「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
行ってきました。快晴でした。...
「目に見えるもの撮るのはカメラの仕事。目に見えないモノを撮るのがあなたの仕事」そんな言葉を目にしたのですが見えないモノは写真には写らないと思います。すみません。理屈っぽくて。そんな気持ちで撮ることはいいことだと思うのですが写真家はロマンチストではなくリアリストだと思うのです。どこまでカメラの目になれるか・・・なのですがまあ、ゴチャゴチャ言わないで、とっとと撮ることですね。...
カメラは、撮る人を写しています。写真を撮る人間の写ってほしくないホンネみたいなものも写してしまうのがカメラの怖いところです。ウケたい・・・。いい人だと、優しい人だと、センスがいいねと、個性的だねと経験が豊かなんですねと思われたい・・・。カメラは写真を撮る人間の闇の部分も写す機械です。そしてカメラは「暗い箱」なのです。カメラは闇と相性がいいのではないでしょうか。...
通りすがりの○△□250328・KOKOSOKOASOKO 2
カメラという機械の非人間的なレンズの視線は冷静にモノやコトを見つめているのではないでしょうか。人間は「冷静ということ」の「冷やかな」ところを気にしますがカメラは「静かに」モノやコトを見ているのだと思います。損得、好き嫌い、いいダメから自由になって・・・。...
通りすがりの○△□250120・スタートラインが見つからない 6
写真は被写体を再現したものではなく、被写体を別の何かに変えたものだと思います。それは写真家の思い=イメージを再現したものでもないと思うのです。イメージ通りに撮ることが写真家の表現かというと少し違うのではないでしょうか。...
通りすがりの○△□250328・KOKOSOKOASOKO 1
そもそも視線というのは人に威圧感を与えるものです。視線は刺線、刺ってくる矢なんですね。スマホやコンデジのようにファインダーを覗かないで撮られると少し威圧感が弱まります。それで、仲間の人からのスマホを向けられてもあまり意識しなくなったところがあるのですがカメラの視線にはトゲがあることは変わらないと思います。...
通りすがりの○△□250120 スタートラインが見つからない 5
これからの人はPHOTOという文字を見ても熱くなることはなくなるのだろう。P=people、人と、O=object、対象の間にHOTがあったことも忘れてしまうのだろう。熱くなることはダサくてカッコ悪いのだから。クールは冷静なことだけど冷淡はただ冷たいこと、冷え切ったことなのだけれどたぶん、そんなことはどうでもいい時代になったのだと思う。...
通りすがりの○△□250312・濡れてもいい春雨について 2
そう遠くない未来、街角で写真を撮る人間はいなくなるだろう。それに合わせるようにして街角から人間は消えるだろう。シ~ン。...
通りすがりの○△□250120 スタートラインが見つからない 4
世の中、ドンドン幼児化して言っているように感じています。写真でいえば、要らないもの、邪魔なものって今は簡単に消せますよね。まあ、嫌だから消しちゃえっということでしょうか。フカイはNGで、ユカイはwelcomeなのです。褒められればやる気を出し、貶されれば怒る気を出すのです。写真に写っているものを消したり、欲しいものを付け加えたり・・・それって、写真?と思うのですが。写真とは目の前にあったものを起こったこと...
通りすがりの○△□250312・濡れてもいい春雨について 1
時代とともに、衣食住は変わってゆきます。世の中の景色は変化が運命付けられています。変わらないものはないということだけが変わらないのですね。そのことは写真を撮っていると何となくでも感じ取ることが出来ます。目の前の景色はたしかに存在するのですが目を離した途端、確かにあったのか不安になってくるのです。だから、人は写真を撮るのだと思います。取り戻すことは出来ないと分かっていながらも写真という名の亡骸にすが...
通りすがりの○△□250120 スタートラインが見つからない 3
孤独は主観的で、孤立は客観的なもの。そんな記事を見かけました。だけど、そんな単純なものではないのではと思いました。孤独感は主観的ですが、孤独は人間存在の根源的なことだと思うのです。1個の肉体としては、いま、ここには私一人しかいることは出来ません。理屈ぽくなりますが、同時には、同じ空間を共有は出来ないのです。写真を撮っているとそのことを実感できるのではないでしょうか。いま、ここで見ている景色は私しか...
