「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 9
写真の世界だけではないのですが人はどうして伝わることにこだわるのでしょうか。伝えることが出来ないとどうしてよくないのでしょうか。たしかに大切なことが伝わらないのはマズいのですがそのようなケースはそれほどないと思うのです。写真で言えば、伝わらなくても構わないと思えることも多いですよね。でも、やっぱり嫌なんですね。自分が無視されたように感じるからではないでしょうか。伝わったことが意味するのは、相手から...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 8
何でも新しければいいというものではないことを写真の世界が証明しているように思うのですがどうなのでしょうね。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。胃は痛いのですが言いたいことがないんですよね。でも、それはいいことではないでしょうか。昔の人は言いました。「沈黙は金になる、儲かる」と。...
写真の投稿だけです。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 7
有名になることは自分がブランド化されることです。そうすることでファンが出来ていきます。そのことは、ファンの期待するイメージに自分が応え続ける必要があることを意味します。ファンの期待する自分のイメージから出られなくなるのです。それはとてもしんどいことではないでしょうか。有名にならなくてよかったです。負け惜しみですね。...
写真は部分しか撮れないと言われます。全体を撮ることは出来ないからです。でも、その全体も何かの部分ではないでしょうか。全体であることは、それより他がないことが分かっていなければなりません。そうだとすると、写真で撮れるのが部分でもいいのではと思えてきます。部分を堂々と撮ればいいのです。まあ、あまり無理しないほうがいいとは思いますが。...
普段はうつむいて歩いているのですが撮影の時だけは前向きになっています。まあ、ええ、ムキになるんですよね。下を向いてゴミを撮ったりしていたこともあるのですが最近は普通に、地面に水平にキョロキョロして撮っています。何が普通かは分かりませんが。1メートル60ある、長身の目の位置の視界を重視しています。まあ、重視という難しい漢字は似合わないあっ、軽いカメ爺なのです。...
一気に暖かくなりました。桜の季節です。どこも、人いっぱいになるんでしょうね。今年はどうしようかな、といったところです。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 6
今の幼い子供たちは育って行きながら大人たちというのは顔の下半分以上が主に白ぽいものだと学習していくのだなあと、春うららな、表の街角で思ったのでした。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 5
写真の世界も多様性が言われているようですが実際は多様性という名の一様性に向かっている気もします。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 4
AI生成で作られた場合、それは写真ではなくて、写真まがい画像だと思っています。写真は、現実の光景を写しとったものだと思っているからです。何が現実かという難しい議論も必要ですが今のところ、手で触ってその存在が確かめることが出来る森羅万象と言ったところかなと思います。目の前の世界が死んだ万象にならないことを願っています。森羅万象から評判の悪いカメ爺が言うのもこそばゆいのですが。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 3
スマホのせいでしょうか縦位置写真をよく見るようになりました。縦に構えて撮るのが自然だからでしょうね。でも、横位置で撮ったほうがいいと思っています。横位置のほうが情報を多く入れやすい気がするからです。縦だと上には空が、下には地面が入りやすいです。ちょっと単調な画面になりがちだと思います。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 2
「自分語り写真」が流行っているようです。説明を読むと「自分はこういうところが好きで撮った」みたいな解説をしているんですね。「自分の好き」に共感してくれる人、募集!といったところでしょうか。私の写真?「自分ガッカリ写真」は流行らないようです。...
「自分の好きを撮りましょう」とよく言われるんですよね。まあ、言われなくとも嫌なものはあまり撮る気にはならないと思いますが。でも、写真に撮った「それ」が「なぜ好きなのか?」などと考えるとよく分からなくなることも起こり得ます。自分が好きと思い込んでいるものごとに疑問を投げかけるのが写真かもしれないからです。もし、そうだとすると「自分の好きばかり撮ること」は考えものではないでしょうか。「好きなモノ」は謎...
写真でポイントになるのは背景なんですね。背景で主役を引き立てるというよりいかにして隠すことが出来るかだと思うのです。...
