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徒然なか話 https://blog.goo.ne.jp/np4626/

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話の書き綴りです!

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2009/09/19

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  • 明日から高校総文祭 ‼

    ▼2014年の総文祭パレード明日から高校総文祭‼

  • 本條秀美さんの唄と三味線

    民謡三味線の本條秀美さんによれば、先日、「新日本風土記(NHKBSプレミアム)」の撮影が植木町で行われたそうだ。本條さんおよび秀美会の皆さんが参加して、昔から伝わる「うた」をテーマに「おてもやん」など数曲を踊りもまじえながら撮影が行われたという。オンエア日時は未定だがどういう映像になっているのか大いに楽しみである。本條秀美さんは本條秀太郎さんを家元とする本條流三味線の直門師範として後進の指導にあたるかたわら、植木町ゆかりの民謡「田原坂」普及のため、全国大会の開催にも尽力。また、山鹿灯籠まつりでは唄と三味線の指導、さらに各種イベントでの演奏活動や新曲づくりなど、精力的な活動をしておられる。本條さんの歌声に魅かれて植木町の稽古場までお邪魔したのはもう12年前。その時、ご実家が種田山頭火ゆかりの味取観音瑞泉寺だ...本條秀美さんの唄と三味線

  • ハーン訳「銚子大漁節」のナゾ

    随分前から抱いていたナゾが一つ解決しそうである。それはラフカディオ・ハーンが自ら英訳して欧米に紹介した千葉県銚子の民謡「銚子大漁節(SongofFisherman)」について。これまでハーンは銚子を訪れた形跡はないと聞いていたが、それが本当ならどうやって「銚子大漁節」を採集したのだろうかということだ。いろんな文献などを調べてもそれについて触れたものは見出せなかった。そこで1週間前、思い切って銚子市の観光商工課へ問い合わせのメールを送ってみた。するとちょうど1週間経った今日、文化財担当者から返事が来た。いろいろ手を尽して調べていただいたようだ。それによれば、ハーンが銚子を訪れたことはないということについては、「ハーンが銚子に滞在した記録はない」というハーンの孫・小泉時氏の談話が載った書籍があるので間違いない...ハーン訳「銚子大漁節」のナゾ

  • 世界マスターズ水球2023 @熊本

    上通のアーケードを歩いていたら床面に「世界マスターズ水球2023」のポスターシートが貼られていた。「世界マスターズ水泳選手権」の種目、競泳、飛込、水球、アーティスティックスイミング、オープンウォータースイミングのうち、水球は熊本が会場になるという話は聞いていたがここでポスターを見るとはとちょっとビックリ。ポスターのモデルは日本代表のエースとして長く活躍し、昨年現役を引退した熊本出身の志水祐介さん。半面が水球選手、半面が戦国武将というなかなか凝ったつくりだ。7月中旬から福岡で「世界水泳選手権2023」が行われるが、引き続いて「世界マスターズ水泳2023」が行われる。「世界水泳選手権」は各国の代表が出場するのに対し「世界マスターズ水泳」の方は世界中の水泳愛好者が集まる大会。しかし、マスターズを甘く見てはいけな...世界マスターズ水球2023@熊本

  • 1964年のミュージックシーンから

    今ごろの時期になると、学生時代、やがて始まる関東学生水球リーグに備えて強化合宿に入っていたことを思い出す。ツラいこともあったが一番の気分転換がラジオから流れる最新のヒット曲を聞くことだった。思えば、今よりも多彩な音楽が聞けたような気がする。上京して学生生活を始めた1964年は熊本にいた頃よりも聞けるラジオ局が一気に増えたので特に印象深い。この年のヒット曲の中から今日は次の2曲を選んでみた。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」でドラマーのハル・ブレインが刻んだ最初の4秒のリズム「thump-thump-thump-crack!」が音楽史に残る伝説的なビートとなった。なお、千三百年続く日本の古典芸能「三番叟」でも同じリズムが刻まれているのは興味深い。ロック・ミュージックにもビートルズにも興味を示さなかった20世...1964年のミュージックシーンから

