画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
大正期、水質の悪かった須賀町の有志が発起人となり、簡易上水道敷設の計画を立て工事が行われて大正12年1923)に通水式を行ったようである。(ふるさとの写真集)砂走り山中の水源地にはレンガ積みの湧水トンネルや配水池がみられた。須賀町飲料水道の水源地
原地区の川末集会所がある地はもと川末大歳神社があった所で、明治32年(1899)旧3月15日と刻されている石鳥居が残されている。明治期の地誌によると明治42年(1909)12月に川末大歳神社は村社の伊勢神社に合祀している。川末大歳神社跡
ウォーキングの途中にある伊勢神社境内から瀬戸内方面を遠望すると手前中央の山が以前に紹介したゴゴロ山で、ゴゴロ山を貫いたように見えるのが山陽自動車道である。瀬戸内にみえる右側が宮島で左側は能美島でさらに左は江田島である。厳島海峡右向うに大黒神島が見え左側向うには倉橋島が遠望できる。瀬戸内島嶼部遠望
物入れの片隅にあったスクラップ帳にラジオ少年であった頃のQSLカードがあった。下画像のような5球3バンドのラジオを制作して各地の放送を受信して受信状態や内容などを報告したら送ってもらえたものである。「RADIOAUSTRALIA」「VOICEOFFREEKOREA」「VOICEOFAMERICA」「北京放送」など短波の日本語放送も聞いていたことがあった。QSLカード
物入れの片隅にあったスクラップ帳に昭和後半期頃に訪れた懐かしい各地の有料道路や橋・トンネルなどの通行券があった。現在はETC化されておりこのような通行券を知っている者は高齢者のみであろう。上画像の領収書は鳥取砂丘から姫路城に向かう中国山地を超える途中で、主要道が通行止めでガタガタの林道が迂回路となっていた時のものである。有料道路・橋・トンネル通行券
生口島瀬戸田町の鹿田原(江戸期鹿田原村)の俵崎城跡の麓にある厳島神社で、(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌には「建暦二年壬申、勧請すといふ」とある。中世、俵崎城を所守していた生口平左衛門と何らかの関りがあったのかも知れない。各地の厳島神社㉕-鹿田原厳島神社
山口市宮島町にある嚴島神社で、応永13年(1406)に大内盛見が安芸国嚴島神社を勧請して県庁がある地に祀った。(絵図赤丸ケ所)幕末期に社地が藩主の居館となったので現在地に移転したようである。社殿内の多宝塔上層部は室町時代中頃の建築手法のようであり山口市の有形文化財に指定されているようである。各地の厳島神社㉔-宮島町厳島神社
ウォーキング途中の新興団地の庭で、見たことが無いような小さな黄色い花がびっしりと咲いている木があった。Googleレンズで検索してみるとミモザのようでオーストラリア南東部を原産とするマメ科アカシア属の植物のようである。ミモザの花が!
昨年3月5日に植菌した椎茸のホダ木から椎茸が生えてきた。9本のホダ木に植菌したが太いホダ木からはまだ生えそうにない、細い1本のホダ木のみから生えてきた。以前のホダ木からは沢山の椎茸が生えていた。補充用のホダ木にぼちぼち植菌しなければ・・・椎茸が!
宮内地区でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常の棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では熨斗瓦の部分には荒波紋と武田菱の家紋がある特注の瓦が嵌め込まれているものである。民家の棟飾り
ウォーキング途中でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では丸瓦を並べずらした二段重ねとして小口は漆喰仕上げとし、上部に二段の熨斗瓦で雁振瓦が被せてある。民家の棟飾り
ウォーキング途中の原地区鎮神原にある鎮神堂で、この地には江戸期浄楽寺があった所のようである。(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌によると「往古者浄楽寺与申真言宗ニ而堂塔御座候由之処、其後退転仕、当寺ノ小堂一宇本尊而巳相残、鎮守さま与唱へ申候」とある。N家の先祖が浄楽寺の住職であったが福島正則の寺領没収により以降小堂をN家の鎮守尊として代々祀っているようである。鎮神堂
昨日は現在行われている開発地の進捗状況を下流方向からみた遠望画像であったが、今画像は宮島サービスエリアの展望所からの遠望で、上から3・4画像のクレーンがある所で擁壁工事が行われているようである。平良丘陵開発の今
五庵山の東麓からみた平良丘陵開発の工事現場の現在であり、用地の最下流地域で広池川沿いに大きな調整池の工事が行われていた。遠くの斜面では擁壁の工事も行われているようである。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体の最後の立ち上がりが残っているようであった。堂垣内広池山線の予定地内で市道中央線(元小学校道)沿いの2棟と山添にある住宅が無くなっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
一昨日紹介した旧平良小学校の講堂写真を見ると2階建て校舎からの渡り廊下がみられる。当ブログ主が通った平良小学校や七尾中学校では校舎間を渡り廊下で繋いでいた。渡り廊下は屋根付きのコンクリート土間で下画像のようなサンジキが並べてあった。その上を通って移動をしていたがいま時サンジキが分かる人は少ないのではなかろうか。サンジキ(桟敷)
昨日紹介した元平良村役場があった所から旧県道(旧速谷神社参道・旧バス道)に向かう道(現在第一群塚線)で可愛川に架かる橋が中央橋と呼称されている。(現在も?)仮設の橋のようであるが中央橋とあるのは旧平良村役場に向かう橋であり、役場に近い橋であったので中央と名付けられたものと思われるのである。可愛川に架かる中央橋
屋内運動場(体育館)講堂旧平良村役場庁舎昨日紹介した街区公園の場所には平良小学校の屋内運動場(体育館)があったが、小学校の移転後は平良体育館として使用されていた。当ブログ主が小学生の頃に木造講堂が建築され、隣接して旧平良村役場庁舎の建物が残っていたのを覚えている。かつてこの地は平良村の中心地であった。街区公園用地の変遷
以前に元平良体育館が取り壊されていることを紹介したことがあるが、現在表題のように表示した看板があり公園の工事が行われていた。工事が完成すると公園名が付けられるものとみられる。旧平良小学校体育館跡地街区公園整備
以前にも紹介した真宗寺院である立善寺の経堂に残されている不動明王立像・天部立像は、昨日紹介した禅宗であったとみられる円光寺に祀られていたものとみられている。この不動明王立像・天部立像共に県の重要文化財に指定されている。立善寺の不動明王立像・天部立像
立善寺ウォーキング途中にある「ふれあいライフ原」特養老健棟の下側に墓地がみられるがこの付近に円光寺があったようである。(絵図の赤丸ケ所)江戸期の地誌によると円光寺は慶長頃に退転して真宗に改宗し立善寺を開基したようである。現在ある墓地は円光寺の名残りのようである。円光寺旧地
物入れの片隅に令和の中頃に購入したGARMINgeko201があった。当時は日本語表示のものはなく、解説書も英文でありどのように操作すればよいのか分からなかった。いろいろと操作していると何となく分かるようになったので宮島の御床山先の砲台跡(当時は資料のインターネット検索が出来なかったので砲台跡と思っていた)での遺構の位置を確認するために使用したのである。(嚴島聴測照射所)舶来品(⁇)のGPSが!
