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いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記− https://blog.goo.ne.jp/masunojun1

「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?

純野一益(戦国)
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2008/08/23

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  • 巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の四『二寸殿(にきどの)』のこと丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(にきどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪をほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさである。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきりに長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝える。丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合った時三歳の駒であったので現在は五歳ということに...巻二の四『二寸殿(にきどの)』のこと

  • 巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の三五郎左衛門、再び動き始めること桶狭間の戦後処理も一段落し、丹羽五郎左衛門長秀は織田上総介信長・柴田権六勝家と打ち合わせた任務を実行すべく準備に入る。状況に応じて柔軟に動けるように、三人はあまり杓子定規な業務分担はしていなかったが、実質上それぞれの特性が生きるよう、*織田信長:政治・経済・文化・軍事に関する最高意思決定、及び他国との連関の方向性指示*丹羽長秀:他国との連関を取次ぎ衆としてとりまとめ、及び諜報・謀略を含めた情報活動*柴田勝家:主に軍事活動の最前線と本城の間の兵站、本城からの戦略指示の実行と指導、及び優秀な軍兵の募集・訓練となりつつあった。特別な案件はその都度打ち合わせを行なうこととなる。丹羽長秀は予定通り、美濃方面の調略に取り掛かる。黒田城は、表向き城主和...巻二の三五郎左衛門、再び動き始めること

  • 巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の二信長、松井友閑から叱られること一般的に、戦国時代というと『下克上』という言葉がすぐ出てくる。『下克上』というのは「下位のものが上位のものを凌駕すること」の意味であり、もともと中国の春秋戦国時代に使われていた言葉が日本に定着したものである。織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が生きているこの時代にも『下克上』という言葉は使われているが、三人とも「どれだけ勢力を伸ばしても『下克上』だけは避けよう」と申し合わせている。というのも中国古代の『下克上』という言葉は、もともと陰陽五行説の『相生説』『相剋説』に源を発していて、「下位の者が政権・王位を手にするのは天の決めた運命的なめぐり合わせによる」という意味を持っている。決して「下位の者が自由に上のものを討ち倒してよい」と言う意味で...巻二の二信長、松井友閑から叱られること

  • 巻二の一 巻二開始のこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の一巻二開始のこと桶狭間の戦いも終わり、結果として織田信長・丹羽長秀は命ながらえ、柴田勝家も駿河方岡部元信が鳴海城から退城したのでそろそろ清洲に戻ってきます。今川義元を討ち取ってしまったのは三人にとって予想外の事で、事前に「黒末川から東は駿河のもの」とする準備しかしていなかったので、軍に勝ったとはいえ戦後何をすべきか全く頭の中がまっ白の状態です。「まず何を真っ先にすべきか」三人で方針を決めるのが先決でしょう。尾張方からは「偶然に今川治部少輔義元殿を討ち取ってしまったが他意はない」として、『風・鳥・草』を使って近隣各国に告知しておいたので、世間から見ると織田家の道理は立っており、今川氏と同盟を結んでいる武田氏・北条氏もすぐに動いてくる気配はないようです。また大混乱の中、求心...巻二の一巻二開始のこと

  • 巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること

    <初出:2007年の再掲です>巻一の九岡部元信、義元の首を持ち戻ること清洲城下での首実検が終わると、織田信長は「あとはよしなに」とだけ言い残して北やぐらの御座所に『源平盛衰記』を携えて籠もる。軍と戦後処理で疲れた体を休めるためである。丹羽長秀のほうはといえば、休む暇もないほどの実務が残っている。まずは、近国から集まってもらった各宗派の僧侶に対し、供養の度合いに応じお布施を渡す。当然そのときに「三河の誰ぞが軍の無作法をした」ことを各地で言いふらしてもらうよう依頼する。織田家は当時にしては珍しく現金決済が多かったので、僧侶たちは「喜んで」各地に言いふらすことになる。つぎに、軍のとき武具・防具の手配で世話になった桑名・熱田・三河・知多などの商人に、実費と手数料を支払う。これも近隣他国と異なり軍の勝ち負けに関わら...巻一の九岡部元信、義元の首を持ち戻ること

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