「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
「いい人ね」と言われし我は「どうでもいい」人。「いい写真ですね」と言われし写真は「褒めておけばいいでしょ」写真。嗚呼。...
人を不幸にするホントより人を幸せにするウソ。写真はそんなことを示しているように思います。...
通りすがりの○△□240727・slow dance with summer 7
「見たものを撮ればいい」というアドバイスが一部の人たちにSNSで受けているそうです。でもそれは「目に入ってきたものだけを撮ればいい」という意味ですよね。たしかに、その撮り方は楽チンだと思います。何しろ考えなくてもいいからです。迷うのはテーマが見つからなかったりするからですがそのようなことを考えないで片っ端から撮ればいいからです。でもそれでは、とても視野が狭くなるのではないでしょうか。「見たもの以外」...
たとえば艶歌とクラシックを同列に議論するよりも別々に言い合ったほうがいいですよね。どちらも音楽に変わりはないのですがその場合「音楽」とは何かをハッキリさせておかないと話がかみ合わなくなるのではないでしょうか。写真にも同じことが言えます。写真について語る時は、「写真」と「デジタル画像」に一応分けてはどうかなと思っています。「写真」はフィルム写真でできていたものであり「デジタル画像」はデジタル作業が可...
カメラ雑誌に、だったと思うのですが、あるプロの方が「構図」とか「フレーミング」とかを瞬間的に決める「感覚」が写真のセンスだと書かれていました。たしかにそう言うことはあるのですが、その感覚がいちばんに必要とされるのはコマーシャルフォト、広告写真の世界だと思います。あと、フォトコンテストの場合もそうですね。どちらも他者(消費者・広告主・選評者など)から評価されなければならない世界です。他人がその写真の...
写真の投稿だけです。...
AIがどうかという前にこの世界の何を現実だと、そしてどう思うのなんですよね。テレビドラマがその人にとっては切実な現実ということもあるのです。「○○ロス」という言葉がそれを表しています。そして現実を写したものが写真なのですが、私はとりあえず、写真と写真でないものの区別はレンズの前にあったものが写っているか・・・それを基準にしたいと思っています。あくまで基準、スタートラインなのでどこまで、それを広げるかが...
通りすがりの○△□240821・fu・きけん・na・なつ 2
この撮影の時は腕がなんとか水平までは上げられる状況でした。力が入りにくくてブルブル震えてシャッターボタンを押していました。カメラの手ブレ補正機能のおかげでほぼブレのない、目立たない写真が撮れました。...
写真を撮るということは、カメラマンが現実を操作して変えて撮ることではないと思っています。カメラの前にある現実に合わせてカメラマンが変わることで写真は撮られるのです。カメラマンは現実に従う人間であって、現実をコントロールして変えることができる人間ではないのではないでしょうか。「○○構図法」 で「その被写体=現実」を撮っていると、カメラマンである自分が現実を操作している気になって来ます。でも、そうではな...
行ってきました。「今回は道頓堀のほうへは行かへん!」そう決めて出かけました。道頓堀、週末でにぎわっていました。...
通りすがりの○△□240910・グリーン・GREEN・緑 2
ある写真家さんのSNSを見ていたら「9月も前半戦が終わり・・・」のようなことを書いていました。まあ半ばを過ぎたなあということなのですがその日々を「戦っている」という気持ちが強いのだろうかと思ったのです。私は「歩く白旗カメ爺」なのでちょっと恥ずかしかったりしました。でも、人って戦うのが好きな気もします。スポーツ、ゲーム・・・などなど。...
通りすがりの○△□240727・fu・きけん・na・なつ 1
「オレも森山大道みたいな写真を撮れるようになりたい!」と写真を始めたころは思っていました。なにしろ森山さんたちの写真はカッコよかったですから憧れの写真家の一人でした。でも歳を取ってくるにつれ、だんだんその気も失せてきました。「憧れ疲れ」。かと言って自分なりのとか、自分らしいとか自分にこだわっても仕方がないと考えました。「写真することが面白ければ、それでええやん」。写真は自己表現というより、被写体表...
通りすがりの○△□240727・slow dance with summer 6
このカメラでいい⇒自分が撮りたい写真が撮れるならこのカメラでもいいし、このカメラでなくてもいいということ。このカメラがいい⇒自分はこのカメラで写真を撮りたいので他のカメラのことは今は候補にはないということ。...
