昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
平良丘陵開発用地内にあった市道が通行止めとなったので工事の進捗状況は遠方からの撮影となる。上画像は廿日市市HP「廿日市市新機能都市開発事業の概要」のイメージ図で、工事写真はさくらぴあ駐車場付近からと旧石州往還道から見た工事現場の現在である。平良丘陵開発の今
早朝の田んぼの水廻りを兼ねてのウォーキングで速谷神社に参詣しているが、現在創祀1800年記念事業で神門内での拝殿前から社務所前などの石敷き工事が行われている。以前に紹介した外玉垣の工事はほぼ終わっているようである。速谷神社の今
秋掛にはかつて秋掛小学校や秋中保育園があったが、秋掛小学校は平成13年(2001)に閉校となっている。木造校舎がいつ建築されたのかは不明であるが廃校後も昔懐かしい木造校舎が残されており今も活用されているようである。保育園跡は下画像のような状態であった。秋掛ぶらり②
浅原地区から山口・広島県道2号を西に向かって行くと秋掛集落がある。かつて秋掛や本郷方面には広電廿日市駅前より広電バスが通っており廿日市とは関りの深かった所である。昭和37年(1962)頃には広島バスセンターから5便往復しており、4便目が秋掛止まりで翌朝の始発便となっていた。かつて賑わっていた町並みも閑散としており以前みかけた特徴ある町家が無くなっていた。下画像の建物は住宅のように見えるが入口上部が洒落た造りとなっており、ベルも設置されているが何の建物(簡易郵便局?)であったのであろうか。秋掛ぶらり
浅原地区のほぼ中心地にある大きな民家でかつては結婚式の披露宴や各種の宴会などに使用されていたようである。この地にはかつて浅原村役場があった所で、昭和49年(1974)の戸別地図をみると公民館・小学校・駐在所・農協支所・郵便局・医院・広電バス車庫・自転車店・商店が数店みられ賑わっていたようである。しかし過疎化によってこれら多くの施設が無くなっており割烹料理店も廃業されたようである。元割烹料理店
浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅で、文化年間(1804~1817)に建てられたといわれる江戸時代の豪農の威容を伝えている農家住宅である。当家の土蔵には波文に飛び兎を表した蔵飾りが設けられている。安井家住宅蔵飾り-波に飛び兎
昨日紹介した浅原地区の旧家の蔵飾りで当家の家紋であろうか左三階松が漆喰細工で表されている。通常鏝絵と云われていますが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称しています。昨日も触れたが当家は無住のようであり敷地内は荒れ気味であり先行きが・・・蔵飾り-左三階松
浅原地区の旧家で見たことがないような珍しい画像のような床下透かし彫り欄間があったので平成26年(2014)4月に撮影していた。ところが現在当家は無住のようであり下画像のようになっているので先行きが・・・床下透かし彫り欄間が!
観光で訪れることがないようなダムを、過去に訪れた画像(2022.6)で再掲します。北海道沙流郡平取町を流れる沙流川に設けられた二風谷ダムで「にぶたに湖」と称されているようである。堰堤の高さは32メートルで長さは550メートルもあり、見たことがないような構造の堰堤である。ダムカード③-二風谷ダム
観光で訪れることがないようなダムを、過去に訪れた画像(2018.5)で再掲します。隠岐島後の隠岐の島町を流れる八尾川水系支川の銚子川に設けられた銚子ダムで「伊賀湖」と称されているようである。治水・上水道用用水確保のために設置された多目的ダムのようである。ダムカード②-銚子ダム
