寒いです。でもあと1週間で春です。確実に日差しの光量は増えています。今年は撮影にあまり出かけていませんがまあ、寒気の顔色をうかがいながら出かけたいと思っています。...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
寒いです。でもあと1週間で春です。確実に日差しの光量は増えています。今年は撮影にあまり出かけていませんがまあ、寒気の顔色をうかがいながら出かけたいと思っています。...
以前は憧れの写真家がたくさんいました。この人のような写真、撮りたいなあと目標にしました。でも、今、そのような人がいなくなってきています。まあ、自分は成れないというのが分かったこともあります。もっと早く気づけよ!です。その一方で、ガッカリすることも起こるようになりました。偉そうですが・・・。例えば、世界の森山大道です。森山さん、人気が出るにつれて「アレ?」でした。トイレの設計に参加したり、カレーのパ...
進歩というのは、実質的にはあるのだろうかと思います。良くなったところには目が行き喜んでいても必ずどこかで不都合が起こっているからです。写真もデジタルになったことを進歩と捉えることも出来ますがその反面、つまらなさも増した気がするのです。それを証明するのがフィルム人気ではないでしょうか。人は10歩進むと影は10歩下がるのだと思います。...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 5
記憶という、あいまいで、無責任で、独りよがりのものに人は振り回されているように思えます。なぜなら記憶は感情とセットですからありのままの記憶というのはないのではないでしょうか。その記憶を裏付けるものなんてもうこの世にはないのですから事実を証明することは出来ないんですね。唯一、写真はそう思われていますが写っているのはカメラの前にあった一瞬の平面画像です。撮った本人は記憶を再現してみることは出来るのです...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 7
いろいろ定義があるのですが「スナップ写真」とは「切羽詰まり写真」だと思っています。どこをボカすとか、どこにピントを合わせるか、構図は?とかアレコレ考える余裕がなく撮るのが「スナップ写真」です。実際は何かを考えているのですが感覚的には、サッサと撮ることだと思っています。...
写真の投稿だけです。...
言うまでもないことですが写真は視覚の表現です。今は視覚が過度に目立つようになりました。音楽にしろ、グルメにしろ視覚も重視されています。それでも、人間は五感の生き物であり視覚を支えているのは触覚だということを忘れたくないと思います。...
写真でポイントになるのは写らなかったコトやモノなんですね。正確には写せなかったコトやモノです。写ったコトやモノはそれほど取り上げることではないのかもしれません。あくまで写真というイメージなのですから。あくまで写真上の演出なのですから。...
写真で1カット、1カット、すべてが傑作でなくてもいいと思っています。サビばかり続く曲って、疲れますよね。...
写真の投稿だけです。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 5
写真の投稿だけです。...
不便さの中にも豊かさがあります。便利さの中にも貧しさがあります。写真を取り巻く諸々がそのことをよく分からせてくれていると思います。...
写真の面白いところは見せようとすると、相手には見えにくくなってしまい見せまいとすると相手に見透かされてしまうところです。伝えたいと工夫し過ぎると伝える内容よりも、ウケたいという本心が見え見えになってしまうように思います。「秘すれば花」とカッコつけてもその花は枯れていたり、造花だったりということはないでしょうか。...
エモさとノスタルジーは、よくいっしょに語られます。ノスタルジーは過去に結びつけられもう今の日常の中では取り戻せないという希少感がココロを揺さぶらせるのです。過去には時間という重みがあり進行形の今、現在は薄っぺらく感じさせます。デジタルがいくら威張ってもフィルムの持つ歴史の重さには叶いません。デジタルはどれだけ豪勢でも軽すぎるのです。...
「一を聞いて十を知る」という言葉があります。察しがいい人に対して使ったりしますよね。ところで写真です。一枚の写真から十を知ることは出来るのでしょうか。よく写真はストーリーだと言われるのは見た人が自分の見たいようにその人なりの九を加えて見ているのだと思います。一枚の写真にストーリーを読み取ろうとするのはほとんど無理だと考えたほうが写真は面白くなる気がします。ストーリーは動画のほうが合っているのではな...
写真にとってもタイトルは大切だと思っています。言葉の使い方ですね。ネットのニュースなどにもタイトルが付きますがけっこうオーバーな気がすることがよくあります。目立たないとダメなのはよく分かるのですが、写真にもオーバーなのがあるのでしょうか。...
無邪気な子供が撮ったから受け狙いの下心なしに撮ったからつまり邪心がない人が撮ったなら「いい写真」になるのでしょうか。そんなことはないと思います。「じゃしん」から濁りを取ったら「しゃしん」になるという駄洒落では「写真」は寒がるだけではないでしょうか。...
写真の世界はどんどん息苦しくなって行くと思います。写真の世界はどんどん落ち着かなくなって行くと思います。写真の世界はどんどん窮屈になって行くと思います。それから・・・写真の世界はどんどん清潔過ぎるになって行くと思います。写真の世界はどんどん乾燥して行くと思います。そして・・・写真の世界はどんどん静けさが充満して行くと思います。やがて・・・写真の世界はどんどん「人間」がいなくなって行くと思います。シ...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 4
デジタル技術は人を落ち着きのない生き物にした気がします。写真も撮影したらスグに確認したくなりますよね。そして気にいらないとアッサリ削除するのです。フィルム時代は現像の仕上がりを短くても4,50分は待つ余裕があったのですが。調べたいことも、AIに尋ねたらすぐに的確と思える答えが返ってきます。頼りない人に聞いたら「え、えっと~。」なんて時間が無駄に過ぎていきますから。写真も感想を言ってくれるんですね。そば...
コンデジになって日常的に写真を撮っている人が増えました。たしかにいつもカメラを持ち歩いているといい瞬間を撮り逃がすことがなくなりそうです。でもどうなのでしょう?私は持ち歩かないほうなので違うかもしれませんがむしろ持ち歩くほうが、スマホカメラを含めていい瞬間を見逃す確率が増えそうに思います。いつでも撮れるという油断がそうさせていないでしょうか。やはり、写真を撮るんだ!という意識が必要で常時持ち続ける...
