言葉に出来ないから写真に撮ると言いますが言葉に出来るから写真に撮れる場合がほとんどだと思います。言葉に出来ないことを写真にすることは可能だと思いますがそのような写真はものすごく少ない気がします。...
写真が「光の痕跡」から「データ画像」になった今、写真に写っているのは何なのでしょう?写真はホントとウソの間を行ったり来たりします。「バーチャル」のほうが「リアル」なのかもしれません。
1件〜100件
カメラを持っていなければそんなことは起こらないのですが、カメラを持っているばかりにいろんな目には見えない何かにぶつかって行くように感じます。視線をぶつけるというのでしょうか。見えないものはもちろん写らないので、あくまで感覚としてですが。それは不思議な感覚であって、ある意味快感でもあるのです。写真を撮るとは、見えない何かに自分の何かがぶつかっていくことかもしれません。写真は何かと何かのぶつかり合いな...
「おっ、たまにはいい写真が撮れたかも」と自惚れ。「あかん、全然これといったカットがあれへん」と自己嫌悪。自惚れと自己嫌悪を行ったり来たりで大忙し。でも、自惚れと自己嫌悪は同じコトのウラオモテ。意識したいのは「自分」ではなく、「写真」。いつになったら「自分」にこだわるのではなく「写真」にこだわれるようになれるのだろう。たわしみたいな「わたし」は放っておいて。...
「コミュニケーション」は「お付き合い」。「アート」は「どつき合い」。ちなみに「どつく」というのは「なぐる」という意味の関西での言い方ですがここでいう「どつく」は身体にふるう暴力ではなく人の内面を揺さぶるという意味合いで使っています。念のため。まあ、写真で揺さぶるのは言うほどに簡単ではないです。無理やり揺さぶっては迷惑でしょうし・・・でも「なにすんねん!」とよく怒られるのがアートなのかもしれません。...
自分にカメラを合わせるのがカメラマンだとしたら、カメラに自分を合わせるのが写真家だと、単純ですが言えると思います。カメラの話は盛んに行われているようですがカメラのことではなく写真を見せてほしいと思います。楽器のこともいいのですが、演奏のほうをファンは聴きたいのです・・・...
デジタルカメラ技術は進化しても、写真表現が進化するわけではないこともフィルムカメラに関心を寄せる若い人たちは感じているのではないでしょうか。写真が上手くなることは進化であり、進歩でもあるのですが表現は進化とか進歩とは直接には関係がないからです。技術の簡単さと複雑さの違いとは別のところにアートというモノがある気がします。アートと職人技を必ずしも結びつけなくてもいいのでではないでしょうか。カメラやレン...
デジタル写真の画像はハリボテ感があって、それがとてもいいです。表現とかアートとかで悩んでいるフリをしなくてもいいのでエネルギーを温存できます。写真は美的感情が左右するというより金的勘定が左右するアートなのかなと思えてきます。...
写真は本来は単純なものであり、もっと言えば簡単なものだったと言ってもいいと思います。デジタルカメラの進歩(進化?)がその写真の本来の姿を暴露しました。写真は科学技術の力を借りれば誰でも簡単に綺麗に写せるものであることを・・・です。そのデジタルの本性にそれとなくでも気づきスマホカメラなどでデジカメの簡単さに飽きてきた若い人たちを中心にフィルムカメラが人気になっているのは、それが理由のひとつではないで...
約2年ぶり、細かく言うと1年と8ヵ月ぶりの天王寺駅周辺は変わったようで変わってないようで、「どっちやねん!」でした。新世界もこの2年の中では人も多かったのですが禍が襲ってくる前と比べるとまだまだなと感じました。コテコテの赤が物足りなさそうでした。ポテポテしながら撮影しました。...
去年は用事で行くことがなかったので2年ぶりの天王寺でした。てんしば(天王寺公園)から新世界へと撮影してきました。朝からドンヨリ今にも降り出しそうだったのですが通天閣の真下での撮影が終わるまで待ってくれました。天は私を見放さなかったので、うれしかったです。夜明けも近いのでしょうか?...
前回書いたことと矛盾するようですがいい写真を撮るためではなくて、写真について考えるために映画や音楽や絵画などにも関心を寄せる必要はあると思います。写真が「真を写さなくなった」今、写真はそのアイデンティティーが彷徨っているからです。「私は誰?」・・・そんな写真の声が聞こえてくるように思うのですが幻聴でしょうか?...
いい写真を撮るためには映画や音楽や絵画などにも興味を持ちましょうとよく言われていますよね。確かにそうなのですが、少しストーレト過ぎるようにも思います。写真以外に興味がなくても、いい写真は撮れそうな気がするのです。健康のためにといって嫌々散歩しても、むしろ逆効果ではないでしょうか。功利的に写真を考えるとつまらなくなると思います。...
