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以前訪れて紹介した英彦山や大峰山と共に日本三大修験道といわれる羽黒山の出羽三山神社を参詣した。国の重要文化財である三神合祭殿の屋根の一部は萱葺替え工事が行われていた。また、国の重要文化財である鐘楼は修復工事中であり、建治元年の梵鐘は隙間からしか見られなかった。山形探訪-出羽三山神社
出雲市八島町の田園地帯に祀られている厳島神社で、出雲大社のある地の出雲平野の中にどのような経緯で厳島神社が祀られたのであろうか。各地の厳島神社㉓
昨日宿泊した由良温泉のホテルから由良海岸の白山島を望んだ風景。下画像は蔵王ロープウェイで樹氷高原駅への途中に見られた紅葉である。本日は最終日、昨夜はかみのやま温泉泊まりであった。山形探訪
昨日、都道府県で訪れていない最後の山形県を広島空港からFDAチャーター便で山形空港に・・・羽黒山に向かう道中紅葉が・・・体調万全ではないが同行者に迷惑をかけないようにしないと・・・ホテルより馴れないタブレットから山形探訪
吉和歴史民俗資料館に秋穂八幡宮応仁元年造営記録が掲示されていた。応仁元年(1467)に吉和山の曽木が地御前に搬出され船で運ばれて、山口市秋穂の正八幡宮の楼門、僧座の拝殿に上葺されたようである。秋穂の正八幡宮は以前に紹介したが、吉和山の曽木を使用した応仁元年頃の正八幡宮は別の地にあったようで、文亀元年(1501)に大内義興が現在地に移築したようである。吉和山の曽木
陸稲(右側)と陸植2代黒米(中央)・陸植2代赤米(左側)を刈り取って干しているが、畑の肥料不足だったのか全体的に稲丈が低く稲穂も少ない。なんと水田に植える陸植2代の黒米は陸稲より稲丈が高かった。陸植2代赤米は稲丈も低く稲穂が実っていないので来年の陸植3代目はできないであろう。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米
ウォーキング途中で山陽自動車道の法面にアケビの蔓がありたくさんの実が付いていた。実が割れて熟していたのがあったので食べてみると種は沢山あるが甘い懐かしい味であった。昔は山に入っていたのでアケビを見つけることがあったが今は山に行くことも無く久々のアケビであった。アケビが‼
先月23日に種蒔きした廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の苗が育ってきたのでそれぞれ5株に間引いた。毎年種を採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけてまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
吉和地区で草葺き(茅葺)屋根が残されている民家は1棟のみであるが、かつて草葺き(茅葺)屋根であった民家には薄鉄板葺きの屋根とされているものが多く見られる。画像の民家は田舎の佇まいであった母屋と納屋が薄鉄板葺きとされているものである。薄鉄板葺きの民家
昨日、我が母校の平良小学校では創立150周年記念式典が開催され、併せて各学年発表会などの記念行事が行われた。明治6年(1873)に上平良小学校の前身である文会社が創立されてから150周年となり、当ブログ主の祖父、父、当ブログ主、子、孫と五代に亘って学ばせて頂いた。平良小学校・創立150周年記念
吉和地区の無住の民家軒下に残されているレトロな自販機3台で以前にも何度か紹介したことがあるが以前より色が褪せて字が読取りにくいようになっていた。字が読み取れた頃は左側はブルボンのポテトチップの自販機で200円を入れてレバーを下げると商品が出てくるようである。中央はヴィレ&CoffeeZの自販機で何れの商品も100円だったようである。右側はSunkistの自販機であるが字が消えており詳細は不明である。レトロ自販機
小瀬川沿いの国道186号から中道方面に分岐する県道119号佐伯錦線で小瀬川に架かる出合橋はあまり見たことが無いような橋の途中橋幅が変わっているものである。橋を渡った向う側は急カーブのためにこのような橋が作られたものとみられる。広がった橋・狭まった橋⁉
現在冠高原に行くには国道186号から金子峠で分岐しているが、かつては手前の吉和さくらバスの冠高原下停留所(かつて広電バス-冠高原入口停留所)がある三差路分岐から1.5km位歩いていたのである。冠高原口付近には昭和27年(1952)に広電が冠高原つつじケ丘ヒュッテを建築しており、いつ頃廃止となったのか不明であるが雑木林の中に石積みが残されている。(ヒュッテ画像-広島電鉄開業100年・創立70年史より)冠高原③
昭和30~50年代頃に冠高原スキー場が賑わっていた時のスキー場山の家の一棟が取壊し中であった。中高者向けのスキー場にあったロープ塔の関連建物が残されており表示板には「一日券1000円、6回券300円、1回券50円」とあった。冠高原②
久しぶりに冠高原を訪れてみた。国道434号脇に冠高原ドックパークが設けられていた。かつて冬期スキー場があった頃はこの緩斜面は初心者用のスキー場であった。自動車エンジンを利用したロープ塔があった名残りの廃車が遠くにみられる。冠高原
吉和支所複合施設内に設置されたという吉和歴史民俗資料館を訪れてみた。施設内には冠遺跡で出土した石器類、吉和地域内で発掘調査された古墳などから出土した遺物、木材を切り出した鋸の各種など何んと写真画像の部分が施設展示のすべてであった。空いた展示スペースがあったので展示追加されるのかも知れない。吉和歴史民俗資料館
ウォーキング途中の田んぼで今年も原小学校の体験活動で稲刈り、ハゼ掛けなどが行われたようである。ハゼ掛けは以前のように乱雑でないが稲刈りの跡が乱雑でありハゼ架けも農家がされたような仕事ぶりではないようなので体験活動で行われたものと思われる。原小体験活動の稲ハゼ掛け⁉