環境に適応できなかったので滅んでいったのではなくそもそも環境に適応できるように出来ていなかったから滅んだのだと思います。フィルム写真が滅亡しないのは、あえてデジタル環境を必要とはせずそれが魅力だったからではないでしょうか。デジタル写真はデジタル環境がなくなれば滅亡しますがフィルム写真はデジタル以前から存在していたからデジタル環境に適応する必要はなかったので、しぶとく生きてゆくと思います。...
前向きにと言うけれどどっちの方角が前なのだろう。ポジティブにというけれどネガとポジの区別はどうするのだろう。前ばっかり見ていたらコケそうになると思う。ポジティブなだけではおめでたいだけだと思う。1月も終わるのだからニュートラルがいいのでは?と思う。思う、思う、思うでうっとうしいけれどうっとうしいのがこの世の中の天候のような気がする。ダサいのはUNOさんだけではないのだから。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 5
最近、「観る」という言いう方をよく見かけます。写真集や写真展にも「観る」が使われています。個人的には「見る」に馴染んでいるので、「観る」には違和感があります。「観る」は対象から距離を置いて、離れて「見る」感じがします。観劇、観戦、観賞、観光、観察・・・ですね。写真の場合は「見る」に統一したほうがいいように思います。写真はベッタリ見たいのです。...
写真は真実を写すと書きますが本当のところは真実は写せないのではないでしょうか。なぜなら真実とは何かが分からない以上写せるとしたら真実のようなものでしかないと思います。真実と信じたいモノやコトですね。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 1
「いい写真は誰でも撮れる」という言い方があります。ん?「いい人には誰でも成れる」みたいな感じがするのですが。結局「いい」とはどういうことか「誰」とは誰のことなのか、何も言っていない気がします。単に耳障りのいい言葉でしかないと思います。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 4
ハイコントラストだったり、露出がオーバーだったりで画面の四周が真っ白の写真があります。写真の外側も白いと境目が分かりません。見ていると、落ち着かなくなってくるのです。...
便利さに慣れたくないんですよね。便利さに甘えたくないんですよね。便利さに利用されたくないんですよね。ー無駄な抵抗はよせっ!!!便利さ、BAMZAI!!!!!便利さ、これからもよろしくお願いしますっ。...
時々、見かけるのですが私にも思い当たるところがあるんですね。それは「むげんのかうせい」です。写真関係でも「デジタル写真には無限の可能性がある」などと言われたりしています。もし、あの世があったとしたら訪問した時、私も思わず口走りそうです。「オレにも夢幻の可能性があったんや!」と。...
デジタルにほぼ入れ替わるころフィルムは要らなくなるだろうのようなことを専門の人が言っていたと思います。でもそうではなかったですよね。それなりの人気を保っているのではないでしょうか。予想というのはなかなか当たらないもののようです。よそうはよそうといったところでしょうか。...
用事&撮影しに出かけました。街は温かく気温は暖かかったです。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 3
カメラは人間の目の不確からしさを確認するための装置だと思うことがあります。人間の目はじつは何にも見ていないのではないでしょうか。「わあ、キレイ!」と言いながら目の前の花ではなく、自分を見ているのだと思います。自分の足もとの草を踏みつけながら。...
投稿カットは10月の撮影ですが昨日、今年初めての本格的、と言う大げさなものではなく街へ出かけての撮影をしました。もっと早く行きたかったのですが危険な寒さが襲っていたので、やっとこさだったのです。まあ、相変らずミナミはバウンドしていてにぎやかだったです。カメラの設定を微妙に違えていて「なんでやねん!」と相変らず、今年も引き続きオロオロしたのでした。...
撮影してきました。...
県外の写真家さんが大阪に来て写真を撮っている動画を見ました。いやあ、元気ですね。歩数は半端でないみたいです。ただちょっと気になることが・・・。せっかく大阪に来たのに望遠でupの写真を多く撮っているんですね。「それなら、そちらの県にもあるのでは?」県外の人が大阪をどう撮るのか見たいのですが大阪に来て撮ること自体に意味を感じているのでしょうか。...
自分の知っている場所がテレビで映されたりします。途端に、全然違う場所に見えて来ることがあります。特別な場所に見えて来るんですね。フレームというのは怖いなあと思います。...
フィルム写真は出来ればプリントして見たいです。それも、ネガをデジタルスキャンしてのプリントではなくラボでのプリントがベストだと思います。ただ、今の時代には厳しいかもしれません。価格など最近のことは、ほぼ分からないのですがそう度々直でプリントすることはしんどいでしょうね。ところでフィルムで撮ってネットに上げるにはデジタルのお世話になるのですがそれはフィルム写真と言っていいのかそれともデジタル写真とい...
「コウカイ」したことを「コウカイ」しないように「コウカイ」と思うカットを「コウカイ」するようにしているのですが「コウカイ」したあとに「コウカイ」ばかりしています。「コウカイ」を続ける、写真という名の海原の上で。...
「顔に責任を持て」という言葉があります。顔はその人そのものだからなんですね。顔は全体で顔です。目は口ほどにものを言うにしても、口も必要なのです。顔の半分以上が覆われたら、その人はどこかに行ってしまったように感じます。感情のなくなったロボットみたいというのはその人に失礼なのでしょうか。世界は無感情に向かっているのかもしれません。...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 3
駄目ってつまらない目と書きますよね。目につまらないや、つまるのがあるのも面白いです。「駄」を分解すると「太った馬」です。「太った馬」というのは秋専門と思っていたのですが写真の世界には年中、「太った馬」がいるのでしょうか。「太った馬」を見分ける目を持ちたいと思う、真冬です。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 2
機種自慢、受賞自慢などはせずに、ただ静かなたたずまいで自分には撮れない、出来ないと思わせられる写真家。「あなたにはこんな写真は撮れないでしょ」とエラソーにではなく、ジンワリと突きつけてくる写真家。でも、自分はダメだと卑下させるのではなくだからこそ、自分は写真をやりたいんだと思わせる写真家。それが「いい写真家」だと思う。...