当方、ダムカードマニアではないが観光で訪れることがないようなダムを、過去に訪れた画像(2018.4)で再掲します。萩市の沖合にある見島にある見島ダムで「見島ゆりや湖」と称されているようである。治水・上水道用水確保のために設置されたダムの堰堤は長いけれど小規模なダムである。ダムカード①-見島ダム
山口県境を流れる小瀬川に設けられている小瀬川ダムに数十年ぶりに訪れてみた。当ダムは2つの都道府県が共同管理している国内唯一のダムのようである。当ダムは洪水調節・工業用水の供給を目的に1964年に設けられたようで、放流されている水を利用した小瀬川発電所が堰堤の下に設けられている。ダムマニア・ダムカードマニアではないがダムカードを頂戴した。小瀬川ダム
佐伯町保曽原地区の県道293号沿いにある三興中学校跡で当時の門柱が残されているのみであり、現在はグランドゴルフ場として使用されている。昭和49年(1974)の戸別地図を見ると浜本工芸の工場があったようである。昭和24年(1949)に四和村・津田町・浅原村組合立の中学校だったようであり、昭和44年(1969)に三興中学校は友和中学校・玖島中学校と統合して,新しく佐伯中学校が誕生したようである。中学校跡にユリが咲いていたが何んというユリであろうか。三興中学校跡
佐伯町の県道30号線沿い津田口バス停付近の田んぼにマコモタケが栽培されている。水田の活用や保全のためにマコモタケを栽培し栽培面積を拡大して地域の特産品にと試験栽培されているようであるが、見た限り以前のように手がはいってないような気がするが・・・マコモタケ栽培
昨日紹介した紅葉谷を流れる御手洗川沿いあった當川旅館で江戸期の終わりころに岩惣旅館と川の上に納涼床を設けていたようである。當川旅館については明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告にみられる以外に詳しいことは定かでない。絵葉書で宮島ぶらり③-當川旅館
毎日暑い日が続いていますが、江戸期末刊行の厳島図会によると紅葉谷を流れる御手洗川沿いの旅館などが川の上に納涼床を設けていたようで、涼を求める人々が芸者を挙げ料理を食したり川の中に入って涼を求めていたようである。宮島-紅葉谷納涼
宮島にある広島経済大学成風館の地はかつての厳島港商船桟橋の跡であったことを以前に紹介したことがある。(2016.12.26)(2022.10.30)大阪商船の宮島遊覧パンフレットをみると山陽航路で阪神から門司航路の途中宮島に寄港、宮島遊覧船の屋島丸は阪神から宮島寄港、岩国へ、宇品別府線が宮島寄港していたようである。また、瀬戸内商船の時刻表によると多度津・宮島線の一便があったようである。絵葉書で宮島ぶらり②-厳島港商船桟橋
6月21日に陸稲の苗と本来は水田に植える古代米の黒米と赤米の苗を畑に植えてみた。画像の手前側が陸稲で向う側右が黒米で左が赤米の現在の生育状態で、なぜか陸稲より水田に植える黒米の方が大きく育っているのである。日照りの日が多かったので毎日水やりをしたが陸稲の一部は枯れてしまった。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米の今
以前に栽培しているスイカのすべてを食べられてしまったことを紹介したが、自己防衛のために駆除装置を仕掛けてアナグマを捕獲した。しかし、また一昨夜トタン柵を設置している黒瓜の畑に侵入して画像のような状態となっていた。鳥獣被害
長く続いた猛暑で山々の樹木が茶色になっていることを以前に紹介したが、宮島サービスエリア近くの山で大きな木が枯れ葉となっていた。近づいてみるとクヌギの木のようであり、炎天下で弱って葉が枯れたのであろうか枯れ木になったとは思われないのだが・・・樹木の枯れ葉?枯れ木?
