今年もよろしくお願いします。...
中原中也ファンのブログです。
およそ80年前の東京の街を孤独な魂は歩いた。その日の魂に見合う詩(うた)を探して…。その歌は2013年の今、数々の文庫として書店の棚にある。ポケットに歌を! さあ、中原中也の魂と会いに出かけよう!
今年もよろしくお願いします。...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy2 11月の初めの澄み渡った青空に忽然と現れた無数の金の珠がやっと赤黒いあんぽ柿みたいになったのは2023新年の初め ヒヨドリたちはいちはやくその変化を察知し誰よりも早く鈴なりの柿に飛びついた 結果、豆鉄砲を食らった鳩が脳天をやられ...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy1 冬のアテネの街で粗末な衣服に身を包んだ哲人が日向ぼっこを楽しんでいた その頃東京郊外のとある病院の柿の巨木に鵯ヒヨドリの小群れが集合した ヒヨドリたちはいつになく興奮しているのが自動車の激しく行き来する道から見て取れた 鈴なり...
新年の朝新年の朝はいいなあといつも思います塵もホコリも一つもなくて空は真っ青で深くて底なし生きていてよかったと毎年思いますアテネの街の路地に日向ぼっこするディオゲネスを身近に感じ毎年思い出しますアレクサンドロスに小春日の幸せを邪魔しないように注文したディオゲネスとぴったりシンクロします毎年毎...
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今年はブログに力を注ぎたく頑張ります。背伸びしないで、続けようと努力します。...
今年は、なんとかブログ再開に漕ぎつけようと頑張ります。...
モフセン・マフマルバフ監督作品「カンダハール」(イラン、2001年)メモ
「合地舜介の思い出シネマ館2」より再掲載■メモその1モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身、アフガンに入...
モフセン・マフマルバフ監督作品「カンダハール」(イラン、2001年)メモ
「合地舜介の思い出シネマ館2」より再掲載■メモその1モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身、アフガンに入...
再掲載/]2013年1月11日 (金) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」7
(前回からつづく)昭和初期から昭和10年代の日本という地方(=くに)の空模様は暗雲にすっぽりと覆(おお)われていても夜ともなれば蛙は必ず鳴きその声が水面を走って暗雲に迫るのです。夜が来ればというのは条件を意味しているのではなく夜は毎日必ず訪れるものですから必ず毎日蛙は鳴くということです。蛙が鳴...
再掲載/2013年1月10日 (木) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」6
(前回からつづく)「くに」が湿潤(しつじゅん)に過ぎるといった時に湿潤は天候のことを述べているのでないことは明白です。日本海型気候とか瀬戸内型気候などでいう湿潤ではありません。ではどのようなことを湿潤と言っているかといえば何にも言っていません。どうぞ自由勝手に想像してくださいと言っているような...
再掲載/2013年1月 9日 (水) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」5
(前回からつづく)第3、4連を読んでいてよし此の地方《くに》が、の地方をなぜ「くに」と読ませるのかくに(地方)が湿潤に過ぎる、とはどういう意味か疲れたる我等が心、の疲れたる我等とは誰のことか柱とは何の比喩か柱が乾く、とはどういう状態かなぜ、思われでなく、感《おも》われ、かなぜ、頭は重く、肩は凝る...
再掲載/2013年1月 8日 (火) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」4
(前回からつづく)昭和8年に蛙(の声)を続けて歌った詩人は最後4作目のQu'est-ce que c'est? で蛙の声を聞く時は、何かを僕はおもい出す。何か、何かを、おもいだす。――と、まだ十分に歌い切っていないかのように何か、何かと言い残しました。4年後の昭和12年にまた蛙声をモチーフに...
再掲載/2013年1月 7日 (月) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」3
(前回からつづく)「ノート翻訳詩」に書かれた「蛙声(郊外では)」(蛙等は月を見ない)(蛙等が、どんなに鳴こうと)(Qu'est-ce que c'est?)――は、みんな昭和8年(5月~8月)の制作と推定されていますから「在りし日の歌」の「蛙声」まで丸4年の歳月が流れたことになります。両者にどの...
再掲載/2013年1月 6日 (日) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」2
(前回からつづく)ガマガエルとか青蛙とか痩せた蛙とか――。中原中也の「蛙声」には動物としてのカエルのイメージはまったくありません。それはなぜでしょう。◇ここで寄り道になるようですが「ノート翻訳詩」(昭和5~8年)に書かれた詩「蛙声(郊外では)」(蛙等は月を見ない)(蛙等が、どんなに鳴こうと)(...
再掲載/2013年1月 5日 (土) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」1
「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」は昭和12年5月14日に作られ同年の「四季」7月号に発表されました。「四季」に発表されたとき末尾に制作日の記載があります。この頃、「在りし日の歌」の編集は急展開し詩集タイトルを「在りし日の歌」とすることやこの「蛙声」を最終詩とし「含羞(はじらい)」を詩集の冒頭詩と...
再掲載/2013年1月 4日 (金) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」7
(前回からつづく)「春日狂想」は全行が口語会話体で書かれていますが2の末行、まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、話をさせたら、でもうんざりか?それでも心をポーツとさせる、まことに、人生、花嫁御寮。――に現われるやんちゃな口ぶりは詩人の地(じ)が露わになったようでテンポ正しい散歩が...
再掲載/2013年1月 2日 (水) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」6
(前回からつづく)玩具の兵隊になったような毎日が日曜日のようなテンポ正しい散歩を続けている詩人はある時空に舞い上がるゴム風船を目撃しはかなさのようなものを感じ美しさを見ます。人生は短い一瞬の夢まるであのゴム風船のようだ美しいというほかに言いようがないものだ。愛児文也の死をも詩人はこのように受け...
再掲載/2013年1月 1日 (火) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」5
(前回からつづく)鎌倉らしき街を散歩中の詩人は神社の日向(日陰)知人飴売り爺々鳩地面草木苔参詣人ゴム風船茶店馬車電車……など次々と目に触れてくるものの一つ一つが取り立てて新鮮なものでもなければ取り立ててつまらないものでもないどうといったこともないお天気の1日で参詣人がゾロゾロ歩いていても腹が立たな...
