絡などを…
延喜3年(903)2月25日、道真公は、住居の「大宰府政庁南館」にて亡くなり、門弟が御遺骸を牛車にお乗せして運びました。ところが現在の太宰府天満宮の位置に来る…
道真公の墓所の上に社殿を造営し、道真公の御神霊を永久にお祀りしている「太宰府天満宮」です。年間に約1000万人の参拝者が訪れる人気の神社で、此の日は平日の早朝…
博多は、玄界灘の魚介類や地元の野菜、山菜などを活かした、美味しいものの宝庫です。美味しい中華を求めて、ホテル日航福岡の「鴻臚」へ。 店名の「鴻臚」からして、拘…
「櫛田神社」は「博多祇園山笠」が奉納される神社で、1年中、「飾り山笠」が展示されています。このお祭りは770年以上もの伝統を誇り、博多の夏は此のお祭りから始ま…
757年の創建とされる博多の総鎮守・氏神の「櫛田神社」です。「お櫛田さん」の愛称で、広く市民に親しまれています。毎年7月に開催されるお祭り「博多祇園山笠」では…
「芸どころ、博多」を象徴する「博多座(九州最大の演劇専用劇場)」の直ぐ前に設置されている「川上音二郎」像です。近くに「生誕地」碑も残されています。 大河ドラマ…
昌泰4年(901)藤原時平の讒言により「大宰権師」に左遷された道真公が、途中、嵐に遭遇し袖の湊に流れ着いたとき、地元の漁師が、船の綱を円座に敷き出迎えたとさ…
此の直ぐ前の道は、博多で最古の道路(普賢堂通り)と言われています。そして此の辺りは、昔は、「芸能横丁」と呼ばれるほど、多くの芸能人が住んでいたとのこと。 「叶…
聖福寺の塔頭を幾つか。 まずは「順心寺」です。仏花(秋には曼殊沙華、春にはボケ、編笠百合など)咲く花の寺と称されています。 臨済宗建仁寺派の寺院で、14世紀に…
日本最初の禅寺「聖福寺」です。建久6年(1195)栄西禅師が開山となり創建しました。最盛期には、塔頭38院を擁する大寺院でした。現在も、塔頭は6院ですが、広大…
博多の地図を見ると、祇園から呉服町にかけて、大きく「緑色」に塗られた地があり、此処が、「日本初の禅寺」と言われる「史跡:聖福寺」です。 当寺は、美しい「博多…
真言宗九州教団の別格本山。大同元年(806)に弘法大師空海が密教東漸進を祈願したと言われる、空海創建の寺としては最古の寺院です。 黒田家菩提寺としては「崇福寺…
「博多千年門」から「国体道路」へ抜ける、寺社町らしい清らかな通りの「承天寺通り」の両側に「承天寺(臨済宗東福寺派)」があります。饂飩、蕎麦に博多織、更には「博…
博多の街中に巨大な巨大な楠があります。何と此処は承天寺分境内で、謝国明の墓なのです。 謝国明の墓を、巨大な楠が覆っています。謝国明は、13世紀の中国(宋)の商…
「博多千年門」から直ぐの処に鎮座する「若八幡宮」です。古くから「厄災除けの社」として有名で「厄八幡さん」と愛称されています。大晦日には、祈願者で数時間の行列が…
「博多・大宰府シリーズ」を始めます。古代から中世にかけて、西の中心であり続けた「博多湊そして大宰府政庁」。福岡市は空襲もあったはずですが、歴史を大切にし、今も…
三渓園から300m手前に鎮座する「亀の子石神社」です。いつも三渓園へ急ぐこともあり、失礼しました。 由来が詳しく説明してあります。のどの病、特に百日咳に功徳が…
元町商店街「ポンパドウル」の奥に鎮座する「厳島神社」です。治承4年(1180)頼朝が挙兵するにあたり西伊豆土肥の弁財天に戦勝祈願しました。そして戦勝後、伊豆よ…