ある日、「マウント」という言葉を目にした時「えっ?レンズの話?」と思いました。ニコ○・マウントやキャ○ノン・マウントなどを連想したんですね。新しい流行り言葉はたいていカタカナの横文字なので昭和に読み書きを習ったカメ爺は戸惑います。「マウント取るやつはけしからん!」と上の方からマウントしていたりします。山はてっぺん以外は、上と下は相対的ですから上には上が、下には下が続きます。それに、とがったてっぺんだ...
カメラ、ずいぶん高くなりましたね。「天高く馬肥ゆる秋」のあとに訪れた「円安く人痩せる冬」です。このようなカタチでのダイエットは好ましくないです。元気を無くすダイエットは写真家から必要な水分まで奪って行きます。写真に必要なのは湿気ではないでしょうか。デジタルは乾き過ぎだと思います。...
記憶と感情はセットなので撮影時の感情が写っていると思ってしまうんですね。それで「いい写真」が撮れるかどうかは記憶と感情を切り離せるかにかかっていると思います。ただ、言うは易く・・・です。それにもう一つのカンジョウ、損得勘定が絡んでくるのでタイヘンです。それに、それに小人欲求、いいえ、大人になっても承認欲求もあるのです。でも、健全な、と言っては変ですがココロの健康維持には適度の承認欲求を満たすことも...
カメラマンと写真家との違い。写真をコントロールしようとするのがカメラマン。写真にコントロールされるのを受け入れるのが写真家。...
新鮮さと奇抜さとは違うと思います。新しさは古さの「上書き保存」なんですね。新しさには古さのバックアップがあるのです。単なる奇抜さはプカプカ浮いて目立つとしても根っこがないので短命に終わると思います。デジタル写真が、もちろんすべてが奇抜ではないのですがフィルム写真のような制約、不自由さがないと写真ではなくデジタル画像、言ってみればデザイン的なイラスト画像になる気がします。...
目は5つより2つのほうがよかったのではと思います。5つもあると視線を合わせるのに苦労します。上の2つに合わせればいいのでしょうが下からも見上げられていそうで落ち着きません。カメラもレンズの目が5つもあったらカメラ目線をどれにしたらいいのか迷いそうです。...
今年も52分の1週間が終わろうとしています。時間は実在せず記憶の中にだけあるのでしょうか。写真は記憶という、時間を強烈に感じさせるメディアです。写真は去ったものたちへの鎮魂歌の代理人なのです。写真には未来はなく過去だけが花咲く住処なのです。...
頭を怪我しました。ケガナイのにケガガアルのです。写真も思いが写っていないのに写っているように感じさせるところがあります。思いが写るというより映っているように感じるんですね。思いが鏡のように反映されているのですがそれは撮った人にしか見えにくいのが普通です。自分には髪の毛があると思いたくても相手の人には反射がまぶしいのが現実ではないでしょうか。...
写真でポイントになるのは視覚ではなくて触覚だと思っています。肌ざわり、皮膚感覚、キモイ・エモイ・・・デジタル画像はスベスベ、ツルツルしているのでそのあたりが欠点、弱みのように思います。視覚より触覚のほうが当てにできる気がします。デジタル画像が鮮明になるほど、ウソっぽくなって行くように感じるのは時代錯誤かもしれませんが。...
写真はよく料理に例えられます。どちらも「うまい」が共通語だからです。ただデジタルの時代になって、少し違うところが出てきました。料理は「うまい!上手だね」と単純に褒めてもらえますが写真は「うまい?それで?」と当たり前のような反応しか帰って来なくなりました。温かいお節料理の時期なのに暖かいお世辞すら言ってもらえなくなった写真は寒さに震えるしかないのでしょうか。...
大みそかの夕方と、元日の朝に撮影してきました。元旦はまだ暗いうちから出かけました。よく起きられたなあと思います。思い切りゴーストの入った写真も撮りました。普段の撮影は太陽を入れないようにしているのですが、「年末年始くらいはええやろ」と自分でも意味不明のことを言ってシャッターを切りました。素晴らしい(!)ゴーストのカットが撮れました。今年は「ゴースト・フォトグラファー」を名乗ろうかななどと思いました...
新年、おめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いします。...
ご訪問、ありがとうございます。来年も当ブログをよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。...
年齢的、体調的には難しいのですが時々「東京に行きてぇ~っ!」なんて思ったりします。東京にいたのはもうずいぶん昔のことで、記憶もかなりあいまいになって来ました。あのころの東京はもうとっくに行方不明になっているのは分かっているのですが・・・。東京で思い出しました。写真集で見た、緑川洋一さんのような日本の綺麗な風景を撮れるようになりたい・・・そんな思いで写真を始めたことを。カメラのことはまったく詳しくな...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 2
デジカメでモノクロ専用の機種が出るとは思いませんでした。カラーが当たり前の時代ですから。モノクロは難しいですから挑戦し甲斐があるからでしょうか。カラーと並走してやるのは少し混乱する気がするのでモノクロだけの撮影と割り切って撮るのがいいのだと思います。...
動画対応 Vlog用カメラというのがあるんですね。街歩きの動画はそのようなカメラで撮っているそうです。カメラがメチャクチャ小さいので目立ちません。それですれ違う人もほとんど意識していないように映っています。カメラの大きさによって、意識のされ方が違ってくるのですね。カメラの存在感、街なかで撮ること、いろいろ考えさせられるのでした。...
「写真」や「カメラ」が人気なのでしょうか?フィルムカメラやトイカメラが話題になります。ただ、それらで撮られるのが「私の周囲3の半径メートル以内」のように思うのです。料理などの写真の投稿をよく見かけるのですが以前は自分が飲食したメニューを「これ、食べたよ」と赤の他人に見せる気にはなりませんでした。3メートルも離れている人のメニューなんて誰も興味ないですから。でも今は、知らない人にも「これ見て!」と躊躇...
