chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 梅雨左衛門

    梅雨時期に以前にも紹介したことがある岩国市六呂師大藤にある梅雨左衛門で、江戸期の地誌には「田疇ニ大岩高サ四間程也。岩中ニ一双小蛇有。形烏蛇ノ如ク、白色頭帯。毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ退不。半夏ノ日ニ至テ始テ穴中ニ入ル。郷俗、梅雨座左エ門ト号。・・・」とある。近年は田畑が荒れ地となって近くに行くことが出来なくなっているものと思われる。(上・中画像-2011.07.06撮影)(下画像-2020.06.29撮影)梅雨左衛門

  • つゆ太郎水今昔

    当ブログ主が子供の頃清水が湧き出しているとのことで親に連れられて行ったことがある。当時この付近まで田んぼが植えられ田の畔を通って清水に行ったことを記憶している。昭和後期頃に観光協会が整備してつゆ太郎水として紹介してから汲み取りに行く人が多くマイ猫車が多く並んでいた。現在は蛇頭の口が詰まっているのか上段画像のようである。つゆ太郎水今昔

  • 梅雨太郎さん

    梅雨の合間に梅雨太郎さんに会いに行ったが見かけることができなかった。巨岩の石の割れ目にいるというが・・・江戸期の地誌には「異石-上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。梅雨太郎さん

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発予定地内の広池地区を久しぶりにウォーキングしてみると以前山林伐採されていた山が掘削され始めていた。調整池予定地付近でも何かの工事が始まっているようである。8月頃から市道が通行止めとなるようなのでそれまで進捗状況を見ていきたい。平良丘陵開発の今

  • レトロ消防ポンプ

    昨日紹介した広電バス葛原線峠車庫跡内に残されている上画像の手押し消防ポンプは以前に紹介したが、二段目画像は浅原地区の民家軒下に吊り下げられていた自家用の足踏み消防ポンプで大正3年(1914)に購入されたようである。(2006.7.30撮影)三段目画像は太田川沿い打梨地区の消防小屋でみかけた消防ポンプで台車の上にエンジン式消防ポンプを載せたものである。(2020.12.07撮影)下画像はウォーキング途中で見かけたもので手押しポンプ脇に江戸期、明治期に用いられた消火道具の龍吐水の一部とみられるものである。(2019.11.20撮影)レトロ消防ポンプ

  • 広電バス葛原線峠車庫跡

    酷道433号線沿い葛原集落の最奥部に残されている広電バスの葛原車庫跡で以前にも紹介したことがある。この葛原線は昭和38年(1963)6月1日に開通しており、広島バスセンター発(12:15、17:37)~葛原行、葛原発(6:34、14:24)~広島バスセンター行の二便往復があった。何時頃に廃止されたのかは不明であるが、現在はささき観光の代替バスにて川角、上白川方面への便が運行されているようである。広電バス葛原線峠車庫跡

  • 茅葺民家が!

    佐伯区葛原の酷道433号線を走っていると茅葺屋根に葺き替えたばかりの民家がみられた。GoogleEarth画像には薄鉄板覆いの民家(下画像)が見られこの民家が葺き替えられたようである。隣接の骨組みなどから民家で使用されるのではないようにみられるのであるが・・・茅葺民家が!

  • 馬魂碑

    昨日紹介した太陽光発電所から県道461号線を白砂方面に進んで行くと道路脇に馬魂碑が建立されている。碑文によるとこの地は血とり原と呼ばれ近郷近在の馬が集められ血とりが行われたようで、営農生活に貢献した愛馬の霊を慰めるために愛馬会により昭和53年(1978)10月に建立されたようである。(馬の血とりは冬の間に伸びた爪を切ったり、手足の関節のあたりの内側や上唇と歯の間に焼きゴテをちょっと当てたりするようで、馬の健康管理のために昔から行われていたようである。)馬魂碑

  • ゴルフ練習場が太陽光発電所に

    一昨日紹介した新西広島変電所の入口にあったゴルフ練習場が太陽光発電所になっていた。下画像は平成20年(2008)の国土地理院の空中写真でありゴルフ練習場がみられる。広島県の資料などによると令和になってから設置されたようである。ゴルフ練習場が太陽光発電所に

