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2025/04/24

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  • 宗光出獄一年経過後に渡米欧

    宗光は8月日光で子息と過ごしていましたが、伊藤博文の帰国で8月下旬、お邪魔します。その際、博文は「日本も近い将来『立憲政治』が実施されるので、欧米で彼らの政治を実観したら」との提案。宗光は入獄等一連の配慮の感謝の意を表明、博文の提案に「実は自分もそのつもりでいる」と返事。宗光も出獄当初からそのような思いがあったのでした。宗光訪問の2~3日後、今度は博文が宗光の家を訪ねてきて外遊を再び提案したのです。宗光の訪欧米は博文のみならず、井上馨(参議 鹿鳴館完成7/7)松方正義(大蔵卿)渋沢栄一(各会社役員等)らも薦めていたと。但し、宗光が即、実行出来なかったのは1出獄後から時が経過してなかった事 2入…

  • 宗光の入獄中 博文は渡欧で憲法学習

    宗光が仙台を後(1883/1/08)にして東京に戻った。(1/13)この日は親戚知人が家に集まり大祝賀会。1/31在京和歌山県人会。2/15~家族で横浜・横須賀・金沢へ赴き、神奈川県令時代の知人企画宴会出席。2/25~10日程、江ノ島で過ごし、一旦帰京。そうこうしている内に4/15に和歌山に向かう。宗光は和歌山県民の皆さんに熱烈・熱狂で迎えられ、数多の歓迎会が挙行されました。後、大阪でも同様の集い、又、父親の墓(夕日岡)に赴き出獄の報告、漸く5/10に神戸を発ち帰京すると云う、嬉しくも忙しい日々の過密日程でした。一方、宗光入獄中の明治政府の指導者のお一人伊藤博文は内務卿で1879年に琉球王国併…

  • 宮城監獄で宗光は猛勉・亮子さんに恋文

    そして、宗光は「士族」身分を剥奪され(8/21)、入獄します。1878年9月~宗光34歳の獄中生活がスタートし~1883年1/04出獄で終了します。(4年5ヶ月)(禁固5年の刑が1882年12/30の「特赦」で減刑に《特赦理由は不明》)最初は「山形監獄」に入所しますが、ちょうど1年後の1879年9月脱獄強盗犯の放火により監獄が炎上(9/25)し、「宮城監獄」に移されます。(11/30)この時代「宮城監獄」は設備・施設等が整っていたそうです。この整った監獄に入れるようにした御仁が1872年宗光を大蔵省へ入省斡旋した「井上馨」とか。井上馨は1876年6月~米・英・独・仏等への家族連れの旅路でしたが…

  • 政府転覆計画に関与で宗光は禁固刑

    1877年2月西郷と西郷創設私学校生徒ら「今般政府へ尋問の筋有之」と東京目指し鹿児島発(2/15) 「西南戦争」の勃発~~~09/24「もうここらでよか」と西郷の自刃で幕を下ろします。 これが(武)士族の反乱の最後になりました。 江戸時代の幕藩体制を支えた武士は明治の世になると、とても居心地が悪くなります。 差異表示の変容・変貌 1870年帯刀(庶民の脇差し)禁止(11/6) 1871年散髪脱刀令(丁髷・〈士族・家族の〉帯刀自由)(8/09) 1876年大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外 帯刀禁止(3/28) 経済的基盤の揺らぎ 1876年金禄公債証書発行条例(家禄の廃止、金禄公債を交付)(8…

  • 陸奥宗光 元老院幹事 国憲(憲法)草案に着手

    皆さんゆっくりお休みを満喫できましたか? それでは、前回からの続きです。 陸奥宗光は太政官正院に「人民告諭書」(大蔵省原案)を没にされ、更に「明治六年政変」を現場近くで見聞きし、大久保利通が主導する「藩閥政治」に宗光は政府方針に合点が行かず反発を強めます。そして翌年、1874年1月明治政府内の大久保体制にほとほと嫌気がさし、大蔵省官吏を辞任します。この年の 2月台湾出兵閣議決定(2/06)5月「台湾出兵」(5/16)します。 この台湾政策に反対し、木戸孝允は参議を辞職してしまいます。手仕舞い気味の明治政府は翌1875年2月大久保は木戸・板垣と大阪の料亭で逢い会議を持ちます。(2/11「大阪会議…

  • 明治六年政変 西郷・板垣ら参議辞職

    江戸幕府に大政奉還させ主に東北地域の佐幕藩を軍事制圧し「大願成就・目標達成」した薩長連合の志士達、漸く、明治維新を経て国内統治を取り仕切る時を迎えると互いの方法論の違いが表出し始めます。*漸進保守派の大久保利通(1830~79)薩摩 最終的に主導権を握る*急進開化派の木戸孝允(1833~77)長州 1876年参議辞任 内閣顧問に*軍事武闘派の西郷隆盛(1827~77)薩摩 「敬天愛人」親分肌で明治帝お気に入り☆紀州藩出身の陸奥宗光は アンチ大久保で木戸シンパ でした。この1871/11~1873-/09の間、明治政府の政策を推し進めたのは西郷隆盛と板垣退助(1837~1919)土佐・後藤象二…

  • 地租改正条例 年貢米→地価3%金納へ

    明治帝の上論に続いて、太政大臣 三条実美(1837~1891)の名で、地租改正条例(太政官布告第272号)(「地租改正法」P4)布告します。「今般地租改正ニ付旧来田畑貴納ノ法ハ悉皆相廃シ 更ニ地券調査相済次第土地ノ代価ニ随ヒ 百分ノ三ヲ以テ地租ト可相定旨被仰出候僚改正ノ旨 趣別紙条例ノ通可相心得 旦従前官庁并 郡村入費等地所二課シ取立候分ハ総テ地価二賦課致 尤其金高ハ本税金ノ三ケ一ヨリ超過スヘカラス候 此旨布告候事」下記は「GoogleAIモード」の現代誤訳になります。「このたび地租改正を行うにあたり、これまでの田畑に対する年貢(貢納)の法はすべて廃止する。 今後は地券の調査(土地の面積・地…

  • 「地租改正法」発布 上論

    1873年6月陸奥宗光は大蔵省少輔心得に就任(6/17)。(この年明治六年8/20で満29歳) 宗光らが提出した人民告諭書は先週紹介した理由により差し止めになりました。 「太政官正院」内史が作成した人民告諭書原案修正の、「太政官修正案の人民告諭書」P1 「允土地人民アル之ヲ保護スルノ政府ナキヲ得ス之ヲ保護スルノ政府アル均シク其租税ヲ出サシメ 以テ之別用度ヲ弁ス萬國普通ノ公法ニシテ人民一般ノ義務~ 後略」 あくまでも、租税は国民で負担し合う「割合金」ではなく、 納税は万国普通の公法として国民一般の「義務」と結論づけてしまうのです。 この発想・考え方は、今現在もこの時から連綿と続いているのですよっ…

  • 陸奥宗光ら起草「人民告諭書」差し止め

    先週の陸奥宗光らが起草した真っ当な「人民告諭書」(大蔵省原案)ですが、残念の事に世間には全く公表されず、日の目を見る事がなかったのです。要は潰されたって事。「人民告諭書」のP8で始まる右に四角い白地が確認出来ると思います。この白地の表に「差し止めの理由」が記載されているのです。(差し止め付箋)P7にあります。この付箋は「太政官正院」が作成したものになります。この5行目「方今諸県ニ於テ累々強訴専有之際文字上ニ於テ却テ物議ヲ引出サン」*方今→この頃 *累々→次々と *強訴専有→徒党を組んでの集団強訴が独占している今、各地の県で相次いで強訴が頻発・横行しているので、更に騒ぎを起こす結果になる。この強…

  • 陸奥宗光ら起草「人民告諭書」(大蔵省原案)