「再現」でもなく「表現」でもない頼りなさが写真の強みではないのかなと、最近は思っています。ホンモノの写真家の人たちには分かっていて、実践できているのではないでしょうか。「再現」でもなく「表現」でもなく「創作」でもなく、「出現」みたいなものかもしれません。写真家が表わすというより、写真家を通じて表れる・・・、それが「写真」というものかもと、そんな感じもするのです。だからホンモノの写真家の人たちは選ば...
写真って、面白いですよね。でも、写真のどこが面白いのか言葉にしようとすると出来ないんですね。それが写真の面白いところだと言ったらふざけているようで面白くないのです。...
写真関係の動画をよく見るようになったのですが運営している人って、あまりいないんですよね。私の探し方がよくないのか同じ人(たち)ばかり出てきます。ちょっとマンネリしています。...
孤独は主観的で、孤立は客観的なもの。そんな記事を見かけました。いえいえ、そんな単純なものではないと思います。孤独感は主観的ですが孤独は人間存在の根源的なことだと思うのです。いま、ここには私一人しかいることは出来ません。同じ時間、空間を共有は出来ないのです。写真を撮っているとそう思う実感できるのではないでしょうか。今、見ている景色は私しか見えていないのです。...
カメラは、それを持つ人を傍観者にします。自分では関わっているつもりなのですがそれと距離を置かないと写真は撮れません。カメラはそれに触れていると錯覚させる機械なのです。...
「写真家・森山大道氏の写真集の新刊『DAIDO SLIDE』が日本でも発売が開始され」たそうです。以前なら、「見たいな」「欲しいな」と思ったのですが今は、ほとんど思わなくなりましたね。以前にも書きましたが森山大道ではなく、The DAIDOになってしまった気がするのです。写真集は、有名な「三沢の犬」が表紙でイヌの向きが左と右のバージョンがあるそうです。いや、いや、何だか商売が上手いなあなんて失礼なこと、思ったりします...
よく、写真の上手い人から「ここと思ったところから、さらに1歩前に出て撮れ」と言われてきました。その時は「なるほど」と思うのですがいざ撮影になると、足が前に出ないんですよね。足の長さは関係ないと思うのですが「オレの足では前に出てもそれほど変わらんやろ」と後で気が付くと、言い訳をしていたのでした。...
途中、雨がパラパラ降ってきました。春雨に濡れるのは年齢的に危険ですし、引かれる後ろ髪もないので、サッサと引き上げました。...
「人間とは何か」が分からないとしたら何が意味あり、何が無意味かは誰にもホントのところ、分からないのではないでしょうか。「写真とは何か」が分からない以上、何が「いい写真」なのかも分からないのです。それでも、ここでゴチャゴチャ写真について理屈っぽいことばかり書いています。とてもカッコ悪いことをやっている気もしますがそれでも、書かないよりはマシかなと思っています。言いたいことを書かないで、腹部に貯蔵し続...
「見えないモノを撮る」と言いますが見えないモノは写真には写らないと思います。すみません。理屈っぽくて。そんな気持ちが大切ということなのでしょうが写真家はロマンチストではなくリアリストだと思うのです。どこまでカメラの目になれるか・・・なのですがまあ、ゴチャゴチャ言わないで、とっとと撮ることですね。気温の上昇を期待したいと思います。...
簡単な言葉はアッサリ分かった気になりがちです。しあわせ、健康、いのち・・・。そして「いい写真」。でも、「いい写真」って、何なの?ですね。そんなモノ、どうでもいいような気もするのです。...
写真を撮るというのは撮る側の一方的な行為と言えます。例え相手が人間で、了解を得ていてもその姿を凝固させるようなものですから。おまけに平面の姿にしてしまいます。ぺっしゃんこになるのです。考えようによっては写真を撮ることは暴力的なことなんですね。笑顔をやめることも出来ず、桜は散ることも出来ないのです。...
写真の上手い人の「好きなように撮りましょう」というアドバイスは無責任な気がします。その人は「好きなように撮るにはどうすればいいですか?」と聞いているのですから。でも、その人の好きはその人にしか分かりません。まあ、聞くほうも聞くほうでどっこいどっこいなんですけどね。まず、自分の好きな写真を見つけることが先だと思います。...
