知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
昨夜は中秋の名月で美しい十五夜の月を見ることが出来た。素養があれば一句出るのであろうが月を見ただけ。14夜のヨゴロにはかつて八幡さんから太鼓の音が聞こえ放生会の祭事が行われていたが数年前から途絶えてしまった。戦国時代の頃から八幡神社の氏子によって連綿と放生会が催されてきていたのであるが・・・中秋の名月
平良丘陵開発の用地内で伐採工事が行われているようであり、遠方から眺めてみると広い範囲での開発である。多くの樹木が伐採されるのであろうが市HPのイメージ図をみると多くで植栽がされているが緑色が多いように描かれている。平良丘陵開発の今
大野地区内にある大竹市飛地の後原地区に残された土蔵の蔵飾りが消滅寸前である。数年前にも紹介したが唐獅子と牡丹が漆喰細工で表されたものであるが土蔵の蔵飾り側の一部が残されているのみで反対側は下画像のような状態である。このような漆喰細工は通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅寸前の蔵飾り
大野地区内にある大竹市の飛地である後原地区に祀られている佐古田神社への参道で二の鳥居手前の参道脇彼岸花が繁茂していた。当神社では秋祭りに地霊を鎮める山舞神事が行われている。(下画像-2007.11撮影)佐古田神社参道脇の彼岸花
昨日ふれた栗谷町の瑞照寺は曹洞宗の寺院で洞雲寺との関わりのある寺である。同寺御教示の歴住帳によると洞雲寺23世霊潭昭澄が瑞照寺伝法1世で、洞雲寺4世の興雲宗繁が当寺開山とされている。昭厳俊亮が瑞照寺中興2世となっており、霊潭昭澄から昭厳俊亮に伝法されたようである。瑞照寺
大竹市栗谷町にある瑞照寺の参道脇の斜面に以前彼岸花が繁茂していたのを思い出して昨日訪れてみた。しかし周辺部では満開となっているがこの斜面の彼岸花は蕾であり咲き時期はもう少し先のようである。彼岸花
ウオーキング途中の荒れ地にアサガオのような蔓性の小さな鮮やかな花が咲いていた。何んという花かとGoogleレンズで調べてみると熱帯アメリカ原産の多年草アルバルコウソウのようである。アルバルコウソウが!
陸稲の苗と本来は水田に植える古代米の黒米と赤米の苗を畑に植えてみた現在で、上画像は陸稲、中画像は黒米、下画像は赤米である。肥料の入れ方が少なかったのか陸稲の背丈が低めである。黒米と赤米は本来水田に植えるものなのであり黒米は比較的よく育っているが赤米は生育状況が良くない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかをみるだけのまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今
鳥取砂丘の近くにある砂の美術館で「砂で世界旅行・エジプト遍」と題した砂像の22点が展示してあった。なんと鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮して彫刻したもののようであり、展示が終わると崩して再度同じ砂で次の作品を作るようである。砂のエジプト探訪
神戸市西区高塚台にあるグリコピア神戸工場の製造現場を見学した。ギャラリーには懐かしいグリコのおまけがずらりと勢ぞろい展示してあった。グリコといえば昭和59年(1984)のグリコ・森永脅迫事件で、脅迫状に使用されたタイブライターは日本タイブライター製の和文タイプライターであった。当ブログ主は昭和58年(1983)に同機種のものを購入していたので、当時マスコミの取材を受けたことを思い出した。グリコピア神戸工場
バスで出雲地方を走っていると稲刈りが済まされて昔ながらの稲ハゼ掛けがみられた。車中からの撮影でうまく撮れなかったが上・中画像をみると当プログ主が掛ける方法とは変わった架け方のようである。下画像は遠方にみられた数段架けのハゼであった。稲ハゼ架け
昨日から兵庫県方面を地域の人達と訪れており、ホテルからの早朝の但馬海岸を・・・但馬海岸に
早朝、ウォーキング途中で施設の敷地内にみたことがないような白いくそナバが生えていた。翌朝どのようになっているかと思っていたが壊されていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオニフスベのようにみられるが・・・オニフスベか!
