下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
江戸期、廿日市の町並みの西国街道沿いに廿日市本陣があったことを記した石碑が廿日市市中央市民センター前庭に建立されている。当初は本陣跡に建立されていたが二度も移転して本陣とは異なった場所への建立となっている。下画像の中央市民センター東側の赤線で示した範囲に本陣があったのである。廿日市本陣①
上画像は明治末期の絵図で(ふるさとの写真集)、中画像は桜尾館の西側廿日市港側から写した画像で天神さん側には帆月楼とみられる大きな建物がみられる。下画像は広島県実業案内に掲載の桜尾館の広告で営業内容が記されている。桜尾館
上画像は昭和12、3年(1937、8)頃のマキノバス廿日市営業所の画像(ふるさとの写真集)で、現在も当時の建物が残されている。マキノバス廿日市営業所は昭和18年(1943)に広電バスの廿日市営業所となり、昭和29年(1954)に2号線沿いに移転のために廃止となっている。当フログ主が小学生の頃山田漬物店のところが広電バスの待合所であり、らせん階段の向う側にはバス車庫があった。我が家に帰る原線や母親の里に行くためここから湯来線のバスに乗っていたことが思い出される。元広電廿日市駅前の今昔
上画像は明治末期頃の様子を表した絵葉書で、海岸沿いには潮湯といわれる蒸し風呂のあった桜尾館がみられる。現在のサクラオブルワリーアンドディスティラリー(元中国醸造)の事務所あたりにあったようである。現在は下画像のように海岸は埋め立てられサクラオブルワリーアンドディスティラリーの醸造施設群となっている。天神さん遠望今昔
先日、平良丘陵開発予定地内でのレストラン・ホテルや温浴施設などの商業リゾート施設の計画が報道されていた。以前紹介した掘削工事が行われているケ所の昨日現在の様子である。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようであり工事の進捗状況は間もなく見られなくなりそうだ。平良丘陵開発の今
浜田市の海上交通の要所である瀬戸ケ島に祀られている厳島神社で、看板表示によると正平9年(1354)11月に足利直冬が宗像大社の分霊を勧請したという。旧暦6月18日には海上管弦祭が催されるようである。各地の厳島神社㉒-瀬戸ケ島厳島神社
田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで速谷神社に参詣しているが現在外玉垣の工事が行われている。速谷神社造営誌によると老朽化した玉垣は昭和5年(1930)10月に伊勢神宮の古殿舎撤却材の下付材を使用して築造されたようである。速谷神社の外玉垣工事
浜田市にある浜田城跡の北側松原浦の袂に祀られている厳島神社で、看板表示によると応保2年(1162)に安芸国厳島神社を勧請して祀られたようである。江戸期浜田城主の古田重治や松平家歴代藩主の信仰保護を受けてきたようである。各地の厳島神社㉑-松原浦厳島神社
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
草取り民具でタグルマは上画像のように稲列の間一列の草取りをするものであるが、効率を良くするために力はいるが二列用のタグルマもあったようである。中画像は高松市の神社でみかけたものであるが、このようなものが商品化されていたようである。下画像は一列用のもの二台を組み合わせたものである。草取り民具②
田んぼの稲も育っておりぼちぼち土用干しをする時期であろうか。現在は除草剤を使用するので草取りのために田んぼに入ることが少なくなったが、昔は草取り民具を使用して草を取っていたのである。上画像のハッタンドリは前後に滑らせて草をすりつぶすもので柄の短いものはしゃがんで使用したものであろうか。中画像のタグルマは前に押していき草と田土を掘り返して埋めていくものである。草取り民具
地御前市民センターの地にあった味噌・醤油醸造をしていた相良商店は明治28年(1895)9月に相良味噌工場として創業している。相良味噌の相良寛は昭和12年(1937)から昭和14年(1939)には広島県味噌工業組合、広島県西部醤油工業組合の幹事や理事を務めており、昭和24年(1949)頃には先日紹介した広島醤油の社長を務めていた。相良商店では「カネサ」ブランドの味噌・醤油を醸造していたようである。元味噌・醤油醸造-相良商店
大正9年(1920)6月28日に五日市、廿日市、原、宮内の醤油醸造販売業者が統合して資本金50万円で下平良に芸陽醤油株式会社が設立された。昭和12年(1937)7月17日には合資会社丸亀商店が芸陽醤油に合併して丸亀商店は解散している。上画像は大正9年の芸陽醤油設立時の画像であろうか。(ふるさとの写真集)二段目画像は家納喜酒造時代の昭和58年(1983)頃の画像で平成初年ごろに取り壊されている。元醤油醸造-芸陽醤油株式会社
先日予告していた七尾中学校アートの同窓会と題した第5回「七美会展」が明日から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催されます。洋画・日本画・版画・書・写真・陶芸・人形・彫刻・工芸品等々の作品が昨日搬入され展示作業が行われた。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方なども出品された楽しい作品展なので是非足をお運びご覧になってください。(入場無料)七美会展開催
昭和16年(1941)11月に広島市塩屋町で広島醤油統制株式会社が設立されており、昭和17年(1942)5月20日に統制会社令により広島醤油統制株式会社ほか11社が合併した。高洲新開にあった佐伯郡製糸産業組合の「佐伯社」は昭和12年(1937)から操業していたが、昭和15年(1940)に営業停止して敷地を広島醤油統制株式会社に譲渡した。広島醤油はフジボシ印の醤油製造を行っていたが平成21年(2009)に倒産した。元醤油醸造-広島醤油株式会社
原地区の橋本にあった西家では明治中期頃から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残りの看板や計量升、帳簿、醤油甕などの用具類が残されていた。大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。現在この古民家では「古民家Cafeはらの輪」が開かれている。元醤油醸造-西醤油醸造場
昨日紹介した地には以前にも紹介した日の出醤油醸造元の東合資会社があったところである。東合資会社は大正11年(1922)5月に創立しており広島支店、呉支店もあったようであり、全国工場通覧よると慶応元年(1865)4月に醤油醸造を始めたようである。昭和25年(2013)~29年(2017)頃の商工案内地図に東醤油工場がみられるが昭和30年代に廃業されたようである。元醤油醸造-日の出醤油醸造元東合資会社
物入れの中に廿日市でのスーパーのはしりであったと思われる昭和30年代後期頃のミツバのチラシがあった。須賀町にあったとみられるミツバがいつ閉店したのかは不明である。同じ場所と思われる所に昭和44年(1969)スーパーマルシンが開店している。現在この地にはマンションが建っている。ミツバのチラシが!