音楽の楽器と、写真のカメラとはどう違うのでしょうか?カメラについて語ることは、写真とどう関係するのでしょうか?...
写真の投稿だけです。...
私が撮った写真というより私が撮らせてもらった写真だと思います。写真は撮るというより撮らせてもらうものではないでしょうか。...
もう3年目になりますが集団マスク顏の光景には慣れません。向こうから団体で向かって歩いて来られると思わず逃げ出しそうになります。...
写真の撮り方の本に「そう」撮りなさいと書いていなかっても自分が「そう」撮りたかったのなら「そう」撮ってもいいのではないでしょうか。自分の思うように「そう」撮ったほうがso happyになれると思います。...
フィルム写真が一定数で人気です。ブームとまで行かなくてもよく話題になります。ところで、フィルム写真のことを経験することはいい写真を撮るための必須条件ではないです。「興味がなければいいじゃん、ジャンバル・ジャンです」それにフィルム写真をやろとするとフィルム代,DPE代とけっこう経費が掛かります。それで丁寧に撮るようになるという意見もありますが丁寧さがいいい写真を撮れることを約束してくれるわけでもありま...
写真は目の錯覚を利用したアートだと思います。遠近法がそうですよね。また、平面なのに立体に見せようともします。それに肉眼はボケを見ることはできません。でも、肉眼的描写にこだわるのではなく平面的描写にこだわるのが写真だと思うのですが。...
大げさかもしれませんが、イノチというモノは純粋なものだけではなく不純なモノも必要としているのではないでしょうか。真水では魚は住めません。人間のカラダには菌などが同居してくれています。菌を不純だなどと言ったらバチが当たりそうです。ホントの私だけで生きてゆけるのでしょうか?ウソの私も私ではないでしょうか?どちらも生きている私なのだと思います。写真も完全アルコール消毒済のようなカットは安心して見れますが...
「同じようで違う」ほうが「違うようで同じ」よりいいと思うのです。同じような写真を撮りながら人とは違う写真が撮れればいいなあと思っています。私にしか撮れないとか、個性的な写真とかもいいのですが見た目だけでは分からないのが写真ではないでしょうか。「どのような写真か」ではなく「どうしてその写真か」だと思います。...
道頓堀を知っているではなく道頓堀と言う場所を知っているに過ぎないということなんですね。道頓堀と言う場所で撮ったからと言って道頓堀の極々一部の、それも表面、上っ面の一瞬を撮ったのに過ぎません。私の写真に関して言えば、それは道頓堀を撮っていないのとほとんど同じことだと思います。ただ、加齢臭をふりまいて歩いてみただけなのです。...
通りすがりの○△□220425・嘘っぽい春にUkiUki 1
同じ場所を撮っていると新しい発見とかいうことにあまりこだわらなくてもいいのかなと思えてきます。新鮮さに感動することばかりにこだわっているより淡々と撮っているのも悪くないと思う今日このごろです。ウキウキしなくてもシャッターを押せば何がしかの像が写ってくれるのが写真のいいところだと思います。それがとてもウソっぽく見えてきたとしても・・・...
あえて言えば、写真ー被写体中心ー写真家として、デジタル画像ー現像(レタッチ)中心ーカメラマンとして・・・ということかなと思います。...
写真の投稿だけです。...
フイルム時代に始めたので、写真を見るのはプリントか印刷物でした。つまりほとんどは下向きに見ていたのです。デジタル時代になって、写真を見るのはモニターが多くなりました。つまり正対して見るようになったのです。写真は下を向いて見たほうがしっくりする気がするのですが時代遅れの感覚なのだと思います。スマホは下を向いて見ますが画面が小さすぎる気がします。...
人間だけが妄想できる生き物なのでしょうか。...
街なかで撮影しているとここもある意味で「大自然」なのかなと思えてきます。街はもう一つの「自然」なのでしょうか。「自然」って何なのだろうと思います。...
約5か月ぶりに日本橋、難波へ撮影に出かけたのですが街なかで撮影するのはやはり緊張します。1か所に留まらないで、出来るだけサッサと撮るようにしているのですが、カメラの操作がもどかしくてどうしてもモタモタしてしまいます。私にはストリートスナップは無理のようです。...
「それの瞬間」を撮ることは、「それの瞬間」以外は撮ることはひとりの写真家には出来ないことを意味します。そして「それの瞬間以外のそれの瞬間(くどいですが)」はその瞬間にはほぼ無限に存在します。それは「それの瞬間」を撮ることはじつは何も撮っていないことと同じだと思うのです。「それの瞬間」をすべて撮ろうとすると無限大の写真家を必要としますから物理的に不可能です。写真には何も写っていないのです。「それ」の...
