下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
梅雨時期に以前にも紹介したことがある岩国市六呂師大藤にある梅雨左衛門で、江戸期の地誌には「田疇ニ大岩高サ四間程也。岩中ニ一双小蛇有。形烏蛇ノ如ク、白色頭帯。毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ退不。半夏ノ日ニ至テ始テ穴中ニ入ル。郷俗、梅雨座左エ門ト号。・・・」とある。近年は田畑が荒れ地となって近くに行くことが出来なくなっているものと思われる。(上・中画像-2011.07.06撮影)(下画像-2020.06.29撮影)梅雨左衛門
当ブログ主が子供の頃清水が湧き出しているとのことで親に連れられて行ったことがある。当時この付近まで田んぼが植えられ田の畔を通って清水に行ったことを記憶している。昭和後期頃に観光協会が整備してつゆ太郎水として紹介してから汲み取りに行く人が多くマイ猫車が多く並んでいた。現在は蛇頭の口が詰まっているのか上段画像のようである。つゆ太郎水今昔
梅雨の合間に梅雨太郎さんに会いに行ったが見かけることができなかった。巨岩の石の割れ目にいるというが・・・江戸期の地誌には「異石-上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。梅雨太郎さん
平良丘陵開発予定地内の広池地区を久しぶりにウォーキングしてみると以前山林伐採されていた山が掘削され始めていた。調整池予定地付近でも何かの工事が始まっているようである。8月頃から市道が通行止めとなるようなのでそれまで進捗状況を見ていきたい。平良丘陵開発の今
昨日紹介した広電バス葛原線峠車庫跡内に残されている上画像の手押し消防ポンプは以前に紹介したが、二段目画像は浅原地区の民家軒下に吊り下げられていた自家用の足踏み消防ポンプで大正3年(1914)に購入されたようである。(2006.7.30撮影)三段目画像は太田川沿い打梨地区の消防小屋でみかけた消防ポンプで台車の上にエンジン式消防ポンプを載せたものである。(2020.12.07撮影)下画像はウォーキング途中で見かけたもので手押しポンプ脇に江戸期、明治期に用いられた消火道具の龍吐水の一部とみられるものである。(2019.11.20撮影)レトロ消防ポンプ
酷道433号線沿い葛原集落の最奥部に残されている広電バスの葛原車庫跡で以前にも紹介したことがある。この葛原線は昭和38年(1963)6月1日に開通しており、広島バスセンター発(12:15、17:37)~葛原行、葛原発(6:34、14:24)~広島バスセンター行の二便往復があった。何時頃に廃止されたのかは不明であるが、現在はささき観光の代替バスにて川角、上白川方面への便が運行されているようである。広電バス葛原線峠車庫跡
佐伯区葛原の酷道433号線を走っていると茅葺屋根に葺き替えたばかりの民家がみられた。GoogleEarth画像には薄鉄板覆いの民家(下画像)が見られこの民家が葺き替えられたようである。隣接の骨組みなどから民家で使用されるのではないようにみられるのであるが・・・茅葺民家が!