  • 出京町のはなし。

    わが京町の北の外れ、江戸時代は城下町から張出した街だった「出町」。僕が子どもの頃、大人たちは「出京町」と呼んでいた。熊日新聞のサイトに「古地図で歩く城下町くまもと」という連載企画がある。日頃、このサイトで歴史の勉強をさせていただいているのだが、その中に「京町」を取り上げた回があり、「出京町」について紹介した一節がある。▼出京町、「街道をゆく」に登場江戸時代、京町北端の構口(かまえぐち)から出た豊前街道沿いは「出京町」と呼ばれる町人町だった(現池田1丁目、出町、稗田町)。火打ち道具や紅・おしろい、手まり、羽子板などの店が並んでいたという。司馬遼太郎さんの人気シリーズ「街道をゆく」の「肥薩のみち」に、通り沿いにあった酒本鍛冶屋が登場する。司馬さんたちが店に入ると、金気くさい土間があり、片隅に昔風のふいごがしつ...出京町のはなし。

  • ブラタモリのアシスタントNo.1

    時々、ネットでブラタモリのアシスタントを務める女子アナのランク付けをしているのを見かけるが、個人的見解としてはナンバーワンは久保田祐佳アナだと思う。それは初代という意味もあるし、第1シリーズから第3シリーズまでという最も長い間アシスタントを務めたという意味もある。そして彼女自身が言っているように「ブラタモリが、なんとなく楽しい、ほっとする、ちょっとためになる、そんなひとときを・・・」という番組のテイストと、控えめにタモリに寄り添うアシスタントのスタイルを確立したのは彼女だと思うからだ。タモリと久保田祐佳アナそんな久保田アナが出演したブラタモリの中で僕が最も印象に残っている回が二つある。▼ブラタモリ渋谷編(第2シリーズ)渋谷は学生時代に通学の乗換駅だったことから喫茶店、ご飯屋、映画館などをよく利用した懐かし...ブラタモリのアシスタントNo.1

  • 古泉の宿とハーンの夢

    ラフカディオ・ハーンが熊本の五高教師時代に書いたといわれる「知られぬ日本の面影」を読んでいると、後半の「日本海に沿うて」の章に鳥取の海辺にある浜村温泉の宿での一節がある。これは1891年の夏のことで、その年の1月に結婚したばかりのセツ夫人との新婚旅行だったらしい。熊本にやって来るわずか3ヶ月前のことである。この温泉宿での一夜、ハーンは夢を見る。お寺の中庭のようなところに顔見知りの出雲の女が現れてケルトの子供歌を歌うという不思議なシーンだ。原語で読んでいないので子守唄なのか童謡なのかわからないが、僕が思いつくのはただ一つ「アイリッシュ・ララバイ」という歌だ。「トゥーラルーラルーラルトゥーラルーラライ・・・」というおなじみの歌詞で、数多の歌手に歌われた名曲。今日はパティ・ペイジの歌で聞いてみた。また、この浜村...古泉の宿とハーンの夢

  • 伊豆諸島の無事を祈る!

    22日午後に震度5弱の地震があった利島(東京都)を始め伊豆諸島ではその後も震度3~1の地震が続いているという。もともと火山性地震が頻発する地域だが、これ以上強い地震が来ないことを祈るばかりである。伊豆諸島は伊豆大島と八丈島の二ヶ所しか行ったことがないが、それぞれ懐かしい思い出が残っている。伊豆大島に行ったのは学生時代、水泳部の仲間たちと一度だけ行った。竹芝を船が出てすぐに海が時化り始め、そのうち暴風雨状態になった。船室ではあちこちでリバース合戦が始まり、数少ない洗面器の奪い合いになる始末。僕もしばらくは我慢していたが、周りの様子を見ているうちに我慢できなくなりトイレへ走ったが満杯状態。仲間と洗面器を代わる代わる使う羽目となった。夜明けとともにやっと船は波浮の港に到着。上陸したものの最初は真っ直ぐ歩けない状...伊豆諸島の無事を祈る!

  • 祖母のはなし。

    昭和52年(1977)に93歳で他界した僕の父方の祖母は、娘時代、父親が飽託郡大江村の村長を務めていて割と裕福な家だったので芝居見物などにもよく行っていたようである。僕は両親が共働きだったので、幼い頃はもっぱら祖母に育てられたが、よく芝居や歌手の公演などに連れて行ってもらった。歌舞伎のことに妙に詳しかったのもきっと若い頃、隆盛を極めていた大和座や東雲座などの劇場へも観劇に行っていたのだろう。しかし、夫(僕の祖父)が早世してからは機織り仕事で生活費を稼ぎ、苦労して二人の息子を育て上げた。その頃には実家も水道町一帯の大火で持ち家十数軒が焼失するなどもあって没落していたらしい。祖母を助けることになった機織り仕事は、十六歳の時、大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通って身に付けたという。この工場は、かの文豪...祖母のはなし。

