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  • 中秋の名月

    昨夜は中秋の名月で美しい十五夜の月を見ることが出来た。素養があれば一句出るのであろうが月を見ただけ。14夜のヨゴロにはかつて八幡さんから太鼓の音が聞こえ放生会の祭事が行われていたが数年前から途絶えてしまった。戦国時代の頃から八幡神社の氏子によって連綿と放生会が催されてきていたのであるが・・・中秋の名月

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発の用地内で伐採工事が行われているようであり、遠方から眺めてみると広い範囲での開発である。多くの樹木が伐採されるのであろうが市HPのイメージ図をみると多くで植栽がされているが緑色が多いように描かれている。平良丘陵開発の今

  • 消滅寸前の蔵飾り

    大野地区内にある大竹市飛地の後原地区に残された土蔵の蔵飾りが消滅寸前である。数年前にも紹介したが唐獅子と牡丹が漆喰細工で表されたものであるが土蔵の蔵飾り側の一部が残されているのみで反対側は下画像のような状態である。このような漆喰細工は通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅寸前の蔵飾り

  • 佐古田神社参道脇の彼岸花

    大野地区内にある大竹市の飛地である後原地区に祀られている佐古田神社への参道で二の鳥居手前の参道脇彼岸花が繁茂していた。当神社では秋祭りに地霊を鎮める山舞神事が行われている。(下画像-2007.11撮影)佐古田神社参道脇の彼岸花

  • 瑞照寺

    昨日ふれた栗谷町の瑞照寺は曹洞宗の寺院で洞雲寺との関わりのある寺である。同寺御教示の歴住帳によると洞雲寺23世霊潭昭澄が瑞照寺伝法1世で、洞雲寺4世の興雲宗繁が当寺開山とされている。昭厳俊亮が瑞照寺中興2世となっており、霊潭昭澄から昭厳俊亮に伝法されたようである。瑞照寺

  • 彼岸花

    大竹市栗谷町にある瑞照寺の参道脇の斜面に以前彼岸花が繁茂していたのを思い出して昨日訪れてみた。しかし周辺部では満開となっているがこの斜面の彼岸花は蕾であり咲き時期はもう少し先のようである。彼岸花

  • アルバルコウソウが !

    ウオーキング途中の荒れ地にアサガオのような蔓性の小さな鮮やかな花が咲いていた。何んという花かとGoogleレンズで調べてみると熱帯アメリカ原産の多年草アルバルコウソウのようである。アルバルコウソウが!

  • 遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今

    陸稲の苗と本来は水田に植える古代米の黒米と赤米の苗を畑に植えてみた現在で、上画像は陸稲、中画像は黒米、下画像は赤米である。肥料の入れ方が少なかったのか陸稲の背丈が低めである。黒米と赤米は本来水田に植えるものなのであり黒米は比較的よく育っているが赤米は生育状況が良くない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかをみるだけのまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今

  • 砂のエジプト探訪

    鳥取砂丘の近くにある砂の美術館で「砂で世界旅行・エジプト遍」と題した砂像の22点が展示してあった。なんと鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮して彫刻したもののようであり、展示が終わると崩して再度同じ砂で次の作品を作るようである。砂のエジプト探訪

  • グリコピア神戸工場

    神戸市西区高塚台にあるグリコピア神戸工場の製造現場を見学した。ギャラリーには懐かしいグリコのおまけがずらりと勢ぞろい展示してあった。グリコといえば昭和59年(1984)のグリコ・森永脅迫事件で、脅迫状に使用されたタイブライターは日本タイブライター製の和文タイプライターであった。当ブログ主は昭和58年(1983)に同機種のものを購入していたので、当時マスコミの取材を受けたことを思い出した。グリコピア神戸工場

  • 稲ハゼ架け

    バスで出雲地方を走っていると稲刈りが済まされて昔ながらの稲ハゼ掛けがみられた。車中からの撮影でうまく撮れなかったが上・中画像をみると当プログ主が掛ける方法とは変わった架け方のようである。下画像は遠方にみられた数段架けのハゼであった。稲ハゼ架け

  • 但馬海岸に

    昨日から兵庫県方面を地域の人達と訪れており、ホテルからの早朝の但馬海岸を・・・但馬海岸に

  • オニフスベか !