SNSを見ていたらAIで自分の撮った写真を批評してもらっている記事がありました。読んでみるとまるでベテランの人の感想みたいでビックリしました。そんな時代なんですね。でも、批評というものは具体的な人が行うものと思い込んでいるカメ爺なので、違和感いっぱいなのでした。的確過ぎるのです。独断と偏見がありません。やる気を出させる、持ち上げるだけが批評ではないのです。「その人」という肉体を持っているゆえの口臭や体...
ネガティブという言葉は辞書的には「否定の、反対の、否定的な、消極的な、悲観的な」という意味ですよね。例えばネガティブ思考⇒暗くてよくないと考えられています。でもそれは、とても短絡的で決めつけた捉え方ではないでしょうか。ネガとは陰であり、日の当たらない見えないところのことであって、暗いという意味にストレートに結びつけなくてもいいと思うのです。よくないことと決めつけるのは少し違うのではないでしょうか。...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 3
写真撮影には練習はないと思っています。いつだって本番なのです。試し撮りのつもりで撮ったカットが傑作だったりします。本番だといって気合いの入ったカットが駄作だったりします。かと言って本番を意識すると緊張しますよね。でも緊張したほうが練習だと思って気楽に臨むよりはましなのです。その緊張を上手く撮ろうとする自分に向けるのではなく被写体をよく見ることに向ければいいのですが・・・。理想はリラックスした集中だ...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 2
縦に長いものを縦位置で撮るのはマジメ過ぎると思います。たまには横位置で撮ってもいいのではないでしょうか。説明用なら出来るだけ分かりやすく撮る必要がありますが遊び心ならどんな撮り方をしても、被写体も喜んでくれると思います。...
写真画像とデジタル画像は区別したほうがいいと思っています。簡単な区別としてフィルム写真で撮影したのと極力類似したデジタル画像は写真と言っていいと思います。被写体にあったものは写っているということですね。被写体になかったものは写っていないということですね。また、誰が撮ったかが分かっていることが基本です。撮影者不詳でも人の手の介入があったかどうかです。デジタル画像の写真まがい画像はできれば写真とは呼ば...
カメラ雑誌「フォトコン」に写真家の立木義浩さんが選・評を担当してる「モノクロ作品招待席」というコーナーがあります。ネットの電子書籍で見ていることもあるのかもしれませんが今月号(1月号)で少し気になったことがあります。選ばれた作品のほとんどが黒っぽいんですね。何度か書いてきましたが、最近の傾向なのでしょうか。モニターで見ているからでしょうか。紙上だともう少しディテールが出ているとしても少しツブレてい...
写真の投稿だけです。...
写真撮影には練習はありません。いつだって本番なのです。試し撮りが傑作を生んだりするのですから。気合いの入ったカットが駄作だったりするのですから。ただ、本番だといって緊張しないことも大切ですでも、緊張したほうが練習と思って、だらけるよりはましなのです。...
(昨日の記事を少し編集し直して投稿します)写真撮影では要らないものは画面外へ、どかしましょうと言われます。画面外に出来ないなら、ボカしましょうとも言われます。その言い方って、そこにあるものに対してはけっこう失礼な言い方、不躾な言い方にも聞こえませんか。不要とか、邪魔とか言われても、あるべくしてそこにあるのですから、いるべくしてそこにいるのですから。居たくているわけでもありません。何らかの理由でそこに...
写真撮影では要らないものは画面外へ、どかしましょうと言われます。画面外に出来ないなら、ボカしましょうとも言われます。その言い方って、そこにあるものに対してはけっこう失礼な言い方にも聞こえます。不要とか、邪魔とか言われてもそこにあるのですからあるべくしてそこにいるのですから。でも、今はテレビの画面で街なかにいる人にボカシが入る時代です。その番組ではボカした人は要らないのです。画面の外へどいてもらうわ...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 1
「 カメラは、撮る人を写している」という言葉があります。そうなんです。その写真には、その写真を撮った人しか写っていないのです。被写体は写っていないのです。ーえっ?写っているじゃん!いいえ、見る人には、写っている「ように」見えているだけです。撮った人には、自分の「思い」が見えているだけです。なにしろ「写」す時、思いを「それ(体)」に「被」せたのですから。「私の思い」「私の価値観」「私の好き」というベ...
真実という言葉があります。写真という文字にも真実を写すと書かれています。あの(どの?)少年は「真実はひとつ」と言っています。ところで写真ではストーリー性みたいなことが重宝がられています。それは、撮った人、見た人のストーリーのことです。だとすると年甲斐もなく、あの(どの?)少年に反論したくなるのです。写真は「見る人、見た人の数だけ真実はあるのでは」と。真実とはその人が、その人たちが見たいストーリーの...
輝く、未来、明日、青空、思い、希望、夢、涙、前へ、楽しい、幸せ、ポジティブ・・・歌の番組での字幕でよく目にする言葉です。マナーがよくないのですが、目が欠伸をしています。...
コミュニケーションで必要なこと⇒まず相手をよく知ることと言われていますよね。⇒写真もコミュニケーションについてよく触れられます。⇒そのためには見てほしい相手をよく観察し⇒相手の見たいものを知ること、だと。⇒その上で相手に合わせて分かりやすく撮りましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく仕上げましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく説明しましょう、と。⇒でも、気になることが・・・⇒相手に合わせるっ...
