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  • 権現山登山-権現山祠

    権現山の山頂にある祠は今にも崩れそうである。江戸期の地誌によると古い時代には磐座信仰(巨岩を御神体)をしたと思われる瑜伽祠があったようである。「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあり地誌編纂頃にはなくなって廃祠と記されている。倉敷市児島の瑜伽大権現(現在蓮台寺・由加神社)と古い時代に何らかの繋がりがあったのであろうか。権現山名は大権現から名付けられたようである。現在ある祠は近代に何を祀られたのかは定かでないが再興されたようである。しかし現在は画像のように崩壊寸前である。権現山登山-権現山祠

  • 権現山登山

    我が家の方では雪は無いからと天気の良い日の先日、大野地区と佐伯地区境にある権現山へ登山した。権現山の三角点は点名権現で標高は699.12mであるが「おおの自然観察の森」からの比高は250m位しかない。山道に入ると雪が残っており歩きづらく牛歩で登っていると途中2名の登山者とすれ違った。権現山登山

  • 懐かしい瓦焼きコタツが!

    ウォーキング途中に昔懐かしい瓦焼きのコタツと上部のみの土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。以前に紹介した時には向うの田んぼが作られてカモが草取りをしていたが現在は耕作放棄地となっていた。懐かしい瓦焼きコタツが!

  • ネコ車が!

    ウォーキング途中の民家納屋の軒下に昔懐かしいネコ車が置かれていた。下画像は親が曲がった木を使用して制作使用していたネコ車であったが邪魔になるので処分してしまった。昔の車は木製で外周に鉄板の輪が嵌めてあったが下画像のネコ車はゴム製のタイヤであった。ネコ車が!

  • 旧極楽寺道の石仏・里程碑

    現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺道には石仏と里程碑の4丁・5丁・6丁・7丁・10丁・12丁碑があったがどのようになっているのであろうか。またどのようにされるのであろうか。埋もれていると思われる3丁・8丁・9丁・11丁碑が見つかればよいのであるが・・・旧極楽寺道の石仏・里程碑

  • 極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来

    星ケ城跡脇の登山道を下っていくと登山道の凹部に屏風岩・装束岩といわれる大岩があり、岩上に石造の大日如来像が安置されている。台座石には「無手堂本尊大日如来」と刻してあるので先日紹介した極楽寺文書の「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」に相当する石仏のようである。屏風状の岩には刻字がみられるが判読は出来ないような状態である。大日如来像にはかつて堂宇があったのを記憶しているが次第に朽ちて現状のようになった。極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来

  • 極楽寺道つれづれ-星ケ城跡

    30丁碑を過ぎすぐに原方面からの登山道と出会いここからは緩やかな登山道となり、この登山道の左側尾根筋に中世の星ケ城跡がある。城跡は南北弓状の尾根上に郭群を配したもので、大永期ごろ(1521~28)に立野主膳が守居していたということ以外に城の歴史については定かでない。極楽寺道つれづれ-星ケ城跡

  • 極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡

    石塚木砲(下関戦争で配備された木砲-図録より)30丁碑の少し手前にかつて佐方方面からの登山道分岐があり旧平良村と旧佐方村の山境の石塚がみられる。石塚の先は石積みのある平坦地となっておりここは幕末期の芸藩の砲台跡である。後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡

  • 極楽寺道つれづれ-三角点

    27丁碑を過ぎてしばらく登っていると右側に三角点が設置されている。点名は極楽寺で標高は518.36mのようである。「広島を繞る山の研究」の絵図によるとかつてこの付近に近代戦争制限区域標石の呉要塞区域標石が設置されていたようである。このような標石は三角点位置に建立されているのが他所でみられるのである。極楽寺道つれづれ-三角点

  • 極楽寺道つれづれ-手無し観音

    先日紹介した26丁碑の脇に祀られている手無し観音で、極楽寺文書によると「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」とあり、極楽寺境内にあったようであるがこの手無し観音との関係は定かでない。かつての木造手無し観音像が無くなり石仏が祀られていたが堂も朽ちてきたので平成17年(2005)に現在の堂に新築されたようである。極楽寺道つれづれ-手無し観音

  • 極楽寺道つれづれ-天狗石

    江戸期の上平良村地誌絵図で高尾山の上に天狗石が表示されている。高尾山は高地性集落遺跡の高尾山遺跡があった所である。天狗石については何らかのいわれがあったのであろうが定かでない。先日紹介した極楽寺山23丁遺跡の近くに下画像の大きな岩がありこれが天狗石と呼ばれていたものであろうか。極楽寺道つれづれ-天狗石

  • 極楽寺道つれづれ

    宮島サービスエリア脇から極楽寺道を少し登った所に展望所があり、以前は宮島サービスエリアが俯瞰できていたのであるが樹木が伸びて見えづらくなっている。遠くの宮島を遠望すると右端の高い山が岩船岳・御床山で若い頃にここから先の羊歯藪を藪漕ぎして探査したことがある。現在はルートが出来て厳島聴測照射所跡を訪れる人がいるようである。極楽寺道つれづれ

  • 極楽寺初登山・初参り

    前日まではウォーキングの延長で20丁碑までと翌日は26丁碑まで登っていたが、一昨日は登山支度をして極楽寺山に牛歩で初登山して初参りをした。前日からつづいての里程碑は27丁、29丁、30丁、34丁、35丁、36丁、37丁碑で極楽寺に至る。平日であったが20数人くらいの登山者に出会った。極楽寺初登山・初参り

  • 極楽寺道 ②

    ど根性松速谷神社道分岐碑22丁碑23丁遺跡24丁碑26丁碑・手無し観音翌日もウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の26丁碑まで登った。20丁碑を過ぎてから道脇にあるど根性松はまだ元気であった。速谷神社道分岐碑から高尾山遺跡脇を通るが現在通行不能である。23丁遺跡は昭和59年(1984)頃に土石流ケ所から弥生式土器を採集したものである。26丁碑の脇には手無し観音が祀られており、ここからの眺望は素晴らしい。極楽寺道②

  • 環境調査の後は放置 ⁉

    極楽寺参道脇の山中に画像のような何らかの環境調査をした器具とみられる残骸が放置されていた。残骸器具には「総合科学部基礎科学研究自然環境研究」と記されていた。環境調査の後は放置⁉

  • 極楽寺参道に

    ウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の20丁碑まで登った。山陽自動車道より下道の極楽寺参道廿日市道は時折り紹介している平良丘陵開発のために掘削中であり里程碑などはどのようになっているのだろうか。極楽寺参道に

  • 教覚寺の鐘楼門

    津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門

  • 十王堂市

    左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市

  • 田んぼの寒起こし

    寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし

  • 成人式記念品の移り変わり

    先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今

  • 市道堂垣内広池山線工事の今

    市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今

  • 辰年に因んで ⑦

    本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦

  • 辰年に因んで ⑥

    応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥

  • 辰年に因んで ⑤

    本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤

  • 辰年に因んで ④

    本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④

  • 辰年に因んで ③

    本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③

  • 辰年に因んで ②

    本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②

  • 辰年に因んで

    本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで

  • 三寺社参り

    例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り

  • あけましておめでとうございます

    新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます

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