以前に広電宮島口駅の周辺整備工事の進捗状況を時折り紹介していたが、長らく御無沙汰であった。昨日久しぶりに訪れたがこの画像撮影時に大粒の雨が突然に降り出し傘もなく早々に退散した。画像を見ると競艇場側に高い防潮堤が出来ており、観光客用アクセス道路(赤崎3号線)周辺は何かの整備が行われるのであろうか。広電宮島口駅周辺の今
先日はつかいち美術ギャラリーで開催された第5回七尾中学校アートの同窓会「七美会展」の作品小画集が届いた。当ブログ主は当展に駄作を出品し関東からの同級生の仏像出品で、同級生十数名が久しぶりに集い懐かしい話などで楽しい一時を過ごした。七美会展作品画集
昨日紹介した元広電バスの廿日市停留所待合所内の古ぼけた案内図の続きで上画像にはマルシン・宮島信用金庫・家納喜酒造など懐かしい名前がみられる。中・下画像は国道2号線より海側の案内図であるが劣化剥落で読み取れないような状態であった。画像は何れも2019年1月に撮影したものである。古ぼけた案内図②
国道2号線沿いの廿日市港脇にある元広電バスの廿日市停留所待合所内に古ぼけた案内図が数枚みられる。一部ではこういう看板を作っては無断で貼りだして、看板料の名目でしつこく集金に来る業者がかつていたような話を聞いたことがある。下画像の案内図をみると2号線沿いに廿日市町役場やダイイチがみられ、宮島信用金庫の宮の字が広に修正されているなど懐かしい商店名などがみられ歴史を感じるのである。古ぼけた案内図
極楽寺山系や野貝原山系の山々をみると秋でもないのに茶色となった木々があちらこちらでみられる。連日の猛暑での水分不足で葉が枯れて樹木も弱っているものとみられる。もう枯れ木となったものもあるかも知れない。今日は待望の一雨降りそうだが・・・山々に枯れ木が!?
先日骨組みを作っていた盆燈籠に二等辺三角形の6色の燈籠紙を張り、上部角に飾り房などを取り付けて耳飾り紙を張り付けて完成である。店舗先にみられる盆燈籠に比し豪華さに劣るが汗水流して作成した燈籠であり先祖たちも喜んでくれるだろう。盆燈籠づくり
上平良地区内を横切っている山陽自動車道速谷高架橋が出来る前の状況から橋脚工事が進んで行く状況であるが、同一場所での橋梁の架橋工事の画像が見当たらない。当時は平良いちご栽培が盛んであり所々にいちご栽培のビニールハウスがみられる。山陽自動車道速谷高架橋②
先日、山陽自動車道の速谷高架橋の床版舗装の老朽化で舗装補修工事を今月末頃から夜間に行うとお知らせ案内があった。この区間は昭和62年(1987)2月に開通しておりもう36年経っているのだ。画像は昭和59年(1984)頃の速谷高架橋工事の初期段階で向う側は現在の宮島サービスエリア方面である。山陽自動車道速谷高架橋
盆も近づいてきたので例年の如く盆燈籠づくりを始めた。体調不良で暑い時期なので店で購入すれば楽でよいのであるが老化防止のために出来る限り作っていきたい。冬場に切り取っていた篠竹を必要長さに切り揃え上部側一節分を6つ割りにして先端部に割れ目をつけ別途制作した六角型の竹枠を嵌め込んで朝顔型燈籠の骨組みが完成する。以前は孫達用の燈籠も作っていたのであるが・・・盆燈籠づくり①
極楽寺の梵鐘蓮教寺の梵鐘極楽寺本堂の宝珠厳島多宝塔の九輪厳島神社反橋擬宝珠正覚院の梵鐘昨日紹介した廿日市本陣を経営していた山田家は中世から代々鋳造活動をしていた家であり、市域では山田貞栄の極楽寺の梵鐘、蓮教寺の梵鐘、山田貞能の極楽寺本堂の宝珠、厳島多宝塔の九輪、山田貞利の厳島神社反橋擬宝珠、山田貞運の正覚院の梵鐘などの鋳造作品が残されている。鋳物師山田家の鋳造作品
廿日市本陣と本陣を経営していた山田家の居宅の間取り図があったので復元立体間取り図を描いてみた。また間取り図からこのような姿の本陣があったのではなかろうかと復元立面図も描いてみた。(中央画像-芸州廿日市本陣の3次元外観復元想定図より)廿日市本陣②
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昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
時折り紹介している上平良に祀られている河野原大歳神社の桜も満開であった。当社殿は画像ではしっかりしているように見えるが老朽化が進んでおり、氏子数も少なく信仰心の薄れた現在、修復の目処が立たないようであり先行きが危惧されるのである。※当ブログを平成18年(2006)6月22日に開設してから本日で6500日となりました。老化防止のために万人向けではないがもう少し続けていきたいと思いますので御来訪のほど宜敷くお願いいたします。河野原大歳神社の桜
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