再掲載/2012年12月31日 (月) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」4
(前回からつづく)「春日狂想」のコロスの合唱を思わせる《まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。》――にある「まことに人生」という詩句は地の声の「まことに人生」に引き取られてまことに人生、花嫁御寮まことに、人生、花嫁御寮――と歌われる構造になっていることがわかってきます。2のこの後半部...
再掲載/2012年12月30日 (日) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」3
(前回からつづく)「春日狂想」の1は内容は強烈でありながら詩が詩人の心のうちを明らかにするという形の上では普通にはじめられていますが2の後半の《 》でくくられたまことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。――にさしかかって詩のその形(構造)に変質が生じています。この《 》の前に参詣人等...
再掲載/2012年12月29日 (土) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」2
「春日狂想」は「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」の前にあり「正午」に続いています。「永訣の秋」のラインアップをここで再度見ておきますとゆきてかえらぬ一つのメルヘン幻影あばずれ女の亭主が歌った言葉なき歌月夜の浜辺また来ん春……月の光 その一月の光 その二村の時計或る男の肖像冬の長門峡米子正午春日狂想...
再掲載/2012年12月28日 (金) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」
「永訣の秋」に採るためには「わかれの歌」でなければならない。内容は現在ではなく過去のものでなくてはならないということで「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は採られなくて「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」は選ばれました。愛児文也を追悼した詩「春日狂想」もこの流れに沿って読むことが可能にな...
再掲載/2012年12月22日 (土) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」9
(前回からつづく)「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。「夏の夜の博覧会はかなしからずや」をよーく味わっていればそれを理解できる気がしませんか?この詩を何度も何度も読ん...
再掲載/2012年12月21日 (金) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」8
(前回からつづく)中原中也は中村古峡療養所に入院中の一定期間に創作を禁じられていたのですがなにも書いてはならないという厳格な禁止期間はそう長くはなく特に後半期には詩篇さえ残していますから創作意欲は旺盛にあったものの療養に専念したといえることでしょう。◇昭和12年2月27日、鎌倉へ引っ越した日か...
再掲載/2012年12月20日 (木) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」7
(前回からつづく)「文也の一生」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」――をインクのペン書きから毛筆に変えて書いたのは特別な思いを込めたからに違いありません。このことは愛児文也の突然の死が詩人に与えた衝撃のすべてを物語るようです。毛筆で書くなどは前例がないものでしたし日記から詩へ詩か...
再掲載/2012年12月19日 (水) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」6
(前回からつづく)「文也の一生」は日記の8ページにわたって毛筆で書き付けられました。そして7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。――と書いたところで途切れます。同じ毛筆で書かれたのが「夏の夜の博覧会はかなしからずや」でこ...
再掲載/2012年12月18日 (火) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」5
(前回からつづく)やや迂回(うかい)しますが「文也の一生」というタイトルのある「日記」を読んでみましょう。文也が死んだのは昭和11年11月10日でしたが翌々日の12日付けで届けられた香典の内訳をメモして以来途絶えていた日記が1か月後の12月12日付けで再開されます。再開されても年明けてすぐに療...
再掲載/2012年12月17日 (月) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」4
(前回からつづく)5次にわたる編集期は全集委員会が考えた便宜的な「期間区分」であって中原中也がいつからいつまでと期間を区切ったものではありません。創作や編集的な作業を禁じられていた療養中にですら「頭の中」には「在りし日の歌」の構想が進められていたかもしれないのにそれは表面に出てくることはありません...
再掲載/2012年12月16日 (日) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」3
(前回からつづく)昭和11年11月10日、長男文也が小児結核で死亡するという不幸に見舞われた詩人は悲嘆の底に沈み、精神に変調をきたしたため家人のはからいで千葉の中村古峡療養所へ入院したのは明けて昭和12年1月9日。1か月以上の療養の末、2月15日に退院し、2月27日に四谷・市谷の住まいを払い鎌倉の...
再掲載/2012年12月15日 (土) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」2
(前回からつづく)中原中也が第2詩集の編集をはじめたことを確定する具体的資料は実のところなんら残存しません。「山羊の歌」出版以後に詩人が著(あら)わした日記や書簡にも編集を開始したという明確な記述は見つかっていません。つまり全ては日記や書簡などを参考にして立てられた仮説です。日記、書簡は詩人本...
再掲載/2012年12月14日 (金) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」
「在りし日の歌」の編集はどのような経過で行われたか――。「永訣の秋」を集中して読んできて残すのは「また来ん春……」「春日狂想」「蛙声」の3作品というところにさしかかりました。「永訣の秋」の読みがフィニッシュ段階に入るということで「在りし日の歌」の編集が愛息・文也の死によって被(こうむ)ったある変...
再掲載/2012年12月11日 (火) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」7
(前回からつづく)中原中也が「現代と詩人」にさあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。――と記したとき念頭にあったのは真っ先にアルチュール・ランボーとポール・ベルレーヌの二人の詩人のはずでした。ほかにボードレールやラファルグやネルバルやデボルト=バルモールがいたとしてもこの二...
再掲載/2012年12月10日 (月) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」6
(前回からつづく)「言葉なき歌」の「あれ」に似ている使い方をされている詩がいくつかあることが分かっていますがそのうちの一つ「現代と詩人」を読んでみましょう。「新字・新かな」表記にしてあります。◇現代と詩人 何を読んでみても、何を聞いてみても、もはや世の中の見定めはつかぬ。私は詩を読み、詩を書く...
再掲載/2012年12月 9日 (日) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」5
(前回からつづく)「ランボウ詩集」の「後記」の後半部は中原中也のランボー論が展開されています。そして少しはベルレーヌ論も混ざっています。◇その中のはじめの部分のパイヤン(異教徒)の思想だ彼にとつて基督教とは、多分一牧歌感性的陶酔陶酔の全一性といふことが全ての全て悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発し...
