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いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記− https://blog.goo.ne.jp/masunojun1

「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?

純野一益(戦国)
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2008/08/23

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  • 巻二の十二 松平元康、全てを語ること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十二松平元康、全てを語ること「二郎三郎殿は『吾妻鏡』を読んでおられるとの事だが、あれは難しくはないか?」「多少難しくはあります。が、やはり佐殿(すけどの:源頼朝)の起こした鎌倉幕府がどのように平氏(北条氏)の政権に移行していったかがわかり、大変勉強になります。ところで上総介殿は『源平盛衰記』を読んでおられるとの事。だれが源平期最強と思われますか?」「うむ。政治的には平清盛・重盛父子、戦術的には平能登守教経殿、個別の戦闘では源大夫判官義経殿といったところか・・・」「確かに・・・」対話は突然始まった。互いに「何で儂の好きな書物を知っている?」と聞かないまま、間合いをはかった切り出し方である。信長は『皆紅に月出だしたる扇(地が真紅で銀の月が書いてある扇)』で紅潮した胸元をあお...巻二の十二松平元康、全てを語ること

  • 巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十一松平元康、清洲に参上することとりあえず清洲城の障子を開け放った本殿下の様子をながめ、信長に呼ばれていた丹羽五郎左衛門長秀・柴田権六勝家・松井友閑・木下藤吉郎の四人は膝から崩れ落ちそうになった。あれほど「勘弁ならぬ不届き者につき、徹底的に詰問してやれ!」と言っていた信長本人が、目の前で松平元康とひしと抱き合い涙まで流している。「お会いしとうございました、三郎兄者!」「儂もじゃ、竹千代殿!」感動的な対面をしているのはこの二人だけで、回りの者たちは、口をあんぐりあけてその様子を見ている。永禄五年(一五六二)一月十四日、柴田勝家と水野信元の手配により鳴海城に宿泊した松平元康は、一月十五日の午前中出発し当日午後清洲城に到着していた。当初の予定では、「信長から呼ばれた全員が清洲...巻二の十一松平元康、清洲に参上すること

  • 巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十松平元康の動きが読めないこと織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が三河での松平次郎三郎元康の動きを心配するのには二つの理由があった。一つは「元康の祖父清康の頃からの、『松平家代々のけちでせっかちできまぐれで残忍な性格』が身に災いしなければよいが」という心配であった。松平元康の祖父清康と父広忠は、当時知られているとおり不運な死を遂げていた。祖父清康は天文四年(一五三五)十二月、織田信秀が手中にしていた西三河地区を奪還し尾張森山城まで進出したのだが、その陣中で家臣阿部大蔵の息子弥九郎に弑逆されている。世に言う『森山崩れ』である。当時は『不慮の事態』と思われたが、信秀が張り巡らせていた『風・鳥・草』の情報網によれば、どうも「はりきって勢いよく進軍するのはよいが家臣の一部をえこ...巻二の十松平元康の動きが読めないこと

  • 巻二の九 前田利家赦免されること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の九前田利家赦免されること永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、信長の勘気は解けていなかった。織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところから尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教の家系」であり、しかも熱田神...巻二の九前田利家赦免されること

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