写真は撮った後がタイヘンなアートだと思います。その被写体を「どう撮るか」ではなくその被写体の写った画像を「どう受け取るか」が問われるからです。写真家は「どう撮るか」という主体的な立場ではなく「どう受け取るか」という、受け身的な立場のアートが写真だからではないでしょうか。...
写真の投稿だけです。...
被写体に言葉を被せて撮るのではなく、被写体に被さった言葉を剥がすのが写真の役割ではないでしょうか。でもそれは簡単なことではないんですよね。...
写真はフレーミングのアートですよね。フレームがなければ成り立ちません。そのフレームは枠ですから、不自由なものです。そうだとすると写真は自由を目指すのではなく不自由をどう楽しむかということが大切な気がします。枠があるからワクワクできるのですというのは言葉遊びかもしれませんが。...
縦位置は上下の空間の扱い方が難しいと思っています。上には空が、下には地面が入りやすいからですが、空や地面に意味を持たせるのは難しいです。それと、縦位置の写真は隙間から覗いているように感じることがあります。横位置の写真のほうが落ち着いて見れるように感じるのです。上下にモノを見るより左右にモノを見るほうが、日常的にも多いからではないでしょうか。写真を撮る時にもキョロキョロしますが、上下にキョロキョロと...
同じ景色の中にいることってよくありますよね?最近なら満開の桜景色といったところでしょうか。でも、自分が見ているように他の人も同じようにこの桜の満開景色を見ているわけではないです。そのことを確認するには写真に撮るのはいい方法です。この桜の満開景色は客観的には1つしかないのですが主観的というのでしょうか、実感として、リアリティーを持ってとしてはこの桜の満開景色はここにいる人の数だけあるのだと思います。...
写真は自分の思い込みをチェックするのには最適なメディアかもしれません。「思いそのもの」は写りませんが「思い込み」は反映させている気がします。「これはこうに違いない」というふうに・・・です。...
「いい写真」とは好き嫌いというより気になる写真のことではないでしょうか。「いいカメラ」とは価格や機能ではなく自分が撮りたい写真を撮れるカメラのことではないでしょうか。今さらなのかもしれませんが。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
かつて写真をどう上手く撮るかが問われていました。ピントをバッチリ合わせられること。それも、コレといった被写体を見つけたらテキパキと動き、間髪を入れずに・・・です。カメラをブラさないで写せること。出来るだけ低速でも、アマチュアなどが「へー、このシャッタースピードでブラさないなんてスゴイですね」と感心させるくらいに・・・です。でも今、デジタル写真の時代です。カメラのオートフォーカスの精度と速さが、手ブ...
人は新しいから感動するのでしょうか?でも、完全に新しいことには感動できないのではないでしょうか?自分が理解できないことには「???」ではないでしょうか?人が感動するのは陳腐さが新しさを装って現れてくれたからではないでしょうか?そうだとすると人は陳腐さに感動しているのだと思います。新しい写真表現というのも、もしかすると全然新しくないのかもしれません。古いから安心して感動できる気がします。...
フォトグラファーとカメラマンとの違いって、あるのでしょうか?カメラマンだとプロカメラマンとかアマチュアカメラマンとかありますよね。でも、プロフォトグラファーとかアマチュアフォトグラファーというのはあまり聞かない気がしますがどうなのでしょう?写真界に詳しくないのでよく分かりませんが、フォト爺という言葉も見ないみたいですし。まあ、どうでもいいことなのかもしれませんが2つの言葉があるのですから違うような...
誰でも人とは同じことはしたくないと思いながら結果としては同じことをやってしまう・・・そんな気がします。写真も誰にも撮れない、つまり人とは違った写真を撮るんだ!と張り切るのはいいことなのですが、写真ってほとんどのことはやりつくされているようにも思います。デジタルのことはよく分からないので、まだまだ出来ることはあるのかもしれませんがそれは写真というより、デジタル画像ではないのかな?と思っています。いず...
インターネットという世界の中でカメラの国はものすごく人出が多くてにぎわっていますが写真の国は人影がまばらでとても閑散としています。まるで真夜中のようです。...
写真の投稿だけです。...
まったく桜を撮らないで、桜を画面に入れないで桜を写せたらいいなあと思っています。言葉遊びみたいになりますが、自分には撮れないのですがたぶん、それは可能だと思っています。桜を連想させるとか言うのではなくて『桜そのもの』を撮るということです。満開の桜を撮っても『桜そのもの』は写っていない気がします。「桜の写真」はプロカメラマンの方もたくさん撮られているみたいですが『桜そのもの』を写している写真家の人は...
桜が満開のいつもの公園は人がいっぱいで、こんなに人がたくさんいるのを見るのは久しぶりでした。3年ぶりでしょうか。桜もうれしかったのではないでしょうか。とてもよかったです。桜を撮るのは主目的とせずに、少し遠いのですが、駅前の商店街とその近くにあるお稲荷さんの神社にも行って撮影してきました。...
