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戦国武将にまつわる史跡と近代建築をテーマに全国各地色々巡っているブログです。

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歴史ブログ / 戦国時代

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2010/08/22

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  • 長安寺 旗本千本家墓所(栃木県茂木町)

    那須七騎のひとつで江戸時代は旗本であった千本家の菩提寺であった曹洞宗のお寺です。 山門(茂木町指定文化財) 千本家墓所那須七騎のひとつ千本家は那須資隆の十男為隆を初代とし、屋島の戦いで有名な那須与一宗隆はすぐ下の弟になります。那須七騎は各々が那須氏を旗頭にしてはいたものの各自独立性が強く場合によっては那須家に弓引く時も珍しくありませんでしたが、戦国時代...

  • 千本陣屋跡(栃木県茂木町)

    江戸時代初期に火災で焼失した千本城の代わりに千本氏は城の麓に新たに陣屋を築きます。その後千本氏は一度は末期養子の禁に引っ掛かり改易され、千石余りの旗本として家名存続こそ許されましたが他の那須衆とは異なり参勤交代が許された交代寄合の格式のない江戸定府の旗本だったため数人の家臣が所領管理のためこの地に残り陣屋に詰めていたと思われます。茂木町の文化財指定を受けていますが標柱こそ建っていますが遺構は...

  • 千本城(栃木県茂木町)

    那須与一資隆の兄で千本氏の祖となる為隆が建久年間に築いたのが始まりとされる山城で、鎌倉時代から江戸時代初期まで千本氏の居城でしたが寛永5(1628)年に火災を起こし、また千本氏も最終的に家名存続こそ許されたものの一度は末期養子の禁に触れ改易され所領を大幅に削られたため(他の那須衆と違い交代寄合にも名を連ねていない)、以降は麓に陣屋を構え家臣数人が詰めていたようです。 現在は畑となっている辺りが屋...

  • 難波仏具店(東京都台東区)

    浅草通りに面する角地に建つ。鉄筋コンクリート造で一階を店舗、地下一階と二階を倉庫、三階を居室とする。外壁は色モルタル塗で、縦長窓と丸窓を開き、緑色の瓦や高欄を廻し意匠性に富む。塔屋は反りの強い屋根を二重に架け、独創的な外観を形成している。(文化庁文化財データベースより) ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...

  • 源空寺(東京都台東区)

    天正18(1590)年に浄土宗の円誉道阿が湯島に庵を結んだことに始まり、慶長9(1604)年道阿への帰依篤かった徳川家康により寺領や寺号などが与えられ源空寺として創建されています。 本堂 伊能忠敬の墓(国指定史跡)全国各地を測量し『大日本沿海輿地全図』を手掛けたことで有名。師匠である高橋至時の墓近くに埋葬するよう遺言し、その通り師匠の墓の後ろ側に墓...

  • 誓教寺 葛飾北斎の墓(東京都台東区)

    浄土宗のお寺で詳細な創建年次は不明ながら寺を開いた善蓮社貞誉上人は慶安元(1648)年に亡くなっていることから江戸時代初期に創建されたと思われます。 葛飾北斎の墓浮世絵画の大家として有名なので説明は不要だと思いますが、名前を度々変えた人です。墓石には画狂老人卍という晩年の画号、側面には“人魂で 行く気散じや 夏野原”という彼の辞世の句が刻まれています。 ★当ブログのまと...

  • 光明寺 鳥山石燕の墓(東京都台東区)

    元和元(1615)年蔵前にて新光明寺として創建された浄土宗のお寺で、大正15年に同じ浄土宗の西光寺を吸収合併した際に現在の光明寺に名を改めています。 鳥山石燕の墓水木しげるなどにも大きな影響を与えた妖怪画で知られる江戸時代の画家。今年の大河『べらぼう』では片岡鶴太郎氏が演じることが決まっています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用...

  • 竹林寺(大阪市西区)

    慶安2(1649)年に幕府役人であった香西晢雲が教誉上人を招き開いた浄土宗のお寺。香西晢雲は武田信玄の末裔とされますが治水家として名があり、大阪湾各所の水防工事や和泉国での開拓などに大きな功績を挙げた人物です。また朝鮮通信使のうち徳川将軍に謁見するため江戸へ向かう位の高い役人たちは大坂では北御堂を宿舎にしていましたが下級役人や水主などは大坂に留め置かれ、ここ竹林寺などを宿舎にしていました。 ...

  • 大地震両川口津浪記(大阪市浪速区)

    何度か場所は移され現在は京セラドームの対岸側大正橋東詰に移築されていますが石碑には定期的に墨入れを行うよう後世の人々に託す一文が刻まれており、地元の人々によってその伝言は現在まで守られています。 碑には安政の大地震(安政の東海地震・南海地震)及び津波の事象や被害の様子、火災や津波の留意点などが事細かく刻まれているだけでなく、147年前に発生した宝永の大地震で大坂(大阪)も甚大な被害が出たにも...

  • 日本聖公会川口基督教会(大阪市西区)

    大正9(1920)年にW・ウィルソンの設計により竣工、施工は数回前に紹介した大阪教会も担当した岡本工務店がほぼ同時期に担当した尖頭アーチ窓のゴシック様式にイギリス式煉瓦積みが特徴の教会となっています。95年の阪神・淡路大震災で被災し塔屋が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが世界中の信徒らの浄財により元の姿を取り戻し今日へと至ります。 平成9(1997)年に国の登録有形文化財に登録され、平成21(2009)年...

  • 川口旧居留地跡(大阪市西区)

    安治川と木津川に挟まれた川口は元々幕府のお舟手関連の施設が建ち並ぶ地域でしたが勝海舟の進言により大坂舟手が廃止となり、その跡地に諸外国との条約締結により大坂も開市(のち開港)となったため外国人居留地が造営されることになります。 江戸時代最晩年の慶応3年には運上所(税関)が置かれ、明治時代初期に対岸の江之子島に初代府庁舎や市庁舎が設置されるなど国際貿易港に発展するかと思いきや、安治川河口か...

  • 日本基督教団大阪教会(大阪市西区)

    金光教玉水教会と同じ通りにある日本基督教団大阪教会は鉄骨とコンクリートと煉瓦を併せて用いて作られた建物で、設計はW・M・ヴォーリズと俗に言うヴォーリズ建築の教会になります。建物後方には塔屋も建ち大阪の街中に煉瓦造りのこの建物は今となってはかなりの異彩を放っている存在感抜群の建物です。国登録有形文化財ヴォーリズ設計の鉄骨・煉瓦・コンクリート混合造の教会堂で、背後に塔屋が建つ。ロマネスク...