私は読んでいないのですが「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という本で森山(大道)さんは次のようにおっしゃっているそうです。「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」(森山大道「過去はいつも新しく、未来はつねに懐か...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 1
写真というのはどうでもいいことを撮るほうが面白くなると思っています。「価値!価値!価値!」とカチカチの息苦しい世界から離れて無価値を楽しむというのでしょうか。美しい被写体そのものには写真ではかないません。綺麗な景色は全身で味わうものだと思います。大切なその人は、どうしても写真でしか会えない時以外は本人がそばにいてくれるに越したことはありません。逆に日常を写真に撮ると「非日常感」が出てくることで美化...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 1
SNSで投稿されている写真にはよく、カメラやレンズ名が併記されていますよね。でも、自分は写真の趣味がない人の知りたいのはいつ・どこで撮ったかではないでしょうか。それほど詳しくなくてもいいので「2024年12月、東京・新宿」もしくは「2024年、東京」くらいの明記があるといいなあと思います。...
世の中、ドンドン幼児化して行っているように感じています。写真でいえば、要らないもの、邪魔なものって今は簡単に消せますよね。まあ、嫌だから消しちゃえっということでしょうか。写真に写っているものを消したり、欲しいものを付け加えたり・・・それって、写真?と思うのです。それは写真というより、写真を使った別のもののような気がしますがそう思うのは、もう古い感覚なんでしょう。「そこのおっちゃん、ジャマ、ジャマ、...
あっ、軽い写真は明るい写真に成れるのでしょうか。...
写真を撮影した日は写真脳というのでしょうか、それが一種の興奮状態のように感じています。写真脳というものが医学的にあるかどうかは分かりませんがそのせいで、帰宅してチェックしていると撮った写真の中に傑作があるかも、のように見えたりするものです。当日を過ぎても数日くらいはその興奮状態が続きます。それで、写真選びは1週間以上くらい経ってから行うようにしたほうがいいと思っています。だけど、人によって違うと思...
他に言葉が見つからないので「いい写真」という言い方をしています。でも、とてもあいまいな言葉だと思っています。「いい」なんてコロコロ変わるのですから。ただ「良い写真」という言い方には慣れません。良い⇒悪いを連想するからでしょうか。「悪い写真」って何だろうと思うのです。「悪い写真」の中にも「いい写真」があるように思います。「良い写真」の中にも「つまらない写真」があるように思います。...
こらからもエモイ写真って流行っていくのでしょうね。私「あのう、私の写真、見てくれませんか?」行きずりの人「あっ、どんな写真を撮っているんですか?」私「説明しにくいのですが、あえて言えば絶〇写真です」行きずりの人「ほおーっ、では見せてくれますか」私「はい、お願いします」行きずりの人「どれ?どれ?ぎゃあっ!な、何ですか、この写真!」私「絶叫写真ですが・・・。まだ、たくさんありますよ」行きずりの人「えっ...
もう何十年も前のことです。ある人の写真展を見に行きました。「こ、こんなにきれいなプリント、どうしたら出来るねん!」。その人のモノクロプリントの作品を見た時、自分には、こんな綺麗なプリントは作れないと思いました。ショックは受けたのですが、もっと違った写真の楽しみ方を探すことにしました。まあ、正直言うとそのころには写真は絵画とは違うし工芸品でもないので、作品を目指さなくてもいいと思い始めてもいたのでい...
見たものを撮ればいいと写真を楽しんでいる人と映え狙いで写真を楽しんでいる人とカメラ沼に入って写真を楽しんでいる人と。一見、共通点がないみたいですが・・・。でも、あるのではと思ったりするのです。興味の中心、関心の中心にあるのは自分、つまり「私」なのではないでしょうか。写真は目的ではなくて手段なのです。「見たものを撮る」のは「私の好き」を見つけるため。「映えを狙う」のは「私の輝き」をみんなに受け入れて...
SNSやカメラ雑誌などを見ているとストリートスナップ=人を撮るものと思われているようですね。ファッション・ポートレート撮影などにもストリートスナップという言葉が使われています。街なかで撮影しているからでしょうか。ただ、私は必ず人が写っていないとストリートスナップではないとは思っていないません。人が写っていなくてもストリートスナップはあるんですね。ただ、落ちているゴミを撮ったり、壊れて捨てられたビニー...
人間のカラダの目は外を見るようにできています。人間のココロの目も外を見るようにできればよかったのです。でも、人間のココロの目は内を見るほうが圧倒的に多いです。そのため2つの目を分裂させてしまいました。そして外のアレと内のコレを見比べてばかりでいます。「勝負・好悪・正誤・善悪・美醜」などを秤にかけて判定に大忙しです。それはとても疲れることなのですが、回復する間もなくこう言うのです。 「なにか、面白い...
私は読んでいないのですが「過去はいつも新しく、未来は常に懐かしい」という本で森山(大道)さんは次のようにおっしゃっているそうです。「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」とても文学的な文章で、意味深い感じがします。「過去...
人間の目には視野があります。人間は首や体を動かして、ぐるっと見渡すことが出来るので全体が見えているように思ってしまいます。でも実際は、視野というフレームの中の部分的なものを記憶して、それらをつなぎあ合わせて全体として脳の中で作り直しているんですね。写真を撮る時にはファインダー、あるいは液晶のモニター画面を見るわけですがそれもフレームです。人間のボンヤリした視野と違って、四角くてハッキリしています。...
「いいモノが売れるのではない。売れるものがいいモノなのだ」そのようなことを、大企業の経営者(?)の人が言っていたそうです。そんな話をだいぶ前ですが人から聞いた時、「なるほど、写真もそうかも」と思いました。「いい写真が人気になるのではない。人気になるのがいい写真なのだ」そのように言い換えれるような気がしたのです。SNSはそれを端的に反映しているのではないでしょうか。ただ、「人気」とは「人の気持ち」と書...
ヘルシーということに気を配るのはいいことですがヘルシーの食べ過ぎは反ヘルシーだとも思うのです。そのヘルシーで思い出しました。まあ写真するとは歩くことだと思っています。歩くことはヘルシーですよね。ところで今年も終わりが近づいてきました。それで凝り気味の首を振り返ってチェックしてみました。今年は自分比で撮影した日数の最多を更新していたのです。聖者の行進ならよかったのだけれど正邪の行進みたいやなと意味不...