  • 遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米畑植

    水稲育成箱で陸稲・黒米・赤米の種を蒔いていたのが育ってきたので雨が降るとのことで昨日夕方畑に植付けした。育成箱の上左側が黒米、上右側が陸稲で下両側は赤米の苗で、畑の向う側が陸稲、手前左側が黒米、右側が赤米である。本来陸稲は畑に直播きし黒米・赤米は水田に植えるものであろうが、手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米畑植

  • 新西広島変電所

    玖島地区の上大町から県道461号線を白砂方面に向かって行くと佐伯区境の手前の山中に広大な新西広島変電所がある。50万V送電線の東山口幹線、西島根幹線、新西広島幹線と接続して22万Vの2系統で広島市や県西部地区への電力供給拠点としての役割を担っているようである。(国土地理院地図加筆)新西広島変電所

  • モリアオガエルの卵塊

    玖島上大町地区の谷間を登った所にある小さな溜池で張り出した木の枝にモリアオガエルの卵塊が多くみられた。すでに孵化して雨で溶けて池面に落下した跡も多く見られるので訪れる時期が少し遅かったようである。モリアオガエルの卵塊

  • 元公衆電話ボックスが!

    以前、原地区橋本集会所前に設置してある公衆電話ボックスに公衆電話を撤去すると掲示してあった。ウォーキングコースを変えていたのでどのようになっているのか知らなかった。昨日通っていると公衆電話機は無くなっていたがまだ元の公衆電話ボックスは残されていた。元公衆電話ボックスが!

  • 茅の葉バッタ

    田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキング途中に茅の葉があったので久しぶりに茅の葉バッタを作ってみた。当ブログを始めた最初の記事・画像は、早朝ウォーキング途中茅の葉でバッタを作っていたおじさんに出会い、教えてもらい作ったバッタ画像であった。その日から本日で6204日目である。茅の葉バッタ

  • 田の神に!

    栗栖の田の神観音神社の田の神体調不良で助っ人頼みとなった田植えも終わって順調に育っているようである。昨日夕方鴨がやってきて田の世話をしてくれていたがあとは田の神に・・・当地方では田の神信仰はみられないが栗栖と観音神社には他地方から移された田の神がみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神に!

  • 各地の灯台④-潮岬灯台

    和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台④-潮岬灯台

  • 平良丘陵開発の今

    昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると山林の木が伐採されており、他のケ所でも作業が行われて開発工事が始まっているようである。伐採地付近は地図を見ると新幹線五日市トンネルが通っている付近のようである。平良丘陵開発の今

  • 速谷神社板玉垣工事の今

    田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで足を延ばして速谷神社に参詣している。現在、創建1800年記念事業の一環として社殿周囲に巡らされている板玉垣が老朽化しているために建て替えの工事が行われていた。速谷神社板玉垣工事の今

  • 各地の灯台③-樫野崎灯台

    和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野崎灯台で、この灯台も角島灯台、六連島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治3年(1870)6月10日初点灯のようである。当初の灯台は低いものであったため昭和29年(1954)に継ぎ足し工事が行われたようである。この灯台も半円形貯納庫がみられ上部に展望台が増設されている。吏員退息所は国登録有形文化財に指定されており資料館となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台③-樫野崎灯台

  • 各地の灯台②-六連島灯台

    下関市六連島にある六連島灯台で角島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治4年(1871)11月21日初点灯のようである。石造の灯台で角島灯台に比べ低い灯台で半円形貯納庫は同じような形状である。吏員退息所や倉庫は取り壊されており灯台のみとなっている。(2019.04.04探訪)各地の灯台②-六連島灯台

