おお、神よ。あなたはそこにいらしたのですね、私の足元に1-1
北海道に転勤になって早二ヶ月と数日か、竹部美智子は言葉にならない声を出して自宅のベッドにへたり込んだ。コンビニの袋も今日で一週間ぶっ続け、新品のゴミ箱はたまりに溜まっている。もう小さく畳まずに押し込んでいた。面倒なのだ。もちろん、女性として、これは人としてだらけてはしたないとは思ってはいるが、体が疲労を溜めに溜めて言うことを聞き入れてはくれないのだから……、そうやって私は理由をつけて、仕事帰りに、駅近くのコンビニで夕食には遅すぎる夜食の弁当とプリン一つ、ビールを一缶購入し、帰宅の途についたわけである。誰に説明しているのだろうか、竹部はまっさらな天井を見つめて迫りくる窮屈な部屋をぼんやりと眺めた…
「この端末でこの回線は使えますか?」 「ええ、問題ないと思いますけど、試してみますか?」レジの隣にまた座る。店員に二センチ角ほどカードを手渡す、数分で動作が確認できた、すぐに使えるよう設定を施してくれるというので、お願いする。 私は訊いた。「ほとんどの人が端末を持ってますけど、あなたも持ってますか。私は初めてなのです」 「ああ、大丈夫ですよ。操作に不安があっても、はい、問題なく使えますよ」 「端末を利用しない人がいる事は、ご存知ですか?」 「"離反者"の事ですか、まあ、ええ、仕事柄」店員は会計を求める。私はカードを提示。サインを書いた。 「彼らについてはどう思います?」 「文明に逆らっているの…
自分のPCは施設においてきた。新しい端末を買おうか。外でも繋がる必要が出てきそうな予感。 私は電気店を訪れる。不必要なソフトが極力取り除かれ、計量でコンパクトな物が欲しい。手ごろな値段で果物のシンボルのそれを選ぶ。手にしたのは、初めてである。レジで領収書を切った。忘れずに回線の契約をレジで聞く、隣のカウンターに移動、幾つかのプランを提示。ほとんどが月額固定の料金徴収、思う存分心ゆくまで仕様を認める代わりに料金を、使用の少ない月であっても同額を支払うのか。私は、利用に応じたプランはないものだろうか、と尋ねてみた。すると、端末を持っているのであれば、そちらを介した回線の利用が可能だという。しかし、…
当てもなく駅通路を進む。 資金が必要だったのは確かにいえる。それでも、自分だけの生活は可能だった。世界を細部まで観測しつくしてから、異なった尺度と理論と角度を求めたかったのかもしれない。すべては命が尽きるまでの実験に過ぎない。これに尽きる。 家はどこだったろうか、自宅というものをそういえば持ち合わせていないことに気がつく。そう、施設に住む予定だったのだ。しかし、どうしてか私はあそこと職場として解放するようなのだ。自分の行動を振り返って思う。よくわからない事をたまにやってのける、だけれどもそれは私だ。気がついていないだけの、生きるために生存獲得に勝ち続けた私。 とりあえず、守られた駅に別れを告げ…
印刷所。カタコト。不規則な音声。 「一部ずつだとこちらとしては、販売することはできないですよ」 「では、何部からなら取り扱ってくれるのですか?」 「最低で五十」 「では、その数字で。ああ、別の文章でも印刷をお願いします」 「失礼ですけどね、こんなに少なくていいんですか?」 「ええ、十分。私が届けたい相手には伝わりますから」 「そうですか、はあ」 「納得していませんね。そこまでの説明が必要でしょうか?」 「あ、いや、そのいずれ、また印刷するんだったら、いっそのことねえ、だってどう見ても少なすぎる」 「不特定多数へ向けた提供を省いた。特定に人物にだけ行き渡るような配慮です。大量に刷り上げたからとい…
一人である。 音がないようで、私は、自らの鼓動は常にリズムを刻んでいる。外側にばかり意識を向けるのは、もったいない。 味噌汁を啜る。けれどこれで自国民の気質を思い出すことはない。たんにそれはだって周知の事実、私が食べてきた習慣によるもので、決して受け継がれた国民性をどうしてそんなにも大々的に遺伝子に組み込まれた、刻まれたなんて言えてしまえるのか。 食べるのはいつも口にしてたからである。パンでも昔から食べていたら口を支配するのはそれなのだろう。 数分で食事を終えた。容器と包装を捨てて食器を洗う。 デスクに座って、メールの返信を打った。 「早急な対応に感謝します。見えている世界をあなたが望むままに…
コーヒーを口にする。インスタントのコーヒーだ。短時間で水が沸く電気ケトル、私はキッチンに立って考察に耽る。便利の裏には失われた行動があって、生み出された余剰時間はおそらくは無意味で気にも留めない使い方に消費されると、私は思う。今日ここへ電車の車内で、前の席の男性二人が、レコーダーについて語っていたのを思い出す。二人の職業、業態は定かではなかったが、どうやら記者らしかったのだ。 昔は会見場ではメモを取った。しかし、すべてを書き出すことは困難なので、端的に単語や重要なワードだけを抽出し、それをメモした。だが、会社に戻り、記事を書き始めると、メモを見ただけで、会見の内容が頭に浮かんできた、覚えようと…
見限った思想が良いだろう。悲観的も微かに備えて、それでいて破綻をしてない。流行に左右されず、一人を好む、何度が表と裏をひっくり返した経験もほしい、それでいて現在は真裏、表でも構わないが、比較的言動の少ない性質がほしい。私は、情報網を日本国内からあえて、施設近隣の地域に絞った。もう午後の夕方。高い窓から、電磁輻射のスペクトルでも限定された空にかかる橋のアーチの色、中でも施設に降り注ぐ入射角が小さいための長い距離によって他の色が吸収されて残った赤が床に落ちていた。検索対象はいくつかのコミュニティそれも限定的で非現実的、逃避よりもそれを楽しんでまた現実への帰還を繰り返している人物たちに絞り込む。しば…
梱包された各種機器が施設に届く、そのつどサインを求められ、何度か彼らの反応を窺ったが、誰もが読めもしないサインに疑いすら持たないことを観測した。住所と運ぶ商品の一致がすべて、受け取る人物は誰でも良いらしい。住人になりすませたら、届いた荷物を簡単に受け取れる。 開業二日目。 設備が整い、ペットボトルの水を冷蔵庫から取り出すと、それをもってデスクについた。間仕切りのない空間にぽっかりと私とキッチンが空間占領の大部分。しかし、空間は五感以外の新たな法則によってしか、その存在を確認できない目に見えない微細な物質たちで埋め尽くされている。認識。これが通常捉えうる感覚をより高め、視野を広げる。狭まった装置…
「噂を流すの?」 「写真は取れない。そこには想像が働く、しかも言葉による伝達には少なからず人を楽しませる装飾が必要になる。勝手に想像を膨らませてくれるのですから、こちらが流す情報よりも信憑性は増すでしょう」 「人手は?あなた単独作業ではいずれ破綻をきたすわ」 「そうですね。それは、こちらで対応します」 「あなた、どうやってここまで来たの?」私は思いついた質問を投げかけた。 「電車で。駅からは歩いて。どのような趣旨の質問ですか」 「汗かいてるからよ。車、もってないの?まさか免許もないとか?」 「必要性に駆られなかったですし、車両を保管する場所代と本体の維持費、価格に見合う価値を見出せなかっただけ…
完成した建物の玄関を開け、室内に入る。音がない。真っ白、空気に色をつけたらおそらくこんな様子。すぐになくなる絵の具の作られた石灰石の白だ。 中央にキッチン。誰の発想だか、まったく、私は舌打ち。何を想定しているかは、私にも微かにわかる。しかし、正体、本質、目的は一切知らされない。それが組織を継続させる秘訣。私が捕まれば、そこから情報が流れる。要するにフェールセーフと使い捨て。 音もなく突然現れた気配を感じて私は振り返った。人が一人立っていた。入り口の前である。 「何が必要?」私は尋ねた。こっちを眺める人物がここを取り仕切るのだろう、私は完成直後の当該施設へ選出された担当者に建物の引継ぎの命を伝え…