再掲載/2012年12月 8日 (土) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」4
(前回からつづく)はじめに「芸術論覚え書」が書かれ次に「言葉なき歌」(第1次形態)が書かれその次に「ランボウ詩集」の後記が書かれた――というのが制作順序だったようですが「言葉なき歌」(第2次形態)は「在りし日の歌」の最終編集過程で若干の修正を経て選ばれたのですから「ランボウ詩集」の後記が書かれたの...
再掲載/2012年12月 7日 (金) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」3
(前回からつづく)「芸術論覚え書」は昭和9年(1934年)12月から翌10年3月に書かれたらしいことが分かっています。「山羊の歌」刊行後でこの期間に詩人は生地・山口に帰省中でした。内容は「名辞」「名辞以前」「現識」という概念を軸にした詩論であり硬軟の混ざった芸術論であり第一詩集をようやく発行しさ...
再掲載/2012年12月 6日 (木) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」2
(前回からつづく)「言葉なき歌」にはいくつかの指示代名詞や場所・方角を表わす名詞(句)・形容詞が使われ近くから遠くから本体(場所)に代わってその内容が指し示されますが本体の内容は具体的に示されるところまでいきません。「あれ」「ここ」(此処)「あすこ」「とおいい」(遠いい)「遙か」「彼方」「その方...
再掲載/2012年12月 5日 (水) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」
存在感のうすいヒト・モノ・コトを扱っているという角度で「幻影」「月夜の浜辺」「村の時計」「或る男の肖像」「米子」――を同じ流れにある詩群として見てきましたが最終詩「蛙声」へと繋がっていくもう一つの流れに「ゆきてかえらぬ」を起点として「幻影」「あばずれ女の亭主が歌った」「言葉なき歌」を通じる一群があり...
再掲載/2012年12月 4日 (火) 「永訣の秋」もう一つの女のわかれ・「米子」2
(前回からつづく)長谷川泰子の勝気なばかりではない側面を「米子(よねこ)」で描いた――。そう考えてもよいかそう考えないほうがよいか。米子は泰子のことを指しているという考えと米子は泰子とは異なる女性をモデルにしているがそれが誰であるかは特定できないという考えとが対立しながら存在しますが「泰子」は...
再掲載/2012年12月 3日 (月) 「永訣の秋」もう一つの女のわかれ・「米子」
「米子」は「よねこ」ですからなぜまたこんなところに女性の固有名を冠した詩が配置されたのかと首をひねることになりそうですが作品内容で見れば「村の時計」の流れで連続していることが見えてきました。二十八歳のその処女《むすめ》は、肺病やみで、腓《ひ》は細かった。ポプラのように、人も通らぬ歩道に沿って、立っ...
再掲載/2012年12月 2日 (日) 「永訣の秋」存在のわかれ・「村の時計」2
(前回からつづく)「村の時計」は一日中休むことなく働いていて字板のペンキにはつやがなく近くで見れば細(こま)かなひび割れがあり夕方の陽にあたっておとなしい色合いをしていて時刻を鳴らすときにはゼーゼーと音を出しその音はどこから出ているのか誰にもわからない――とだけを述べた詩です。だからどうした...
再掲載/2012年12月 1日 (土) 「永訣の秋」存在のわかれ・「村の時計」1
「或る夜の幻想」のうち「1 彼女の部屋」「3 彼女」は除外され「2 村の時計」は同じタイトルで「村の時計」として「4 或る男の肖像」「5 無題」「6 壁」は「或る男の肖像」として独立した詩に仕立てられました。「村の時計」は「永訣の秋」の中で「月の光」と「冬の長門峡」の間に「或る男の肖像」とともに配...
再掲載/2012年11月30日 (金) 「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」その3
(前回からつづく)「杉林」が「男」のシンボリックな表現であるとすれば野原の一隅には杉林があった。なかの一本がわけても聳えていた。或る日彼女はそれにのぼった。下りて来るのは大変なことだった。それでも彼女は、媚態を棄てなかった。一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。 夢の中で、彼女...
再掲載/2012年11月29日 (木) 「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」その2
(前回からつづく)6部仕立ての連詩「或る夜の幻想」の4 或る男の肖像5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。6 壁――を独立させた詩が「或る男の肖像」でした。「或る夜の幻想」の中では4、5、6のつながりが緊密で独立させるのが容易だったからでしょうか。独立した詩として成立すると詩人が判断したからに...
再掲載/2012年11月28日 (水)「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」
(前回からつづく)実は「或る男の肖像」には元になった詩があります。その詩は「或る夜の幻想」のタイトルで「四季」の昭和12年(1937年)3月号に発表された短詩の連作詩でした。「或る夜の幻想」ははじめ1 彼女の部屋2 村の時計3 彼女4 或る男の肖像5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。6 壁―...
再掲載/2012年11月27日 (火) 「永訣の秋」女のわかれ2・「或る男の肖像」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「或る男の肖像」の1には三つの過去の時間が重なっています。1、 男が洋行していた過去2、 夜になると喫茶店にやって来て暇をつぶしていた過去3、 死んだという過去――を「話者」(=詩人)が見聞きしていて、案内しているのが1です。その男が生きていたあるときに経験した事件の断面が描かれるのが2、3で...
再掲載/2012年11月26日 (月) 「永訣の秋」女のわかれ2・「或る男の肖像」・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「或る男の肖像」は1、2、3の番号が振られた3部仕立ての短詩ですが1と2、3との間のつながりが見えにくい断片のような作品です。1に現われる「洋行帰りのその男」がタイトルの「或る男」であり2、3に現われる「彼と彼女」の「彼」でもあるらしいのですが「その男」は1で死んでいます。死んだ男について回想...
再掲載/2012年11月25日 (日) 「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)おまえはおれを愛してる、一度とておれを憎んだためしはない。おれもおまえを愛してる。前世からさだまっていたことのよう。そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合うもう長年の習慣だ。――というはじまりが示す「二人」の相思相愛の関係はそれなのにまた二人には、ひどく浮気な心が...
