画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
卯年最後の日であるので今までに市域でみかけた兎文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。※今年も多くの方々の御来訪、閲覧して頂き有難うございました。快調ではありませんが来年も可能な限り継続していきたいと思っていますのでどうぞよろしくお願い致します。さようなら卯年
卯年も本日と明日のみとなりました。先日紹介した注連飾りも仕上げて玄関に飾りました。卯年の今秋、訪れた山形県南陽市の熊野大社の本殿裏にうさぎが三羽隠し彫りされているようで、うさぎを三羽見つけた人は願い事が成就するとのことであったがなかなか見つけにくかった。卯年もあとわずか
昨日、ウォーキングで宮島サービスエリアの下り線展望所まで訪れた。駐車場は帰省帰りの車がいっぱいであった。隣接公園では「ピクミンテラスin宮島SA」という催しが行われておりずらりと列を成していた。昔人間にはよくわからないが「ピクミン」とは・・・「宮島SA下り線」にて
今年も椎茸の補充用のドングリの木(クヌギ)を伐採したが来春になって植菌する予定である。今春植菌したホダ木からはまだ椎茸は出てこない。以前からのホダ木からは椎茸が出来ているが年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしているのである。椎茸のホダ木
正月も近づいてきたので我が家の注連飾りのパーツ作りをした。29日に藁で作った3つのパーツとウラジロ、ダイダイ、マンリョウ又は南天などを組み合わせて完成させ玄関に架ける予定である。しめ飾り
桜尾城址は大正元年(1912)10月に旧桜尾城主の末流である公爵桂太郎が縁故深い桜尾山を買収して公園として廿日市町に寄付し、桂公園と称して最高所に桂公園碑が建立されていた。昭和42年(1967)頃から桜尾城址が削平されて城の遺構はなくなり現在の桂公園が整備された。桂公園
一昨日紹介した絵葉書はかつての桜尾城址から撮影されたもので、桜尾城はかつて海に臨んだ要害の地であり、標高31mの独立丘陵には本丸、二の丸、三の丸、東の丸などの曲輪があった。昭和42年(1967)頃から削平されて現在の桂公園となったのである。上・中画像は昭和40年(1965)頃の桜尾城跡の遠望で、下画像は同年頃の曲輪の状態を表したものである。(桜尾城について)在りし日の桜尾城址
昨日紹介した絵葉書にみられた佐伯郡役所が現在の中央市民センターの地にあったことを知る市民はわずかであろう。上画像は天神山から見た解体前の元佐伯郡役所建物である。佐伯郡役所は明治時代に西洋建築を模した擬洋風建築で従来の日本建築には見られない手法の建築であったが昭和46年(1971)に解体された。(元佐伯郡役所建築について)在りし日の佐伯郡役所
上画像の絵葉書はかつての桜尾山(桜尾城跡)からみた廿日市の町並みで、中央付近に大きな屋根の佐伯郡役所がみられ、街並みの中に草ぶき屋根の町屋が3棟みられる。下画像は桂公園からのほぼ同じ方向の画像であるが向うの山並みが違っている。手前保育園の建物があるので同じ山並み方向を見ることが出来ないのである。廿日市町並み遠望今昔
一昨日紹介した近江八幡市の日牟禮八幡宮のしめ縄を真似て2017年(平成29年)に作り始めて6年作成している。綯い上げたパーツをその年の気分で3組や4組、5組と再度綯い上げて作成するのである。河野原大歳神社の変形しめ縄変遷
先日、河野原大歳神社のしめ縄を作ったことを紹介したが、昨日大歳神社の拝殿と本殿に架けて奉納した。配り物の途中に参詣、細い縄がしめ縄代わりとされていたのを見兼ねて平成22年(2010)に作り始めてから13年となった。河野原大歳神社しめ縄奉納
一昨日、河野原大歳神社の拝殿のしめ縄は2014年(平成26年)10月に参詣した近江八幡市の日牟禮八幡宮のしめ縄(上画像)を参考として作成したと紹介した。しかし、2018年(平成30年)9月に参詣した時には上画像のしめ縄は無くなっており下画像のようなしめ縄となっていた。現在はどのようなしめ縄であろうか・・・日牟禮八幡宮のしめ縄
昨日、ウォーキング途中の伊勢神社では一の鳥居、二の鳥居に新しい注連縄が架けられており、拝殿前には大きな門松が設置されていた。本殿と拝殿の注連縄は古いままであったので一年ごとに鳥居と交互に作っておられるようである。伊勢神社のしめ縄
今年も河野原大歳神社のしめ縄づくりを始めた。本殿に架けるしめ縄は通常みられるような注連縄を作って房飾りを取り付けた。拝殿に架けるしめ縄は通常みられるものとは異なった形状のものを数年に亘り作っているものである。2014年に近江八幡市の日牟禮八幡宮に参詣してみかけた注連縄を真似て作り始めたものであるが一人仕事であるためにうまく出来ないのである。河野原大歳神社のしめ縄づくり
