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  • 廿日市本陣①

    江戸期、廿日市の町並みの西国街道沿いに廿日市本陣があったことを記した石碑が廿日市市中央市民センター前庭に建立されている。当初は本陣跡に建立されていたが二度も移転して本陣とは異なった場所への建立となっている。下画像の中央市民センター東側の赤線で示した範囲に本陣があったのである。廿日市本陣①

  • 桜尾館

    上画像は明治末期の絵図で(ふるさとの写真集)、中画像は桜尾館の西側廿日市港側から写した画像で天神さん側には帆月楼とみられる大きな建物がみられる。下画像は広島県実業案内に掲載の桜尾館の広告で営業内容が記されている。桜尾館

  • 元広電廿日市駅前の今昔

    上画像は昭和12、3年(1937、8)頃のマキノバス廿日市営業所の画像(ふるさとの写真集)で、現在も当時の建物が残されている。マキノバス廿日市営業所は昭和18年(1943)に広電バスの廿日市営業所となり、昭和29年(1954)に2号線沿いに移転のために廃止となっている。当フログ主が小学生の頃山田漬物店のところが広電バスの待合所であり、らせん階段の向う側にはバス車庫があった。我が家に帰る原線や母親の里に行くためここから湯来線のバスに乗っていたことが思い出される。元広電廿日市駅前の今昔

  • 天神さん遠望今昔

    上画像は明治末期頃の様子を表した絵葉書で、海岸沿いには潮湯といわれる蒸し風呂のあった桜尾館がみられる。現在のサクラオブルワリーアンドディスティラリー(元中国醸造)の事務所あたりにあったようである。現在は下画像のように海岸は埋め立てられサクラオブルワリーアンドディスティラリーの醸造施設群となっている。天神さん遠望今昔

  • 平良丘陵開発の今

    先日、平良丘陵開発予定地内でのレストラン・ホテルや温浴施設などの商業リゾート施設の計画が報道されていた。以前紹介した掘削工事が行われているケ所の昨日現在の様子である。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようであり工事の進捗状況は間もなく見られなくなりそうだ。平良丘陵開発の今

  • 各地の厳島神社㉒-瀬戸ケ島厳島神社

    浜田市の海上交通の要所である瀬戸ケ島に祀られている厳島神社で、看板表示によると正平9年(1354)11月に足利直冬が宗像大社の分霊を勧請したという。旧暦6月18日には海上管弦祭が催されるようである。各地の厳島神社㉒-瀬戸ケ島厳島神社

  • 速谷神社の外玉垣工事

    田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで速谷神社に参詣しているが現在外玉垣の工事が行われている。速谷神社造営誌によると老朽化した玉垣は昭和5年(1930)10月に伊勢神宮の古殿舎撤却材の下付材を使用して築造されたようである。速谷神社の外玉垣工事

  • 各地の厳島神社㉑-松原浦厳島神社

    浜田市にある浜田城跡の北側松原浦の袂に祀られている厳島神社で、看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を勧請して祀られたようである。江戸期浜田城主の古田重治や松平家歴代藩主の信仰保護を受けてきたようである。各地の厳島神社㉑-松原浦厳島神社

  • 『はつかいちぶらり-別館』

    ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』

  • 草取り民具 ②

    草取り民具でタグルマは上画像のように稲列の間一列の草取りをするものであるが、効率を良くするために力はいるが二列用のタグルマもあったようである。中画像は高松市の神社でみかけたものであるが、このようなものが商品化されていたようである。下画像は一列用のもの二台を組み合わせたものである。草取り民具②

  • 草取り民具

    田んぼの稲も育っておりぼちぼち土用干しをする時期であろうか。現在は除草剤を使用するので草取りのために田んぼに入ることが少なくなったが、昔は草取り民具を使用して草を取っていたのである。上画像のハッタンドリは前後に滑らせて草をすりつぶすもので柄の短いものはしゃがんで使用したものであろうか。中画像のタグルマは前に押していき草と田土を掘り返して埋めていくものである。草取り民具

  • 元味噌・醤油醸造-相良商店

    地御前市民センターの地にあった味噌・醤油醸造をしていた相良商店は明治28年(1895)9月に相良味噌工場として創業している。相良味噌の相良寛は昭和12年(1937)から昭和14年(1939)には広島県味噌工業組合、広島県西部醤油工業組合の幹事や理事を務めており、昭和24年(1949)頃には先日紹介した広島醤油の社長を務めていた。相良商店では「カネサ」ブランドの味噌・醤油を醸造していたようである。元味噌・醤油醸造-相良商店

  • 元醤油醸造-芸陽醤油株式会社

    大正9年(1920)6月28日に五日市、廿日市、原、宮内の醤油醸造販売業者が統合して資本金50万円で下平良に芸陽醤油株式会社が設立された。昭和12年(1937)7月17日には合資会社丸亀商店が芸陽醤油に合併して丸亀商店は解散している。上画像は大正9年の芸陽醤油設立時の画像であろうか。(ふるさとの写真集)二段目画像は家納喜酒造時代の昭和58年(1983)頃の画像で平成初年ごろに取り壊されている。元醤油醸造-芸陽醤油株式会社

  • 七美会展開催

    先日予告していた七尾中学校アートの同窓会と題した第5回「七美会展」が明日から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催されます。洋画・日本画・版画・書・写真・陶芸・人形・彫刻・工芸品等々の作品が昨日搬入され展示作業が行われた。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方なども出品された楽しい作品展なので是非足をお運びご覧になってください。(入場無料)七美会展開催

