「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
前向きにと言うけれどどっちの方角が前なのだろう。ポジティブにというけれどネガとポジの区別はどうするのだろう。前ばっかり見ていたらコケそうになると思う。ポジティブなだけではおめでたいだけだと思う。1月も終わるのだからニュートラルがいいのでは?と思う。思う、思う、思うでうっとうしいけれどうっとうしいのがこの世の中の天候のような気がする。ダサいのはUNOさんだけではないのだから。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 5
最近、「観る」という言いう方をよく見かけます。写真集や写真展にも「観る」が使われています。個人的には「見る」に馴染んでいるので、「観る」には違和感があります。「観る」は対象から距離を置いて、離れて「見る」感じがします。観劇、観戦、観賞、観光、観察・・・ですね。写真の場合は「見る」に統一したほうがいいように思います。写真はベッタリ見たいのです。...
写真は真実を写すと書きますが本当のところは真実は写せないのではないでしょうか。なぜなら真実とは何かが分からない以上写せるとしたら真実のようなものでしかないと思います。真実と信じたいモノやコトですね。...
通りすがりの○△□250120・ソラカラ カラフル フルヒカリ 1
「いい写真は誰でも撮れる」という言い方があります。ん?「いい人には誰でも成れる」みたいな感じがするのですが。結局「いい」とはどういうことか「誰」とは誰のことなのか、何も言っていない気がします。単に耳障りのいい言葉でしかないと思います。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 4
ハイコントラストだったり、露出がオーバーだったりで画面の四周が真っ白の写真があります。写真の外側も白いと境目が分かりません。見ていると、落ち着かなくなってくるのです。...
便利さに慣れたくないんですよね。便利さに甘えたくないんですよね。便利さに利用されたくないんですよね。ー無駄な抵抗はよせっ!!!便利さ、BAMZAI!!!!!便利さ、これからもよろしくお願いしますっ。...
時々、見かけるのですが私にも思い当たるところがあるんですね。それは「むげんのかうせい」です。写真関係でも「デジタル写真には無限の可能性がある」などと言われたりしています。もし、あの世があったとしたら訪問した時、私も思わず口走りそうです。「オレにも夢幻の可能性があったんや!」と。...
デジタルにほぼ入れ替わるころフィルムは要らなくなるだろうのようなことを専門の人が言っていたと思います。でもそうではなかったですよね。それなりの人気を保っているのではないでしょうか。予想というのはなかなか当たらないもののようです。よそうはよそうといったところでしょうか。...
用事&撮影しに出かけました。街は温かく気温は暖かかったです。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 3
カメラは人間の目の不確からしさを確認するための装置だと思うことがあります。人間の目はじつは何にも見ていないのではないでしょうか。「わあ、キレイ!」と言いながら目の前の花ではなく、自分を見ているのだと思います。自分の足もとの草を踏みつけながら。...
投稿カットは10月の撮影ですが昨日、今年初めての本格的、と言う大げさなものではなく街へ出かけての撮影をしました。もっと早く行きたかったのですが危険な寒さが襲っていたので、やっとこさだったのです。まあ、相変らずミナミはバウンドしていてにぎやかだったです。カメラの設定を微妙に違えていて「なんでやねん!」と相変らず、今年も引き続きオロオロしたのでした。...
撮影してきました。...
県外の写真家さんが大阪に来て写真を撮っている動画を見ました。いやあ、元気ですね。歩数は半端でないみたいです。ただちょっと気になることが・・・。せっかく大阪に来たのに望遠でupの写真を多く撮っているんですね。「それなら、そちらの県にもあるのでは?」県外の人が大阪をどう撮るのか見たいのですが大阪に来て撮ること自体に意味を感じているのでしょうか。...
自分の知っている場所がテレビで映されたりします。途端に、全然違う場所に見えて来ることがあります。特別な場所に見えて来るんですね。フレームというのは怖いなあと思います。...
フィルム写真は出来ればプリントして見たいです。それも、ネガをデジタルスキャンしてのプリントではなくラボでのプリントがベストだと思います。ただ、今の時代には厳しいかもしれません。価格など最近のことは、ほぼ分からないのですがそう度々直でプリントすることはしんどいでしょうね。ところでフィルムで撮ってネットに上げるにはデジタルのお世話になるのですがそれはフィルム写真と言っていいのかそれともデジタル写真とい...