  • 金光教玉水教会(大阪市西区)

    江戸堀は近代的なビルから昭和の雑居ビル、そして国の登録有形文化財となっている様々な様式の建物が点在している地区です。和建築の金光教玉水教会もその中のひとつで国登録有形文化財に登録されています。木造平屋建、一部2階建とする裳階付きの大型の和風建物。入母屋造の大屋根平側に2つの千鳥破風をつけ賑やかに飾る。細部の意匠は全体的に伝統的な手法に則り構成される。堂々とした外観は風格がある。設計は池田...

  • 旧菅澤眼科医院

    菅澤眼科は明治27(1894)年に堺で開業し3年後に現在地へ移り、国登録有形文化財に登録されている現在の建物は昭和3(1928)年に竣し、戦後すぐに改修が加えられています。 大阪市中心部の土佐堀地区に所在する病院建築。南東隅を四分一円として玄関ポーチを設けた平面で、外壁はタイル貼でアール・デコを基調とし、柱形を密に並べて縦長窓を配する。最上階ではアーチ窓とし、柱型に柱頭飾を施す。昭和初期の...

  • 江戸堀コダマビル(大阪市西区)

    昭和10年に現オーナーの祖父児玉竹次郎氏によって建てられ、ヴォーリズが設計した建物の多くを手掛けた岡本工務店が設計および施工を行っています。そのため外観はスパニッシュスタイルながら和の意匠も随所に取り入れた和洋折衷の建物になっています。国登録有形文化財間口7.9mの南北に長い敷地に北面道路から退いて建つ。鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階建て塔屋付きで、外観はスパニッシュスタイルとする。光庭...

  • 吉祥寺 吉田主水正一族の墓(愛知県稲沢市)

    吉祥寺のある高御堂の領主であった尾張藩鷹匠頭吉田家の菩提寺であった真言宗のお寺で、承和元(834)年弘法大師空海によって創建されています。 本堂吉田家は数人が主水正を称したようでネットで調べると家政は家澄と同一人物になっていますが、名古屋市篷佐文庫の資料を読むと家政の嫡男が家澄とあり、戦国武将には珍しくないことですが業績が混同されている可能性もありそうです。吉田家は元々は織田家に仕え家政...

  • 瑞應寺 石黒重行の墓(名古屋市北区)

    南北朝時代に南朝に味方し足利氏に敗れ越中国から尾張へ移ってきた木舟城主石黒重行が菩提寺としてから創建したお寺で、戦国時代衰微するも重行の末裔である石黒重成によって再興され石黒氏の居城だった如意城跡の一画にお寺はあります。 石黒重成の墓重行から8代後の当主で小牧・長久手の戦いでは家康方に付き道案内をしています。この戦いでは弟重敦は豊臣方の...

  • きよめ餅総本家

    熱田神宮前に店を構える昭和10(1935)年創業の和菓子屋で、店名は天明年間頃に熱田神宮内にあったきよめ茶屋と茶店が由来だそう。建物は昭和30年に建てられたもので名古屋市登録地域建造物資産になっています。 屋号の一部にもなっているきよめ餅は熱田神宮の門前には名物の餅菓子がなかったため初代が作り出したというもの。今では季節限定本店限定などもあります。 ★当ブログのまとめサ...

  • 性高院 松平忠吉の墓(名古屋市千種区)

    清州藩主となる松平忠吉が母西郷局(宝台院)の菩提を弔うため天正17(1589)年に創建した浄土宗の寺院で、忠吉が清州藩主となり清州に移転、その跡を継いだ義直が名古屋城を築いたことで現在の中門前町へ、そして戦時中に現在地へ移転しています。先の大戦で失われるまで山門などは国宝に指定されるなどしていましたが現在はビルに入居する形で注意して見ていないと素通りしてしまいそうになります。 松...

  • 成福寺 船頭重吉の碑(名古屋市熱田区)

    熱田神宮に隣接する民家や小学校などが建ち並ぶ一画にある曹洞宗のお寺です。 船頭重吉の碑江戸から尾張へ戻る途中乗船していた督乗丸が遠州灘で遭難し17ヶ月間漂流の末カリフォルニア州沖で英国船に救出されシベリアに渡った小栗重吉が、同乗し漂流中に亡くなった仲間追悼のため建立した供養碑です。重吉は3年後にロシア船で択捉・国後・根室を経て松前に到着し江戸...

  • 大矢蒲鉾商店(名古屋市熱田区)

    熱田神宮近くにある安政7(1860)年創業の老舗蒲鉾店で昭和34年に建てられた店舗・工場は名古屋市登録地域建造物資産になっていますが、外観だけパッと見た限りではそれほど古さを感じない建物でした。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期...

  • 道徳公園クジラ池噴水(名古屋市南区)

    前々から見たかった道徳公園内にあるクジラ池噴水。道徳公園がある場所一帯は江戸後期までは伊勢湾の干潟でそれを地元の豪商が干拓し始め新田となり、昭和初期の土地区画整理に合わせて公園も作られた際にこの地が昔は海だったことを記憶に留めるためこのクジラの噴水も作られたそうです。 国登録有形文化財及び名古屋市認定地域建造物資産に登録されており、私が訪れた数日前に登録有形文化財のプレートが設置され式典も執...

  • 別府鉄道の機関車と客車(兵庫県播磨町)

    播磨町郷土資料館には大中遺跡のすぐ近くを走り昭和59年に廃線となった別府鉄道のディーゼル機関車と客車が保存されています。別府鉄道は国鉄土山駅と別府港駅を結ぶ土山線と別府港駅から旧国鉄高砂線野口駅とを結ぶ野口線の2路線を有していましたが、気動車が走っていた野口線に対し土山線は貨物主体だったこともあり営業最終日までディーゼル機関車に牽引される客貨混合車が走っていました。 DC302は倉敷市交通局(現在の水...

  • 大中遺跡(兵庫県播磨町)

    大中遺跡は弥生時代末から古墳時代始めにかけての集落遺跡で、昭和37(1962)年に古老から当時近くを走っていた別府鉄道が大正時代に開業前の敷設工事の際に大量の蛸壺などの土器が出土したという話を聞いた中学生3人が興味を持ち付近を掘ったところ弥生時代の土器が出土したことから本格的な発掘作業が始まり昭和42年に国の史跡指定を受けています。 ...

  • 無量壽院(兵庫県播磨町)

    弘法大師空海が草庵を結んだことに始まり、一時荒廃するも康和5(1103)年に覚鑁上人が再興し以後播磨国53の末寺を持つ真言宗の中本山として栄えました。 本堂は御影堂として建てられたもので江戸中期に建てられたものとされます。 三界萬霊地蔵尊(播磨町指定文化財)半跏趺坐の珍しい形をした地蔵は寛保3(1743)年に東本庄村庄屋梅谷七右衛門清政が亡き妻の追善供養のために建立したものです。 ★当ブロ...

