昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜宣伝椅子がみられた。昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜の宣伝椅子がガラス窓越しにみられた。昨日紹介した画像の外側にみえる椅子にもかつて家納喜の宣伝がみられたが現在は退色剥落してよくわからない。家納喜宣伝の待合椅子
以前訪れて紹介した英彦山や大峰山と共に日本三大修験道といわれる羽黒山の出羽三山神社を参詣した。国の重要文化財である三神合祭殿の屋根の一部は萱葺替え工事が行われていた。また、国の重要文化財である鐘楼は修復工事中であり、建治元年の梵鐘は隙間からしか見られなかった。山形探訪-出羽三山神社
出雲市八島町の田園地帯に祀られている厳島神社で、出雲大社のある地の出雲平野の中にどのような経緯で厳島神社が祀られたのであろうか。各地の厳島神社㉓
昨日宿泊した由良温泉のホテルから由良海岸の白山島を望んだ風景。下画像は蔵王ロープウェイで樹氷高原駅への途中に見られた紅葉である。本日は最終日、昨夜はかみのやま温泉泊まりであった。山形探訪
昨日、都道府県で訪れていない最後の山形県を広島空港からFDAチャーター便で山形空港に・・・羽黒山に向かう道中紅葉が・・・体調万全ではないが同行者に迷惑をかけないようにしないと・・・ホテルより馴れないタブレットから山形探訪
吉和歴史民俗資料館に秋穂八幡宮応仁元年造営記録が掲示されていた。応仁元年(1467)に吉和山の曽木が地御前に搬出され船で運ばれて、山口市秋穂の正八幡宮の楼門、僧座の拝殿に上葺されたようである。秋穂の正八幡宮は以前に紹介したが、吉和山の曽木を使用した応仁元年頃の正八幡宮は別の地にあったようで、文亀元年(1501)に大内義興が現在地に移築したようである。吉和山の曽木
陸稲(右側)と陸植2代黒米(中央)・陸植2代赤米(左側)を刈り取って干しているが、畑の肥料不足だったのか全体的に稲丈が低く稲穂も少ない。なんと水田に植える陸植2代の黒米は陸稲より稲丈が高かった。陸植2代赤米は稲丈も低く稲穂が実っていないので来年の陸植3代目はできないであろう。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米
ウォーキング途中で山陽自動車道の法面にアケビの蔓がありたくさんの実が付いていた。実が割れて熟していたのがあったので食べてみると種は沢山あるが甘い懐かしい味であった。昔は山に入っていたのでアケビを見つけることがあったが今は山に行くことも無く久々のアケビであった。アケビが‼
先月23日に種蒔きした廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の苗が育ってきたのでそれぞれ5株に間引いた。毎年種を採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけてまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
吉和地区で草葺き(茅葺)屋根が残されている民家は1棟のみであるが、かつて草葺き(茅葺)屋根であった民家には薄鉄板葺きの屋根とされているものが多く見られる。画像の民家は田舎の佇まいであった母屋と納屋が薄鉄板葺きとされているものである。薄鉄板葺きの民家
昨日、我が母校の平良小学校では創立150周年記念式典が開催され、併せて各学年発表会などの記念行事が行われた。明治6年(1873)に上平良小学校の前身である文会社が創立されてから150周年となり、当ブログ主の祖父、父、当ブログ主、子、孫と五代に亘って学ばせて頂いた。平良小学校・創立150周年記念
吉和地区の無住の民家軒下に残されているレトロな自販機3台で以前にも何度か紹介したことがあるが以前より色が褪せて字が読取りにくいようになっていた。字が読み取れた頃は左側はブルボンのポテトチップの自販機で200円を入れてレバーを下げると商品が出てくるようである。中央はヴィレ&CoffeeZの自販機で何れの商品も100円だったようである。右側はSunkistの自販機であるが字が消えており詳細は不明である。レトロ自販機
小瀬川沿いの国道186号から中道方面に分岐する県道119号佐伯錦線で小瀬川に架かる出合橋はあまり見たことが無いような橋の途中橋幅が変わっているものである。橋を渡った向う側は急カーブのためにこのような橋が作られたものとみられる。広がった橋・狭まった橋⁉
現在冠高原に行くには国道186号から金子峠で分岐しているが、かつては手前の吉和さくらバスの冠高原下停留所(かつて広電バス-冠高原入口停留所)がある三差路分岐から1.5km位歩いていたのである。冠高原口付近には昭和27年(1952)に広電が冠高原つつじケ丘ヒュッテを建築しており、いつ頃廃止となったのか不明であるが雑木林の中に石積みが残されている。(ヒュッテ画像-広島電鉄開業100年・創立70年史より)冠高原③