「コウカイ」したことを「コウカイ」しないように「コウカイ」と思うカットを「コウカイ」するようにしているのですが「コウカイ」したあとに「コウカイ」ばかりしています。「コウカイ」を続ける、写真という名の海原の上で。...
「顔に責任を持て」という言葉があります。顔はその人そのものだからなんですね。顔は全体で顔です。目は口ほどにものを言うにしても、口も必要なのです。顔の半分以上が覆われたら、その人はどこかに行ってしまったように感じます。感情のなくなったロボットみたいというのはその人に失礼なのでしょうか。世界は無感情に向かっているのかもしれません。...
通りすがりの○△□241122・about the winds that blew yesterday 3
駄目ってつまらない目と書きますよね。目につまらないや、つまるのがあるのも面白いです。「駄」を分解すると「太った馬」です。「太った馬」というのは秋専門と思っていたのですが写真の世界には年中、「太った馬」がいるのでしょうか。「太った馬」を見分ける目を持ちたいと思う、真冬です。...
通りすがりの○△□241030・ 漫ろ歩きには独り言が似合う 2
機種自慢、受賞自慢などはせずに、ただ静かなたたずまいで自分には撮れない、出来ないと思わせられる写真家。「あなたにはこんな写真は撮れないでしょ」とエラソーにではなく、ジンワリと突きつけてくる写真家。でも、自分はダメだと卑下させるのではなくだからこそ、自分は写真をやりたいんだと思わせる写真家。それが「いい写真家」だと思う。...
ある日、「マウント」という言葉を目にした時「えっ?レンズの話?」と思いました。ニコ○・マウントやキャ○ノン・マウントなどを連想したんですね。新しい流行り言葉はたいていカタカナの横文字なので昭和に読み書きを習ったカメ爺は戸惑います。「マウント取るやつはけしからん!」と上の方からマウントしていたりします。山はてっぺん以外は、上と下は相対的ですから上には上が、下には下が続きます。それに、とがったてっぺんだ...
カメラ、ずいぶん高くなりましたね。「天高く馬肥ゆる秋」のあとに訪れた「円安く人痩せる冬」です。このようなカタチでのダイエットは好ましくないです。元気を無くすダイエットは写真家から必要な水分まで奪って行きます。写真に必要なのは湿気ではないでしょうか。デジタルは乾き過ぎだと思います。...
記憶と感情はセットなので撮影時の感情が写っていると思ってしまうんですね。それで「いい写真」が撮れるかどうかは記憶と感情を切り離せるかにかかっていると思います。ただ、言うは易く・・・です。それにもう一つのカンジョウ、損得勘定が絡んでくるのでタイヘンです。それに、それに小人欲求、いいえ、大人になっても承認欲求もあるのです。でも、健全な、と言っては変ですがココロの健康維持には適度の承認欲求を満たすことも...
カメラマンと写真家との違い。写真をコントロールしようとするのがカメラマン。写真にコントロールされるのを受け入れるのが写真家。...
新鮮さと奇抜さとは違うと思います。新しさは古さの「上書き保存」なんですね。新しさには古さのバックアップがあるのです。単なる奇抜さはプカプカ浮いて目立つとしても根っこがないので短命に終わると思います。デジタル写真が、もちろんすべてが奇抜ではないのですがフィルム写真のような制約、不自由さがないと写真ではなくデジタル画像、言ってみればデザイン的なイラスト画像になる気がします。...
目は5つより2つのほうがよかったのではと思います。5つもあると視線を合わせるのに苦労します。上の2つに合わせればいいのでしょうが下からも見上げられていそうで落ち着きません。カメラもレンズの目が5つもあったらカメラ目線をどれにしたらいいのか迷いそうです。...
今年も52分の1週間が終わろうとしています。時間は実在せず記憶の中にだけあるのでしょうか。写真は記憶という、時間を強烈に感じさせるメディアです。写真は去ったものたちへの鎮魂歌の代理人なのです。写真には未来はなく過去だけが花咲く住処なのです。...
頭を怪我しました。ケガナイのにケガガアルのです。写真も思いが写っていないのに写っているように感じさせるところがあります。思いが写るというより映っているように感じるんですね。思いが鏡のように反映されているのですがそれは撮った人にしか見えにくいのが普通です。自分には髪の毛があると思いたくても相手の人には反射がまぶしいのが現実ではないでしょうか。...