  • 善福寺(兵庫県播磨町)

    善福寺は曹洞宗のお寺で播磨町で最初の小学校となる大沢(澤)小学校は初めこのお寺の敷地内で開校しています。 お寺には秘仏として小野篁が隠岐に配流中に身の回りの世話をしてくれていた阿古という女性が歯痛に悩んでいたため、彼女のために彫ったあこなし地蔵が安置されています。明治に入り隠岐にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に難を逃れるため島外に持ち出され善福寺に安置されたのだとか。 ...

  • 阿閇神社(兵庫県播磨町)

    古くはこの地一帯が住吉大社の荘園だったこともあり祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命の住吉三神と神功皇后の息長帯姫命となっています。現在も行われている神社の秋祭りは江戸時代中期に前回魚介類供養塔の記事にした東本庄村庄屋梅谷七右衛門清政が再興に尽力していますが、播磨町の史跡を巡っているとあちらこちらに清政の名前が出てきます。 鳥居を潜り拝殿から本殿を見るとかなり珍しい造...

  • 魚介類供養塔(兵庫県播磨町)

    本荘中公会堂裏手にありかなり細いところを通る必要があるのでかなり分かりにくいですが3mを超える江戸中期の様式のある大きな宝篋印塔です。以前から東本荘村の庄屋で魚問屋も営んでいた梅谷七右衛門清政が取り扱った魚介類供養のために建立したものと推測されていましたが、阪神・淡路大震災で倒壊し内部に納められていた銅銘板が見つかり解読の結果推測されていた通り梅谷七右衛門清政が建立したものと確定しました。 ...

  • 大慈悲院 城景茂の墓(静岡市駿河区)

    明応5(1496)年創建の曹洞宗のお寺で、後に徳川家家臣城景茂が中興開基となっています。 城景茂の墓織部 和泉守 城氏は一族の玉蟲氏ら共々鎌倉時代から続く越後の名族ですが景茂は上杉謙信と折り合いが悪く父貞茂ら一族と共に出奔、会津にいたところ武田信玄より誘われ仕えたとされます。武田家では足軽大将を務め長篠の戦いでは遠江国深沢城代となり徳川家を牽制する役割を担いますが、...

  • 卯さぎ餅茶店跡(静岡市葵区)

    江戸時代駿府の三大名物として追分羊羹・安倍川餅と共にその名のあった卯さぎ餅。正確には駿府城下を出た東側、東海道沿いにある古庄で江戸初期から両替商の傍ら幕命により茶店も出していた前島家が街道を行き交う旅人たちに供していたもので茶店の軒先で兎を飼っていたことから卯さぎ餅の名がついたとか。そして江戸後期の幕臣で狂歌師として名高い太田蜀山人が「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいからあがれ名物」と詠ったことか...

  • 平盛俊塚(神戸市兵庫区)

    明泉寺から10分ほど歩いた場所には一ノ谷の戦いで山手口(鵯越口)を守り、源氏方の猪俣小平六の騙し討ちに合い討ち死にした平盛俊の塚があります。 盛俊は剛力で知られ同じく腕自慢であった小平六と組み打ちますが盛俊が組み伏せ首を掻き切ろうとしますが小平六は助命を懇願、ここで盛俊は解き放ちどういうわけか2人で畦道を座っていたといいます。ここに源氏方の援軍の姿を見た盛俊の気がそちらに向かった時に小...

  • 明泉寺 平知章の墓(神戸市兵庫区)

    行基が畿内に建立した49寺院のうちの一寺と言われ本尊の大日如来も行基作と伝わります。観応2(1351)年に摂津守護赤松光範によって今の場所に再興され、現在は臨済宗妙心寺派のお寺です、 福原西国三十三観音霊場2番札所で昔は牛の息災を願うため近隣の農家が牛を連れてお参りに来る風習があったのだとか。 平知章の墓前回記事にした源平勇士の碑でも触れた平知章の墓はこちらにあります。生田に陣を構えた平...

  • 源平勇士の碑(神戸市長田区)

    高速長田駅近くの新湊川沿いの場所に源平勇士の碑と呼ばれる一ノ谷の戦いを戦った源平両軍の武将の碑が一ヶ所にまとめられています。元々は旧西国街道沿いなどそれぞれ違う場所にあったのが道路拡張工事などに伴い移転され何度か場所を変えつつ現在地へと落ち着いたようです。一番大きいのが平知章の碑。父知盛を戦線離脱させるため郎党である監物太郎頼賢と2人でこの地に踏み止まって源氏方を迎え撃ち壮絶な...

  • 村上帝社(神戸市須磨区)

    村上天皇を祀る小さなお社。平安時代末期に琵琶の名手であった藤原師長が琵琶の技術を極めるため入唐を考え、京の都を離れて西へ向かっている途中須磨で休んでいると夢枕に村上天皇と梨壺女御が現れ琵琶の秘法を伝授されたという。目が覚めた師長はこの場所に自身が持っていた琵琶の名器獅子丸を埋め、京へと戻ったという逸話があり、この話をもとに能の演目『絃上』は作られました。お社も『絃上』の話が広がったこ...

  • 関守稲荷神社(神戸市須磨区)

    「淡路島 かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守」源兼昌が詠んだ百人一首でも知られる歌ですが、その須磨の関所のあった場所と伝わる地に建てられた小さな神社です。 摂津国と播磨国の正確な国境は須磨浦公園の少し西側を流れる境川でこの川が畿内と幾外との境界でもあったため古代より関所が置かれていました。その関所のあった正確な場所は分かっておらず...

  • 現光寺(神戸市須磨区)

    永正11(1514)年浄教上人が開いたとされる浄土真宗本願寺派のお寺で、現在の本堂は阪神・淡路大震災で倒壊した後2002年に再建されたものです。 現光寺のある場所が都を追われ須磨まで来た光源氏が住まいを構えた場所だとされ、本堂前にある立派な松の木の下で光源氏は月見をしたんだとか。もちろん『源氏物語』の話なので国文学者だった明石藩主松平忠国が明石城下の源氏物語史跡を選定したように、情景などが物語...

  • 願成寺 平通盛夫妻の墓(神戸市兵庫区)

    創建は古く天平年間に行基によって開かれていますがその後衰退、法然の弟子住蓮によって再興され以後は浄土宗の寺院となっています。 平通盛・小宰相の墓(供養塔)平通盛は清盛の弟教盛の嫡男、前回記事にした業盛の長兄になります。一ノ谷の戦いでは夢野口(山の手)を守りますがこの方面に義経が奇襲を掛けたことで平家は壊乱し総崩れとなり通盛も討たれました。小宰相は通盛の妻の一人で身籠っていました。前日に身...

