下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
以前訪れて紹介した英彦山や大峰山と共に日本三大修験道といわれる羽黒山の出羽三山神社を参詣した。国の重要文化財である三神合祭殿の屋根の一部は萱葺替え工事が行われていた。また、国の重要文化財である鐘楼は修復工事中であり、建治元年の梵鐘は隙間からしか見られなかった。山形探訪-出羽三山神社
出雲市八島町の田園地帯に祀られている厳島神社で、出雲大社のある地の出雲平野の中にどのような経緯で厳島神社が祀られたのであろうか。各地の厳島神社㉓
昨日宿泊した由良温泉のホテルから由良海岸の白山島を望んだ風景。下画像は蔵王ロープウェイで樹氷高原駅への途中に見られた紅葉である。本日は最終日、昨夜はかみのやま温泉泊まりであった。山形探訪
昨日、都道府県で訪れていない最後の山形県を広島空港からFDAチャーター便で山形空港に・・・羽黒山に向かう道中紅葉が・・・体調万全ではないが同行者に迷惑をかけないようにしないと・・・ホテルより馴れないタブレットから山形探訪
吉和歴史民俗資料館に秋穂八幡宮応仁元年造営記録が掲示されていた。応仁元年(1467)に吉和山の曽木が地御前に搬出され船で運ばれて、山口市秋穂の正八幡宮の楼門、僧座の拝殿に上葺されたようである。秋穂の正八幡宮は以前に紹介したが、吉和山の曽木を使用した応仁元年頃の正八幡宮は別の地にあったようで、文亀元年(1501)に大内義興が現在地に移築したようである。吉和山の曽木
陸稲(右側)と陸植2代黒米(中央)・陸植2代赤米(左側)を刈り取って干しているが、畑の肥料不足だったのか全体的に稲丈が低く稲穂も少ない。なんと水田に植える陸植2代の黒米は陸稲より稲丈が高かった。陸植2代赤米は稲丈も低く稲穂が実っていないので来年の陸植3代目はできないであろう。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米
ウォーキング途中で山陽自動車道の法面にアケビの蔓がありたくさんの実が付いていた。実が割れて熟していたのがあったので食べてみると種は沢山あるが甘い懐かしい味であった。昔は山に入っていたのでアケビを見つけることがあったが今は山に行くことも無く久々のアケビであった。アケビが‼
先月23日に種蒔きした廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の苗が育ってきたのでそれぞれ5株に間引いた。毎年種を採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけてまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
吉和地区で草葺き(茅葺)屋根が残されている民家は1棟のみであるが、かつて草葺き(茅葺)屋根であった民家には薄鉄板葺きの屋根とされているものが多く見られる。画像の民家は田舎の佇まいであった母屋と納屋が薄鉄板葺きとされているものである。薄鉄板葺きの民家
昨日、我が母校の平良小学校では創立150周年記念式典が開催され、併せて各学年発表会などの記念行事が行われた。明治6年(1873)に上平良小学校の前身である文会社が創立されてから150周年となり、当ブログ主の祖父、父、当ブログ主、子、孫と五代に亘って学ばせて頂いた。平良小学校・創立150周年記念
吉和地区の無住の民家軒下に残されているレトロな自販機3台で以前にも何度か紹介したことがあるが以前より色が褪せて字が読取りにくいようになっていた。字が読み取れた頃は左側はブルボンのポテトチップの自販機で200円を入れてレバーを下げると商品が出てくるようである。中央はヴィレ&CoffeeZの自販機で何れの商品も100円だったようである。右側はSunkistの自販機であるが字が消えており詳細は不明である。レトロ自販機
小瀬川沿いの国道186号から中道方面に分岐する県道119号佐伯錦線で小瀬川に架かる出合橋はあまり見たことが無いような橋の途中橋幅が変わっているものである。橋を渡った向う側は急カーブのためにこのような橋が作られたものとみられる。広がった橋・狭まった橋⁉
現在冠高原に行くには国道186号から金子峠で分岐しているが、かつては手前の吉和さくらバスの冠高原下停留所(かつて広電バス-冠高原入口停留所)がある三差路分岐から1.5km位歩いていたのである。冠高原口付近には昭和27年(1952)に広電が冠高原つつじケ丘ヒュッテを建築しており、いつ頃廃止となったのか不明であるが雑木林の中に石積みが残されている。(ヒュッテ画像-広島電鉄開業100年・創立70年史より)冠高原③
昭和30~50年代頃に冠高原スキー場が賑わっていた時のスキー場山の家の一棟が取壊し中であった。中高者向けのスキー場にあったロープ塔の関連建物が残されており表示板には「一日券1000円、6回券300円、1回券50円」とあった。冠高原②
久しぶりに冠高原を訪れてみた。国道434号脇に冠高原ドックパークが設けられていた。かつて冬期スキー場があった頃はこの緩斜面は初心者用のスキー場であった。自動車エンジンを利用したロープ塔があった名残りの廃車が遠くにみられる。冠高原