  • 本丸御殿の宴

    連日、熊本城におこしいただく大勢の観光客の皆さんを見ていて、いつも思うのは本丸御殿を見ていただきたかったなぁということです。2016年4月に発生した熊本地震によって大きく損壊した本丸御殿は7年経った今もまだ復旧工事は始まっていません。熊本城復旧基本計画(令和5年3月改定熊本市)によれば、計画期間は当初より15年延ばして2052年度までと設定しなおされ、本丸御殿の復旧完了は2032年度とされています。まだあと10年待たなければなりません。2008年に復元された本丸御殿では、2010年から「春の宴」や「秋の宴」などの催しが大広間で繰り広げられました。熊本地震で被災するまでの6年間、本丸御殿を訪れた観光客の皆さんを日本舞踊など様々な芸能でおもてなししました。そんな催しの中から「少女舞踊団ザ・わらべ」の舞台をぜひ...本丸御殿の宴

  • 地蔵尊の行方

    今日、京町の熊本地方裁判所近くの掲示板に気になる通知書が貼ってあった。発信者は京町拘置支所で「観音坂の途中にある地蔵尊を移転または供養(撤去?)を検討しているので、設置の経緯をご存じの方、日頃お世話をされている方はご連絡をお願いします。」というものだ。京町拘置支所は昨年渡鹿の熊本刑務所に移転したのだが、跡地利用の問題があるのだろう。地蔵尊の坐す場所が京町拘置支所の石垣に掛かっているからかもしれない。観音坂の途中にある地蔵尊そもそもこの観音坂の名前の由来は、加藤清正公によって茶臼山に熊本城築城の際、本丸建設地にあった観音堂を京一丁の坂下に移した。その後、その坂は観音坂と呼ばれるようになったもの。観音坂は豊後街道の一部として参勤交代の道となった。その後、観音堂は廃されたが、その際、この地蔵尊が観音坂の途中に置...地蔵尊の行方

  • 豊後街道 ~立田口構(たつだぐちかまえ)~

    現在、国道3号線浄行寺交差点から子飼橋までの道路拡幅工事が進められている。これに伴い坪井の立町通りも拡幅の計画だという。既に用地買収され建物が解かれた箇所もあり、立田口大神宮の赤鳥居をくぐる道は脇道が設置され一方通行になる予定だそうだ。しかし、残りの用地買収は難航しそうだ。立町通りのこの辺りは、旧藩時代、豊後街道の立田口構が置かれたり、参勤交代行列の供揃えをする勢屯りがあった地点。大津街道(豊後街道)の杉並木はここから大津宿まで約四里にわたって続いていたという。この歴史ある立町通りが拡幅工事でどのように変貌するのか見ものである。立田口大神宮の赤鳥居四里にわたって続く杉並木を進む肥後細川藩の御行列万延元年(1860)10月の13代当主細川韶邦公の初御入部を描いた「御入国御行列之図」。「建町構」や「立田口構」...豊後街道~立田口構(たつだぐちかまえ)~

  • 天草四郎伝説

    今夜放送された「世界の何だコレ!?ミステリー」(フジTV)では天草島原の乱を率いたという天草四郎伝説のナゾを取り上げていた。番組では原城に籠城した3万7千人の一揆軍のほとんどが天草四郎を見たことがなく、存在そのものが疑われていたという話や、四郎は5人の浪人たちに操られていて、四郎の出現を預言した宣教師の話も彼らによってでっち上げられていたという話などが紹介された。一揆軍を率いた一人がキリシタン大名小西行長にかつて仕えていた森宗意軒という人物。以前、このブログでも紹介したことがあるが、わが家の近くに森宗意軒のご子孫がおられる。元航空自衛隊のパイロットで退官された後、家業の米穀店を永年経営、昨年末ご高齢のため閉店された森さんがその人である。僕の高校の大先輩でもあり長くご好誼を賜っている。実はわが先祖の中に細川...天草四郎伝説