厳島合戦の絵図で当ブログ主が確認したものは画像の8点であるが何れも江戸期に描かれたもののようである。絵図に描かれた陶晴賢が敗死した場所についてみていくと山口県立文書館蔵1の絵図で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。山口県立文書館蔵2、広島大学文学部、国立公文書館、種箆沙論の絵図には大江浦付近に「此小川之奥ニテ陶尾張守自害・・・」などと記されているのである。厳島合戦関連③
厳島合戦で陶晴賢が敗死した場所については定かでない。瀬川英男文学博士は高安ガ原の実地調査と房顕覚書、陰徳太平記等の諸書の説を広義に解釈して自刃の場所を高安ガ原とされここに陶晴賢敗死之所碑が建立された。碑裏面には「大正十年八月十日、文学博士瀬川英男、厳島宮司高山昇、踏査」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県立文書館蔵で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。厳島合戦関連②
昨日、厳島合戦で敗死した陶晴賢墓碑を紹介したが、厳島合戦で毛利元就勢が包ケ浦に上陸したとの説で毛利元就上陸之跡碑が包ケ浦自然公園入口に建立されている。碑裏面には「昭和十六年三月広島陸軍兵器補給廠長岡田護誌」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県文書館蔵で絵図には「鼓ヶ浦元就公隆元公元春公隆景公廿日市ヨリ此所江着船也」と書き入れされている。厳島合戦関連①
昨日紹介した洞雲寺の絵葉書上に陶晴賢首塚がみられ、同首塚は洞雲寺の西側墓地にある。陶晴賢は弘治元年(1555)の厳島合戦で敗死し、毛利元就は桜尾城で首実検をして洞雲寺に石塔を建立し敗者の陶晴賢を丁重に弔ったのである。(陶晴賢墓碑について)晴賢墓碑
洞雲寺の本堂が草葺き(茅葺)屋根の時代の絵葉書で、上画像の絵葉書は大正7年(1918)5月に刊行された佐伯郡誌に同じ絵葉書画像が掲載されている。これらからこの絵葉書は明治末期から大正初期頃の洞雲寺の様子とみられるのである。本堂の屋根が草葺き屋根から瓦葺とされたのは定かでないが昭和期に入ってからであろうか。洞雲寺の今昔
先日、NHKのブラタモリで江戸期に始まったという燕三条の金属加工の原点である和釘が紹介されていた。物入れの片隅に和釘3本と和鎹があった。和釘の長さは約25cmで和釘・和鎹は金槌で一本一本叩いて作ったものであり洋釘のように均一ではないのである。和釘・和鎹
国道2号線沿いの垣の浦地区にある海岸に突出した小山で、名前が不明なので仮称垣の浦鼻と称すことにする。上画像は平成29年(2017)12月の状態であるが現在は頂部が削平されているようである。昭和時代には道路脇に八坂モーテルがあったが現在は画像のような建物が建てられていた。仮称垣の浦鼻の昔今
ウォーキング途中の歩道脇にある花壇にオレンジ色の小さな花が咲いているようなので近づいてみると花ではなく葉の一部が花びらのようになっていたのである。始めてみるものでありGoogleレンズで調べるとトウダイグサ科のショウジョウソウ(猩猩草)のようであった。ショウジョウソウが!
以前に紹介した浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅の棟飾りを画像から見て行こう。棟の藁上には竹板状のものが並べられて3本の横竹で押さえられており、その上に藁束を小竹で束ねたものを馬乗り型に九ケ所置いている。(使用材は定かでない)馬乗り型の頂部には太めの横竹が置かれている。馬乗り型は奇数並べるようであり、カラスオドリ、ホテ、オドリ、サンバワラ等々呼ばれていたようで、横竹はコウラギ、カラスドマリ、カラスオドシ等と呼ばれていたようである。(中国地方の民家参照)草葺き屋根の棟飾り
以前に原地区の橋本集会所前に設置されていた公衆電話ボックスが撤去されるとの告知(下画像)があり撤去されていたことを紹介した。一昨日早朝ウォーキングのコースを変えて原地区を歩いていると撤去されていた公衆電話ボックス跡にまた新しく公衆電話ボックスが設置されていた???再び公衆電話ボックスが!
早朝、ウォーキング途中の畑にみたことがないような白いくそナバが生えていた。最初に気が付いた時は上画像のようであったが次の日には中画像のように増えていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオオシロカラカサタケのようにみられるが・・・オオシロカラカサタケか???