吉和支所複合施設内に設置されたという吉和歴史民俗資料館を訪れてみた。施設内には冠遺跡で出土した石器類、吉和地域内で発掘調査された古墳などから出土した遺物、木材を切り出した鋸の各種など何んと写真画像の部分が施設展示のすべてであった。空いた展示スペースがあったので展示追加されるのかも知れない。吉和歴史民俗資料館
ウォーキング途中の田んぼで今年も原小学校の体験活動で稲刈り、ハゼ掛けなどが行われたようである。ハゼ掛けは以前のように乱雑でないが稲刈りの跡が乱雑でありハゼ架けも農家がされたような仕事ぶりではないようなので体験活動で行われたものと思われる。原小体験活動の稲ハゼ掛け⁉
佐伯地区の田んぼで早く刈り取りがされたものとみられ、稲の切り株からひこばえが生えており稲穂もみられた。これから寒さに向かっていくので稲茎が伸びることもなく稲穂も実ることはないであろう。稲のひこばえが‼
国道433号線の陽光台南交差点から時折り紹介している平良丘陵開発用地に向かうアクセス道路の市道堂垣内広池山線の整備工事で、現在可愛川への架橋のための橋梁下部工事が始まったようである。架橋予定地の東側では一部の道路築造工事が行われているようである。市道堂垣内広池山線工事の今
可愛川に架かる七尾橋を渡ってすぐに墓地がありその脇に流れ薬師(道挟薬師とも)といわれる小堂があり堂内には本尊の他に三体の石仏が祀られている。大正期に記された地誌に時代不明の大洪水で川末から薬師如来が流されて下平良に至りこれを流薬師と称すとあるが、川末から流れてくると形が無くなるのでは・・・伝説は伝説として。江戸期の地誌絵図をみると小さな小山の上に流れ薬師がみられる。この付近は櫟や藪などが茂った高地であったようであるが明治初年に開墾されたようである。流れ薬師
ウォーキング途中の畑にみたことが無いような葉の付いた植物があった。何かと近づいてみていると茎に緑の果実が房状についていた。畑を作っている人に訊ねてみるとパパイヤであると教えて貰った。この地で緑のパパイヤが熟していくのだろうか。パパイヤが‼
物入れの片隅に若い頃に長期月賦で買った単車のコレダ125SHのカタログがあった。先日のブラタモリで若戸大橋が少し紹介されていたので、若戸大橋が完成してすぐにこの単車に乗って訪れたことを思い出した。250ccのオートバイ1台、125ccの単車3台、50ccのバイク3台の仲間達と昭和37年(1962)10月6日に若戸大橋から博多まで訪れた。バイクは関門トンネルの人道側を通らなければいけなかったが土地勘もなく携帯も無い時代にうまく合流できたものだ。遥か61年前のことである・・・今では考えられないような冒険をしたものだ。コレダ125SH
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で一昨日夜には神楽奉納が行われ、昨日は神輿渡御が斎行された。白丁衣装をまとった白装束の氏子崇敬者の方々20数人により重さ900kgもあるという神輿を担いで境内一帯を神幸された。速谷神社-神輿神幸
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で昨晩は有福神楽保持物会が神楽を奉納した。神楽の演目は剣舞、神降し、日本武尊、胴の口、恵比須、大江山、大蛇などが演じられた。速谷神社-桃祓祭・奉納神楽
連休の天気予報が雨予報であったので急遽、昨日協力助っ人を得て2ケ所の離れた田んぼの稲刈りを済ませた。今ではあまり見かけなくなったハゼ干しをしており、ハゼ杭はアルミ三脚でナルは鋼管をしている。昔からハゼ廿日と言われており、天日干しで20日くらいまで乾燥させたおいしい米が待ち遠しい。稲刈り
ウォーキング途中で今迄に見かけたことが無いような花がみられた。Googleレンズで検索してみると上画像からクレマチス・ウイタルバ、モミジアオイ、ムラサキルエリアに似ている花のようである。見たままのブログなので探究しておらず違っているかもしれませんが・・・路傍の花
原小学校のプール横に原低区配水地が設けられる敷地が造成されていることを以前にも紹介しており画像のような施設が設けられるようである。上平良地区小原を通っている市道50第一路線脇にはポンプ所の敷地が築造されており、これから送配水管の敷設工事が行われるのではなかろうか。原地区水道施設
上画像は大正後期から昭和初期頃の廿日市港の様子を表した絵葉書で住吉新開の堤防脇付近に住吉神社がみられる。昭和58年(1983)の護岸改修で護岸道路や住吉公園付近一帯は廿日市港が埋め立てられたもので、住吉神社も現在地に遷座された。廿日市港今昔
秋祭りも近づいて天神山の天満宮では干しダコに似たような独特の吹き流しがたなびいていた。天神山は街中にある高台であり天満宮の吹き流しは街の各所から見ることができ、秋の訪れを知らせてくれる風物詩である。天神さんの吹き流し
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)なので昨日地域の人達と幟立てをした。速谷神社では関連行事として7日に桃祓祭、奉納神楽(有福神楽保持者会)が催され、8日には神輿神幸が斎行されるようである。秋祭りの幟立て
宮島サービスエリアからみた平良丘陵開発用地内の工事状況である。画像左側の伐採されている山は極楽寺道があった尾根筋であろうか。掘削地向うの瀬戸内をみると津久根島から安芸の小富士と呼ばれている似島、その向こうには灰ケ峰が連なって見える。平良丘陵開発の今
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