上平良地区の東側にある吉野山、寺山ともいわれていたようで、現在は竹藪化しつつある。右端向うの山が先日紹介した旧石州往還道のある御棒杖山で左側向うの高い山が星ケ城跡の山である。吉野山には古い時代に吉野明神という小祠あったようであり、また中世の速田大明神に奉仕する供僧寺の一つであった宝泉寺があったものとみられる山でもある。吉野山
ウォーキング途中の原市民センターでは毎週金曜日の午後にMaxValuの移動販売車が来ている。車の運転ができず平良地区などに買い物に行くことが出来ない人達のために移動販売が行われているようである。(画像は先週金曜日)原地区の移動販売車
大根を抜いてみると・・・またまた芸術的な大根であった。大根を植えている畑地は固い地盤ではないのになぜこのようになったのであろうか。芸術的な大根が‼
旧石州往還道を歩いていると枯れ木にびっしりとクソナバが生えていた。Googleレンズで検索してみたがオシロイタケかオオオシロイタケかよくわからない。名前が分からないとクソナバと称しているのである。※昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数650万PVの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪閲覧して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。クソナバが!
先日来紹介している平良丘陵開発用地の西側に伸びている五庵山から菊ケ迫山・御棒杖山の尾根筋東側には旧石州往還道の名残りが残されている。御棒杖山から下っていくと旧石州往還道の脇まで掘削工事が行われていた。もう少し下った場所では市道堂垣内広池山線の工事で旧往還道の名残りが消滅してしまいそうである。旧石州往還道
ウォーキング途中、山陽自動車の法面にみたことがないような虫こぶ状の葉がついた植物があった。Googleレンズで検索してみるとヌルデハイボケフシのようで、「ヌルデのハ(葉)にイボのようについたケ(毛)のあるフシ(むしこぶ)」という意味のようである。ヌルデハイボケフシ
五庵山の東北麓にある共同墓地内にみたことが無いような石造物があった。狛犬が逆立ちして足で線香鉢であろうか大きな石鉢を支えているような像である。この狛犬は雄であろうか雄のシンボルも刻されている。逆立ち狛犬⁉
五庵山の東北麓からみた広池地区で行われている丘陵開発の現在で、手前では計画図の左下部分にみられる調整池の工事が行われているようである。平良丘陵開発の今🙌
時折り紹介している市道堂垣内広池山線で可愛川に架けられる橋梁の橋脚下部工事が現在行われている。川中の橋脚下部の場所打ち杭は完了しているようで周辺の土石を掘削搬出されているようであった。市道堂垣内広池山線工事の今
速谷神社拝殿のしめ縄は長らく沖本義雄氏が中心となって制作されていたが、亡くなられてから数年OLD倶楽部の有志が制作されていた。2014年(平成26年)に有志がコモ巻きのしめ縄を制作されている大頭神社で教えて貰ってからコモ巻きのしめ縄を作るようになり10年目となった。速谷神社拝殿のしめ縄変遷
先日、新年に向けて速谷神社に奉納するしめ縄のコモ編み作業を始めたことを紹介したが、その後拝殿に架けるコモ巻きの大しめ縄をはじめ斎館、儀式殿、注連柱、岩木神社、稲荷神社などに架ける大小のしめ縄を制作した。昨日飾り房などを取り付けて大しめ縄を拝殿に架けて奉納した。速谷神社しめ縄奉納
ウォーキング途中の山裾にカラフルな小さな実が付いている蔓性の植物があった。Googleレンズで検索するとノブドウのようで、なんと焼酎付けり野ぶどう酒などや乾燥させた葉の野ぶどう茶などで飲用や販売されているようである。ノブドウ
ウォーキング途中にお参りしている原地区の伊勢神社では参道や境内にもう初詣の幟を立てておられた。当神社では今年2基ある鳥居に架けるしめ縄を制作されるとのことであった。初詣の幟が‼
ウォーキング途中にある石垣の大きな石に苔状のものがみられたが、日当たりもよくいつも乾燥している石なので何かと思った。ネットで調べてみると地衣類のようであり、地衣類は菌類のうち、藻類を共生させることで自活できるようになった生物のようで、一見するとコケ類などにも似て見えるが形態的にも異なり構造は全く違うものであるとのことのようである。地衣類か‼
大根を抜いてみるとなんと椅子に座ったような芸術的な大根が・・・反対側はリアルなので紹介はしない。芸術的な大根が‼