建設工事は着々と進行、作業の着手は一年前に遡る。 仏閣の破壊を嫌うので買い取り手がつかなかったらしい、建物と敷地を格安で手に入れられたのは、組織への私の貢献度はかなり高い。別に褒めて欲しいとは思わない。仕事だから、仕方なく尽くしてる。私のようなポジションの仕事が存在することが、そもそも不可解な事態である。また、それにもまして、私が施設の建設に関わっているなどとは夢にも思わない、かつての自分からは想像すらつかない。抜け出せないのだろうな、このまま。それもいいだろう。だって、戻れたとして、そこに居場所を見つけるのも一苦労だ、私を殺してまで、いられるとは到底思えない。まして、新たに居場所を作り出す労…
着替えて、ギターを背負う。これからスタジオ。年中を抑えたままのスタジオ。いつでも使えるように、資金のほとんどがスタジオに費やされている。所有は嫌い。だから、高くても借りる。身軽なほうがいいのだ、飛ぶためには。 裏口を説得されて選択、そちらから外に帰還。 春の陽気。行き先だけを私に告げる端末でスタジオへの経路を調べる。立ち止まる私は数枚、撮影された。視線を送る。目を逸らした。ありきたりな光景。いくらかあなたの話題になってくれたら、幸い。一過性、見返すこともないのだから、腹を立てるのはナンセンス。取り合うべき対象は、曲である。 いつかのための帽子をギターケースのポケットから引き出す。黒いキャップを…
弦を弾く。声を紡ぐ。どちらも振動。 私ではないのに、笑えてる、聞き取ろう、あるいは自分にものにと、目を凝らす。 気づいて。 これは見せかけ、商売なのに。まだ、私に未来を見出してる。 何も与えない。それが私だ。 笑顔に埋もれた、一人だけ悟ったような顔を見つける。 どこかで見かけた人。 スタジオの人物だ、名前は知らない。 伝わってる、理解者が一人。これで曲は完成。救われたも同然。 披露はおしまいでいい。曲は生きられる。私も次に進める。何をしようか、これまでに歩まない道を進もうか。 笑えているか、おまえたちは。 私の笑顔で。鏡ではないのだ、そこに見出しているのは、いつかの、過去ではない、現在のおまえ…
「アイラさんが了承してくれるのなら、私が意見することなど……、断りきれなかった私に責任がありますから」カワニはまだクライアントに押し切られた打ち合わせを悔やんでいるらしい。自分以外に不手際の影響が及んでしまう、だからふがいなさが払拭されないのか。とって代われないのは生まれたときから決まって、わかっているはずなのに、スイッチの切り替えがとても緩慢。なんとも思っていない、私の言葉も半ば耳に届かずに一定方向に渦巻く流れをただただ水流が収まるまで待っているような構えか、アイラは鈍重な反応を示すカワニを切り離して、仕事に取り掛かった。 ステージの下見。先ほどの人物とは別の店員に案内されて、三階に降り立っ…
「いらっしゃいませ、……あっ、おっ、えっつと、ああ、こんばんわ」 「会場はどちらですか?」 「わ、私がご案内したしますです」 「お願いします」 お客の列を保つレーンに沿って店内を平静を取り戻しつつある店員に案内を頼む。私の声に気がついたのだろう、短い奇声が通り過ぎてから後頭部に刺さった。途切れた陳列棚の隣、ドアを押し開けた店員に先に入るように、促された。裏手。上下に階段。どうやら地下もあるらしい。 二階へ階段を上る。上りきってすぐに右に。事務室、室内の周囲という周囲を灰色の棚とロッカーで埋め尽くす。中央に個人用のデスクを配置、うずたかく各種の書類やCDが詰まれて、壁が見えるはずのスペースは歌手…
透き通った拡散の青空。週があけた月曜日。憂鬱な一日。今日は新曲のリリースイベントに借り出される、これから。クライアント側の意向、一度だけ販売促進のために曲を弾いて欲しい、との訴えであった。断ったはずだ、オファーを受ける段階において、力強く誠実に、断固として期待する反応や態度は見せられない、口をすっぱくして伝えたのだ。それでもやはり、人間は契約に無関心、というか破っても構わない、ある程度の許容を相手に委ねるずるがしこい気質を持っている。だから、打ち合わせ、つまり仕事を受けるか、否かの段階で相手に何度も契約以上の仕事を私にさせない約束を取り決めたのに……。本来なら、今日もスタジオで楽曲の作成に没頭…
スタジオを訪れる私。帰還。現実との境界線をまたぐ、ドアを閉めた。体臭の混ざった空気。窓を開ける。全開。コートは着たまま。前も同じような行動を取っていた、だけど記憶は曖昧。埃のかぶったデスクとPC、布でもかぶせておけば、埃を払う作業はベランダに出て、布をマタドールみたいに叩き落とせたんだ。後悔?それほど、落胆はしていない。次回の改善点、と受け止める。そうやって前に進んできた。目標はこの改善にかける。大げさに夢は掲げない私。 軋むデスクチェアに腰掛ける。ギタースタンドの傾斜は、安定性と部屋の隅において置けるギターの立場を考えて設計されたみたいだった。店の棚で踵を八の字に重ねる靴みたいに威圧的。でも…
「彼は懇切丁寧に証拠品を所有してくれている、彼自身の利益のために。どのような価値があるのか、被害者の遺伝子が事前に外部に漏れていた事実の明るみは、彼女の資産管理の不備を露呈してしまう。これは、管理側にとっては避けがたい。証拠は被害者の管理側から不透明な、おそらくカモフラージュされた、資金の流れを追うしか方法が後手に回ってしまった現状の打てる最善策」 「バッグを持ち去ったのは、敷地ではないのかもしれない、とも考えます」熊田はタバコを取り出して煙を吐く。いつもとなりで目を光らせる種田は煙に指摘の態度を表さないまま、虚空を睨むように、凝視してばかり。 「ええ、そうですね」美弥都は応えた。「特別室の利…
「忘れた事実が強化された。彼の証言に重みが増した」 「集めた吸殻の説明は?不自然では?タバコをもらうために敷地に続いて喫煙ルームに入った、余計に怪しまれる」種田は口は細く尖る。 「その場合は正直に被害者の要求に応えた証に吸殻をみせたはず、取っておいた理由は単純に本数を確認しておきたかい、健康上の返答を用意した、と思われます」 「あなたは空論を突きつけてるに過ぎなくて、これらは状況証拠。殺害を決定付ける証拠とはとても言い難い」種田は腕を組んだ、しかし言った傍から美弥都の説明を決定的に結論付ける可能性を探している、貪欲、あるいは探究心の賜物。美弥都は使用済みのフィルターを足元のダストボックスに落と…
「それは憶測に過ぎない、確たる証拠があって言って欲しいです」 「吸殻が消えた、という状況証拠は、吸殻がもともとなかったという起点から進められない捜査が原因です。手詰まりは、情報の少なさではない。捜査の捉え方に要因があったというべき。これは私にもいえます」 「もともと無かったのですから、探しても見つからない。仮に吸っていたとしても、それが喫煙ルームで吸われ、個人の携帯灰皿にしまわれたのであると、喫煙場所の特定に困難。しかも、一度調べられて解放された。確実に処分しているでしょうね、被害者との接触の証拠ならば。口紅がついていたのも、あらかじめ周りの女性にタバコを提供した事実を作っていれば、警察には疑…
「アイラ・クズミを自称とまではいかないが、倒錯しかけた人物に最初の話を聞いた。特別室の利用者であることを、その人物は否定していていた。財布にホーディング東京の会員証がありましたが、開場後に席につけたなら特別室の利用を回避しても不自然と言い切れない行動です。持ち物検査と事務的な事情を尋ね、すぐに店内にいた他の観客の下へ席を立った」 「次はどなたに?」美弥都はきいた。 「男女のペア。小柄な男性と細身の女性です」 「関心がないようですね、その二人には。あともう一人残っていますか」 「敷地誠也。被害者とは会話を交わした事実が報告されました。相手を観察する能力は高く、人を抜け目なく判断できる機能を有する…
「日井田さん、そこまでなさっていたのですか?」熊田が驚いて眉が上がる、声も高くなった。 「重力センサーや扉の開閉が行われない時に鳴らす警告音は、特別室という一つのゲートによってわざと機能を取り払ったようにも、思います」美弥都は熊田の質問には答えなかった。液体は雫となり、色を変えて滴り落ちる。カップに液体を移し変える、二人の前に差し出した。 「熊田さん、事実でしょうか」 「さあ、考えもしなかった」 「あちらに連絡を」 「先に殺害を企て実行に移した犯人をまだ聞いていないが、それでもか?」 「結局、誰が殺したのです?」種田が純真に尋ねた。 「事件を振り返りましょうか。被害者の健康、遺伝的な要素が絡ん…
