下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨夜は中秋の名月で美しい十五夜の月を見ることが出来た。素養があれば一句出るのであろうが月を見ただけ。14夜のヨゴロにはかつて八幡さんから太鼓の音が聞こえ放生会の祭事が行われていたが数年前から途絶えてしまった。戦国時代の頃から八幡神社の氏子によって連綿と放生会が催されてきていたのであるが・・・中秋の名月
平良丘陵開発の用地内で伐採工事が行われているようであり、遠方から眺めてみると広い範囲での開発である。多くの樹木が伐採されるのであろうが市HPのイメージ図をみると多くで植栽がされているが緑色が多いように描かれている。平良丘陵開発の今
大野地区内にある大竹市飛地の後原地区に残された土蔵の蔵飾りが消滅寸前である。数年前にも紹介したが唐獅子と牡丹が漆喰細工で表されたものであるが土蔵の蔵飾り側の一部が残されているのみで反対側は下画像のような状態である。このような漆喰細工は通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅寸前の蔵飾り
大野地区内にある大竹市の飛地である後原地区に祀られている佐古田神社への参道で二の鳥居手前の参道脇彼岸花が繁茂していた。当神社では秋祭りに地霊を鎮める山舞神事が行われている。(下画像-2007.11撮影)佐古田神社参道脇の彼岸花
昨日ふれた栗谷町の瑞照寺は曹洞宗の寺院で洞雲寺との関わりのある寺である。同寺御教示の歴住帳によると洞雲寺23世霊潭昭澄が瑞照寺伝法1世で、洞雲寺4世の興雲宗繁が当寺開山とされている。昭厳俊亮が瑞照寺中興2世となっており、霊潭昭澄から昭厳俊亮に伝法されたようである。瑞照寺
大竹市栗谷町にある瑞照寺の参道脇の斜面に以前彼岸花が繁茂していたのを思い出して昨日訪れてみた。しかし周辺部では満開となっているがこの斜面の彼岸花は蕾であり咲き時期はもう少し先のようである。彼岸花
ウオーキング途中の荒れ地にアサガオのような蔓性の小さな鮮やかな花が咲いていた。何んという花かとGoogleレンズで調べてみると熱帯アメリカ原産の多年草アルバルコウソウのようである。アルバルコウソウが!
陸稲の苗と本来は水田に植える古代米の黒米と赤米の苗を畑に植えてみた現在で、上画像は陸稲、中画像は黒米、下画像は赤米である。肥料の入れ方が少なかったのか陸稲の背丈が低めである。黒米と赤米は本来水田に植えるものなのであり黒米は比較的よく育っているが赤米は生育状況が良くない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかをみるだけのまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今
鳥取砂丘の近くにある砂の美術館で「砂で世界旅行・エジプト遍」と題した砂像の22点が展示してあった。なんと鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮して彫刻したもののようであり、展示が終わると崩して再度同じ砂で次の作品を作るようである。砂のエジプト探訪
神戸市西区高塚台にあるグリコピア神戸工場の製造現場を見学した。ギャラリーには懐かしいグリコのおまけがずらりと勢ぞろい展示してあった。グリコといえば昭和59年(1984)のグリコ・森永脅迫事件で、脅迫状に使用されたタイブライターは日本タイブライター製の和文タイプライターであった。当ブログ主は昭和58年(1983)に同機種のものを購入していたので、当時マスコミの取材を受けたことを思い出した。グリコピア神戸工場
バスで出雲地方を走っていると稲刈りが済まされて昔ながらの稲ハゼ掛けがみられた。車中からの撮影でうまく撮れなかったが上・中画像をみると当プログ主が掛ける方法とは変わった架け方のようである。下画像は遠方にみられた数段架けのハゼであった。稲ハゼ架け
昨日から兵庫県方面を地域の人達と訪れており、ホテルからの早朝の但馬海岸を・・・但馬海岸に
早朝、ウォーキング途中で施設の敷地内にみたことがないような白いくそナバが生えていた。翌朝どのようになっているかと思っていたが壊されていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオニフスベのようにみられるが・・・オニフスベか!