「ハマのアメ横」の愛称で親しまれている「洪福寺松原商店街」の象徴「洪福寺(臨済宗)」です。後醍醐天皇の1330年ごろ、建長寺第30世枢翁妙環和尚が薬師堂を草創…
相鉄本線「天王町」駅前に鎮座する「橘樹(たちばな)神社」です。祇園社を勧請・御分霊し、かつては「天王社」と称していました。地名・駅名に由来となっています。 …
環状1号線へ出ると「普賢山香象院」があります。門前にある「大きな鉄釜」が有名ですが、撮影を失念しました。正面が「本堂」。左が「延命地蔵尊」です。 創建年不詳な…
神明社の門前の「庚申塔(古東海道と相州道の石碑)」を少し下ると「天徳院」があります。天正元年(1573)に臨済宗寺院として創建されましたが、のち、宗鑑和尚が、…
11棟のビジネスビルが集中する「横浜ビジネスパーク(YBP)」です。オフィスビルが中心ですが、レストランやショップもあります。総開発面積は約13万㎡。総…
相鉄本線「天王町」駅前に、東海道4番目の宿「保土ヶ谷宿」の跡がのこされています。此の宿場は東海道では、武蔵国の最西端の宿場町でした。 「保土ヶ谷宿」は、慶長…
横浜最古の寺院「弘明寺」です。京浜急行と市営地下鉄の「駅名」に採用されています。京浜急行の駅が出来る際には、お寺の土地を提供したとも言われています。 まずは「…
漱石が松山中学の教師として赴任していたときの下宿が「愚陀仏庵」です。今の「萬翠荘」の裏手にありました。名称は漱石の俳号「愚陀仏」に由来しています。 戦災で焼失…
道後温泉にある「松山市立子規記念博物館」です。子規の世界を通して、より多くの人々が、松山の「伝統文化」や文学に親しめるようにと、昭和56年に開設されました。 …
道後温泉に隣接して、広大な「国史跡/湯築城跡」があります。面積は約8.5haと巨大で、外堀に包まれて資料館、武家屋敷、土塁展示館など、グラウンドや丘陵広場など…
道後温泉を見下ろす丘陵に鎮座する「伊佐爾波(いさにわ)神社」です。道後七郡の総守護で、延喜式神名帳にも記載されている古社です。 なお、「延喜式神名帳に含まれる…
道後温泉で人気の眺望スポット「空の散歩道」です。道後温泉本館から直ぐの小高い丘の上、「湯神社」境内ヨコに設置されています。「足湯」もあります。 此処にも、子…
道後温泉の守護神と言われる「湯神社」です。道後温泉本館直ぐの小高い丘の上に鎮座されています。 由緒正しき、第12代景行天皇の勅命社です。 地震などの天災によ…
古くは「日本書紀や古事記」にも記載がある「道後温泉」を象徴する「道後温泉本館」ですが、2019年から、「保存修理工事」の真っ最中です。 工事中でも、1階の「…
道後温泉別館「飛鳥乃温泉」です。2017年にオープンして以来、大人気の日帰り温泉施設です。「太古の道後」をテーマに、道後温泉に纏わる伝説や物語などを、「愛媛県…
松山市街地から30分も路面電車に乗れば、道後温泉に到着します。日本三大名湯にも数えられる、古くから栄えた温泉地です。 「坊ちゃん電車」も、お出迎えです。 …
「いよてつ高島屋」の9階屋上の「大観覧車くるりん」です。 約15分かけて一周します。一番上に到達すると、高さは約85mです。 正面は、松山城です。 …
伊予鉄道松山市駅直ぐ裏の「正宗寺」境内に復元されている「子規堂」です。此の家から、17歳の子規は、旅立ちました。明治16年のことでした。そして大学予備門に入学…