  • 善光寺 平業盛の墓(神戸市兵庫区)

    会下山の麓にある天台宗のお寺で、大正6(1917)年に善光寺関西別院会下山寺として創建されました。 平業盛の墓平清盛の弟教盛の三男で剛力で知られていました。一ノ谷の戦いでは鵯越口を守っていましたが義経の奇襲などで平家方は懐乱・総崩れとなります。業盛は撤退の際に源氏方の泥屋(土屋)四郎吉安に組まれそのまま2人とも転がり古井戸に落ちますが上になった業盛が吉安の首を掻き斬ろうとした時、兄の一大事と弟...

  • 来迎寺 松王丸供養塔(神戸市兵庫区)

    浄土宗西山禅林寺派のお寺で寺伝によると大輪田泊経ヶ島建設に自ら志願して人柱となった大井松王丸の菩提を弔うため平清盛が創建したと伝わり、地元では築島寺とも呼ばれます。 松王丸の供養塔松王丸は讃岐の領主大井民部の息子で清盛の小姓として側に控えていました。都を京より福原に遷した清盛は福原のお膝元大輪田泊に日宋貿易の一大拠点となる大規模な港作りを計画しますが、地形上南東からの風で船が安全に入られない...

  • 石川ビル(神戸市兵庫区)

    辰野金吾らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ曽禰達蔵が設計を担当し、東京倉庫兵庫出張所として明治30(1905)年に竣工。曽禰にとって三菱では定年前最後の仕事となった建物です。丸の内の三菱の建築群設計を担当した曽禰作品らしい煉瓦造りの建物ですが、お化粧直しされたのか煉瓦の色が鮮やかでパッと見た限りだと明治時代の建物には見えません。神戸市景観形成重要建築物に指定されています。 ★当ブログのまとめサイ...

  • 高田屋嘉兵衛本店の地跡(神戸市兵庫区)

    北前船や蝦夷地での漁場運営で財を成し、ゴローニン事件で自身もロシアに拿捕されカムチャッカへ連行されるも日露両国の仲介をしたことで知られる高田屋嘉兵衛が結婚を機に居を構え本店を置いていたのが兵庫津、現在の兵庫区西出町で北前船が日本遺産となったこともあって石碑と立派な案内板が設置されています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止し...

  • 松尾稲荷神社(神戸市兵庫区)

    湊川の戦いを前に楠木正成は目印になるような大きな松の木を見つけ一族郎党をその木の下に集め、身に付けていた神仏の護符が自身らの血で穢れることを嫌い根元に祀られていた稲荷のお社に護符を奉納したと言います。これが松尾稲荷神社の始まりで700年の歴史があることになります。江戸時代より神社のすぐ近くには福原遊郭があり商売の神様お稲荷さんということで昼夜問わず賑わったのだとか。 ...

  • 西出鎮守稲荷神社 平経俊供養塔(神戸市兵庫区)

    西出鎮守稲荷神社の歴史はよく分かっていませんが、後述するようにすぐ近くに本拠を構えていた豪商高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠が今も建っていることから江戸時代中期にはこの地に鎮座していたことが分かります。 平経俊塚平清盛の異母弟経盛の息子で平敦盛の異母兄になります。一ノ谷の戦いでは生田の森に布陣しますが源氏方に崩され敗走、最期は西出の浜で清盛の八男淡路守清房・清盛...

  • 平忠度胴塚(神戸市須磨区)

    前回は一ノ谷の戦いで討ち死にした平忠度の腕塚を紹介しましたが、今回は胴塚です。腕塚と違い道沿いにあるのでこちらは分かりやすいかと思います。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...

  • 平忠度腕塚(神戸市須磨区)

    一ノ谷の戦いで敗れ西国へ逃れようとした平清盛の異母弟忠度ですが源氏方の岡部忠澄主従に追い付かれ忠澄と組み合いその首を獲ろうとしましたが主人の危機に駆け付けた忠澄の郎党に腕を切り落とされ討ち死にしました。 忠度の腕を埋めたと伝わる場所には十三重塔供養塔とお堂が建てられ今日まで地元の人々によって守られています。忠度の戦死地に関してはここ神戸の駒ヶ林と明石の2説あり...

  • 佐々友房の墓(熊本市中央区)

    佐々友房は熊本藩士の家に生まれ肥後勤王党に属した叔父佐々淳次郎に強く影響を受け水戸学に傾倒、また池辺吉十郎の門下となっています。西南戦争時は以前より西郷隆盛と気脈通じていた師匠の池辺が熊本隊を結成し武装蜂起すると友房も各地を転戦し最終的に中隊長となりますが、大口の戦いで重傷を負い官軍病院に担ぎ込まれます。その後、池辺たちが隊長ではなく一兵卒に過ぎないと庇ってくれたことで死罪を免れ投獄に留まります。...

  • 早川倉庫(熊本市中央区)

    明治10年に熊本商工会議所初代会頭や熊本商業高校のルーツである私塾素心吟社を創設した岡崎唯雄氏が営む岡崎酒類醸造場の酒蔵として建てられました。その後履物問屋を経て昭和29年に貸倉庫業の早川倉庫の所有となりトランクルームなどとして活用されてきましたが、熊本地震での被災を機にクラウドファンディングで母屋の一部がリノベーションされ文化発信の場としても活用されており、熊本市が新たな制定した熊本市歴史的風致形成...

  • 旧大石蕎麦(熊本市中央区)

    肥後蕎麦の元祖と言われ藩主細川家の御用も務めていたという大石本店。営業していた頃に一度記事にしていますが、9代目だったご主人が体調を崩され2010年にお亡くなりになられたため廃業されましたが、昭和初期に建てられ空襲の被害も免れた京町家風の建物は熊本史歴史的風致形成建造物に指定されプレートも設置されていました。 隣が駐車場となったことで奥行きのある鰻の寝床のようになっていたことがよく分か...

  • 西福寺 井上大九郎正忠の墓(熊本市中央区)

    慶長年間に加藤忠広正室崇法院(蒲生秀行の娘、家康の外孫)が江戸より釈誉上人を招き創建した浄土宗のお寺で、加藤家の後熊本に入った細川家の菩提寺のひとつになっています。井上大九郎正忠の墓加藤家二十将の一人にも数えられ、清正最古参の家臣のひとりと伝わります。元々は三木城主別所長治の家臣でしたが三木城落城後浪人となり各地を放浪中その秀吉の居城長浜城下の河原で寝そべっていたところ後に同じく共に清正に仕え角力で...