昨日紹介した宮島ホテルの手前に2階建て茅葺屋根の大元旅館がみられる。大元旅館は石風呂を経営していたようであるが定かなことは不明である。江戸期から石風呂があったようであり明治末期には草葺きの一宇の石風呂があったようである。大元旅館もBCOF(英連邦占領軍)に接収されていたようであり以前に紹介しているので参照してください。(2014.7.20)(2019.2.06)絵葉書で宮島ぶらり⑧-大元旅館
昨日紹介したみかどホテルは明治44年(1911)12月に組織・名称を変更して宮島ホテルとなり、みかどホテル時の洋館部を主に使用していたが大正4年(1915)に焼失した。原爆ドームを設計したヤン・レツルが大正6年(1917)に擬和風の木造4階建洋館を設計し建築されている。戦後宮島ホテルはBCOF(英連邦占領軍)に接収(下画像-呉の歩みⅡより)されていたが昭和28年(1953)に焼失した。当ブログ主が小学生の頃、遠足で大元公園へ訪れた際に現在の「みやじま杜の宿」がある地に宮島ホテルの焼失残骸があったのを記憶しているのである。絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル
昨日紹介した白雲洞は明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されて白雲洞は和館部とされ、洋館部として画像の建物が建築されたようである。明治44年(1911)12月みかどホテルの組織・名称を変更して宮島ホテルが創立されたようである。厳島写真帖(明治42年発行)によると「・・・みかどホテルといふ大旅館ありて外国人の宿泊に供する古風の建物は大元川を前面に最も眺望よき所に建ちて居ります・・・」とある。絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル
明治末期ごろ大元公園にあった旅館の白雲洞で絵葉書画像と明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告、明治35年(1902)発行の嚴島名所絵図である。画像を見ると大元川沿いに建てられていたようであり、厳島写真帖(明治38年発行)によると「大元川は・・・白雲洞の西側を抄めて海にそそぐ・・・奇橋亭榭この間に散在して趣を添へ、以て東西の遊客を迎るものを旅館白雲洞とす」とある。料亭旅館の白雲洞は明治中頃に当町の住人能美庄五郎が開業し、明治39年(1906)にミカドホテルに買収されたようである。絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞
かつて杉の浦の海水浴場にあった茅葺2階建ての片山旅館で、現在の宮島シーサイドホテルがある付近にあったものであろうか。当ブログ主が小学校5年生の頃に臨海学校で杉の浦海水浴場を訪れたことをかすかに覚えているのである。絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場
平良丘陵開発用地は広大であり西広島バイパスを走っていると計画図の右端部分にあたる八ケ迫の谷でも伐採工事が行われていた。この谷は極楽寺山系から流れる谷川(下流は弘法川)が流れており少し上流部には農業用の八ケ迫溜池があったが農地がなくなって維持管理がされていないような状態であった。平良丘陵開発の今
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知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池水持4畝拾弐歩水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。河ノ原溜め池
長野川取水口川末川取水口上平良大原地区の大原井手(仮称)は長野川から取水しているが、渇水期には水量が少ないので川末川から取水して井手のバイパス(井手名不明)を経て長野川に流入している。かつて大原井手セキの時には、原地区の井手のバイパス関係者に届け物をしていたということである。中世には森宗を所有していた桂元澄と下流の厳島社領大原御衣領の用水懸りを巡る紛争が記されており、古くから大原地区は用水不足気味であったようである。井手のバイパス
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水路を清掃した。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが、水田を作らなくなった人達も参加しての久しぶりの顔合わせとなった。かつて井手の修理に掛かった費用は田んぼの面積按分で負担していたとのことである。江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこの井手がどれに相当するのか定かでない。井手セキ(堰き)
