下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
厳島の島廻りが行われる七胡子のいわれる七浦にある神社のうちで平成22年(2010)4月24日に入浜にある鷹巣浦神社と腰少浦にある腰少浦神社を参詣したときの画像である。鷹巣浦神社は元鷹巣浦にあったが明治期砲台建設のために入浜に遷座されたようである。(画像-厳島名所しるべより)島廻り-七胡子
「芸州厳島御島廻図記」「厳島御嶋廻七浦書図」厳島の俚謡で七里七浦七胡子と歌われ、七胡子といわれる杉ノ浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社、山白浜神社、須屋浦神社、御床浦神社など順次七浦の神社を拝す島廻りが古くから行われているようである。島廻りの七浦から昨日紹介した宮島連絡船(宮島フェリー)の「ななうら丸」が名付けられたようである。島廻り-七浦
先日、厳島神社の大鳥居付近で宮島フェリーななうら丸(上画像)が浅瀬に座礁したことが報道されていた。現在の3代目ななうら丸は平成28年(2016)11月7日に就航したようである。中画像は2代目ななうら丸で昭和62年(1987)2月8日に就航し平成28年(2016)11月7日3代目ななうら丸に交替している。下画像は2代目ななうら丸が就航した時の記念乗車券である。宮島連絡船-ななうら丸
下画像は廿日市1丁目7番から8番の間を通っている市道幸高洲線で、かつて上画像(ふるさとの写真集より)のように潮音寺川が流れていたが現在は暗渠となって川の痕跡は見当たらない。上画像の左端にみられる橋がかつての幸橋とみられ、現在は橋の遺構が道路端にモニュメントとして設置されている。潮音寺川の今昔
天満神社の旧国道沿い玉垣のうちで「宮内武田狂気之薬所」と刻された親柱がみられる。江戸後期宮内村の武田文敬は西洋医学を学び、「武田逢原堂文敬製」の「鎮火奇応散陰陽狂気之妙薬」を特効薬として広く販売した。明治期になって子の武田敏恵は武田精神病医院を開院されていたようである。(中・下画像-広島県の医学歴史散歩より)「狂気之薬所」玉垣
天神山を広電廿日市駅前ロータリー付近から見た画像で、上画像(ふるさとの写真集より)は大正中頃の写真のようで蓮教寺後方にみられる町屋は草屋根葺きである。かつて山斜面には樹木が鬱蒼としていたが現在は無味乾燥なコンクリート擁壁とされている。うしろ天神今昔
廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花がぼちぼち咲き始めている。花が実ってその種を毎年採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけての遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根と切葉松本地大根の今
昨日、営業運転中の蒸気機関車で最も古い「SL人吉」の営業運転が終了したと報道されていた。画像の銘文にみられるように大正11年(1922)に製造された「8620形58654号機」の蒸気機関車のようである。平成28年(2016)7月に電動自転車での人吉市内の観光を終えて人吉駅に着いてみるとSL人吉がホームに停車していた。もう少し後の列車を予定していたが乗車が可能であったので人吉駅から熊本駅まで乗ったことが懐かしく思い出されるのである。「SL人吉」営業運転終了
(2010年7月撮影)(2010年7月撮影)大町市から長野市に向かうバス車中からみられた民家を撮影したがうまく写すことができなかった。上画像は旧中村家住宅で主屋は元禄11年(1698)に建立されたようであり、主屋と土蔵の二棟は国の重要文化財に指定されているようである。2010年7月に長野市に居た娘と立山観光の途中にこの民家を撮影していたのである。この地域の民家を4棟しか撮影出来なかったが、これらの民家は屋根の中央にいろりの煙り出しの越屋根が設けられているのが特徴的であるようである。長野大町線沿いの民家
現在行われている開発地の進捗状況で西広島バイパスを走りながら助手席から撮影してもらったものである。この付近は弘法川を遡った谷でありかつては農業用の八ケ迫溜池があった。(下画像)平良丘陵開発の今
現在行われている開発地の進捗状況を宮島サービスエリア展望所からみた遠望画像である。上から3画像目付近では向こうの山から大きな数台のダンプカーで土砂を運びこんでいるのがみられた。平良丘陵開発の今
今回のミステリーツアーで最後の観光地が国宝の松本城であった。ウイークデーであったが天守閣内は見物客の数珠つなぎであり閣内の展示物などはゆっくりと見ることは出来ないような状態であった。以前に当地の民家や寺院の懸魚を紹介したが閣内に当城の古い懸魚が展示してあった。松本城天守閣
今回のミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった。伊勢神宮の正殿と同じような形式のものであり、寛永13年(1636)に造営された伝統的な神明造りの様式が残されているようで、本殿・中門・釣屋は国宝に指定されている。神門には積雪があったが側面を廻っていくと国宝の本殿・中門・釣屋を見ることができたのである。仁科神明宮-国宝社殿
一の鳥居二の鳥居三の鳥居ミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった大町市の仁科神明宮に参詣した。参道入口に一の鳥居、参道途中に二の鳥居、社殿前に三の鳥居があったが通常見かける鳥居の形状とは少し異なった鳥居であった。伊勢神社でみられる鳥居と同じようであり伊勢形神明鳥居という形式のようである。仁科神明宮-伊勢形神明鳥居