通りすがりの○△□250120 スタートラインが見つからない 2
写真の投稿だけです。...
行ってきました。半年ぶりです。生駒山の中腹にあるため冬は地上より寒そうなので避けていました。久しぶりに行ったら暑かったです。...
写真という趣味は歩くこととリンクするので健康のためにはいいですね。一説によると写真家には高齢でも活躍する人が多いそうです。歩くことが役立っているんですね。まあ、人によりけりだとは思いますが。私も歩くことは嫌いではないので写真をやってきてよかったなと思っています。ただ、もともと短い脚ですので歩幅がありません。それが、最近はさらに短くなってきました。「オレはペンギンか!?」ってペンギンに失礼なことを、...
暦のせいでしょうか、世の中、華やいでいるようですが結局のところ、技術はビックリするくらい進歩するけれど人間はガッカリするくらい進歩しないということがこの二千何年間で、分かってきたのではないでしょうか。世の中、ドンドン便利になって来ましたがフトコロの中、ドンドン貧相になって来たのではないでしょうか。便利さと物価は比例する、そんな法則があるのかもしれませんね。最近のカメラは、低い位置にいると手が届きそ...
通りすがりの○△□250120・スタートラインが見つからない 1
イメージ通りに撮れることが大切なのではないと思うのです。そのイメージがどのようなイメージであるのかが大切なのだと思います。そのイメージをどうして必要とするのか、そのイメージで何をしようとしているのか、・・・では、ないでしょうか。...
間違っていると言っているのではないのです。違うと言っているだけなのです。自分は違うと感じたということなのです。写真に正解がないとしたら間違いもないのですから。多様性ってそういうことですよね。みんな違うということですよね。違うと言うことがよくないとしたら写真の世界はつまらなくなるのではないでしょうか。多様性と言うのは活気のある違いのことですが違いのない写真の世界は静まり返るしかないと思うのです。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 14
写真の世界でも、多様性が言われているようですが実際は多様性という名の一様性に向かっている気もします。写真の世界の中の、特にアマチュアや初心者や、さらには映え疲れの人たちの集まるエリアでは顕著ではないでしょうか。「下手だけど、いい写真が撮れればいい」という、「思いが、感情が伝わるのが、いい写真です」という、そこでは、そんな愛言葉が行き交っているように思えるのです。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 13
もうすぐ万博ですね。テレビを見ていて思ったことがあります。電気が必要なところが多いなあということです。まあ、世の中、電気がなければタイヘンですよね。デジカメも電池が無くなればただの箱です。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 11
いい写真とは撮った時の感情が伝わる写真だそうです。たしかに、そうだと思うのですが、もう一つの「カンジョウ」が見え隠れします。勘定ですね。「私の感情を分かってくれますか?」みたいな取り引きで「分かってくれた人は、とってもいい人認定!」なのです。...
飛行機雲があると撮りたくなるんですよね。私、空を飛びたいからでしょうか。とんでもない話です。...
便利さと言うのは効率がよくなることでもあります。無駄なエネルギーを使わなくて楽チンなのですね。でも、それなのに何となくつまらないのではないでしょうか。コウリツだけではなくワタクシリツも欲しいのです。自分もどこかに参加したいのですね。例え上手く行かなくても、効率が悪くても。人間は「メンドクセー」生き物なのではないでしょうか。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 11
写真の投稿だけです。...
人は写真を怖れているのだと思います。だからレタッチで顔を整形するのではないでしょうか。写真は失礼なやつだからと言い訳をしながら目を、鼻を、あごを、肌を盛り盛り修整するのです。でも写真は正直に応えただけなんですね。光学的事実に素直に反応しただけなのです。...
2月、3月と寒かったことなどもありますが写真を撮る気になかなかなれなかったです。「めんどくせー」みたいな気分が充満した二カ月でした。4月になればと思っていたのですが「桜もあまり撮る気がしないし・・・」で気分が乗って来ません。それでも、ガリガリの軽い腰を上げて、1月から出かけたいと思いながら行っていなかった今年初の梅田へ出かけました。まあ、それなりに撮影できてよかったです。桜の情報に疎かったので、も...