藤掛交差点脇の七尾陸橋歩道脇の街路樹に数多くの小さな蕾が付いている樹木があったが、当ブログ主は初めてみるようなものであった。Googleレンズで検索するとカナメモチという樹木のようである。カナメモチ⁇
平良丘陵開発地内で稼働していた掘削ブルトザーや運搬ダンプカーなどが、大型連休のために広場に勢揃いしていた。山が掘削されて左側向うにはアーバンビュー渚の高層マンションが良く見えるようになった。また、五日市港には大きな船が停泊しているのがみられた。造成機器が勢揃い
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)各地の厳島神社⑰-弘化台厳島神社
上画像のような平良丘陵開発が行われる予定地の山々を山陽自動車道宮島サービスエリア下り線の展望所先端部からパンニング俯瞰。4枚目画像の海の向こう遠くにG7広島サミットで各国首脳が訪れた宮島が見られる。平良丘陵開発予定地俯瞰
平良丘陵開発地域への市道堂垣内広池山線のルートで可愛川の東側部分(下画像赤丸ケ所)では道路の一部が築造されていた。上画像の山方面に道路が向かうと以前紹介した旧石州街道がある所に向かう。中画像の可愛川には橋が架けられて向うの国道433号線の陽光台南交差点に接続するようになる。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
ウォーキング途中の畑の隅に珍しい磁器製の酒樽が置かれており、酒樽には「廿日市丸亀支店正宗第六号」とあった。丸亀支店とあるのはかつての家納喜酒造創業者である丸亀小六に関係があるものとみられるのである。丸亀小六は大正7年(1918)に丸亀商店、大正9年(1920)に家納喜酒造を創業している。下画像には丸亀酒場とあり丸亀支店・丸亀酒場は丸亀商店創業以前のものであろうか。「正宗」磁器製酒樽
平良丘陵開発予定地内の広池地区をウォーキングしていると道端にピラカンサの花が咲いていた。秋には赤い実がびっしりとなっているのを車での通りがかりに何年も見ていたのであるが、花が咲いているのは歩いていて初めて気が付いた。ここは開発予定地内であり赤い実がなるまでには取り除かれてしまうのではなかろうか。ピラカンサの花
本日から広島サミットが開催される。以前訪れた北海道洞爺湖畔には平成20年(2008)7月に開催された洞爺湖サミットを記念した洞爺湖サミット記念館が設けられていた。記念館内には各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が保存展示してあった。洞爺湖サミット記念館
大竹市小方の旧西国街道の苦ノ坂峠手前に残されている逓信省時代の装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡で、ケーブル心線による電話回線は通話能力が減衰するために装荷線輪をケーブル亘長1830m毎に設置したようで、「ケーブルハット」はこの装荷線輪装置を収納していた所のようである。以前に紹介した畑口橋交差点近くにあるレトロな逓信省看板は苦ノ坂の「ケーブルハット」と同じ長距離電話ケーブル関連の施設のようで、これらから長距離電話ケーブルは旧西国街道沿いに設置されたようである。(資料-東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要より)装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡
今ではあまり見ることが無い閂(かんぬき)が昨日紹介した木野厳島神社境内にある神輿庫でみられた。倉庫や物置などの大きな開口部の両開き戸や折畳み戸などの施錠のための横棒を閂というが、現在はシャッターなどが設けられて見かけることが殆どないのである。閂(かんぬき)
木野集落の後背山斜面に建立されている厳島神社で旧称は氏野大明神と称されていたようである。江戸期の地誌には「氏野社とあり瀛津姫命を祭る、境内に末社五宇あり」とある。現在一段高い所に摂社・末社の恵比須神社・天満宮・祇園神社・稲荷神社・金比羅神社・人丸神社が祀られている。各地の厳島神社⑯-木野厳島神社
小瀬川(木野川)沿いの木野集落にある木野小学校跡で平成23年(2011)3月に廃校となったようで、学校跡には体育館が残されており隣接して木野集会所が建てられている。集会所脇には昭和14年(1939)2月11日に寄付建立された二宮金次郎像と昭和51年(1976)に建立された創立百周年記念碑「創造」が残されている。小瀬川沿いぶらり-木野小学校跡