撮影しました。瓢箪と写真はどちらも「コマ」に関係があるので相性は抜群だと思っています。あとは結果が伴えば言うことはないのですが。...
「自分語り写真」が流行っているようですね。説明を読むと「自分はこういうところが好きで撮った」みたいな解説をしています。「自分の好き」に共感してくれる人、募集!といったところでしょうか。私の写真?「自分ガッカリ写真」は流行らないようです。...
「道頓堀」は「Dotonbori」になったんやなとそこで写真を撮っていると、じんわりと思えてきます。同じことを大阪城公園、奈良公園、新世界などでも感じますね。自分が場違いな人間に思えてくるのでした。まあ写真を撮るにはそうならざるを得ないともいえるのですが。...
カメラを持つようになってから日常のさりげない光景に美しさを見いだすようになったとよく言われています。でもそれは日常をカメラのフレーム、つまり四角い枠に入れて見るようになったからなんですね。フレーミングの美化作用です。そのことによって日常が美しく見えるようになったのです。日常そのものの美しさはカメラに収める前に気づいていてもよかったのです。カメラに頼らなくても気づいてあげられたのですから。写真を撮る...
通りすがりの○△□240910・グリーン・GREEN・緑 1
人工物というのは基本的には直線です。一方 自然のものは曲線が中心です直線というのは合理的、功利的なんですね 。無駄がありません。そこへ行くのに最短距離は直線ですから。いっぽう、 曲線は遠回りです。つまり 無駄が多いのです。経費が掛かります。でも曲線多い自然風景に人は癒されます。直線多いビル群の街なかは少し息が詰まってきます。このグラングリーン大阪は螺旋階段、建物施設など曲線で出てきたものが多く、公園以...
通りすがりの○△□240727・slow dance with summer 5
真似したい写真家を見つけること、その人の真似しようと意思すること、そのことに意味があるのではないでしょうか。結果的には真似しようとする写真家が本物なら真似することはできないと思います。そして真似できないことを実感することで、自分はどうするかを考えることから、「私の写真」は始まるのだと思っています。...
投稿写真は難波ですが、昨日、ニュースや動画で見ていた梅田の「グラングリーン大阪」へ行ってきました。やはり自分の目で見たいのです。写真に撮ったらどんなふうに写るのか、それも見たいと思い、出かけました。平日の正午前後だったのでテレビで見た時ほどの人出ではなかったですね。ただ、予想外というのでしょうかオープン数日のこれまでの人出が多かったので、一部の芝が傷んで養生のために立ち入り禁止になっていました。私...
「グラングリーン大阪」へ行ってきました。...
通りすがりの○△□240619・さよならはこんにちはのせい 10
以前の私はいわゆるバエ写真について、あまり好意的な見方をしていませんでした。SNSでもそんな記事を書いた記憶があります。でも最近は感じ方が変わりました。「バエ写真、全然いいやん」と。じつは、バエ写真について黒いバエと白いバエと分けて書かれている記事を見かけて少し違和感を感じて、改めて考えてみたのです。白いバエ=いい、黒いバエ=よくないというのは単純すぎる分け方ではと思います。白いバエには受け狙いの気...
「レイコー」、あるいは「レイコ」というと伝わらないとか古っとか言われると思っていました。でも最近、名前が復活してきているんですね。自分のことのようにうれしかったりもします。「オレも復活できそうやで」と言いたいのですが「それはないわ」と言われそうなので沈黙を守ることにします。...
通りすがりの○△□240727・slow dance with summer 4
鳥は空を自由に飛べるから自由なのだろうか。ものすごいエネルギーを使って空を飛ぶしかないのだ。ネコは自由気ままに暮らしているのだろうか。そばに人間の暮らしがあるからエサの心配がないので安心なのだ。デジカメは好きなように自由に撮らせてくれているのだろうか。本当はデジカメに振り回されているだけなのだ。...
写真はこれから、ますますデザイン的になっていくと思っています。在るモノから在りたいモノへが、より顕著に。被写体をありのままに写すことより被写体を自分の思うように変えることが普通になってきました。現実は自分が描きたいイメージのための材料にすぎません。写真の中の私はスーパーマン(古っ)も真っ青なのです。...