「教える義務はありません。ボランティアでもありませんから。まあ、ボランティアは慈善事業よりも、隠れた上手なイメージアップやうまみが本来の姿です、適切ではないわね。訂正します」 種田はのらりくらり、美弥都の対応にさらに苛立ちをあらわす。 「受付嬢は被害者のバッグを想定したロッカーからすぐさま発見できない様子でした。これは、行動に及ぶ前に取り付けた監視カメラの映像を見返した刑事の発言です」熊田が説明を追加。私に話させるつもりらしい。 「事件の背景を複雑に見た理由がまさに彼女、受付の女性が特別室に残されたバッグを外へ持ち出す暴挙に出たことに起因します」 「殺害とは無関係のように聞こえますが」種田がき…
これはあらかじめ喫煙可能な場所を選んでいる、とも言い換えられる。また、飲食後の喫煙も無意識に胃袋を満たす行為に乗せた喫煙を抱きつくように貼り付けて、喫煙にいたる動機、そのプロセスを日々蔑ろに、考え捨てて、思考を麻痺させている、と美弥都は思う。そうならないために、美弥都は何度か自問を繰り返す。それは必要な行為で、この次のどの時間帯にまで喫煙が制限され、あるいは許可されるのかを、毎回吸う機会が訪れるごとに、尋ねるのだ。大抵の要求は反射的な行為、つまり過去の行動をトレースしているだけのこと、本来の要求は五割にも満たないだろう。あくまで美弥都の観測。しかし、考えることを考えると、行動の意味はあまり意識…
すっかり溶けるはずだった店長の思惑に反し、今日の雪はそれでも数センチの積雪、日中の気温上昇が手早くそして跡形もなく漆黒のアスファルトを覗かせるはず。今日を除いて、明日からはまた晴れ間が続くらしい、店主が早朝の挨拶に乗じて外の天候に文句を言うついでに日井田美弥都は外部の情報を吸収し、それらを現在の景色に活用してるところである。 学生の一段が二階席にたむろしてから一時間弱、数分前にぞろぞろと個別の会計をレジにて申請、一人一人にレシートとおつりを手渡し、静けさに包まれた午後。カウンターのお客は一人だけが残り、その人も、私がレジに立ったのを見計らってか、気を利かせるように席を立ち、見事に店は私一人の空…
「失礼します」 「タバコを吸っているぞ、気にならないのか?」彼女は喫煙者とその煙に嫌悪を堂々と表情や態度に出す。 「日井田さんにお話を伺いたいのです」 「彼女にはもう、迷惑は掛けられないさ」 「納得できない箇所を私は消化しきれていない。お願いします」 「一人で行くべきだな。非番の日に」 「休みは来週にならないとやってきません。それでは遅い」 「私が同伴する必要はないように思うが」 「私だけでは彼女は発言に踏み切らないでしょう」 「……雪は止みそうだろうか?」 「ええ、いつかは止みます」 「そうか、タバコを吸うまでとはいっていなかったか」 「なんのことでしょう?」 「こっちの話だ」 「お答えを」…
東京出張の翌週、金曜日。休日を数えて三日、部署をあけた埋め合わせに部下の相田に休暇をとらせた。前日にもう一人の部下の鈴木を休ませ、熊田と種田は平常どおり何も起きない、平穏無事な午前を過ごした。書類に数枚目を通して判を押す。部長のデスクに溜まった書類入れの容器に数十枚、了承を待つ用紙の束が重なる。しかし、これも気がついたときには姿が消えている。我々が席を外す時間帯を狙って仕事を片付けているらしい。風の噂だ。代理人の仕業でも、こちらには影響がないのだから、特に不平を漏らす傾向を持ち合わせる人物はこの部署には在籍を許されていない。それに部長は何かしらの行動を起こしている事実は、彼に捜査依頼を受けるこ…
「納得できません。未使用のロッカーならば、扉は簡単に開けることができる、発見される危険性の高い場所に犯人が隠していたとは思えません」種田は投げつけられた結論、熊田が導き出した結論を捉えきれずにいる。 「だが、警察と我々は見逃した。たぶん警察は見つける、見つかってしまっても構わないだろうと、犯人はあまりバッグの発見には危機感を抱いていなかったんじゃないのかな」熊田はうそぶくように言う。 「どういうことです?」 「あくまでも憶測だが、被害者のバッグを移動させた人物と殺害を企てた犯人は異なる」 「……」無言で種田は機体の揺れが引き起こす、紙コップの荒波を穴が開くように凝視。 「それぐらいしか、受付嬢…
「熊田さんの困惑の焦点はそこですか?それでは、昨日受付に掛けた連絡の目的は?」意外な熊田の引っかかり。 「ロッカーの高感度なシステムさ」熊田は胸ポケットのタバコを取り出そうとしてから、機内を思い出し、コーヒーに手を伸ばす。「被害者自身かそれとも特別室の観客がバッグをロッカーに入れたんだよ、ロックを掛けずにね」 ロック。ぐるぐる糸が断線の悲運を誘発するイヤホンケーブルのように絡まる、それが熊田の一振りで結び目のないまっすぐな線が重さに従い互いを弾く、イヤーピースがお披露目。 熊田は窓を見ながら急降下に陥る種田を尻目に淡々とそしてかつてないほど饒舌に、コーヒーを傾けては論理の展開を伝えた。 「壁一…
「うん。バッグは、アイラ・クズミのライブが始まる前に、何かしらの方法により、会場の外へ運び出された。ところが、被害者の異変を察した我々が観客の動きを止めた二曲目に、バッグの姿は彼女の近辺を既に離れていたことになる。現にライブが始まってしまうと、観客はたとえチケットを持っていても、途中で会場内に入ることは禁じられている。受付の二人が誰も中に入れていない、そう証言をしていた」 「敷地誠也の喫煙ルームにおける接触、彼の証言に食い違いが見られたとすれば、バッグが彼の手に渡る。そして、彼は、所持品検査が行われた特別室に連れられる時間内にバッグを消し去った……、納得のいく解説は、正直お手上げです」種田は横…
「メニューの変更が仮に行われたとして、エレベーターで運ぶ食事の皿を給仕係は、まぎれた特殊な皿をどのように見分けたのか。いまからそちらに送る、というインカムを通じたやり取りが行われたのですか?」 「同じ帯域で無線は飛んでいた、必ず一階の二人の係りに聞こえているはずだ。もしそういったやりとりがあったのならな。それに、事前の打ち合わせで何番目のどの順番で皿を運ぶかを決めていた、とも考えられる」 「しかし、毒、あるいは毒のようなものは見つからない」種田は、手元の紙コップを持ち上げる。まだ温度が高い。 「これら二つの要素から導かれる死亡の要因は、彼女、被害者が特定の食物に対してのアレルギー反応を発症する…
機内。北へ帰る午後一の便に熊田と種田は搭乗。二人は昨日、命じた指示の待つためにホテルを出た時刻はチェックアウトぎりぎりの午前十時。移動と空港内のカフェで時間を潰し、チケットの刻限の間に合うように熊田に連絡がもらされた。空席が目立つ機内、登場口で連絡を受けた熊田は意図的に言葉を忘れた態度を取っているように思う。腑に落ちない点が捜査状況に含まれていたのだろう。恐ろしく険しい皺を眉間に刻んでかれこれ三十分は経っている。その間に種田は、待ちぼうけを食らう始末。事件は解決したのか、それとも思惑通りの結果報告ではなかったのか。考え尽くした、睡眠時間を削って可能性を探るが、種田は未だに納得する回答を選らず、…
よし。 ここからはスピードが命だ。片っ端からロッカーにカードキーをかざす。 左上は踏み台を使って、腕を引き伸ばす。焦りからか、息が上がった。 言い聞かせて、焦る私を宥めた。腕時計を見て時間を確認。まだまだ二十分もある。約束は十一時。 ない、見当たらない。空だ。空っぽ。 くそっ、どこに入れたんだ。 コートを掛ける縦長のロッカーも何もない。開かない扉は昨日の日付と日時が二センチ四方のパネルに表示。 下段。ここでもないか。 右側だ、焦るな。良く考えるんだ、何も正直に上から調べることはないのだ。取り出しにくい下段に、あえて隠していたのかもしれないぞ、冴えてる。 私は鳴らない指を弾いた。はいつばって、右…
歩き出す、入ってきたエントランスを離れる方向へ進むと突き当たりの階段で一階に下りて、進行方向を変える、今度は一階をエントランスへ目指した。手のひらが汗ばむ。生唾を飲んだ、これで二回目。 向かって右手のドアを押し開けて中に進む、誰もいない、私は立ち止まって階段を見上げた。踊り場に上がる、さらに見上げる、大丈夫、こだますのは私の渇いた足音だけ。ここは少し寒さを感じる。 受付入り口に辿りついた。いよいよ。ガラスを覗くが、もちろん中に人はいない。一階でもらった入館証をパネルにかざす。ホーディング東京の受付に通じるこのドアは、入館証とパスワードによって開かれる。受付自体に金銭の取り扱いはなく、チケットの…