「よく見て撮りましょう」と言われます。ただ、よく見ようとするほどアレコレ考えてしまいなかなか決められません。よく見るのは、撮ろうとするものを見つける時であって見つかったら、サッサと撮ったほうがいいと思います。...
これからのカメラは機能満載より「たったこれしか出来ないの?」みたいなほうがウケるのではないでしょうか。例えば「いうことを聞かないカメラ」なんて面白いと思います。ピントが変なところに合ったり色が変になったりシャッターがすぐに切れなかったりそんなカメラも面白いのではないでしょうか。売れるかどうか・・・分かりませんが。...
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「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
写真ではよく「思いを伝える」と言われています。ではこの「思い」とは何を指すのでしょうか?大きくは次の2つに分けられると思います。①「思い」は「感情」のことです。コミュニケーションを重視します。コミュニケーションの対象はふつうは身の回りの人たちですがSNSなどを通じて不特定多数の人たちのことも多くなりました。時には自分のこともあります。思い出の瞬間の感情をより鮮明に自分に伝えてくれるからです。言葉はその...
20代に突入したころ、写真を始めました。それから半世紀以上経ったのですが、飽き性の自分がよく続けられたなと思っています。そんな私ですが、30代の半ばごろに突然、「モノクロはもう辞めた」とカラーに切り替えました。そんな日々を、年齢的に無理して首筋を傷めない程度に振り返ってみると20代、30代にも自分なりに「いい写真」は撮れていたと思います。あくまで自分基準の「いい写真」ですが「あの頃のほうが、いい写真を撮れ...
写真史としての名作は一定の評価はされているのですが今、有名な写真家にしても登場当初というのでしょうか初めて作品として写真を発表した時には酷評された人もいたのです。写真の世界の価値観みたいなものは時代とともに変わってゆきます。写真の世界に吹く、世間の風は気まぐれなのです。その時代の気分次第で、ヨイショされたり、ブーイングされたり・・・世間というのは怪物みたいなものではないでしょうか。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。「好き」と思い込んでいるだけかもとか「好き」と思い込まされているだけかもとか。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが・・・。...
写真が難しいのは立体を平面として見ることに慣れていないことも理由の一つだと思います。写真を撮ることには今の時代、スマホなどで小さいころから当たり前に行っているので「写真なんてチョー簡単!」と思ってしまうのですね。フィルムカメラの時代ですら、他のアートから「写真なんてカメラが撮ってくれるんだからいいよね」なんて思われていました。「写真なんて、ラ~ラ~ラ~♪」だったのです。でも、自分でカメラを本格的に...
行ってきました。...
写真をするのに才能は必要なのでしょうか。写真がアートだとしたら音楽や絵画のように才能が必要になって来ます。でも、あえて写真をアートだと思わなくてもいいと思うのです。たしかに、写真のセンスがいいなあと羨ましくなってくる人っていますよね。バズっている写真などを撮っている人たちが思い浮かびます。そうできるのは写真の才能があるからと言えるのですが、バズる写真だけが写真でないことは言わずもがなです。楽しみ方...
撮影しました。...
「暗黙の了解」というのがあります。わざわざ断らなくても通じることですよね。でも、今はそうではなくなってきました。「個人の感想です」ーふつう感想を述べるのは個人だと思うのですが。「CM上の演出です」ーこんなのマネする人がいるの?そして・・・「写真はイメージです」ー写真=実物なんてありえないのに。なんだかメンドクセー世の中になったものですね。...
写真に写っているからホントだろうから写真に写っているからウソかもしれないへ写真にとって激動の時代になったなあと昭和カメ爺はシミジミト思いながらシジミの味噌汁をすするのです。...
昔、正確には大昔、テレビドラマの主題歌に「七つの顔のおじさんのホントの顔はどれでしょう?♪」という歌詞がありました。今考えると、それは七つの顔のどれもホントの顔でもあり、ウソの顔でもあり、ホントかウソかはどちらでもいいことのように聞こえます。それぞれの顔で難題をカッコよく解決して、視聴者をスッキリした気分にしてくれればよかったのですから。まあ、ドラマがどんな内容だったのかは忘却の彼方なのですが、懐...