松山の2大繁華街の「大街道」と「伊予鉄道松山市駅前」。 大街道には「秋山兄弟生誕地(生家跡)」があり、此処、「伊予鉄道松山市駅」の直ぐ裏には「正宗寺(子規堂)…
県庁裏の丘陵に位置する「松山城史跡二之丸庭園」です。整備完了後、平成4年に開園しましたが、面積は約1.6haもあります。 松山城は、加藤嘉明により築城開始し…
松山地方の総鎮守として篤い信仰を集めている「阿沼美(あぬみ)神社」です。主祭神は「味耳命(うましみみのみこと。古い豪族の久米氏や伊予の久味国造の遠祖)」、大山…
松山15万石、久松松平家の菩提寺「大林寺(だいりんじ。浄土宗)」です。 寛永4年(1627)蒲生忠知が、兄の秀行とその子忠郷の菩提を弔うべく、「見樹院」を創建…
町じゅうが揃って俳句を楽しむ松山。久松松平家初代藩主「松平定行公」の頃から、藩主自ら身分を超えて御用商人と座を同じくして、滑稽とおかしみを詠んでいたと言われて…
司馬さんの「街道をゆく」からの引用を続けます。 「大洲城は脇坂家のあと、江戸期いっぱい加藤家が城主としてつづく。大洲のお城は四重四階と言われて、珍しがられた。…
司馬さんが「街道をゆく」で大洲を訪れた時、未だ「大洲城」は再建されていませんでした。「街道をゆく」から、引用してみます。 「肱川が城のあたりで大彎曲するために…
「日本陽明学の祖」、「近江聖人」の中江藤樹の旧居跡「至徳堂」です。地元の高等学校の敷地内に保存されています。 藤樹は、9歳のとき、加藤家家臣(祖父)の養子と…
昭和52年8月公開の「男はつらいよ」第19作「寅次郎と殿様」の舞台となり撮影現場だった「お殿様公園」です。映画は、マドンナが真野響子。殿様は、嵐寛寿郎が演じま…
伊予8藩で最初の大洲藩校「止善書院明倫堂」跡碑です。大洲藩加藤家第5代加藤泰温(やすあつ)公が開校を命じ、第6代加藤泰怜(やすみち)公のとき、延享4年(174…
昨年11月に掲載した記事ですが、伊予大洲の「いづみや」さんです。再登場させます。 伊予大洲は、松山から特急で35分。戦災が無かったこともあり、6万石の城下町が…
昭和41年の第1回「NHK朝ドラ」の「おはなはん」の撮影舞台となった「おはなはん通り」です。伊予大洲の藩政時代の城下町の中心地でした。当時の土蔵が並ぶ、風情あ…
フィリピン貿易やマニラでの百貨店経営で財を成した、大洲出身の松井兄弟が、故郷の大洲の景勝地に建設した別荘「盤泉荘」です。清流肱川や亀山や富士山の美しい峰を臨む…
19世紀から20世紀にかけてのことですが、松井傳三郎、國五郎の兄弟は、マニラで貿易会社などを経営し、日本人移民向けの百貨店も経営するなど、貿易・小売業で財を成…
元弘元年(1331)に、初代大洲城主「宇都宮豊房」が、大洲城築城にあたり、下野国二荒山神社から勧請して創建した「大洲神社」です。以後、戸田家、藤堂家、脇坂家、…
大洲藩6万石第3代藩主/加藤泰恒が、清流肱川河畔で最も優れた此の地に建設した別荘「臥龍山荘」です。幕末までは、加藤家の別荘として、こよなく愛されていましたが、…
松山から特急電車で約40分。清流肱川河畔に建つ「臥龍山荘」です。伊予大洲藩主加藤氏が粋を集めて建築した、約3000坪の風雅な山荘です。 撮影は10月で…
「大洲6万石」の城下町、「伊予大洲」です。司馬遼太郎が「街道をゆく(南伊予のみち)」で、「日本の旧城下町で、これほど美しい一角を持った土地はないと思った。」と…