桜を撮ろうとするとどのように切り取ってもいいように思えます。桜は白っぽいフワフワしたカタマリなので、空に浮かぶ雲とよく似ている気がします。雲も撮りにくい被写体だと感じています。まるで雲をつかむ気分です。...
通りすがりの○△□220304・PO・KA・PO・KA 11
写真は考えて撮るものではなく撮ってから考えるものだと思っています。...
「写真を撮ること」だけが、言葉は変かもしれませんが「写真する」ではないと思っています。そして「いい写真」の撮り方は誰も教えてくれないのでビギナーであろうとも自分で探してゆくしかありません。でも、それが写真の面白さの一端ではないでしょうか。「いい写真」というのは写真の世界全体、つまり写真の世界に住んでいるすべての人たちの中から現れてくるとしたらアマチュアでも、ビギナーでも、写真が下手でも「いい写真」...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
春が呼んでいる気がしたのでいつもの公園に春撮りに行ってきました。春とファインダーを通じてにらめっこしたら春のほうが元気いっぱいで、こちらは完敗でした。家に帰ってコーヒーで乾杯し返したら少し元気を取り戻すことが出来ました。もう少し体力をつけて、改めてあいさつに行きたいと思います。...
通りすがりの○△□220304・PO・KA・PO・KA 10
今のところ、写真は2次元の映像ですが、近いうちに3次元の映像になっても(既になっているかも?)「瞬間」の映像であることは変わらないと思います。例えば1時間という長時間露光も1日で言えば24分の1の映像なのですから。人の一生の80年も地球の命の時間と比べたら、「アッ」という暇もないほとんどゼロに近い瞬間だと思います。写真が瞬間のアートだとして、人を惹きつけるのは例えゼロに近い時間であっても、せめて目に見える...
「もう食べられない!」胃袋には限界というのでしょうか、満腹というのがありますよね?ところが写真の胃袋は底なしで満腹というのがないみたいです。食べても食べても=撮っても撮っても「もうたくさん!」という満腹感が訪れません。いつまでたっても写真する人を飢え続けさせる・・・写真にはそんなところがあるのではないでしょうか。たくさん食べるほど、お腹がすいてくるとしたら名前の付いていない、一種の病気かもしれませ...
「写真に正解はないのだから、自分で正解を作ればいいんですよ」などと言われると、「ふーん、そうなんだ」と思ってしまいます。何となく分かった気になるんですね。でもコトはそう単純、簡単ではないことは、いざ撮影に臨めばわかります。「えっ?どれが正解?」耳に心地よい言葉が実際には役に立たないことがよくありますよね。「正しい」という文字にこだわっていると前に進めません。「正解かどうかは分からないけれど、こんな...
「写真に正解はないですよ」と言いながら「あなたの写真はすべて正解なのです」と言っているんですよね。言葉の使い方というのは、何十年経っても慣れません。言葉を使っているというより言葉に使われている気がします。...
ハイアングルはパターン化できるので画面を整理しやすく、 ローアングルはハイアングル以上に非日常の視野感覚なのでインパクトを感じやすいと思っています。そのことはハイアングル撮影やローアングル撮影はかなり気を使う撮影だということを意味するのではないでしょうか。ハイアングル撮影、あるいはやローアングル撮影であることを写真を見てくれる人に意識させないほうがいいからです。手の内を見られたくないからです。やは...
投稿写真とは関係ありませんが、もうすぐ桜の季節ですね。桜の写真は、花びらだけを撮っては図鑑のカットみたいになるし桜の木全体を撮っても、桜のポートレート写真みたいになるのでどう切り取っていいか悩みます。まあ悩むほど、桜の写真を撮っているわけではないので悩んでいる気になっているだけだと思います。...
「好きこそものの上手なれ」というのは技術の習得に関してのことなんですね。嫌々やっていてはいつまでも身につきません。写真についても好きなほうが速く上手くなるのは間違いないですよね?でも、好きだからこそ上手い写真は撮れるようになってもいい写真が撮れるようになることとはまた別のことのような気がします。恋は盲目、好き過ぎるということは写真そのものを見えにくくする一面もあるように思います。好きとは違った何か...
奈良と言っても私の場合は近鉄の奈良駅周辺と奈良公園が撮影の場所です。ずっと1年に2回くらいの割合で撮影していますが知っていることはほとんど、いいえ全然ありません。何も分からずに撮っているので、ある意味では失礼なカメ爺です。ただ、写真はモノの表面を撮れば写るのがとてもいいです。...
奈良公園に撮影に行ってきました。特に意識したことはゼッタイに鹿は撮らないことでした。意識しただけでした・・・・...
