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権現山の山頂にある祠は今にも崩れそうである。江戸期の地誌によると古い時代には磐座信仰(巨岩を御神体)をしたと思われる瑜伽祠があったようである。「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあり地誌編纂頃にはなくなって廃祠と記されている。倉敷市児島の瑜伽大権現(現在蓮台寺・由加神社)と古い時代に何らかの繋がりがあったのであろうか。権現山名は大権現から名付けられたようである。現在ある祠は近代に何を祀られたのかは定かでないが再興されたようである。しかし現在は画像のように崩壊寸前である。権現山登山-権現山祠
我が家の方では雪は無いからと天気の良い日の先日、大野地区と佐伯地区境にある権現山へ登山した。権現山の三角点は点名権現で標高は699.12mであるが「おおの自然観察の森」からの比高は250m位しかない。山道に入ると雪が残っており歩きづらく牛歩で登っていると途中2名の登山者とすれ違った。権現山登山
ウォーキング途中に昔懐かしい瓦焼きのコタツと上部のみの土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。以前に紹介した時には向うの田んぼが作られてカモが草取りをしていたが現在は耕作放棄地となっていた。懐かしい瓦焼きコタツが!
ウォーキング途中の民家納屋の軒下に昔懐かしいネコ車が置かれていた。下画像は親が曲がった木を使用して制作使用していたネコ車であったが邪魔になるので処分してしまった。昔の車は木製で外周に鉄板の輪が嵌めてあったが下画像のネコ車はゴム製のタイヤであった。ネコ車が!
現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺道には石仏と里程碑の4丁・5丁・6丁・7丁・10丁・12丁碑があったがどのようになっているのであろうか。またどのようにされるのであろうか。埋もれていると思われる3丁・8丁・9丁・11丁碑が見つかればよいのであるが・・・旧極楽寺道の石仏・里程碑
星ケ城跡脇の登山道を下っていくと登山道の凹部に屏風岩・装束岩といわれる大岩があり、岩上に石造の大日如来像が安置されている。台座石には「無手堂本尊大日如来」と刻してあるので先日紹介した極楽寺文書の「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」に相当する石仏のようである。屏風状の岩には刻字がみられるが判読は出来ないような状態である。大日如来像にはかつて堂宇があったのを記憶しているが次第に朽ちて現状のようになった。極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来
30丁碑を過ぎすぐに原方面からの登山道と出会いここからは緩やかな登山道となり、この登山道の左側尾根筋に中世の星ケ城跡がある。城跡は南北弓状の尾根上に郭群を配したもので、大永期ごろ(1521~28)に立野主膳が守居していたということ以外に城の歴史については定かでない。極楽寺道つれづれ-星ケ城跡
石塚木砲(下関戦争で配備された木砲-図録より)30丁碑の少し手前にかつて佐方方面からの登山道分岐があり旧平良村と旧佐方村の山境の石塚がみられる。石塚の先は石積みのある平坦地となっておりここは幕末期の芸藩の砲台跡である。後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡
27丁碑を過ぎてしばらく登っていると右側に三角点が設置されている。点名は極楽寺で標高は518.36mのようである。「広島を繞る山の研究」の絵図によるとかつてこの付近に近代戦争制限区域標石の呉要塞区域標石が設置されていたようである。このような標石は三角点位置に建立されているのが他所でみられるのである。極楽寺道つれづれ-三角点
先日紹介した26丁碑の脇に祀られている手無し観音で、極楽寺文書によると「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」とあり、極楽寺境内にあったようであるがこの手無し観音との関係は定かでない。かつての木造手無し観音像が無くなり石仏が祀られていたが堂も朽ちてきたので平成17年(2005)に現在の堂に新築されたようである。極楽寺道つれづれ-手無し観音
江戸期の上平良村地誌絵図で高尾山の上に天狗石が表示されている。高尾山は高地性集落遺跡の高尾山遺跡があった所である。天狗石については何らかのいわれがあったのであろうが定かでない。先日紹介した極楽寺山23丁遺跡の近くに下画像の大きな岩がありこれが天狗石と呼ばれていたものであろうか。極楽寺道つれづれ-天狗石
宮島サービスエリア脇から極楽寺道を少し登った所に展望所があり、以前は宮島サービスエリアが俯瞰できていたのであるが樹木が伸びて見えづらくなっている。遠くの宮島を遠望すると右端の高い山が岩船岳・御床山で若い頃にここから先の羊歯藪を藪漕ぎして探査したことがある。現在はルートが出来て厳島聴測照射所跡を訪れる人がいるようである。極楽寺道つれづれ
前日まではウォーキングの延長で20丁碑までと翌日は26丁碑まで登っていたが、一昨日は登山支度をして極楽寺山に牛歩で初登山して初参りをした。前日からつづいての里程碑は27丁、29丁、30丁、34丁、35丁、36丁、37丁碑で極楽寺に至る。平日であったが20数人くらいの登山者に出会った。極楽寺初登山・初参り
ど根性松速谷神社道分岐碑22丁碑23丁遺跡24丁碑26丁碑・手無し観音翌日もウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の26丁碑まで登った。20丁碑を過ぎてから道脇にあるど根性松はまだ元気であった。速谷神社道分岐碑から高尾山遺跡脇を通るが現在通行不能である。23丁遺跡は昭和59年(1984)頃に土石流ケ所から弥生式土器を採集したものである。26丁碑の脇には手無し観音が祀られており、ここからの眺望は素晴らしい。極楽寺道②
極楽寺参道脇の山中に画像のような何らかの環境調査をした器具とみられる残骸が放置されていた。残骸器具には「総合科学部基礎科学研究自然環境研究」と記されていた。環境調査の後は放置⁉
ウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の20丁碑まで登った。山陽自動車道より下道の極楽寺参道廿日市道は時折り紹介している平良丘陵開発のために掘削中であり里程碑などはどのようになっているのだろうか。極楽寺参道に
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?
極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!
速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の宮島サービスエリアからの遠望画像である。これから梅雨も本格化していくものとみられる。下画像のような土砂流出の防止策は施されているのであろうが・・・平良丘陵開発の今