午前十時、青川セントラルヤードの正面玄関が開放、開店の時刻に私はぶらりと通りかかった雰囲気を周囲に纏わせて、ビルに足を踏み入れた。ロッカーの中身を取り出す緊張の高さに昨日も眠れなかった、少しだけ瞼が重いが、朝食を抜いた、眠気は抑えられるはず。 ホーディング東京の受付のドアはロックが掛かっているために正面から内部へ侵入することは難しい。何度も計画をさらい直した、失敗を呼び起こすな。私は言い聞かせる。呼吸が荒い。エントランス、左側に進路を取る。通路に入る前に、一旦立ち止まる。端末を見ながら、後方を確かめる。二人。中央のオブジェと、花屋の前に一人ずつ。確実に目を逸らした。見張られている?私が?これは…
「これから作る。まだ形すら見えていない。だれかと勘違いされています」 「いいえ、あなたはだって私ですから。間違える?冗談でしょう」失笑。スナップをきかせた柔らかい手首。 「いつでも自由に出て行ってもらって構わない。出るときも声掛けは必要ないですから」ソファの前をつっきって、カップを薄っぺらいディスプレイの脇に置く。椅子を引いて、ギターを手に取る。アンプに差し込んだヘッドホンを耳にあてがうまでの数秒に、うっすらと口ずさむメロディが耳に届いた。聞き覚えのあるコードと歌詞。私の、ではない。真似ている、真似は真似でも、当人になりきったがらんどう、中身のない、コピーを上回る不協和音。ショルダーベルトを首…
「色々大変だったらしいな、昨日」ベースの担当者が呼びかける、私は彼らにPCの電源を入れる丸めた背中を見せる、コートを着たままだ。室内の温度もそれほど温まっていない。「どういう風の吹き回しだよ。テレビ収録を受けるなんて」彼らに会場での事件は伏せている。事件と会場の日程を結びつけてはいないらしい。事件を伝える報道に関してアイラはまったく情報を入れないので、世俗の視点は彼女には不明確。彼らもあまり一般的な感覚を持っているとは思えないにしても、アイラよりは確実に世間に精通した人物、しかし彼らの反応はこちらをうかがうそぶりはあまりというか、ほとんど感じられなかった。探るような気配ならばアイラはすぐに捉え…
可能なら、地平線と海面と空が見える景色が最適だ。何もない、たまに鳥が優雅に羽を数回羽ばたいては風に飛び乗って遊覧を楽しむ。 私は目に写るあらゆる物質を見ようとする。通り道はいつも決まった最短ルート。それでも変化は多大だ。歩行者はもちろん、車の往来があって、天候は一つとして同じ時はなく、そもそもその景色を見てる私さえも移り変わってるのだ。捉えるだけ精一杯。私の現在地と現状の私に、相手が加わったら、もう手一杯だろう。人との接触を制限するのは、正常を維持するためのフェールセーフである。取り合わない、明日には忘れる幸せも願わない。 開いた口への流れに乗って、アイラがホームに押し出された。階段、改札、駅…
居座らない、すがらない、求めない、寄り添うなんて言語道断。 一人で空を見上げられたら、もうけもの。 そしてまた何かと誰かと、どこかで何らかの形で会えたりする。 離れて、忘れていたからこその接触。そして、刹那の離脱。キャノピィ越しでハンドサインが送れたら、一人前だろう。 アイラはソファにどかっと座り込んで高々な天井を水平線を望むよう目を見開き、慌てて閉じた。 また開いて、瞼の裏の立像が微かに、天井に浮かんで見えた。 コーヒーを何も考えずにアイラは飲み干すまで、楽曲制作に取り掛かるどころか、彼女はカップをきちんと洗って、スタジオをあとにしたのだ。 翌日。 冬に逆戻り、クリーニングに預けたコートに後…
出会いを思い出させるとはいっても、これまでの曲作りとの相違点が多すぎるように思う。アイラ・クズミは自問、スタジオはいつも定刻、夕方の七時に仕事を切り上げるのだが、今日の彼女は粘り強く新曲の構想を引きずる。スタジオに篭り、ほぼ毎日を見慣れた空間で過ごす。そのため、想像を働かせる外部刺激は見込めない上に、曲制作には期限がつき物。スケジュールは崩れる定説にのっとり、仕事が進行。アイラは、二週間の締め切りまでの猶予を計画に盛り込む。しかし、いつしか彼女のコンスタントな仕事を侵食し、余裕を剥ぎ取る、得体の知れない闇夜の使者が必ず弛んだスケジュールを緊迫感を漂わせる真っ黒な下地へと変貌させるのは、もう慣れ…
「頭を冷やす時間と新しい論理の組み立て、明日までは到底間に合いません」 「弱気だな」 「事実ですから」 「……君を説き伏せるだけの労力はもう残ってない。もう一本タバコを要求しても?」 「交換条件ならば、成立です」 「コーヒーのお代わりも?」 「認めましょう」 「……確証が得られてないことが前提だ、それを肝に銘じておくように。きっかけは……」 タバコの灰が増えるごと、コーヒーの黒い液体は対照的に減り、お客が席を立ち、入れ替わり、コーヒーもお代わりが注がれる。二杯目は半額の料金であると、店員が教えてくれた。力強く、強風が通行人の体をさらう。春を思わせる南風。釣り下がる照明が文字を読むには物足りない…
「私の質問は忘れられたようなので、もう一回いいます」 「覚えているよ」タバコを抜き取って火をつける。熊田が座り直して、応えた。「今日の飛行機、機内で敷地誠也と一緒だったらしい。彼は被害者と会場一階の喫煙ルームでタバコを吸っていた。同席の時間は二分弱。彼が先に入り、先に出た。彼の席から喫煙室の様子はみえない、喫煙ルームは彼の席のほぼ真下にあたる位置だ。彼によればクラッチバックを被害者は持っていたようだけど、彼の記憶は曖昧らしい。持っていたとはっきりと言い切りはしていない。一ヶ月前のことだから、無理もないだろう」 「証言を躊躇ったのは疑いを掛けられたくはなかった」 「まあ、当然だろうね」熊田は煙を…
「明日にすべてがわかるのならば、私にも事情を話してください」種田はポークカツを力強く刺して、動きを止めた。 「万が一という可能性が残されているからな」 「私が信用ならないというならはっきりといってください」 「信用はしている」熊田はスプーンのカレーを冷ます。 「"は"?」 「を、だ。訂正する」 「いつ、その判断をされたのですか?」種田は質問を変えた、目は鋭く、灰色に光る。窓際の席、通りの風景を配した二人が窓に浮かぶ。外はもう闇が支配権を握る時刻。 「確信を得たのは、日井田さんの言葉を聞いてからだ。それまでは、半信半疑だった」 「彼女も知っているのですね」 「僕よりも前に気づいていたんじゃないか…
青川セントラルヤードは暗闇に包まれるどころか自身の発光機能による、夜光虫のごとく、闇に浮遊する市民を引き寄せては、各種取り揃えた彩を操る。熊田と種田は、そこから横断歩道を渡った年月による風化が目覚しい外観の飲食店に腰を落ち着けた。熊田同様、種田も食こだわりがないタイプである。そのため、おいしさを判断する直感が働いてもいなければ、換気扇が運ぶにおいに誘われたのでもない。単にビルを出て、一番に目に入った飲食店だから。 「もしもし、熊田です。はい、ええ、東京です。いえ、その一つ頼みごとがあってお電話しました。……ええ、事件に関する事項です。できれば、明日にでも。はい、待ちます。……よろしいですか、ホ…
照明の明かりがほんのりと灯り始める。熊田はタバコを三分の一を灰に、窓を向いて女性に尋ねた。 「最後に一つだけよろしいですか?」 「どうぞ」 「ロッカーの見た目は区別が付きにくい。私のように最近のシステムに疎い人間には扱いが難しいと感じる壁のロッカー」熊田は赤い灯火を指し棒の代わりに使う。「自分の荷物をどの棚に入れたか、忘れてしまう。あなたははっきりと自分の荷物を入れた場所を覚えているのですか?」 「この鍵」女性はバッグの素早くカードキーを引き抜く。裸でバッグのうちポケットに差し込んだ、取り出しの速度と思われる。「私がドアを閉めた正確な時間が記憶されているの、秒単位まで。いくら同じ時間に利用した…