ウォーキング途中の原地区にある立善寺本堂の懸魚で屋根勾配があるので今まで紹介した民家のものより形状が異なる。下画像は上平良地区の西蓮寺本堂の懸魚で平成12年(2000)頃に屋根修復された時に作成された懸魚のようである。寺院の懸魚
原地区をウォーキングしていると元建築会社の作業場の壁に懸魚が架けられていた。(上画像)亡くなった当主の先代が建築した民家に取り付けてあったもののようであり、当時は大工さんが懸魚も制作していたようである。この懸魚と同じものがある民家がみられるのでこの大工さんが建築されたものとみられる。民家の懸魚
ウォーキング途中の原地区でみかけた民家の両妻に設けられた懸魚である。中央に六葉紋があるもので今迄に紹介した懸魚に比べて簡素なものである。懸魚は通常棟木の鼻隠しの役と共に妻飾りとして設けられているものである。民家の懸魚
昨日、速谷神社において節分祭で湯立神事や鬼遣(おにやらい)儀式などが行われた。速谷神社の湯立については厳島野坂文書の毛利隆元書状に「早田社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、毛利隆元が早田社(速谷神社)の湯立を七年に亘り今月より執り行うよう寄進をしている。斎館の神楽殿前では年男・年女の人々により豆撒き・餅撒きが行われて、参詣者に御久米が配られた。速谷神社-節分祭
先日紹介した権現山頂にある倒壊しそうな祠の脇にある檜とクヌギの木であろうか樹木がくっつきあって連理木のようであるが、このような状態は連理木というのであろうか・・・権現山登山-連理木?
上平良地区の最上流部にある河野原溜め池で流入水量が少ないために水位が少し低いようである。この溜池は昭和16年(1941)に流域23戸の田んぼ面積に応じて工事出資金を出し合って築造されたものである。当ブログ主が子供の頃この溜池で丸太を浮代わりにして泳ぎが出来るようになったところである。遥か昔の話。河野原溜め池
権現山の山頂から少し下った登山道脇に石積みがありその上は平坦地となっている。なぜこのような場所に平坦地を造っているのかと以前に登山した時から疑問に思っていた。ところがこの石積みの平坦地は以前紹介した極楽寺山の幕末の砲台跡と同じ遺構とみられるのである。佐伯郡誌に「(芸藩小姓組番頭本田)庫人は峠村権現山下に砲臺を築き・・・」とあり権現山下の遺構はこの砲臺に相当するものとみられ、後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。権現山登山-幕末砲台跡
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画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
所用を兼てのウォーキング途中、壁面に本業敷瓦とみられるものが張ってある民家があったが近寄って見ることは出来なかった。本業敷瓦は日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物の産地愛知県瀬戸で焼かれた陶製タイルである。参考画像は当ブログ主が所持しているもので、大きさは24cm×24cm厚さは1.8cmのものと15cm×15cm厚さ1.8cmのものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/本業敷瓦(タイル)
昨日紹介した地御前漁港には築港時代の石積みの防波堤が残されている。大正5年(1916)頃に南北の新開が築調されそれぞれの地先に石積みの防波堤が築造された。防波堤の先端部は海側にL型に折れ曲がって築造されて堤頂部には繋船石柱が設けられている。(地御前漁港築港についてー広島県の近代化遺産参照)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港の防波堤
上・中画像は平成8年(1996)頃の地御前漁港で、護岸には多くの雁木(石階段)がみられ漁船から漁獲物の荷揚げがされていたものであろう。現在、地御前漁港は艇置施設(プレジャ-ボート係留施設)となってプレジャ-ボートがびっしりと係留されている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港今昔
久しぶりに原方面をウォーキングしていると、原小学校のプール脇で原低区配水池の工事が行われていた。看板表示によると来年3月末までの工事のようで、下画像のような配水タンクが設けられるようである。原低区配水池工事
安来市広瀬町には中世尼子氏の居城月山富田城があり、江戸期、松江藩の支藩であった広瀬藩の陣屋があった所である。半世紀前頃に月山富田城跡や陣屋跡、街並みなどを訪れ八幡焼の窯元があったので記念に求めたものである。抹茶碗で一服②-八幡焼
以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔
以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!
可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2
可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ
ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム
ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ
水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗
宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ
玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊
「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤
「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②
当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実