昭和初期の温泉旅館の建築様式を今に伝える「東海館」です。温泉旅館としての役割を終え、今は、貴重な木造建築や伊東の温泉文化を、後世に伝承する観光施設として公開さ…
松川の畔にある「東郷記念館(旧別荘)」です。東郷平八郎が晩年を過ごした別荘で、国の登録有形文化財です。 東郷平八郎は、古くは、薩英戦争や戊辰戦争でも戦いまし…
「松川」と呼ばれる「伊東大川」の河口部です。右手には、伊東漁港や魚市場もあります。 その昔、此の松川の上流の「山蜘蛛ケ淵」に、頼朝と伊東祐親の三女「八重姫」の…
医者にして文学者、絵画も描けば評論、随想も「木下杢太郎」記念館
伊東を代表する有名人は、伊東祐親と木下杢太郎。その木下杢太郎の記念館です。 木下杢太郎(本名:太田正雄)は、まず医学者(東大の皮膚科の教授)です。家族は、正雄…
JR伊東駅の裏(0.6Kmの高台)に「松月院(曹洞宗)」があります。「花の寺」とも呼ばれる、美しいお寺です。 伊東七福神のうち「弁財天」を祀っています。 慶…
「伊予シリーズ」の途中ですが、「春の伊東」を先にアップさせて戴きます。1週間後に「伊予シリーズ」を、「伊予大洲」から再開します。 まずは、JR伊東駅の直ぐ裏に…
大正11年に、旧松山藩主の久松(松平)伯爵が建設された「萬翠荘」です。県内では最古の鉄筋コンクリート造の建物で、ネオルネッサンス様式の建物で、日本人の美意識に…
大正11年に、旧松山藩主の子孫である久松(松平)定謨伯爵が建設した「ルネサンス様式の洋館」の別邸(国の重文)「萬翠荘」です。松山の中心地「大街道」から近い、「…
「坂の上の雲」で有名になった「秋山兄弟の生家」です。原形に忠実に、再現されています。 まずは、兄の秋山好古大将の騎馬像が、お出迎え。 そして、弟の秋…
「伊予シリーズ」を始めます。主な訪問地は、松山と伊予大洲です。内子も訪問を検討しましたが、交通の便などを考慮して諦めました。関東から、新幹線が開通していない地…
永仁元年(1293)の創建の「薬王院(日蓮宗)」です。 案内板には、「寺紋に三つ葉葵を使用出来るほどの、格調高いお寺でした。」と記載してありますが、一方では、…
扇ケ谷の奥、横須賀線の線路脇に、八角形の御堂があります。頼朝の長女・大姫の「守り本尊(地蔵菩薩)」を祀り、大姫を供養しています。平成13年に再建されました。 …
扇ケ谷の奥まった処にある「浄光明寺」です。今は、住宅地の真っただ中にありますが、当寺は、色々な歴史を内包しています。 まずは、「冷泉為相(藤原定家の孫。冷泉家…
いつも多くの参拝者で賑わう「銭洗弁財天/宇賀福神社」です。頼朝が、文治元年(1185)に創建し、正嘉元年(1257)には、北条時頼が、此処の霊水で「銭を洗い」…
「仙境に湧く水で神仏を供養すれば、天下は泰平に治まる」という夢のお告げを受けた頼朝が、霊水に湧く此の地を発見し、文治元年(1185)に「宇賀神」を祀るべく、創…
安国論寺を南下し、横須賀線の踏切を越えると、「石井山長勝寺(日蓮宗)」が見えて来ます。一帯では、他を圧倒する大寺です。弘長3年(1263)創建で、開山は日蓮上…
日蓮が安房から鎌倉へ来て、最初に草庵を構えた松葉ケ谷。今も樹木が鬱蒼と茂り、山懐に抱かれています。此の日は、「大宝寺」から住宅地を抜け、「妙法寺」、「安国論寺…
大町から名越へ。更に住宅地へ入ると「多福山一乗院大宝寺(日蓮宗)」があります。後方の山は「佐竹山」。その向こうは「妙本寺(比企能員屋敷跡)」です。佐竹山の左が…