  • 熊本の風景今昔 ~徳王の追分石~

    熊本市内から北へ伸びる県道303号四方寄熊本線を植木方面へ走って行くと、ロッキースーパー徳王店を過ぎた辺りに左斜めに入って行く分かれ道がある。この分岐点には今でも追分石が置いてあるが、ここがかつての豊前街道と高瀬へ向かう木留道の追分である。追分石にはこう書かれている。「是より左きとめ通きちしこえたかせへのみち」(これより左木留道吉次越え高瀬への道)つまり、「ここから左折すると、木留(現在は植木町木留)を通って吉次峠を越え、高瀬(現在は玉名市高瀬)へ向かう道」という意味だ。今では地元の人でも、かつてここが重要な街道の追分であったことを知らない人が多いそうだ。吉次峠は西南戦争の激戦地。真っすぐ豊前街道を進んでも植木町の田原坂方面へとつながっているのでいずれにしても西南戦争当時はさぞや多くの人馬がこの追分石の前...熊本の風景今昔~徳王の追分石~

  • 熊本城復旧の長い道のり

    7年前の今日、つまり熊本地震発生から1ヶ月が過ぎた頃だが、下記のようなブログ記事を書いていた。思えばその当時は先のことなど想像もできないまま書いていた覚えがある。昨年11月には復旧完了時期が当初の計画から大幅に遅れ、30年後になるとの見通しが熊本市長からアナウンスされた。熊本地震から7年経った今、復旧工事の様子を見ながら、就中、石垣の復旧がいかに大変な工事で、この先長い長い道のりが続くことを実感している。▼熊本城石垣のはなし。(2016.5.15)熊本地震により熊本城の最大の特徴である石垣が各所で崩れ、熊本の文化財専門家として著名な富田紘一さんも「熊本城の石垣は地震にもびくともしない、とさんざん喧伝してきた自分たちがまるでホラ吹きのようだ」と嘆く。それほど、かつて経験したことのない巨大地震だったということ...熊本城復旧の長い道のり

  • 日曜日の初耳学 ~日本のキッザニア創設者~

    今夜の「日曜日の初耳学」(MBS)では子供のお仕事体験で大人気の「キッザニア東京」創設者・住谷栄之資さんにスポットを当てていた。実は住谷さんについては15年ほど前、いろんなメディアが取り上げていた時、このブログでも紹介したことがあったので、内容を一部編集して再掲した。東京のららぽーと豊洲にある「キッザニア東京」が凄い人気らしい。なんでも東京周辺の子どもたちにとってディズニーランドよりも魅力のあるスポットになっているそうだ。2006年秋にオープンしたこの「キッザニア東京」は、2歳から15歳までの子供向けの職業体験型テーマパークとして人気を博し、4ヶ月も先まで予約がうまっているそうだ。ここでは消防士、キャビンアテンダント、モデル、医師など、80種類以上の職業が体験できる。さらにここで働くと「キッゾ」というパー...日曜日の初耳学~日本のキッザニア創設者~

  • 高瀬裏川と近江八幡堀

    来週末から「高瀬裏川花しょうぶまつり」が始まる。今日現在の開花状況はまだチラホラのようだ。ここは1971年、この裏川沿いの商家を借りて工場立上げ要員宿舎としていた思い出の地。行く度に当時を思い出す。かつて米を積んだ平田舟が行き交った運河も今では花しょうぶ園の様相を呈している。また、ここの風景は彦根勤務時代に何度も見た近江八幡の八幡堀を思い出して懐かしい。その八幡堀は時代劇のドラマや映画によく使われるので風景を見ているだけで楽しい。高瀬裏川の花しょうぶ(過年度)▼TVドラマ「剣客商売」のテーマ曲と主なロケ地となった八幡堀高瀬裏川と近江八幡堀

  • 父の祥月命日と謡曲「田村」

    昨夜、ブラタモリ・セレクション「京都・清水寺編」を放送していた。6年ぶりの再見だ。清水寺は坂上田村麻呂ゆかりのお寺。と思って見ていたら、来週の父の祥月命日のことを思い出した。2000年に他界した父の思い出の謡曲が「田村」だった。父がまだ四つか五つの頃、立田山麓の泰勝寺に住んでおられた長岡家(細川刑部家)に日参していた。お坊ちゃまの遊び相手としてだったが、お屋敷で謡曲のお稽古が行われる日は、幼い父も末席に侍らせられていたという。父は門前の小僧よろしく謡曲「田村」の「ひとたび放せば千の矢先・・・」という一節だけは終生忘れなかった。昨年が父の二十三回忌にあたる年だったのだが、まだコロナ感染が危惧される時期だったので菩提寺のご住職と相談し、2024年に二十三回忌と二十七回忌を合わせた法要を行うことにした。謡曲「田...父の祥月命日と謡曲「田村」

