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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
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埼玉県
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2006/06/13

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  • 羽生の大天白公園にある“城”の字とは?

    大天白神社(羽生市北2丁目)に隣接する大天白公園は、今年も藤の花が満開を迎えている。大天白公園を彩る藤の花に、初夏の訪れを感じる人は少なくないだろう。藤もいいが、ついでに石碑にも目を向けてみよう。公園の北側に「大天白神社縁起碑」といういささか背の高い碑が建っている。木の下にあるせいか、あまり目立たない。その隣には説明板も建っているのに奥ゆかしい。この碑には、「城」や「木戸忠朝」の名を見ることができる。要約すると、木戸忠朝は弘治2年(1556)に羽生の簑沢に城を築く。翌年、忠朝夫人は懐胎し、安産祈願のため一祠を設ける。すなわち、これが大天白神社である。戦乱によって同社は罹災したが、のちに再建される。江戸時代、出産予定日を過ぎてもなかなか赤ん坊が生まれない女性がいた。そこで大天白神社に祈願したところ、無事に出...羽生の大天白公園にある“城”の字とは?

  • 国府台城址にある伝説の石は?

    雉岡城址(埼玉県本庄市)の夜泣き石を初めて目にしたのは、冬の日の宵時だった気がする。薄暗く、誰もいない城址で、夜泣き石は深い堀の下でポツンと佇んでいた。国府台城(千葉県市川市)にも夜泣き石がある。国府台合戦で敗死した武将の娘が、亡き父を偲んで石にもたれて泣き続けていたという。娘は悲しみのあまり息絶えてしまう。その亡骸は葬られたが、石からは毎夜すすり泣く声が聞こえたと伝わる。夜泣き石伝説は日本各所にある。「伝説」ゆえ、言い伝えを史実とするには注意が必要となる。伝説の由来はさておき、一説に日本人の石に対する信仰心を表わしているのだろう。巨石や不思議な形をした石など、信仰の対象としてきた。国府台城址には、明戸古墳という前方後円墳が横たわっている。石棺がむき出しになっており、江戸時代の一部の人は国府台合戦と結び付...国府台城址にある伝説の石は?

  • 葉桜の日に訪ねる“雉岡城”は?

    雉岡城(埼玉県本庄市)に天守閣はない。が、曲輪に施された高い土塁や深い堀は迫力がある。本庄早稲田の杜ミュージアムで雉岡城のパネル展示を見たからには、現地にも足を運びたかった。桜の満開時期を避けて、葉桜の日に訪れた。最後に雉岡城を訪れてからだいぶ経つ。表示板は新しくなり、文化財説明板も生まれ変わっていた。ちょうど発掘調査中で、大手門付近から石積みが出土したという。隣接して建つのは中学校である。今回の発掘調査を機に、城址に興味を持つ学生もいるかもしれない。教師から黒曜石の話を聞いて、旧石器時代に興味を持った高校生を知ったばかりだ。母校の隣に城址があるのは、物語が始まる予感がする。ちなみに、北にも高校の校舎が建っているが、移転して現在は使われていないらしい。学校があるということは、その敷地の遺構は失われているこ...葉桜の日に訪ねる“雉岡城”は?

  • 風邪の反動につき旅に出る?

    発熱したのは1年以上ぶりだった気がする。寝込む。その間、ブログが強制終了するという知らせに触れた。ふて寝する。何もやる気が起きない。何も読みたくないし、書きたくもない。何も考えたくないし、どこにも出かけたくなかった(病院には行ったが)。せっかくの休日だから……という心理に縛られていたことに気付く。せっかくの休日だから原稿を進めなければならない。本を1冊でも多く読まねば、史跡に行かねば、気になる企画展を見なければ、お得なランチに行かねば……などなど。「~せねばならない」という考え方は疲れる。この価値観の強い人を苦手としていたのに、いつの間にか自分もそっち側にいたらしい。あぶない、あぶない。年を重ねるとはそういうことなのかもしれない。なお、年齢が上がると風邪が治りにくい。しばらく引きずった。若い時分のように、...風邪の反動につき旅に出る?

  • 旧体制が終わりを告げる日の関宿城は?

