やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
金沢三文豪のひとり「室生犀星」は、此の近くで生まれ此の寺の養子となり、幼少期を此の寺で過ごしました。「雨宝院」です。「美しき川は流れたり、そのほとりに我は住み…
地元の方たちは「おしんめさん」の名で親しんでいる、金沢旧五社の一つ「神明宮」です。写真に「あぶり餅祭」と出ているのは、御幣の形状をした餅を炙って、それを食べる…
此処で、犀川大橋近くへ戻ります。「神明社」の直ぐ左にある「大蓮寺(浄土宗)」です。豪姫の位牌所です。豪姫の御墓は卯辰山にありますが、大蓮寺には、位牌や宇喜多秀…
「寺町5丁目」交差点の角にある「大円寺(浄土宗)」です。にし茶屋街方面から寺町通りを来て、此の交差点を犀川方面へ左折すると、「桜橋」があります。此の「桜橋」か…
金沢という地名のもととなった芋堀藤五郎。此の「伏見寺」は、藤五郎が金城麗澤で芋を洗い、入手した砂金により長者となり、その資産で創建した寺と伝わっています。境内…
「寺町寺院群」の記載を続けます。樹齢400年の「大桜」で有名な曹洞宗「松月寺」です。 慶安2年(1648)2世至岸和尚が、第3代藩主利常公から、小松城内にあっ…
金沢の三大茶屋街のひとつ「にし茶屋街」の南東側にあるのが「寺町寺院群」です。「国の重要伝統的建造群保存地区」に指定されている寺社好みには堪らないエリアです。こ…
「朝顔に 鶴瓶取られて もらい水」の一句で知られる「加賀千代女」が眠っている「專光寺」です。多くの観光客が宿泊する金沢駅前のホテルから至近の距離にあり、朝の散…
金沢シリーズへ戻ります。 加賀百万石前田家の本拠である金沢城ですが、利家入城の遥か前、天文15年(1546)に、本願寺が「金沢御堂(尾山御坊または単に御山とも…
汐留の「日本テレビタワー」です。地下通路からロイヤルパークホテルの屋外エスカレータで「日本テレビ大屋根広場」へ上ると目覚まし時計が。 一瞬、宮崎駿の世界を味…
ここで、金沢散策は一休みして、東京の様子を。「烏森神社」の初詣風景です。撮影日は1月4日ですが、参道に行列が出来ています。 テレビの「街頭インタビュー」でお…
前田利家公を祀る「尾山神社」です。「尾山」は金沢の古称で、加賀一向一揆の拠点だった「尾山御坊」跡地に金沢城が建設されました。金沢の総社的位置づけの神社です。 …
「金沢神社・金城麗澤」エリアの前面には「本多の森公園」が広がっています。石川県立美術館や歴史博物館、加賀本多博物館などが並んでいますが、此の一帯は、もとは本多…
金沢は、かつて(加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」があり)、尾山と呼ばれていました。金沢に変えたのは、前田利家と言われています。金沢の語源となった「金城麗澤」が、…
寛政6年(1794)第11代藩主・前田治脩公が、兼六園に藩校「明倫堂」を建て、その鎮守社として創建された神社です。金沢の地名の由来となった「金城麗澤」のほとり…
秀吉の死から1年後の慶長4年(1599)、前田利家が亡くなります。ポスト豊臣を狙う家康は、早速、2代藩主前田利長に「謀反(家康暗殺計画)の疑いあり」と嫌疑をか…
金沢へ行く度に、やはり「兼六園」には、立ち寄ります。天下の「三名園」の一。私好みの三庭園(他は、栗林公園、三渓園)にも、当然に入っています。加賀前田家百万石の…
朝倉氏第5代当主「朝倉義景」公。「義」の一字は「将軍義輝」から頂戴し、大大名として意識の高い武将でした。将軍義輝が殺害され、のちの義昭(一条院覚慶)が義景を頼…
「一乗谷朝倉氏遺跡」は、「特別史跡、特別名勝、重要文化財」の「三重指定」を受けています。此の「三重指定」は、厳島など全国でも6例を数えるのみで、文化財としての…
越前の戦国大名「朝倉氏」は、もとは、但馬国朝倉(現八鹿町)が発祥の地と言われています。鎌倉時代は、御家人の長井氏に仕え、南北朝期には、斯波高経に従い越前に転戦…
一度は行きたいと永らく思っていました。戦国時代に、5代、約100年に渡り有力戦国大名として君臨した朝倉氏の栄華の名残を今に残す「一乗谷朝倉氏遺跡」です。福井市…
リピートすることになりそうな「Georges uncing」
コロナ禍で閉店するお店が(特に京都で)多かった昨年。そろそろポスト・コロナを見ながら、新たなリピート店を模索中です。「Georges uncing」もそんな…
新しい年が始まりました。本年も、よろしくお願いします。まずは、(我が家に宗旨である)築地本願寺さんから。 新大橋通り沿いに、大きく門扉を開く本願寺さんですが…
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やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…