ストリートスナップが流行っているらしいですね。街なかで撮影したら何でもかんでも、そう言われている気がします。それ、ポートレート撮影ですよね?と言うのもスナップと言われると少し引っ掛かります。それで今はストリートフォトと言ったほうが分かりやすい気がします。まあ、だからと言って街なかにいる人の自然な表情と姿を撮るのは簡単ではないと思います。今は肖像権とかいろいろ言われていますが、それ以前からも、写真は...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
ご訪問、ありがとうございます。来年も当ブログをよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。...
年齢的、体調的には難しいのですが時々「東京に行きてぇ~っ!」なんて思ったりします。東京にいたのはもうずいぶん昔のことで、記憶もかなりあいまいになって来ました。あのころの東京はもうとっくに行方不明になっているのは分かっているのですが・・・。東京で思い出しました。写真集で見た、緑川洋一さんのような日本の綺麗な風景を撮れるようになりたい・・・そんな思いで写真を始めたことを。カメラのことはまったく詳しくな...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 2
デジカメでモノクロ専用の機種が出るとは思いませんでした。カラーが当たり前の時代ですから。モノクロは難しいですから挑戦し甲斐があるからでしょうか。カラーと並走してやるのは少し混乱する気がするのでモノクロだけの撮影と割り切って撮るのがいいのだと思います。...
動画対応 Vlog用カメラというのがあるんですね。街歩きの動画はそのようなカメラで撮っているそうです。カメラがメチャクチャ小さいので目立ちません。それですれ違う人もほとんど意識していないように映っています。カメラの大きさによって、意識のされ方が違ってくるのですね。カメラの存在感、街なかで撮ること、いろいろ考えさせられるのでした。...
「写真」や「カメラ」が人気なのでしょうか?フィルムカメラやトイカメラが話題になります。ただ、それらで撮られるのが「私の周囲3の半径メートル以内」のように思うのです。料理などの写真の投稿をよく見かけるのですが以前は自分が飲食したメニューを「これ、食べたよ」と赤の他人に見せる気にはなりませんでした。3メートルも離れている人のメニューなんて誰も興味ないですから。でも今は、知らない人にも「これ見て!」と躊躇...
SNSを見ていたらAIで自分の撮った写真を批評してもらっている記事がありました。読んでみるとまるでベテランの人の感想みたいでビックリしました。そんな時代なんですね。でも、批評というものは具体的な人が行うものと思い込んでいるカメ爺なので、違和感いっぱいなのでした。的確過ぎるのです。独断と偏見がありません。やる気を出させる、持ち上げるだけが批評ではないのです。「その人」という肉体を持っているゆえの口臭や体...
ネガティブという言葉は辞書的には「否定の、反対の、否定的な、消極的な、悲観的な」という意味ですよね。例えばネガティブ思考⇒暗くてよくないと考えられています。でもそれは、とても短絡的で決めつけた捉え方ではないでしょうか。ネガとは陰であり、日の当たらない見えないところのことであって、暗いという意味にストレートに結びつけなくてもいいと思うのです。よくないことと決めつけるのは少し違うのではないでしょうか。...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 3
写真撮影には練習はないと思っています。いつだって本番なのです。試し撮りのつもりで撮ったカットが傑作だったりします。本番だといって気合いの入ったカットが駄作だったりします。かと言って本番を意識すると緊張しますよね。でも緊張したほうが練習だと思って気楽に臨むよりはましなのです。その緊張を上手く撮ろうとする自分に向けるのではなく被写体をよく見ることに向ければいいのですが・・・。理想はリラックスした集中だ...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 2
縦に長いものを縦位置で撮るのはマジメ過ぎると思います。たまには横位置で撮ってもいいのではないでしょうか。説明用なら出来るだけ分かりやすく撮る必要がありますが遊び心ならどんな撮り方をしても、被写体も喜んでくれると思います。...
写真画像とデジタル画像は区別したほうがいいと思っています。簡単な区別としてフィルム写真で撮影したのと極力類似したデジタル画像は写真と言っていいと思います。被写体にあったものは写っているということですね。被写体になかったものは写っていないということですね。また、誰が撮ったかが分かっていることが基本です。撮影者不詳でも人の手の介入があったかどうかです。デジタル画像の写真まがい画像はできれば写真とは呼ば...