山陽自動車道の速谷高架橋で上平良交差点脇の高架橋ジョイント部分に何の樹木であろうか今年も緑の葉がみられる。高架道路の雨がジョイント部に流れて育っているようであるが、数ケ年真夏の水分が無い時期を耐えて育っているど根性樹木である。高架橋ジョイント部にど根性樹木が!
平良丘陵開発予定地内で先日紹介した部分の周辺部分が、広範囲に掘削工事が行われていた。計画図の主に工業系とある部分になるのであろうか。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようである。平良丘陵開発の今
昨年孫達にと思って植えていたスイカのすべてと黒ウリの多くをアナグマに食べられたことを紹介したことがある。今年はと上画像のように防護したがどこから入ったか4ケも食べられてしまった。家の隣接畑では猿の群れがやってきて被害甚大。再防護でスイカ畑と黒ウリ畑の周囲に波板鉄板を張り巡らせたが、ほかにも強力な自衛策を講じなくては・・・スイカ被害
極楽寺山への自動車道でさくらの里入口手前の道路脇に氷河礫層があることを知っている人はほとんどいないのではなかろうか。かつては上画像のように氷河礫層が露出していたが次第に雑木が茂って現在は看板も見えなくなっている。当ブログ主が氷河礫層とは知らない頃になぜ山の上に玉石があるのだろうかと思ったことがあったのであるが・・・(極楽寺山々頂の古第四紀の氷河礫層-廿日市の文化第11・12集参照)(上画像-佐伯郡・大竹市の文化財より)極楽寺山の氷河礫層
蛇の池周回路脇にある何の木であろうか大きな木が枯れ木となっていた。木にはテープでマーキングされており伐採されるのであろうか。枯れ木の上部にはくそナバがびっしりと生えていた。当ブログ主は名前が分からないきのこはくそナバと称しているのであるが・・・枯れ木にキノコが!
当ブログ主が子供の頃には蛇の池の堰堤西端の山際で現在道路となっている部分に蛇の池弁財天が祀られていた。祭神は天之水分神、国之水分神、闇於加美神という。蛇の池の公園化整備で周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなっている。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みの昨日極楽寺山にある蛇の池を探訪、池では大蛇でなく錦鯉や亀が出迎えてくれた。池全面にピンクや白など色とりどりの睡蓮が咲いているが例年よりは少し少ないように思われたが・・・池の周りでは絵を描くグループの人達が多くみられた。極楽寺山蛇の池の睡蓮
田んぼの苗は順調に育っており、以前はカモのつがいが来ていたが今朝はサギのつがいであろうか田んぼにやってきていた。田んぼの中のオタマジャクシなどを食べているのであろうか、しかしほどなく他所に飛び立っていった。田んぼにサギが!
昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)旧陸軍被服支廠
明治末期ごろの厳島桟橋と待合所の絵葉書画像で連絡船の厳島丸がみられる。厳島丸は明治38年(1905)に就航しており絵葉書には明治45年(1912)の消印があるので、この絵葉書は明治40年頃の様子を表しているものとみられる。絵葉書で宮島ぶらり
七尾中学校アートの同窓会と題して第5回「七美会展」が7月19日(水)から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)などが出品する楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。第5回七美会展が!!
鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)各地の厳島神社⑳-丸山厳島神社
速谷神社では6月の最終日に夏越の大祓いを行って、残り半年間の健康と繁栄を祈る人形神事と茅の輪くぐりの神事が梅雨空の中で斎行されたようである。茅の輪前には風鈴のトンネルが設置されており、風鈴まつりは8月末まで行われるようである。夏越の大祓い
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