写真と写真でないものの区別はレンズの前にあったものが写っているか・・・それを基準にしたいと思っています。あくまで基準、スタートラインなのでどこまで、それを広げるかが、悩ましいのです。...
通りすがりの○△□240619・さよならはこんにちはのせい 9
これらの写真を撮ってから2か月半が過ぎました。時が経つのは速いですね。ここ梅田では今週末に、【うめきた2期】「グラングリーン大阪」先行開業という大きなイベントが待っています。まあ、ミーハーなところもあるのですがどちらかというと賑やかすぎるのも苦手なので落ち着いたら撮影に出かけたいと思います。...
通りすがりの○△□240619・さよならはこんにちはのせい 8
デジタル写真はまだいいのですがデジタル画像のヌメッとしたところは未だ馴染めません。引っかかからないというのでしょうかツルツルし過ぎて、現実離れしているのです。...
撮影しました。...
通りすがりの○△□240727・slow dance with summer 3
「綺麗」と「美しい」は違うと思うのですがAIはその違いが分かるのでしょうか。「醜」も「美」に含まれると思うのですがAIは醜さをどう扱うのでしょうか。...
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「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
写真ではよく「思いを伝える」と言われています。ではこの「思い」とは何を指すのでしょうか?大きくは次の2つに分けられると思います。①「思い」は「感情」のことです。コミュニケーションを重視します。コミュニケーションの対象はふつうは身の回りの人たちですがSNSなどを通じて不特定多数の人たちのことも多くなりました。時には自分のこともあります。思い出の瞬間の感情をより鮮明に自分に伝えてくれるからです。言葉はその...
20代に突入したころ、写真を始めました。それから半世紀以上経ったのですが、飽き性の自分がよく続けられたなと思っています。そんな私ですが、30代の半ばごろに突然、「モノクロはもう辞めた」とカラーに切り替えました。そんな日々を、年齢的に無理して首筋を傷めない程度に振り返ってみると20代、30代にも自分なりに「いい写真」は撮れていたと思います。あくまで自分基準の「いい写真」ですが「あの頃のほうが、いい写真を撮れ...
写真史としての名作は一定の評価はされているのですが今、有名な写真家にしても登場当初というのでしょうか初めて作品として写真を発表した時には酷評された人もいたのです。写真の世界の価値観みたいなものは時代とともに変わってゆきます。写真の世界に吹く、世間の風は気まぐれなのです。その時代の気分次第で、ヨイショされたり、ブーイングされたり・・・世間というのは怪物みたいなものではないでしょうか。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。「好き」と思い込んでいるだけかもとか「好き」と思い込まされているだけかもとか。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが・・・。...
写真が難しいのは立体を平面として見ることに慣れていないことも理由の一つだと思います。写真を撮ることには今の時代、スマホなどで小さいころから当たり前に行っているので「写真なんてチョー簡単!」と思ってしまうのですね。フィルムカメラの時代ですら、他のアートから「写真なんてカメラが撮ってくれるんだからいいよね」なんて思われていました。「写真なんて、ラ~ラ~ラ~♪」だったのです。でも、自分でカメラを本格的に...
行ってきました。...
写真をするのに才能は必要なのでしょうか。写真がアートだとしたら音楽や絵画のように才能が必要になって来ます。でも、あえて写真をアートだと思わなくてもいいと思うのです。たしかに、写真のセンスがいいなあと羨ましくなってくる人っていますよね。バズっている写真などを撮っている人たちが思い浮かびます。そうできるのは写真の才能があるからと言えるのですが、バズる写真だけが写真でないことは言わずもがなです。楽しみ方...
撮影しました。...
「暗黙の了解」というのがあります。わざわざ断らなくても通じることですよね。でも、今はそうではなくなってきました。「個人の感想です」ーふつう感想を述べるのは個人だと思うのですが。「CM上の演出です」ーこんなのマネする人がいるの?そして・・・「写真はイメージです」ー写真=実物なんてありえないのに。なんだかメンドクセー世の中になったものですね。...
写真に写っているからホントだろうから写真に写っているからウソかもしれないへ写真にとって激動の時代になったなあと昭和カメ爺はシミジミト思いながらシジミの味噌汁をすするのです。...