行ってきました。桜もそろそろ終わりやなあとソロで思いました。...
人は、こらからは、空気を怖れて暮らしてゆくのだと思います。...
オンライン、そこには誰もお(ら)んらいん。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 10
●昨日の記事を少し書き換えて投稿します。人はどうして伝わることにこだわるのでしょうか。伝えることが出来ないとどうしてよくないのでしょうか。日常的なことで伝わりにくいことは滅多にないと思うのです。「アレ、頼むね」「あっ、アレね、分かった」。以心伝心、阿吽の呼吸、ツーカーの仲が羨ましいです。いっぽう、「思いを伝える」ということになると、時には簡単ではなくなります。写真で言えば、伝わらなくても仕方がない...
「ブログリーダー」を活用して、sunposkyさんをフォローしませんか?
「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
写真ではよく「思いを伝える」と言われています。ではこの「思い」とは何を指すのでしょうか?大きくは次の2つに分けられると思います。①「思い」は「感情」のことです。コミュニケーションを重視します。コミュニケーションの対象はふつうは身の回りの人たちですがSNSなどを通じて不特定多数の人たちのことも多くなりました。時には自分のこともあります。思い出の瞬間の感情をより鮮明に自分に伝えてくれるからです。言葉はその...
20代に突入したころ、写真を始めました。それから半世紀以上経ったのですが、飽き性の自分がよく続けられたなと思っています。そんな私ですが、30代の半ばごろに突然、「モノクロはもう辞めた」とカラーに切り替えました。そんな日々を、年齢的に無理して首筋を傷めない程度に振り返ってみると20代、30代にも自分なりに「いい写真」は撮れていたと思います。あくまで自分基準の「いい写真」ですが「あの頃のほうが、いい写真を撮れ...
写真史としての名作は一定の評価はされているのですが今、有名な写真家にしても登場当初というのでしょうか初めて作品として写真を発表した時には酷評された人もいたのです。写真の世界の価値観みたいなものは時代とともに変わってゆきます。写真の世界に吹く、世間の風は気まぐれなのです。その時代の気分次第で、ヨイショされたり、ブーイングされたり・・・世間というのは怪物みたいなものではないでしょうか。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。「好き」と思い込んでいるだけかもとか「好き」と思い込まされているだけかもとか。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが・・・。...
写真が難しいのは立体を平面として見ることに慣れていないことも理由の一つだと思います。写真を撮ることには今の時代、スマホなどで小さいころから当たり前に行っているので「写真なんてチョー簡単!」と思ってしまうのですね。フィルムカメラの時代ですら、他のアートから「写真なんてカメラが撮ってくれるんだからいいよね」なんて思われていました。「写真なんて、ラ~ラ~ラ~♪」だったのです。でも、自分でカメラを本格的に...
行ってきました。...
写真をするのに才能は必要なのでしょうか。写真がアートだとしたら音楽や絵画のように才能が必要になって来ます。でも、あえて写真をアートだと思わなくてもいいと思うのです。たしかに、写真のセンスがいいなあと羨ましくなってくる人っていますよね。バズっている写真などを撮っている人たちが思い浮かびます。そうできるのは写真の才能があるからと言えるのですが、バズる写真だけが写真でないことは言わずもがなです。楽しみ方...
撮影しました。...
「暗黙の了解」というのがあります。わざわざ断らなくても通じることですよね。でも、今はそうではなくなってきました。「個人の感想です」ーふつう感想を述べるのは個人だと思うのですが。「CM上の演出です」ーこんなのマネする人がいるの?そして・・・「写真はイメージです」ー写真=実物なんてありえないのに。なんだかメンドクセー世の中になったものですね。...
写真に写っているからホントだろうから写真に写っているからウソかもしれないへ写真にとって激動の時代になったなあと昭和カメ爺はシミジミト思いながらシジミの味噌汁をすするのです。...