再掲載/2012年11月24日 (土) 「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)「あばずれ女」と聞いただけでアメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」のボニーを思い浮かべたり「愛の不可能」や「愛の不毛」ならばイタリア映画「情事」「太陽はひとりぼっち」「夜」のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品やフランス・ヌーベルバーグの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエ...
再掲載/2012年11月23日 (金) 「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)「永訣の秋」の16篇の中で長谷川泰子らしき女性が登場するのは「あばずれ女の亭主が歌った」「或る男の肖像」の2作品ですからこれが「泰子のわかれ」を歌った最終作品ということができるかもしれません。◇中原中也は「生涯にわたる恋人・長谷川泰子」を実にさまざまに表現していますが「あばず...
再掲載/2012年11月11日 (日) 「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)さらば東京、と記すのは「在りし日の歌」の後記ですが「正午 丸ビル風景」に表(おもて)立っていなくてもそこに東京へのわかれが刻まれていることは「在りし日の歌」中の「永訣の秋」に収められていることで知ることができます。それ以外に知る手掛かりはありません。読みようによってはほかの読み...
再掲載/2012年11月10日 (土) 「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「月の光」はお庭の隅にも芝生にも月光が満遍(まんべん)なく降り注(そそ)いで真昼のような「影のない世界」を歌います。死んだ子が隠れている草叢でさへ月の光が照っていては丸見えでその子どもに「影がない」感じが妙に生々しい非現実感――こんなことってあるのか!――を漂わせます。◇太陽が南中しモノの影が...
再掲載/2012年11月 9日 (金) 「永訣の秋」の月光詩群・真昼のような「月の光」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)死んだ子どもが隠れていたり(その一)蛍のように蹲(しゃが)んでいたり(その二)する一方でチルシスとアマントがギターをほっぽりだしたままコソコソ話している庭――という舞台装置が不可思議な感じですがいつしかその不可思議な詩世界に読者は入り込んでいます。ここは庭です。詩人の庭なのでし...
再掲載/2012年11月 8日 (木) 「永訣の秋」の月光詩群・真昼のような「月の光」・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「幻影」でピエロが浴びていた月光は「私の頭の中」にあるためにスポット・ライトを浴びているのに似て、しろじろと身に月光を浴び、あやしくもあかるい霧の中で、かすかな姿態をゆるやかに動かし――という距離感があり、「月夜の浜辺」の月光は波打際とボタンとを浮かびあがらせる舞台装置(=背景)のようですが「...
再掲載/2012年11月 7日 (水) 「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」6・生きているうちに読んでおきい名作たち
(前回からつづく)普通の日本人が日常会話で使うような「しゃべり言葉」みたいな現代口語で「月夜の浜辺」はつくられています。むずかしいと頭をひねることもないやさしい言葉をルフランを駆使し7・7音のリズムに乗せて朗唱しやすい詩が組み立てられました。◇なんの疑問の余地もない詩のようですがふと立ち止ま...
再掲載/2012年11月 2日 (金)「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「幻影」で私(=詩人)の頭の中に棲んでいるピエロですがそのピエロはいつも月光下にいます。黙劇(パントマイム)を演じている舞台に月光は射していなければならないものであるかのようにです。◇月光(または月)は中原中也の詩にたびたびライト・モチーフとして現れることはよく知られたことでしょう。「山羊の歌...
再掲載/2012年10月31日 (水)「幻影」の過去形ナレーション2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)ナレーションの形をとることによって詩人の歌おうとする詩世界は詩人から一定の距離が置かれることになり読者はナレーターの口を通じて詩人のメッセージなり歌なりを聴くことになります。詩人の赤裸々な内面や心の中はワンクッション置かれることになり読者と作者との間にも一定の距離が置かれること...
再掲載/2012年10月30日 (火)「幻影」の過去形ナレーション・生きているうちに読んでおきたい名作たち
「幻影」は「在りし日の歌」の最終章「永訣の秋」の中で「一つのメルヘン」に続いて配置されていることと「でした」で終わる行末の語り口調(ナレーション)によって連続しているような錯覚を抱くような詩です。そのうえ、「幻影」の月光下のピエロの映像と「一つのメルヘン」の夜の陽光のシーンとはともにスポットライト...
再掲載/2012年10月27日 (土) 「冬の長門峡」の二つの過去2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)「冬の長門峡」は一読して単調な感じを抱かせる詩ですが読めば読むほど深みを感じさせる詩です。不思議な魅力のある文語詩です。◇まず冒頭連の長門峡に、水は流れてありにけり。寒い寒い日なりき。――で、ある特定の過去(ある日ある時)に長門峡に遊んだのが寒い日だったことを叙述します。第...
再掲載/2012年10月26日 (金) 「冬の長門峡」の二つの過去・生きているうちに読んでおきたい名作たち
叙景にはじまり叙情に転じる詩であるという角度でみると「冬の長門峡」は「春の日の夕暮」と同じグループの詩篇です。しかし「転」の部分の動きがそれほどくっきりしているものではないのでそうとは見えにくいのですがじっくり読めば「起承転結」が浮かび上がってきます。◇そもそも2行6連構成の詩ですからきっかり...
再掲載4/2012年10月25日 (木) 「一つのメルヘン」の不可能な風景4・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)さらさらと、さらさらと流れているのでありました……――という、何の変哲もないような1行がこの詩の最終行におかれました。よく見れば、「……」があり水がずっと流れ続けることを示しています。◇それまで干上がっていた川床に一つの蝶が舞い降りたことから水が流れ出すという物語の枠組みだ...
再掲載3/2012年10月24日 (水) 「一つのメルヘン」の不可能な風景3・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)蝶は神の使いだったのでしょうか?そのようなことを感じさせておかしくはないトリックかマジックか。さらさらとさらさらと今度は、水が流れているのでありました。◇さらさらと、陽がさしているさらさらと、音を立てているさらさらと、水が流れている◇いろはにこんぺいとうこんぺいとうはあ...