「事件発覚後にここに集められて所持品とロッカーの保管品を調べたが、被害者が持っていたはずのバッグは見つからなかった。犯人が持ち去ったにしても、やはり不可能に思うのです。要するに手詰まり。ここへは見落としがないか調べに来たのです」 「ふうん。だけど、バッグは持ち出されているんじゃないの?リバーシブルみたいに裏返しになっていたりとか、他の人のバッグも調べたのよね」 「見落としがあったようには思えませんね」 「もしかして、私も疑われてる?それって女だからって理由?」 「男性が持つには色が不自然です……」熊田は女性の頭部か、隣の列を見つめるような視線を送る。考え事に耽る熊田に時々伴う行動だ。種田は会話…
後ろ手に熊田がロッカーの前を低速度で歩く。散歩というより、考え事を促すための動力に足を動かしている、というのが正しい表現だろう。種田は、熊田が何か事件の核心に迫る内実を掴みかけていると読んだ。普段の熊田は、全体の様子を見ていないふりを装いつつ、すべての対象物に神経を注ぐ。しかし、歩き回る現在の熊田は、外部との関わりを意識的に無防備にさらす、危うさがにじみ出ている。私は何もつかめていない、まったく呆れてものが言えない。このふがいない頭を取り外したい。 また、あいつが躍り出て事件の解決するのは、我慢ならない。 冷静に。あせってはいけない。 だが、空港で言い残した台詞は、あの澄ました顔は事件の真相を…
黒に近いブラウンのカウンター、紅茶を注ぐ体の傾きがもたらす顔の角度の先が都合よく計られたようにドアに向いていた。 「あれれ、刑事さん。まだ事件を追いかけているとか?」作ったような音質、女性は先ほどまでアイラ・クズミの楽屋にて警視庁刑事、佐山の聴取に引き止めを食らった人物。傍らに寄り添う相手、つまり男性とは別れて行動しているようだ、種田はさっと特別室に視線を走らせる。彼女だけが空間を独り占め、ライブ中なら人が来ないのも当然、意外と合理的な頭の働きもっている、種田は彼女の見方を変えて、切り替えた。 「ロッカーの仕組みが気になったのですよ。そちらは、買い物といってましたけど、このビルにわざわざ足を運…
「当日特別室を利用した方々の部分だけです」 「プライベートな空間ですので、お客様の了承を頂いてきます」風を切るみたいに熊田に応対した受付嬢はカウンターの切れ間から、特別室に滑り込むように消えた。沈黙。 種田はバッグが持ち去られた可能性と意味を考察する。短時間における思考は、とっぴな発想を加えると彼女は経験から学んでいた。バッグはこの目で見ていた、ピンクの装飾、バッグは彼女の持ち物だ。持ち出したにしても検査を通り抜けたとは到底思えない。また、殺される前、会場に移る前に、受付に被害者のバッグを預けたほかの観客がいたとして、受付に預けたバッグはすべて徹底的に、隈なく、特殊で一見して高価な代物であるそ…
遠距離に立って見上げる青川セントラルヤードはかすむ上空の雲を三本の槍が突き刺すようだ。O署の熊田と種田は日井田美弥都に名残惜しい別れを告げ、都内に引き返して、彼らのつま先は一ヶ月前の不可思議な事件現場を向く。最寄り駅、構内のほうが若干騒々しさは上回るか、種田は熊田の後頭部を視界の中心に入れて、雨の上がった夕方の淡く染まる空を前方、隙間なく並べ建つ高さの異なるビルの間に望んだ。やはり、上空の開き具合が方向感覚に左右するらしい、大まかな距離感覚と目的地付近の風景が道を覚える種田の手法である。北や南といった方角の概念はあまり持たずに、見慣れない場所に赴く場合は主要な地点に後方を振り返る。帰りの風景を…
このまま飛行機に乗って帰りたいのは山々であるが、捜査の継続を任されたのだ、あきらめるわけには行かない。しかし、手がかりを掴むどころか、特別室の観客の背後関係が浮き彫りになり、疑わしさ、要するに被害者を殺害する動機が垣間見えたに留まって、先へは見えない壁が邪魔をしているように、前後左右に行き場を失っていた熊田である。 遅延の文字を願ってしまうやましさ、熊田は搭乗ゲートへ美弥都を送る。種田は音もなく傍に付き添う。 「私はこれで」 「何か気づいたことがあったでしょうか?」最後に熊田は尋ねた。 彼女は一人になれる喜びからか息を呑む微笑を顔に浮かべた。「……わからないことが、わかってしまえば、一つの前進…
「見送りは結構です」警視庁佐山の独演会が幕を閉じたHホール、アイラ・クズミの楽屋を後に、熊田、種田、日井田美弥都は、最寄り駅を目指して地上、歩道を進む。美弥都の隣に熊田が平行して歩き、種田は一列後ろを歩く。小雨が降り出した。傘を差すのは、通行人の数人。用意がいい、天気予報に従順だ。 「お邪魔ですか?」熊田が美弥都を見ずにきいた。 「私に捜査の権限はありません」 「闇雲に探して待ち望んだ成果は得られない、学んだ教訓に従います」 電車に乗り込む三人。駅は混雑、人と人の距離が近い。かろうじて電車がホームに留まる時が人の顔を見ないでおける。車内、つり革に掴まり三人は、雨を含む衣服の水分が蒸発する車内に…
「現在は?」 「私は私を一人で支えてる、転びそうになっても、バランスを保つためもっと身軽になるでしょう」 「さびしくはありませんか」 「誰かと常に一緒ではいられない、それらの対極は他人の人生に干渉すること。私は私でいられるためのことだけが見えているし、人の人生を覗く余裕、いいえ、私をもてあます暇はない」 「あなたの曲を聴いて、勇気をもらった、人生をやり直した、そういった声が聞かれますが、いかがでしょうか」 「何度も言います、正確には三度目ですが、私の曲を聴いたのは観客です」 「最後に、新曲の構成について、概要だけでもお聞かせ願えればと思います」 「すべてを盛り込んだ曲」 「集大成ということです…
「コミュニケーションは無駄と思えても、それが女性という生き物ではないでのしょうか」 「必要と思っている、思い込んでいる。あるいは脳が男性とは異なるから、発達する脳領域に違いが認められるから、どれも一つとして、例外に目をつぶっているように私は思えます」 「これまで結婚を考えた人物はいらっしゃいました?」 「一つ。プライベートな質問及び具体的な私を特定する質問事項はあらかじめマネージャーが注意喚起をあなたに対して行っていたはずですが、聞かれていないのですか?」 「ああっと、これは。すいません、すっかり忘れていまして。気分を害されたのなら、謝ります」 「日本語は通じていないのかと思いました」 「それ…
「それについてはどのように捉えます?」 「なにも」 「なにもとは?」 「私から発信されたのですから、解釈は聴衆に委ねる」 「つまり、すべて事実ではないにしても少しは実体験が書かれている」探るような目つき。 「こういった話が続くのでしょうか?私は何一つ聞かされずに、ここに座っています」 女性は雑誌名と今回の取材内容を説明した。特集記事の取材であること、表紙に私の写真が乗ること、来月の発売、写真は許される限りの掲載を希望したいが、私の要求を受け入れる体制も可能であることをてきぱきと述べた。カメラのフラッシュも止む。インタビュアーの傍らに立つマネジャーのカワニは恐縮しきった表情で現場に立ち会う、本来…
マネージャーのスケジュール変更に合わせ、作曲作業は二時間後に不本意な区切りを課せられたアイラ。 すみやかに時間は経過。肩を叩かれるまで、時計と時間そのものに彼女は無頓着。 掃除の大変さを想像しても、使用する器具や脚立の高さ、手に持つ汚れを落とす掃除用具のイメージもぼんやり、それぐらいに天井が高く、押し付け過ぎない木の質感の空間の上部、この世にもめずらしいタイプの、いつも利用するレコーディングスタジオに見慣れない仕事相手とアイラは対峙する。 マネージャーの話と根本的な食い違いをアイラは早々に感じ取った。カメラが見えた時点でそれは確信に変わった。 小さくため息。写真は断ってきたはずだ、特に顔を重視…
「いいえ、熊田さんと種田さん、それにそちらの日井田さん、ドクターと会場で捜査にあたった鑑識たちの共同作業です」重症、熊田は呆れて、とがめる気すら薄れた。これが真相を解き明かす芝居なら、拍手を送りたい。それぐらいに演技は迫真であった。 「不安定な過程を基に推論を組み立てる場合、証拠や整合性高める事例をあなたはデータに組み込まなくてはならない。しかし、あなたは推論に推論を重ねる。私を含めた死体にかかわりの高い観客とドクターに関連を結論付ける決定的な証拠は不十分だとは思いません?」美弥都は、かなり譲歩した言い方で、佐山の顔を立ててた。相手の特性を読み取った、対応。種田ならば、立ち直れない辛らつで正確…