今回訪れた地には当地域では見られないような火の見櫓がみられた。上画像は旧中山道の奈良井宿町並みの中央付近の消防団詰所脇にみられた火の見櫓であり、下画像は善光寺仲見世通りの仁王門脇にある消防団詰所脇にみられた火の見櫓で何れも高さの高いものであった。バス移動中にもみられたが撮影することが出来なかった。火の見櫓
善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。善光寺七名物-雲切目薬
ミステリーツアーの最終日に善光寺を参詣した。以前に娘が長野市に居たことがあったことと以前のミステリーツアーで参詣したことがあり三度目の参詣となった。善光寺本堂の外陣に入ると以前に盗難報道のあったびんずる尊者が安置されており、御本尊参拝後に善光寺名物である仲見世通りの八幡屋磯五郎の七味唐辛子を求めた。善光寺参詣
安曇野にある大王わさび農場を久しぶりに訪れた。以前訪れた時の記憶は広いわさび畑と水車小屋だけだったが、農場内には数多くの道祖神や石仏があった。これらの道祖神は各所に祀られていたものが集められたものではなかろうか。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大王わさび農場の道祖神
大町温泉郷の宿泊ホテルの玄関先に上画像の道祖神が設置されており、宴会場前のホールには中画像と下画像のような最近築造された道祖神が設置されていた。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大町温泉郷の道祖神②
今回のミステリーツアーで大町温泉に宿泊した。当温泉地には積雪が多くあったが、寸暇を惜しみ温泉郷内を散策して広島地方ではみられないような道祖神を訪ねてみた。道祖神はどのような信仰が行われていたのであろうか。大町温泉郷の道祖神
昨日は天龍峡大橋下歩道そらさんぽ天龍峡を散策してから養命酒駒ケ根工場を見学した。続いて大王わさび農場を散策し国宝の仁科明神宮を参詣した。今日はどこにいくのだろうか。馴れないタブレットから***ミステリーツアー2
体調不良であるが無理してミステリーツアーに参加した。fdaチャ-タ-便で極楽寺山と同じ位いの標高の松本空港についた。雪の降る中山道の宿場町であった奈良井宿では震えながら散策した。今日はどこにいくのだろうか。ミステリーツアー
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。各地の厳島神社㉖-マチ厳島神社
昨日紹介した堂垣内付近にあった中世の平楽寺はいつの時代かに衰退してその跡地に平楽地蔵が祀られていたようである。昭和初期に平楽地蔵堂が荒廃していたので、上平良住民の浄財金を集めて新しい平楽地蔵堂を権現山の麓に新築し地蔵供養が行われたようである。平楽地蔵堂
上平良を通っている国道433号線で堂垣内と表示されているバス停留所標識がある。堂垣内地名は中世速田大明神(現速谷神社)との深い関りのあった平楽寺の名残りを伝えている地名である。江戸期の地誌には平楽寺跡(赤丸ケ所)がみられるのみであるが、明治5年(1872)の地券申受帖には堂垣内、寺ノ前、平楽寺の字名がみられる。堂垣内地名
当ブログ主は若い頃には城に興味を持っており、各地の城跡や山城を巡っていたものである。古い城友達から城郭移築建造物大全「西日本編」という458頁もある大著をこのほど頂戴した。当方が若い頃作図していた安芸高田市の法円寺経蔵を掲載して頂いたのである。城郭移築建造物大全「西日本編」
椎茸の栽培で年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしている。昨年暮れに切り置いていた椎茸のホダ木に植菌をした。「にく丸」という品種と「もりの金太郎」という品種を植菌してみた。遊びの菜園の続きでありうまく出来ればよいのであるが・・・椎茸植菌
昨日、「かっぱえびせん」のカルビー工場が建築中であることを紹介した。かっぱに因み・・・玖島地区の大峰山登山口付近の吉末川にはエンコウ(河童)伝説があるようである。子供の頃、溜め池で遊びをしているとエンコウが尻の穴に入ると恐らされていたことがある。危険な渕に近づかないようエンコウに引きずり込まされると云われていたのであろう。七尋淵
佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中であった。大規模の工場であり完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
国道2号線(宮島街道)の廿日市小学校入口交差点付近の中電電柱に観光道路支と表示された銘板が取り付けられていた。今時観光道路がわかる人は少ないのではなかろうか。昭和6年(1931)から在来の道路(旧国道)とは別に、昭和恐慌の失業者救済の事業として現在の国道2号線が建設された。この道路を宮島観光道路と称されていたのである。観光道路
昭和61年(1986)に四季が丘団地の造成に伴って高砂遺跡群の発掘調査が行われている.墳墓や土壙などの遺跡群のうち竪穴式石室が出土しており、石室内に割竹形木棺が埋納されていたもののようである。同遺跡については「高砂遺跡群発掘調査報告書」に詳述されている。高砂古墳発掘調査時の画像
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