再掲載/2012年10月22日 (月) 「一つのメルヘン」の不可能な風景2・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)さて、この詩「一つのメルヘン」のはじまりの4行秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらとさらさらと射しているのでありました。――の不思議な感覚はなんなのかとじっくり読んでみればまずは、夜でありながら陽が射している風景からくることに気...
再掲載/2012年10月21日 (日) 「一つのメルヘン」の不可能な風景・生きているうちに読んでおきたい名作たち
叙景ではじまり起承転結の転が際立つ詩ということで前に「春の日の夕暮」を読みましたがこれと似た構造をもつ詩がいくつもあります。すぐさま浮かぶのが「一つのメルヘン」です。◇一つのメルヘン 秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらとさらさらと射しているので...
朝の歌 朝だ輝かしい朝が来た鵯(ひよどり)の小群れが喜んで身をくねらせて鳴き交わしている希望の朝がぼくにもやって来た鬱陶しい夢から覚めて台所ごみの袋を下げて歩く目覚めきらないぼくに青空を引っかいた筋雲が迎える輝かしい朝よお陰で失敗だらけの過去に染まって悔恨で煮詰まったぼ...
送電線の来た道どこから来てどこへ行く?人知れずつぶやいているそ・う・で・ん・せ・んいつからか虎落笛(もがりぶえ)の発生源と思い込んでいる送電線は寂しさの元どこから来てどこへ行く?暇があるから隣りの鉄塔を追ってみる寂しさの果てなむ国を求める真似してあっ9歳の僕がいる行き着いた場所は公園の小さ...
瓦屋根、眩しい春嵐吹く昼下がり僕の心はどこにある駐輪場に来る人たちはみんな急いでどこへ行く僕の心は急がない僕の心はここにありここにあるほかどこにもない僕の心は動かないここにあって急がない瓦屋根、眩しい僕は立っている昼下がりの駐輪場先ほどから交差点の向こうのマンションで外装工事のための足場を掛け...
浮舟幻想あさぼらけぬばたまの夢に目覚めきぬぎぬの彼方に歌う柴舟の姫君あらわれる青黒きそら上弦の月のひっそりとあさまだきかがやいてさねさしのさがむ野のあかねさすむらさき野火はさかり燃えあがる冬の明け方愛しき浮舟 ...
春風とチューリップ 真っ赤なチューリップが今年も咲いたね同じ地面に同じ顔で 咲き初めのチューリップを春風がなぎ倒す倒されても倒されても立ち上がってまた倒されてまた立ち上がって金赤の花びらを天空に震わせている 真っ赤なチューリ...
春風自転車が倒れる倒れる倒れる小気味いい春風米兵は半袖だ爽やかな春風吹き飛ばせ冬の垢半袖だ半袖だキャンプの恋人たちは半袖だ春風が吹き荒れる倒れる倒れる倒される自転車が春風に倒される気持ちいい春風半袖だ半袖だ米兵は半袖だ青空に羊雲恋人たちは半袖だ...
駐輪場の日曜日立春を過ぎてぐんとあたたかな朝です尾黒鶺鴒の尾が何気なくすっきりし下弦の月がどことなく黄味を増し指先がちぢかみませんし耳あても要らなくなりました9時ともなればどこからとなくみしみしと陽を浴びた布団の声が聞こえます先ほどから私は入り口のスロープの陽だまりに時を忘れてボーっと立ったままです...
野蛮と紙一重で絡み合っている土俗的エネルギーの側に立ち、皇軍への復讐を命令する造り酒屋のおかみさんの思想が美しい
紅いコーリャン1987中国張芸謀(チャン・イーモウ)監督、莫言(モー・イェン)原作・脚本。鞏俐(コン・リー)、瞭汝駿(トン・ルーチュン)、姜文(チャン・ウェン)1920年代、中国・山東省での物語。数奇な運命をたどり、コーリャン酒造りに命をかけた曽祖父母の生涯を、孫の語り手が語る。日本軍の残虐さ...
革命初期~建国直前の内部矛盾が民衆の呼吸の内にとらえられていることを知るのである。
黄色い大地1984中国メモその1「1937年9月、蒋介石は、陝、甘、寧の共産党の辺境根拠地を承認。国共合作が成立した。しかし、陝西省北部では、国民党の古い体制が残存し、人々は苦しい生活にあえいでいた。そのころ、八路軍の文芸工作隊が来て、陝西民謡の源を探そうとした。この古(いにしえ)の大地には、いつ...
「阿Q」(魯迅)のその後、阿Qの甦りとしての「ボンクラの秦」を、この作品に感じないわけにはいかない。
芙蓉鎮中国1987年監督:謝晋( シェ・チン)、原作:古華 、脚色:阿城(アー・チョン)・ 謝晋( シェ・チン)、撮影:慮俊福、作曲:葛炎、美術:金綺芬、編集:周鼎文( チョウ・ティンウェン)録音:朱偉剛 、キャスト:劉暁慶(リュウ・シャオチン)=胡玉音(フー・ユイイン)、 姜文(チァン・ウェン...
古井戸1987年中国呉天明(ウ・ティエンミン)監督 キャスト:張芸謀 (チャン・イーモウ)=孫旺泉、粱玉瑾 (リャン・リュイチン)=趙巧英、牛星麗(ヌー・シンリー)=万山、呂麗萍 (リュイ・リーピン)=喜鳳呉天明(ウ・ティエンミン)監督作品「古井戸」が描く三角関係は、実は、正確に言えば四角関係で...
父母の恋の時代から、40年の歳月が流れたのである。ということは、文革の時代も、40年前のことだったのである。
初恋が来た道2000年中国・アメリカ監督: チャン・イーモウ、撮影: ホウ・ヨン、美術: ツァオ・ジュウピン、サウンド: ウー・ラーラー、編集: チャイ・ルー、音楽: サン・パオ、脚本: パオ・シー。出演:チャン・ツィイー「初恋が来た道」(チャン・イーモウ監督)は、文革(ぶんかく・文化革命)さな...