昭和30~50年代頃に冠高原スキー場が賑わっていた時のスキー場山の家の一棟が取壊し中であった。中高者向けのスキー場にあったロープ塔の関連建物が残されており表示板には「一日券1000円、6回券300円、1回券50円」とあった。冠高原②
久しぶりに冠高原を訪れてみた。国道434号脇に冠高原ドックパークが設けられていた。かつて冬期スキー場があった頃はこの緩斜面は初心者用のスキー場であった。自動車エンジンを利用したロープ塔があった名残りの廃車が遠くにみられる。冠高原
吉和支所複合施設内に設置されたという吉和歴史民俗資料館を訪れてみた。施設内には冠遺跡で出土した石器類、吉和地域内で発掘調査された古墳などから出土した遺物、木材を切り出した鋸の各種など何んと写真画像の部分が施設展示のすべてであった。空いた展示スペースがあったので展示追加されるのかも知れない。吉和歴史民俗資料館
ウォーキング途中の田んぼで今年も原小学校の体験活動で稲刈り、ハゼ掛けなどが行われたようである。ハゼ掛けは以前のように乱雑でないが稲刈りの跡が乱雑でありハゼ架けも農家がされたような仕事ぶりではないようなので体験活動で行われたものと思われる。原小体験活動の稲ハゼ掛け⁉
佐伯地区の田んぼで早く刈り取りがされたものとみられ、稲の切り株からひこばえが生えており稲穂もみられた。これから寒さに向かっていくので稲茎が伸びることもなく稲穂も実ることはないであろう。稲のひこばえが‼
国道433号線の陽光台南交差点から時折り紹介している平良丘陵開発用地に向かうアクセス道路の市道堂垣内広池山線の整備工事で、現在可愛川への架橋のための橋梁下部工事が始まったようである。架橋予定地の東側では一部の道路築造工事が行われているようである。市道堂垣内広池山線工事の今
可愛川に架かる七尾橋を渡ってすぐに墓地がありその脇に流れ薬師(道挟薬師とも)といわれる小堂があり堂内には本尊の他に三体の石仏が祀られている。大正期に記された地誌に時代不明の大洪水で川末から薬師如来が流されて下平良に至りこれを流薬師と称すとあるが、川末から流れてくると形が無くなるのでは・・・伝説は伝説として。江戸期の地誌絵図をみると小さな小山の上に流れ薬師がみられる。この付近は櫟や藪などが茂った高地であったようであるが明治初年に開墾されたようである。流れ薬師
ウォーキング途中の畑にみたことが無いような葉の付いた植物があった。何かと近づいてみていると茎に緑の果実が房状についていた。畑を作っている人に訊ねてみるとパパイヤであると教えて貰った。この地で緑のパパイヤが熟していくのだろうか。パパイヤが‼
物入れの片隅に若い頃に長期月賦で買った単車のコレダ125SHのカタログがあった。先日のブラタモリで若戸大橋が少し紹介されていたので、若戸大橋が完成してすぐにこの単車に乗って訪れたことを思い出した。250ccのオートバイ1台、125ccの単車3台、50ccのバイク3台の仲間達と昭和37年(1962)10月6日に若戸大橋から博多まで訪れた。バイクは関門トンネルの人道側を通らなければいけなかったが土地勘もなく携帯も無い時代にうまく合流できたものだ。遥か61年前のことである・・・今では考えられないような冒険をしたものだ。コレダ125SH
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で一昨日夜には神楽奉納が行われ、昨日は神輿渡御が斎行された。白丁衣装をまとった白装束の氏子崇敬者の方々20数人により重さ900kgもあるという神輿を担いで境内一帯を神幸された。速谷神社-神輿神幸
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で昨晩は有福神楽保持物会が神楽を奉納した。神楽の演目は剣舞、神降し、日本武尊、胴の口、恵比須、大江山、大蛇などが演じられた。速谷神社-桃祓祭・奉納神楽
連休の天気予報が雨予報であったので急遽、昨日協力助っ人を得て2ケ所の離れた田んぼの稲刈りを済ませた。今ではあまり見かけなくなったハゼ干しをしており、ハゼ杭はアルミ三脚でナルは鋼管をしている。昔からハゼ廿日と言われており、天日干しで20日くらいまで乾燥させたおいしい米が待ち遠しい。稲刈り
ウォーキング途中で今迄に見かけたことが無いような花がみられた。Googleレンズで検索してみると上画像からクレマチス・ウイタルバ、モミジアオイ、ムラサキルエリアに似ている花のようである。見たままのブログなので探究しておらず違っているかもしれませんが・・・路傍の花
原小学校のプール横に原低区配水地が設けられる敷地が造成されていることを以前にも紹介しており画像のような施設が設けられるようである。上平良地区小原を通っている市道50第一路線脇にはポンプ所の敷地が築造されており、これから送配水管の敷設工事が行われるのではなかろうか。原地区水道施設