ツツジの名所、名越の「安養院(浄土宗)」ですが、此の日は、(法事でもあるのでしょうか)山門が固く閉ざされていました。 「安養院」は、嘉禄元年(1225)に政子…
安養院の直ぐ隣りにある「別願寺」です。 弘安5年(1287)に覚阿が真言宗能成寺を「時宗」に改め、「別願寺」としました。そして、鎌倉における時宗の中心寺となり…
新羅三郎義光は源頼義の三男。兄の八幡太郎義家が、後三年の役で苦戦するのを見て、援護するために陸奥に向かう途中、鎌倉に立ち寄りました。丁度そのころ、疫病に苦しむ…
鎌倉十橋のひとつ「夷堂橋」です。鎌倉駅に近く、滑川に架橋されています。西直ぐに「本覚寺」、東へ行くと「妙本寺(比企能員邸跡)」です。 かつては、橋のたもとに、…
小町大路が滑川を渡る「夷堂橋」。その西詰めに「本覚寺(日蓮宗)」があります。本覚寺二世の日朝上人が、なかなか身延山までお参りに行けない人々のために、本山に、日…
鎌倉では、最近、駅前に出来た「メトロポリタン鎌倉」に宿泊することが多いです。それまでは鎌倉駅前にホテルが少なく、横浜に宿泊したり、郊外の「鎌倉プリンス」を利用…
妙隆寺の直ぐ南の小町2丁目。若宮大路と小町大路を結ぶ「宇都宮辻子」に「宇津宮稲荷神社」が鎮座しています。この社は、かつての「宇都宮辻子幕府」の御所内社でした。…
「日蓮辻説法跡」がある小町大路沿いは、日蓮宗の寺院が多いエリアです。「妙隆寺」も、此処に屋敷を持っていた千葉氏が開基となり、至徳2年(1385)に、日英上人を…
治承4年(1180)、鎌倉入りした頼朝は、大倉の地(現在の清泉小学校辺り)に自邸の建設を始めました。頼朝は此処に、侍所、公文所、門注所(後に駅西口へ移転)など…
宝戒寺の斜め前に、「土佐坊昌俊の屋敷跡」碑があります。昌俊は頼朝に仕え、その指示に従い、義経を堀川邸に襲撃しましたが、弁慶などの防戦に遭い失敗。鞍馬へ逃れまし…
鶴岡八幡宮の直ぐ東に位置する「宝戒寺」です。建武2年(1334)に、後醍醐天皇の命により、尊氏が、北条得宗家の屋敷跡に建立しました。天台宗の高僧・円観慧鎮を開…
犬懸橋から「田楽辻子のみち」へ入ります。鎌倉期には、田楽師が住んでいた処で、滑川に沿った、気持ち良い散策道です。 「田楽辻子の道」を雪の下方面へ行くと「大御…
杉本寺の直ぐ前の「犬懸橋」界隈。有名な「穴子丼の左可井」前ですが、この辺りは、「犬懸上杉氏」の本拠地でした。「上杉朝宗および氏憲邸跡」の碑があります。 上杉朝…
鎌倉随一の古刹と言われる「杉本寺(杉本観音)」です。坂東三十三観音霊場の第一番札所です。天平6年(734)春に、光明皇后の祈願により堂宇を建立。丁度、関東巡行…
17世紀に摂政・関白を2度も務めた「一条恵観(後陽成天皇の第九皇子)」が西賀茂に所持していた山荘が、鎌倉で鑑賞出来ます。和歌や茶の湯を嗜む文化人としての粋を尽…
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「元和偃武」後、徳川幕府は、全国主要街道の整備を進めました。「一里塚」の設置も、そのひとつです。旅人の目印のために1里(約3.927km)毎に塚を設置し、榎の…
次に、南蔵院(本蓮沼)隣りに鎮座する「氷川神社」です(南蔵院は、当社の別当寺)。いかにも蓮沼村の村社との風情です。慶長年間の創建と伝わります。 …