カメラ雑誌「フォトコン」に写真家の立木義浩さんが選・評を担当してる「モノクロ作品招待席」というコーナーがあります。ネットの電子書籍で見ていることもあるのかもしれませんが今月号(1月号)で少し気になったことがあります。選ばれた作品のほとんどが黒っぽいんですね。何度か書いてきましたが、最近の傾向なのでしょうか。モニターで見ているからでしょうか。紙上だともう少しディテールが出ているとしても少しツブレてい...
写真の投稿だけです。...
写真撮影には練習はありません。いつだって本番なのです。試し撮りが傑作を生んだりするのですから。気合いの入ったカットが駄作だったりするのですから。ただ、本番だといって緊張しないことも大切ですでも、緊張したほうが練習と思って、だらけるよりはましなのです。...
(昨日の記事を少し編集し直して投稿します)写真撮影では要らないものは画面外へ、どかしましょうと言われます。画面外に出来ないなら、ボカしましょうとも言われます。その言い方って、そこにあるものに対してはけっこう失礼な言い方、不躾な言い方にも聞こえませんか。不要とか、邪魔とか言われても、あるべくしてそこにあるのですから、いるべくしてそこにいるのですから。居たくているわけでもありません。何らかの理由でそこに...
写真撮影では要らないものは画面外へ、どかしましょうと言われます。画面外に出来ないなら、ボカしましょうとも言われます。その言い方って、そこにあるものに対してはけっこう失礼な言い方にも聞こえます。不要とか、邪魔とか言われてもそこにあるのですからあるべくしてそこにいるのですから。でも、今はテレビの画面で街なかにいる人にボカシが入る時代です。その番組ではボカした人は要らないのです。画面の外へどいてもらうわ...
通りすがりの○△□241010・このまちに、わたしたちが 1
「 カメラは、撮る人を写している」という言葉があります。そうなんです。その写真には、その写真を撮った人しか写っていないのです。被写体は写っていないのです。ーえっ?写っているじゃん!いいえ、見る人には、写っている「ように」見えているだけです。撮った人には、自分の「思い」が見えているだけです。なにしろ「写」す時、思いを「それ(体)」に「被」せたのですから。「私の思い」「私の価値観」「私の好き」というベ...
真実という言葉があります。写真という文字にも真実を写すと書かれています。あの(どの?)少年は「真実はひとつ」と言っています。ところで写真ではストーリー性みたいなことが重宝がられています。それは、撮った人、見た人のストーリーのことです。だとすると年甲斐もなく、あの(どの?)少年に反論したくなるのです。写真は「見る人、見た人の数だけ真実はあるのでは」と。真実とはその人が、その人たちが見たいストーリーの...
輝く、未来、明日、青空、思い、希望、夢、涙、前へ、楽しい、幸せ、ポジティブ・・・歌の番組での字幕でよく目にする言葉です。マナーがよくないのですが、目が欠伸をしています。...
コミュニケーションで必要なこと⇒まず相手をよく知ることと言われていますよね。⇒写真もコミュニケーションについてよく触れられます。⇒そのためには見てほしい相手をよく観察し⇒相手の見たいものを知ること、だと。⇒その上で相手に合わせて分かりやすく撮りましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく仕上げましょう、⇒その上で相手に合わせて分かりやすく説明しましょう、と。⇒でも、気になることが・・・⇒相手に合わせるっ...
私は読んでいないのですが「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という本で森山(大道)さんは次のようにおっしゃっているそうです。「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」(森山大道「過去はいつも新しく、未来はつねに懐か...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 1
写真というのはどうでもいいことを撮るほうが面白くなると思っています。「価値!価値!価値!」とカチカチの息苦しい世界から離れて無価値を楽しむというのでしょうか。美しい被写体そのものには写真ではかないません。綺麗な景色は全身で味わうものだと思います。大切なその人は、どうしても写真でしか会えない時以外は本人がそばにいてくれるに越したことはありません。逆に日常を写真に撮ると「非日常感」が出てくることで美化...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 1
SNSで投稿されている写真にはよく、カメラやレンズ名が併記されていますよね。でも、自分は写真の趣味がない人の知りたいのはいつ・どこで撮ったかではないでしょうか。それほど詳しくなくてもいいので「2024年12月、東京・新宿」もしくは「2024年、東京」くらいの明記があるといいなあと思います。...