  • 玄慶の池(兵庫県明石市)

    南北朝の時代に元より玄慶という楽人が来日しましたが時は南北朝の動乱の最中で音楽どころではない状況。玄慶を雇う者などなく失意の玄慶は帰国することを決めるも帰る途中、疲労からここ明石の八木の地にて持ってきていた楽器を埋め弁財天を祀り、またこの地に池を掘ったと言われます。池は玄慶の池と呼ばれ古くは玄慶という地名にもなっていたそうですが、現在周囲には次々住宅が建っている中、確かにこの場所だけは手が付けられ...

  • アンの井戸・コエの井戸(兵庫県明石市)

    来迎寺の西側にはアン(庵)の井戸と呼ばれる弘法太子が掘ったという伝承を持ち干魃の時も水は枯れることなくこんこんと湧き続けた井戸があり、昔は酒造りにもこの井戸の水が使われたそうです。この辺りは水位が高く水が溢れるので囲いには穴が開いていて水を排出できるようにしているのだそう。 また来迎寺の東側にもコエの井戸と呼ばれる掘り当てたのは弘法太子とも来迎寺を開いた行基和尚とも言われる生活用の井戸も残っ...

  • 来迎寺(兵庫県明石市)

    養老元(717)年行基により創建されたという明石市内でもかなり歴史のある天台宗のお寺で、明石三十三ケ所第六番札所にもなっています。勅願寺時代は塔頭を複数抱えた大きな寺だったそうですが次第に衰退、南北朝時代に再興され信長の命による羽柴秀吉の別所(三木城)攻めでも秀吉方に放火されるなどしています。 御朱印は書き置きのみ常時4種類ぐらいを授与されています。以前は季節ごとに限定御朱印も枚数限定で出し...

  • 口北野遺跡(兵庫県明石市)

    国道250号線(明姫幹線)沿い、谷八木川の西側中位段丘の先端に位置した古墳時代及び中世の粘土採掘跡が見つかった遺跡で土器などを作る窯が恐らくあったと考えられています。この場所から南側は平成初期までたくさんの瓦工場の煙突が立ち並んでいた屏風浦海岸で、かなり古くから良質の粘土が採掘される土地だと人々は知っていたのだと思われます。また、この地から明石では初めて隠岐島で採掘された黒曜石を用いた縄文時代の石鏃も...

  • 伏見屋商店(兵庫県たつの市)

    江戸時代創業の老舗で現在は書店ですが古くは油や紙、日常用品から楽器までと何でも扱うデパートみたいなお店だったそうで現在の建物は築120年を越える ここ龍野出身の作詞家三木露風も学生時代に利用していたという店内はかつては2階の回廊にも本棚がびっしり並んでいたとか。床も板張りと歴史を感じます。 明かり取り窓からの日差しがいい感じ。龍野重伝建地区内にあり...

  • 初井家住宅(兵庫県姫路市)

    姫路城の西側城西エリアの旧西国は街道沿いに建つ旧家で、北原白秋に師事した姫路出身の歌人初井しず枝の嫁ぎ先でこの家に住んでいました。しず枝は実家が薬種商ということもあって姫路高等女学校(県立姫路東高校)から大阪道修薬学校(大阪医薬大の前身)に進学し薬剤師資格を取得するなど先進的な女性で、アララギの会員であった夫の勧めで歌を作り始め、戦後の農地改革で初井家が没落し一転生活が困窮するもそれ...

  • 旧第三十四銀行姫路支店(兵庫県姫路市)

    姫路旧城下は空襲や再開発もあり古い建物があまり残っていないのですが、旧第三十四銀行姫路支店だったという大正6年築の建物は今も健在です。以前は病院として活用されていましたが現在は見る感じ使われていないのでは。正面はモルタル造りですが側面・背面は赤煉瓦造となっています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...

  • 見星寺(兵庫県姫路市)

    姫路藩主本多政朝が祖母見星院(信長の娘で松平信康の正室五徳)の菩提を弔うために創建した臨済宗妙心寺派のお寺です。 本堂 寛延2年洪水犠牲者供養碑寛延2(1749)年に姫路城下を襲った水害で船場川が決壊し402名の犠牲者が出ました。その23回忌法要が安永2(1773)年にここ見星寺で執り行われた際に建立されています。 本多忠政・忠刻の供養塔忠政(左側)は本多平八郎忠勝の嫡男で池田家が備前に転封した後姫路藩...

  • あれから29年

    5時46分、あの忌まわしい揺れから29年となりました。今年は元日早々に関西でもはっきりと揺れを感じる能登を震源とした大きな地震が発生し、多くの方々が被害に遭われ今なお捜索活動が行われています。日本列島が揺れ始めたその29年前、当時大学生だった私も50になったのだから当然ですが、私の周囲にも阪神・淡路大震災を経験していない人が増えてきました。そのためこのブログでは可能な限り1月17日は少し触れようと思っています...

  • 福圓寺(兵庫県姫路市)

    奈良時代に行基が創建したという伝承があるようですが、現在は臨済宗相国寺派のお寺です。 このお寺には古墳に埋葬されていた石棺を用いた石棺仏があります。石棺仏は奈良県でも存在が確認されていますが全国的に見てもほぼ播磨地方、それも加古川流域と姫路市周辺に集中しているかなり珍しい仏像で播磨地方でも明石などには一例もありません。その珍しい石棺仏の中でもこちらにあるのは不動...

  • 的形城(兵庫県姫路市)

    的形城(構居)は全体像がはっきりしない山城で、城主は長尾(三木)重朝だと伝わる山城ではありますが築城年なども全く分かっていません。...

  • 永弘院 (名古屋市千種区)

    天文7(1538)年尾張上野城主下方貞清開基、義雲祖嚴開山の臨済宗妙心寺派の寺院。元は下方氏の居城上野城の北東にあった薬師如来を小豆坂七本槍としても知られる下方貞清が本尊として創建しました。ただ開基で大檀家であった下方氏は本能寺の変で貞清の息子たちが織田信忠に殉じ討死、それに失望した貞清も隠遁生活を送り寺も衰退しますが上野村の人々に支えられそれを乗り越え今日へと至ります。 ...

  • 不朽園(名古屋市中川区)

    不老園より暖簾分けを受け昭和2(1927年)尾頭橋にて創業、当時この地には八幡園遊郭があり土産を買い求める客で賑わったそうです。現在の建物は戦禍で焼失した後、昭和30年に再建されたもので名古屋市登録地域建造物資産を経て現在は名古屋市認定地域建造物資産となっています。昭和2年に佐屋街道沿いの当地にて門前町大須不老園別家として最中などを販売する和菓子屋を創業。昭和30年戦火で失った店舗を新築し、当時の店構えで現在...