写真でポイントになるのは視覚ではなくて触覚だと思っています。肌ざわり、皮膚感覚、キモイ・エモイ・・・デジタル画像はスベスベ、ツルツルしているのでそのあたりが欠点、弱みのように思います。視覚より触覚のほうが当てにできる気がします。デジタル画像が鮮明になるほど、ウソっぽくなって行くように感じるのは時代錯誤かもしれませんが。...
写真はよく料理に例えられます。どちらも「うまい」が共通語だからです。ただデジタルの時代になって、少し違うところが出てきました。料理は「うまい!上手だね」と単純に褒めてもらえますが写真は「うまい?それで?」と当たり前のような反応しか帰って来なくなりました。温かいお節料理の時期なのに暖かいお世辞すら言ってもらえなくなった写真は寒さに震えるしかないのでしょうか。...
大みそかの夕方と、元日の朝に撮影してきました。元旦はまだ暗いうちから出かけました。よく起きられたなあと思います。思い切りゴーストの入った写真も撮りました。普段の撮影は太陽を入れないようにしているのですが、「年末年始くらいはええやろ」と自分でも意味不明のことを言ってシャッターを切りました。素晴らしい(!)ゴーストのカットが撮れました。今年は「ゴースト・フォトグラファー」を名乗ろうかななどと思いました...
新年、おめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いします。...
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「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
写真ではよく「思いを伝える」と言われています。ではこの「思い」とは何を指すのでしょうか?大きくは次の2つに分けられると思います。①「思い」は「感情」のことです。コミュニケーションを重視します。コミュニケーションの対象はふつうは身の回りの人たちですがSNSなどを通じて不特定多数の人たちのことも多くなりました。時には自分のこともあります。思い出の瞬間の感情をより鮮明に自分に伝えてくれるからです。言葉はその...
20代に突入したころ、写真を始めました。それから半世紀以上経ったのですが、飽き性の自分がよく続けられたなと思っています。そんな私ですが、30代の半ばごろに突然、「モノクロはもう辞めた」とカラーに切り替えました。そんな日々を、年齢的に無理して首筋を傷めない程度に振り返ってみると20代、30代にも自分なりに「いい写真」は撮れていたと思います。あくまで自分基準の「いい写真」ですが「あの頃のほうが、いい写真を撮れ...
写真史としての名作は一定の評価はされているのですが今、有名な写真家にしても登場当初というのでしょうか初めて作品として写真を発表した時には酷評された人もいたのです。写真の世界の価値観みたいなものは時代とともに変わってゆきます。写真の世界に吹く、世間の風は気まぐれなのです。その時代の気分次第で、ヨイショされたり、ブーイングされたり・・・世間というのは怪物みたいなものではないでしょうか。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。「好き」と思い込んでいるだけかもとか「好き」と思い込まされているだけかもとか。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが・・・。...
写真が難しいのは立体を平面として見ることに慣れていないことも理由の一つだと思います。写真を撮ることには今の時代、スマホなどで小さいころから当たり前に行っているので「写真なんてチョー簡単!」と思ってしまうのですね。フィルムカメラの時代ですら、他のアートから「写真なんてカメラが撮ってくれるんだからいいよね」なんて思われていました。「写真なんて、ラ~ラ~ラ~♪」だったのです。でも、自分でカメラを本格的に...
行ってきました。...
写真をするのに才能は必要なのでしょうか。写真がアートだとしたら音楽や絵画のように才能が必要になって来ます。でも、あえて写真をアートだと思わなくてもいいと思うのです。たしかに、写真のセンスがいいなあと羨ましくなってくる人っていますよね。バズっている写真などを撮っている人たちが思い浮かびます。そうできるのは写真の才能があるからと言えるのですが、バズる写真だけが写真でないことは言わずもがなです。楽しみ方...
撮影しました。...
「暗黙の了解」というのがあります。わざわざ断らなくても通じることですよね。でも、今はそうではなくなってきました。「個人の感想です」ーふつう感想を述べるのは個人だと思うのですが。「CM上の演出です」ーこんなのマネする人がいるの?そして・・・「写真はイメージです」ー写真=実物なんてありえないのに。なんだかメンドクセー世の中になったものですね。...
