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ウォーキング途中、原小学校隣接の民俗芸能伝承館横にある昨日のイチョウの黄葉で、前日に紹介した大歳神社のように落葉はしていなかった。民俗芸能伝承館の場所にはかつて小学校の講堂があった所で学校用地に植えられていた銀杏の木のようである。イチョウの黄葉
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社のイチョウの葉が昨日の風で落ちて境内から周辺にかけて綺麗な絨毯状になっていた。木についた黄葉画像と思ったが少し遅かったようである。イチョウの葉絨毯
広原神社原神社佐古田神社先日紹介した大竹市の飛地である広原の広原神社・奥谷尻の原神社・後原地区の佐古田神社においては珍しい山鎮めの神事が行われている。悪霊を迎え神楽で囃しての鎮めの儀式で悪霊力を藁蛇に乗り移らせて神木などに巻き付けて鎮送するという神事が行われている。山鎮め習俗
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄の準備が地域のOLD倶楽部有志により始まった。境内の神池周辺のモミジは綺麗に紅葉していた。注連縄づくりには稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする作業で、藁のくずをアクタと先輩たちは言っておられた。地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというところもあるようである。注連縄づくりの準備
①②③④大竹市の飛地である後原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落であり、広原、奥谷尻地区とは少し変わった道切り習俗である。この地域では関札は御幣(佐古田神社で祈祷した御幣)で集落に通じる村境と井手口に関札を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②③④画像は井手名不明であるが井手口に立てられた関札である。道切り習俗③-後原
大竹市の飛地である奥谷尻地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、広原地区と同じように集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札、③画像は東口に立てられた関札である。④画像は西口に立てられた関札であるが、以前は小瀬川の渡り口に立てられていたが県道の改修で現在は田んぼの脇に立てられるようになっていた。道切り習俗②-奥谷尻
昨日は勤労感謝の日で、速谷神社ではその年の新穀を神前に供えて収穫に感謝する新嘗祭が斎行され、境内には七五三参りの子供さん連れの御家族が多く見られた。境内参道のモミジの紅葉やイチョウの葉がきれいに紅葉していた。速谷神社の紅葉
①②③大竹市の飛地である広原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、古くから集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(広原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札である。西口には現在猪侵入防止の金網が設置してあり近づくことができないので最近関札が立てられているのかは不明である。③画像は過去に訪れた時の画像である。道切り習俗①-広原
山林を歩いていると倒木にみたことが無いような茶色と白色のくそナバが生えていた。Googleレンズで検索してみたが茶色のキノコはシュタケ、ヒイロタケ、アケボノオシロイタケ、マスタケなどのどれであろうか。白色のキノコはシハイタケであろうか。⁉倒木にキノコが‼
ウォーキング途中の原地区森宗から極楽寺山南麓を遠望。矢印のある高い山が中世の山城である星ケ城跡で広島湾、廿日市、五日市の平地部や石内筋が展望できる場所であり見張所的な城だったのであろうか。右側矢印ケ所は弥生中期から後期頃の高地性集落があったとみられている高尾山遺跡である。極楽寺山系遠望
平良地区と原地区の境にある標高156mの小山で、江戸期の原村の地誌に「ごごろ山」とある。戦前にゴゴロ山の西麓で弥生式壷形土器(下画像上側-廿日市の文化第1集)が出土したようであり、また、古くはゴゴロ山丘陵の先端であったと思われる田んぼで須恵器(下画像下側)が出土しているのである。ゴゴロ山
ウォーキング途中の原地区国実の県道294号虫道・廿日市線から瀬戸内方面を遠望。道路脇にあるイチョウが紅葉していた。県道の先にはゴゴロ山がみられその先には木材港南の広島ガスの丸いタンクがみられ、広島湾の先には安芸の小富士に似た江田島の大須山がみられる。瀬戸内遠望
平良丘陵開発用地に向かう市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋梁の下部工事が行われており、看板表示によると現在場所打杭の工事が行われているようである。この工事個所より東側では一部分の道路整備が進んでいた。市道堂垣内広池山線工事の今
今秋は比較的に好天に恵まれ秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作った。稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。俵の胴体部のコモを編む機具(コモカセ・コモガセ)で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結ぶ。コモの端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていく。片端部を編み上げて袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰める。米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引...令和5年米俵づくり
時折り平良丘陵開発予定地の山林が伐採されて一部掘削されている画像を紹介しているが、上画像は藤掛交差点付近からの遠望である。大きく掘削されている広池地区から右端の掘削されている間の山林も用地内であり伐採掘削されるのである。後方の高い山が星ケ城跡で右側が極楽寺のある山である。平良丘陵開発の今
