chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
簾満月のバスの助手席 https://sudareshuji.hatenablog.com/

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
フォロー
住所
東区
出身
愛知県
ブログ村参加

2010/04/02

arrow_drop_down
  • 玉野市電の誕生(玉野市電廃線跡を歩く)

    「備南電気鉄道株式会社」から「備南電気鉄道」の譲渡を受けた玉野 市は昭和31(1956)年3月24日「玉野市営電気鉄道」を発足させ、これ まで通り鉄道の継続運行に乗り出した。 市民からは「玉野市電」と呼ばれたが、「市電」と言っても所謂路面 電車ではなく、れっきとした地方鉄道法に基づく総延長4.7㎞の鉄道線だ。 住民のニーズを満たせず乗客が増やせなかった前時代を教訓に、市は 積極的に乗客を増やすべく、次々と新駅を開業させている。 玉野保健所前、大聖寺前、西小浦、広潟などだ。 路線は前の会社時代に玉から玉橋間0.2㎞が延伸されていたが、その 後も玉遊園地までの1.0㎞を延伸させ終点までを14分で結…

  • 備南電気鉄道の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

    宇野線が開通し、宇野港が開かれ、国鉄の宇高航路に加え民間の貨物 フェリーも運行した。更には宇高国道フェリーの開通等で益々の繁栄を 見た、港町・宇野地域の交通を語る上で欠かせない鉄道がある。 昭和28(1953)年に「備南電気鉄道株式会社」が、宇野駅から玉駅 間で開業させた「備南電気鉄道」の存在である 宇野港が立地する玉野市の玉地区(当時は児島郡日比町玉)には、三 井物産・造船部が大正時代から立地していた。昭和に入ると、三井造船 株式会社(後に三井E&S造船)と商号を変え、太平洋戦争中には、海軍 の各種軍用艦の建造に携わっていて、国鉄宇野駅からは工場に向けて専 用の引込線が引かれていた。 その後…

  • 宇野港 栄華の時代(玉野市電廃線跡を歩く)

    国鉄の「宇高連絡航路」の盛況を受けて、昭和36(1961)年には、 民間の旅客フェリー「宇高国道フェリー」が新たに参入する。 この時児島湾の干拓事業は既に竣工し、岡山市と香川県の高松市を結 ぶ「一級国道30号線」は開通していて、フェリーが瀬戸内海の海上部を 担う事で、岡山市内から高松市内まで自動車での移動が可能となった。 フェリーは24時間運航で、「昼も夜も19分ごと、待たずに乗れる」 がキャッチコピーで、最盛時は68往復/24時間であった。 就航する各船も豪華さを競い、テレビの搭載は当たり前、デッキに 噴水の装飾を施し、船内にはエスカレーターを導入したり、中には浴 室を備えた船まで現われた。…

  • 宇高連絡船(玉野市電廃線跡を歩く)

    岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」は、海上11.3海里 (21.0㎞)の鉄道連絡船である。明治42(1909)年に港が開港、翌年 宇野線が開通すると時を同じくして運航を始めている。 以来長年に渡り、本州と四国を結ぶ大動脈として機能してきた。 宇野港は昭和5(1930)年2月7日に、県下では初めて「開港場」に指 定された。これは、通商・貿易の為に外国船に開放される港の事で、同 年の7月に中国大連間に定期航路が開設され「照國丸」が就航している。 戦後の復員兵や引き揚げ者などの運搬では大活躍したが、次第に衰退 し後に撤退している。 一方宇高航路は順調で、当初は玉藻丸や児島丸が他の航路から…

  • 鉄道開通の恩恵(玉野市電廃線跡を歩く)

    宇野新線が出来、宇野から高松間に宇高航路が開通すると、大幅に時 間が短縮され、利用者の利便は格段に向上した。 しかし嘗ては、この間の移動に数時間も要する大変な時代が有った。 岡山に鉄道の駅が出来たものの、当時四国に渡る港は旭川左岸の三蟠 で、鉄道との繋がりは無く、何度も乗り継ぎを余儀なくされていた。 要衝の地が新興の駅前に移りつつ有るとは言え、当時市内の交通の結 節点は、まだまだ旧城下町の京橋である。 駅で降りた人々は、まず駅前で人力車を仕立てることになる。 京橋までは凡そ2.3㎞、歩けば30分余りかかるが、一人7銭の人力車な ら半分ほどの時間で着いた。ここからは、旭川の船便に乗換える。 京橋…

  • 宇野の築港(玉野市電廃線跡を歩く)

    瀬戸内海に面した宇野村は、江戸時代から開かれた古浜、広潟、新浜 等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程 の盛況であった。 時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営 製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の 広がる当地も着目されていた。 そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野 を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の 下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路 でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな 交通の要衝になる」と賞賛した。…

  • 宇野線の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

    鉄道の黎明期岡山に最初の鉄道の駅が出来たのは、明治24(1891) 年3月18日の事である。国鉄山陽本線の前身である山陽鉄道が、岡山 駅と三石駅間で旅客・貨物の取扱営業を開始し、その半年後には福山 まで延伸・開通している。 当初は貨客車輌の混成七両編成で、一日に上り下り合わせて15本程 の列車が運行されていたという。岡山と倉敷間の運賃は、下等が10銭、 中等はその2倍、上等に到っては3倍であった。 米一升(1.5㎏)が、7銭3厘の時代で有る。現在の運賃は330円だ。 山陽鉄道は、後の宇野線の前身となる岡山と宇野間の申請をするが、 何れも日清・日露戦争の勃発で、世情不安や資金難もあり計画は頓挫し…