写真に写っているからホントだろうから写真に写っているからウソかもしれないへ写真にとって激動の時代になったなあと昭和カメ爺はシミジミト思いながらシジミの味噌汁をすするのです。...
昔、正確には大昔、テレビドラマの主題歌に「七つの顔のおじさんのホントの顔はどれでしょう?♪」という歌詞がありました。今考えると、それは七つの顔のどれもホントの顔でもあり、ウソの顔でもあり、ホントかウソかはどちらでもいいことのように聞こえます。それぞれの顔で難題をカッコよく解決して、視聴者をスッキリした気分にしてくれればよかったのですから。まあ、ドラマがどんな内容だったのかは忘却の彼方なのですが、懐...
写真の投稿だけです。...
写真関係のSNSの記事を見ていると、ある言葉をよく見かけるようになり、気になって来ました。「私」関連と言うのでしょか、「私」以外に、「私」「わたし」「僕」「ぼく」「自分」「じぶん」などですね。そのような言葉が目につく記事の特徴は、その人が食べたもの、飲んだもの、家族や友だち、友好な関係の人たちなど、プライベートな写真が多い気がすることです。ふつうSNSは不特定の人たちに向けて発信されるものですから、その...
つくづく写真というのは被写体しだいなんだなあと思います。それでアレブレボケ写真は文句を言われたのです。肝心のどんな被写体が写っているかが分からないことで見る人を落ち着かなくさせました。人は落ち着かないことは嫌ですからイライラしてボヤいたのだと思います。その代表ともいえる森山大道が世界的な写真家になったのですが、それでも写真というのは被写体しだいなのは変わらないと思います。「いい写真」というのは写真...
デジカメが上手に撮れ過ぎてくるとフィルムカメラの上手く撮れなさが魅力的になって来る・・・揺れ動くカメラマンゴコロですが、次はどこへ向かうのでしょうか。下手は嫌ですが、上手くても面白くない・・・人間カメラマン相手にカメラたちも大変だなあと思います。...
最近は嫌々写真を撮っている気がしています。慢性の人生疲労にも悩まされているのですし。それなら辞めておけばいいのですがそういうわけにもいかないところがあるのです。あえて撮らなくてもいいよと言われると、それならともかく撮っておこうということなのです。別に記録とか、何かの役に立つとは思えないのですが撮らないよりは撮っておいたほうがいいようなという、何とも頼りない動機が親指を動かしています。...
天王寺は遠かったです。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが。...
今は犯罪用語みたいになってしまいましたが写真撮影は本質的には「盗撮」だと思っています。それなら「借撮」と言い換えてもいいのですがそんな言葉はないですし、拝借すると言ってもその姿を撮ることは切り取ることには変わりません。今はどうかは分からないのですが写真を撮られると魂を盗まれると怖れた人たちが世界のどこかにいると読んだことがあります。もちろん、われわれから見れば迷信ですが人間としてはとても真っ当な人...
かつて、カメラのファインダーのピント合わせやオートフォーカスの測距点は、画面の真ん中にありました。そのことは何を意味するのでしょうか?人は写真を撮ろうとする時、何も考えないと、無意識に撮りたいものを画面の真ん中に持ってきますよね。当然と言えば当然だと思います。画面の隅っこに小さく撮ろうとはふつうは、しないです。そうなんです。「日の丸構図」は写真撮影の原点と言えます。「日の丸構図」については、いろい...
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
主張には根拠が必要と言われています。自分の言いたいことは主観的なのでそれを裏付ける客観的で正当な理由が要るのですね。写真も「こう撮れ!」みたいなことが言われます。どうしてかと訊くと「なぜならみんな(多くの人)が、いい写真と言ってくれるから」のような返答が帰ってきます。少し理屈ぽくなるのですがある根拠にはその根拠を支える別の根拠が必要ではないでしょうか。そのことは堂々巡りを意味しています。正論が複数...
用事で出かけたついでに「新石切駅」周辺と「石切さん(石切神社)」周辺で撮影してきました。お天気で暑かったので意識を失う前に帰ってきました。...
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォトコ...
写真展などでキャプションとステートメントと言う言葉が使われます。どちらも文章なのですが詩なども使われるようですがとても簡単に整理してみました。キャプションは説明文です。それで客観的に分かりやすく書く必要があります。作品の理解を助けるために書かれるのですから難解な文章はNGです。いっぽう、ステートメントは声明文です。それは意思表示であり主観的なモノです。自分の写真観みたいなモノを今回の作品で反映させた...