上画像は大正後期から昭和初期頃の廿日市港の様子を表した絵葉書で住吉新開の堤防脇付近に住吉神社がみられる。昭和58年(1983)の護岸改修で護岸道路や住吉公園付近一帯は廿日市港が埋め立てられたもので、住吉神社も現在地に遷座された。廿日市港今昔
秋祭りも近づいて天神山の天満宮では干しダコに似たような独特の吹き流しがたなびいていた。天神山は街中にある高台であり天満宮の吹き流しは街の各所から見ることができ、秋の訪れを知らせてくれる風物詩である。天神さんの吹き流し
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)なので昨日地域の人達と幟立てをした。速谷神社では関連行事として7日に桃祓祭、奉納神楽(有福神楽保持者会)が催され、8日には神輿神幸が斎行されるようである。秋祭りの幟立て
宮島サービスエリアからみた平良丘陵開発用地内の工事状況である。画像左側の伐採されている山は極楽寺道があった尾根筋であろうか。掘削地向うの瀬戸内をみると津久根島から安芸の小富士と呼ばれている似島、その向こうには灰ケ峰が連なって見える。平良丘陵開発の今
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昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜宣伝椅子がみられた。昨日紹介した広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)のかつての待合室内に廿日市の銘酒であった家納喜の宣伝椅子がガラス窓越しにみられた。昨日紹介した画像の外側にみえる椅子にもかつて家納喜の宣伝がみられたが現在は退色剥落してよくわからない。家納喜宣伝の待合椅子
津田の街並みの中にある広電バスの津田車庫で、吉和・中道・所山・秋掛・本郷方面と運行されていた時代の昭和54年(1979)に佐伯営業所が開設されていた。モータリゼーション到来でバス路線も少なくなって平成6年(1994)には佐伯出張所と格下げされており、その後出張所がいつ廃止とされたのかは定かでない。正面に古い時代の時刻表の痕跡が見られかつて広島バスセンター、広島駅、楽々園、アルパークなど全盛時代の路線時刻表であったようである。広電バス津田車庫(元佐伯営業所・元佐伯出張所)
岩倉温泉橋近くの県道沿いにある倉庫の外壁面に数十年前から木製の歯車が架けられたままになっている。これが歯車であることを知る人はあまりいないのではなかろうか。電気モーターが普及する以前には水車の動力を木製歯車や縄ベルトで、精米や製粉、製材などの機器を動かせていたのを子供の頃伯父の家でみたことがある。木製歯車
昨日紹介した岩倉温泉の源泉貯水槽跡の脇に見たことがないような変わった形のクソナバがあった。Googleレンズで検索してみると成熟したホコリタケのようで、頭部中央の穴からほこりのような胞子を飛散させるようである。ホコリタケ
昨日紹介した榊の湯の湯治場跡に行く途中にかつての国民宿舎岩倉ロッジ(岩倉温泉)の源泉の貯水槽が残されている。この谷上流部で榊の湯が湧出していたので、ボーリングをして温泉成分がある水(単純弱放射能冷鉱泉)をこの貯水槽に溜めてここから送水して温泉水として利用していたのである。元岩倉温泉源泉跡
津田内山地区の切石谷にある榊の湯の湯治場跡を久しぶりに訪れた。上画像の御湯神社下の窪みから湧出していた冷泉は竹樋で巨岩上から流れ落ち、岩下に小亭が設けられて湯治客が諸病を療やしていたようである。榊の湯の湯治場跡
上栗栖地区の民家があるところから北山の山中で長い石段の先に祀られてる愛宕神社で初めて参詣した。江戸期の地誌に小祠とあるのみで祭神や由緒など不明である。しかし比較的新しい鳥居が建てられており、長い石段は切り石で築造され手すりが設けられているので地域の人達によって大切に祀られているようである。愛宕神社
栗栖地区にある四和電化農業協同組合の小発電所で、栗栖地区の上流部で小瀬川から取水して下栗栖地区に発電所が設けられている落差の小さい小発電所である。看板表示によると取水量は最大0.97㎥/S(常時0.28㎥/S)で発電出力180kWのようである。四和発電所
津田八幡神社の拝殿には数多くの絵馬が掲額されている。古い時代に吹きさらしの拝殿に掲額されていたものとみられ退色や剥落がみられ、門外漢には何を題材に描かれているのかよくわからないのである。この他に三十六歌仙額が31面掲額されている。津田八幡神社の絵馬
津田地区に祀られている旧村社の八幡神社に久しぶりに参詣した。正月明けであったが2名の方が参詣しておられた。地誌によると仁和3年(887)に城州雄徳山より勧請、宝永年中に新宮権現を相殿として祀られているようである。津田八幡神社初参り
蛇腹式のミノルタセミPでミノルタカメラの前身である千代田光学精工で昭和26年(1951)から製造されたようである。ボタンを押すと蛇腹式の先端にあるレンズ部分が飛び出してくる。蛇腹式とはその装置が蛇の腹部に似ているから呼称されているようである。蛇年に因んで?
