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江戸期、廿日市の町並みの西国街道沿いに廿日市本陣があったことを記した石碑が廿日市市中央市民センター前庭に建立されている。当初は本陣跡に建立されていたが二度も移転して本陣とは異なった場所への建立となっている。下画像の中央市民センター東側の赤線で示した範囲に本陣があったのである。廿日市本陣①
上画像は明治末期の絵図で(ふるさとの写真集)、中画像は桜尾館の西側廿日市港側から写した画像で天神さん側には帆月楼とみられる大きな建物がみられる。下画像は広島県実業案内に掲載の桜尾館の広告で営業内容が記されている。桜尾館
上画像は昭和12、3年(1937、8)頃のマキノバス廿日市営業所の画像(ふるさとの写真集)で、現在も当時の建物が残されている。マキノバス廿日市営業所は昭和18年(1943)に広電バスの廿日市営業所となり、昭和29年(1954)に2号線沿いに移転のために廃止となっている。当フログ主が小学生の頃山田漬物店のところが広電バスの待合所であり、らせん階段の向う側にはバス車庫があった。我が家に帰る原線や母親の里に行くためここから湯来線のバスに乗っていたことが思い出される。元広電廿日市駅前の今昔
上画像は明治末期頃の様子を表した絵葉書で、海岸沿いには潮湯といわれる蒸し風呂のあった桜尾館がみられる。現在のサクラオブルワリーアンドディスティラリー(元中国醸造)の事務所あたりにあったようである。現在は下画像のように海岸は埋め立てられサクラオブルワリーアンドディスティラリーの醸造施設群となっている。天神さん遠望今昔
先日、平良丘陵開発予定地内でのレストラン・ホテルや温浴施設などの商業リゾート施設の計画が報道されていた。以前紹介した掘削工事が行われているケ所の昨日現在の様子である。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようであり工事の進捗状況は間もなく見られなくなりそうだ。平良丘陵開発の今
浜田市の海上交通の要所である瀬戸ケ島に祀られている厳島神社で、看板表示によると正平9年(1354)11月に足利直冬が宗像大社の分霊を勧請したという。旧暦6月18日には海上管弦祭が催されるようである。各地の厳島神社㉒-瀬戸ケ島厳島神社
田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで速谷神社に参詣しているが現在外玉垣の工事が行われている。速谷神社造営誌によると老朽化した玉垣は昭和5年(1930)10月に伊勢神宮の古殿舎撤却材の下付材を使用して築造されたようである。速谷神社の外玉垣工事
浜田市にある浜田城跡の北側松原浦の袂に祀られている厳島神社で、看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を勧請して祀られたようである。江戸期浜田城主の古田重治や松平家歴代藩主の信仰保護を受けてきたようである。各地の厳島神社㉑-松原浦厳島神社
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
草取り民具でタグルマは上画像のように稲列の間一列の草取りをするものであるが、効率を良くするために力はいるが二列用のタグルマもあったようである。中画像は高松市の神社でみかけたものであるが、このようなものが商品化されていたようである。下画像は一列用のもの二台を組み合わせたものである。草取り民具②
田んぼの稲も育っておりぼちぼち土用干しをする時期であろうか。現在は除草剤を使用するので草取りのために田んぼに入ることが少なくなったが、昔は草取り民具を使用して草を取っていたのである。上画像のハッタンドリは前後に滑らせて草をすりつぶすもので柄の短いものはしゃがんで使用したものであろうか。中画像のタグルマは前に押していき草と田土を掘り返して埋めていくものである。草取り民具
地御前市民センターの地にあった味噌・醤油醸造をしていた相良商店は明治28年(1895)9月に相良味噌工場として創業している。相良味噌の相良寛は昭和12年(1937)から昭和14年(1939)には広島県味噌工業組合、広島県西部醤油工業組合の幹事や理事を務めており、昭和24年(1949)頃には先日紹介した広島醤油の社長を務めていた。相良商店では「カネサ」ブランドの味噌・醤油を醸造していたようである。元味噌・醤油醸造-相良商店
大正9年(1920)6月28日に五日市、廿日市、原、宮内の醤油醸造販売業者が統合して資本金50万円で下平良に芸陽醤油株式会社が設立された。昭和12年(1937)7月17日には合資会社丸亀商店が芸陽醤油に合併して丸亀商店は解散している。上画像は大正9年の芸陽醤油設立時の画像であろうか。(ふるさとの写真集)二段目画像は家納喜酒造時代の昭和58年(1983)頃の画像で平成初年ごろに取り壊されている。元醤油醸造-芸陽醤油株式会社
先日予告していた七尾中学校アートの同窓会と題した第5回「七美会展」が明日から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催されます。洋画・日本画・版画・書・写真・陶芸・人形・彫刻・工芸品等々の作品が昨日搬入され展示作業が行われた。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方なども出品された楽しい作品展なので是非足をお運びご覧になってください。(入場無料)七美会展開催
昭和16年(1941)11月に広島市塩屋町で広島醤油統制株式会社が設立されており、昭和17年(1942)5月20日に統制会社令により広島醤油統制株式会社ほか11社が合併した。高洲新開にあった佐伯郡製糸産業組合の「佐伯社」は昭和12年(1937)から操業していたが、昭和15年(1940)に営業停止して敷地を広島醤油統制株式会社に譲渡した。広島醤油はフジボシ印の醤油製造を行っていたが平成21年(2009)に倒産した。元醤油醸造-広島醤油株式会社
原地区の橋本にあった西家では明治中期頃から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残りの看板や計量升、帳簿、醤油甕などの用具類が残されていた。大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。現在この古民家では「古民家Cafeはらの輪」が開かれている。元醤油醸造-西醤油醸造場
昨日紹介した地には以前にも紹介した日の出醤油醸造元の東合資会社があったところである。東合資会社は大正11年(1922)5月に創立しており広島支店、呉支店もあったようであり、全国工場通覧よると慶応元年(1865)4月に醤油醸造を始めたようである。昭和25年(2013)~29年(2017)頃の商工案内地図に東醤油工場がみられるが昭和30年代に廃業されたようである。元醤油醸造-日の出醤油醸造元東合資会社
物入れの中に廿日市でのスーパーのはしりであったと思われる昭和30年代後期頃のミツバのチラシがあった。須賀町にあったとみられるミツバがいつ閉店したのかは不明である。同じ場所と思われる所に昭和44年(1969)スーパーマルシンが開店している。現在この地にはマンションが建っている。ミツバのチラシが!
