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昨夜は中秋の名月で美しい十五夜の月を見ることが出来た。素養があれば一句出るのであろうが月を見ただけ。14夜のヨゴロにはかつて八幡さんから太鼓の音が聞こえ放生会の祭事が行われていたが数年前から途絶えてしまった。戦国時代の頃から八幡神社の氏子によって連綿と放生会が催されてきていたのであるが・・・中秋の名月
平良丘陵開発の用地内で伐採工事が行われているようであり、遠方から眺めてみると広い範囲での開発である。多くの樹木が伐採されるのであろうが市HPのイメージ図をみると多くで植栽がされているが緑色が多いように描かれている。平良丘陵開発の今
大野地区内にある大竹市飛地の後原地区に残された土蔵の蔵飾りが消滅寸前である。数年前にも紹介したが唐獅子と牡丹が漆喰細工で表されたものであるが土蔵の蔵飾り側の一部が残されているのみで反対側は下画像のような状態である。このような漆喰細工は通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅寸前の蔵飾り
大野地区内にある大竹市の飛地である後原地区に祀られている佐古田神社への参道で二の鳥居手前の参道脇彼岸花が繁茂していた。当神社では秋祭りに地霊を鎮める山舞神事が行われている。(下画像-2007.11撮影)佐古田神社参道脇の彼岸花
昨日ふれた栗谷町の瑞照寺は曹洞宗の寺院で洞雲寺との関わりのある寺である。同寺御教示の歴住帳によると洞雲寺23世霊潭昭澄が瑞照寺伝法1世で、洞雲寺4世の興雲宗繁が当寺開山とされている。昭厳俊亮が瑞照寺中興2世となっており、霊潭昭澄から昭厳俊亮に伝法されたようである。瑞照寺
大竹市栗谷町にある瑞照寺の参道脇の斜面に以前彼岸花が繁茂していたのを思い出して昨日訪れてみた。しかし周辺部では満開となっているがこの斜面の彼岸花は蕾であり咲き時期はもう少し先のようである。彼岸花
ウオーキング途中の荒れ地にアサガオのような蔓性の小さな鮮やかな花が咲いていた。何んという花かとGoogleレンズで調べてみると熱帯アメリカ原産の多年草アルバルコウソウのようである。アルバルコウソウが!
陸稲の苗と本来は水田に植える古代米の黒米と赤米の苗を畑に植えてみた現在で、上画像は陸稲、中画像は黒米、下画像は赤米である。肥料の入れ方が少なかったのか陸稲の背丈が低めである。黒米と赤米は本来水田に植えるものなのであり黒米は比較的よく育っているが赤米は生育状況が良くない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかをみるだけのまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今
鳥取砂丘の近くにある砂の美術館で「砂で世界旅行・エジプト遍」と題した砂像の22点が展示してあった。なんと鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮して彫刻したもののようであり、展示が終わると崩して再度同じ砂で次の作品を作るようである。砂のエジプト探訪
神戸市西区高塚台にあるグリコピア神戸工場の製造現場を見学した。ギャラリーには懐かしいグリコのおまけがずらりと勢ぞろい展示してあった。グリコといえば昭和59年(1984)のグリコ・森永脅迫事件で、脅迫状に使用されたタイブライターは日本タイブライター製の和文タイプライターであった。当ブログ主は昭和58年(1983)に同機種のものを購入していたので、当時マスコミの取材を受けたことを思い出した。グリコピア神戸工場
バスで出雲地方を走っていると稲刈りが済まされて昔ながらの稲ハゼ掛けがみられた。車中からの撮影でうまく撮れなかったが上・中画像をみると当プログ主が掛ける方法とは変わった架け方のようである。下画像は遠方にみられた数段架けのハゼであった。稲ハゼ架け
昨日から兵庫県方面を地域の人達と訪れており、ホテルからの早朝の但馬海岸を・・・但馬海岸に
早朝、ウォーキング途中で施設の敷地内にみたことがないような白いくそナバが生えていた。翌朝どのようになっているかと思っていたが壊されていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオニフスベのようにみられるが・・・オニフスベか!