    早朝、ウォーキング途中で施設の敷地内にみたことがないような白いくそナバが生えていた。翌朝どのようになっているかと思っていたが壊されていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオニフスベのようにみられるが・・・オニフスベか!

  • 厳島合戦関連 ③

    厳島合戦の絵図で当ブログ主が確認したものは画像の8点であるが何れも江戸期に描かれたもののようである。絵図に描かれた陶晴賢が敗死した場所についてみていくと山口県立文書館蔵1の絵図で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。山口県立文書館蔵2、広島大学文学部、国立公文書館、種箆沙論の絵図には大江浦付近に「此小川之奥ニテ陶尾張守自害・・・」などと記されているのである。厳島合戦関連③

  • 厳島合戦関連 ②

    厳島合戦で陶晴賢が敗死した場所については定かでない。瀬川英男文学博士は高安ガ原の実地調査と房顕覚書、陰徳太平記等の諸書の説を広義に解釈して自刃の場所を高安ガ原とされここに陶晴賢敗死之所碑が建立された。碑裏面には「大正十年八月十日、文学博士瀬川英男、厳島宮司高山昇、踏査」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県立文書館蔵で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。厳島合戦関連②

  • 厳島合戦関連 ①

    昨日、厳島合戦で敗死した陶晴賢墓碑を紹介したが、厳島合戦で毛利元就勢が包ケ浦に上陸したとの説で毛利元就上陸之跡碑が包ケ浦自然公園入口に建立されている。碑裏面には「昭和十六年三月広島陸軍兵器補給廠長岡田護誌」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県文書館蔵で絵図には「鼓ヶ浦元就公隆元公元春公隆景公廿日市ヨリ此所江着船也」と書き入れされている。厳島合戦関連①

  • 晴賢墓碑

    昨日紹介した洞雲寺の絵葉書上に陶晴賢首塚がみられ、同首塚は洞雲寺の西側墓地にある。陶晴賢は弘治元年(1555)の厳島合戦で敗死し、毛利元就は桜尾城で首実検をして洞雲寺に石塔を建立し敗者の陶晴賢を丁重に弔ったのである。(陶晴賢墓碑について)晴賢墓碑

  • 洞雲寺の今昔

    洞雲寺の本堂が草葺き(茅葺)屋根の時代の絵葉書で、上画像の絵葉書は大正7年(1918)5月に刊行された佐伯郡誌に同じ絵葉書画像が掲載されている。これらからこの絵葉書は明治末期から大正初期頃の洞雲寺の様子とみられるのである。本堂の屋根が草葺き屋根から瓦葺とされたのは定かでないが昭和期に入ってからであろうか。洞雲寺の今昔

  • 和釘・和鎹

    先日、NHKのブラタモリで江戸期に始まったという燕三条の金属加工の原点である和釘が紹介されていた。物入れの片隅に和釘3本と和鎹があった。和釘の長さは約25cmで和釘・和鎹は金槌で一本一本叩いて作ったものであり洋釘のように均一ではないのである。和釘・和鎹

  • 仮称垣の浦鼻の昔今

    国道2号線沿いの垣の浦地区にある海岸に突出した小山で、名前が不明なので仮称垣の浦鼻と称すことにする。上画像は平成29年(2017)12月の状態であるが現在は頂部が削平されているようである。昭和時代には道路脇に八坂モーテルがあったが現在は画像のような建物が建てられていた。仮称垣の浦鼻の昔今

  • ショウジョウソウが !

    ウォーキング途中の歩道脇にある花壇にオレンジ色の小さな花が咲いているようなので近づいてみると花ではなく葉の一部が花びらのようになっていたのである。始めてみるものでありGoogleレンズで調べるとトウダイグサ科のショウジョウソウ(猩猩草)のようであった。ショウジョウソウが!