  • マコロン製菓(名古屋市西区)

    マコロン製菓は名古屋など中部圏で生まれ育った人には馴染みがある人多いであろうマコロンの製造元で、事務所棟と木造バラス構造の工場からなっています。名古屋市登録地域建造物資産となっているこちらの建物で特筆すべきは屋根神様が掲げられていること。建物は昭和8年頃に建てられたそうですか立派な屋根神様も当初から設置されていたそうです。 名古屋を中心に岐阜などにも見られる屋根神様ですが近年は守ってこれれた...

  • 手焼きおかきや(名古屋市西区)

    美濃街道に面した場所に建つ3代続く手焼き煎餅のお店で、成り行き登録地域建造物資産となっている建物は明治15年に建てられたものを昭和30年頃に現当主の祖父が購入したのだそう。こちらは一見すると長屋のように見えますがよく見ると建物の間には僅かな隙間があり、写真中央の建物がおかきやの建物になります。 撮影しに行ったのが暑さを避けた早い時間帯で、まだ営業時間前だったのが残念です。 ...

  • そば処桔梗はなれ(名古屋市中区)

    ブラジル領事館などがあるビジネス街の一画にある古民家で大正時代以前に建てられたとされますが詳細は不明。現在は近くで営む蕎麦処の離れとして夜営業されています。 隣が駐車場になったため建物の全体像がよく分かりますが、京都の鰻の寝床のように奥行きがかなりあります。名古屋市登録地域建造物資産 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当...

  • 平惣染色(名古屋市中区)

    周辺にはマンションやオフィスビルなどが立ち並ぶ名古屋中心部の一角にある100年余りの歴史がある染物屋さんで、建物は戦後すぐの昭和21年に建てられたものだそうで名古屋市登録地域建造物資産に登録されています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければ...

  • 誓願寺 井原西鶴の墓(大阪市中央区)

    天正8(1580)年無宅天牛上人が創建した浄土宗の寺院で大坂の陣の戦火により堂宇全て失われますが元禄6(1693)年に再興しています。 現在の本堂は大阪大空襲で失われ昭和39年に再建されたもの。 井原西鶴の墓(大阪市指定史跡)近松門左衛門・松尾芭蕉と共に元禄文化に多大な影響を与え、『好色一代男』などで知られる浮世草子の作者であり西山宗因に師事した俳諧師でもありました。西鶴は元禄6(1693)年に亡くなり...

  • 糸屋製菓(埼玉県深谷市)

    旧中山道沿いに店を構える明治41(1908)年創業の老舗で初代伊八が能を好んだことから羊羮と最中はそれぞれ翁羊羮と翁最中という商品名で売られています。あと近年はあんドーナツが有名なんですが昼過ぎに伺ったのですがすでに売り切れ。本当に人気があるようです。 今回は翁羊羮を購入。翁最中は本当に能の翁面を象っていますがさすがに羊羮に能の要素はありません。ただ一枚流しという昔な...

  • 源勝院 岡部藩主安部家墓所(埼玉県深谷市)

    小田原の陣後関東に入府した徳川家康により岡部など5250石を与えられた安倍(あんべ)信勝が父元真の菩提を弔うため賢達和尚を招き開いた曹洞宗の寺院で、息子信盛の代に加増を受け1万石を超え大名となった安部家の菩提寺となります。 本堂 安部元真顕彰碑安部家の祖である安部大蔵元真を顕彰した碑。元真は今川家の家臣で今川義元が桶狭間の戦いで亡くなった後も今川家を最後まで見限ることなく支え...

  • 岡部六弥太忠澄の墓(埼玉県深谷市)

    前回紹介した平忠度の供養塔を建てた岡部六弥太とその妻(畠山重能の娘)や父行忠らの墓は現在埼玉県指定文化財となっており、墓石には覆屋が設けられ一帯は史跡公園となっています。 岡部六弥太忠澄の墓六弥太は元々熊谷直実らと共に源義朝に仕えていましたが義朝が殺害され武蔵の所領へ戻っていました。そこへ義朝の遺児頼朝挙兵の知らせを受け馳せ参じ転戦し、一ノ谷の戦いで前回の記事...

  • 清心寺 平忠度供養塔(埼玉県深谷市)

    清心寺は天文18(1549)年に深谷上杉家の家臣であった岡谷清英が萬誉玄仙を招き創建した浄土宗のお寺です。 本堂 平薩摩守忠度の供養塔忠度は平清盛の異母弟で一ノ谷の戦いで敗走するも岡部六弥太忠澄主従に追いつかれ交戦の末討ち死にします。戦後六弥太は忠度の遺髪をもらい受け所領へ戻ると居館近くのこの地に桜の木を植え供養塔を建立しました。 元々この場所に先に忠度塚があり、後...

  • 三高院 松平康直の墓(埼玉県深谷市)

    詳細な創建年次は不明ですが小田原陣後から開基である深谷城主松平忠直が亡くなる文禄2(1593)年までの間と考えられます。本尊の阿弥陀如来は家康の養女となり有馬豊氏に嫁いだ忠直の娘連姫の寄進によるものです。 松平康直の墓徳川十六将のひとりに数えられる父松平康忠(長沢松平家8代)と家康の異母妹矢田姫との間に生まれ、小田原の陣では岩槻城を攻め戦後深谷城が与えられますが25歳の若さ...

  • 深谷城(埼玉県深谷市)

    現在は一帯が城址公園になっている深谷城は康正2(1456)年に深谷上杉家上杉房顕によって築城された平城で、小田原の陣後に家康の異母妹の息子である長沢松平家9代康直が城主となり後継の家康6男忠輝、桜井松平家松平忠重を経て酒井忠勝の代に川越に移封を機に深谷藩は廃藩、深谷城も廃城となっています。 城跡は埼玉県指定史跡、隣接している富士浅間神社の周囲に残る外堀遺...

  • 東漸寺 城和泉守昌茂の墓(埼玉県熊谷市)

    この地の領主であった6千石の大身旗本城和泉守昌茂開基 同じく城氏出身と伝わる和尚が開山した臨済宗のお寺です。 城和泉守昌茂の墓城氏は元々越後の名門で上杉家に仕えていましたが昌茂の父景茂が上杉謙信と折り合いが悪く出奔、親子で会津で浪人していたところ武田信玄に迎えられ家臣となったとされます。 武田家滅亡後は他の多くの武田家遺臣と同じく家康に召し抱えられ昌茂は...