そんなことどもを思い出し、1950年ころの台湾と日本は、なんと似通っているのだろうか! と、懐かしさとともに親しみをも抱くのである。
童年往事台湾1985年侯孝賢監督メモその1 「童年往事」(1985年)は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の家族の思い出であり、亡き父母、祖母へのレクイエムであり、それらを通じた幼時の自己記録(自伝)である。冒頭、タイトル・ロールにかぶせて、長いナレーションがある。このナレーションが、この作品自...
切ないのは、失って初めてワンが知る魂であり、魂であると同時に肉である女ではなかったか。
恋恋風塵1987年台湾スタッフ 監督:侯孝賢、製作:徐国良、脚本: 呉念眞・ 朱天文、撮影:李屏賓、音楽:陳明章、美術:劉志華・ 林鉅、編集:廖慶松キャスト 王晶文:ワン・ジンウエン(ワン)辛樹芬:シン・シューフェン(ホン)李天祿:リー・ティエンルー(祖父)林陽:リン・ヤン(父)梅芳:メイ・フア...
戦争の後の美しい夕べ1997カンボジア・フランス監督:リティーヌ・パニュ、脚本:イブ・ドゥボワーズ、リティーヌ・パニュ、撮影:クリストフ・ポロック、音楽:マルク・マルデール。出演:チェアリア・チャン、ナリト・レウン翻訳:前田陽子、日本語字幕:嶋田美樹カンボジア映画「戦争の後の美しい夕べ」(リテ...
余命幾ばくもない主人公ジョンウォンのナレーションで進む物語が、監督の眼差しとシンクロし、両者がほぼ同一の視点になっていることからくる静けさである。
八月のクリスマス1998韓国監督ホ・ジノ、脚本オ・スンウク、シン・ドンファン、ホ・ジノ、製作チャ・スンジェ、撮影ユ・ソンギル、美術キム・ジンハン、音楽チョ・ソンウ。ハン・ソッキュ、シム・ウナ、シン・グ、イ・ハンウィ、オ・ジヘ、チョン・ミソン。韓国の映画「八月のクリスマス」(ホ・ジノ監督、1998...
ジネが犯した罪への深い思索の跡が、このシーンを貫いているのであるが、それはたとえば、ジネに「ワインを出されれば飲まないでいられないわ」と語らせている部分に暗示されている。
路・みち1982トルコ・スイス合作ユルマズ・ギュネイ脚本・監督、エルドーアン・エンギン撮影、セバスチャン・アルゴル、ケンダル音楽。タルック・アカン(セイット)、シェリフ・セゼル(ジネ)、ハリル・エルギュン(メメット)、メラル・オルホンソイ(エミネ)、ネジュメティン・チョパンオウル(オメール)、セム...
ゲリラに参加するオメールが、背広姿で馬を駆り、クルディスタンの原野を疾走するエンディングが、延々と続けられてきた暗闇のシーンから観客を解き放ち、かすかな希望を暗示する。
路・みち1982トルコ・スイス合作ユルマズ・ギュネイ脚本・監督、エルドーアン・エンギン撮影、セバスチャン・アルゴル、ケンダル音楽。タルック・アカン(セイット)、シェリフ・セゼル(ジネ)、ハリル・エルギュン(メメット)、メラル・オルホンソイ(エミネ)、ネジュメティン・チョパンオウル(オメール)、セム...
カンダハール2001イランモフセン・マフマルバフ監督■メモその1モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身...
絶望の淵に立つラマザーニが、聴く鳥の声こそ、神の声である。それは、罰する神である。
太陽は、僕の瞳1999イランマジッド・マジディ監督出演:ホセイン・マージゥーブ、モフセン・ラマザーニ不思議な声で鳴く鳥の、姿は、終始、見えない。啄木鳥(キツツキ)や郭公(かっこう)なら、山村に住む人なら聴き分けられるし、事実、アジズばあさんは、モハマドにキツツキが鳴くのを聴いて、それが、嘴(くち...
エスマイルの父、つまり、この母の夫の不在が、作品の底流にあって、母の苦悩を生んでいるのだ。
石油地帯の子たち2001 イランエブラヒム・フルゼシュ監督・脚本、ベヘザード・アリアバディヤン撮影、ベヘナーム・ザブヒ音楽。ミーラド・レザイ、アザル・ホスラヴィ、ナグメ・ケイシャムス、ミラド・シャーディ、アリレザーロ・ローレスターニ、モハマド・カンバリほか。イラン映画を見ていて、つくづく思い知ら...
日常些事の中によくある不運の一瞬を捉えたもので、他愛(たあい)ないけれど、ゾクゾクする映像としてしまう非凡さを感じさせる。
白い風船1995イランジャファール・バナヒ監督、アッバス・キアロスタミ脚本。アイーダ・モハマッド・カーニ(娘)、モーセン・カリフィ(兄)、フュレシュテ・サドル・オーファニ(母親)1995カンヌ映画祭新人監督賞(カメラドール)、CIAE芸術貢献賞、国際批評家連盟賞、1995東京国際映画祭ヤングシネ...
その日、お墓に行くとおばあさんがいて、僕は思いました。もし死ぬと知ってたら短い人生を大切に思い、僕を傷つけなかった。もし僕に優しくしてくれていたら、きっと彼女の家族は死なずにすんだろう。
オリーブの林をぬけて1994イランアッバス・キアロスタミ監督・脚本・編集・製作、ホセイン・ジャフアリアン撮影。モハマッド・アリ・ケシャヴァース、F・ケラドマンド、Z・シヴァ、ホセイン・レザイ、タヘレ・ラダニアン前作「そして人生はつづく」の1シーンを撮影する風景に、そのシーンに登場する青年が相手の...