  • 樟葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    嘗てこの橋本地区の東側は、石清水八幡宮の鎮座する男山(鳩ケ峰) から続く山系で、山中には僅かに八幡宮に続く獣道しかなく、鬱蒼とし た森や竹林が広がっていたという。特に竹林は美しく、「竹取物語」の モデルはこの地では・・・とも言われているくらいだ。 発明王として知られるトーマス・エジソンも、白熱電球のフィラメン トに世界各地から取り寄せた竹を試したが、最後に八幡の竹を使用し実 験に成功したとの話は有名だ。 八幡の駅前にはエジソン通りが有り、胸像が立ち、男山や町中にも関 連の記念碑が多く見られる。 ここ木津川、宇治川、桂川の三川合流地帯は低湿地帯で、昔から水害 の多い所で有る。そんな八幡に隣接した…

  • 遊廓跡の存続(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    「橋本遊廓街」が最盛期の頃は、駅前に百人以上収容できる歌舞練場 があったらしい。遊郭のシンボル、町を象徴する建物であったらしいが、 駅前の再開発で解体され跡形もなく取り壊されたという。 遊廓の客、練場の観客等で、立地の良い橋本駅は利用客も順調で大い に恩恵を受けていたらしい。 加えて淀の競馬場の存在、枚方大橋の開 通(昭和5年)等は鉄道の営業成績に大きく寄与したと言われている。 客は関西圏が中心で多くは大阪府下の住民で8割を占めていたらしい。 駅の客は、夜が深まるほどに増え、「終電は遊郭帰りの客で大変な込 みようだった」と言われている。 また対岸の阪急電鉄(当時は新京阪鉄道)や国鉄を利用し、橋…

  • 艶やかな町並(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    思わず、「おぉ~っ」と、声が漏れてしまう。 大谷川を渡り橋本の町に入り、郵便局を過ぎ突き当りを右に折れ、直ぐ に左折すると、何とも華やかで艶やかな町並が目に飛び込んできた。 これまで東海道に残された数多くの町並を見てきたが、このようなも のは初めてだ。ここは昭和の名残を残す平入り二階建ての妓楼が軒を連 ねる「橋本遊廓街」の跡である。多くの建物は昭和初期のものらしい。 玄関には一般とは異なった意匠を極め、格子が嵌り、壁には装飾が施 され、中には欄間を嵌めたところも有り、何よりもカラフルである。 通りに面した二階は全面が窓で、中には手摺を廻したいわゆる郭造りと 言われる建物もある。 京都と大阪の中…

  • 旧道の要塞 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    明治43(1910)年、山裾を削って京阪鉄道が開通すると同時に橋本 にも駅が設けられた。 すると山は、その後も少しずつ削られ後退し住宅が増えていったという。 日本の高度経済成長期には大規模な住宅団地の造成も行なわれ、京阪 神のベッドタウンとして人口も倍増し鉄道利用者も大幅に増えたらしい。 地図で確認すると、淀川の東側の丘陵地には、迷路のように道路が張 り巡らされ、広大な住宅地が拡がっていて、道路で区分けされた敷地に は団地の集合住宅棟や個人住宅が整然と建ち並んでいる。 それは県境を越えて、隣の大阪府枚方市楠葉にまで広がっている。 京阪線の線路に近いところに、「かもしか児童公園」というのが有る。…

  • 橋本の渡し (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    僧・行基によって淀川右岸の山崎と、左岸の橋本との間に架けられた 「山崎橋」も洪水で度々流され、ついには元禄年間に架けられた橋が流 れると再架橋されることはなかった。しかしこれでは有名な天王山を控 えた要衝の地としての役割を果たすことが出来ない。 そこで橋に変わり「橋本の渡し」と呼ばれる渡し舟が通うようになる。 西国街道・山崎宿と東海道間の宿・橋本を連絡する渡しは、二つの幹線 道路の重要な結節の役割を果たす事になった。 山崎側の渡し場は、現在の水無瀬川の河口辺りに有ったらしい。 天王山と八幡の男山に挟まれた淀川は、山崎狭隘部と呼ばれる川幅が 狭められた地域である。この地形を利用して嘗てこの付近に…

  • 山崎橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    その昔の神亀2(725)年、僧・行基はこの地に「山崎橋」と呼ばれ る橋を架けた。今日その場所に同名の橋は存在しないが、日本三古橋の 一つと言われた橋である。因みに三古橋の残り二橋は、宇治橋と瀬田の 唐橋で、何れも後継橋が現在まで残されている。 宇治橋は、大化2(646)年、大和国・元興寺の僧・道登(どうと) により宇治川に架けられた橋である。これまでに古今和歌集や源氏物語 等の文学作品にも登場する、宇治を象徴する橋とされている。 橋の袂には紫式部の像があり撮影スポットになっている。 瀬田の唐橋は瀬田川に架かる橋で、1000年以上前から存在が知られ、 「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、修ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
修ちゃんさん
ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
フォロー
簾満月のバスの助手席

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用