昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜宣伝椅子がみられた。昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜の宣伝椅子がガラス窓越しにみられた。昨日紹介した画像の外側にみえる椅子にもかつて家納喜の宣伝がみられたが現在は退色剥落してよくわからない。家納喜宣伝の待合椅子
ウォーキング途中、原小学校隣接の民俗芸能伝承館横にある昨日のイチョウの黄葉で、前日に紹介した大歳神社のように落葉はしていなかった。民俗芸能伝承館の場所にはかつて小学校の講堂があった所で学校用地に植えられていた銀杏の木のようである。イチョウの黄葉
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社のイチョウの葉が昨日の風で落ちて境内から周辺にかけて綺麗な絨毯状になっていた。木についた黄葉画像と思ったが少し遅かったようである。イチョウの葉絨毯
広原神社原神社佐古田神社先日紹介した大竹市の飛地である広原の広原神社・奥谷尻の原神社・後原地区の佐古田神社においては珍しい山鎮めの神事が行われている。悪霊を迎え神楽で囃しての鎮めの儀式で悪霊力を藁蛇に乗り移らせて神木などに巻き付けて鎮送するという神事が行われている。山鎮め習俗
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄の準備が地域のOLD倶楽部有志により始まった。境内の神池周辺のモミジは綺麗に紅葉していた。注連縄づくりには稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする作業で、藁のくずをアクタと先輩たちは言っておられた。地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというところもあるようである。注連縄づくりの準備
①②③④大竹市の飛地である後原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落であり、広原、奥谷尻地区とは少し変わった道切り習俗である。この地域では関札は御幣(佐古田神社で祈祷した御幣)で集落に通じる村境と井手口に関札を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②③④画像は井手名不明であるが井手口に立てられた関札である。道切り習俗③-後原
大竹市の飛地である奥谷尻地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、広原地区と同じように集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札、③画像は東口に立てられた関札である。④画像は西口に立てられた関札であるが、以前は小瀬川の渡り口に立てられていたが県道の改修で現在は田んぼの脇に立てられるようになっていた。道切り習俗②-奥谷尻
昨日は勤労感謝の日で、速谷神社ではその年の新穀を神前に供えて収穫に感謝する新嘗祭が斎行され、境内には七五三参りの子供さん連れの御家族が多く見られた。境内参道のモミジの紅葉やイチョウの葉がきれいに紅葉していた。速谷神社の紅葉
①②③大竹市の飛地である広原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、古くから集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(広原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札である。西口には現在猪侵入防止の金網が設置してあり近づくことができないので最近関札が立てられているのかは不明である。③画像は過去に訪れた時の画像である。道切り習俗①-広原
山林を歩いていると倒木にみたことが無いような茶色と白色のくそナバが生えていた。Googleレンズで検索してみたが茶色のキノコはシュタケ、ヒイロタケ、アケボノオシロイタケ、マスタケなどのどれであろうか。白色のキノコはシハイタケであろうか。⁉倒木にキノコが‼
ウォーキング途中の原地区森宗から極楽寺山南麓を遠望。矢印のある高い山が中世の山城である星ケ城跡で広島湾、廿日市、五日市の平地部や石内筋が展望できる場所であり見張所的な城だったのであろうか。右側矢印ケ所は弥生中期から後期頃の高地性集落があったとみられている高尾山遺跡である。極楽寺山系遠望
平良地区と原地区の境にある標高156mの小山で、江戸期の原村の地誌に「ごごろ山」とある。戦前にゴゴロ山の西麓で弥生式壷形土器(下画像上側-廿日市の文化第1集)が出土したようであり、また、古くはゴゴロ山丘陵の先端であったと思われる田んぼで須恵器(下画像下側)が出土しているのである。ゴゴロ山
ウォーキング途中の原地区国実の県道294号虫道・廿日市線から瀬戸内方面を遠望。道路脇にあるイチョウが紅葉していた。県道の先にはゴゴロ山がみられその先には木材港南の広島ガスの丸いタンクがみられ、広島湾の先には安芸の小富士に似た江田島の大須山がみられる。瀬戸内遠望
平良丘陵開発用地に向かう市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋梁の下部工事が行われており、看板表示によると現在場所打杭の工事が行われているようである。この工事個所より東側では一部分の道路整備が進んでいた。市道堂垣内広池山線工事の今