写真の投稿だけです。...
SNSなどを見るとストリートスナップ =人を撮るものと思われているようですね。でも、必ず人が写っていないとストリートスナップではないとは思っていません。人が写っていなくてもストリートスナップはあるんですね。ただ、落ちているゴミを撮ったり、壊れて捨てられたビニール傘を撮ったり、道端の花や植木を撮ったり・・・そんなんこともストリートスナップかどうか悩ましいです。ゴミは時代を反映していると言われればそうな...
SNSを見ていると「写真を観る」と書かれていたりすることがあります。写真の場合、「みる」は主に「見る」か「観る」のどちらかですよね。その「見る」のほうは漠然と視線を向けることも含みますが、「観る」だとかなり意識的な視線になるように思います。それで写真の場合ですが、最初は「見る」で、「おっ!」と思うところから「観る」が始まるのだと思うのです。「観る」はかなり意識的で主体的、能動的な行為だとしたら、その...
イルミネーション、ライトアップが話題になる季節がやってきました。光るもの、あるいは光を当てたものは視覚に対して強烈にアピールしてきます。「でんき」は「げんき」に通じると言えば言葉遊びになりますが、写真を撮る時の光との接し方はけっこう微妙なところがあると思います。ピーカンの日本晴れの時のようなキツイ光線は作品をドラマチックに見せますが、写真そのもの、被写体そのものの強さかどうか判断しにくいこともあり...
写真の投稿だけです。...
意味があるから写真を撮るのではなく、意味はないけど写真を撮るのです。意味なんて後でいくらでも見つけて作り出せばいいのですから。人間には意味がなければ何もやる気がしない、起こらないという「意味必要病」みたいなものがあります。それから回復するには写真はピッタリの良薬です。写真を撮る意味が見つかるまで待つことはありません。時間と体力と費用があれば写真を撮りに出かけられます。写真を撮ることにはスランプはあ...
「ディスる」という言葉を目にした時、「えっ、いったい何のこと?」と思いました。みんな、外来語が好きなんですね。そして今、ディスることをディスっていたりします。「自分の好きなカメラのことを書くことをディスるなんて最低!」などと言ったりしてディスっているのではないでしょうか。ディス イズ ア ペン・・・ア ハッハで済ませてもいいような気もしますが・・・。「なに、しょうむないこと言ってんねん!」思わず自分で...
ほぼ1年ぶりの奈良公園です。ここに限らず公園でのスナップ撮影は街なかとは違った難しさがあります。空や地面を画面にどう入れるか悩むのです。空を入れすぎると情緒的になるし地面に影を入れるときつい感じになってしまうからです。あと草や木の扱いも気になります。画面に占める緑の部分をどうするかなんですね。まあ、実際は適当に撮っています。適当というか、「それほど悩んで撮っていないよな」というのがホントのところの...
昨日はまあまあの気温でしたが一気に寒くなりました。11月も半ば過ぎだから遅いくらいですね。昨日もテレビでやっていましたが日本は四季から二季になってしまうのでしょうか。ところで夏と冬ではどちらがたくさん趣味としての、作品としての写真が撮られるのでしょうか。...
人間は記憶で出来ていると言います。すなわち、「私」とは「記憶」なんですね。記憶を無くすことは私でなくなることの恐怖です。以前と比べるとミナミに来る回数が少し増えたのですが来るたびに、前回にいったい何を見ていたのかということがよくあるんですね。「アレ?こんなの、あった?」結局、「私はここを見た」気になっていただけなのです。断片の記憶、不確かな記憶、記憶と呼べない記憶・・・。写真も記憶のために撮ると言...
「カメラは何でもいい」と「カメラは何でもよくない」と言葉にすると相反することが両立するのが写真の面白いところだと思います。もちろん、どちらにも前提条件があります。作品の評価については「カメラは何でもいい」と言えます。カメラの価格と作品の価値は別なのですから。最初のカメラ選びは限定しないで「カメラは何でもいい」だと思います。懐事情の許容範囲で自分のお気に入りを決めるのが写真の楽しみですから。そして、...
SNSを見ていると「写真を観る」と書かれていたりすることがあります。「見る」は漠然と視線を向けることも含みますが「観る」はかなり意識的な視線になると思います。それで写真の場合ですが、最初は「見る」で「おっ!」と思うところから「観る」が始まるのだと思います。それでふつうは「写真を見る」でいいと思います。「観」は漢字を書く時に画数が多くなり間違えそうですし。...
ある意味、あらゆるジャンルで写真は撮りつくされたのではないでしょうか。勉強不足で断言はできませんが、見たこともない写真はもうどこにもないではないでしょうか。新しい写真表現が模索され発表されていますが、一般的な写真表現に関してはそう思うのです。風景、ポートレート、スナップ、花、ペット・・・。もしそうだとすると、どこかで見たことのある写真、誰かが撮っていたような写真でもいいのではないかなと思えて来ます...
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寒いです。でもあと1週間で春です。確実に日差しの光量は増えています。今年は撮影にあまり出かけていませんがまあ、寒気の顔色をうかがいながら出かけたいと思っています。...
以前は憧れの写真家がたくさんいました。この人のような写真、撮りたいなあと目標にしました。でも、今、そのような人がいなくなってきています。まあ、自分は成れないというのが分かったこともあります。もっと早く気づけよ!です。その一方で、ガッカリすることも起こるようになりました。偉そうですが・・・。例えば、世界の森山大道です。森山さん、人気が出るにつれて「アレ?」でした。トイレの設計に参加したり、カレーのパ...
進歩というのは、実質的にはあるのだろうかと思います。良くなったところには目が行き喜んでいても必ずどこかで不都合が起こっているからです。写真もデジタルになったことを進歩と捉えることも出来ますがその反面、つまらなさも増した気がするのです。それを証明するのがフィルム人気ではないでしょうか。人は10歩進むと影は10歩下がるのだと思います。...