世の中、ドンドン幼児化して行っているように感じています。写真でいえば、要らないもの、邪魔なものって今は簡単に消せますよね。まあ、嫌だから消しちゃえっということでしょうか。写真に写っているものを消したり、欲しいものを付け加えたり・・・それって、写真?と思うのです。それは写真というより、写真を使った別のもののような気がしますがそう思うのは、もう古い感覚なんでしょう。「そこのおっちゃん、ジャマ、ジャマ、...
あっ、軽い写真は明るい写真に成れるのでしょうか。...
写真を撮影した日は写真脳というのでしょうか、それが一種の興奮状態のように感じています。写真脳というものが医学的にあるかどうかは分かりませんがそのせいで、帰宅してチェックしていると撮った写真の中に傑作があるかも、のように見えたりするものです。当日を過ぎても数日くらいはその興奮状態が続きます。それで、写真選びは1週間以上くらい経ってから行うようにしたほうがいいと思っています。だけど、人によって違うと思...
他に言葉が見つからないので「いい写真」という言い方をしています。でも、とてもあいまいな言葉だと思っています。「いい」なんてコロコロ変わるのですから。ただ「良い写真」という言い方には慣れません。良い⇒悪いを連想するからでしょうか。「悪い写真」って何だろうと思うのです。「悪い写真」の中にも「いい写真」があるように思います。「良い写真」の中にも「つまらない写真」があるように思います。...
こらからもエモイ写真って流行っていくのでしょうね。私「あのう、私の写真、見てくれませんか?」行きずりの人「あっ、どんな写真を撮っているんですか?」私「説明しにくいのですが、あえて言えば絶〇写真です」行きずりの人「ほおーっ、では見せてくれますか」私「はい、お願いします」行きずりの人「どれ?どれ?ぎゃあっ!な、何ですか、この写真!」私「絶叫写真ですが・・・。まだ、たくさんありますよ」行きずりの人「えっ...
もう何十年も前のことです。ある人の写真展を見に行きました。「こ、こんなにきれいなプリント、どうしたら出来るねん!」。その人のモノクロプリントの作品を見た時、自分には、こんな綺麗なプリントは作れないと思いました。ショックは受けたのですが、もっと違った写真の楽しみ方を探すことにしました。まあ、正直言うとそのころには写真は絵画とは違うし工芸品でもないので、作品を目指さなくてもいいと思い始めてもいたのでい...
見たものを撮ればいいと写真を楽しんでいる人と映え狙いで写真を楽しんでいる人とカメラ沼に入って写真を楽しんでいる人と。一見、共通点がないみたいですが・・・。でも、あるのではと思ったりするのです。興味の中心、関心の中心にあるのは自分、つまり「私」なのではないでしょうか。写真は目的ではなくて手段なのです。「見たものを撮る」のは「私の好き」を見つけるため。「映えを狙う」のは「私の輝き」をみんなに受け入れて...
SNSやカメラ雑誌などを見ているとストリートスナップ=人を撮るものと思われているようですね。ファッション・ポートレート撮影などにもストリートスナップという言葉が使われています。街なかで撮影しているからでしょうか。ただ、私は必ず人が写っていないとストリートスナップではないとは思っていないません。人が写っていなくてもストリートスナップはあるんですね。ただ、落ちているゴミを撮ったり、壊れて捨てられたビニー...
人間のカラダの目は外を見るようにできています。人間のココロの目も外を見るようにできればよかったのです。でも、人間のココロの目は内を見るほうが圧倒的に多いです。そのため2つの目を分裂させてしまいました。そして外のアレと内のコレを見比べてばかりでいます。「勝負・好悪・正誤・善悪・美醜」などを秤にかけて判定に大忙しです。それはとても疲れることなのですが、回復する間もなくこう言うのです。 「なにか、面白い...
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ストリートスナップが流行っているらしいですね。街なかで撮影したら何でもかんでも、そう言われている気がします。それ、ポートレート撮影ですよね?と言うのもスナップと言われると少し引っ掛かります。それで今はストリートフォトと言ったほうが分かりやすい気がします。まあ、だからと言って街なかにいる人の自然な表情と姿を撮るのは簡単ではないと思います。今は肖像権とかいろいろ言われていますが、それ以前からも、写真は...