    自転車で海へ向かった。土手は菜の花で彩られていた。走り続けていれば辿り着く場所がある。例え牛歩でも、心が折れそうになっても、前に進み続けていれば終わらない。思い描いたものとは異なっても、いずれ海に着く。そんな摂理を知った春だった。2025年、菜の花越しに関宿城の模擬天守を望んだ。約30年前、周囲の樹木は背が低かった。茨城県五霞町の土手上からもはっきりと天守が見えたのを覚えている。いま、「海」はどこにあるのか。どこを目指して生きているのか。若いときの方がわかりやすかったかもしれない。遠回りもした気がするが、扉を開けるのに必要とする時間があったし、良い悪いではなく、性分ゆえの生き方だったのだろう。菜の花畑越しの模擬天守を眺めた。その日は旧体制が終わりを告げる日だった。終わっては新しいものが始まっていく。時代の...旧体制が終わりを告げる日の関宿城は?

  • 関宿城攻撃の拠点とした山王山砦は? ―東昌寺―

    北条氏の関宿城攻め(千葉県野田市)は3次あった。第1次は、太田氏資らを先勢として攻撃を仕掛けたが、「野伏」の活躍や関宿城主簗田氏の巧みな戦略によって落とすことができなかった。そこで、北条氏は栗橋城主野田氏を退去させ、北条氏照を入城させる。同城を拠点とし、また関宿城攻略のための“山王山”と“不動山”という2つの砦を築造するのである。不動山は不明だが、山王山は茨城県五霞町山王山が比定される。具体的には、同地の東昌寺であった可能性がある。同寺は簗田満助の菩提寺として創建されたという。(現在地よりも関宿城に近い場所だったらしい)簗田持助が寄進した梵鐘が現存する古刹である。境内には、“山王山砦”とおぼしきものが散見される。山門前には窪地と土の高まりがある。これは堀と土塁の名残りだろうか。また、裏手にも土塁のような土...関宿城攻撃の拠点とした山王山砦は?―東昌寺―

  • パネル展示で“雉岡城”の謎に迫る?

    3月25日付の「東京新聞」によると、雉岡城址(埼玉県本庄市)から石積みが出土したという。落城もしくは廃城により、石積みが崩された可能性を指摘する発掘担当者のコメントも載せている。同城の発掘調査は令和6年12月より開始され、初めて入った調査のメスということである。菅原記者による記事で、視点を石積みに定めているからつい引き込まれる。この発掘調査により、雉岡城のパネル展示が本庄早稲田の杜ミュージアムで開催されているという(令和7年4月13日まで)。これは見逃すわけにはいかん、ということで足を延ばした。雉岡城址の古写真、絵図、地籍図、発掘調査の様子がパネルで紹介されていた。「本庄市文化財保存活用地域計画」の一環としての調査というから、時流に乗っている感がある。どのようなものが出土し、どんなことが分かっていくのか。...パネル展示で“雉岡城”の謎に迫る?

  • 羽生の“城沼落とし”の桜並木にて

    今年も春が来て、“城沼落とし”は桜の花に彩られていた。城沼落としとは、羽生城址(埼玉県羽生市)の北側を流れる排水路のこと。この排水路も城址と言えるかもしれない。が、「武陽羽生古城之図」や「浅野文庫蔵諸国古城之図」所収の絵図を見ると、城の北側は沼に覆われているから、天然の沼が堀替わりになっていたことになる。桜並木の南側に建つのは曙ブレーキ工業の工場である。井泉に住む同級生の家へ遊びに行くとき、横目に移る工場は城のように見えたのを覚えている。城沼落とし沿いには、かつて「くるみ」というお好み焼き屋があった。1994年の春、そこで中学の部活の同窓会が開かれたことがある。誰が主催したのか聞いてみると、無関係な部活の同級生が1人で企画したという。しかも、当人は不参加。なぜ彼が主催したのか、30年が経ったいまも謎である...羽生の“城沼落とし”の桜並木にて

  • 森田童子の歌詞が象徴するのはあの時代?

    1995歳の春、森田童子の「球根栽培の唄」と出会った。曲はいい。ただ、歌詞がわからなかった。球根栽培の花が咲きました。孤立無援のお前のように机のすみで咲きました。(中略)ガリ版刷りのアジビラが風に舞う。赤ヘルメットのお前がぼくを見つけて手を振った。球根栽培の本を知ってますか。孤立無援のいのちがもえて花火のように咲きます。(森田童子作詞)1960年代に吹き荒れた学生運動を背景にしている。球根栽培の本は爆弾製造書であり、「アジビラ」や「赤ヘルメット」は学生運動を象徴している。森田童子は、当時の「孤独な情念」を表現したかったのだろう。東京に出て、学生運動に青春を捧げた人たちと出会ってから「球根栽培の唄」が少しわかった気がした。ただの園芸の唄ではない、と。案外、森田童子は学生運動の時代をモチーフにした曲が多い。「...森田童子の歌詞が象徴するのはあの時代?

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