梁啓超の日本亡命以前の文章は流麗なそれこそ「漢文」です。 彼は1896年上海で刊行した「時務報」の一冊目に「変法通議自序」を著述。 日清戦争(1894年)→日清講和条約(下関条約1895年)を経て、師の康有為らと 清王朝変革(変法運動)《君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等》を 標榜する政治結社勉強会書紀時代、血気盛んな頃合い(24歳)の文章です。 「自序 法何以必変 凡在天地之間者莫不変 昼夜変而成日 寒暑変而成歳 大地肇󠄀起 流質炎炎 熱熔氷遷 累変而成地球 海草螺蛤 大木大鳥 飛魚飛鼉 袋鼠脊獣 彼生此滅 更代迭変 而成世界 紫血紅血 流注体内 呼炭吸養 刻刻相続 一日千変 …
「中国史叙論」を執筆・刊行した梁啓超は翌年(1902年)1月に月2回発行の雑誌、 「新民叢報(シンミンソウホウ)」を発刊します。 新民説・新史学をこの雑誌で展開、1907年7月迄発行し続けます。(途中休刊有り) 「新民」は「民(たみ)を新たにする」で梁啓超の新造語ではなく 昔、科挙の郷試受験の際、覚え暗記した儒教経書「大学」が典故(古典引用)。 「大学之道 在明明徳 在新民 在止於至善」 人が学ぶべき道は 1 明徳(聰明な徳)を明らかにする2 民を新たにする3至善(最高の善)にとどまる ことである。 新民とは「民衆を教え導き徳を育み新しい人間へと変えていくこと」とか。 因みに賢いGeminiは…
梁啓超は来日後の猛勉学・知識吸収の結果、1901年「中国史叙論」にて ご自分のお国の「国号」、及び、「歴史」作成提言します。 「吾人が最も慙愧(ザンキ)に耐えないのは、我が国に国名がないということである。 一般の呼称では、諸夏、漢人、唐人などというが、いずれも王朝の名である。 外国人の呼称では震旦・支那などというが、いずれも我々が自ら命名したものではない。 夏・漢・唐などを以て我が歴史を名付けるのは、国民を尊重するという方針に反する。 震旦・支那などを以て我が歴史を名付けるのは、名は主人に従うという公理に反する。 中国・中華という名は、自惚れの気味があり批判を受けるかもしれない。 しかし、一…
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