  • 邦楽の祭典 ~第28回くまもと全国邦楽コンクール~

    今年も「~長谷検校記念~第28回くまもと全国邦楽コンクール」が熊本市民会館で行われます。先日、本選出場者のメンバーが発表されました。日時:2023年7月2日(日)10:00〜12:30コンクール本選12:50〜14:00第9回くまもと子ども邦楽祭14:10〜結果発表・表彰式会場:市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)入場無料前回(第27回)の被表彰者の皆さん前回初めて、熊本県から出場した箏曲の清原晏さんが最優秀賞に輝きましたが、今年も優秀な若手演奏家が予選を通過して本選に登場します。私が個人的に注目しているのは久しぶりに登場の筝曲の中島裕康さん、昨年奨励賞を受賞した三味線音楽の今藤政優さん、そして尺八・笛音楽部門に笙(しょう)で出場した出会ユキさんなどです。今年はどんな演奏を見せてくれるか楽しみで...邦楽の祭典~第28回くまもと全国邦楽コンクール~

  • ハーンと「朝日のあたる家」

    日本に来る前のラフカディオ・ハーンは、1877から87年までの10年間、新聞記者としてニューオーリンズに滞在した。彼は市中の阿片窟や売春宿を告発する記事を書いていたそうである。その一方、周辺地域の民謡や習俗の収集もしていたそうで、原初のジャズなどにも触れていたと思われる。ハーンがニューオーリンズにやってくる数年前まで実在していたという「朝日楼」という娼館を歌った「朝日のあたる家(TheHouseoftheRisingSun)」という民謡がある。1960年代にアニマルズが歌って日本でも大ヒットした。苦界に身を沈めた女の悲しみの歌だが、19世紀から歌われていたというこの歌を、ハーンは仕事柄耳にする機会があったのではないかと思われる。ただ、この歌のもとになったのは16世紀から歌われているアイルランド民謡「The...ハーンと「朝日のあたる家」

  • 聖と俗

    昨日の熊日新聞「都市圏」の連載企画「坂道を上れば」に「錦橋」が取り上げられた。その名は錦山神社(現加藤神社)に由来することや、坂の下には坪井川の旧流路があったことなどが紹介されていた。「昔は小舟で客が訪れ、神社周辺の街はにぎわったらしい」という加藤神社権禰宜の話も紹介されていたが、これだけでは錦坂の歴史を語る話としては弱いので、以前このブログで紹介した話を付け加えておきたい。僕の父の教員仲間だったI先生が師範学生時代の昭和10年に著した京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。--商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社の所(新堀)は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つ...聖と俗

  • 清少納言とたはれ島

    先月4月15日、藤崎八旛宮藤祭藤祭の参拝に行った時、能舞奉納まで時間があったので境内の摂社・末社をお参りして周った。境内の一角に立つ平安時代中期に肥後国司を務めた清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松今幾千代の子の日過ごさむ」を見ながら元輔の娘・清少納言のことを思い出した。元輔が肥後の国司時代、清少納言は、後に一条天皇の中宮となる藤原定子に出仕する前だったにもかかわらず、父とともに肥後へ下向した形跡を示す史料は見当たらないらしい。しかし、彼女の随筆「枕草子」の「島」の條には「島は八十島浮島たはれ島絵島松が浦島豊浦の島まがきの島」史料によっては「島は浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。」とあり、肥後の「たはれ島(風流島)」と「水島」が含まれている。これは「名にし負う」島々を列挙...清少納言とたはれ島

  • 今日聴いた音楽

    今日は終日雨で外へ出ることもなく、テレビで石川県能登地方の地震被災状況を見ながら、7年前の熊本地震の恐怖を思い出しました。被災地の皆様に心よりお見舞い申し上げます。一日も早く日常を取り戻せることをお祈り致します。午後からはミュージックビデオを見て過ごしたが、そのうち次の3本をピックアップしてみた。♪ディキシーランド・ジャズの代表曲の一つ「HighSociety」を田村真紀子セッションで♪玉名女子高校吹奏楽部が最近リリースした「プリンセス・イン・デイドリーム」(樽屋雅徳作編曲)♪先日の第62回博多どんたく港まつりパレードにおけるブリヂストン吹奏楽団久留米のマーチング今日聴いた音楽