「ステージは見下ろす格好です、あなたがもっとも光を浴びて、観客席はそれに比べ、落ちた照度。あなたがもっともはっきり被害者とドクターの対応を見ていた人物。怪しい動きがドクターにあったのでないのでしょうか?」自信満々、顔に生気が戻る。先ほどの、落胆と混乱を覆す、佐山の発言。論理の展開はかなりとっぴ。この発想が予想するに佐山の推理の要らしい、と熊田は感じ取り、アイラ・クズミの返答を待った 「彼の手元は彼自身の体が私の角度の視界を遮っていた。そちらに立つ人物が観客の動きをけん制して、周囲を見張り、あなたが医者の傍らで、ドクターと死体を調べていたように思い起こされる」手のひらが向けられたのは種田である。…
「食べたのかもしれません」きっぱり、佐山は敷地の反論を一蹴した。 敷地は渇いた笑い、そして腹からの笑いに変わった。「何を言うかと思えば、食べたって、ええ、それは見つかりませんよ。ですけれど、吸殻を腹に収める事は私の特技ではありませんよ。私からこっそり回収した吸殻を手渡されて、ここの誰か、もしくは他の観客が口に運んだかもしれない。可能性は限定されるどころか、広がってしまいます。推理には遠く及ばない。しかもそれは命を落としたタバコですよ、観客のどなたかが会場を出て亡くなった事実は聞いていない。……あきらめましょう、こんな無益な討論は。時間を有意義に使いたいと願っているのは、あなたも私は同じはずだ。…
「被害者の吸殻は見つかりましたか?」熊田は、話の展開に困惑する佐山に助け舟を出す。佐山は猫背、前傾する上体を正して、頷き、音声はならない感謝を熊田に言う。 「少々腑に落ちない点を皆さんに言い忘れてました。ライブ開演の直前、被害者は喫煙室に足を運んだ。そこで、タバコを吸っていたのですが、彼女の吸殻は鑑識の捜索では発見されなかった。敷地さんは、被害者と顔をあわせたそうですが、彼女は本当にタバコを吸っていたと断言ができますかね?」 「棘のある言い方ですね。僕が嘘を言ってるとでも言ったように聞こえます。気のせいかな」 「状況から考えますと、吸殻はおかしなことにあなたのものまでも綺麗さっぱり、吸煙と灰皿…
アイラは瞼を下ろした。 可能性を秘めた突進力、細部にいたる曲を支える背景、現在と未来を見せる斬新なスタイル。 三つの円が交差する箇所に赤く印。 何度も思い出しては、忘れて、また思い出す。純化され、そぎ落とし、加えて、はみ出しを拭って、正しい位置を決める。 後は流れに任せる。決してあせらない、締め切りもあえて、頭から取り外す。生活の一部に、ちょっとした隙間に、曲との対話、話しかけて相手の声を聞く。訂正がほとんど。でも、仮や、もしかして、むしろ、たぶん、そういった曖昧さが確信に表情を変えてくれたらば、もうこっちのもの。 今はどのあたり? 難しい質問だ。だって、曲が出来上がってからしか応えられない。…
焦点は調理場の疑うに移った。料理に触れる人物は確か二名だった。一階の配置図に配膳用のエレベーターがあったと記憶する。料理人にも毒のようなものの混入は行えた。しかし、議論は被害者を狙った計画的な犯行か、不特定を狙った無差別の犯行かに意見が分かれる。 ここで刑事が新情報を伝えた。死に至らしめた物質は特定の人物、つまり被害者の遺伝的な素因を活性化させる物質であり、それが被害者に確実に作用したのではないのか。また、他の観客にも死に至らしめる被害をもたらす可能性があったらしい、との検死報告の結果だ。ただし、一般に毒と形容される物質は料理からは検出されず、飲み物も同様に無反応。 刑事の表情は明るいまま、ま…
楽屋に閉じ込められたアイラは、身に降りかかる状況を整理する。応接セットに女性を座らせて、刑事の説明が再開した。まず、この楽屋は私が先ほどまで収録を終えて、普段着に着替えを済ませ、靴を履き替え、汗をぬぐい、飲みかけの水を空に、さらに新しい一本を手にとって、楽屋を出るつもりだった。そこへ、サインと握手を求める楽屋訪問の観客が押し寄せ、無理やり名前と握手に貴重な時間を割かれた。そして、楽屋に演説のように観客に話しかける刑事が楽屋に関係者以外を追い出して、現在の不可思議な有様を演習してしまう。あと、遅れた二人が入室を許可されていたか。 私がここにいるべき価値を刑事は見出しているようだ、時折、こちらに視…
「バッグって見つける必要があるの?」女性が素っ頓狂に、場の雰囲気、思考に傾きかけた状況を無造作に壊す。 「重要だわ」美弥都が囁いた。きりっと、女性の目つきがきつく、美弥都を射殺す。 「殺され方がわかって、それで事件は解決じゃないの?」 「死亡に使用された物質の発信源がバックから除外される」 「それで?」 「質問は、考えて問いかけるべきもので、人に解答を言わせているだけでは、あなたの理解に遠く及ばない。いいえ、一生記憶として残らないでしょう」 「何、その言い方!」 「言い方?では、言い換えます。無能な人物に理解を超えた解答は、動物に話しかけているようだと、こう言っているのです。だいぶ、私も譲歩し…
「弁護士を呼ぶのでしょうか?あなたの首を絞めるとも限りません。やましいことがないのであれば、素直に従うべきで、あなたは時間がないとも言っていた。行動は矛盾してはいないですか?」 「事件から一ヵ月後に事情聴取?明らかに疑いを強めた証拠。誰かと違って、そのあたりの勘は働くので、僕は」 「時間を決められたら、いかがかしら?」日井田美弥都が、透き通った音声を吐き出した。 「時間ですか?」佐山が動揺している。時間も何度も試した今日の披露であったのだろう、不測の事態には弱い。 「ええ、もちろん、皆さんも正直に内実を打ち明けて、それらの秘密を共有する代わりの時間制限です。互いの秘密に口外しないという戒律を設…
「あんなばあさんとお茶に付き合う趣味はないね」男性が鼻を鳴らした。 「事件の二週間前、あなたは被害者の佐知代さんと、都内のホテルで食事をされましたね。お隣のあなたも同席をされていた。かなり苦労しました。佐知代さんは、ほとんど外出先の記録を残されない、知人と会う場合、プライベートな会席は付き人の車には乗らないそうですね。知人たちと別れた場所でわざわざタクシーに乗って移動、その後自家用車の待機場所を端末で指定、タクシーから乗り換えていた。私みたいな庶民にはわかりませんが、どういった人物と合っていたのか、それすらも被害者の仕事には関わりが深かった、とみるべきでしょう。もちろん、憶測です。ただ、自宅を…
「はじめ、がどの段階かにもよりますけど、明らかな外傷が見られないごく初期の見解であれば、二つの選択肢は生きていますね」 「刑事さん、あなたと後ろの人」丸みを帯びた男性が熊田と種田に指を指す。「会場にたまたまアイラさんのライブを見に来ていたのは、ちょっとでき過ぎてやいましませんか?」男性は言葉遣いに気を使う。アイラに聞かれていることを意識した言動だろう。 「それは、被害者の警護をお二人が任されていたからなんです」熊田の代わりに佐山が間髪いれずに応えた。観客の視線と首が、佐山に引き返す。長い試合、ラリーが続いているみたいだ。 「やっぱり、狙われてたんだ。だったら、殺されたのよ」女性が声を上げて、隣…
「遺伝子医療は九円さん、あなたの息子さんが研究機関の代表を勤めていますね?被害者との接点を隠していたわけではないようですが、積極的にあなたの口から関係をおっしゃらなかったのは?」窓側の九円に特別室のほか三名が彼を注視する。対面の新谷、熊田、日井田美弥都は微動だにしない。片足のソールを壁にくっつけるアイラはぼんやりと応接セットに視線を漂わせているようだ、種田は九円の音量の合わせて、耳を研ぎ澄ませた。 「……心外ですな。私は一線を退いた身、経営権も株の所有も会社のすべての帰属は放棄をしております。あのときは、彼女には申し訳なかったのですが、疑いは長時間の不当な拘束を招く恐れがあった。やましいことが…