今秋は比較的に好天に恵まれ秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作った。稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。俵の胴体部のコモを編む機具(コモカセ・コモガセ)で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結ぶ。コモの端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていく。片端部を編み上げて袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰める。米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引...令和5年米俵づくり
時折り平良丘陵開発予定地の山林が伐採されて一部掘削されている画像を紹介しているが、上画像は藤掛交差点付近からの遠望である。大きく掘削されている広池地区から右端の掘削されている間の山林も用地内であり伐採掘削されるのである。後方の高い山が星ケ城跡で右側が極楽寺のある山である。平良丘陵開発の今
以前に原地区水道施設について紹介したが、先日ウォーキングしていると原地区の市道50第一路線でアスファルト路面がカッターで切断されていた。上平良地区小原のポンプ所の敷地から送配水管の敷設工事が行われるようである。原地区送配水管拡張工事
ウォーキング途中の原地区橋本で芸陽醤油の創立以前に醤油醸造をしていた元西家の玄関脇に芸陽醤油の看板が置かれていた。この看板によるとかつて芸陽醤油では最上醤油という銘柄の醤油を醸造していたようであり、ここ西吉太郎商店で販売していたようである。芸陽醤油の銘柄看板が‼
上下の町は銀山街道の中継地点で代官所が置かれた天領の地で栄えていたようであり、町並みでは袖ウダツを設けた町屋がみられた。上下町並みの袖ウダツは脇町でみられたような重厚なものでなく形状もほぼ同じようなものが設けられていた。上下探訪-袖ウダツの町屋
昭和2年(1927)に開場したという翁座は芝居小屋、劇場、映画館として使用され昭和35年(1960)に閉館されたようで、現在国登録有形文化財になっている。翁座の公演記録は残されていないようであるが、当市上平良出身の女剣劇の女王「不二洋子」が公演していたかも知れないのである。上下探訪-翁座
今高野山の塔頭寺院である西福院跡に祀られている胡子神社であるが、以前は甲山の街中にあったものと思われる。8月の19日20日には甲山廿日えびす祭りが行われており、江戸期から続いている伝統的な祭りのようである。中世、廿日市の四辻にあった胡堂も御開帳がある廿日えびすの市立てが著名となって廿日市地名が出来たものと思われるのである。(廿日市地名について)今高野山-胡子神社
一昨日、地域のOLD倶楽部の人達と世羅町の今高野山と上下町方面を訪れた。紅葉の名所今高野山は色づいたモミジもあったが紅葉には少し早かった。開基1200年と云われる今高野山の丹生神社と龍華寺を参詣し境内を散策した。今高野山
当ブログ主は訪れた地のローカル新聞を求めるようにしており、宿泊ホテルにて山形市の山形新聞と鶴岡市の荘内日報を頂戴した。山形新聞には蔵王山の雪と紅葉画像が大きく掲載されていたが、訪れた時は霧がかかって綺麗な画像は撮れなかった。当ブログ主宅の周辺では熊の目撃情報や糞痕跡などあったが、山形新聞にも小国町、飯豊町で、荘内日報にも酒田市、庄内町での目撃情報が掲載されていた。米沢市で発行されていた米沢新聞は2021年(令和3年)に廃刊されていた。山形探訪-ローカル新聞
道中のバス車中からは当地域では見られないような形状の薄鉄板葺(かつては茅葺)の民家が多くみられたが、動く車中からはうまく撮影することが出来なかった。上・中上画像は尾花沢市付近で、中下画像・下画像は米沢市付近で見かけた民家である。これらの民家には越屋根がみられ囲炉裏等の煙り出しの名残りであろうか。山形探訪-山形の民家
広い荘内平野を走っていると主要な道路脇にみたことが無いような柵が延々と設けられていた。ガイドの説明によると当地は積雪が少なく風雪が激しいので設けられているようで、下画像は収納されている状態のようでもう少ししたら柵も防雪・防風対応整備されるのであろう。山形探訪-防雪・防風柵
上山市のうえやま温泉に宿泊し出発前の寸暇を惜しみ近くの仲丁通り(武家屋敷通り)沿いの武家屋敷を外観見物した。4棟の茅葺屋根の武家屋敷が残されており3棟は居住されているようである。何れの屋敷も鉤型の曲屋でありこの地域独特の家屋構造なのだろうか。山形探訪-上山藩武家屋敷
尾花沢市にあるレトロな雰囲気の銀山温泉街を散策した。野辺沢(延沢)銀山が名前の由来のようで温泉街から銀山跡へと向かったが時間の関係で引き返した。温泉街には木造の旅館や商店が建ち並びレトロな雰囲気を醸し出しており、NHK連続テレビ小説『おしん』の舞台となったことで全国的にその名を知られることになって、多くの観光客が訪れるようになったようである。山形探訪-銀山温泉街
昨日紹介した熊野大社の境内には沢山の境内社が祀られているがその中に小さな祠の厳島神社が祀られていた。別名は弁財天、祭神は市杵島姫命と表示してあったが、どのような経緯で祀られたのかは定かでない。山形探訪-熊野大社②