写真の投稿だけです。...
写真関係のSNSの記事を見ていると、ある言葉をよく見かけるようになり、気になって来ました。「私」関連と言うのでしょか、「私」以外に、「私」「わたし」「僕」「ぼく」「自分」「じぶん」などですね。そのような言葉が目につく記事の特徴は、その人が食べたもの、飲んだもの、家族や友だち、友好な関係の人たちなど、プライベートな写真が多い気がすることです。ふつうSNSは不特定の人たちに向けて発信されるものですから、その...
つくづく写真というのは被写体しだいなんだなあと思います。それでアレブレボケ写真は文句を言われたのです。肝心のどんな被写体が写っているかが分からないことで見る人を落ち着かなくさせました。人は落ち着かないことは嫌ですからイライラしてボヤいたのだと思います。その代表ともいえる森山大道が世界的な写真家になったのですが、それでも写真というのは被写体しだいなのは変わらないと思います。「いい写真」というのは写真...
デジカメが上手に撮れ過ぎてくるとフィルムカメラの上手く撮れなさが魅力的になって来る・・・揺れ動くカメラマンゴコロですが、次はどこへ向かうのでしょうか。下手は嫌ですが、上手くても面白くない・・・人間カメラマン相手にカメラたちも大変だなあと思います。...
最近は嫌々写真を撮っている気がしています。慢性の人生疲労にも悩まされているのですし。それなら辞めておけばいいのですがそういうわけにもいかないところがあるのです。あえて撮らなくてもいいよと言われると、それならともかく撮っておこうということなのです。別に記録とか、何かの役に立つとは思えないのですが撮らないよりは撮っておいたほうがいいようなという、何とも頼りない動機が親指を動かしています。...
天王寺は遠かったです。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが。...
今は犯罪用語みたいになってしまいましたが写真撮影は本質的には「盗撮」だと思っています。それなら「借撮」と言い換えてもいいのですがそんな言葉はないですし、拝借すると言ってもその姿を撮ることは切り取ることには変わりません。今はどうかは分からないのですが写真を撮られると魂を盗まれると怖れた人たちが世界のどこかにいると読んだことがあります。もちろん、われわれから見れば迷信ですが人間としてはとても真っ当な人...
かつて、カメラのファインダーのピント合わせやオートフォーカスの測距点は、画面の真ん中にありました。そのことは何を意味するのでしょうか?人は写真を撮ろうとする時、何も考えないと、無意識に撮りたいものを画面の真ん中に持ってきますよね。当然と言えば当然だと思います。画面の隅っこに小さく撮ろうとはふつうは、しないです。そうなんです。「日の丸構図」は写真撮影の原点と言えます。「日の丸構図」については、いろい...
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
主張には根拠が必要と言われています。自分の言いたいことは主観的なのでそれを裏付ける客観的で正当な理由が要るのですね。写真も「こう撮れ!」みたいなことが言われます。どうしてかと訊くと「なぜならみんな(多くの人)が、いい写真と言ってくれるから」のような返答が帰ってきます。少し理屈ぽくなるのですがある根拠にはその根拠を支える別の根拠が必要ではないでしょうか。そのことは堂々巡りを意味しています。正論が複数...
用事で出かけたついでに「新石切駅」周辺と「石切さん(石切神社)」周辺で撮影してきました。お天気で暑かったので意識を失う前に帰ってきました。...
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォトコ...
写真展などでキャプションとステートメントと言う言葉が使われます。どちらも文章なのですが詩なども使われるようですがとても簡単に整理してみました。キャプションは説明文です。それで客観的に分かりやすく書く必要があります。作品の理解を助けるために書かれるのですから難解な文章はNGです。いっぽう、ステートメントは声明文です。それは意思表示であり主観的なモノです。自分の写真観みたいなモノを今回の作品で反映させた...