ありのままってよく言われるけれど写真はありのままを写さなければと言われるけれどそんなこと、できるんだろうか。街なかにいる人の自然な表情と姿?いやいや、みんな演技をしているのだと思う。こんなふうに見て!ほしい私。ありのままって、幻想だと思う。...
「写真を撮りに出かけない」という言い方があります。写真を撮ることを目的にするのではなくカメラは日常的に持ち歩いてショッピングなど何かのついでに撮ればいいのですということなんですね。たしかに写真と気楽に付き合えると思いますがそれならカメラでなくてもスマホでもいいように思います。私の偏見なのですが、スマホは写真を撮る面白さが軽減されている、味わいが薄くなる気がするのです。力まなくてもいいので、やはりカ...
言葉はそれの代わりですがいつの間にかそれと混同されてゆきます。そして、それの内容は置き去りにして外側の言葉だけが独り歩きしてゆくのです。写真もそれの代わりみたいなところがあるのですが写真の場合はさらにややこしくなります。それの姿が映像として写っているので人はその姿の一部であるに過ぎない写真からそれの全体像を勝手に作り上げてしまうからです。そしてこう言うのです。「写真に騙された!」と。いやいや、写真...
考えて撮っている人はそう感じないかもしれませんが写真撮影はほとんど肉体労働のように思います。特に、街なかでの撮影が中心になってからは周りに気を使いますから神経と体力のダブル消耗です。年齢的に言っても「よーやるわ」なのですが誰もホメないので、自分で自分をホメたくなります。まあ、何かのために撮っているわけではないので撮れる時に撮れればいいわけですからお天気と体力と三者で相談しながらこれからもパシャリカ...
買い物ついでに、「ふれあい祭り」の横を通り過ぎてきました。...
写真はコピー、つまり複写であり、四角い枠に入れて撮ることで成立します。そして残しておくという役割が与えられます。「記録」ということですね。また「記憶」ということもあります。ただ、両者は微妙に違うようです。「記録」は写された側、つまり被写体に比重が置かれますが「記憶」は写した側、つまり人間に比重が置かれます。そう考えると、撮影は「記録」と「記憶」のどちらを目的とするかハッキリ決めて行ったほうがいいよ...
「現実」って何なのでしょう?写真は「現実」をそのままに写せるのでしょうか?その人が撮った写真に「その人の現実」が見えるカタチで写っているかというと、そうでもない気がします。結局、「現実」は人間の数だけあり、そのため、完全には理解し合うことは不可能であり誤解曲解は日常茶飯事であり、争いは絶えることなく続いてゆくのだと思います。...
「いつもの」というのはいいですね。私は年齢的、体力的にも撮影する場所は限られています。それで何度も訪れると新しい発見とかはあまり、いいえほとんどなくなるんですね。開発とかで変わってゆくところはあるのですが、その街のあり方みたいなものは目には見えにくい気がします。私の場合、記録とか記憶とかは特に意識して撮ることはありません。私の写真が役に立つとしたら、それはそれでうれしいのですが、ほぼ自己チューカメ...
散歩と、買い物と、撮影という一粒で3度美味しいぜいたくを味わってきました。いつもの公園はいつもの公園だったのでホッとして家に帰ってきました。「いつもの」というのはとてもいいです。...
「昔はよかった」というと「今はそんな時代じゃないよ」と帰ってきます。結局、どちらも相手を否定していることには変わりはありません。人は肯定するより否定するほうが好きなのでしょうか。ホメるよりケナすほうの意見のほうがネットでも多いみたいですし。写真の世界はどうなんでしょう?「いいね」は目立つので分かりやすいのですが「よくないね」はどこにも見当たらないので日陰に潜んでいるのでしょうか。まあ、どうでもいい...
厳密に言うとストリートスナップではなくてストリートフォトだと思います。ふつう写真のジャンル分けは花や風景や人物など、被写体でしますよね。スナップという被写体はないので街なかでの撮影はストリートフォトが適切だと思います。街なかの風景+そこにいる人たちの様子・・・それがストリートフォトではないでしょうか。まあ、今は肖像権とかプライバシーとでややこしくなってきましたが・・・。...