  • 角島灯台

    元吏員退息所クヅ瀬照射灯元気象観測舎角島灯台は角島大橋が開通した時以来の探訪で、灯台周辺には元吏員退息所、元倉庫、クヅ瀬照射灯、元気象観測舎などがある。明治政府は洋式灯台の有効性を強く意識し、英国人技師R.H.ブラントンを招聘して各所の灯台を設置しており、角島灯台は明治6年(1873)8月に起工して明治8年(1875)12月に灯台、吏員退息所、倉庫などが竣工している。吏員退息所は創建当時の復元工事が行われて現在は灯台記念館として使用されている。クヅ瀬照射灯は沖合の国石岩礁上の標柱を照らす装置で灯台上部に併設されていたが、昭和47年(1972)3月に現施設が設置されたようである。旧角島灯台気象観測舎は昭和18年(1943)から昭和39年(1964)まで使用されていたようである。(吏員退息所関連-阿多田島灯台...角島灯台

  • 北長門旅行

    地域のOLD倶楽部の人達と北長門方面を旅行した。角島大橋が開通した時に訪れて以来の久しぶりに訪れた。龍宮の潮吹きは遥か昔に訪れたが現在は元乃隅神社が祀られてすっかり様子がかわっていた。ずらりと並んだ赤い鳥居の景観はインスタ映えするとのことだろうか多くの人達がみられ、なんと岐阜県から観光バスがやってきていた。北長門旅行

  • 田んぼにカモが!

    田植えをしたばかりの田んぼにカモのつがいがやって来た。カモが水中をかき乱すので植えたばかりの苗が浮かないかと心配で追い払いたいところであるが・・・ブログのネタ切れ気味なので我慢して撮影をしていたらどこかに飛び去って行った。田んぼにカモが!

  • 野の花-キキョウソウ

    ウォーキング途中の田んぼの荒れ地に見たことが無いような小さなキキョウに似たような花があった。ネットで調べてみると北アメリカ原産の帰化植物のキキョウソウのようである。別名はダンダンギキョウ(段々桔梗)というようで、この葉の付きかたから付いた名前のようである。野の花-キキョウソウ

  • 遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の種採取

    廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)の種が実ったので昨日採取した。この種で次のシーズンには廿日市19代目桜島大根と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。近接して栽培しているので桜島大根の影響なのか切葉松本地大根の特徴が全くないようなものになっているのである。桜島大根も廿日市18世桜島大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の種採取

  • 津和野藩御船屋敷家中の寄進物

    天満神社の玉垣正覚院の石燈籠佐方八幡神社の狛犬佐方八幡神社の石燈籠御船屋敷には元文元年(1736)頃に93人の家中が居住しており、市域の寺院には船屋敷関係者の墓碑が多くみられる。また家中の田原小左衛門は天満神社の玉垣、正覚院の石燈籠、佐方八幡神社の狛犬を寄進し、堀田仁助藤原泉〇は佐方八幡神社の石燈籠を寄進しており、船屋敷の人々は廿日市町人の生活の中に融合していたようである。津和野藩御船屋敷家中の寄進物

  • 津和野藩御船屋敷旧跡

    津和野藩主の亀井家は江戸時代大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際し津和野街道を東上して廿日市に宿泊しここから海路をとっていた。この中継居留地が津和野藩御船屋敷(廿日市下屋敷)であったが御船屋敷の遺構は残されていない。昨年までは御船屋敷跡に津和野太鼓谷稲荷神社を勧請して祀られていた稲生神社があったが現在は天満神社境内社の稲荷神社に合祀されている。唯一定かでないが御船屋敷時代のものではないかと思われる井戸が某所に残されている。(井戸画像-昭和後期に撮影)「廿日市の文化第19集津和野藩御船屋敷(屋敷位置復原の試み)参照」津和野藩御船屋敷旧跡

  • 鷺舞奉納

    中央市民センターの掲示板に津和野街道交流記念事業のパンフレットが掲示してあり、今月11日に厳島神社の平舞台で津和野弥栄神社の鷺舞が奉納されるようである。鷺舞の画像は平成29年(2017)7月20日に津和野町の殿町通りで舞っている鷺舞である。鷺舞奉納

  • 廿日戎旧跡

    廿日市町絵図芸州吉田行程記中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源と思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)廿日戎旧跡

  • 各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社

    鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、hathuさんをフォローしませんか?

ハンドル名
hathuさん
ブログタイトル
『はつかいち』ぶらり
フォロー
『はつかいち』ぶらり

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用