「彼女は健康体のそのもの、たしか先々月の健康診断の結果に異常は見られなかった。食事も適量を摂り、運動は散歩。庭仕事で体を動かしてもいたようで、お酒は一日おきに飲まれていた。年齢の高い方の生活習慣として、不健康を誘発する素因は見当たらないとの解答を、専門医に伺ってますので、身体面からくる資産への不安はあまり考えていなかったように思います」佐山は続ける。「さらに、医療分野へ進出を視野に入れた事業を考えていたようですね。来月に再来年完成予定の遺伝子解析と素因遺伝の発見を基にした総合的な医療機関の出資を視野に、会合と面会、技術者や他国の研究者たちに情報を直接尋ねる機会を設けてもいました」 佐山はわざと…
「ええ、口を挟むつもりはない。お好きなように、私は部外者に近い」 「この間の初動捜査で批判を受けないで済みました。熊田さんにはなんとお礼を言っていいのやらで」佐山は頭をかく。「ですけれど、ううんと、ここは私の顔に免じて……」 「隅に待機してます。ちょうど立っているのも疲れて、日井田さんも座りませんか?座るぐらいなら許可してくれますよね?」 「それはもう、どんどん座ってください。あっ、私の椅子ではありませんけど」 観客は応接セットのソファに座り、対面に容疑者たちの表情をきっちり逃さない体勢で構える新谷と熊田、日井田美弥都が腰を下ろして、アイラ・クズミはギターを飲食物を除けて長机に下ろす、佐山は腕…
種田は人が出払う部屋を見渡した佐山の息遣いを遮って、まもなく到着するはずの熊田を存在を彼に知らせた。佐山は、私たちがホーディング東京で起きた事件への長期間における関与を驚くかのような表情、胸に抱えた発表を引きのばす行為に、僅かに表情がゆがんだ。しかし、それは予測してはじめて感じ取れる。二人の刑事が会場にいたとしても休暇を利用した単なる観客であると、佐山は捉えていたのだろう。新谷が気が付いた時の驚きみせた反応もここへ来ることをまったく予期していなかったように思う。 熊田の登場までしばらく先の見えない待機を命じられる特別室の観客は、各自これまで人を使役、つまり操る側の人間たちであるために正当な見解…
「地下、アイラ・クズミの楽屋です」 「帰らないのか?この後の行動は、自由だが」 「いいえ、帰ります。ですが、こちらに来ていただかなくてはなりません」 「正当な理由は?私は彼女のファンではないよ」 「警視庁の佐山さんと新谷さんが、一部のお客、正確にはホーディング東京の特別室を利用した四名を引き止めて、これから事実確認を行うそうです」 「……だそうですが、どうしますか?」熊田の声が離れた、電話口で誰かと話してる。誰か?あいつしかない、ぬけぬけと捜査に加わるとは、まったく。「そっちに行く、ああそれと……」 種田は通話を途中で切り上げた。このぐらいの仕打ちは当然。認められるべきだ。アイラが笑っている、…
「皆さん、どうかお帰りはもう少し待っていただきます」佐山が前回の後ろ向きな態度は微塵も見せない、胸を張った姿勢で、言い放った。脇に従える新谷も、まあまあとこちらを宥める。芝居がかった試みか、それとも新谷の咄嗟に利かせた機転だろうか。彼女は経験が浅く、波及する影響に乏いため、大胆な行動に移せてしまう。種田は不毛な分析を切り捨てて、自分よりも、計り知れないほどこの空間に嫌気がしてるアイラを眺めた。目が合う。感応速度が速い。全体と一点の両方の把握が可能らしい、意外と頭は働くのかもしれない。売れている、という世間での認識は彼女の曲が空港、乗り降りの駅で三度も耳にした今日の経験が発想の由来である。種田自…
種田は強引に係員に背中を押されて列の最後尾に付いた、関係者が通るであろう無機質なドアを通過、階段を下りる、そして廊下を早足で先を進み、止まった。列は種田も入れて五人。前後を係員が挟む隊列である。種田はあえて指示に従う。列がドアに吸い込まれる。 「帰ります」アイラ・クズミだ、肩を竦めるスタッフと対峙。「会員?それは会場、主催者側の経営に関する集客の一環である。出演者個人はあくまでもオファーを受けた側、そしてお客を集めたものあなた方。私が不測の事態に支払う代償に、会員との面会は一切含まれない、そう認識してます」 「しかしですね、そこ何とか汲み取ってください。もう会員の方を呼んで来てますから、どうか…
種田は観客の顔の向きが今まで注いだ、その対象の元、ステージへ向かう。引き返した。 口を押さえた観客、目を見張る係員、のけぞる隣人。 「……まさか、し、死んでる?嘘ぉ、またなの?」女性が引きつった表情でつぶやいた、彼女は前回のライブが開かれたホーディング東京の特別室で被害者、パティ・佐知代・ホープと共に死亡前の時間を過ごした人物である。派手な衣装と細身の体は健在。種田は最前列に躍り出て、ステージに背を向けた格好で視線が収集する一点に注目した。 ストローを吸い込む程度の口をあけ、浅く腰をかけた男性。 一列目の観客は微動だにしない、種田は異変を感覚的に読み取る。 種田は対象者を観察、数秒でかがめた体…
Hホールはたぶん考えるに無理やり予定の僅かな空き時間に開いたライブだったのだろう、せわしなく観客誘導をこなす係員の態度が目に余る。種田は、戻らなかった熊田の行き先はおおよその見当を付いてる、いいや十中八九間違いないはずだ。おそらく、あの人も、という予測は外れて欲しい。顔をあわせたところで今回は彼女も容疑者の一人、日井田美弥都への信頼こそ熊田の要望であっても、きっぱり捜査は警察のみで行うべき、と断言しなくては。 一列ずつ送り出す誘導係を種田は首をねじり、後方をみやる。やはり時計を確認している。次の収録、あるいは演奏の予定が迫っているらしい と種田は推測を立てる。目がくらむ急激な明るさを感じさせな…
あなたとの関係性が補修。不完全なのは承知。ペンキの塗り直し。 かつての私、きょうの私。どちらが本物? 確かめなくては。足が持ち上がる。隣は人、反対も人。動けない。やっぱり歌ってるのは私ではないんだろうか。 客席を注視。人の隙間に空間が見えた。座っている、前の席の人だ、座っていてもいいのか。 淡い青白い照明。夜から朝の狭間みたい。 思い出した歌。じっと二階の窓から朝日を待っていたのを思い出す。そうか、あの時は私を取り戻していた。探しているふりをしてね。 次の曲。階段を下りるみたいに、終わりが迫る。今度は夕日。 聞き入っていたら、もう最後の曲。はじめてしゃべった。終わりと始まり、挨拶が混同。 力が…
懐かしい、隣で声が上がる。失敬な、私はいつも聞いて歌っているではないか。さすがに私は良く音が聞き取れている。あなたに届くように私が歌えているがはっきりとくっきりそしてしっかり受け取ったわ。 なんていう陶酔感なのかしら。いつもと違う曲に聞こえてるのは私だけ? ホーディング東京の映像が勝手に思い出された、何これ。変だ。とても鮮明に映ってる、いつも思い出す映像は白黒なのに。女性が倒れた、そうだ、人が亡くなった。誰だろうか、名前は思い出せない、知り合いではなかった。私の向かいの席が空いてる、一人で私は会場を訪れたのか、そこは曖昧。誰かが立ち上がった、女だ。直線上の視界に人影、壁から出てきたみたい、だけ…
サインを書類に書くようにアイラは渡されたペンを執った。それでも少女は喜びを体で表現、父親にうれしそうに掴まる。一人が許されたのを契機に、関係者が非公式に集めた親類、家族などが、数分おきに楽屋を訪れるようになってしまう。これはサインではなく名前を書いている、わざわざ説明を加えて私は五人分を書き終わったところで、ギターを手に持ち、サインを拒絶した。ドア口の人影は入っては、戻るを繰り返す。何が仕事だ、どこが夢を売る商売だ、売っているものたちが与える以前に本能に任せているではないか。まったく、どうしようもない奴らだ。 楽屋で十曲を歌いきった。一曲でウォーミングアップが終わるのだから、その後にでもサイン…
会場に場所を移してカメラを回す、本番さながらのリハーサル。できるだけ顔を向けるようにといわれていたが、アイラは近寄ったカメラには一切顔を向けず、近づきもしない。淡々と、スタンドマイクと一定の距離感を保って、十曲を歌いきった。 空気が重い。水を飲みつつ、誰も座っていない会場をステージから見上げるように客席に意識を向けた。声は後ろまで届くんだろうか、増幅された音、前と後ろ音の届きは変わってしまうように思う。ああ、けれど、スピーカーが中間を置けば問題はないのか。ステージの縁に立ち、両手を口に添えて叫んだ。 音の返りが面白い、ここは遅れて声が上下左右回って後ろから耳に届くんだ。 「ちょっと、会場に下り…