    1872年11月「徴兵告諭(11/28)」 又、この年1872/12/3~12/30迄日本には存在しない期間です。明治5年12/3⇒明治6年1/01 (太陽暦採用の為28日がカットされました。この時点ではユリウス暦1900年~グレゴリオ暦です。)1873年1月「徴兵令(1/10)」1873年2月陸奥宗光らが起草した「地租改正法」原案(「人民告諭書」含む)を太政官正院へ提出 と思われます。(確実な資料は不明です。)1873年5月岩倉使節団の大久保・木戸は急遽帰国(朝鮮出兵を巡る論争)「征韓論」対応で。(5/26)(尚、本隊の使節団は9/13帰国してます。)1873年7月地租改正法の太政官布告…

  • 宗光は明治政府大蔵省官吏 婚姻・再婚

    1868年4月宗光は外国事務局御用掛(外国事務を担当する外国事務局職員)に登用、及び、後に会計官権判事(財政・会計・貿易・殖産興業などを統括した組織)も兼任します。6月大阪府権判事に。(最初の奥様「蓮子」さんとできちゃった婚?否、相思相愛)(因みに博文も外国事務局御用掛になってます。後、外国事務局判事に就任、5月初代兵庫県知事)1869年1月摂津県知事(政府任命)、6月兵庫県知事(6/20~7/17)。英語猛勉強。*知事→知藩事1870年9月紀州藩欧州執事として渡欧、紀州藩お雇い外国人(プロイセン王国のカール・ケッペン招聘軍事顧問)の教示に依りプロイセン王国の軍事教官数名招聘契約を結びま…

  • 若かりし伊達→陸奥宗光の尊王時代

    先週の內閣総理大臣は各大臣の「首班」(同輩中の首席)から伊藤博文(総理)と陸奥宗光(外相)とは国務大臣として同じ立場だった事になります。但し、リアリスト博文は清王朝との全面衝突を避ける為に「外交」で打開する方法を模索しますが、皆さん歴史の事実をご存じの通り、博文のこの努力は露を消えました。一方、強硬派のラジカリスト宗光の目論みが歴史経過から日の目を見た事になります。宗光(1844~97)はとっても波瀾万丈・数奇な運命・異色の経歴の持ち主です。宗光は博文とは異なり、れっきとした紀州藩士の子供としてこの世に生を受けました。彼の父、伊達宗広(1802~77)は本居大平(1756~1833本居宣長の…

  • 内閣官制の公布1889/12/24

    黒田清隆内閣 1888/04/30~1889/10/251889/02/11 大日本帝国憲法の公布(施行1890/11/29~)国務各大臣は天皇を輔弼(ほしつ)し其の責に任ず(大日本帝国憲法 第55条第1項)*輔弼→天皇の政治を助ける事。国務大臣は天皇の大権行使に対して意見を述べ助言する役割。1889/02/12 黒田首相「政府は政党の外に立ち、超然として進むべき」と宣言 →(超然内閣) 三条実美内閣 1889/10/25~1889/12/24(内大臣と兼任) 第1次山縣内閣 1889/12/24~1891/05/061889/12/24 内閣制度運用の基準となる内閣官制公布これにより、先週紹…

  • 内閣制度の創設→内閣職権

    博文・宗光は共に「内閣」(行政を担当する合議体の執行機関)を構成していた方々です。今現在は「議院内閣制」で施行いますが、この時代は議員が「内閣」を構成していません。日本に於ける内閣の歴史は1873/05/02 太政官職制の改正に於いて国家行政の中枢となる参議の合議体を「内閣」と1885/12/22 太政官制を廃止し西欧諸国を模範とする内閣制度を創設太政官達第69号「今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廢シ 更ニ内閣總理大臣及宮内外務内務大藏陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク 内閣總理大臣及外務内務大藏陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス」 明治十八年十二月二十二日 奉 …

  • 博文・宗光の伴侶は素敵な梅子・亮子さん

    甲午農民戦争、及び、日清戦争の子細は皆様でご確認下さい。ここでは、当時の総理・伊藤博文(1841~1909)と外相・陸奥宗光(1844~1897)のお二人のスタンスを見てみます。伊藤博文は清王朝とのドンパチを避けたい、温和で慎重なリアリスト(現実主義者)でした。一方、陸奥宗光は李氏朝鮮を清王朝の朝貢国(従属国)から近代国民国家、独立国にしたく、清王朝との戦争をも厭わない考えの持ち主でした。冷徹で沈着なラジカリスト(急進主義者)だったのです。但し、お二人とも日本国家の「富国強兵・殖産興業」方針は全く同じでした。更に、お二人ともに奥様が素敵な花柳界ご出身の方々なのです。博文の最初の奥様は長州…

  • 1894年甲午農民戦争→日清戦争勃発

    第一回帝国議会開会から台湾総督府設立(1890/11~1895/05)の略年表 1890/11 11/25~第一回帝国議会開会 山県有朋総理52歳「主権線守護と利益線防護」演説12/61891/05 5/11大津事件 露ニコライ皇太子22歳(シベリア鉄道着工式列席)襲撃される 命別状無し1891/05 5/12明治帝38歳列車で京都へ皇太子見舞い 皇太子帰国際に神戸停泊露艦隊まで列車同伴1891/05 シベリア鉄道着工(約9300㎞既存モスクワ~チェリャビンスク新規⇔ウラジオストク)鉄道敷設労働者→囚人 チタ~ハバロフスク難工事で1916年全線開通 尚ウラジオストク~満州里の東清鉄…

  • 第一回帝国議会からの内閣構成

    第一回帝国議会(1890/11/25~1891/03/07)からの主な内閣構成は下記になります。第1次山縣内閣 1889/12/24~1891/05/06総理 山縣有朋 長州藩外務 青木周蔵 長州藩 大蔵 松方正義 薩摩藩陸軍 大山 巌 薩摩藩 海軍 西郷従道 薩摩藩 →(1890/05/17)樺山資紀 薩摩藩農商務 岩村通俊 土佐藩 →(1890/05/17)陸奥宗光 紀州藩 大臣兼衆議院議員 第二回帝国議会(1891/11/26~1891/12/25)第三回帝国議会(1892/05/06~1892/06/04)第1次松方内閣 1891/05/06~1892/08/08 山縣総理辞任時に伊藤…

  • 清朝北洋艦隊の大型戦艦長崎港に来る

    1885年4月18日に清朝、天津にて伊藤博文と李鴻章は(甲申政変処理)条約を結びました。そして、この際の三番目の条文が後の「日清戦争(1894~95)」の発端となってしまうのです。その内容は下記になります。「将来朝鮮に重大事件発生時、 両国或いはどちらかが派兵の際行文知照(相互通知)し、事件収束後は直ちに撤退、駐留しない。」この後、李鴻章は仮想敵国日本を念頭に海軍の事力増強、「北洋艦隊」の充実に邁進します。(清朝が日本を仮想敵国の一つにしたのは「台湾出兵」から。)日本へのブラフ(威圧)を主目的とし「北洋艦隊」の戦艦・防護巡洋艦「定遠」(独国製 排水量7,340t)1885/10~就役「鎮遠」(…

  • 1885年天津条約 李鴻章・伊藤博文 締結

    本日より昨年からの続き、諭吉がボロカスにした「百の李鴻章」になります。彼の日本との接点は「沖縄県」問題について前米大統領への仲介依頼まで触れました。この次に李鴻章は「甲申政変」の事後処理で締結した「天津条約(1885年)」の清朝側全権です。この際の日本全権は伊藤博文。互いの立場は李鴻章→北洋通商大臣直隸総督・伊藤→参議兼宮内卿。諭吉は「甲申政変」の首謀者、金玉均・朴泳孝らを支援していました。彼らは「慶應義塾」、「興亜会」に身を置いています。*興亜会→1880年発足 欧米列強の亜細亜(アジア)進出・植民地化に対抗しようとする組織。 創立者の一人は曽根俊虎(米沢上杉藩士1847~1910大日本帝…

  • 中国政府のめくるめく日本への威圧攻勢

    皆様におかれましては良いお年をお迎えの事と思います。本年も宜しくお願い奉り。 ところで、前回、お隣、中国共産党政権による「お口・経済・軍事」威圧攻勢一つの「沖縄」ついてお話ししました。(2025/12/13出稿)これ以後、本日まで新たに米に対して有効武器となり得た「希土類金属(レアアース)」の輸出規制を日本に対して繰り出しました。(2026/01/06)(正確には軍民両用〈デュアルユース〉品目の輸出管理強化。但し中国政府はレアアースについて曖昧戦術。)日本のメディアはいつものようにご自分達で調べもせず「こりゃ大変だ」と大騒ぎ。日本の世論を牛耳っていたとお考えだった旧メディアこそが中国政府…

  • 蒸し返す「沖縄」これ威圧のお一つかしら?