厳島合戦の絵図で当ブログ主が確認したものは画像の8点であるが何れも江戸期に描かれたもののようである。絵図に描かれた陶晴賢が敗死した場所についてみていくと山口県立文書館蔵1の絵図で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。山口県立文書館蔵2、広島大学文学部、国立公文書館、種箆沙論の絵図には大江浦付近に「此小川之奥ニテ陶尾張守自害・・・」などと記されているのである。厳島合戦関連③
厳島合戦で陶晴賢が敗死した場所については定かでない。瀬川英男文学博士は高安ガ原の実地調査と房顕覚書、陰徳太平記等の諸書の説を広義に解釈して自刃の場所を高安ガ原とされここに陶晴賢敗死之所碑が建立された。碑裏面には「大正十年八月十日、文学博士瀬川英男、厳島宮司高山昇、踏査」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県立文書館蔵で青海苔浦付近に「青能り陶自害之所」と記されている。厳島合戦関連②
昨日、厳島合戦で敗死した陶晴賢墓碑を紹介したが、厳島合戦で毛利元就勢が包ケ浦に上陸したとの説で毛利元就上陸之跡碑が包ケ浦自然公園入口に建立されている。碑裏面には「昭和十六年三月広島陸軍兵器補給廠長岡田護誌」と刻されている。厳島合戦絵図は山口県文書館蔵で絵図には「鼓ヶ浦元就公隆元公元春公隆景公廿日市ヨリ此所江着船也」と書き入れされている。厳島合戦関連①
昨日紹介した洞雲寺の絵葉書上に陶晴賢首塚がみられ、同首塚は洞雲寺の西側墓地にある。陶晴賢は弘治元年(1555)の厳島合戦で敗死し、毛利元就は桜尾城で首実検をして洞雲寺に石塔を建立し敗者の陶晴賢を丁重に弔ったのである。(陶晴賢墓碑について)晴賢墓碑
洞雲寺の本堂が草葺き(茅葺)屋根の時代の絵葉書で、上画像の絵葉書は大正7年(1918)5月に刊行された佐伯郡誌に同じ絵葉書画像が掲載されている。これらからこの絵葉書は明治末期から大正初期頃の洞雲寺の様子とみられるのである。本堂の屋根が草葺き屋根から瓦葺とされたのは定かでないが昭和期に入ってからであろうか。洞雲寺の今昔
先日、NHKのブラタモリで江戸期に始まったという燕三条の金属加工の原点である和釘が紹介されていた。物入れの片隅に和釘3本と和鎹があった。和釘の長さは約25cmで和釘・和鎹は金槌で一本一本叩いて作ったものであり洋釘のように均一ではないのである。和釘・和鎹
国道2号線沿いの垣の浦地区にある海岸に突出した小山で、名前が不明なので仮称垣の浦鼻と称すことにする。上画像は平成29年(2017)12月の状態であるが現在は頂部が削平されているようである。昭和時代には道路脇に八坂モーテルがあったが現在は画像のような建物が建てられていた。仮称垣の浦鼻の昔今
ウォーキング途中の歩道脇にある花壇にオレンジ色の小さな花が咲いているようなので近づいてみると花ではなく葉の一部が花びらのようになっていたのである。始めてみるものでありGoogleレンズで調べるとトウダイグサ科のショウジョウソウ(猩猩草)のようであった。ショウジョウソウが!
以前に紹介した浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅の棟飾りを画像から見て行こう。棟の藁上には竹板状のものが並べられて3本の横竹で押さえられており、その上に藁束を小竹で束ねたものを馬乗り型に九ケ所置いている。(使用材は定かでない)馬乗り型の頂部には太めの横竹が置かれている。馬乗り型は奇数並べるようであり、カラスオドリ、ホテ、オドリ、サンバワラ等々呼ばれていたようで、横竹はコウラギ、カラスドマリ、カラスオドシ等と呼ばれていたようである。(中国地方の民家参照)草葺き屋根の棟飾り
以前に原地区の橋本集会所前に設置されていた公衆電話ボックスが撤去されるとの告知(下画像)があり撤去されていたことを紹介した。一昨日早朝ウォーキングのコースを変えて原地区を歩いていると撤去されていた公衆電話ボックス跡にまた新しく公衆電話ボックスが設置されていた???再び公衆電話ボックスが!