昨日紹介した太陽光発電所から県道461号線を白砂方面に進んで行くと道路脇に馬魂碑が建立されている。碑文によるとこの地は血とり原と呼ばれ近郷近在の馬が集められ血とりが行われたようで、営農生活に貢献した愛馬の霊を慰めるために愛馬会により昭和53年(1978)10月に建立されたようである。(馬の血とりは冬の間に伸びた爪を切ったり、手足の関節のあたりの内側や上唇と歯の間に焼きゴテをちょっと当てたりするようで、馬の健康管理のために昔から行われていたようである。)馬魂碑
一昨日紹介した新西広島変電所の入口にあったゴルフ練習場が太陽光発電所になっていた。下画像は平成20年(2008)の国土地理院の空中写真でありゴルフ練習場がみられる。広島県の資料などによると令和になってから設置されたようである。ゴルフ練習場が太陽光発電所に
水稲育成箱で陸稲・黒米・赤米の種を蒔いていたのが育ってきたので雨が降るとのことで昨日夕方畑に植付けした。育成箱の上左側が黒米、上右側が陸稲で下両側は赤米の苗で、畑の向う側が陸稲、手前左側が黒米、右側が赤米である。本来陸稲は畑に直播きし黒米・赤米は水田に植えるものであろうが、手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米畑植
玖島地区の上大町から県道461号線を白砂方面に向かって行くと佐伯区境の手前の山中に広大な新西広島変電所がある。50万V送電線の東山口幹線、西島根幹線、新西広島幹線と接続して22万Vの2系統で広島市や県西部地区への電力供給拠点としての役割を担っているようである。(国土地理院地図加筆)新西広島変電所
玖島上大町地区の谷間を登った所にある小さな溜池で張り出した木の枝にモリアオガエルの卵塊が多くみられた。すでに孵化して雨で溶けて池面に落下した跡も多く見られるので訪れる時期が少し遅かったようである。モリアオガエルの卵塊
以前、原地区橋本集会所前に設置してある公衆電話ボックスに公衆電話を撤去すると掲示してあった。ウォーキングコースを変えていたのでどのようになっているのか知らなかった。昨日通っていると公衆電話機は無くなっていたがまだ元の公衆電話ボックスは残されていた。元公衆電話ボックスが!
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキング途中に茅の葉があったので久しぶりに茅の葉バッタを作ってみた。当ブログを始めた最初の記事・画像は、早朝ウォーキング途中茅の葉でバッタを作っていたおじさんに出会い、教えてもらい作ったバッタ画像であった。その日から本日で6204日目である。茅の葉バッタ
栗栖の田の神観音神社の田の神体調不良で助っ人頼みとなった田植えも終わって順調に育っているようである。昨日夕方鴨がやってきて田の世話をしてくれていたがあとは田の神に・・・当地方では田の神信仰はみられないが栗栖と観音神社には他地方から移された田の神がみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神に!
和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台④-潮岬灯台
昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると山林の木が伐採されており、他のケ所でも作業が行われて開発工事が始まっているようである。伐採地付近は地図を見ると新幹線五日市トンネルが通っている付近のようである。平良丘陵開発の今
田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで足を延ばして速谷神社に参詣している。現在、創建1800年記念事業の一環として社殿周囲に巡らされている板玉垣が老朽化しているために建て替えの工事が行われていた。速谷神社板玉垣工事の今
和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野崎灯台で、この灯台も角島灯台、六連島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治3年(1870)6月10日初点灯のようである。当初の灯台は低いものであったため昭和29年(1954)に継ぎ足し工事が行われたようである。この灯台も半円形貯納庫がみられ上部に展望台が増設されている。吏員退息所は国登録有形文化財に指定されており資料館となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台③-樫野崎灯台
下関市六連島にある六連島灯台で角島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治4年(1871)11月21日初点灯のようである。石造の灯台で角島灯台に比べ低い灯台で半円形貯納庫は同じような形状である。吏員退息所や倉庫は取り壊されており灯台のみとなっている。(2019.04.04探訪)各地の灯台②-六連島灯台
元吏員退息所クヅ瀬照射灯元気象観測舎角島灯台は角島大橋が開通した時以来の探訪で、灯台周辺には元吏員退息所、元倉庫、クヅ瀬照射灯、元気象観測舎などがある。明治政府は洋式灯台の有効性を強く意識し、英国人技師R.H.ブラントンを招聘して各所の灯台を設置しており、角島灯台は明治6年(1873)8月に起工して明治8年(1875)12月に灯台、吏員退息所、倉庫などが竣工している。吏員退息所は創建当時の復元工事が行われて現在は灯台記念館として使用されている。クヅ瀬照射灯は沖合の国石岩礁上の標柱を照らす装置で灯台上部に併設されていたが、昭和47年(1972)3月に現施設が設置されたようである。旧角島灯台気象観測舎は昭和18年(1943)から昭和39年(1964)まで使用されていたようである。(吏員退息所関連-阿多田島灯台...角島灯台
地域のOLD倶楽部の人達と北長門方面を旅行した。角島大橋が開通した時に訪れて以来の久しぶりに訪れた。龍宮の潮吹きは遥か昔に訪れたが現在は元乃隅神社が祀られてすっかり様子がかわっていた。ずらりと並んだ赤い鳥居の景観はインスタ映えするとのことだろうか多くの人達がみられ、なんと岐阜県から観光バスがやってきていた。北長門旅行
田植えをしたばかりの田んぼにカモのつがいがやって来た。カモが水中をかき乱すので植えたばかりの苗が浮かないかと心配で追い払いたいところであるが・・・ブログのネタ切れ気味なので我慢して撮影をしていたらどこかに飛び去って行った。田んぼにカモが!