    週、ちょいと中華人民共和国政府のお口威圧・軍事武力威圧・経済的威圧に触れました。日本の駐中国大使を執務時間外の夜の呼出案件(11/13)から、かれこれ一ヶ月程経過してますのでお口威圧はやや静かになっている感じがしないでもないですが、軍事威圧はレーダー照射の段階へ。この呼出案件ですが、当日、中国外交部副部長は日本大使に「迎頭痛撃(真正面から痛烈な攻撃を加える)」と抗議されたとか。翌日の新華社報道では「奉示召見」(上級者の指示に従い、呼び出し処理する)との表現があったと。この上級者は外交部部長ではなく中華人民共和国「国家主席」と云われています。ところで、清王朝の李鴻章が前米グラント大統領仲介依…

  • 李鴻章は米前大統領に沖縄県仲裁依頼

    「日清修好条規」締結(1871年)以降も李鴻章は日本と数々の交わりを持ちました。「琉球宮古島人台湾遭難事件1871/10」→「台湾出兵1874/05~」→「北京専条1874/10」「北京専条」締結の日本側全権弁理大臣・大久保利通(1830~1878)と会談。「江華島事件1875/09」(李氏朝鮮の江華島砲台から日本軍艦を攻撃)等について清国公使・森有礼(1847~1889)と1876/01会談・協議。但し、江華島事件等に伴う「日朝修好条規1876/02」締結には関与していません。「北京専条」により琉球人は日本人と清朝政府に公文書で認識・承認されました。明治政府はこの期を逃さず「琉球藩1872/…

  • 清王朝「百の李鴻章」でも・・・

    諭吉は「支那文明(=中華文明)を継承する清王朝政府」について語ってます。「之を大きく論ずれば彼の支那の事だ 支那(しな)の今日の有様を見るに何としても滿清政府を あの儘(まゝ)に存(そん)じて置(おひ)て支那人を文明開化に導くなんと云ふことは コリや眞實無益な話だ 何は扨(さて)置き老大政府を根絶やしにして仕舞(しまつ)て ソレから組立てたらば人心こゝに一變(いっぺん)することもあろう 政府に如何(いか)なるエライ人物が出やうとも百の李鴻章が出て來たつて何にも出來はしない 其人心を新にして國を文明にしやうとならば何は兎(と)もあれ試みに 中央政府を潰すより外に妙策はなかろう 之を潰して果(はた…

  • 「時事新報」の編集方針とは

    おこがましいですが、先週「『時事新報』の発刊に至る経緯等」を抜粋して読みやすくしてみます。「既に前年(1881)の政変も何れが是か非かソレは差し置き双方主義の相違で喧嘩をしたことである。 政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。 今後はいよゝゝますゝゝ甚だしい事になるであらう。この時に当たって必要なるはいわゆる 不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら 心に偏する所があって一身の利害に引かれてはとても公平の説を立てる事ができない。 ソコで今、全国中に些かながら、独立の生計を成して多少の文思もありながら その身は政治上にも商売上にも野心なくして、…

  • 諭吉の「時事新報」の発刊に至る経緯など

    諭吉が「時事新報」について語っている箇所です。「ソレから明治十五年(1882)に時事新報と云ふ新聞紙を發起しました 丁度十四年政府變動の後で慶應義塾先進の人達が私方に來て頻(しき)りに此事を勸(すす)める 私も亦(また)自分で考へて見るに世の中の形勢は次第に變化(へんか)して政治の事も商賣の事も 日々夜々運動の最中、相互(あひたがひ)に敵味方が出來て議論は次第に喧(かまびす)しくなるに 違ひない 既に前年の政變も孰(いづ)れが是か非かソレは差置(さしお)き双方主義の相違(さうゐ) で喧嘩をしたことである 政治上に喧嘩が起れば経済商賣上にも同様の事が起らねばならぬ 今後はいよ\/ます\/甚(はな…

  • 諭吉の国会論ベースは「日本国を軍事・経済大国に」

    郵便報知新聞に関しては以前触れましたように大隈重信率いる「立憲改進党 」シンパシー大新聞です。この新聞に諭吉の「国会論」を基本的にそのまま報知新聞の「社説」として1879//7/29~8/14まで掲載しました。主筆の藤田茂吉(1852~1892豊後佐伯毛利藩)は慶応義塾で学んだ諭吉のお弟子さん。箕浦勝人(1854~1929豊後臼杵稲葉藩)も慶応義塾で学んだ諭吉のお弟子さん。お二人共、後に「立憲改進党」に参加しています。こちらは社説は「国会論 前編」として編纂され出版されています。(1879/8/29)(慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 国会論 前編 「国会論画像」クリ…

  • 諭吉は国会論を「郵便報知新聞」社説に掲載

    諭吉謀主陰謀論の根拠の一つになった諭吉の「国会論」についての語りになります。「モ一つ本當(ほんたう)の事を云ふと私の言論を以て政治社會に多少の影響を及ぼしたことも ありませう 例えば是れまで頓(とん)と人の知らぬ事で面白い話がある 明治十年(1877)西南の戦爭も片付(かたづい)て後、世の中は静になって人間が却(かえつ)て 無事に苦しむと云いふとき私が不圖(ふと)思付て是れは國会論を論じたら天下に応ずる者もあろう 随分(ずいぶん)面白かろうと思てソレから其論説を起草してマダ其時には時事新報と云ふものは なかったから報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人に其草稿を見せてこの論説は新聞の社説として 出さ…

  • 諭吉が揶揄した勲功華族の方々

    諭吉はこうも語ってます。「役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって是れ見よがしに殻威張を遣て居る」華族の誕生は1869年(M2)6/17「行政官 達(公布)」、「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事 但官位ハ可為是迄ノ通事」(帝の思し召しにより、今より「公卿」「諸侯」の称を廃止、「華族」と称せよ 但し、「官位」はこれまで通りで良い)この同日「版籍奉還」も発布されてます。要は「諸侯(大名)」の知行地をお国に返還でセットに。(華族と版籍奉還の法令原文は 国立国会図書館デジタルコレクション 法令全書 明治2年 六月十七日でご確認下さい。)この措置によ…

  • 明治十四年の政変 諭吉謀主陰謀論?

    先週の「明治十四年の大騒動」に登場する政界のお偉方。先ずは政変関連3人衆の皆さん。大隈重信(1838~1922)肥前鍋島藩伊藤博文(1841~1909)長州毛利藩井上 馨(1835~1915)長州毛利藩お次は極(ごく⇒とても)、懇意なお方と諭吉。寺島宗則(1832~1893)薩摩島津藩(1862年文久遣欧使節で通訳兼医師として渡欧、諭吉は通訳)福澤諭吉(1834~1901)豊前中津奥平藩 ほぼ、同世代生まれの方々です。もうお一人、唯一フルネームで登場しているお方が三菱の岩崎彌太郎。岩崎弥太郎(1834~1885)土佐山内藩(財・成金恩人は後藤象二郎〈1838~1897土佐藩〉)「明治十四年の政…