山陽自動車道の速谷高架橋で上平良交差点脇の高架橋ジョイント部分に何の樹木であろうか今年も緑の葉がみられる。高架道路の雨がジョイント部に流れて育っているようであるが、数ケ年真夏の水分が無い時期を耐えて育っているど根性樹木である。高架橋ジョイント部にど根性樹木が!
平良丘陵開発予定地内で先日紹介した部分の周辺部分が、広範囲に掘削工事が行われていた。計画図の主に工業系とある部分になるのであろうか。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようである。平良丘陵開発の今
昨年孫達にと思って植えていたスイカのすべてと黒ウリの多くをアナグマに食べられたことを紹介したことがある。今年はと上画像のように防護したがどこから入ったか4ケも食べられてしまった。家の隣接畑では猿の群れがやってきて被害甚大。再防護でスイカ畑と黒ウリ畑の周囲に波板鉄板を張り巡らせたが、ほかにも強力な自衛策を講じなくては・・・スイカ被害
極楽寺山への自動車道でさくらの里入口手前の道路脇に氷河礫層があることを知っている人はほとんどいないのではなかろうか。かつては上画像のように氷河礫層が露出していたが次第に雑木が茂って現在は看板も見えなくなっている。当ブログ主が氷河礫層とは知らない頃になぜ山の上に玉石があるのだろうかと思ったことがあったのであるが・・・(極楽寺山々頂の古第四紀の氷河礫層-廿日市の文化第11・12集参照)(上画像-佐伯郡・大竹市の文化財より)極楽寺山の氷河礫層
蛇の池周回路脇にある何の木であろうか大きな木が枯れ木となっていた。木にはテープでマーキングされており伐採されるのであろうか。枯れ木の上部にはくそナバがびっしりと生えていた。当ブログ主は名前が分からないきのこはくそナバと称しているのであるが・・・枯れ木にキノコが!
当ブログ主が子供の頃には蛇の池の堰堤西端の山際で現在道路となっている部分に蛇の池弁財天が祀られていた。祭神は天之水分神、国之水分神、闇於加美神という。蛇の池の公園化整備で周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなっている。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みの昨日極楽寺山にある蛇の池を探訪、池では大蛇でなく錦鯉や亀が出迎えてくれた。池全面にピンクや白など色とりどりの睡蓮が咲いているが例年よりは少し少ないように思われたが・・・池の周りでは絵を描くグループの人達が多くみられた。極楽寺山蛇の池の睡蓮
田んぼの苗は順調に育っており、以前はカモのつがいが来ていたが今朝はサギのつがいであろうか田んぼにやってきていた。田んぼの中のオタマジャクシなどを食べているのであろうか、しかしほどなく他所に飛び立っていった。田んぼにサギが!
昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)旧陸軍被服支廠
明治末期ごろの厳島桟橋と待合所の絵葉書画像で連絡船の厳島丸がみられる。厳島丸は明治38年(1905)に就航しており絵葉書には明治45年(1912)の消印があるので、この絵葉書は明治40年頃の様子を表しているものとみられる。絵葉書で宮島ぶらり
七尾中学校アートの同窓会と題して第5回「七美会展」が7月19日(水)から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)などが出品する楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。第5回七美会展が!!
鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)各地の厳島神社⑳-丸山厳島神社
速谷神社では6月の最終日に夏越の大祓いを行って、残り半年間の健康と繁栄を祈る人形神事と茅の輪くぐりの神事が梅雨空の中で斎行されたようである。茅の輪前には風鈴のトンネルが設置されており、風鈴まつりは8月末まで行われるようである。夏越の大祓い
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
原地区川末の泉水峠付近で林道工事が行われていることを以前に紹介したが、工事が順次進捗しているようである。上画像は昨年9月の状態であるが現在は下画像のように工事ケ所が延伸しているのである。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線工事の遠望
時折紹介している市道堂垣内広池山線の進捗状況で、宮島サービスエリアから遠望すると平良丘陵開発用地側の工事が始まっているようである。菊ケ迫山の樹木が伐採され掘削も始まっているのであろうか。以前にも紹介したがこの山の尾根筋に旧石州往還の名残りがあったところであった。市道堂垣内広池山線の今
梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?
極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!
速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?