ここに来るまで、何人もの家族兄弟を失ってなお、懸命に生きようとする少年少女や老人や青年男女との対話のプロセスを経てきた観客、そして映画の作り手には、希望が捕まえられているのである。
そして人生はつづく1992イランアッバス・キアロスタミ監督。渋滞する幹線道路を、父と子が行く。目指すは、コケル村。父は、前作「友だちのうちはどこ?」の監督、コケルはそのロケ地である。1990年、イランを襲った大地震で、コケル村も壊滅的被害を蒙(こうむ)った。映画に出演してもらった少年アハマッドや...
夜遅く、マハマッドは、夕飯を食べる気持ちになれない。ノートをネマツアデに届けられなかったことに、胸が痛むのである。
友だちのうちはどこ?1987イランアッバス・キアロスタミ監督。小学校の授業風景にはじまり、授業風景で終わる物語。ラストシーンの授業風景では、じわじわーっと感動のようなものが立ち上ってきて、いつまでもいつまでもその感動が反芻されるような作品だ。成長経済下のイランの山村コケル。隣村のボシュテは、山...
目を閉じてしまうのか? あの世から見に来たいほど、美しい世界なのに、あんたはあの世に行きたいのか。もう1度、泉の水を飲みたくはないかね?泉の水で顔を洗いたくないかね?
桜桃の味1997イランアッバス・キアロスタミ監督。自殺に関しての、長い長い映画である。昨年末、NHKの番組で長谷川肇久さんが、引き合いにしていたのを聞いて、見よう見ようと思っていたのを、ようやく見た。舞台は、テヘラン郊外の丘陵地。というより、主人公バディの運転する車の中が大半である。自殺を決意...
ロリータ1997年アメリカエイドリアン・ライン監督、ウラジミール・ナボコフ原作。ジェレミー・アイアンズ、ドミニク・スウェイン、メラニー・グリフィス、フランク・ランジェラ。1962年製作のスタンリー・キューブリック監督作品の日本公開は、いつだったのか。スー・リオンという名を鮮烈に覚えているのは、映...
ブルックリン最終出口1989西ドイツ&アメリカウリ・エデル監督、ヒューバート・セルビーJr原作、デズモンド・ナカノ脚本、ステファン・チャブスキー撮影。ジェニファー・ジェイソン・リー、スティーブン・ラング、バート・ヤング、ジェリー・オーバック、ピーター・ドブソン1953年のブルックリン。6カ月もの...
その一瞬、二人は目を合わせる。ボニーは、クライドは、何を、その一瞬、お互いの眼差しの中に見たであろうか。
俺たちに明日はない1967年アメリカ製作:ウォーレン・ベイテイ、監督:アーサー・ペン、脚本:デビッド・ニューマン、ロバート・ベントン、撮影:バーネット・ガフィ、音楽:チャールズ・ストラウス。出演:ウォーレン・ベイテイ、フェイ・ダナウェイ、ジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ、マイケル・J・ポラ...
映像であるゆえに、個人の心理の深みだけでなく、複数の心理関係が同時的にとらえられ、脚本も見事というほかになく、この関係を表現した
鳩の翼1997イギリスイアン・ソフトリー監督、ヘンリー・ジェームス原作、ホセイン・アミニ脚本、エド・シアーマー音楽。ヘレナ・ボナム・カーター、ライナス・ローチ、アリソン・エリオット、シャーロット・ランプリングヘンリー・ジェームスの原作がもつ心理描写、というより心理関係描写が、見事に、映像に生かさ...
ピアノ・レッスン1993オーストラリアジェーン・カンピオン監督・脚本、マイケル・ナイマン音楽。ホリー・ハンター、ハーベイ・カイテル、サム・ニール、アンナ・パキンジェーン・カンピオンは、後に「ある貴婦人の肖像」(1995)でもそうするように、ここでも主人公の女性に2人の対照的な男性を配置する。女を...
ある貴婦人の肖像1996イギリスジェーン・カンピオン監督、ヘンリー・ジェームス原作。ニコール・キッドマン、ジョン・マルコビッチ、バーバラ・ハーシー苦しみは深い。でも、いつか消える。今も薄れている。愛は残る。苦しみのわけがいつかわかる――臨終のベッドできれぎれに、ラルフがイザベルに語る。自分で選び...
こんな風に男が女を愛しても、女は穏やかな微笑(みしょう)を湛(たた)えているばかりである。
フランス軍中尉の女1981年イギリスカレル・ライス監督、ジョン・ファウルズ原作、ハロルド・ピンター脚本。メリル・ストリープ、ジェレミー・アイアンズ映像表現うんぬんではなく、メリル・ストリープという女優の不可思議な魅力に、映画の中のジェレミー・アイアンズと同じようにとりこになってしまった。こんな風...
アンナ・カレーニナ1997アメリカ&イギリスバーナード・ローズ監督・脚本、レオ・トルストイ原作、ダリン・オカダ撮影。ソフィー・マルソー、ショーン・ビーン、アルフレッド・モリーナ、ミア・カーシュナー、ジェームズ・フォックスアンナを自殺に追いやったものは何か。自殺までしなくてもよかったのではないか。...
嵐が丘1992イギリスピーター・コズミンスキー監督、エミリ・ブロンテ原作、アン・デブリン脚本、坂本龍一音楽。ジュリエット・ビノシュ、ラルフ・ファインズ、ジャネット・マクティア、サイモン・シェパード、ソフィ・ウォードヒースクリフの暴力はいつ終わりを告げるのか。いつまで続けられるのか。ヒースクリフが...
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今年もよろしくお願いします。...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy2 11月の初めの澄み渡った青空に忽然と現れた無数の金の珠がやっと赤黒いあんぽ柿みたいになったのは2023新年の初め ヒヨドリたちはいちはやくその変化を察知し誰よりも早く鈴なりの柿に飛びついた 結果、豆鉄砲を食らった鳩が脳天をやられ...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy1 冬のアテネの街で粗末な衣服に身を包んだ哲人が日向ぼっこを楽しんでいた その頃東京郊外のとある病院の柿の巨木に鵯ヒヨドリの小群れが集合した ヒヨドリたちはいつになく興奮しているのが自動車の激しく行き来する道から見て取れた 鈴なり...