昔、正確には大昔、テレビドラマの主題歌に「七つの顔のおじさんのホントの顔はどれでしょう?♪」という歌詞がありました。今考えると、それは七つの顔のどれもホントの顔でもあり、ウソの顔でもあり、ホントかウソかはどちらでもいいことのように聞こえます。それぞれの顔で難題をカッコよく解決して、視聴者をスッキリした気分にしてくれればよかったのですから。まあ、ドラマがどんな内容だったのかは忘却の彼方なのですが、懐...
写真の投稿だけです。...
写真関係のSNSの記事を見ていると、ある言葉をよく見かけるようになり、気になって来ました。「私」関連と言うのでしょか、「私」以外に、「私」「わたし」「僕」「ぼく」「自分」「じぶん」などですね。そのような言葉が目につく記事の特徴は、その人が食べたもの、飲んだもの、家族や友だち、友好な関係の人たちなど、プライベートな写真が多い気がすることです。ふつうSNSは不特定の人たちに向けて発信されるものですから、その...
つくづく写真というのは被写体しだいなんだなあと思います。それでアレブレボケ写真は文句を言われたのです。肝心のどんな被写体が写っているかが分からないことで見る人を落ち着かなくさせました。人は落ち着かないことは嫌ですからイライラしてボヤいたのだと思います。その代表ともいえる森山大道が世界的な写真家になったのですが、それでも写真というのは被写体しだいなのは変わらないと思います。「いい写真」というのは写真...
デジカメが上手に撮れ過ぎてくるとフィルムカメラの上手く撮れなさが魅力的になって来る・・・揺れ動くカメラマンゴコロですが、次はどこへ向かうのでしょうか。下手は嫌ですが、上手くても面白くない・・・人間カメラマン相手にカメラたちも大変だなあと思います。...
最近は嫌々写真を撮っている気がしています。慢性の人生疲労にも悩まされているのですし。それなら辞めておけばいいのですがそういうわけにもいかないところがあるのです。あえて撮らなくてもいいよと言われると、それならともかく撮っておこうということなのです。別に記録とか、何かの役に立つとは思えないのですが撮らないよりは撮っておいたほうがいいようなという、何とも頼りない動機が親指を動かしています。...
天王寺は遠かったです。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが。...
今は犯罪用語みたいになってしまいましたが写真撮影は本質的には「盗撮」だと思っています。それなら「借撮」と言い換えてもいいのですがそんな言葉はないですし、拝借すると言ってもその姿を撮ることは切り取ることには変わりません。今はどうかは分からないのですが写真を撮られると魂を盗まれると怖れた人たちが世界のどこかにいると読んだことがあります。もちろん、われわれから見れば迷信ですが人間としてはとても真っ当な人...
かつて、カメラのファインダーのピント合わせやオートフォーカスの測距点は、画面の真ん中にありました。そのことは何を意味するのでしょうか?人は写真を撮ろうとする時、何も考えないと、無意識に撮りたいものを画面の真ん中に持ってきますよね。当然と言えば当然だと思います。画面の隅っこに小さく撮ろうとはふつうは、しないです。そうなんです。「日の丸構図」は写真撮影の原点と言えます。「日の丸構図」については、いろい...
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
主張には根拠が必要と言われています。自分の言いたいことは主観的なのでそれを裏付ける客観的で正当な理由が要るのですね。写真も「こう撮れ!」みたいなことが言われます。どうしてかと訊くと「なぜならみんな(多くの人)が、いい写真と言ってくれるから」のような返答が帰ってきます。少し理屈ぽくなるのですがある根拠にはその根拠を支える別の根拠が必要ではないでしょうか。そのことは堂々巡りを意味しています。正論が複数...
用事で出かけたついでに「新石切駅」周辺と「石切さん(石切神社)」周辺で撮影してきました。お天気で暑かったので意識を失う前に帰ってきました。...
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォトコ...
写真展などでキャプションとステートメントと言う言葉が使われます。どちらも文章なのですが詩なども使われるようですがとても簡単に整理してみました。キャプションは説明文です。それで客観的に分かりやすく書く必要があります。作品の理解を助けるために書かれるのですから難解な文章はNGです。いっぽう、ステートメントは声明文です。それは意思表示であり主観的なモノです。自分の写真観みたいなモノを今回の作品で反映させた...