  • 聖パウロ熊谷教会(埼玉県熊谷市)

    熊谷に宿泊したのでここは見ておきたいと思っていた聖パウロ熊谷教会。煉瓦造りの建物は国の登録有形文化財となっています。 焼過煉瓦を効果的に用いた煉瓦造教会。桁行約16m,梁行約7m規模の単廊式会堂で,東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし,外壁要所に尖頭アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし,木造シザーストラスを架ける。...

  • 三輪医院(埼玉県熊谷市)

    こちらも熊谷市の近代建築を調べると必ず出てくる建物。現在を道を挟んだ反対側に新しい病院が建てられ診察はそちらでやられているようですがこの建物も電気など点いていたので活用されているようです。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり...

  • 瀧澤綿店(埼玉県熊谷市)

    八木橋百貨店の西側、旧中山道沿いにある中々渋い看板建築?の建物。近代建築のサイトなどで必ずアップされているこの建物、いつなくなっても不思議じゃない感じだったので現地へ行って一安心。ただ昨年訪れたのですが、はす向かいにあった朝日湯の建物は残念ながら取り壊されて更地になっていました。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブロ...

  • 幣塚(兵庫県明石市)

    明石市の西部に位置する幣塚古墳は4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれたと考えられる直径34m、高さ4mと明石市内にある円墳としては最大規模の古墳になり、板石によって築かれた竪穴式石室が確認されています。この古墳には金の鶏が埋められている金鶏伝説(全国各地の古墳に伝わる)があり、明治時代3年間続いた水害や風害からの干魃に困窮した地元民たちが金鶏伝説に賭けて明治19年無計画に乱堀、もちろ...

  • どろま地蔵(兵庫県高砂市)

    大福寺からさらに東へ歩くとどろま地蔵に行き着きます。その地蔵堂ですが固寧倉という姫路藩が飢饉等の際に備え領内各所に設置した備蓄倉庫に併設する形になっていました。 お堂を覗いてみると赤いおベベを着たお地蔵さまたちに見えますが、よく見ると全て五輪塔。小松原城主小松原氏一族の墓だと伝わり小松原氏が記録から姿を消して以降江戸時代の形式の墓石もあるよう...

  • 大福寺 小松原盛忠の墓(兵庫県高砂市)

    大福寺は三社大神社の東隣にある浄土宗西山禅林寺派のお寺で天正年間に松空西空上人により創建されていますが、元々この場所には大蔵寺という別の寺があり小松原城主小松原氏の菩提寺だったと考えられています。小松原城と小松原氏は天正年間より数十年前に記録から消えますので大蔵寺も戦禍に巻き込まれ衰退していったのでしょうか。 小松原盛忠の墓山門潜るとすぐ左手にある十三層塔は小松原氏初代盛忠の墓(供養...

  • 小松原城(兵庫県高砂市)

    小松原城の詳細な築城年次は不明ですが、鎌倉幕府連署北条重時に従い三浦義村の子良賢の謀叛鎮圧に功を挙げた赤松盛忠が弘長元年6月にこの地を与えられ下向しており、この頃から居館が築かれたと思われます。小松原は加古川三角州の頂点に位置する天然の要害と言える場所で、赤松より小松原に姓を改めた盛忠より城主小松原氏は6代続いた記録がありますがその後記録からは姿を消すことになります。 現在は三社大神社が鎮座...

  • 善立寺 天竺徳兵衛の墓(兵庫県高砂市)

    永正8(1511)年に蓮如上人の弟子正西が創建した浄土真宗本願寺派のお寺です。 天竺徳兵衛の墓歌舞伎や浄瑠璃に登場するガマの妖術使い天竺徳兵衛のモデルとされ、父親は赤穂出身の塩問屋で後に高砂に移ってきたと伝わります。彼は鎖国前に朱印船(角倉家が派遣した角倉船)に乗り2度当時日本で天竺とされていたシャムへ渡り、寺には徳兵衛がシャムより持ち帰ったとされる貝多羅葉という経文が伝わっており市の文化財指定を受け...

  • 三連蔵(兵庫県高砂市)

    工楽家旧宅のすぐ北側にあるお宅にある三連の蔵。明治時代初期に食器などを保管するために建てられたという建物の厚みは30cmほどある堅固な造りとなっており兵庫県都市景観形成重要建造物となっています。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...

  • 高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市)

    工楽松右衛門旧宅は高砂出身で兵庫津で廻船問屋御影屋を営み択捉島など蝦夷地開発の功績から工楽の姓を幕府より賜り、また丈夫な松右衛門帆を開発し海運業の更なる発展に大きく寄与した工楽松右衛門の旧宅として兵庫県指定文化財及び日本遺産(荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間-北前船寄港地・船主集落)構成物の指定を受けており一般にも公開されています。...

  • 鶴林寺(兵庫県加古川市)

    西の法隆寺とも称される鶴林寺は所在する加古川はもちろん明石など近隣市町で育ったなら小学校の行事などで一度は訪れたことのある人は多いのではないかと思う聖徳太子ゆかりのお寺ですが、創建年など詳細はよく分かっていません。寺の縁起によれば蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた高麗僧恵弁の教えを受けるため播磨を訪れた聖徳太子が、後に3間4面の精舎を建立させ刀田山四天王聖霊院と...

  • 法雲寺 根来盛重の墓(大阪市中央区)

    上本町の寺町界隈にある臨済宗妙心寺派のお寺です。寺は会館を併設しており土塀など風情ある趣ですが創建年次などは分からず。ただ後述しますが墓所には戦国時代の武将の墓などもあるため江戸初期までには開山しているのではと思います。 本堂 根来盛重の墓苗字の通り根来衆で小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と手を組み背後から雑賀衆らと秀吉を脅かし岸和田城攻めでは主導的役割を果たします...

  • 謹賀新年

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。まだ過去2年ぐらい訪れた先々の記事があるのですが、ここ1~2年ほど自分の気力の問題で一向に日の目を見ないままになっています。悲しいことに日が経つと現地を訪れたかった所ばかりなのにその感動は薄れ筆、いや指が全く進まない。鉄は熱いうちに打てではないですが、ほんと旅や散策から帰宅し一気に書かないとダメですね…。今年も更新頻度は月3~4本ぐら...

  • 近松門左衛門の墓(大阪市中央区)

    寺町として現在も多くの寺が残る谷町筋界隈の一画に近松門左衛門の墓が残されています。 元々はこの地にあった法妙寺に近松の墓はありましたが地下鉄工事などに伴い昭和42(1967)年に寺は大東市へ移ることになります。が、すでに墓は国の史跡指定を受けており遠く引っ越すことで史跡指定取り消しの可能性が出たため市や保存会など各所が動いた結果、現在ある場所に墓を移し大東市に移る法妙寺には複製墓を...

