やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
今年の締めくくりは、毎年恒例ですが「東京国際フォーラムの干支人形」です。来年は、寅年ですね。 今年も、ご愛読を有難うございました。 来年は、3日か…
「年越ノ大祓式」の一環として、「茅ノ輪潜り」の為の「茅ノ輪」が各神社に設けられています。此の「茅ノ輪」は、清浄の祓いの神具・茅を束ねて輪としたものです。 左足…
「大祓(おおはらえ)」は、6月30日と12月31日に、宮中および各神社で行われた「みそぎ神事」です。過去半年間の罪、過ち、穢れを祓い清め、新しい年を爽やかに始…
天正11年(1583)4月23日、「賤ケ岳の戦い」で敗れ居城北の庄へ退却していた柴田勝家ですが、股肱の臣を城の天守閣に集め、別れの酒宴を開いていました。ときに…
歴史に登場する回数は、福井城より多いかも知れません。天正元年(1573)朝倉氏が滅亡しましたが、朝倉氏の城下町は、山間の「一乗谷」でした。信長は勝家に、越前8…
東京の都心3区内にも、美しい紅葉が鑑賞出来る処が、幾つかあります。「八芳園」も、そのひとつ。約12000坪もの広大な敷地を誇り、「四方八方、どこを見ても美しい…
歳末の此の時期、十番稲荷神社の「宝船」が人気です。 「港七福神詣のうちの宝船詣」と記載されています。 「港七福神詣」とは、七福神を祀る7か所の寺社詣に加え、…
麻布十番の「富麗華」。他の中華店とは、ひと味違い、少し遠くても麻布十番まで出掛けてしまいます。 配膳スピードも、丁度良い。パソコンで管理されているよう。最近…
京都・蹴上に行ったときは(桜の名所であるインクラインに近いため、春が多いのですが)、蹴上の都ホテルの庭園を鑑賞します。此処、白金台のシェラトン都ホテル東京の庭…
晩年の三渓は、岡倉天心と交流し、日本画家たちを援助し、日本美術院再興に際して賛助員兼評議員となり、更に、作家や美術史家らと古美術鑑賞研究会を開催したりしました…
「三渓園」がある本牧三の谷界隈は、1区画が大きく、落ち着いた住宅地を構成しています。原三渓が経営した「原地所部」が開発・分譲した住宅地です。半面、桜木町・横浜…
原 三渓(富太郎)は岐阜県出身。東京専門学校を卒業後、横浜の生糸商「原商店」へ入りました。明治32年に、先代の原善次郎から「原商店」を承継、大正4年に「帝国蚕…
金沢の「兼六園」、高松の「栗林公園」と並ぶ池泉回遊式の三名園だと思っています。横浜本牧の「三渓園」です。明治・大正の生糸商「原 三渓」が、「三之谷」と呼ばれる…
横浜ベイブリッジを眺望する「港の見える丘公園」です。「元町・中華街」駅からエレベータを上ると「アメリカ山」。そして5分ほどあるくと「イギリス山」その左方に「フ…
横浜公園から真っ直ぐに港へ延びる「日本大通り」です。日本で最初と言われる西洋式街路で、両脇には、神奈川県庁舎(キングの塔)、横浜開港資料館(日米和親条約締結の…
「北陸シリーズ」の途中ですが、関東の紅葉を。 まずは「横浜公園」です。敷地内には「横浜スタジアム」もあり、日本人にも開放された初期の本格的庭園として、かつては…
手取川と言えば、歴史的には、謙信が織田軍を撃破した「手取川の戦い」を連想するが、今の若い人たちは、恐竜を連想するらしい。北陸3県と岐阜県域に跨る「手取層群」は…
「小石川後楽園」は、寛永6年(1629)に水戸徳川家の藩祖頼房が江戸中屋敷(後に上屋敷)に造営した池泉築山回遊式泉水庭園です。光圀が改修時に、明から招へいした…
江戸の紅葉を求めて「小石川後楽園」へ。撮影日は11月21日ですが、イマイチでした。真っ赤な紅葉は少なく、やや赤茶けていたような気がします。 やや寒そうな空。…
コロナ禍で多くの優れた飲食店が消滅してしまった。そろそろ代わる、リピート出来るレストランを模索しているが、此処も、そのひとつ。銀座シックスの1筋裏の落ち着いた…
福井の中心部に鎮座する「佐佳枝廼社」です。「越前東照宮」とも呼ばれています。夕方だったので、写真が見づらいです。 藩祖を祀る神社で、主祭神は、家康、その次男…
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やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…