広原-広原神社奥谷尻-原神社後原-佐古田神社飯の山-河内神社小瀬川本支流域には周辺地域と閉ざされた集落が点在している。これらの集落のうち大野地区内にある大竹市の飛地である広原、奥谷尻、後原集落及び佐伯地区の飯の山集落には山鎮め神事で神木に藁蛇を巻く神事が伝承されている。蛇年に因んで
梅雨太郎蛇の池八つ面社今年は蛇年なので市域で蛇に関する伝承など紹介しよう。上平良二重原地区にある梅雨太郎は梅雨時期に紹介しているが、江戸期の地誌に異石「石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。極楽寺山の蛇の池と地御前の八つ面社には伝説が伝えられているが、定かな由来は不明である。八つ面社は江戸期の地誌に八面社「八岐大蛇を祭といふ」とある。蛇年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。八幡神社の随身像が熊被害を受けたことを以前紹介したが、随身像は現在修復されているのであろうか。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
令和6年もいよいよ今日かぎりとなりました。先日紹介していたしめ飾りを当ブログ主流と娘流で先日仕上げてそれぞれの玄関に飾った。※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧して頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って更新を続けたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。大晦日
龍虎大頭神社境内社の注連縄瀬戸の滝立岩ダム白髭神社大蛇辰年(竜・龍)も明日限りとなりました。今までに市域でみかけた龍に関する画像を紹介しよう。龍虎の蔵飾り、大頭神社境内社でみた龍型の注連縄、吉和地区にある咬龍の滝と言われる瀬戸の滝、龍神湖と言われる立岩ダム。隠岐の白髭神社では大蛇と言われる藁蛇が龍頭に見えた。さようなら辰・竜・龍年
辰年(竜・龍)ももうすぐ終わり、辰年も本日を含めて3日となりました。今までに市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。さようなら辰・竜・龍年
椎茸栽培用のホダ木は年数が経つと腐食や白アリに喰われて廃棄するので補充は欠かせないのである。(下画像は数年前に植菌したもの)一昨日助っ人と椎茸栽培用にドングリの木(クヌギか)を伐採した。春頃に植菌して2年後くらいに椎茸が生えてくるようになるのである。椎茸栽培用のホダ木伐採
昨日紹介した陶磁器酒樽には丸亀支店「正宗」とあり、中画像の酒ラベルには丸亀酒場「正宗」YYANAKIMASAMUNEとある。下画像の陶磁器酒樽には宮城商店「正宗」とある。家納喜酒造の前身は、明治34年(1901)に丸亀小六が酒造業を始めており、大正7年(1918)に合資会社丸亀商店を設立しているがいつの時代の銘酒なのだろうか。銘酒「正宗」の謎
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
卯年最後の日であるので今までに市域でみかけた兎文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。※今年も多くの方々の御来訪、閲覧して頂き有難うございました。快調ではありませんが来年も可能な限り継続していきたいと思っていますのでどうぞよろしくお願い致します。さようなら卯年
卯年も本日と明日のみとなりました。先日紹介した注連飾りも仕上げて玄関に飾りました。卯年の今秋、訪れた山形県南陽市の熊野大社の本殿裏にうさぎが三羽隠し彫りされているようで、うさぎを三羽見つけた人は願い事が成就するとのことであったがなかなか見つけにくかった。卯年もあとわずか
昨日、ウォーキングで宮島サービスエリアの下り線展望所まで訪れた。駐車場は帰省帰りの車がいっぱいであった。隣接公園では「ピクミンテラスin宮島SA」という催しが行われておりずらりと列を成していた。昔人間にはよくわからないが「ピクミン」とは・・・「宮島SA下り線」にて
今年も椎茸の補充用のドングリの木(クヌギ)を伐採したが来春になって植菌する予定である。今春植菌したホダ木からはまだ椎茸は出てこない。以前からのホダ木からは椎茸が出来ているが年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしているのである。椎茸のホダ木
正月も近づいてきたので我が家の注連飾りのパーツ作りをした。29日に藁で作った3つのパーツとウラジロ、ダイダイ、マンリョウ又は南天などを組み合わせて完成させ玄関に架ける予定である。しめ飾り