昨日紹介した宗玄寺の少し上流側の小瀬川(木野川)沿いに比較的新しい校舎の乙瀬小学校跡があった。狭い前庭には昭和62年(1987)3月に建立された開校百周年記念の乙女像が残されていた。この学校は平成13年(2001)に小瀬小学校に統合され休校していたが平成26年(2014)に廃校となったようである。小瀬川沿いぶらり-乙瀬小学校跡
小瀬川(木野川)沿いの岩国市乙瀬地区にある護念山宗玄寺の本堂に架けられている喚鐘で、銘文によると宝永3年(1706)8月2日に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。山田貞能の鋳造作品は梵鐘・喚鐘など14口の鋳造をしたことが判明している。以前に、何時の時代のことかは不明であるが当寺の梵鐘を近くの小瀬川河原で鋳造したとの話を聞いたことがある。小瀬川沿いぶらり-宗玄寺の喚鐘
神楽殿の大注連縄で出雲大社のHPによると長さ13.6メートル、重さ5.2トンとあり日本最大級の注連縄といわれている。かつて訪れた福岡県福津市にある宮地嶽神社の大注連縄(下画像)はHPによると「当神社の注連縄は直径2.6m、長さ11m、重さ3トンの日本一の大注連縄で当社のシンボルである」とある。出雲路ぶらり-出雲大社③
かつて拝殿の西側には上画像のような、神社建築の社殿が建ち並んだ境内に異彩を放った斬新な鉄筋コンクリート造の庁舎があったが現在は下画像の木造庁舎が建てられていた。旧庁舎は著名な建築家菊竹清訓氏が設計したものであるが、老朽化や耐震問題などのために建替えとなったようである。出雲路ぶらり-出雲大社②
洞雲寺本堂脇の池の中にある小祠で古くは鎮守堂と記されており、寺院の土地、境内、建物の護り神として当寺と関わりの深い厳島神社を分祀して祀ったものとみられる。江戸期の辛未紀行(文化8年-1811)に「鎮守厳島社、寺ノ左ニ有、弘安四年寄附ノ鰐口・・・」、洞雲寺誌に「鎮守堂、ひわだ葺」とあり、現在は小祠であるが江戸期には桧皮葺の堂で向拝に鰐口が吊るされていたようである。この鰐口は願主が海田庄中金屋とあるので現在の奥海田で鋳造活動をしていた中金屋が寄進したようである。洞雲寺-境内社厳島神社
昨日は「とおーんじ」の日だった。廿日市駅裏にある洞雲寺の花まつりの日であるが「とおーんじ」といっても分かる人は少ないであろう。洞雲寺の縁日は「とおーんじ」で極楽寺の縁日は「かんのんさん」、小中学生の頃は授業が早く終わっていたので小銭をにぎって行っていたものだ。かつて洞雲寺の縁日(花祭り)には山陽本線脇の参道入口から鐘楼門前までずらりと露店が並んでおり植木露店が多いのが特徴的であった。現在は門前マルシェが開催されておりかつて植木露店や一般露店がずらりと並んで賑わっていた頃を彷彿とさせる。とお-んじ
石見路から急遽コースを変えて何年ぶりであろうか久しぶりに出雲大社へ参詣のため訪れた。お参りをする八足門手前の石段下には過去に行われた発掘調査で出土した巨大な本殿跡の柱根元部分を表したマークがみられる。下画像は平成12年(2000)4月29日付の読売新聞一面で、トップ記事に巨大な柱根元部分の出土を報じている切り抜きである。出雲路ぶらり-出雲大社
上画像は大田市駅跨線橋の渡り通路の小屋組みで見たことが無いような鋼材の組み合わせの小屋組みである。下画像は江津駅跨線橋の小屋組みであり山形鋼を組み合わせてリベット接合したもので、昭和期中頃まで採用されていた工法である。大田市駅は大正4年(1915)に開業、江津駅は大正9年(1920)の開業であり、年数の隔たりは少ないのに小屋組み形状が異なっているのは昨日ふれたように大田市駅跨線橋が他所から移築されたのではないかと思われるのである。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋②
大田市駅跨線橋江津駅跨線橋JR大田市駅の跨線橋で階段登り口両側の柱や渡り廊下の柱が珍しい鋳鉄製柱で造られている。登り口の柱脚部分には「MAKERSKOBE1890」とあり明治23年(1890)に鋳造されたようであるが、当駅は大正4年(1915)に開業しているので他所から移築されたものであろうか。看板表示には帝国鉄道庁神戸工場で製造されたとあるが、帝国鉄道庁は1907年に設置されている。下段画像は以前に訪れて紹介したことがある江津駅の跨線橋で階段登り口の柱脚正面に「鉄道院」側面に「明治四十五年横河橋渠製」と鋳造文字が見られる。それ以前の英字鋳造文字のある大田市駅跨線橋柱は外国で製造されたものかも知れない。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋
島根県はアナゴの漁獲量日本一でその半分は大田市で水揚げされているようであり、久しぶりに穴子料理を食べに大田市に向かった。GW期間中メニューとなっていたが穴子丼と連れ添いは穴子天丼を食した。大雑把な配膳であったが瀬戸内ではみられないようなボリュームたっぷりの穴子料理を堪能したのである。出雲路ぶらり-大アナゴ