写真の投稿だけです。...
「いい写真」という言葉もあまり気にしないほうがいいと思っています。「いい写真」を撮るために必要な、というより必須の条件があるとしたら「写真への欲望」であり「他のアートではなく、写真を選んでしまう気持ち」ではないでしょうか。その時には、個性とか個性的とかはあまり気にならなくなると思います。個性とか個性的とかは自分のことが中心になっていますが、目は被写体に向けたほうがいいのではないでしょうか。...
最近は惰性で写真を撮っている気がします。ダセ~カメ爺です。...
写真を「私、いい人証明」みたいに使うのは少し気になっています。「いい人」しか写真に関われないのなら私なんかとっくに退場を迫られていたと思うのです。別に悪人になる必要はないのかもしれませんが写真と人間性は結びつけて考えないでほしいなあと切にカメ爺は願っています。...
行ってきました。快晴でした。...
「目に見えるもの撮るのはカメラの仕事。目に見えないモノを撮るのがあなたの仕事」そんな言葉を目にしたのですが見えないモノは写真には写らないと思います。すみません。理屈っぽくて。そんな気持ちで撮ることはいいことだと思うのですが写真家はロマンチストではなくリアリストだと思うのです。どこまでカメラの目になれるか・・・なのですがまあ、ゴチャゴチャ言わないで、とっとと撮ることですね。...
カメラは、撮る人を写しています。写真を撮る人間の写ってほしくないホンネみたいなものも写してしまうのがカメラの怖いところです。ウケたい・・・。いい人だと、優しい人だと、センスがいいねと、個性的だねと経験が豊かなんですねと思われたい・・・。カメラは写真を撮る人間の闇の部分も写す機械です。そしてカメラは「暗い箱」なのです。カメラは闇と相性がいいのではないでしょうか。...
カメラという機械の非人間的なレンズの視線は冷静にモノやコトを見つめているのではないでしょうか。人間は「冷静ということ」の「冷やかな」ところを気にしますがカメラは「静かに」モノやコトを見ているのだと思います。損得、好き嫌い、いいダメから自由になって・・・。...
人混みは苦手なのですが、人出無しも嫌な私です。先週の日曜日に「日本橋ストリートフェスタ」があったのですが出かけようか、止めようかで迷っていました。動画を見ると、ものすごい人出だったんですね。まあ、出かけなくてよかったようです。...
「自分が好きなモノを撮りましょう」と言われます。それはそうですよねと思うのですが、何か引っかかるのです。「自分の好き」には、すでに「誰かの好き」が入り込んでいるように思うのです。自分が本当に好きなのか、微妙です。好きだと思い込んでいるだけではないか・・・などと思うと、「自分の好き」に自信がなくなってくるのです。それに食べもので言うと自分が嫌いなものを食べて病気になることってあまりないと思うのです。...
写真の投稿だけです。...
歳のせいでしょうか、最近は写真を撮るのが億劫になっています。撮りたいというより、撮るのがメンドクサイのですがそれなら撮らなければいいというのでもないんですよね。別に撮らなくてもいいのなら逆に撮ったほうがいいのかもと思ったりするのです。まあ、人の写真を使って作品化する以外は自分で写真は撮らなければ始まらないメディアです。マネーレスにパワーレスのカメ爺ですがカメラとタイムはあるので、撮影に出かけようと...
写真の投稿だけです。...
撮影してきました。...
上手い写真を撮る人は「いい写真」を撮れる人だと思っていました。でも写真をやっていると「いい写真」というのが曖昧で、よく分からなくなってきます。ある人が「いい写真」というのが自分には「いい写真」には見えないことがあるからです。もちろん自分に写真を見る目がないからとも言えるのですがかと言って自分に写真を見る目が出来るのはいつのことになるやら分かりません。それで思うようになりました。自分がこの人ならと思...
かつて、いいえ最近まで「森山大道、スゴイ!」と思ってきました。写真を始めた若いころなんて、ほぼ神格化していましたね。でも森山さん、有名になるにつれ、「ん?」と思うようになってきました。スゴイことは変わりませんが。当たり前です。自分と比べたら病院行きを勧められるでしょうね。ただ、森山さんの写真ってデザイン的なんだなあと感じるようになったのです。「写真よさようなら」という写真集がありますが「デザインよ...