記憶という、あいまいで、無責任で、独りよがりのものに人は振り回されているように思えます。なぜなら記憶は感情とセットですからありのままの記憶というのはないのではないでしょうか。その記憶を裏付けるものなんてもうこの世にはないのですから事実を証明することは出来ないんですね。唯一、写真はそう思われていますが写っているのはカメラの前にあった一瞬の平面画像です。撮った本人は記憶を再現してみることは出来るのです...
いろいろ定義があるのですが「スナップ写真」とは「切羽詰まり写真」だと思っています。どこをボカすとか、どこにピントを合わせるか、構図は?とかアレコレ考える余裕がなく撮るのが「スナップ写真」です。実際は何かを考えているのですが感覚的には、サッサと撮ることだと思っています。...
写真の投稿だけです。...
言うまでもないことですが写真は視覚の表現です。今は視覚が過度に目立つようになりました。音楽にしろ、グルメにしろ視覚も重視されています。それでも、人間は五感の生き物であり視覚を支えているのは触覚だということを忘れたくないと思います。...
写真でポイントになるのは写らなかったコトやモノなんですね。正確には写せなかったコトやモノです。写ったコトやモノはそれほど取り上げることではないのかもしれません。あくまで写真というイメージなのですから。あくまで写真上の演出なのですから。...
写真で1カット、1カット、すべてが傑作でなくてもいいと思っています。サビばかり続く曲って、疲れますよね。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
不便さの中にも豊かさがあります。便利さの中にも貧しさがあります。写真を取り巻く諸々がそのことをよく分からせてくれていると思います。...
写真の面白いところは見せようとすると、相手には見えにくくなってしまい見せまいとすると相手に見透かされてしまうところです。伝えたいと工夫し過ぎると伝える内容よりも、ウケたいという本心が見え見えになってしまうように思います。「秘すれば花」とカッコつけてもその花は枯れていたり、造花だったりということはないでしょうか。...
エモさとノスタルジーは、よくいっしょに語られます。ノスタルジーは過去に結びつけられもう今の日常の中では取り戻せないという希少感がココロを揺さぶらせるのです。過去には時間という重みがあり進行形の今、現在は薄っぺらく感じさせます。デジタルがいくら威張ってもフィルムの持つ歴史の重さには叶いません。デジタルはどれだけ豪勢でも軽すぎるのです。...
「一を聞いて十を知る」という言葉があります。察しがいい人に対して使ったりしますよね。ところで写真です。一枚の写真から十を知ることは出来るのでしょうか。よく写真はストーリーだと言われるのは見た人が自分の見たいようにその人なりの九を加えて見ているのだと思います。一枚の写真にストーリーを読み取ろうとするのはほとんど無理だと考えたほうが写真は面白くなる気がします。ストーリーは動画のほうが合っているのではな...
写真にとってもタイトルは大切だと思っています。言葉の使い方ですね。ネットのニュースなどにもタイトルが付きますがけっこうオーバーな気がすることがよくあります。目立たないとダメなのはよく分かるのですが、写真にもオーバーなのがあるのでしょうか。...
無邪気な子供が撮ったから受け狙いの下心なしに撮ったからつまり邪心がない人が撮ったなら「いい写真」になるのでしょうか。そんなことはないと思います。「じゃしん」から濁りを取ったら「しゃしん」になるという駄洒落では「写真」は寒がるだけではないでしょうか。...
写真の世界はどんどん息苦しくなって行くと思います。写真の世界はどんどん落ち着かなくなって行くと思います。写真の世界はどんどん窮屈になって行くと思います。それから・・・写真の世界はどんどん清潔過ぎるになって行くと思います。写真の世界はどんどん乾燥して行くと思います。そして・・・写真の世界はどんどん静けさが充満して行くと思います。やがて・・・写真の世界はどんどん「人間」がいなくなって行くと思います。シ...
デジタル技術は人を落ち着きのない生き物にした気がします。写真も撮影したらスグに確認したくなりますよね。そして気にいらないとアッサリ削除するのです。フィルム時代は現像の仕上がりを短くても4,50分は待つ余裕があったのですが。調べたいことも、AIに尋ねたらすぐに的確と思える答えが返ってきます。頼りない人に聞いたら「え、えっと~。」なんて時間が無駄に過ぎていきますから。写真も感想を言ってくれるんですね。そば...
コンデジになって日常的に写真を撮っている人が増えました。たしかにいつもカメラを持ち歩いているといい瞬間を撮り逃がすことがなくなりそうです。でもどうなのでしょう?私は持ち歩かないほうなので違うかもしれませんがむしろ持ち歩くほうが、スマホカメラを含めていい瞬間を見逃す確率が増えそうに思います。いつでも撮れるという油断がそうさせていないでしょうか。やはり、写真を撮るんだ!という意識が必要で常時持ち続ける...
言葉は「それ」の代わりをしてくれるので省エネにぴったりのアイテムです。何しろ「それ」についていちいち説明にエネルギーを使わなくても済みます。「アレ」は「アレ」なのですから。写真でも「上手くなりたい」と言えば「分かりました」と言ってその方法をいろいろ教えてもらえますよね。でも「上手くなる」って何なのでしょう?バエる写真が撮れるようになることいいね!がたくさん付くようになることフォトコンテストに入選す...
「写真する」=「カメラを持って撮影する」ではないと思っていますカメラを持っていなくても、「写真する」ことはできるのです。「写真を撮る人」=「写真家」ではない時代なのですから。...
デジカメになって、さらにスマホカメラになってモニターを見て写真を撮るほうが圧倒的に多くなってきました。でも、個人的にはファインダーを見て撮るほうが写真を撮っている気がするので、そうしています。一時期、モニターを見て撮っていましたが被写体を視線で優しく押してる気がして頼りない感じがしました。写真はシャッターを切るという言い方があるようにもっと鋭利な感覚が伴うものだと思います。それにはファインダーを覗...