アーティストとかクリエイターという言葉は苦手です。写真で言えばフォトグラファーも。たぶん、そういった言葉に劣等感があるからだと思います。ただ、写真にはそれらの言葉はなくてもいい気もします。アーティストでもなく、クリエイターでもなく、フォトグラファーでもなく、できればカメラマンでもなく、写真家になれたらいいなあと思っています。...
今はモニターで、いろんなの写真家さんの作品を見れるようになりました。家にいても出来るのですから、個人的にもほんとに便利でうれしいことです。でもちょっと引っかかるところもあるんですね。モニターの色についてです。今見ている、この写真家さんが自分のモニターで見ている色と私の家のパソコンのモニターの色とは明らかに違うと思うのです。カラーの場合は特に色が大事ですからやはり写真は、出来ればですが、プリントや印...
例えばですが「誰でも必ず上手く撮れる方法」があったとします。そのことは次のことを意味するんですね。「誰でも」=「私でなくてもいい」「必ず」=「想定通りのカットしか撮れない」「上手く」=「上手いという枠から出られない」誰が撮ってもいい写真。結果が分かっている写真上手く撮ることしか見えない写真。下手でもいいから、結果が分からなくてもいいから、自分が撮りたい写真を撮ればいいのに・・・と思うのですが。...
「世界=実際の風景は写真より美しい」と思ってきました。でも、あるプロの写真家さんが「自分のこの作品は実際の風景より美しいかも」みたいなことをブログか何かで書いておられるのを見たことがあります。そうなんですね。今「写真は世界より美しく」なったのだと思いました。...
いつもの公園へ撮影に行ってきました。いつものような写真を撮りました。いつものように投稿します。...
撮影した当初にはよく見えていたカットが時間が経つにつれて特にいいとは思えなくなることがよくあります。逆に時間が経ってから気になってくるカットもあります。こちらのケースはあまりないのですが写真の面白いところだと思っています。ただ、その後も自分の撮った写真についてはコロコロ評価が変わるので、落ち着きどころが見つかりません。...
どんなに世界が進歩しても、永遠に「すべて分かること」なんてないのだと思います。「分かったこと」のその先には永遠に「分からないこと」が姿を現わすのですから。「それ」を写真に撮るのは「それ」のことを本当は何も分かっていないことを分かるために撮っているような、撮れば撮るほど見えなくなっていくような気がします。場所についても同じことが言えると思います。大阪城公園は何度も撮っていますが、ほとんど何も分かって...
絵画のマネをするのではなくて絵画と同じことをやっていないかをチェックするために美術の勉強が必要だと思っています。写真と絵画との「構図」についての考え方の違いとか、「美術史」とかについてですね。「勉強」という文字を見ると焦点が合わなくなったり「勉強」という言葉を聞くと意識が薄れていく特異体質の私ですが、これらのことについてはガンバってみたいところなのです。...
梅林で写真を撮っている人のほとんどは思いっきり梅の花びらに近づいて撮っていました。「写真は引き算です」をまさに実践しているのでしょうか。撮りたいものだけを撮り、要らないものは画面から省く・・・それを端的なことにするには近づくのがいちばんですよね?そんな中で私くらいでしょうか、。梅の木から離れて写真を撮っているカメラマンは。たぶんですが、梅林そのものより梅林で起こっている出来事みたいなものが撮りたか...
写真では「量を伴わない質はない」とよく言われます。百発百中は写真では不可能だからです。また、撮影中はどのカットがベストかは判断できないから微妙にアングルなどを変えてたくさん撮る必要があるんですね。でも反面、「質が伴わない量は無意味」だとも言えます。ゼロはどんなに大きな数を掛けてもゼロですし、仮に質を数字で表すと1よりは10のほうが同じ数を掛けても10倍内容が大きくなりますよね。結局、量も質も大事だとい...
大阪城公園へ撮影に行ってきました。思ったより人出が多かったです。梅林ではカメラマンさんをたくさん見ました。ライバル意識がメラメラと燃え上がりました。...
今回は水平をあまり意識しないでファインダーを覗いたらすぐシャッターを押すことを優先して撮ろうと思って撮影を始めました。途中まではそうだったのですが、機種をキャノンに替えたらまた水平が気になり出しいつものようにシャッターを押すタイミングがモタモタしました。要するに急いで撮るほどの瞬間が見えていないわけなんですね。相変わらず、何も写っていないカットを量産している気がします。...
通りすがりの○△□211115・白い秋を紅の葉っぱで包んでみた 4
発表した後は見る人に委ねるというのは好き勝手に見てくれていいというのとは違います。自分なりの表現意図はあるのですが分からせようとして説明過多で押しつけても無駄だとということです。タイトルやキャプションなどの最小限の言葉は必要ですがでそれで伝わらない時は仕方のないことと受け止めるというのが見る人に委ねる=任せるということなんですね。100人の人に言葉としてして伝わるより1人の人に写真として伝わるほうが写...