佐伯地区の田んぼで早く刈り取りがされたものとみられ、稲の切り株からひこばえが生えており稲穂もみられた。これから寒さに向かっていくので稲茎が伸びることもなく稲穂も実ることはないであろう。稲のひこばえが‼
国道433号線の陽光台南交差点から時折り紹介している平良丘陵開発用地に向かうアクセス道路の市道堂垣内広池山線の整備工事で、現在可愛川への架橋のための橋梁下部工事が始まったようである。架橋予定地の東側では一部の道路築造工事が行われているようである。市道堂垣内広池山線工事の今
可愛川に架かる七尾橋を渡ってすぐに墓地がありその脇に流れ薬師(道挟薬師とも)といわれる小堂があり堂内には本尊の他に三体の石仏が祀られている。大正期に記された地誌に時代不明の大洪水で川末から薬師如来が流されて下平良に至りこれを流薬師と称すとあるが、川末から流れてくると形が無くなるのでは・・・伝説は伝説として。江戸期の地誌絵図をみると小さな小山の上に流れ薬師がみられる。この付近は櫟や藪などが茂った高地であったようであるが明治初年に開墾されたようである。流れ薬師
ウォーキング途中の畑にみたことが無いような葉の付いた植物があった。何かと近づいてみていると茎に緑の果実が房状についていた。畑を作っている人に訊ねてみるとパパイヤであると教えて貰った。この地で緑のパパイヤが熟していくのだろうか。パパイヤが‼
物入れの片隅に若い頃に長期月賦で買った単車のコレダ125SHのカタログがあった。先日のブラタモリで若戸大橋が少し紹介されていたので、若戸大橋が完成してすぐにこの単車に乗って訪れたことを思い出した。250ccのオートバイ1台、125ccの単車3台、50ccのバイク3台の仲間達と昭和37年(1962)10月6日に若戸大橋から博多まで訪れた。バイクは関門トンネルの人道側を通らなければいけなかったが土地勘もなく携帯も無い時代にうまく合流できたものだ。遥か61年前のことである・・・今では考えられないような冒険をしたものだ。コレダ125SH
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で一昨日夜には神楽奉納が行われ、昨日は神輿渡御が斎行された。白丁衣装をまとった白装束の氏子崇敬者の方々20数人により重さ900kgもあるという神輿を担いで境内一帯を神幸された。速谷神社-神輿神幸
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で昨晩は有福神楽保持物会が神楽を奉納した。神楽の演目は剣舞、神降し、日本武尊、胴の口、恵比須、大江山、大蛇などが演じられた。速谷神社-桃祓祭・奉納神楽
連休の天気予報が雨予報であったので急遽、昨日協力助っ人を得て2ケ所の離れた田んぼの稲刈りを済ませた。今ではあまり見かけなくなったハゼ干しをしており、ハゼ杭はアルミ三脚でナルは鋼管をしている。昔からハゼ廿日と言われており、天日干しで20日くらいまで乾燥させたおいしい米が待ち遠しい。稲刈り
ウォーキング途中で今迄に見かけたことが無いような花がみられた。Googleレンズで検索してみると上画像からクレマチス・ウイタルバ、モミジアオイ、ムラサキルエリアに似ている花のようである。見たままのブログなので探究しておらず違っているかもしれませんが・・・路傍の花
原小学校のプール横に原低区配水地が設けられる敷地が造成されていることを以前にも紹介しており画像のような施設が設けられるようである。上平良地区小原を通っている市道50第一路線脇にはポンプ所の敷地が築造されており、これから送配水管の敷設工事が行われるのではなかろうか。原地区水道施設
上画像は大正後期から昭和初期頃の廿日市港の様子を表した絵葉書で住吉新開の堤防脇付近に住吉神社がみられる。昭和58年(1983)の護岸改修で護岸道路や住吉公園付近一帯は廿日市港が埋め立てられたもので、住吉神社も現在地に遷座された。廿日市港今昔
秋祭りも近づいて天神山の天満宮では干しダコに似たような独特の吹き流しがたなびいていた。天神山は街中にある高台であり天満宮の吹き流しは街の各所から見ることができ、秋の訪れを知らせてくれる風物詩である。天神さんの吹き流し
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)なので昨日地域の人達と幟立てをした。速谷神社では関連行事として7日に桃祓祭、奉納神楽(有福神楽保持者会)が催され、8日には神輿神幸が斎行されるようである。秋祭りの幟立て
宮島サービスエリアからみた平良丘陵開発用地内の工事状況である。画像左側の伐採されている山は極楽寺道があった尾根筋であろうか。掘削地向うの瀬戸内をみると津久根島から安芸の小富士と呼ばれている似島、その向こうには灰ケ峰が連なって見える。平良丘陵開発の今
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
時折紹介している市道堂垣内広池山線の進捗状況で、宮島サービスエリアから遠望すると平良丘陵開発用地側の工事が始まっているようである。菊ケ迫山の樹木が伐採され掘削も始まっているのであろうか。以前にも紹介したがこの山の尾根筋に旧石州往還の名残りがあったところであった。市道堂垣内広池山線の今
梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?
極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!
速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今