写真を撮ろうと思うならものをよく見なさいと言われます。でもよく分かっていないものは目には入らないのではないでしょうか。見たいものを優先してみている以上、ものを平等に、よく見るのは困難な気がします。...
「雨の日こそ、写真を撮ろう!」のような記事を見かけます。なるほど雨の日は、しっとりした情感のある光景になりますよね。晴れの日はコントラストのきつい、よく言えばメリハリの利いた画面、別の言い方をすれば、ちょっとキツイ画面になります。どちらがいいとかではないのですが個人的には雨の日は、めったに撮影はしませんね。カメラに雨は大敵というのがあります。傘をさしたりして対策はできるのですがそこまでして・・・と...
私の写真は横位置ばかりですが縦位置で撮るのが苦手です。縦位置はどうしても画面が上下に分割されてしまうように感じます。それと縦に長いものだから縦位置で撮るのも少しストレートすぎる気もします。縦に長いからこそ横位置で撮る・・・そういう発想の写真もあっていいかなと思っています。縦位置は視線を集めやすい気がしますが逆に言うと扱いの難しい画面ではないでしょうか。...
写真を撮るということは画面を整理して撮ることとイコールではないと思っています。画面を整理するという発想は構図法を不可欠のように思わせてしまうのではないでしょうか。それが間違っているとは思いませんが写真を撮るということをフレーミング作業、つまり切り取るという感覚で見たほうがより適切ではないかと思います。なぜなら写真を撮るというのは誤解を怖れずに言うと、ある意味で暴力的なことだと思うからです。繋がった...
見てあっさり分かってしまうと物足りないです。見てまったく分からないとイラ立ちます。写真の話ですが中間の落としどころが悩ましいです。...
私自身も以前はよく言っていたことなのですが今、違和感を感じるようになったことがあります。「下手だけどいい写真を撮れればいいんですよ」という言い方です。特に上手い人、プロの人が言うのは少し違うのではないかなと思うようになったのです。下手であることを悩んでいるのに上手いことで余裕のある人からのアドバイスとしてはふさわしくない気がします。やはり単刀直入に「こうしないと上手くなれませんよ」と教えてあげるほ...
写真を4つに分ける考え方があります。①うまくて良い②うまいけどダメ③へたでダメ④へただけど良い・・・だそうです。なるほどと思うのですが、そんなに単純でもない気もします。うまい、へたを技術的な面では言えても表現的にうまい、へたというのは微妙ですよね。まして、良い、ダメというのはさらに分かりにくいです。良い、ダメはとても主観的なのです。ほとんど好き、嫌いと言い換えてもいいようなことが写真の場合、頻繁に起こ...
写真の世界もずいぶん窮屈になってきたなと思います。写真の世界もずいぶん不自由になってきたなと思います。それはたぶん、昭和カメ爺の感覚であって時代錯誤なのでしょうね。それでも、デジタルになって多様な写真表現が可能になったと思うのですがなんだか一様な写真表現へ向かっている気もするのです。昭和カメ爺のどうでもいい独り言でした。...
行ってきました。誰かに「行ってらっしゃい」と言われた気がしたので。多分、幻聴だと思います。歳は取りたくないですね。写真は撮りたいけれど。...
ネットで見かけたコピーで気になったので書いてみます。「うまくてダメな写真・・・」???えっ?上手いことがなぜダメなの?上手いことは十分、価値があることなのに。そうではなくて「うまいけれどダメな写真・・・」のようです。結局、上手いということと、いい写真は別のモノなのに一つの文章で言うとややこしくなるんですね。上手いの反対語は下手でわかりやすいのですが、いいは良いではありません。良いの反対語は悪いなの...
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夜、といっても夜の入り口で帰宅したので何とも言えないのですがミナミ、難波もずいぶん変わったなと思いました。昼間の撮影は時々しているのですがその時感じなかった空気みたいなものがありました。暗くなってきて照明の明るさに変わったこととは別に自分はここにいるという感じがしなかったのです。よそ者というのでしょうか、ふさわしくないというのでしょうか。まあ年齢的なことが大きいと思います。それでも、ミナミはミナミ...
写真の撮り方を説明する時に「画面がゴチャゴチャしていると伝わりにくいのでちゃんと整理して撮りましょう」と言われます。何気に聞いていると正論なのですが、最近になって「整理」というのは少し暴力的な意味合いに思えてくるようになりました。「そこ」は「そうである」訳ですから、人間側、つまり写真を撮る側が「そこ」を自分の都合で変えないほうがいいと思うのです。仮に人間側から見てゴチャゴチャしていても「そこ」が「...
私としては珍しく夕方から撮影しました。日曜のミナミの街の一部を短時間でしたがブラブラしたのです。得意のブレボケ写真を量産し自分らしさを取り戻した夕暮れ時はとてもロマンチックが止まらなかったのでした。...
カメラマンがカメラを選ぶというよりカメラがカメラマンを選ぶのではないでしょうか。カメラマンは自腹を切ってカメラを選んだつもりでも実のところ、カメラに選ばれているのだと思います。正確には試されている気がします。その機能を使いこなせるかということではなくその機能でどんな写真を撮るのだと言われているのです。そのカメラにふさわしいカメラマンになれるかどうか・・・季節の分かれ目ではないでしょうか。...
写真に関してですが綺麗と美しいを混同している気がします。「醜」という美しさもあるのですから。不快な美しさもあるのですから。写真は普通に撮れば何もかも綺麗に写すことができます。美しい写真を撮るのは難しいです。そもそも「美」というものが未だよく分かっていないのではないでしょうか。...
日常的にカメラを持ち歩いてその都度撮影するという人たちもいます。割合はよく分からないのですが当たり前になっている人はかなりいると思います。でも私は撮影する予定の時しかカメラを持って出かけません。まあ、ひとそれぞれですね。写真を撮ろうとカメラを持って寄った場所を見て気になったら撮らせてもらう・・・そのスタイル、スタイルという英語は似合わないのですが、そうするのが自分には合っているのです。...