  • 福翁自傳 明治十四年の大騒動の件

    「明治十四年(1881)の政変」に対して諭吉の関わりを語っています。ちょいと長くなりますが、おもしろ・楽しいです。「此事に就て一寸(ちよい)と語りますが明治十四年(1881年)の頃日本の政治社會に 大騒動が起(おこつ)て私の身にも大笑ひな珍事が出來ました 明治十三年の冬、時の執政大隈・伊藤・井上の三人から私方に何か申して参(まゐつ)て 或る處に面會(めんくわい)して見ると何か公報のやうな官報のやうな新聞紙を起すから 私に擔任(たんにん)して呉(く)れろと云ふ 一向趣意が分らぬから 先(ま)ず御免(ごめん)と申して去るとその後度々(たびゝ)人の往復を重ねて話が濃くなり とう\/仕舞(しまひ)に政…

  • 謹厳実直?吉原を知らない福澤諭吉

    今年の大河「蔦重栄華乃夢噺」でメディア界隈にてメジャーになった「吉原」について諭吉が「福翁自傳」で触れ、語ってますので紹介しちゃいます。「私は安政三(五)年、江戸に出て來て只酒が好きだから所謂(いはゆる)口腹(こうふく) の奴隷で家にない時は飲みに行かなければならぬ朋友相会(あひくわい)すれば飲みに行くと 云ふやうな事はソリヤ為(し)て居るけれども、遂(つひ)ぞ花見遊山はしない 文久三年(1863年)六月(6/10)、緒方先生不幸のとき下谷の自宅出棺、駒込の寺に 葬式執行(しつかう)の其時、上野山内を通行して始めて上野と云ふ処を見た 即(すなは)ち私が江戸に來てから六年目である 成程(なる…

  • 東京湾品川沖英艦隊砲撃 江戸市中免れる

    お江戸八百八町が外国軍艦に砲撃されるやも、と云う噂が走る中、この時点の諭吉の住まいは「芝新銭座」(現在の東京都港区浜松町付近)でしたので、東京湾品川沖より大砲を撃ち込まれたら被害甚大は必定。諭吉は箪笥等の荷物整理をして青山に住まう知り合いに預かって貰う算段を整えます。江戸市中には幕府から「愈(いよい)よ兵端を開く時には濱御殿、今の延遼館で火矢を擧(あ)げるからソレを相図(あひづ)に用意致せ」との布令が出ていた事です。*濱御殿(浜御殿)→現在の浜離宮恩賜庭園 *延遼館→浜御殿内の海軍伝習所の生徒控え室(慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション 福翁自傳 P132 2行目~ 「福翁…

  • 攘夷で諭吉にも危害 英政府生麦の賠償金要求

    「文久遣欧使節」皆さんは、無事に1862/12/11に品川に到着します。約一年ぶりに帰国を果たした諭吉らは 国内の上を下への大騒動を目の当たりにします。帰国翌日12/12、江戸品川御殿山に建造中の「英公使館焼き討ち事件」が発生します。実行部隊は尊皇攘夷思想の持ち主、血気盛んでお気持ち若き長州藩士らの皆さん。高杉晋作(1839~1867)久坂玄瑞(1840~1864)←1868明治維新前に死去井上馨(1835~1915)伊藤博文(1841~1909)品川弥二郎(1843~1900)←明治時代大活躍目の前には「攘夷」の嵐が吹き荒れていました。諭吉は「福翁自傳」で日本帰国後の状況を事小まめに記述して…

  • 諭吉ら最後の仏蘭西で生麦事件余波

    諭吉等がロシフヲルト海軍港で蒸汽車を下りて船に向かう際の光景。生麦の報道到来して使節が苦しんだ状況(閏8/13)「夫(そ)れから露西亜を去て仏蘭西に帰り、いよ\/出発と云う其時は生麦の大騒動 即生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の侍が斬たと云うことが丁度彼方(あっち)に 報告になった時でサア仏蘭西のナポレオン政府が吾々日本人に對して氣不味(きまづ)くなって來た 人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡不愛相になった事は甚だしい主人の方で其通りだから 客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何(どう)にも云いい様(やう)がない 日本の使節が港から船に乗らうと云う其道は十町餘りもあつたかと思ふ道…

  • 諭吉のピラミデ→比羅三井天 漢語は金字塔

    先週、諭吉が表現した「比羅三井天(ひらみゐで)=pyramid」ですが、諭吉は「世界國盡(世界国尽)}刊行以前、文久遣欧から帰国後、この旅を「西航記」として刊本。(龍谷大学図書館 貴重資料画像データーベース 西航記 P13 2行目)「エジフトのピラミデハ世界の壮観なり石材を以て築造し形四角尖柱」と「ピラミデ」を片仮名(カタカナ)で表記しています。(西航記は「西洋事情」1866刊の以前の1863~66刊)(ピラミデは昔長崎・大坂「適塾」で習得した蘭語「Piramide」の読み音と思われます。)尚、「文久遣欧使節1861/12/22~1862/12/11」の詳細等この「西航記」に記されてます。…

  • 「比羅三井天・なぽれをん」とは

    亜米利加(あめりか)から帰国した諭吉は翌年、欧羅巴(えうろっぱ)を訪れる機会を得るのです。1861年、蘭・露・英・仏(1858)葡・普(1860)と締結した修好通商条約の「開港・開市延期交渉」と「樺太国境画定交渉」(露)の為、江戸幕府は「文久遣欧使節」を各国に派遣します。諭吉はその遣欧使節の「翻訳方御雇」の役目を仰せつかり渡欧しました。12/22品川から出発。(幕府から支度金400両を賜ったと。〈←福翁自伝〉前回の渡米費用は諭吉の自腹でした。)遣欧使節の船旅経路は(船は英軍艦Odin〈「福翁自伝」でオーヂン〉号)*福翁自伝→諭吉の自伝1898/7/1~1899/2/16「時事新報」掲載と単行…

  • 福澤諭吉 経書・史記・蘭語・英語 猛勉強

    未だまだ暑い日々は続きそうな雰囲気漂う今日この頃・・・・・。それでは前回からの続きです。夏休み前、苦言を呈した福澤諭吉(1834~1901)について。福澤諭吉は豊前中津藩大坂蔵屋敷で末っ子次男としてこの世に生を受けました。父は福澤百助、長兄は福澤三之助(1826~1856)(三田評論)。1836年父が他界、大坂から中津へ。兄は父の影響から儒学(漢学)を学び1838年から御用所取次として藩にお勤め、諭吉も同様、儒学者白石照山(1815~)の晩香堂に(1848頃~1853年)通い経書・史記等々猛勉強。お次の諭吉のお勉強は兄の薦めで長崎遊学、蘭学に一年程、勤しむ事に。その後、諭吉は中津に帰らず江戸へ…

  • 福澤諭吉「儒教文化」を全否定

    「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず」(時事新報社説1885/3/16)先週、この「開明」表現を「上から目線」では?と疑問を呈しました。創作和製翻訳漢語を数多作成した福澤諭吉、この「開明」は和製漢語ではなく歴とした漢語です。日本国語大辞典 精選版(小学館)の「開明」を紐解くと1 知識が開けて、文物が進歩すること。文明開化。 また、知識が開け、物事がよくわかること。聰明なこと。 [初出の実例]「予也固有下与二漢宋旧説一異者上。然皆積疑之至。融釈開明。自然得レ之」 (出典:童子問 (1707)(伊藤仁斎)中) 「欧米の開明文化は我文明にまされることいふまでもなき事なるから」 (…

  • 甲申政変後の大新聞・時事新報報道

    甲申政変は一応、一件落着となったのですが、日本国内ではメディアの偏向情報からこの事件では日本国民が清朝軍に虐殺された事が誇張されました。とは云うものの、「メディアの偏向報道」が日常的なのは皆さんご存じの通りでありんす。もう一つ云えるのは、1885年時点での媒体はWEB・TV等々ある訳がないのです。(但し、昨今のWEB・TV・SNS等々も事実確認なし報道が蔓延している実体もお忘れ無く!)逆に、庶民の方々でこの事件を見知り得たのは極々僅かと推察されます。又々、この事件に関する「読売(瓦版)」は売り出されたのでしょうか?はたまた、「号外」は配られ・東京駅前等で蒔かれたのでしょうか? とても疑問です。…

  • 甲申政変処理 漢城条約・天津条約

    甲申政変(1884/12/4)の事後処理の為、日本政府は朝鮮とは「漢城条約」清朝とは「天津条約」を結びます。 漢城条約(1885/1/09調印)こちらの対応はとても早かった感があります。何せお正月を挟んでいるのですもの。事案処理日本全権は鹿鳴館外交でお忙し井上馨外務卿、12月末にに漢城へ着。朝鮮政府担当者も実査の交渉やり取りは不明なものの、翌年1/09に条約署名ですからいち早い決着を付ける事が先決だったやも。漢城条約原文は(データーベース「世界と日本」〈代表:田中明彦〉日本政治・国際関係データーベース 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所 漢城条約)にてご確認下さいませ。1 朝鮮…

  • 甲申政変クーデターの事実顛末は?