通りすがりの○△□211115・白い秋を紅の葉っぱで包んでみた 3
「好き」ということには必ずセットで「嫌い」が含まれていると思います。無条件で「好き」ということはありません。写真も楽しいうちは「好き」でいられるのですがやがて飽きてきたりして嫌になってくることもあると思います。楽しいという条件が薄らいできたからなんですね。でも、好き嫌いの先に写真の面白さがある気がするのです。楽しいか楽しくないかにこだわっていると、そこへ行けないと思うのですがそのこだわりから離れる...
これらのカットを撮ってからもう3カ月になります。冬の入口が見えていたころです。いま、春の入口が目の前になりました。来年のことを言うと鬼が笑うそうですが去年のことを言うと鬼は泣くのでしょうか?カメ爺の素朴な疑問です。...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 7
最近はいろいろ試しています。焦点距離を変えたり、アートフィルターを使ってみたり・・・でも結局、小手先だけでは何にもならないという自明のことの確認作業になっているようです。...
春が呼んでいる気がしたのでいつもの公園に撮影に行きました。土曜日のせいもあってかヒトもハトも多かったです。...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 6
自分の目に賭けるのがカメラマン、レンズの目に賭けるのが写真家だとしたらややこしいです。...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 5
デジカメから一眼レフが無くなっていくみたいです。あの「光学ファインダー」のカメラが姿を消してゆくのが残念に思うのは昭和の枯れススキみたいなカメ爺の感傷に過ぎないのでしょうね。自分自身、デジカメの液晶ファインダーのお世話になっているのですから時代の流れだと思います。ただ「光学ファインダー」の見え方は貴重な気もします。対象を見ている時の言葉にしにくい感覚は液晶のファインダーが高性能になっても、味わえな...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 4
写真に限らないと思うのですが好きな写真家のマネすることはとても大切な気します。正確にはマネしようとすることですよね。使っているカメラやレンズなども気になります。自分でも手に入る場合は、同じ機種を買ってみて「○○(好きな写真家さんの名前)だあ~」みたいな気分を味わうのも悪くないです。ただし、マネしてみて、ほぼマネできたつもり、もしかしたらかなりいい線行っているつもりでい続けるのはマズいと思います。写真...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 3
今日はカレンダーに「2」が6つも並んでいます。「にゃんにゃんの日」とも言うそうですね。「2」は「ふー」とも読みます。「フッ、フッ、フッ、フッ、フッ、フッ」。私の場合、意味不明の笑いがこぼれました。6回も続けて繰り返すと息切れして情けなかったです。...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 2
私の使い方が適切でないのかもしれませんが「アートフィルター」で撮った画像はちょっと変ですよね。ノーマルな画像というのでしょうかストーレトの写真画像と比べるとずいぶん不自然な画像に思えます。写真そのものは本質的に人工的、つまり不自然な画像ではあるので、これはこれで面白いとは思います。ただ、それは個人的には新鮮な視覚感覚なのですがいずれ飽きてしまう気もしています。「アートフィルター」を使う必然性みたい...
通りすがりの○△□220218・Song of happy cloud 1
今はレタッチの知識が無くても簡単にそれっぽい写真が撮れてビックリしますね。「何となくアートやなあ」写真というのでしょうか。上手く使いこなせる人はすごいと思うのですがフィルター効果を除いたら、相変わらずの写真という現実に直面しました。まあいろいろやってみるのも悪くはないということでこれで懲りずに、また別のフィルターで撮ってみるかも分かりません。別の私は「もうやめとけ」と言っていますが・・・...
被写体の面白さではなくて写真としての面白さだと思うのです。でも、被写体を写真家は超えることが出来るのでしょうか。...
オリンパスのアートフィルターで撮ってみたくなったので、いつもの公園に出かけました。ドラマチックトーンというのを選んで、いっぱい撮りました。使い方がよく分からなかったもののなかなか面白かったです。...
フィルム写真とデジタル写真と両方体験出来てよかったなと思っています。フィルムカメラが若い人中心に人気みたいですがその理由は何なんだろうと思ったりします。若い人はデジタルからフイルムへという時間の流れで興味を持ったのですから、カメ爺とはかなり違った感覚なのだろうと思います。デジカメの自由さよりフィルムカメラの不自由さが楽しいのだとしたら、面白いことですね。一部の人だとしてもデジカメの万能さに嫌気が差...
何ごとであれ「しんこくさ」がハッキリしたことを「かくていしんこく」というのでしょうか。いっぽう写真には、確定できないところがあります。これでいいとハッキリできないんですね。かと言って写真は深刻なものではないわけでもありません。撮る人、見る人しだいだと思います。アマチュアは深刻にならなくても楽しめる写真はとてもいいです。写真は呼吸が楽になるアートだと思います。...