以前に原地区水道施設について紹介したが、先日ウォーキングしていると原地区の市道50第一路線でアスファルト路面がカッターで切断されていた。上平良地区小原のポンプ所の敷地から送配水管の敷設工事が行われるようである。原地区送配水管拡張工事
ウォーキング途中の原地区橋本で芸陽醤油の創立以前に醤油醸造をしていた元西家の玄関脇に芸陽醤油の看板が置かれていた。この看板によるとかつて芸陽醤油では最上醤油という銘柄の醤油を醸造していたようであり、ここ西吉太郎商店で販売していたようである。芸陽醤油の銘柄看板が‼
上下の町は銀山街道の中継地点で代官所が置かれた天領の地で栄えていたようであり、町並みでは袖ウダツを設けた町屋がみられた。上下町並みの袖ウダツは脇町でみられたような重厚なものでなく形状もほぼ同じようなものが設けられていた。上下探訪-袖ウダツの町屋
昭和2年(1927)に開場したという翁座は芝居小屋、劇場、映画館として使用され昭和35年(1960)に閉館されたようで、現在国登録有形文化財になっている。翁座の公演記録は残されていないようであるが、当市上平良出身の女剣劇の女王「不二洋子」が公演していたかも知れないのである。上下探訪-翁座
今高野山の塔頭寺院である西福院跡に祀られている胡子神社であるが、以前は甲山の街中にあったものと思われる。8月の19日20日には甲山廿日えびす祭りが行われており、江戸期から続いている伝統的な祭りのようである。中世、廿日市の四辻にあった胡堂も御開帳がある廿日えびすの市立てが著名となって廿日市地名が出来たものと思われるのである。(廿日市地名について)今高野山-胡子神社
一昨日、地域のOLD倶楽部の人達と世羅町の今高野山と上下町方面を訪れた。紅葉の名所今高野山は色づいたモミジもあったが紅葉には少し早かった。開基1200年と云われる今高野山の丹生神社と龍華寺を参詣し境内を散策した。今高野山
当ブログ主は訪れた地のローカル新聞を求めるようにしており、宿泊ホテルにて山形市の山形新聞と鶴岡市の荘内日報を頂戴した。山形新聞には蔵王山の雪と紅葉画像が大きく掲載されていたが、訪れた時は霧がかかって綺麗な画像は撮れなかった。当ブログ主宅の周辺では熊の目撃情報や糞痕跡などあったが、山形新聞にも小国町、飯豊町で、荘内日報にも酒田市、庄内町での目撃情報が掲載されていた。米沢市で発行されていた米沢新聞は2021年(令和3年)に廃刊されていた。山形探訪-ローカル新聞
道中のバス車中からは当地域では見られないような形状の薄鉄板葺(かつては茅葺)の民家が多くみられたが、動く車中からはうまく撮影することが出来なかった。上・中上画像は尾花沢市付近で、中下画像・下画像は米沢市付近で見かけた民家である。これらの民家には越屋根がみられ囲炉裏等の煙り出しの名残りであろうか。山形探訪-山形の民家
広い荘内平野を走っていると主要な道路脇にみたことが無いような柵が延々と設けられていた。ガイドの説明によると当地は積雪が少なく風雪が激しいので設けられているようで、下画像は収納されている状態のようでもう少ししたら柵も防雪・防風対応整備されるのであろう。山形探訪-防雪・防風柵
上山市のうえやま温泉に宿泊し出発前の寸暇を惜しみ近くの仲丁通り(武家屋敷通り)沿いの武家屋敷を外観見物した。4棟の茅葺屋根の武家屋敷が残されており3棟は居住されているようである。何れの屋敷も鉤型の曲屋でありこの地域独特の家屋構造なのだろうか。山形探訪-上山藩武家屋敷
尾花沢市にあるレトロな雰囲気の銀山温泉街を散策した。野辺沢(延沢)銀山が名前の由来のようで温泉街から銀山跡へと向かったが時間の関係で引き返した。温泉街には木造の旅館や商店が建ち並びレトロな雰囲気を醸し出しており、NHK連続テレビ小説『おしん』の舞台となったことで全国的にその名を知られることになって、多くの観光客が訪れるようになったようである。山形探訪-銀山温泉街
昨日紹介した熊野大社の境内には沢山の境内社が祀られているがその中に小さな祠の厳島神社が祀られていた。別名は弁財天、祭神は市杵島姫命と表示してあったが、どのような経緯で祀られたのかは定かでない。山形探訪-熊野大社②
和歌山県の熊野三山、長野県の熊野皇大神宮とともに日本三熊野の一つといわれる南陽市の熊野大社を参詣した。東北の伊勢とも言われ、明治期以前は熊野山證誠寺ともいわれていたようである。拝殿は江戸期に建築されたようであり茅葺で千鳥破風、唐破風が設けられており、一昨日紹介した三神合祭殿と共に珍しいものである。今年は卯年であり本殿裏の三羽の兎彫刻を見つけようとしたが・・・山形探訪-熊野大社
昨日紹介した蜂子皇子を祀った蜂子神社に隣接して厳島神社が祀られていた。看板表示によると祭神は宗像三神「多紀理比売神・市寸島比売神・多岐津比売神」と津速魂神と表示されていた。どのような経緯で祀られたのかは定かでない。月山遠望ではもう雪がみられ、羽黒山でも積雪が多いのであろうか厳島神社と蜂子神社の周囲には雪囲いの骨組みが設置されていた。※昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数160万UUの節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。山形探訪-出羽三山神社③
蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝えられ、月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山の修験道開祖のようで境内には宮内庁管理の蜂子皇子墓所があり、また、蜂子皇子を祀った蜂子神社がある。(中画像の右側)先日画像紹介した由良の海岸は蜂子皇子が丹後国由良から海を北上して由良の海岸に上陸したという。山形探訪-出羽三山神社②
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
時折紹介している市道堂垣内広池山線の進捗状況で、宮島サービスエリアから遠望すると平良丘陵開発用地側の工事が始まっているようである。菊ケ迫山の樹木が伐採され掘削も始まっているのであろうか。以前にも紹介したがこの山の尾根筋に旧石州往還の名残りがあったところであった。市道堂垣内広池山線の今
梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?
極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!
速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今