早朝、ウォーキング途中の畑にみたことがないような白いくそナバが生えていた。最初に気が付いた時は上画像のようであったが次の日には中画像のように増えていた。名前が分からないキノコはくそナバと称しているがGoogleレンズでみるとオオシロカラカサタケのようにみられるが・・・オオシロカラカサタケか???
昨日紹介した宮島ホテルの手前に2階建て茅葺屋根の大元旅館がみられる。大元旅館は石風呂を経営していたようであるが定かなことは不明である。江戸期から石風呂があったようであり明治末期には草葺きの一宇の石風呂があったようである。大元旅館もBCOF(英連邦占領軍)に接収されていたようであり以前に紹介しているので参照してください。(2014.7.20)(2019.2.06)絵葉書で宮島ぶらり⑧-大元旅館
昨日紹介したみかどホテルは明治44年(1911)12月に組織・名称を変更して宮島ホテルとなり、みかどホテル時の洋館部を主に使用していたが大正4年(1915)に焼失した。原爆ドームを設計したヤン・レツルが大正6年(1917)に擬和風の木造4階建洋館を設計し建築されている。戦後宮島ホテルはBCOF(英連邦占領軍)に接収(下画像-呉の歩みⅡより)されていたが昭和28年(1953)に焼失した。当ブログ主が小学生の頃、遠足で大元公園へ訪れた際に現在の「みやじま杜の宿」がある地に宮島ホテルの焼失残骸があったのを記憶しているのである。絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル
昨日紹介した白雲洞は明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されて白雲洞は和館部とされ、洋館部として画像の建物が建築されたようである。明治44年(1911)12月みかどホテルの組織・名称を変更して宮島ホテルが創立されたようである。厳島写真帖(明治42年発行)によると「・・・みかどホテルといふ大旅館ありて外国人の宿泊に供する古風の建物は大元川を前面に最も眺望よき所に建ちて居ります・・・」とある。絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル
明治末期ごろ大元公園にあった旅館の白雲洞で絵葉書画像と明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告、明治35年(1902)発行の嚴島名所絵図である。画像を見ると大元川沿いに建てられていたようであり、厳島写真帖(明治38年発行)によると「大元川は・・・白雲洞の西側を抄めて海にそそぐ・・・奇橋亭榭この間に散在して趣を添へ、以て東西の遊客を迎るものを旅館白雲洞とす」とある。料亭旅館の白雲洞は明治中頃に当町の住人能美庄五郎が開業し、明治39年(1906)にミカドホテルに買収されたようである。絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞
かつて杉の浦の海水浴場にあった茅葺2階建ての片山旅館で、現在の宮島シーサイドホテルがある付近にあったものであろうか。当ブログ主が小学校5年生の頃に臨海学校で杉の浦海水浴場を訪れたことをかすかに覚えているのである。絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場
平良丘陵開発用地は広大であり西広島バイパスを走っていると計画図の右端部分にあたる八ケ迫の谷でも伐採工事が行われていた。この谷は極楽寺山系から流れる谷川(下流は弘法川)が流れており少し上流部には農業用の八ケ迫溜池があったが農地がなくなって維持管理がされていないような状態であった。平良丘陵開発の今
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
原地区川末の泉水峠付近で林道工事が行われていることを以前に紹介したが、工事が順次進捗しているようである。上画像は昨年9月の状態であるが現在は下画像のように工事ケ所が延伸しているのである。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線工事の遠望
時折紹介している市道堂垣内広池山線の進捗状況で、宮島サービスエリアから遠望すると平良丘陵開発用地側の工事が始まっているようである。菊ケ迫山の樹木が伐採され掘削も始まっているのであろうか。以前にも紹介したがこの山の尾根筋に旧石州往還の名残りがあったところであった。市道堂垣内広池山線の今
梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?
極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!
速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?