    清朝軍は光緒帝の命で朝鮮漢城に駐留し続けます。一方、朝鮮政府は済物浦条約の約定に依り、1882年9月に日本へ謝罪使を派遣します。謝罪使は朴泳孝全権大使(1861~1939)、金玉均書記官(1851~94)ら。9/20御召船「明治丸」にて仁川発9/25神戸に着いています。(因みに「明治丸」には琉球王尚泰が那覇から東京へ乗船〈1879〉花房全権も利用〈1882〉)謝罪使一行は12月迄滞在します。特に、金玉均は1879年、1882年2~7月、上記の1882年9~12月、1883~1884年5月と度々来日。彼は「Independence→独立」と翻訳した福澤諭吉を師と仰ぎ、福沢から支援を受けました。。…

  • 壬午軍乱勃発で属邦・自主邦が明文に

    米朝修好通商条約締結2ヶ月後、清朝にとって朝鮮との関係が都合良く・良化する事件が発生します。1882/7/23 朝鮮壬午軍乱の勃発 反乱軍が王宮・日本公使館(1976設置)襲撃 日軍事顧問ら14名殺害される事件 07/29公使館から命からがら逃避した花房公使長崎帰還 即、外務卿井上馨に報告 日本政府は事後処理のため花房を全権に任命 居留民保護目的で軍艦派遣決定 08/03朝鮮派遣軍艦「天城」先遣隊として日本出航? 08/07清朝光緒帝「軍の派兵」命令 08/10清北洋艦隊が朝鮮済物浦に入港 清外交担当仁川着 増派要請後清朝軍漢城に向けて進軍 08/13朝鮮公使花房は日本海陸軍の護衛を仰ぎ全権と…

  • 米朝修好通商条約締結の内幕

    日本→日本国沖縄県、清王朝→琉球王国で溝が埋まらない状況が続きます。この時点で存続する清王朝の(従)属国は李氏朝鮮と越南国(ベトナム)です。(タイ王国・ビルマ〈現ミャンマー〉は朝貢はするも、清王朝には全く支配されていません。)清政府(李鴻章)はこの事態解消の為、朝鮮と米と通商条約を結ばせる事を企図。李鴻章の目的はその条文に「属国」の文言を入れ込み、清朝との宗属関係(宗主国・属国)を明確にする事でした。更に朝鮮を米と条約締結させる事で、北の露・東の日本を牽制することも目論みます。駐日清国公使(1877~79)として琉球問題で日本政府に抗議した何如璋は駐朝鮮清国公使?として李鴻章の意を汲み朝鮮…

  • 米前グラント大統領夫妻が国賓来日1879/07

    先週紹介の歴史経緯で細字を一つだけ。☆日本内乱戦争に勝利し明治維新を成し遂げた維新三傑西郷隆盛(1827~1877)明治10年満49歳自刃木戸孝允(1833~1877)明治10年満43歳病死大久保利通(1830~1878)明治11年満47歳暗殺★日本内乱戦争の敗者側も徳川家を守り抜いた幕臣三舟高橋泥舟(1835~1903)明治36年満67歳死去 慶喜の護衛警護山岡鉄舟(1836~1888)明治21年満53歳病死 泥舟義弟 西郷会談敵中突破 明治帝侍従勝海舟(1823~1899)明治32年満75歳死去 咸臨丸で太平洋横断 江戸無血開城維新三傑の方々は「人生五十年」でしたが、清王朝に戦いを挑み、思…

  • 日朝修好条規~下関条約まで色んな事

    「日朝修好条規」1876年から「日清講和条約(下関条約)」1895年の間には日本・朝鮮・清朝・世界で云わずと知れた、色んな事が起きていました。 1876/02 日朝修好条規締結 全権大使黒田清隆 副井上馨1876/03 3月廃刀令5月上野公園開園8月秩禄処分 札幌農学校設立 高橋お伝事件1876/10 神風連の乱 秋月の乱 萩の乱1877/01 英国統治の印帝国成立1877/01 政府鹿児島県内保管兵器など大坂へ移動1877/02西郷暗殺計画発覚 清駐英公使館設立1877/02 2/15西郷と13000人士族ら挙兵、明治政府尋問の為鹿児島を出発1877/02 2/19政府は征討令を発出 賊軍西…

  • 朝鮮国は「属国」或いは「独立国」?

    日本政府は「日朝修好条規」作成の際、福沢諭吉の翻訳漢語を当然使用せず、万国公法のIndependenceの漢訳、「自主」を採用、(李氏)朝鮮国を「独立国」として規定していたのです。この日本国と朝鮮国の条約締結に対し、清朝政府官僚の「李鴻章」(1823~1901)が締結推進で支援していました。(当初、朝鮮国は締結に前向きでありませんでした。)(李鴻章は日清修好条規(1871年)の草案作成を担当しています、更に、彼は後の 天津条約(1885)日清戦争(1894~95)の講和交渉を全権委任された担当者です。)依って、李鴻章は朝鮮国を清王朝への朝貢国であり「属国」と認識していますので、この「自主」は日…

  • 福沢諭吉はIndependence=独立と

    しかし、既に、福沢諭吉は「西洋事情 初編 巻之二」(1866年刊)にて「米独立宣言」「Declaration of Independence of the 13 States of the United States on July 4, 1776」を 千七百七十六年第七月四日亞米利加十三州獨立(独立)ノ檄文 人生已ムヲ得サルノ時運ニテ一族ノ人民他國ノ政治ヲ離レ物理天道ノ自然ニ從テ 世界中ノ萬國ト同列シ別ニ一國ヲ建ルノ時ニ至テハ其建國スル所以ノ原因ヲ述ヘ 人心ヲ察シテ之ニ布告セサルヲ得ス」と記しています。(国立国会図書館デジタルコレクション 西洋事情 P5 7行目)「Independenc…

  • Independent Country=自主国(独立国)

    先週の日朝修好条規(1876/2/26署名・発効)の「第一款 朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」ついて「朝鮮国は自主の邦」の自主は米法学者・外交官ヘンリー・ウィートン(1785~1848)が著した「Elements of International Law」を清朝政府が漢訳した「万国公法」(1865年)にあります。「万国公法」は米国が清朝に派遣(1850年)した漢語に堪能な米宣教師、ウィルアム・A・P・マーティン(1827~1916)が漢訳し1864or65年に出版されました。但し、清朝官僚達も訳に協力し、費用は清朝が負担しています。ウィルアム・A・P・マーティン、及び、清朝官…

  • 日朝修好条規 第一款 朝鮮国は自主の邦

    日朝修好条規は1876/年(M9)2/26署名・発行です。下記は条規抜粋になります。 第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ嗣後兩國和親ノ實ヲ表セン ト欲スルニハ彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラ ス先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ爲セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴 シ以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ第三款 嗣後兩國相往復スル公用文ハ日本ハ其國文ヲ用ヒ今ヨリ十年間ハ添フルニ 譯漢文ヲ以テシ朝鮮ハ眞文ヲ用ユヘシ 上記の旧字を新字体、カタカナをひらがなにします。第一款 朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり嗣後両国和親の実を表せん と欲する…