私は多感、と言うより冷や汗の多い「多汗」な時代に写真を始めたので、どうしてもそのころのことが基準になります。デジタルの時代になったのにフィルムの時代の考え方から抜けられません。一時は「デジタルもフィルムも写真には変わらへん」と思っていました。でも、最近はデジタルとフィルムは明らかに違う、別のものではないかなと思い始めています。ただ、自分自身はこれまでのような写真を撮り続けると思っています。...
写真はボケやX構図で遠近感を出せますよね。絵画では遠近法と言うようです。写真は平面の画像なので実際には目から等距離にあります。それを前後に感じるのですから人間の目っていい加減なんやなと思います。...
「散歩」とは辞書的には気晴らしや健康のためにブラブラ歩くことと説明されています。でも、本来は特に理由などなくただ歩きたいからするもののように思います。季節や時間帯や天候などや距離・歩数は関係ないのです。まあ台風や大雨の時は向いていないと思いますが。数百メートルでも散歩は散歩です。嫌になったら止めればいいのですから。健康のためとか、1万歩歩くことが目標とかは散歩が手段になっている気がします。私の写真...
最近のことはよく知らないのですがアルバムというのを、紙のプリントで残している人ってどれくらいいるのでしょうか。スマホやネットのストレージのケースが多いのかもしれません。上手く整理しておけば、紙のアルバムみたいに、かさばらないですよね。でも、ネットだと思い出が宙ぶらりんのように感じます。紙のほうが、思い出がそこにいてくれるように感じるのですが今は、そんなことはない時代になったのでしょうね。...
森山大道さんたちが発表していたアレブレボケ写真のようなカットが、国鉄(今のJR)の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン(DISCOVER JAPAN)」に使われたのは、アレブレボケには旅情を誘うところがあったからではないでしょうか。森山さんには中平卓馬という写真仲間がいて、同じようなアレブレボケ写真を撮っていました。中平さんはアレブレボケ写真が観光キャンペーンに使われてからはアレブレボケ写真から離れ、写真を図...
撮影カットをレタッチでトリミングするとデザイン的な写真になるような気がします。...
私自身、いまだによく分かっていないのですが写真は現実をそのままそっくりに捉えることではなく写真という、もう一つの現実を捉える手段のように考えたほうがいいのでは?と思っています。もう一つの現実、つまり再現とか、表現とかいう言葉とは違う写真が捉え得る何か、リアリティーみたいなことではないのかなと思うのです。「いわゆる現実」とは違う「もう一つの現実」を捉えることが出来るのが写真というメディアのように思い...
観光などで初めての場所に行くと見るものすべてが新鮮に映りますよね。それで写真を撮ると興奮状態ですからいわゆる撮らされている結果になりあまりいい写真は撮れないよという意見があります。宿泊できるのなら初日はカメラを持たずにブラブラ歩いて、自分の目でチェックしてゆくようにしましょうと言われています。そうすると2日目にカメラを持って出かけることで冷静に観光地を見れるのでいい写真に結びつくということですね。...
時々「ローアングル」と「ローポジション」が混同されていることがあり、気になっています。地面近く、低いところでまっすぐ水平方向に撮るのは「ローポジション」での撮影なんですね。よく言われる「子供目線」とか「ペット目線」は「ローポジション」のことだと思います。いっぽう、下から上方向にに撮るのが「ローアングル」での撮影です。ビルの屋上で、真上に旋回するヘリコプターに向かって撮るのが「ローアングル」での撮影...
ウジェーヌ・アジェという写真家がいます。写真史では必ずと言っていいほど出てくる人です。画家になりたくてパリに出てきたのですが、画家ではなく写真家として「美術家のための資料」にとパリの街を撮り集めることで生活の糧にしました。生活は恵まれなかったみたいで死ぬまでパンと砂糖とミルクを常食としていたというカッコいい写真家だったと思います。アジェには他人事だからそんなふうに言えるんだと怒られるかもしれません...
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
道頓堀にも撮影に行きましたが「ここ、日本?」なんて思えてくるのです。来るごとに。まるで自分が異邦人みたいな感じがします。まあ異邦人というのはカッコつけすぎでよそ者、場違いな人とということですね。いつも「お邪魔しました」とサッサと立ち去るのでした。...