昔、正確には大昔、テレビドラマの主題歌に「七つの顔のおじさんのホントの顔はどれでしょう?♪」という歌詞がありました。今考えると、それは七つの顔のどれもホントの顔でもあり、ウソの顔でもあり、ホントかウソかはどちらでもいいことのように聞こえます。それぞれの顔で難題をカッコよく解決して、視聴者をスッキリした気分にしてくれればよかったのですから。まあ、ドラマがどんな内容だったのかは忘却の彼方なのですが、懐...
写真の投稿だけです。...
写真関係のSNSの記事を見ていると、ある言葉をよく見かけるようになり、気になって来ました。「私」関連と言うのでしょか、「私」以外に、「私」「わたし」「僕」「ぼく」「自分」「じぶん」などですね。そのような言葉が目につく記事の特徴は、その人が食べたもの、飲んだもの、家族や友だち、友好な関係の人たちなど、プライベートな写真が多い気がすることです。ふつうSNSは不特定の人たちに向けて発信されるものですから、その...
つくづく写真というのは被写体しだいなんだなあと思います。それでアレブレボケ写真は文句を言われたのです。肝心のどんな被写体が写っているかが分からないことで見る人を落ち着かなくさせました。人は落ち着かないことは嫌ですからイライラしてボヤいたのだと思います。その代表ともいえる森山大道が世界的な写真家になったのですが、それでも写真というのは被写体しだいなのは変わらないと思います。「いい写真」というのは写真...
デジカメが上手に撮れ過ぎてくるとフィルムカメラの上手く撮れなさが魅力的になって来る・・・揺れ動くカメラマンゴコロですが、次はどこへ向かうのでしょうか。下手は嫌ですが、上手くても面白くない・・・人間カメラマン相手にカメラたちも大変だなあと思います。...
最近は嫌々写真を撮っている気がしています。慢性の人生疲労にも悩まされているのですし。それなら辞めておけばいいのですがそういうわけにもいかないところがあるのです。あえて撮らなくてもいいよと言われると、それならともかく撮っておこうということなのです。別に記録とか、何かの役に立つとは思えないのですが撮らないよりは撮っておいたほうがいいようなという、何とも頼りない動機が親指を動かしています。...
天王寺は遠かったです。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが。...
今は犯罪用語みたいになってしまいましたが写真撮影は本質的には「盗撮」だと思っています。それなら「借撮」と言い換えてもいいのですがそんな言葉はないですし、拝借すると言ってもその姿を撮ることは切り取ることには変わりません。今はどうかは分からないのですが写真を撮られると魂を盗まれると怖れた人たちが世界のどこかにいると読んだことがあります。もちろん、われわれから見れば迷信ですが人間としてはとても真っ当な人...
かつて、カメラのファインダーのピント合わせやオートフォーカスの測距点は、画面の真ん中にありました。そのことは何を意味するのでしょうか?人は写真を撮ろうとする時、何も考えないと、無意識に撮りたいものを画面の真ん中に持ってきますよね。当然と言えば当然だと思います。画面の隅っこに小さく撮ろうとはふつうは、しないです。そうなんです。「日の丸構図」は写真撮影の原点と言えます。「日の丸構図」については、いろい...
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
主張には根拠が必要と言われています。自分の言いたいことは主観的なのでそれを裏付ける客観的で正当な理由が要るのですね。写真も「こう撮れ!」みたいなことが言われます。どうしてかと訊くと「なぜならみんな(多くの人)が、いい写真と言ってくれるから」のような返答が帰ってきます。少し理屈ぽくなるのですがある根拠にはその根拠を支える別の根拠が必要ではないでしょうか。そのことは堂々巡りを意味しています。正論が複数...
用事で出かけたついでに「新石切駅」周辺と「石切さん(石切神社)」周辺で撮影してきました。お天気で暑かったので意識を失う前に帰ってきました。...
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォトコ...
写真展などでキャプションとステートメントと言う言葉が使われます。どちらも文章なのですが詩なども使われるようですがとても簡単に整理してみました。キャプションは説明文です。それで客観的に分かりやすく書く必要があります。作品の理解を助けるために書かれるのですから難解な文章はNGです。いっぽう、ステートメントは声明文です。それは意思表示であり主観的なモノです。自分の写真観みたいなモノを今回の作品で反映させた...