ウォーキング途中の田んぼの荒れ地に見たことが無いような小さなキキョウに似たような花があった。ネットで調べてみると北アメリカ原産の帰化植物のキキョウソウのようである。別名はダンダンギキョウ(段々桔梗)というようで、この葉の付きかたから付いた名前のようである。野の花-キキョウソウ
廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)の種が実ったので昨日採取した。この種で次のシーズンには廿日市19代目桜島大根と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。近接して栽培しているので桜島大根の影響なのか切葉松本地大根の特徴が全くないようなものになっているのである。桜島大根も廿日市18世桜島大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の種採取
天満神社の玉垣正覚院の石燈籠佐方八幡神社の狛犬佐方八幡神社の石燈籠御船屋敷には元文元年(1736)頃に93人の家中が居住しており、市域の寺院には船屋敷関係者の墓碑が多くみられる。また家中の田原小左衛門は天満神社の玉垣、正覚院の石燈籠、佐方八幡神社の狛犬を寄進し、堀田仁助藤原泉〇は佐方八幡神社の石燈籠を寄進しており、船屋敷の人々は廿日市町人の生活の中に融合していたようである。津和野藩御船屋敷家中の寄進物
津和野藩主の亀井家は江戸時代大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際し津和野街道を東上して廿日市に宿泊しここから海路をとっていた。この中継居留地が津和野藩御船屋敷(廿日市下屋敷)であったが御船屋敷の遺構は残されていない。昨年までは御船屋敷跡に津和野太鼓谷稲荷神社を勧請して祀られていた稲生神社があったが現在は天満神社境内社の稲荷神社に合祀されている。唯一定かでないが御船屋敷時代のものではないかと思われる井戸が某所に残されている。(井戸画像-昭和後期に撮影)「廿日市の文化第19集津和野藩御船屋敷(屋敷位置復原の試み)参照」津和野藩御船屋敷旧跡
中央市民センターの掲示板に津和野街道交流記念事業のパンフレットが掲示してあり、今月11日に厳島神社の平舞台で津和野弥栄神社の鷺舞が奉納されるようである。鷺舞の画像は平成29年(2017)7月20日に津和野町の殿町通りで舞っている鷺舞である。鷺舞奉納
廿日市町絵図芸州吉田行程記中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源と思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)廿日戎旧跡
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社
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下関市一の宮住吉にある長門国一ノ宮の住吉神社は「日本三大住吉」の1つに数えられているようであり、本殿は国宝に指定されている。鳥居を過ぎると神池があり中島に厳島神社が祀られている。江戸期の寺社由来には厳島社御池ニアリ、明治期の長府史料には厳島の社、本社の南池中の島に在りて市杵島姫命を祭るとあるのみであり由緒など定かでない。各地の厳島神社㉗-住吉神社境内社の厳島神社
昨日ふれた宮島口2丁目の延命寺は寺伝によると、洞雲寺9世の全室宗用が延命寺開山のようである。2世は瑞雲泰龍、3世は溢道義充、4世は華蔵誓厳で洞雲寺25世の大透祖関が5世となっている。延享度曹洞宗寺院本末牒によると延命寺は洞雲寺の末寺となっている。延命寺
先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