  • アツモリソウ(敦盛草)のはなし。

    ブログ友の「小父さんから」さんの記事に「アツモリソウ」の話が取り上げられていた。この名の植物が存在することを初めて知った。その由来について、花の形が、「一ノ谷の戦い」で命を落とした平家の若武者敦盛が、背中に風で布を膨らませる防具「母衣」を付けていた様に似ているからだそうだ。しかし、添付されている「一の谷合戦図屏風」を見ると敦盛を討ち取った熊谷直実も「母衣」を着けているのに対し、敦盛の「母衣」は判然としない。他に「一ノ谷の戦い」を描いた絵図はないかと探したところ、室町末期から江戸初期に奈良の絵仏師によって作られた一種の絵本である「奈良絵本」に赤い「母衣」を着けた敦盛の絵図があった。それではなぜ同じように「母衣」を着けているのに熊谷直実ではなく「敦盛草」と名付けられたのだろうか。それはおそらく弱冠15歳で命を...アツモリソウ(敦盛草)のはなし。

  • 雅の世界 ~曲水の宴~

    平安時代の宮中行事を再現した「曲水の宴」が今日、代継宮(熊本市北区龍田)で開催されました。代継宮の「曲水の宴」は今年で11回目になりますが、熊本では唯一です。平安時代の装束を身にまとった歌人たちが庭園内の小川沿いに座り、酒杯が目の前を通るまでに和歌を詠みます。今回の歌題は「山吹」と「鶯」でした。女性歌人には熊本の民放各局のアナウンサーが扮し、会場を取り巻く観客は雅な平安絵巻を楽しんでいました。女性歌人に扮した後生川凜アナ(RKK)巫女による豊栄の舞天の浮橋を渡って各自の席に向かう歌人たち酒杯が通るまでに短冊に歌をしたためる歌人たち雅の世界~曲水の宴~

  • あの頃の熊本城

    GWも後半に入り、今日も熊本城は多くの観光客で賑わっていた。そんな中、二の丸広場や加藤神社などで観光ボランティアガイドに観光客のグループが案内されている光景をよく目にする。ガイドの話に耳を澄ましていると、よく聴こえてくるのが「修復工事中の熊本城は今しか見られませんよ!」という言葉。今はそう言うしかないのだろうが、聴きながら僕はやっぱり、観光客の皆さんには熊本地震前の美しかった熊本城を見ていただきたかったなぁと思うのである。平成時代に入ってから櫓や続塀などが次々と復元され、築城四百年に向けて本丸御殿などが築城時の建築工法で復元された。2006年から足掛け3年にわたった築城四百年祭の頃はそれはそれは見事な名城の姿を誇っていたのである。当時の写真を眺めながらふり返ってみた。大小天守と宇土櫓の三天守の偉容ライトア...あの頃の熊本城

  • 或る少女

    今日、散歩コースの一つ、往生院へ向かっていた。県道303号を渡ろうと横断歩道で信号待ちをしていると、一人の少女が近づいて来た。見た目は12,3歳くらいだろうか。髪は短めで眼鏡をかけているが冬のようなウィンドブレーカーを着ていた。なんとなく薄汚れた感じがした。「おじちゃん、どこ行くの?」と声をかけてきた。「そこのお寺だよ。キミはどこへ行くの?」と返した。すると「わからない」と言う。そこで僕は発達障害の子かなと気付いた。「家はどこなの?」と聞いても「わからない」と言う。「どこから来たの?」と聞いても「わからない」「誰か来るの?」と聞くと「何かあったらここに電話しなさいと言われた」と言って1枚のカードをポケットから出した。見るとパトロールカードと書かれていて名前と電話番号が書かれていた。どうやらおまわりさんが渡...或る少女

  • 合羽町の家

    今日は例月のとおり藤崎八旛宮へ朔日詣りに歩いて行った。その途中、八雲通りを歩いていると漱石の合羽町の家跡(現坪井2丁目)の駐車場で掃除をしている中年男性が目に入った。ひょっとしてここの家主さんかなと思い声を掛けてみた。「ここは漱石旧居があったところですよね」「そうです。合羽町の家のあったところです」とにこやかに返事された。「その痕跡は何にもないんですか」と聞くと、漱石旧居だったことはずっと前から聞いていたが何も痕跡がないことなどを話していただいた。漱石が熊本に来て最初に住んだ光琳寺の家からわずか3ヶ月で引っ越してきた二番目の家がこの合羽町の家である。この合羽町の家に住んでいた頃、次の句を詠んでいる。枕辺や星別れんとする晨(まくらべやほしわかれんとするあした)鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの...合羽町の家

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