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄の準備でアクタ取りを先日紹介したが、昨日から拝殿に架けるしめ縄のコモ編み作業を始めて2枚編み上げた。コモを編む器具をコモカセ・コモガセなどと呼ぶようでアイヌの人達はイテセニと言っていたようである。編み紐を巻くものは地方によってツヅラコ・コマ・カチコ・ツロロ・ツツロ・ツツラ・ツチノコ・ピッなどと呼ばれているようである。速谷神社のしめ縄づくり
9月23日に種蒔きした廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)それぞれ5株が大きく育ってきたが、これからどのようになっていくのであろうか。毎年種を採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけて遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
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画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
所用を兼てのウォーキング途中、壁面に本業敷瓦とみられるものが張ってある民家があったが近寄って見ることは出来なかった。本業敷瓦は日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物の産地愛知県瀬戸で焼かれた陶製タイルである。参考画像は当ブログ主が所持しているもので、大きさは24cm×24cm厚さは1.8cmのものと15cm×15cm厚さ1.8cmのものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/本業敷瓦(タイル)
昨日紹介した地御前漁港には築港時代の石積みの防波堤が残されている。大正5年(1916)頃に南北の新開が築調されそれぞれの地先に石積みの防波堤が築造された。防波堤の先端部は海側にL型に折れ曲がって築造されて堤頂部には繋船石柱が設けられている。(地御前漁港築港についてー広島県の近代化遺産参照)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港の防波堤
上・中画像は平成8年(1996)頃の地御前漁港で、護岸には多くの雁木(石階段)がみられ漁船から漁獲物の荷揚げがされていたものであろう。現在、地御前漁港は艇置施設(プレジャ-ボート係留施設)となってプレジャ-ボートがびっしりと係留されている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港今昔
田んぼの水回りを兼ての早朝ウォーキングをしていると藤戸の谷の田んぼにサギがいた。何というサギであろうか?以前にこのようなサギをアオサギと教えて頂いたような気がするが・・・アオサギか?
久しぶりに原方面をウォーキングしていると、原小学校のプール脇で原低区配水池の工事が行われていた。看板表示によると来年3月末までの工事のようで、下画像のような配水タンクが設けられるようである。原低区配水池工事
安来市広瀬町には中世尼子氏の居城月山富田城があり、江戸期、松江藩の支藩であった広瀬藩の陣屋があった所である。半世紀前頃に月山富田城跡や陣屋跡、街並みなどを訪れ八幡焼の窯元があったので記念に求めたものである。抹茶碗で一服②-八幡焼
以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔
以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!
可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2
可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ
ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム
ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ
水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗
宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ
玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊
「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤
「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②