写真は撮った次の瞬間、そこに定着されたのは過去の姿の像になってしまいます。それもその場の極々一部分しか写っていません。ほとんど何も写っていないことと同じではないでしょうか。写真より人間の記憶のほうが確かだと思います。大切な瞬間は写真に撮らないほうがいいのかもしれません。その場にいなかった人には、その写真を見せられても大切な何かは、ほとんど伝わらないことが多い気がするのですが。...
通りすがりの○△□211115・白い秋を紅の葉っぱで包んでみたら 2
写真というのは撮った後がタイヘンな気がします。自分に「これは何とかまあまあのカットやろ」と思い込ませるしかありません。「写真に傑作という言葉は要らないんちゃう」と自己弁護しながら、写真を続けています。...
通りすがりの○△□211029・秋晴れには飴ちゃんがよく似合う 10
体の胃袋には個人差があるにしても満腹というモノがありますよね?ところが写真撮影の胃袋、底なしなんですね。「これだけ撮ったからもうしばらくは撮らなくてもいい」という満腹感みたいなものは写真をやっていると感じることは少ない、いいえ、ないのではないでしょうか。結局は撮り続けるしかないのですが、そのことはいつまでも飢え続けることと同じことなのかもしれません。...
まだまだ寒いですが、日差しには元気が少しずつ戻ってきたようでよかったです。...
森山(大道)さんが街なかで撮影しているところの動画を見たことがあるのですが、とても素早いですよね。考える前に体が動き、カメラを構えた時はシャッターを押している、そんな感じの撮影シーンでした。「オレにはとても真似できない・・・、あっ、はっは」と笑うしかなかったことを、今でもよく覚えています。 ...
去年の秋の終わりに撮ったカットです。ミナミで社会実験が行われているのをTVで見たので出かけました。「ミナミ」は「皆見」だと自分でも意味の分からないことをマスクの下でブツブツ言いながら撮影しました。全然、見れませんでした。...
通りすがりの○△□211115・白い秋を紅の葉っぱで包んでみた 1
3カ月前に撮影したカットを投稿します。整理整頓が苦手で、何が何やら分からなくなっていますが今のところ、気は確かだと思っています。たぶん。まだ紅葉は進行形の大阪城公園でした。むかし、ブログのニックネームを「ジョー・オオサカにしようかな」と言ったら、写真仲間から「それだけは辞めとけ!」と言われたことを公園に来るたびに思い出します。もっと他に思い出すことはないのかと自分に言いたいです。...
今回はいろいろな焦点距離で撮ってみたくなったのでいつもの公園に撮影に、昨日行ってきました。焦点距離を変えると、同じシーンでも画面の印象が変わって楽しいのですが少し撮影のリズムがバラバラになる気がしました。私はモタモタカメ爺なので、もともと撮影のテンポがよくないのですが改めてズームレンズでの撮影の難しさを感じました。ズームはレバーよりヘリコイド式のリングのほう操作しやすい気がします。一眼のほうがズー...
写真の投稿だけです。...
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言葉に出来ないから写真に撮ると言いますが言葉に出来るから写真に撮れる場合がほとんどだと思います。言葉に出来ないことを写真にすることは可能だと思いますがそのような写真はものすごく少ない気がします。...
「AERA 5月17日号」の記事を読んで感じたことを書きたいと思います。撮り鉄さんのマナーについて書かれています。ただマナーについてとやかくいう気はありませんしテーマが大きくてどうすればいいかも分かりません。私は「生きているだけでマナー違反」なカメ爺ですがかと言ってマナー違反の撮り鉄さんを擁護する気もありません。気になったのは記事タイトル、「『いい写真』しか頭にない」です。「いい写真」という言葉は私もよく...
写真は観念のイラストレーションなのでしょうか?思っていることをカタチ、つまり言葉にしたものなのでしょうか?写真が小説の挿し絵みたいなもののように扱われるのは少し残念な気がします。写真にとって言葉は仲のいい友だちではなく出来れば手助けしてほしくない存在だと思います。写真より言葉が目立つのは面白くないからですがどうしても声を掛けてしまうんですよね。もちろん言葉の手助け、つまり説明が必要な写真もあります...
くしゃみやあくびは必要だから体が行っているものですよね?それらは体にとって大事な反応、つまり表現なのですから無理に抑え込もうとするのは体にはよくないと思います。写真もくしゃみやあくびと同じような表現行為だとしたら写真アタマ(変な言い方ですが)の指示より写真カラダの反応として撮ったほうが写真ゴコロの健康にはいい結果をもたらす気がします。...