  • 清朝の日本への台湾割与は江華島事件より

    皆さんお休みは如何でしたか? 今週からは梁啓超さんおっしゃる「(日本に)台湾を割譲するという行為に及んだのである」件についてのお話しです。但し、この日本語訳は今日日、時めく生成AI・Geminiです。梁啓超さんの原文は「自明治維新 改弦更張不三十年而 奪我琉球 割我台湾也」。読み下しは「(日本は)明治維新より30年で我々の琉球を奪い我々の台湾を切り分けた」。素敵なGeminiの深層学習は「日本を悪者扱い」している資料読み込み過多と思われます。何もGeminiが誤訳しているわけではありませんことよ。清朝が台湾を日本国に「割与」したのは「日清講和条約」に依ります。(調印1895(M28)年4/17…

  • 琉球国処分され沖縄県に1879年

    一方、清朝側は琉球国からのアクセスが途絶えた為、事情確認書状を琉球国に届けます。琉球国はこの書状処理を日本政府に問い合わすも連絡不許可との返答。困り果てた琉球国は日本側に内緒で清朝に密使を送ります。(1876年12月)清朝は密使から情報を得て、早速、北京在住の日本公使に抗議。更に、1873/04/30~発効の「日清修好条規」に伴う、1877年赴任の初代駐日清国公使・何如璋(1838~1891)、随員・黄遵憲(1848~1905)らが日本政府に猛烈に異議申し立て、交渉を行います。尚、黄遵憲(変法派)は1887年「日本国志」を著し、清王朝に明治日本を紹介しています。又、梁啓超とも接点があります。梁…

  • 日本政府 琉球国へ清王朝の朝貢禁止命令

    1874年10/31「北京専条」協定調印帰国後、 大久保利通は琉球国を明確に日本の国民国家に組み込む為、動きます。 早速、琉球国の行政高官を東京にお越し願い、否、呼び出す事に。 一方、清王朝では1874年12/05に同治帝が崩御され、 翌年の1875年1/20光緒帝が即位されます。 従って、琉球国としては清朝に「慶賀使」を送る段取り取らねばなりません。 既に、1874年出発した「進貢使」は1875年3月には北京に到着していました。 *進貢使→定期的に朝貢を行う使節 琉球国はこの使節に「慶賀使」の手筈を整えて貰う算段でした。 ところが、この情報を駐北京公使→日本政府が入手、琉球国「慶賀使」派遣阻…

  • 「台湾出兵」戦後処理は大久保利通

    江戸幕府が大政奉還し明治元年9/08(1868)明治新政府が発足時、琉球国は尚泰(ショウタイ)王(1843~1901在1848~1879)の御代でした。清朝は同治帝(ドウチテイ)(1856~1874在1861~1874)の時代、母はかの西太后 江戸時代後期、将軍交代に伴う琉球国からの「慶賀使節」派遣は12代将軍徳川家慶(1793~1853在1837~53)、1842年に行われました。尚泰王即位の際は1850年に「襲封(シュウポウ)」(領地継承)の儀式として「謝恩使節」が江戸に入ってます。13代将軍家定(1824~58在1854~58)14代将軍家茂(1846~66在1858~66)禁裏御守…

  • 北京専条により琉球は日本・台湾は清朝に

    先週の「北京専条」をご確認下さい。この前文、「台湾の生蕃が日本国民に無謀な害を加えたため、 日本国は、この生蕃を問い詰めるべく、兵を派遣しました。」から清朝側は無謀にも害を加えられた琉球藩種子島の島民を明らかに「日本国属民(日本国民)」と認識・規定しました。条文には明確に琉球藩は日本国に属すと記述されていませんが上記から自明になります。「台湾」については「三 前略 台湾の生蕃については、中国が適切な手段で抑制」とあり、清王朝が支配の及ぼしますと約束し「化外」でなくなり、清朝に属する「邦土」に。日本側は台湾を「主権者のいない無主の地」から清王朝の「領土」と認定しました。これにて一件落着、めでたし…

  • 北京専条1874/10/31協定の調印

    1874年10月31日、大清国と大日本帝国が調印した体裁になってます。 以下、「北京専条」協定になります。(維基文庫 中日北京專條から) 「為會議條款互立辦法文據事:照得各國人民有應保證不致受害之處,應由各國自行設法保 全,如在何國有事,應由何國自行查辦。茲以臺灣生蕃曾將日本國屬民等妄為加害, 日本國本意為該番是問,遂遣兵往彼,向該生蕃等詰責。今與中國議明退兵並善後辦法, 開列三條於後: 一、日本國此次所辦,原為保民義舉起見,中國不指以為不是。 二、前次所有遇害難民之家,中國定給撫恤銀兩,日本所有在該處修道、建房等件,中國願 留自用,先行議定籌補銀兩,別有議辦之據。 三、所有此事兩國一切來往公…

  • 明治政府は台湾出兵を決断

    未だ、政権基盤の弱い明治政府は内憂外患でこの事件の処理に時間を割けない状況。1871廃藩置県(M4/7/14) 日清修好条規(M4/7/29) 岩倉使節団出発(M4/11/12)1872学制公布(M5/8/02) 新橋・横浜間鉄道開通(M5/9/12) 富岡製糸場設置(M5/10/04)1873太陽暦採用(1/01) 徴兵令(1/22)地租改正条例(7/28)岩倉使節帰国(9/13) 明治六年政変(李氏朝鮮問題で政府二分10/24西郷隆盛辞職 以降辞職者多数)1874民撰議院設立建白書(1/17) 佐賀の乱(2/01~)台湾出兵閣議決定(2/06)明治政府は一向に埒が明かない外交交渉に見切りを…

  • 日清修好条規の「邦土」解釈違い

    先週の日清修好条規の第一条 此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るべし。 又両国に属したる「邦土」も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく 永久安全を得せしむべし。 漢文でも即両国所属「邦土」と表記してます。 この「属したる『邦土』」は両国で意味(語彙概念)が異なっているのです。 清王朝の「属したる『邦土』」は「属国」で「朝貢国」。 日本側ではこの『邦土』は「国土(領土)」と解釈、 当時の近代国際法(万国公法)での主権、及び、実効支配されている「領地」です。 明治維新後、月日が浅い日本は浅はかにも清王朝を「国民国家」と誤認識してます? …

  • 梁啓超「変法通議 論不変法之害 日本」1896年

    「変法通議の論不変法之害」で日本に触れた箇所があります。 「論不変法之害 略 今夫日本 幕府專政 諸藩力征 受 俄(=露)德(=独)美(=米)大創 国几不国 自明治維新 改弦更張不三十年而 奪我琉球 割我台湾也」 (維基文庫 変法通議 論不変法之害 梁啓超 1896/08/19) 素敵で優れもの、Gemini日本語訳は 「今、日本の幕府の専制政治のもと、諸藩がそれぞれに力を誇示し、ロシア、ドイツ、 アメリカから大きな打撃を受け、国がほとんど国でなくなった状態であった。 明治維新以降、わずか30年で、日本は私たちの琉球を奪い、台湾を割譲したのである。」 現代語訳は 「今、日本の幕府が独裁政治を行…

  • 梁啓超「変法通議 自序」1896年

    梁啓超の日本亡命以前の文章は流麗なそれこそ「漢文」です。 彼は1896年上海で刊行した「時務報」の一冊目に「変法通議自序」を著述。 日清戦争(1894年)→日清講和条約(下関条約1895年)を経て、師の康有為らと 清王朝変革(変法運動)《君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等》を 標榜する政治結社勉強会書紀時代、血気盛んな頃合い(24歳)の文章です。 「自序 法何以必変 凡在天地之間者莫不変 昼夜変而成日 寒暑変而成歳 大地肇󠄀起 流質炎炎 熱熔氷遷 累変而成地球 海草螺蛤 大木大鳥 飛魚飛鼉 袋鼠脊獣 彼生此滅 更代迭変 而成世界 紫血紅血 流注体内 呼炭吸養 刻刻相続 一日千変 …

