下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
権現山の山頂にある祠は今にも崩れそうである。江戸期の地誌によると古い時代には磐座信仰(巨岩を御神体)をしたと思われる瑜伽祠があったようである。「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあり地誌編纂頃にはなくなって廃祠と記されている。倉敷市児島の瑜伽大権現(現在蓮台寺・由加神社)と古い時代に何らかの繋がりがあったのであろうか。権現山名は大権現から名付けられたようである。現在ある祠は近代に何を祀られたのかは定かでないが再興されたようである。しかし現在は画像のように崩壊寸前である。権現山登山-権現山祠
我が家の方では雪は無いからと天気の良い日の先日、大野地区と佐伯地区境にある権現山へ登山した。権現山の三角点は点名権現で標高は699.12mであるが「おおの自然観察の森」からの比高は250m位しかない。山道に入ると雪が残っており歩きづらく牛歩で登っていると途中2名の登山者とすれ違った。権現山登山
ウォーキング途中に昔懐かしい瓦焼きのコタツと上部のみの土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。以前に紹介した時には向うの田んぼが作られてカモが草取りをしていたが現在は耕作放棄地となっていた。懐かしい瓦焼きコタツが!
ウォーキング途中の民家納屋の軒下に昔懐かしいネコ車が置かれていた。下画像は親が曲がった木を使用して制作使用していたネコ車であったが邪魔になるので処分してしまった。昔の車は木製で外周に鉄板の輪が嵌めてあったが下画像のネコ車はゴム製のタイヤであった。ネコ車が!
現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺道には石仏と里程碑の4丁・5丁・6丁・7丁・10丁・12丁碑があったがどのようになっているのであろうか。またどのようにされるのであろうか。埋もれていると思われる3丁・8丁・9丁・11丁碑が見つかればよいのであるが・・・旧極楽寺道の石仏・里程碑
星ケ城跡脇の登山道を下っていくと登山道の凹部に屏風岩・装束岩といわれる大岩があり、岩上に石造の大日如来像が安置されている。台座石には「無手堂本尊大日如来」と刻してあるので先日紹介した極楽寺文書の「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」に相当する石仏のようである。屏風状の岩には刻字がみられるが判読は出来ないような状態である。大日如来像にはかつて堂宇があったのを記憶しているが次第に朽ちて現状のようになった。極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来
30丁碑を過ぎすぐに原方面からの登山道と出会いここからは緩やかな登山道となり、この登山道の左側尾根筋に中世の星ケ城跡がある。城跡は南北弓状の尾根上に郭群を配したもので、大永期ごろ(1521~28)に立野主膳が守居していたということ以外に城の歴史については定かでない。極楽寺道つれづれ-星ケ城跡
石塚木砲(下関戦争で配備された木砲-図録より)30丁碑の少し手前にかつて佐方方面からの登山道分岐があり旧平良村と旧佐方村の山境の石塚がみられる。石塚の先は石積みのある平坦地となっておりここは幕末期の芸藩の砲台跡である。後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡
27丁碑を過ぎてしばらく登っていると右側に三角点が設置されている。点名は極楽寺で標高は518.36mのようである。「広島を繞る山の研究」の絵図によるとかつてこの付近に近代戦争制限区域標石の呉要塞区域標石が設置されていたようである。このような標石は三角点位置に建立されているのが他所でみられるのである。極楽寺道つれづれ-三角点
先日紹介した26丁碑の脇に祀られている手無し観音で、極楽寺文書によると「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」とあり、極楽寺境内にあったようであるがこの手無し観音との関係は定かでない。かつての木造手無し観音像が無くなり石仏が祀られていたが堂も朽ちてきたので平成17年(2005)に現在の堂に新築されたようである。極楽寺道つれづれ-手無し観音
江戸期の上平良村地誌絵図で高尾山の上に天狗石が表示されている。高尾山は高地性集落遺跡の高尾山遺跡があった所である。天狗石については何らかのいわれがあったのであろうが定かでない。先日紹介した極楽寺山23丁遺跡の近くに下画像の大きな岩がありこれが天狗石と呼ばれていたものであろうか。極楽寺道つれづれ-天狗石
宮島サービスエリア脇から極楽寺道を少し登った所に展望所があり、以前は宮島サービスエリアが俯瞰できていたのであるが樹木が伸びて見えづらくなっている。遠くの宮島を遠望すると右端の高い山が岩船岳・御床山で若い頃にここから先の羊歯藪を藪漕ぎして探査したことがある。現在はルートが出来て厳島聴測照射所跡を訪れる人がいるようである。極楽寺道つれづれ
前日まではウォーキングの延長で20丁碑までと翌日は26丁碑まで登っていたが、一昨日は登山支度をして極楽寺山に牛歩で初登山して初参りをした。前日からつづいての里程碑は27丁、29丁、30丁、34丁、35丁、36丁、37丁碑で極楽寺に至る。平日であったが20数人くらいの登山者に出会った。極楽寺初登山・初参り
ど根性松速谷神社道分岐碑22丁碑23丁遺跡24丁碑26丁碑・手無し観音翌日もウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の26丁碑まで登った。20丁碑を過ぎてから道脇にあるど根性松はまだ元気であった。速谷神社道分岐碑から高尾山遺跡脇を通るが現在通行不能である。23丁遺跡は昭和59年(1984)頃に土石流ケ所から弥生式土器を採集したものである。26丁碑の脇には手無し観音が祀られており、ここからの眺望は素晴らしい。極楽寺道②
極楽寺参道脇の山中に画像のような何らかの環境調査をした器具とみられる残骸が放置されていた。残骸器具には「総合科学部基礎科学研究自然環境研究」と記されていた。環境調査の後は放置⁉
ウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の20丁碑まで登った。山陽自動車道より下道の極楽寺参道廿日市道は時折り紹介している平良丘陵開発のために掘削中であり里程碑などはどのようになっているのだろうか。極楽寺参道に
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