和歌山県の熊野三山、長野県の熊野皇大神宮とともに日本三熊野の一つといわれる南陽市の熊野大社を参詣した。東北の伊勢とも言われ、明治期以前は熊野山證誠寺ともいわれていたようである。拝殿は江戸期に建築されたようであり茅葺で千鳥破風、唐破風が設けられており、一昨日紹介した三神合祭殿と共に珍しいものである。今年は卯年であり本殿裏の三羽の兎彫刻を見つけようとしたが・・・山形探訪-熊野大社
昨日紹介した蜂子皇子を祀った蜂子神社に隣接して厳島神社が祀られていた。看板表示によると祭神は宗像三神「多紀理比売神・市寸島比売神・多岐津比売神」と津速魂神と表示されていた。どのような経緯で祀られたのかは定かでない。月山遠望ではもう雪がみられ、羽黒山でも積雪が多いのであろうか厳島神社と蜂子神社の周囲には雪囲いの骨組みが設置されていた。※昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数160万UUの節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。山形探訪-出羽三山神社③
蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝えられ、月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山の修験道開祖のようで境内には宮内庁管理の蜂子皇子墓所があり、また、蜂子皇子を祀った蜂子神社がある。(中画像の右側)先日画像紹介した由良の海岸は蜂子皇子が丹後国由良から海を北上して由良の海岸に上陸したという。山形探訪-出羽三山神社②
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昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜宣伝椅子がみられた。昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜の宣伝椅子がガラス窓越しにみられた。昨日紹介した画像の外側にみえる椅子にもかつて家納喜の宣伝がみられたが現在は退色剥落してよくわからない。家納喜宣伝の待合椅子
津田の街並みの中にある広電バスの津田車庫で、吉和・中道・所山・秋掛・本郷方面と運行されていた時代の昭和54年(1979)に佐伯営業所が開設されていた。モータリゼーション到来でバス路線も少なくなって平成6年(1994)には佐伯出張所と格下げされており、その後出張所がいつ廃止とされたのかは定かでない。正面に古い時代の時刻表の痕跡が見られかつて広島バスセンター、広島駅、楽々園、アルパークなど全盛時代の路線時刻表であったようである。広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)
岩倉温泉橋近くの県道沿いにある倉庫の外壁面に数十年前から木製の歯車が架けられたままになっている。これが歯車であることを知る人はあまりいないのではなかろうか。電気モーターが普及する以前には水車の動力を木製歯車や縄ベルトで、精米や製粉、製材などの機器を動かせていたのを子供の頃伯父の家でみたことがある。木製歯車
昨日紹介した岩倉温泉の源泉貯水槽跡の脇に見たことがないような変わった形のクソナバがあった。Googleレンズで検索してみると成熟したホコリタケのようで、頭部中央の穴からほこりのような胞子を飛散させるようである。ホコリタケ
昨日紹介した榊の湯の湯治場跡に行く途中にかつての国民宿舎岩倉ロッジ(岩倉温泉)の源泉の貯水槽が残されている。この谷上流部で榊の湯が湧出していたので、ボーリングをして温泉成分がある水(単純弱放射能冷鉱泉)をこの貯水槽に溜めてここから送水して温泉水として利用していたのである。元岩倉温泉源泉跡
津田内山地区の切石谷にある榊の湯の湯治場跡を久しぶりに訪れた。上画像の御湯神社下の窪みから湧出していた冷泉は竹樋で巨岩上から流れ落ち、岩下に小亭が設けられて湯治客が諸病を療やしていたようである。榊の湯の湯治場跡
上栗栖地区の民家があるところから北山の山中で長い石段の先に祀られてる愛宕神社で初めて参詣した。江戸期の地誌に小祠とあるのみで祭神や由緒など不明である。しかし比較的新しい鳥居が建てられており、長い石段は切り石で築造され手すりが設けられているので地域の人達によって大切に祀られているようである。愛宕神社
栗栖地区にある四和電化農業協同組合の小発電所で、栗栖地区の上流部で小瀬川から取水して下栗栖地区に発電所が設けられている落差の小さい小発電所である。看板表示によると取水量は最大0.97㎥/S(常時0.28㎥/S)で発電出力180kWのようである。四和発電所
津田八幡神社の拝殿には数多くの絵馬が掲額されている。古い時代に吹きさらしの拝殿に掲額されていたものとみられ退色や剥落がみられ、門外漢には何を題材に描かれているのかよくわからないのである。この他に三十六歌仙額が31面掲額されている。津田八幡神社の絵馬
津田地区に祀られている旧村社の八幡神社に久しぶりに参詣した。正月明けであったが2名の方が参詣しておられた。地誌によると仁和3年(887)に城州雄徳山より勧請、宝永年中に新宮権現を相殿として祀られているようである。津田八幡神社初参り
蛇腹式のミノルタセミPでミノルタカメラの前身である千代田光学精工で昭和26年(1951)から製造されたようである。ボタンを押すと蛇腹式の先端にあるレンズ部分が飛び出してくる。蛇腹式とはその装置が蛇の腹部に似ているから呼称されているようである。蛇年に因んで?