写真の投稿だけです。...
写真はストーリーと言われます。物語りです。でも「何が」語るのでしょうか。たいていは、自分から語ることのできない被写体ではなく写真を撮った人が語る物語なんですね。ほとんどはその人の「自分語り」ではないでしょうか。被写体自身に語らせるのは至難の業だと思います。...
写真撮影は基本的にはシャッターを押すことの繰り返しという単調な作業です。そのため変化を求めて被写体探しに明け暮れることになりやすいのです。でも、被写体探しは目新しさの発見のためだとしても、疲れてくるのではないでしょうか。「誰にも撮れない写真」=「誰もが知らない被写体の写った写真」ではありません。陳腐な被写体でもいいのです。ありきたりの被写体を同じように撮りながらも、ちょっとした違いを見つけること、...
「多様性」が言われています。簡単に言うといろんなあり方のことですよね。そのいろんなあり方が、気のせいかバラバラにしてゆくようにも感じます。写真も「多様性」の時代だと思うのですがバラバラになりながら「一様性」に向かっている気もします。でもたぶん、私が時代が見えていないせいだと思います。...
「絶景写真」というように「絶景」という言葉があります。「他にはない素晴らしい景色」みたいな意味です。ただ、「他にはない」というのはとてもあいまいな基準ですよね。何を持って「他にはない」と言うかです。ある人にとっての「絶景」が他の人にとっては「絶景」ではないということがあり得ます。結局、「絶景」というものはなくて「絶景」と名づけられた景色が存在するだけなんですね。「絶景」という言葉を被せることで「絶...
写真の撮り方の本や動画には間違いが多いという指摘があります。ただどこがどう間違っているのか詳しいことが分からないんですね。そんなにたくさん読んだり見たわけではないのですが間違っているようなところは見当たらなかったのです。動画などは、少しタイトルがオーバーでは?と思うことはありますがキャッチーなコピーも必要なのだろうと思っています。購読者にしろ視聴者にしろ、不特定多数ですから説明の仕方は難しいと思い...
「いい写真」という言い方があります。私もよく使いますが、他に言葉が見つからないのでとりあえず使っています。SNSなどで見るとたいてい「私にとっていい写真」なんですね。失礼な言い方になりますがちょっと自閉的な響きがします。それが悪いことではないと思いますが出来れば「不特定多数にとっていい写真はなんだろう」と考えれるようになれれば、もっと広がってゆくのではないでしょうか。「私」の中心へと向かうのではなく...
カメラには適切な距離があると言います。特に撮られるのが人の場合はあまり近づかないようにというアドバイスするプロもいるんですね。カメラはある程度離れないと人にストレスを与えるからだそうです。でもカメラというのは、自分に近づいて来られなくても距離に関係なくカメラを向けられること自体がストレスなのではないでしょうか。カメラは被写体を一瞬の、さらに平面の姿に固定してしまいます。それはあらゆる被写体を「モノ...
写真は撮影時に、ある意味では終わっている、決定されているのではないでしょうか。撮影50+レタッチ50=100と捉えるより撮影100とレタッチ100のように別のものと考えたほうが撮影そのものが面白くなって来ると思うのです。写真を料理に例えられることがあります。私もそのように考えていましたが撮影は素材集めではないように思うようになりました。撮影を昆虫採集のように、コレクションすることのように考えるのは被写体に失礼...
「ボキャブラリー以上の写真は撮れない」のだそうです。自分の知っている言葉以上の写真は撮れないということだと思います。でもそのことはいかに人間のまなざしが言葉に規制されているかをよく表しているように思います。たしかに、自らが知っていること以上のアウトプットはできません。そのためには「出来るだけ多くの体験と経験をストックしておくべきだ」ということなんですね。他のアート、音楽、文学、絵画、映画などにも目...
写真の投稿だけです。...
写真は出来るだけ大きなサイズで見たほうがいいと思っています。スマホの画面は写真を見るにはあまり適切ではない気がするのです。高画質になったのに小さい画面で見るのが中心になるのはもったいないように思います。スマホの画面は写真の仮押さえに思ったほうがいいのではないでしょうか。写真は小さく写ったものが面白かったりするのですから。...