  • 梁啓超 雑誌「新民叢報」発刊 新民体

    「中国史叙論」を執筆・刊行した梁啓超は翌年(1902年)1月に月2回発行の雑誌、 「新民叢報(シンミンソウホウ)」を発刊します。 新民説・新史学をこの雑誌で展開、1907年7月迄発行し続けます。(途中休刊有り) 「新民」は「民(たみ)を新たにする」で梁啓超の新造語ではなく 昔、科挙の郷試受験の際、覚え暗記した儒教経書「大学」が典故(古典引用)。 「大学之道 在明明徳 在新民 在止於至善」 人が学ぶべき道は 1 明徳(聰明な徳)を明らかにする2 民を新たにする3至善(最高の善)にとどまる ことである。 新民とは「民衆を教え導き徳を育み新しい人間へと変えていくこと」とか。 因みに賢いGeminiは…

  • 中国史叙論 梁啓超

    梁啓超は来日後の猛勉学・知識吸収の結果、1901年「中国史叙論」にて ご自分のお国の「国号」、及び、「歴史」作成提言します。 「吾人が最も慙愧(ザンキ)に耐えないのは、我が国に国名がないということである。 一般の呼称では、諸夏、漢人、唐人などというが、いずれも王朝の名である。 外国人の呼称では震旦・支那などというが、いずれも我々が自ら命名したものではない。 夏・漢・唐などを以て我が歴史を名付けるのは、国民を尊重するという方針に反する。 震旦・支那などを以て我が歴史を名付けるのは、名は主人に従うという公理に反する。 中国・中華という名は、自惚れの気味があり批判を受けるかもしれない。 しかし、一…

  • 2025春夏パリ・オートクチュールコレクション

    2025春夏パリ・オートクチュールコレクション by VOGUE JAPAN アレクサンドル・ポーティエ ALEXANDRE VAUTHIER アレクシ・マビーユ ALEXIS MABILLE アレッサンドロ・ミケーレ Valentino アントニオ・グリマルディ ANTONIO GRIMALDI ヴィクター・ホスティン ロルフ・スノラン Viktor & Rolf エリー・サーブ ELIE SAAB ガウラヴ・グプタ Gaurav Gupta ジャンバティスタ・ヴァリ GiAMBATTiSTA VALLi ジュリー・ドゥ・リブラン Julie de Libran ジョルジオ・アルマーニ AR…

  • 秦→シン→チーナ→ティーナ→支那→China⇔Japan

    因みに、支那(シナ)について、 海外では「エリュトゥラー海案内記」に 「Thinae(ギリシャ語)発音はティーナ?」で絹の産地として紹介されているとの事です。 (尚、Wikipediaに依るとこの案内記は1世紀半ば過ぎに成立したと推定され、 古代のインド洋近辺における海洋貿易についてギリシア語で記された航海案内書とか。) 次に、イタリア人宣教師マルティノ・マルティニ(1614~61)の「中国新地図帳」からの情報で 世界地図を作成したヨアン・ブロウ(1598~1673)「大地図帳」では「Chine(蘭語)」表記。 (東インド、ならびに隣接諸島地図 日文研 日本関係欧文資料の世界) 19世紀清…

  • 梁啓超 来日後、自国を「支那」と

    皆様におかれましては良いお年をお迎えの事と思います。本年も宜しく・・・・・。 本日より前回、昨年からの続きになります。 梁啓超は日本語、翻訳・和製漢語習得、和洋書物読破。その結果、聡明な彼は、 はたと、ご自分の生まれ故郷の国号(名)、及び、その歴史書がない事に気付くのです。 来日直後、彼の周りの日本人は「清王朝」を「支那」と記述・呼称していました。 この「支那」と命名されていたのは 新井白石が「西洋紀聞」に「支那」と表記、門外不出(禁教の為)の書が世に出た為。 *西洋紀聞 江戸中期の外国地誌。三巻。新井白石著。正徳五年(1715)の識語があるが、完成は白石 の最晩年とされる。伝道のため屋久島に…

  • 梁啓超 来日後、日本語と翻訳・和製漢語を猛勉強

    梁啓超生誕1873年~中華民国成立 清王朝滅亡1912年迄、先週整理しました。 今週は彼が日本に亡命した1898年以降のお話しです。 梁啓超は来日し、日本語を猛勉強する日々。 科挙に合格してますので、抜群の暗記力にて知識獲得等々はお手のもの。 会得後は吉田松陰・福澤諭吉・加藤弘之・徳富蘇峰等の書物は当然として 日本語に翻訳された海外の著作物(政治・経済・法律・歴史等々)も読み漁ります。 その時節の日本は「大政奉還」→「王政復古」→ 「明治維新」→「文明開化」→「富国強兵」→「殖産興業」 を経て薩長政権は絶好調を迎えていました。 因みに上記の四文字熟語で「王政復古」・「文明開化」以外は「漢語」で…

  • 清王朝 ⇒ 中華民国 梁啓超の登場

    先週、清王朝は王朝名であり主権国家名で無い事に気付き、国家名を提案した方が出現しました。そのお方は「梁啓超」(リョウケイチョウ1873~1929)。(但し、この時点で主権国家の概念がお分かりであったかは、定かではありません。)1873年01歳 広東省広州府新会県にて生まれる(現在の広東省江門市新会区)1889年17歳 科挙地方試験(郷試)合格1890年18歳 康有為と会う 以後、彼の一番弟子1894年7月 日清戦争勃発(7/25~1895/4/17)1895年23歳 日清講和条約(下関条約)に対する講和拒否運動、政治結社強学会 書紀 強学会入会者には英宣教師Timothy Richardティモ…

  • 清王朝 ⇒ 中華民国1912年

    「服飾ファッション先行き危うし」シリーズ展開から西太后まで語ってしまいました。 その清王朝の末裔?「中華人民共和国」(英語表記People's Republic of China)が ここのところ、とみに危うい状況に陥ってます。 (但し、共和国とは主権が国民、国民が選んだ代表者が政治を行う共和制をとる国家。 かの国の代表者(指導者)は直接・間接選挙を経てませんので、 従って上記には当てはまりません。独自の民主制と云われればそれ迄ですが・・・・・。) 一方、日本では国交を結んだ1972/9以降、 中華人民共和国(1949/10~)を略して「中国」と表記してます。 又、「中華民国」(英語表記Re…

  • 服飾ファッション危うし XVI  西太后悪女に非ず4

    西太后の豊富な政治経験がこれは外交の罠だと見抜かせたのでしょう。絶対に計画を進めさせてならない。だから最も効果的な方法として光緒帝を幽閉したのですよ。又、近年判明した光緒帝の毒殺(1908)についても西太后の高度な政治的判断でしょう。西太后は自分の亡き(1908)後、光緒帝が復権して計画を再現する事を怖れていたのだと思います。光緒帝に清王朝を任せる訳にはいかなかった。光緒帝の死は西太后の苦渋の決断だったと思います。と博士は推・考察してます。中華王朝歴史上、これだけ長い期間、政権を担っていた女性は存在しません。夫・咸豊帝崩御(1861年 西太后26歳)~西太后崩御(1908年11月15日 74歳…

  • 服飾ファッション危うし XV  西太后悪女に非ず3

    それから3年(1898年)、 李提摩太(ティモシー・リチャード)は北京で急速に交流を深めていた人物がいました。 その人物は康有為(1858~1927)。彼は5月に隠居した西太后から権力を譲渡され 士庶なく実力主義で官僚途用を標榜する光緒帝に抜擢された改革派のリーダーを努める人物。 康有為の日記には李提摩太の名前が数多く登場します。 博士は李提摩太が一度却下された計画でも康有為・光緒帝なら云う事をを聞いてくれる のではと予感していた時、それを示す史料を発見したとの事です。 これこそ「戊戌の政変」の原因であると。 康有為の右腕の一人楊深秀(1849~1898 戊戌六君子)が書き残していた文集、…