暑いです。久しぶりにこの言葉を使いました。今年は梅雨入りが早そうだし、その後に控える酷暑があるのでそろそろ「写真夏眠」の準備にかかりたいと思います。準備と言ってもゴロ寝するだけで、おうちでカメ爺はフテ寝ホームです。...
前回の続きです。野球で例えると写真を見てくれる人はバッターです。ただ野球と違ってバッターは自分の好きなバットを持ってボックスに入れます。金属バット、木製バット、黄金バット・・・何でもありです。バットはそのバッターの好き嫌い、価値観、美意識などで出来ています。だから自分が振り回せるなら、ウチワみたいなバットでもいいのです。ウチワもめすることはありません。そのバットでバッターが自分の思いというチカラで...
写真を野球のある部分だけで例えてみたいと思います。写真家はピッチャー、写真を見てくれる人はバッターとしてです。実際の野球と違ってバッターはピッチャーを見てバッターボックスに入るかどうか選ぶことが出来ます。いっぽうピッチャーには誰がバッターボックスに入ったか見えないことが多々あります。デジタルの時代になってさらにそのようなことが激増しました。いずれにしても、ピッチャーは自分の選んだ好きなボールを投げ...
知り合いにカメラを向けられると、ほとんどの人はよそ行きの顔をします。ピースサインでニッコリし、そして少し身構えて・・・誰もありのままの自分なんて撮られたくない、つまり好きではないのでしょうか。それとも自分のありのままの姿はいつでも撮れるからでしょうか。でも、よそ行きの顔もその人のありのままの顔のような気もします。ありのままの私というのは、「私という思い」が作り上げた不在なもの、幻想みたいなものでは...
表紙に著者の顔が大きく印刷された本は苦手です。街なかの大きな顔の広告も苦手です。対人恐怖症だからだと思います。...
感動が必要なのは疲れているからでしょうか?それで「元気をもらう」などと言うのでしょうか?でも「感動!感動!」と「感動の追っかけ」になるのも新たな疲労につながる気もします。「静止して何もしないこと」・・・そのほうが元気が回復することもあると思うのです。...
写真を説明しようとし過ぎている気がします。...
写真は何かを理解するために撮るものなのでしょうか?理解していることを確認するために撮るものなのでしょうか?「それ」を理解したというのは「それ」に対して失礼な気もするのですが。...
写真がくしゃみやあくびであっても構わないと思います。...
伝わらなくても構わないということではなくて伝わらなければそれはそれで仕方がないということ・・・だと思います。何が何でも伝わらなければ、伝えなければ意味がない・・・というのは少しシンド過ぎるのではないでしょうか。...
ブレたりボケたりして何か分からないよりピントが合っているのに何か分からないほうが面白いです。...
初心者、入門者向きの機種のキットレンズはズームレンズが当たり前になりました。それらは確かに便利で使いやすいのですが、さらに40(あるいは35)ミリや100(あるいは80)ミリくらいの単焦点のレンズも加わるともっといいかもしれません。綺麗なボケにこだわるなら別ですが、高級タイプのようなF値の小さい、いわゆる明るいレンズでなくてもいいと思います。自分から動くということを自然に身に付けるには単焦点のレンズのほうが...
お子さん「ママ、パパが机に座って何かやっているよ」お母さん「パパはおうちでお仕事することになったの」お子さん「なんだか恥ずかしそうなんだけど」お母さん「自分の顔が映っているからでしょ」お子さん「ふ~ん。それで『てれわーく』って言うんだね」お母さん「・・・」...
フレーミングというのは考えようによってはとても暴力的な行為に思えてきます。なにしろそのシーンを「切り取る」のですから。...
人間の得意技は妄想することです。そして厄介なのは妄想を実際と勘違いすることです。「もー、そーなんですっ!」と言い張って。妄想が暴走するとトラブル、問題を引き起こします。人間の目はそれに加担しているのではないでしょうか。人間の目は「妄想への入口」かもしれないとしたら・・・ですが。...
騒がしくない写真を撮りたいです。...
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何気ない日常...でもそれは「今」しかない大事な瞬間。「わたしがいる場所」を確認する写真日記です。 みなさんの写真ブログを通じて、幸せを、そして生きている喜びを共有しませんか?
せっかくの人生、楽しいだけじゃなく やっぱり喜怒哀楽があって 刺激があるんじゃないかなぁ〜って思います。 日々の暮らし方、充実した休日の過ごし方、熱中していることなど色々感じたこと、思ったこと、様々な「喜怒哀楽人生」を提供していきましょう!!!
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カメラの知識や腕なんて... ただただ、好きなものや景色を思い出に。 カメラ在る生活って楽しい!! そんな記事をお待ちしています。
技術とかそーゆのじゃなくてさ ただ写真が好きなんだよ だから撮る それだけじゃん 写真って だから いいんだよ 上手いとか下手なんてないんだ。。
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