  • 草葺き屋根の棟飾り

    以前に紹介した浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅の棟飾りを画像から見て行こう。棟の藁上には竹板状のものが並べられて3本の横竹で押さえられており、その上に藁束を小竹で束ねたものを馬乗り型に九ケ所置いている。(使用材は定かでない)馬乗り型の頂部には太めの横竹が置かれている。馬乗り型は奇数並べるようであり、カラスオドリ、ホテ、オドリ、サンバワラ等々呼ばれていたようで、横竹はコウラギ、カラスドマリ、カラスオドシ等と呼ばれていたようである。(中国地方の民家参照)草葺き屋根の棟飾り

  • 再び公衆電話ボックスが !

    以前に原地区の橋本集会所前に設置されていた公衆電話ボックスが撤去されるとの告知(下画像)があり撤去されていたことを紹介した。一昨日早朝ウォーキングのコースを変えて原地区を歩いていると撤去されていた公衆電話ボックス跡にまた新しく公衆電話ボックスが設置されていた???再び公衆電話ボックスが!

  • オオシロカラカサタケか ???

    早朝、ウォーキング途中の畑にみたことがないような白いくそナバが生えていた。最初に気が付いた時は上画像のようであったが次の日には中画像のように増えていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオオシロカラカサタケのようにみられるが・・・オオシロカラカサタケか???

  • 絵葉書で宮島ぶらり⑧-大元旅館

    昨日紹介した宮島ホテルの手前に2階建て茅葺屋根の大元旅館がみられる。大元旅館は石風呂を経営していたようであるが定かなことは不明である。江戸期から石風呂があったようであり明治末期には草葺きの一宇の石風呂があったようである。大元旅館もBCOF(英連邦占領軍)に接収されていたようであり以前に紹介しているので参照してください。(2014.7.20)(2019.2.06)絵葉書で宮島ぶらり⑧-大元旅館

  • 絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル

    昨日紹介したみかどホテルは明治44年(1911)12月に組織・名称を変更して宮島ホテルとなり、みかどホテル時の洋館部を主に使用していたが大正4年(1915)に焼失した。原爆ドームを設計したヤン・レツルが大正6年(1917)に擬和風の木造4階建洋館を設計し建築されている。戦後宮島ホテルはBCOF(英連邦占領軍)に接収(下画像-呉の歩みⅡより)されていたが昭和28年(1953)に焼失した。当ブログ主が小学生の頃、遠足で大元公園へ訪れた際に現在の「みやじま杜の宿」がある地に宮島ホテルの焼失残骸があったのを記憶しているのである。絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル

  • 絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル

    昨日紹介した白雲洞は明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されて白雲洞は和館部とされ、洋館部として画像の建物が建築されたようである。明治44年(1911)12月みかどホテルの組織・名称を変更して宮島ホテルが創立されたようである。厳島写真帖(明治42年発行)によると「・・・みかどホテルといふ大旅館ありて外国人の宿泊に供する古風の建物は大元川を前面に最も眺望よき所に建ちて居ります・・・」とある。絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル

  • 絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞

    明治末期ごろ大元公園にあった旅館の白雲洞で絵葉書画像と明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告、明治35年(1902)発行の嚴島名所絵図である。画像を見ると大元川沿いに建てられていたようであり、厳島写真帖(明治38年発行)によると「大元川は・・・白雲洞の西側を抄めて海にそそぐ・・・奇橋亭榭この間に散在して趣を添へ、以て東西の遊客を迎るものを旅館白雲洞とす」とある。料亭旅館の白雲洞は明治中頃に当町の住人能美庄五郎が開業し、明治39年(1906)にミカドホテルに買収されたようである。絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞

  • 絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場

    かつて杉の浦の海水浴場にあった茅葺2階建ての片山旅館で、現在の宮島シーサイドホテルがある付近にあったものであろうか。当ブログ主が小学校5年生の頃に臨海学校で杉の浦海水浴場を訪れたことをかすかに覚えているのである。絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発用地は広大であり西広島バイパスを走っていると計画図の右端部分にあたる八ケ迫の谷でも伐採工事が行われていた。この谷は極楽寺山系から流れる谷川(下流は弘法川)が流れており少し上流部には農業用の八ケ迫溜池があったが農地がなくなって維持管理がされていないような状態であった。平良丘陵開発の今

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