  • 服飾ファッション危うし XIV  西太后悪女に非ず2

    西太后悪女説を覆した方は「台湾師範大学 雷家聖博士」(1970~)。 「戊戌の政変(1898/08/06)」で西太后64歳が光緒帝28歳を幽閉する事態に陥ったのは 「清朝の英保護領・植民地計画」を阻止する為。 清朝に英国から派遣された表向きは宣教師、Timothy Richard ティモシー・リチャード(1845~1919) 中国名 李提摩太(リテイマタ)、裏向きは英国公使館為に仕事をしていた牧師の仕掛け計画。 雷家聖博士の著書 「『Power to Save the Day: A New Exploration of the Hundred Days' Rebellion』 (失われた真実…

  • 2024年ヒット商品1位は新NISA&「オルカン」

    10/31日経トレンディ・日経XTRENDOから 「2024年ヒット商品ベスト30」が発表されました。 (対象期間 2023/10月~2024/9月) 衣料部門から今回めでたく?2点エントリー。吸湿速乾下着とGUジーンズ。 ■2024年ヒット商品ベスト30 2024年 01位 新NISA&「オルカン」投資 「財IT」 2024年 02位 大谷翔平売れ 「遊」 2024年 03位 Vポイント 「混IT」 2024年 04位 「リードルショット」シリーズ 「美」 2024年 05位 名探偵コナン 100万ドルの五稜星 「健」 2024年 06位 キリンビール 晴れ風 「食」 2024年 07位 ス…

  • 服飾ファッション危うし X III  西太后悪女に非ず1

    「戊戌の政変」で西太后は「中華王朝で悪女の中の悪女」とされました。何と、これが1976年に覆されたのです。西太后(1835~1908)が「悪女中の悪女」と祭り上がられたのは「China under the Empress Dowager」(西太后治下の中国)J.O.P. BLAND(英ジャーナリスト) AND E. BACKHOUSEの二人の共著 1910年刊この著書に依るものです。これが世界初の西太后についての伝記になるとの事です。著者の一人、E. BACKHOUSEはEdmund Trelawny Backhouse(1873~1944)。彼は英国の表向きは「東洋・中国・言語学者」で18…

  • 服飾ファッション危うし X II  中国確かに侵略された5?

    清王朝の宣戦布告後、戦いの最前線になったのは天津駅(清朝鉄道中心地)。 天津駅から都・北京に繋がる鉄道が敷設(1888年)されていました。 この駅が陥落すれば都が 列強の手に落ちかねません。 清軍・義和団軍・清の民は共闘、列強軍の進撃阻止の為、線路を35~40㎞に渡って破壊。 列強軍は自国民を保護し義和団を取り締まると云う名目の元、近くの農村で略奪の限りを 尽くした。北京へ行く迄の軍資金だと云って農民達のなけなしのお金を奪ったり、 食糧補給と云って大事な家畜を勝手に殺したりする暴虐ぶりに、農民達も我慢ならず 棒や包丁持って義和団軍と清軍と共に闘いに参加したとの事。 列強が北京に進軍するのを防ぐ…

  • 服飾ファッション危うし X I 中国確かに侵略された4?

    清王朝の列強(8ヶ国連合軍)に対する宣戦布告文「我が王朝は二百数十年、外から来る者に手厚く接してきた。 しかし、彼らは凶暴になり国土を侵し民を蹂躙した。 義和団の行いはその報いに過ぎない。 朝廷が闘うのを避けていたのは民を守る為だ。 彼らは砲台まで明け渡せと恫喝してきた。 文明国と称しながら礼儀を弁えない。 もはや雌雄を決するのみだ。」(義和団档案〈=公文書〉史料 1900年6月21日)義和団と共に闘う事を選択した清王朝、こうして「北清事変」が始まったのです。当時、清王朝の政治を司っていたのは西太后(1835~1908)。彼女は北京の下町で育ち、父は当時、満州族中流官吏で書紀を勤めていたと。決…

  • 2025春夏パリコレクション

    2025春夏パリコレクション by VOGUE JAPAN アラン・ポール ALAINPAUL アルベルト・クリームラー AKRIS アレクシ・マビーユ Alexis Mabille アレッサンドラ・リッチ ALESSANDRA RICH アレッサンドロ・ミケーレ Valentino アンソニー・ヴァカレロ Saint Laurent アントニン・トロン ATLEIN アンドレス・クロンターラー Andreas Kronthaler for Vivienne Westwood アンナ・オクトーバー Anna October アンナ・テュルネル TEURN STUDIOS イザベル・マラン Is…

  • 2025春夏ミラノコレクション

    2025春夏ミラノコレクション by VOGUE JAPAN J・J・マーティン LA DOUBLEJ アーサー・アルベッセ ARTHUR ARBESSER アレッサンドロ・デラクア NO. 21 アントニオ・タランティーニ ATXV アントニオ・ディ・アンナ Krizia K Krizia アントニオ・マラス ANTONIO MARRAS アンドレ・アダモ ANDREADAMO アンナ・ヤン Annakiki イアン・グリフィス Max Mara イニエ・トウキョウ・ジェームス TOKYO JAMES ヴァルター・キアッポーニ TOD’S ヴィヴェッタ・ポンティ VIVETTA ウミット・…

  • 2025春夏ロンドンコレクション

    2025春夏ロンドンコレクションby VOGUE JAPAN アーデム・モラリオグルERDEM アーロン・エッシュAARON ESH アシュリー・ウィルアムズASHLEY WILLIAMS アリス・テンパリーTEMPERLEY LONDON エデリーヌ・リーEdeline Lee エマ・チョポヴァ ローラ・ロウェナCHOPOVA LOWENA エミリア・ウィックステッドEMILIA WICKSTEAD エリオット・アトキンソンBITE STUDIOS カミール・ペリー ホリー・ライトTOVE カロライン・ヴィットKaroline Vitto クリストファー・ベイリーBURBERRY PRORS…

  • 2025春夏ニューヨークコレクション

    2025春夏ニューヨークコレクション by VOGUE JAPAN アーロン・ポッツ A. Potts アシュリン・パーク Ashlyn アダム・リップス ADAM LIPPES アナ・スイ Anna Sui アレクサンドラ・オニール MARKARIAN アレハンドラ・アロンソ・ロハス ALEJANDRA ALONSO ROJAS アレハンドロ・ゴメス・パロモ PALOMO SPAIN アンドレア・メアリー・マーシャル Salon 1884 アンドレア・リーバーマン A.L.C. イガル・アズロエル Yigal Azrouël ヴァージル・アブロー Off-White ヴェロニカ・スワンソン・…

  • 服飾ファッション危うし X 中国確かに侵略された3?

    天津での義和団の活動で有名な根拠地は道教の施設だった「呂祖堂」。 皆さんこちらで武芸の鍛錬を重ね、司令所を兼ねていたとの事。(現在は記念館) 彼ら・彼女らの武器は刀と槍など、相手は銃、後に大砲ですので、 とうていタイマン(一対一での勝負)では勝ち目は毛頭ありません。 又、義和団の戦闘服(インナー)なのですが「刀槍不入」(敵の攻撃を通すことがない) と云うお呪いをかけていたとの事。これには決死の覚悟が窺われません事? 天津もアロー戦争で結ばれた「北京条約1860年」にて英・仏の租界を設置されていました。 その後1895年独、1896年日の租界設置以来、天津の民衆は行き場のない怒りを抱えいた 状況…

  • 服飾ファッション危うし IX 中国確かに侵略された2?

    先週は「大英帝国(立憲君主国民国家)」の狡賢い振る舞いを物語りました。 これ以降の歴史経緯は皆さんよ~くご存じと思いますので端折ります。 但し、天下(世界)一だった王朝を寄って集(たか)って滅亡に追いやった件だけ。 清王朝にて生まれ育ち「外夷」に虐げられた幼気な庶民の抵抗、通称「義和団の乱」。 これって、時は19世紀~20世紀にわたって繰り広げられ、 清王朝をも巻き込み・動かした大事件なのですよ。(1897~1901) 義和団は「祖国の為に義の精神を和(結集)して外国に立ち向かう仲間」。 義和団の彼・彼女らの四文字熟語標語は「扶清滅洋」(清王朝を扶け、外夷を滅する)。 事の発端は「鉅野事件」(…

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