私は多感、と言うより冷や汗の多い「多汗」な時代に写真を始めたので、どうしてもそのころのことが基準になります。デジタルの時代になったのにフィルムの時代の考え方から抜けられません。一時は「デジタルもフィルムも写真には変わらへん」と思っていました。でも、最近はデジタルとフィルムは明らかに違う、別のものではないかなと思い始めています。ただ、自分自身はこれまでのような写真を撮り続けると思っています。...
写真はボケやX構図で遠近感を出せますよね。絵画では遠近法と言うようです。写真は平面の画像なので実際には目から等距離にあります。それを前後に感じるのですから人間の目っていい加減なんやなと思います。...
「散歩」とは辞書的には気晴らしや健康のためにブラブラ歩くことと説明されています。でも、本来は特に理由などなくただ歩きたいからするもののように思います。季節や時間帯や天候などや距離・歩数は関係ないのです。まあ台風や大雨の時は向いていないと思いますが。数百メートルでも散歩は散歩です。嫌になったら止めればいいのですから。健康のためとか、1万歩歩くことが目標とかは散歩が手段になっている気がします。私の写真...
最近のことはよく知らないのですがアルバムというのを、紙のプリントで残している人ってどれくらいいるのでしょうか。スマホやネットのストレージのケースが多いのかもしれません。上手く整理しておけば、紙のアルバムみたいに、かさばらないですよね。でも、ネットだと思い出が宙ぶらりんのように感じます。紙のほうが、思い出がそこにいてくれるように感じるのですが今は、そんなことはない時代になったのでしょうね。...
森山大道さんたちが発表していたアレブレボケ写真のようなカットが、国鉄(今のJR)の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン(DISCOVER JAPAN)」に使われたのは、アレブレボケには旅情を誘うところがあったからではないでしょうか。森山さんには中平卓馬という写真仲間がいて、同じようなアレブレボケ写真を撮っていました。中平さんはアレブレボケ写真が観光キャンペーンに使われてからはアレブレボケ写真から離れ、写真を図...
撮影カットをレタッチでトリミングするとデザイン的な写真になるような気がします。...
私自身、いまだによく分かっていないのですが写真は現実をそのままそっくりに捉えることではなく写真という、もう一つの現実を捉える手段のように考えたほうがいいのでは?と思っています。もう一つの現実、つまり再現とか、表現とかいう言葉とは違う写真が捉え得る何か、リアリティーみたいなことではないのかなと思うのです。「いわゆる現実」とは違う「もう一つの現実」を捉えることが出来るのが写真というメディアのように思い...
観光などで初めての場所に行くと見るものすべてが新鮮に映りますよね。それで写真を撮ると興奮状態ですからいわゆる撮らされている結果になりあまりいい写真は撮れないよという意見があります。宿泊できるのなら初日はカメラを持たずにブラブラ歩いて、自分の目でチェックしてゆくようにしましょうと言われています。そうすると2日目にカメラを持って出かけることで冷静に観光地を見れるのでいい写真に結びつくということですね。...
時々「ローアングル」と「ローポジション」が混同されていることがあり、気になっています。地面近く、低いところでまっすぐ水平方向に撮るのは「ローポジション」での撮影なんですね。よく言われる「子供目線」とか「ペット目線」は「ローポジション」のことだと思います。いっぽう、下から上方向にに撮るのが「ローアングル」での撮影です。ビルの屋上で、真上に旋回するヘリコプターに向かって撮るのが「ローアングル」での撮影...
ウジェーヌ・アジェという写真家がいます。写真史では必ずと言っていいほど出てくる人です。画家になりたくてパリに出てきたのですが、画家ではなく写真家として「美術家のための資料」にとパリの街を撮り集めることで生活の糧にしました。生活は恵まれなかったみたいで死ぬまでパンと砂糖とミルクを常食としていたというカッコいい写真家だったと思います。アジェには他人事だからそんなふうに言えるんだと怒られるかもしれません...
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
道頓堀にも撮影に行きましたが「ここ、日本?」なんて思えてくるのです。来るごとに。まるで自分が異邦人みたいな感じがします。まあ異邦人というのはカッコつけすぎでよそ者、場違いな人とということですね。いつも「お邪魔しました」とサッサと立ち去るのでした。...