  • 元醤油醸造-広島醤油株式会社

    昭和16年(1941)11月に広島市塩屋町で広島醤油統制株式会社が設立されており、昭和17年(1942)5月20日に統制会社令により広島醤油統制株式会社ほか11社が合併した。高洲新開にあった佐伯郡製糸産業組合の「佐伯社」は昭和12年(1937)から操業していたが、昭和15年(1940)に営業停止して敷地を広島醤油統制株式会社に譲渡した。広島醤油はフジボシ印の醤油製造を行っていたが平成21年(2009)に倒産した。元醤油醸造-広島醤油株式会社

  • 元醤油醸造-西醤油醸造場

    原地区の橋本にあった西家では明治中期頃から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残りの看板や計量升、帳簿、醤油甕などの用具類が残されていた。大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。現在この古民家では「古民家Cafeはらの輪」が開かれている。元醤油醸造-西醤油醸造場

  • 元醤油醸造-日の出醤油醸造元東合資会社

    昨日紹介した地には以前にも紹介した日の出醤油醸造元の東合資会社があったところである。東合資会社は大正11年(1922)5月に創立しており広島支店、呉支店もあったようであり、全国工場通覧よると慶応元年(1865)4月に醤油醸造を始めたようである。昭和25年(2013)~29年(2017)頃の商工案内地図に東醤油工場がみられるが昭和30年代に廃業されたようである。元醤油醸造-日の出醤油醸造元東合資会社

  • ミツバのチラシが!

    物入れの中に廿日市でのスーパーのはしりであったと思われる昭和30年代後期頃のミツバのチラシがあった。須賀町にあったとみられるミツバがいつ閉店したのかは不明である。同じ場所と思われる所に昭和44年(1969)スーパーマルシンが開店している。現在この地にはマンションが建っている。ミツバのチラシが!

  • 高架橋ジョイント部にど根性樹木が!

    山陽自動車道の速谷高架橋で上平良交差点脇の高架橋ジョイント部分に何の樹木であろうか今年も緑の葉がみられる。高架道路の雨がジョイント部に流れて育っているようであるが、数ケ年真夏の水分が無い時期を耐えて育っているど根性樹木である。高架橋ジョイント部にど根性樹木が!

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発予定地内で先日紹介した部分の周辺部分が、広範囲に掘削工事が行われていた。計画図の主に工業系とある部分になるのであろうか。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようである。平良丘陵開発の今

  • スイカ被害

    昨年孫達にと思って植えていたスイカのすべてと黒ウリの多くをアナグマに食べられたことを紹介したことがある。今年はと上画像のように防護したがどこから入ったか4ケも食べられてしまった。家の隣接畑では猿の群れがやってきて被害甚大。再防護でスイカ畑と黒ウリ畑の周囲に波板鉄板を張り巡らせたが、ほかにも強力な自衛策を講じなくては・・・スイカ被害

  • 極楽寺山の氷河礫層

    極楽寺山への自動車道でさくらの里入口手前の道路脇に氷河礫層があることを知っている人はほとんどいないのではなかろうか。かつては上画像のように氷河礫層が露出していたが次第に雑木が茂って現在は看板も見えなくなっている。当ブログ主が氷河礫層とは知らない頃になぜ山の上に玉石があるのだろうかと思ったことがあったのであるが・・・(極楽寺山々頂の古第四紀の氷河礫層-廿日市の文化第11・12集参照)(上画像-佐伯郡・大竹市の文化財より)極楽寺山の氷河礫層

  • 枯れ木にキノコが!

    蛇の池周回路脇にある何の木であろうか大きな木が枯れ木となっていた。木にはテープでマーキングされており伐採されるのであろうか。枯れ木の上部にはくそナバがびっしりと生えていた。当ブログ主は名前が分からないきのこはくそナバと称しているのであるが・・・枯れ木にキノコが!

  • 蛇の池弁財天社跡

    当ブログ主が子供の頃には蛇の池の堰堤西端の山際で現在道路となっている部分に蛇の池弁財天が祀られていた。祭神は天之水分神、国之水分神、闇於加美神という。蛇の池の公園化整備で周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなっている。蛇の池弁財天社跡

  • 極楽寺山蛇の池の睡蓮

    梅雨の中休みの昨日極楽寺山にある蛇の池を探訪、池では大蛇でなく錦鯉や亀が出迎えてくれた。池全面にピンクや白など色とりどりの睡蓮が咲いているが例年よりは少し少ないように思われたが・・・池の周りでは絵を描くグループの人達が多くみられた。極楽寺山蛇の池の睡蓮

  • 田んぼにサギが!

    田んぼの苗は順調に育っており、以前はカモのつがいが来ていたが今朝はサギのつがいであろうか田んぼにやってきていた。田んぼの中のオタマジャクシなどを食べているのであろうか、しかしほどなく他所に飛び立っていった。田んぼにサギが!

  • 旧陸軍被服支廠

    昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)旧陸軍被服支廠

  • 絵葉書で宮島ぶらり

    明治末期ごろの厳島桟橋と待合所の絵葉書画像で連絡船の厳島丸がみられる。厳島丸は明治38年(1905)に就航しており絵葉書には明治45年(1912)の消印があるので、この絵葉書は明治40年頃の様子を表しているものとみられる。絵葉書で宮島ぶらり

  • 第5回 七美会展が!!

    七尾中学校アートの同窓会と題して第5回「七美会展」が7月19日(水)から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)などが出品する楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。第5回七美会展が!!

  • 各地の厳島神社⑳-丸山厳島神社

    鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)各地の厳島神社⑳-丸山厳島神社

  • 夏越の大祓い

    速谷神社では6月の最終日に夏越の大祓いを行って、残り半年間の健康と繁栄を祈る人形神事と茅の輪くぐりの神事が梅雨空の中で斎行されたようである。茅の輪前には風鈴のトンネルが設置されており、風鈴まつりは8月末まで行われるようである。夏越の大祓い

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