厳島合戦の絵図で当ブログ主が確認したものは画像の8点であるが何れも江戸期に描かれたもののようである。絵図に描かれた陶晴賢が敗死した場所についてみていくと山口県立文書館蔵1の絵図で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。山口県立文書館蔵2、広島大学文学部、国立公文書館、種箆沙論の絵図には大江浦付近に「此小川之奥ニテ陶尾張守自害・・・」などと記されているのである。厳島合戦関連③
厳島合戦で陶晴賢が敗死した場所については定かでない。瀬川英男文学博士は高安ガ原の実地調査と房顕覚書、陰徳太平記等の諸書の説を広義に解釈して自刃の場所を高安ガ原とされここに陶晴賢敗死之所碑が建立された。碑裏面には「大正十年八月十日、文学博士瀬川英男、厳島宮司高山昇、踏査」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県立文書館蔵で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。厳島合戦関連②
昨日、厳島合戦で敗死した陶晴賢墓碑を紹介したが、厳島合戦で毛利元就勢が包ケ浦に上陸したとの説で毛利元就上陸之跡碑が包ケ浦自然公園入口に建立されている。碑裏面には「昭和十六年三月広島陸軍兵器補給廠長岡田護誌」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県文書館蔵で絵図には「鼓ヶ浦元就公隆元公元春公隆景公廿日市ヨリ此所江着船也」と書き入れされている。厳島合戦関連①
昨日紹介した洞雲寺の絵葉書上に陶晴賢首塚がみられ、同首塚は洞雲寺の西側墓地にある。陶晴賢は弘治元年(1555)の厳島合戦で敗死し、毛利元就は桜尾城で首実検をして洞雲寺に石塔を建立し敗者の陶晴賢を丁重に弔ったのである。(陶晴賢墓碑について)晴賢墓碑
洞雲寺の本堂が草葺き(茅葺)屋根の時代の絵葉書で、上画像の絵葉書は大正7年(1918)5月に刊行された佐伯郡誌に同じ絵葉書画像が掲載されている。これらからこの絵葉書は明治末期から大正初期頃の洞雲寺の様子とみられるのである。本堂の屋根が草葺き屋根から瓦葺とされたのは定かでないが昭和期に入ってからであろうか。洞雲寺の今昔
先日、NHKのブラタモリで江戸期に始まったという燕三条の金属加工の原点である和釘が紹介されていた。物入れの片隅に和釘3本と和鎹があった。和釘の長さは約25cmで和釘・和鎹は金槌で一本一本叩いて作ったものであり洋釘のように均一ではないのである。和釘・和鎹
国道2号線沿いの垣の浦地区にある海岸に突出した小山で、名前が不明なので仮称垣の浦鼻と称すことにする。上画像は平成29年(2017)12月の状態であるが現在は頂部が削平されているようである。昭和時代には道路脇に八坂モーテルがあったが現在は画像のような建物が建てられていた。仮称垣の浦鼻の昔今
ウォーキング途中の歩道脇にある花壇にオレンジ色の小さな花が咲いているようなので近づいてみると花ではなく葉の一部が花びらのようになっていたのである。始めてみるものでありGoogleレンズで調べるとトウダイグサ科のショウジョウソウ(猩猩草)のようであった。ショウジョウソウが!
以前に紹介した浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅の棟飾りを画像から見て行こう。棟の藁上には竹板状のものが並べられて3本の横竹で押さえられており、その上に藁束を小竹で束ねたものを馬乗り型に九ケ所置いている。(使用材は定かでない)馬乗り型の頂部には太めの横竹が置かれている。馬乗り型は奇数並べるようであり、カラスオドリ、ホテ、オドリ、サンバワラ等々呼ばれていたようで、横竹はコウラギ、カラスドマリ、カラスオドシ等と呼ばれていたようである。(中国地方の民家参照)草葺き屋根の棟飾り
以前に原地区の橋本集会所前に設置されていた公衆電話ボックスが撤去されるとの告知(下画像)があり撤去されていたことを紹介した。一昨日早朝ウォーキングのコースを変えて原地区を歩いていると撤去されていた公衆電話ボックス跡にまた新しく公衆電話ボックスが設置されていた???再び公衆電話ボックスが!
早朝、ウォーキング途中の畑にみたことがないような白いくそナバが生えていた。最初に気が付いた時は上画像のようであったが次の日には中画像のように増えていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオオシロカラカサタケのようにみられるが・・・オオシロカラカサタケか???
昨日紹介した宮島ホテルの手前に2階建て茅葺屋根の大元旅館がみられる。大元旅館は石風呂を経営していたようであるが定かなことは不明である。江戸期から石風呂があったようであり明治末期には草葺きの一宇の石風呂があったようである。大元旅館もBCOF(英連邦占領軍)に接収されていたようであり以前に紹介しているので参照してください。(2014.7.20)(2019.2.06)絵葉書で宮島ぶらり⑧-大元旅館
昨日紹介したみかどホテルは明治44年(1911)12月に組織・名称を変更して宮島ホテルとなり、みかどホテル時の洋館部を主に使用していたが大正4年(1915)に焼失した。原爆ドームを設計したヤン・レツルが大正6年(1917)に擬和風の木造4階建洋館を設計し建築されている。戦後宮島ホテルはBCOF(英連邦占領軍)に接収(下画像-呉の歩みⅡより)されていたが昭和28年(1953)に焼失した。当ブログ主が小学生の頃、遠足で大元公園へ訪れた際に現在の「みやじま杜の宿」がある地に宮島ホテルの焼失残骸があったのを記憶しているのである。絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル
昨日紹介した白雲洞は明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されて白雲洞は和館部とされ、洋館部として画像の建物が建築されたようである。明治44年(1911)12月みかどホテルの組織・名称を変更して宮島ホテルが創立されたようである。厳島写真帖(明治42年発行)によると「・・・みかどホテルといふ大旅館ありて外国人の宿泊に供する古風の建物は大元川を前面に最も眺望よき所に建ちて居ります・・・」とある。絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル
明治末期ごろ大元公園にあった旅館の白雲洞で絵葉書画像と明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告、明治35年(1902)発行の嚴島名所絵図である。画像を見ると大元川沿いに建てられていたようであり、厳島写真帖(明治38年発行)によると「大元川は・・・白雲洞の西側を抄めて海にそそぐ・・・奇橋亭榭この間に散在して趣を添へ、以て東西の遊客を迎るものを旅館白雲洞とす」とある。料亭旅館の白雲洞は明治中頃に当町の住人能美庄五郎が開業し、明治39年(1906)にミカドホテルに買収されたようである。絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞
かつて杉の浦の海水浴場にあった茅葺2階建ての片山旅館で、現在の宮島シーサイドホテルがある付近にあったものであろうか。当ブログ主が小学校5年生の頃に臨海学校で杉の浦海水浴場を訪れたことをかすかに覚えているのである。絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場
平良丘陵開発用地は広大であり西広島バイパスを走っていると計画図の右端部分にあたる八ケ迫の谷でも伐採工事が行われていた。この谷は極楽寺山系から流れる谷川(下流は弘法川)が流れており少し上流部には農業用の八ケ迫溜池があったが農地がなくなって維持管理がされていないような状態であった。平良丘陵開発の今
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