やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
17世紀に摂政・関白を2度も務めた「一条恵観(後陽成天皇の第九皇子)」が西賀茂に所持していた山荘が、鎌倉で鑑賞出来ます。和歌や茶の湯を嗜む文化人としての粋を尽…
後陽成天皇の第九皇子で、摂政・関白を2度にわたり努めた「一条恵観」。和歌を始め書や茶の湯などに長けていた恵観が、文化活動の舞台として西賀茂に建立していた広大な…
鎌倉五山第5位「稲荷山浄妙寺(臨済宗建長寺派)」です。辺りの地名は「浄明寺」(バス停も)で、高位な寺院名に遠慮しつつ、一字を変えて、地名としたようです。 文治…
「扇ケ谷上杉氏屋敷跡」に立地している「護国寺(日蓮正宗)」です。日蓮上人の「龍ノ口法難」の意義を後世に残すために、昭和44年に建立されました。 ドーム形の屋…
現在は「扇ケ谷」と呼ばれている此の地は、鎌倉以前は、「亀ケ谷」と呼ばれていました。英勝寺(太田道灌屋敷跡)」と横須賀線の線路を挟んで対峙する「扇谷上杉管領屋敷…
鎌倉有数の尼寺「英勝寺」の案内を続けます。開基は、家康側室のお勝の方(法名:英勝院。太田道灌の曽孫)」。此の地は、道灌の屋敷跡でした。お勝は、水戸徳川家の祖「…
鎌倉でも有数の尼寺の「英勝寺(浄土宗)」です。開基は家康の側室「お勝の方(英勝院)」。お勝は、当初、「お梶の方」と呼ばれていましたが関ヶ原の戦いに従軍し、家康…
「八坂大神」の右手、鎌倉五山第三位の「寿福寺」です。境内が「国史跡」に指定されており、いつ参拝しても、雰囲気の良好な寺院です。 外門の右手に「壽福金剛禅寺」と…
「巽神社」の少し先、寿福寺の左手に「八坂神社」が鎮座しています。「八坂大神」もしくは、相馬師常(もろつね、千葉常胤の2男)が勧請したので「相馬天王」とも称し…
鎌倉駅西口から「今小路通り」を、少し北上すると右手に「巽神社」が鎮座されています。今は、ひっそりとした地元の鎮守社ですが、かつては、「寿福寺(鎌倉五山第三位)…
「鎌倉シリーズ」を始めます(1カ月程度)。鎌倉訪問は数えきれないほどになり、徐々に、記載対象が細かくなってきています。 鎌倉駅西口から、徒歩5分ほど。紀伊国屋…
「金沢三文豪」を輩出した金沢は、「学都」でもあります。旧制「四高」が金沢に設置され、国家の期待が、いかに大きかったか、想像に難くないと思われます。旧制高校を、…
表通りは金沢随一の繁華街「香林坊」。その直ぐ裏に、まるで藩政期にタイムトラップしたような「長町武家屋敷街」があります。この両面性が、金沢の大きな魅力でもありま…
金沢で、兼六園と人気を2分する観光地と断言できます。金沢へ行くたびに、此の2カ所へは、必ず足を運びます。 五木寛之氏によると、「ひがし茶屋街」は「堂々と風格が…
「宇多須神社」の直ぐ前に鎮座している「菅原神社」です。前田氏の先祖が「道真公」ということで、金沢では「道真公」が大切に祀られています。太い梁の本殿と立派な鳥居…
「ひがし茶屋街」の卯辰山側に鎮座します「宇多須神社」です。もとは、利家公の神霊を合祀する藩社でした(今は「尾山神社」)。ひがし茶屋街の芸妓衆が節分の豆まきをす…
浅野川に架かる「梅の橋」を渡り、「徳田秋声記念館」を過ぎ少し行くと、がっしりした山門の「寿経(じゅきょう)寺」があります。安政7年(1858)7月、飢饉により…
さて此方は「梅の橋」です。「浅野川大橋」の1本上流に架かる橋で、(「金沢望郷歌に登場する)犀川の「桜橋」と対をなしています。此の橋の右岸には「徳田秋声記念館」…
「水は柔らかく奇麗で、流れが優しく瀬も荒れない」と泉 鏡花が絶賛した浅野川。此の川の上流から、常盤橋、天神橋、梅の橋、浅野川大橋、中の橋、小橋、昌栄橋の七つの…
金沢三茶屋街のひとつ「主計(かずえ)町茶屋街」から「浅野川大橋」を臨みます。 五木寛之さんの「金沢あかり坂」から引用させて戴きます。「闊達な犀川と対照的なのが…
奥様が金沢出身で、金沢居住経験もある五木寛之氏が命名した「金沢あかり坂」です。氏の短編に「金沢あかり坂」と題した作品があり、ひも解いて見ます。 主計町には、あ…
「久保市さん」の愛称で知られる金沢の古社「久保市乙剣宮」です。泉 鏡花の生家(泉 鏡花記念館)に近く、鏡花は幼いころ、此の境内でよく遊んだとか。境内には鏡花筆…
金沢三文豪のひとり「泉 鏡花」の記念館が、彼の生誕地に建っています。浅野川に、ほど近く、久保市乙剣宮や主計町の隣りです。記念館では、その生い立ち、主要作品、遺…
金沢観光の中心「ひがし茶屋街」と「浅野川大橋」を挟んだ対岸に、「主計町茶屋街」や「鏡花のみち」、「久保市乙剣宮」、「暗がり坂」などがあります。そして、橋場交差…
金沢三文豪のうち、泉 鏡花と徳田秋聲の記念館は浅野川(女川)の畔にあります。一方、「室生犀星記念館」は、犀川(男川)大橋に近い「犀星の誕生地跡」にあります。「…
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やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…