私は多感、と言うより冷や汗の多い「多汗」な時代に写真を始めたので、どうしてもそのころのことが基準になります。デジタルの時代になったのにフィルムの時代の考え方から抜けられません。一時は「デジタルもフィルムも写真には変わらへん」と思っていました。でも、最近はデジタルとフィルムは明らかに違う、別のものではないかなと思い始めています。ただ、自分自身はこれまでのような写真を撮り続けると思っています。...
写真はボケやX構図で遠近感を出せますよね。絵画では遠近法と言うようです。写真は平面の画像なので実際には目から等距離にあります。それを前後に感じるのですから人間の目っていい加減なんやなと思います。...
「散歩」とは辞書的には気晴らしや健康のためにブラブラ歩くことと説明されています。でも、本来は特に理由などなくただ歩きたいからするもののように思います。季節や時間帯や天候などや距離・歩数は関係ないのです。まあ台風や大雨の時は向いていないと思いますが。数百メートルでも散歩は散歩です。嫌になったら止めればいいのですから。健康のためとか、1万歩歩くことが目標とかは散歩が手段になっている気がします。私の写真...
最近のことはよく知らないのですがアルバムというのを、紙のプリントで残している人ってどれくらいいるのでしょうか。スマホやネットのストレージのケースが多いのかもしれません。上手く整理しておけば、紙のアルバムみたいに、かさばらないですよね。でも、ネットだと思い出が宙ぶらりんのように感じます。紙のほうが、思い出がそこにいてくれるように感じるのですが今は、そんなことはない時代になったのでしょうね。...
森山大道さんたちが発表していたアレブレボケ写真のようなカットが、国鉄(今のJR)の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン(DISCOVER JAPAN)」に使われたのは、アレブレボケには旅情を誘うところがあったからではないでしょうか。森山さんには中平卓馬という写真仲間がいて、同じようなアレブレボケ写真を撮っていました。中平さんはアレブレボケ写真が観光キャンペーンに使われてからはアレブレボケ写真から離れ、写真を図...
撮影カットをレタッチでトリミングするとデザイン的な写真になるような気がします。...
私自身、いまだによく分かっていないのですが写真は現実をそのままそっくりに捉えることではなく写真という、もう一つの現実を捉える手段のように考えたほうがいいのでは?と思っています。もう一つの現実、つまり再現とか、表現とかいう言葉とは違う写真が捉え得る何か、リアリティーみたいなことではないのかなと思うのです。「いわゆる現実」とは違う「もう一つの現実」を捉えることが出来るのが写真というメディアのように思い...
観光などで初めての場所に行くと見るものすべてが新鮮に映りますよね。それで写真を撮ると興奮状態ですからいわゆる撮らされている結果になりあまりいい写真は撮れないよという意見があります。宿泊できるのなら初日はカメラを持たずにブラブラ歩いて、自分の目でチェックしてゆくようにしましょうと言われています。そうすると2日目にカメラを持って出かけることで冷静に観光地を見れるのでいい写真に結びつくということですね。...
時々「ローアングル」と「ローポジション」が混同されていることがあり、気になっています。地面近く、低いところでまっすぐ水平方向に撮るのは「ローポジション」での撮影なんですね。よく言われる「子供目線」とか「ペット目線」は「ローポジション」のことだと思います。いっぽう、下から上方向にに撮るのが「ローアングル」での撮影です。ビルの屋上で、真上に旋回するヘリコプターに向かって撮るのが「ローアングル」での撮影...
ウジェーヌ・アジェという写真家がいます。写真史では必ずと言っていいほど出てくる人です。画家になりたくてパリに出てきたのですが、画家ではなく写真家として「美術家のための資料」にとパリの街を撮り集めることで生活の糧にしました。生活は恵まれなかったみたいで死ぬまでパンと砂糖とミルクを常食としていたというカッコいい写真家だったと思います。アジェには他人事だからそんなふうに言えるんだと怒られるかもしれません...
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
道頓堀にも撮影に行きましたが「ここ、日本?」なんて思えてくるのです。来るごとに。まるで自分が異邦人みたいな感じがします。まあ異邦人というのはカッコつけすぎでよそ者、場違いな人とということですね。いつも「お邪魔しました」とサッサと立ち去るのでした。...