此の辺りには、武蔵一之宮「氷川神社」から勧請された「氷川神社」が多く鎮座しています。まずは、日曜寺から徒歩数分の「氷川神社(旧松山氷川大明神)」です。 鬱蒼…
板橋の「日曜寺(真言宗霊雲寺派)」です。正式には「光明山愛染院日曜寺」と言い、勿論、平日も参拝可能です。御本尊は「愛染明王」です。 山門前の「橋」は、中用水…
「板橋シリーズ」に戻ります。文久元年(1861)「公武合体」のために「孝明天皇の御妹/皇女和宮」が中仙道を板橋まで下られたとき、街道沿いにある「縁切り榎」が不…
寺号付きの駅。東京で言えば「泉岳寺」、「護国寺」などですが、千葉では「千葉寺(京成ちはら線)」があります。駅名とおり「海上山千葉寺(真言宗豊山派。御本尊:十一…
「東禅寺」と言えば、歴史的には2度の東禅寺事件があった高輪の「東禅寺」が有名ですが、此方は千葉の東禅寺です。亥鼻山の南山麓にある曹洞宗の寺院です。千葉貞胤が嘉…
胤重寺と中央図書館や県文化会館を挟んで「高徳寺(曹洞宗)」があります。付近は、「千葉高(公立高校全盛期は東大進学者数ベスト10常連高)」や「千葉大医学部(旧…
千葉常胤の三男の子息である「武石胤重(たねしげ)」の供養の為に、胤重の末孫の雲厳上人が建立した「胤重寺(いんじゅうじ。浄土宗)」です。御本尊は「阿弥陀如来」で…
亥鼻山麓直ぐにある「智光院(ちこういん、真言宗豊山派)」です。千葉家代々の祈願所でした。立派な山門が残されています。 千葉康胤が開基となり、康正2年(14…
板橋シリーズの途中ですが、千葉シリーズを挟みます。頼朝の鎌倉幕府開府を支えた「千葉常胤」。平安時代末から戦国期にかけて千葉一帯を支配し街の整備に努めた千葉…
更に進むと「智清寺(浄土宗)」があります。整然とした見事な境内です。寺号は、室町時代初期に「見誉上人智清」により創建されたことに拠ります。 天正19年(15…
板橋「仲宿」を進むと「遍照寺(成田山新勝寺の末寺)」があります。此処には、江戸時代、宿場の「馬繋ぎ場」で、幕府公用の伝馬に使う「囲馬」、公文書伝達用の…
江戸四宿(品川、内藤新宿、千住、板橋)のひとつ中仙道「板橋宿」です。江戸(日本橋)から数えて「最初の宿場町」です。流石に此処で宿泊する旅人は、まずいませんが、…
(坂本ではなく)東大農学部隣りにある「涅槃山西教寺(浄土真宗本願寺派)」です。此処は江戸時代は、旧東山道本郷追分すぐそばでした。 戦災に遭わなかったこともあり…
白山上から白山下へ下る幾つかの坂道のうち、「浄雲寺坂」を下ると「浄雲院心光寺(浄土宗)」があります。白山神社近くの喧噪の地から近いのですが、境内は静寂に包まれ…
名園で知られる「ホテル椿山荘東京」の庭園ですが、南北朝時代の頃から、椿が自生する景勝地でした。明治の元勲/山形有朋が此の地に惚れこみ、自ら全体計画を策定し細部…
池袋駅から徒歩数分のエリアに、日蓮宗系の4寺院があります。この辺り、戦前は根津山と称せらる森だったそうで、戦後の各所の区画整理の結果、お寺街となりました。 ま…
南池袋のジュンク堂まで指呼の間。繁華街の騒がしさが聴こえてきそうな距離で、この静寂感は奇跡のようです。法明院の墓域に沿い、「威光稲荷堂」の参道があります。 …
「法明院」は「鬼子母神堂」を境外仏堂として有しています。「妙法院と三十三間堂と同じ関係」と言えます。伝承によれば、弘仁元年(810)草創の古刹で、もともとは「…
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