私は多感、と言うより冷や汗の多い「多汗」な時代に写真を始めたので、どうしてもそのころのことが基準になります。デジタルの時代になったのにフィルムの時代の考え方から抜けられません。一時は「デジタルもフィルムも写真には変わらへん」と思っていました。でも、最近はデジタルとフィルムは明らかに違う、別のものではないかなと思い始めています。ただ、自分自身はこれまでのような写真を撮り続けると思っています。...
写真はボケやX構図で遠近感を出せますよね。絵画では遠近法と言うようです。写真は平面の画像なので実際には目から等距離にあります。それを前後に感じるのですから人間の目っていい加減なんやなと思います。...
「散歩」とは辞書的には気晴らしや健康のためにブラブラ歩くことと説明されています。でも、本来は特に理由などなくただ歩きたいからするもののように思います。季節や時間帯や天候などや距離・歩数は関係ないのです。まあ台風や大雨の時は向いていないと思いますが。数百メートルでも散歩は散歩です。嫌になったら止めればいいのですから。健康のためとか、1万歩歩くことが目標とかは散歩が手段になっている気がします。私の写真...
最近のことはよく知らないのですがアルバムというのを、紙のプリントで残している人ってどれくらいいるのでしょうか。スマホやネットのストレージのケースが多いのかもしれません。上手く整理しておけば、紙のアルバムみたいに、かさばらないですよね。でも、ネットだと思い出が宙ぶらりんのように感じます。紙のほうが、思い出がそこにいてくれるように感じるのですが今は、そんなことはない時代になったのでしょうね。...
森山大道さんたちが発表していたアレブレボケ写真のようなカットが、国鉄(今のJR)の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン(DISCOVER JAPAN)」に使われたのは、アレブレボケには旅情を誘うところがあったからではないでしょうか。森山さんには中平卓馬という写真仲間がいて、同じようなアレブレボケ写真を撮っていました。中平さんはアレブレボケ写真が観光キャンペーンに使われてからはアレブレボケ写真から離れ、写真を図...
撮影カットをレタッチでトリミングするとデザイン的な写真になるような気がします。...
私自身、いまだによく分かっていないのですが写真は現実をそのままそっくりに捉えることではなく写真という、もう一つの現実を捉える手段のように考えたほうがいいのでは?と思っています。もう一つの現実、つまり再現とか、表現とかいう言葉とは違う写真が捉え得る何か、リアリティーみたいなことではないのかなと思うのです。「いわゆる現実」とは違う「もう一つの現実」を捉えることが出来るのが写真というメディアのように思い...
観光などで初めての場所に行くと見るものすべてが新鮮に映りますよね。それで写真を撮ると興奮状態ですからいわゆる撮らされている結果になりあまりいい写真は撮れないよという意見があります。宿泊できるのなら初日はカメラを持たずにブラブラ歩いて、自分の目でチェックしてゆくようにしましょうと言われています。そうすると2日目にカメラを持って出かけることで冷静に観光地を見れるのでいい写真に結びつくということですね。...
時々「ローアングル」と「ローポジション」が混同されていることがあり、気になっています。地面近く、低いところでまっすぐ水平方向に撮るのは「ローポジション」での撮影なんですね。よく言われる「子供目線」とか「ペット目線」は「ローポジション」のことだと思います。いっぽう、下から上方向にに撮るのが「ローアングル」での撮影です。ビルの屋上で、真上に旋回するヘリコプターに向かって撮るのが「ローアングル」での撮影...
ウジェーヌ・アジェという写真家がいます。写真史では必ずと言っていいほど出てくる人です。画家になりたくてパリに出てきたのですが、画家ではなく写真家として「美術家のための資料」にとパリの街を撮り集めることで生活の糧にしました。生活は恵まれなかったみたいで死ぬまでパンと砂糖とミルクを常食としていたというカッコいい写真家だったと思います。アジェには他人事だからそんなふうに言えるんだと怒られるかもしれません...
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
道頓堀にも撮影に行きましたが「ここ、日本?」なんて思えてくるのです。来るごとに。まるで自分が異邦人みたいな感じがします。まあ異邦人というのはカッコつけすぎでよそ者、場違いな人とということですね。いつも「お邪魔しました」とサッサと立ち去るのでした。...