広原-広原神社奥谷尻-原神社後原-佐古田神社飯の山-河内神社小瀬川本支流域には周辺地域と閉ざされた集落が点在している。これらの集落のうち大野地区内にある大竹市の飛地である広原、奥谷尻、後原集落及び佐伯地区の飯の山集落には山鎮め神事で神木に藁蛇を巻く神事が伝承されている。蛇年に因んで
梅雨太郎蛇の池八つ面社今年は蛇年なので市域で蛇に関する伝承など紹介しよう。上平良二重原地区にある梅雨太郎は梅雨時期に紹介しているが、江戸期の地誌に異石「石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。極楽寺山の蛇の池と地御前の八つ面社には伝説が伝えられているが、定かな由来は不明である。八つ面社は江戸期の地誌に八面社「八岐大蛇を祭といふ」とある。蛇年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。八幡神社の随身像が熊被害を受けたことを以前紹介したが、随身像は現在修復されているのであろうか。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
令和6年もいよいよ今日かぎりとなりました。先日紹介していたしめ飾りを当ブログ主流と娘流で先日仕上げてそれぞれの玄関に飾った。※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧して頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って更新を続けたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。大晦日
龍虎大頭神社境内社の注連縄瀬戸の滝立岩ダム白髭神社大蛇辰年(竜・龍)も明日限りとなりました。今までに市域でみかけた龍に関する画像を紹介しよう。龍虎の蔵飾り、大頭神社境内社でみた龍型の注連縄、吉和地区にある咬龍の滝と言われる瀬戸の滝、龍神湖と言われる立岩ダム。隠岐の白髭神社では大蛇と言われる藁蛇が龍頭に見えた。さようなら辰・竜・龍年
辰年(竜・龍)ももうすぐ終わり、辰年も本日を含めて3日となりました。今までに市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。さようなら辰・竜・龍年
椎茸栽培用のホダ木は年数が経つと腐食や白アリに喰われて廃棄するので補充は欠かせないのである。(下画像は数年前に植菌したもの)一昨日助っ人と椎茸栽培用にドングリの木(クヌギか)を伐採した。春頃に植菌して2年後くらいに椎茸が生えてくるようになるのである。椎茸栽培用のホダ木伐採
昨日紹介した陶磁器酒樽には丸亀支店「正宗」とあり、中画像の酒ラベルには丸亀酒場「正宗」YYANAKIMASAMUNEとある。下画像の陶磁器酒樽には宮城商店「正宗」とある。家納喜酒造の前身は、明治34年(1901)に丸亀小六が酒造業を始めており、大正7年(1918)に合資会社丸亀商店を設立しているがいつの時代の銘酒なのだろうか。銘酒「正宗」の謎
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
卯年最後の日であるので今までに市域でみかけた兎文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。※今年も多くの方々の御来訪、閲覧して頂き有難うございました。快調ではありませんが来年も可能な限り継続していきたいと思っていますのでどうぞよろしくお願い致します。さようなら卯年
卯年も本日と明日のみとなりました。先日紹介した注連飾りも仕上げて玄関に飾りました。卯年の今秋、訪れた山形県南陽市の熊野大社の本殿裏にうさぎが三羽隠し彫りされているようで、うさぎを三羽見つけた人は願い事が成就するとのことであったがなかなか見つけにくかった。卯年もあとわずか
昨日、ウォーキングで宮島サービスエリアの下り線展望所まで訪れた。駐車場は帰省帰りの車がいっぱいであった。隣接公園では「ピクミンテラスin宮島SA」という催しが行われておりずらりと列を成していた。昔人間にはよくわからないが「ピクミン」とは・・・「宮島SA下り線」にて
今年も椎茸の補充用のドングリの木(クヌギ)を伐採したが来春になって植菌する予定である。今春植菌したホダ木からはまだ椎茸は出てこない。以前からのホダ木からは椎茸が出来ているが年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしているのである。椎茸のホダ木
正月も近づいてきたので我が家の注連飾りのパーツ作りをした。29日に藁で作った3つのパーツとウラジロ、ダイダイ、マンリョウ又は南天などを組み合わせて完成させ玄関に架ける予定である。しめ飾り