新年の朝新年の朝はいいなあといつも思います塵もホコリも一つもなくて空は真っ青で深くて底なし生きていてよかったと毎年思いますアテネの街の路地に日向ぼっこするディオゲネスを身近に感じ毎年思い出しますアレクサンドロスに小春日の幸せを邪魔しないように注文したディオゲネスとぴったりシンクロします毎年毎...
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今年はブログに力を注ぎたく頑張ります。背伸びしないで、続けようと努力します。...
今年は、なんとかブログ再開に漕ぎつけようと頑張ります。...
「合地舜介の思い出シネマ館2」より再掲載■メモその1モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身、アフガンに入...
「合地舜介の思い出シネマ館2」より再掲載■メモその1モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身、アフガンに入...
(前回からつづく)昭和初期から昭和10年代の日本という地方(=くに)の空模様は暗雲にすっぽりと覆(おお)われていても夜ともなれば蛙は必ず鳴きその声が水面を走って暗雲に迫るのです。夜が来ればというのは条件を意味しているのではなく夜は毎日必ず訪れるものですから必ず毎日蛙は鳴くということです。蛙が鳴...
(前回からつづく)「くに」が湿潤(しつじゅん)に過ぎるといった時に湿潤は天候のことを述べているのでないことは明白です。日本海型気候とか瀬戸内型気候などでいう湿潤ではありません。ではどのようなことを湿潤と言っているかといえば何にも言っていません。どうぞ自由勝手に想像してくださいと言っているような...
(前回からつづく)第3、4連を読んでいてよし此の地方《くに》が、の地方をなぜ「くに」と読ませるのかくに(地方)が湿潤に過ぎる、とはどういう意味か疲れたる我等が心、の疲れたる我等とは誰のことか柱とは何の比喩か柱が乾く、とはどういう状態かなぜ、思われでなく、感《おも》われ、かなぜ、頭は重く、肩は凝る...
(前回からつづく)昭和8年に蛙(の声)を続けて歌った詩人は最後4作目のQu'est-ce que c'est? で蛙の声を聞く時は、何かを僕はおもい出す。何か、何かを、おもいだす。――と、まだ十分に歌い切っていないかのように何か、何かと言い残しました。4年後の昭和12年にまた蛙声をモチーフに...
(前回からつづく)「ノート翻訳詩」に書かれた「蛙声(郊外では)」(蛙等は月を見ない)(蛙等が、どんなに鳴こうと)(Qu'est-ce que c'est?)――は、みんな昭和8年(5月~8月)の制作と推定されていますから「在りし日の歌」の「蛙声」まで丸4年の歳月が流れたことになります。両者にどの...
(前回からつづく)ガマガエルとか青蛙とか痩せた蛙とか――。中原中也の「蛙声」には動物としてのカエルのイメージはまったくありません。それはなぜでしょう。◇ここで寄り道になるようですが「ノート翻訳詩」(昭和5~8年)に書かれた詩「蛙声(郊外では)」(蛙等は月を見ない)(蛙等が、どんなに鳴こうと)(...
「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」は昭和12年5月14日に作られ同年の「四季」7月号に発表されました。「四季」に発表されたとき末尾に制作日の記載があります。この頃、「在りし日の歌」の編集は急展開し詩集タイトルを「在りし日の歌」とすることやこの「蛙声」を最終詩とし「含羞(はじらい)」を詩集の冒頭詩と...
(前回からつづく)「春日狂想」は全行が口語会話体で書かれていますが2の末行、まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、話をさせたら、でもうんざりか?それでも心をポーツとさせる、まことに、人生、花嫁御寮。――に現われるやんちゃな口ぶりは詩人の地(じ)が露わになったようでテンポ正しい散歩が...
(前回からつづく)玩具の兵隊になったような毎日が日曜日のようなテンポ正しい散歩を続けている詩人はある時空に舞い上がるゴム風船を目撃しはかなさのようなものを感じ美しさを見ます。人生は短い一瞬の夢まるであのゴム風船のようだ美しいというほかに言いようがないものだ。愛児文也の死をも詩人はこのように受け...
(前回からつづく)鎌倉らしき街を散歩中の詩人は神社の日向(日陰)知人飴売り爺々鳩地面草木苔参詣人ゴム風船茶店馬車電車……など次々と目に触れてくるものの一つ一つが取り立てて新鮮なものでもなければ取り立ててつまらないものでもないどうといったこともないお天気の1日で参詣人がゾロゾロ歩いていても腹が立たな...
(前回からつづく)「春日狂想」のコロスの合唱を思わせる《まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。》――にある「まことに人生」という詩句は地の声の「まことに人生」に引き取られてまことに人生、花嫁御寮まことに、人生、花嫁御寮――と歌われる構造になっていることがわかってきます。2のこの後半部...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy2 11月の初めの澄み渡った青空に忽然と現れた無数の金の珠がやっと赤黒いあんぽ柿みたいになったのは2023新年の初め ヒヨドリたちはいちはやくその変化を察知し誰よりも早く鈴なりの柿に飛びついた 結果、豆鉄砲を食らった鳩が脳天をやられ...
恍惚の鵯 ヒヨドリin ecstacy1 冬のアテネの街で粗末な衣服に身を包んだ哲人が日向ぼっこを楽しんでいた その頃東京郊外のとある病院の柿の巨木に鵯ヒヨドリの小群れが集合した ヒヨドリたちはいつになく興奮しているのが自動車の激しく行き来する道から見て取れた 鈴なり...
新年の朝新年の朝はいいなあといつも思います塵もホコリも一つもなくて空は真っ青で深くて底なし生きていてよかったと毎年思いますアテネの街の路地に日向ぼっこするディオゲネスを身近に感じ毎年思い出しますアレクサンドロスに小春日の幸せを邪魔しないように注文したディオゲネスとぴったりシンクロします毎年毎...
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今年はブログに力を注ぎたく頑張ります。背伸びしないで、続けようと努力します。...
今年は、なんとかブログ再開に漕ぎつけようと頑張ります。...