  • 成正寺 大塩平八郎の墓(大阪市北区)

    慶長9(1604)年日秀上人が創建した日蓮宗のお寺です。寺を開いた日秀上人は歌道を通して秀吉と親交があり、また秀吉の実姉瑞龍尼が深く帰依していたことでも知られています。 本堂本堂は大阪大空襲で焼失し戦後再建されたもの。本堂前にはこちらを菩提寺としていた大塩平八郎と養子格之助の墓、大塩平八郎の乱で亡くなった人々の慰霊碑が建立されています。 大塩平八郎...

  • 木曽川資料館(愛知県一宮市)

    市町村合併で一宮市になった旧木曽川町の町議会議事堂として大正13(1924)年に建てられ、その後町の資料館として山内一豊・浅野長政・兼松正吉らゆかりのある戦国武将を始め郷土に関する資料を展示しています。 南北に細長い寄棟造、桟瓦葺、2階建で、正面の南に円柱を立てた玄関ポーチを構え、内部はホール、議場、控室等で構成され、ホール側上部に傍聴席を設ける。議場は吹き抜けで格天井とし、壁面は折上部...

  • 法蓮寺 山内豊盛・十郎の墓(愛知県一宮市)

    明応2(1493)年創建の日蓮宗のお寺で、黒田城代だった山内但馬守豊盛の庇護を受けました。 本堂 山内豊盛(右側)・十郎の墓山内但馬守豊盛は岩倉織田家家老で黒田城代、十郎はその嫡男で山内一豊の実父・実兄となります。岩倉織田家と敵対していた織田信長によって画策されたという説もありますが野盗に夜襲を掛けられ十郎はこの戦いで戦死。豊盛も討死したと言われてきましたがこの時は岩倉城へ逃れ、この2年...

  • 黒田城(愛知県一宮市)

    尾張織田家嫡流である織田伊勢守家(岩倉織田家)の家老だった山内家が城代を務めた城で、後に土佐の国持大名にまでなる山内一豊はこの城で生まれたとされます。その後織田弾正家である信長によって落城させられ、以後弾正家(信長)の持ち城となり本能寺の変後も織田信雄の重臣沢井雄重が小牧・長久手の戦いでは秀吉の諜略にも応じることなく城を守り抜きましたが、秀吉の機嫌を損ねた信雄が改易されると一柳監物直盛が城主と...

  • 常念寺 関成政の墓(愛知県一宮市)

    明徳元(1390)年に空遄召運上人(足利尊氏の甥)によって創建された西山浄土宗のお寺で市の文化財指定を受けている観音堂の如意輪観世音菩薩像は尊氏の守り本尊と伝わります。 関成政の墓尾張一宮城主 織田家家臣として数多くの合戦に参加し信長の嫡男信忠の近侍を務めます。本能寺の変後も引き続き信長の次男信雄に仕えますが秀吉と信雄が対立したことから勃発した小牧・長久手の戦...

  • 一宮城(愛知県一宮市)

    JR尾張一宮駅のすぐ北側、現在は某大手銀行の支店のある辺りに尾張一宮城があったとされます。築城年はよく分かっていませんが近くにある真澄田神社の神職でもあった関成重によって築城されたとされ、その後信長の次男織田信雄の家臣不破広綱が城主となりますが信雄が秀吉の怒りを買い改易された天正18(1590)年以降に廃城になったようです。 遺構などはもちろんなく、銀行に立つ小さな石碑が辛...

  • 岩脇蒸気機関車避難壕(滋賀県米原市)

    総寧寺から戻る途中、スマホで地図を確認しているとルートから少し外れる場所に史跡マークに岩脇蒸気機関車避難壕という文字をたまたま発見。少し寄ってみることにしましたが、いざ場所に行くとびっくりするぐらいしっかりとした形で残っていました。 米原は東海道本線と北陸本線とが交わる一大ジャンクション駅。大戦後半になると本土への空襲が激化したため慌てて機関車を守るため線路沿いにあるここ岩...

  • 総寧寺 旗本新庄家墓所(滋賀県米原市)

    永徳年間(1381~1384)に近江守護佐々木六角氏によって創建された曹洞宗の寺院で享禄3(1530)年に戦火に遭い衰退しますが後に新庄城主新庄直忠によって再興され今日へと至ります。...

  • 大谷吉継の首塚(滋賀県米原市)

    家康に勝てないと分かっていながら石田三成との友宜を重んじ関ヶ原の戦い本戦で奮戦の末自刃した大谷吉継。家臣湯浅五助に介錯させ関ヶ原に首を埋めさせたと伝わりますが、異説として従軍していた甥の僧侶祐玄が首を関ヶ原から居城敦賀に持ち帰ろうとするも叶わず途中の米原で埋めたと伝わります。 新幹線米原駅からも徒歩圏内。畑の中にポツンとあります。 ★当ブログのまとめサイト...

  • 下坂氏館跡(滋賀県長浜市)

    室町初頭より坂田郡下坂庄四カ村の地頭だった下坂氏の居館跡で、敷地内には土塁や堀を築き有事の際の備えとした城の機能を有し、また菩提寺も敷地内に置くなど当時の国人領主層の居館遺構がしっかり残っている全国的にも珍しい事例ということで同じ長浜市にある三田村氏館と共に北近江城館跡群という名称で国の指定史跡となっています。近年まで末裔の方が管理していましたが数年前に市に建物含め寄贈され現在...

  • 浄光寺 池大雅の墓(京都市上京区)

    文禄から慶長へと元号が変わる1596年に創建されたと伝わる浄土宗の寺院で通称“大雅寺”と呼ばれるように絵師池大雅のお墓がこちらにあります。 本堂 池大雅の墓文人画(南画)の大成者として知られる絵師。川端康成が購入したことで知られる与謝蕪村との共作である『十便十宜図』(国宝)では十便図を担当。釣りをしている人々を描いた釣便は教科書に掲載され古くは切手にもなってもいるので一度は見たこ...

  • 回向院 長沢芦雪の墓(京都市上京区)

    創建年次は不明ですが寺伝によれば黒谷にて浄土宗開祖である法然上人の説法道場として創建されたのが始まりとされ、江戸時代初期の慶長8(1612)年に現在地へ移ってきています。 本堂 長沢芦雪の墓丸山応挙の弟子ですが応挙の作風とは事なり独創的で近年では伊藤若冲らと共に“奇想の絵師”のひとりに数えられています。狗の彼が描いた可愛らしい絵を観たことある人は多いのではな...

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