背負った楽器が密着、自宅を出て最寄り駅に飛び乗る。雪の予報をいつもはつけないテレビで情報を取得していた、通常よりも目的地に到着の三十分前を思い描いた今日の出発。曇り空には変わりない。昼に近い時刻の車内、しかし席には座れない混雑である。アイラ・クズミはつり革につかまり、揺れる景色を意識的に追った。 初めて降りる駅。参拝客、駅前の正面が参道らしい。あらかじめ覚えた道順を辿る。競技場にまずは看板に従って向かう。時々日差しが舞い込むが、晴れてるとは言い切れない天候を背中にアイラは会場であるHホールを目指した。十五分程度の乗車時間だった。 ホールの入り口でマネージャーのカワニが出迎える。建物は低層であっ…
「わたしが黒に近いグレーの容疑者という可能性を排除してます」 「特別室で聴取を受けていない、これはもしも容疑者ならばという仮説に、つまり私たちとの引き離しに説明が付きます。だが、ですよ。あなたは特別室に戻ったときも一向に姿を見せる気配がなく、ついには制限的な解放まで私たちに姿を見ることはなかった。また、私の隣にしかも平静と飛行機に乗って、おそらくはアイラさんの収録が移動の目的でしょう。そんな人が一ヶ月も容疑者に認定されながら、優雅に疑いを再燃させるかもしれない環境に身をおくとは、ええ、どうしても、いいえ、間違いなく私の判断は、あなたが警察の関係者であると言っている。あーあ、すっきり」 「病気み…
「そう」 私の意外な反応に、敷地は一瞬だけひるんだように気配が消えた。美弥都は首を回す。すると彼は、立ち上がってトイレに駆け込んでいった。小走り、乗務員が通路を駆け抜けて、ドアをノック。乗務員の機敏な動きに通路側の乗客が数人後方を振り向いて、事態の把握に努めた。そうまさに、危険に傾く前の不安を解消しているのだろう、美弥都は静けさを取り戻したつかの間を有効に利用、目をつぶり視界だけは現実と別れた。同時に窓のブラインドも下ろす。 「いやあ、参りましたよ。急にお腹を下して、ああ、失礼。配慮に欠けてますよね」敷地は大きくため息。「もしかして、寝てしまいました。残念だな、今日はあなたと会えたのが二番目の…
「東京観光ですか?お一人で」無駄が多い生地の採用、黒い薄手のコートがしわによるのも厭わない、彼は隣の席に落ち着いてしまった。 「観光ではありません、あなたの視界の先に見えるのは私と窓とその向こう、滑走路の数台の待機ジェット」 「面白い時間になりそうだ」彼は軽薄な笑みを浮かべて、顔にしわを刻む。無理に笑ったことで出来上がる印、紋章のようだ、美弥都はベルトのサインに従った。考えごとに最適な駆動音に浸るつもりが、替わろうにも早朝のビジネスマンが寝息を立てて、席は満席だった。眠ったふり、耳も都合よくふさげたらと海で生きた頃の機能に美弥都は思いをはせる。 「どちらまで?」男は顔を向けて話しかける。乗務員…
「目が見えていないのなら、気配でそれを察知したでしょうが、複数の気配を読み取れるとも思えません」日井田美弥都は、青のニットにそれよりも薄い色のジーンズ、丈の短いフライトジャケットのような上着である。女性らしさを隠したい、通常なら当てはまる概念だが、こと美弥都に関して熊田の予見は外れる。彼女ほど、内情を読みにくい人物はこれまでに出会ったためしがないほど。彼女は本性をさらけ出す、だからすべての人格が生き生きとしており、単純な一人の人間を軽く作り出す演技力を兼ね備える。しかし、彼女はほぼ一人の人格、性質に基づいて生活を送っている、少なからず喫茶店と我々警察に協力する彼女は、一人。 タバコを取り出さな…
会場に誘導された。席は決まっているらしく、またその席順は、前回のチケットに比例した配置になっているようだ。特別室にいた面々はさらに席のグレードが上がっている。正面の一列は見覚えのある横顔、後姿、シルエットで判断。しかし、招待状に座席番号は明記されてない。名前を確認して、席を誘導しているのだろうか。それにしては、無造作に席が案内係によって決められてるように思えた。 立ち止まって、階段を下りる観客と誘導係を熊田は観察していた。先を歩く種田が立ち止まって振り向く。行かないのか、犬のような物言わぬ訴え。 ホールのつくりは変わっている。ステージが一階よりも低層に設置、転びそうな段差を降りると一番下、我々…
「ガイドブックか、どこで買った?」 「空港。これは道路地図です」 「テレビ局までは電車で移動する、到着の誤差と渋滞の遅れはない」 「タクシーは使わないのですか?」 「一応、税金だからな」 「健全ですね」 「どこか気になる場所があるのか?」熊田は、間をおいて訊いた。 「いいえ。交通網の麻痺がもたらした場合のシミュレートを行っていたまで。観光に興味はありません」 「写真も撮らないのか?」 「外部機関に頼ってまで脳内を有意義な想像に使っているとはどうしても思えません」 「端末のことか」 「はい。私は覚えられる枚数をそのつど処理、容量をあけて今日を迎えます」 「そういう奴は珍しい」 「熊田さんは端末を…
事件当夜の都心交通網は乱れ、空の便も運行は停止。渋滞の列は翌朝まで止むことを知らず、空港や主要駅にたどり着けた利用客は、最寄りの宿泊先及び臨時的に空いたロビーの一角で一夜を過ごす。事件に関わった主要な人物、主に特別室に出入りが可能であった観客は全員が上京組みであり、彼らは翌朝の便で各自の住まいへ帰っていった。当然、熊田と種田も翌朝便に乗り、北海道へ帰還、同じ便の飛行機に日井田美弥都も同乗していた。しかし、昨日の雰囲気とはうって変わり、ロビーで待つ彼女に熊田は声をかけらなれなかった。彼女の特性には昨日の会話が積み重ねた意志の疎通を無残にリセットする機能が備わるのだ。 かくして、熊田と種田は午前を…
違う。 また、涙。 お祭り、海沿い、豊漁を願う祭り。にぎわうテントを抜け出して私は写真をとってもらった。着ぐるみと並んだポラロイド写真。私はもう一つ露店の人形が欲しくて、母親にねだったのだ、みんなが持っていて私が持っていないもの。しかし、手にした写真が先に願いをかなえて、本当を失わせる。二つ目の要求は母親に却下された。「どうして、きちんと選ばなかったのか」、と母親に言われて、私はただ首を振るしか答えられなく、家に帰るまで眠るまで私は泣いていたのだった。 今の私は私の求めに応じていない、ということだろうか。 わからない、だけど、泣いてる。 おかしい。楽しいのではない、卑屈なのだ。笑える。 私はこ…
いつもの場所。スタジオと呼ぶ部屋。私一人。みんな出払っているらしい、もちろんそれは私の新曲が未完成だから。コートとケースの雪を入念に払う。靴の雪は健在。録音機材を立ち上げる、電圧が下がって照明が一瞬息をついたように明滅。もちろん、目に見えないぐらい、いつも明滅してる。 出し方を探る声が不安定で感情が露わ。 いつもの場所、スタッキングチェアに足を組んで腰を下ろした。腿にギターをあてがって、それはそれは冷たいネックと弦を宥めるように触れた。ピックを挟む。予備動作は脳内でシミュレートが既に完了、指先は歩いたためにほかほか。足先が若干冷たい、だけど気にならない。録音機材の準備が整う。口をついたのは、昔…
短い期間に私を溶解させられるのは、ライブが最上である。では、曲はどうだろうか。アイラは首を振って頭に積もっているはずの雪を落とす。離れてしまった人を取り戻すためには……。 離脱から考える。離れるのは抗えない自然の流れ。町でのすれ違い、仕事場での接触、電車内の空間共有、各種対価を支払ったサービスは、時間の長さこそ違うが、瞬間的な関係である。後を引かず、接触後に体内に居座ったりしないのだ。笑顔で迎えて、足跡を丁寧に消して、部屋を出て行く。だから、離脱を追ってはならない。相手は、私の中に己の存在を見つけようとして、与えない私が登場したので身を引いた。彼らが私の元へ戻る時期は、彼ら自身が独りになる必要…
新曲を持ち込んだクライアントの打ち合わせが、予想するにきっかけだったように振り替える。それまでも作曲の方法は一応の完成をみていた。細かな修正に手を加える微調整、ほぼ無意識に作業に入り込める雑音の除去を完全に掌握しつつあったのは、確かに言えるか。良いことであったし、客観的な視点が欠落していたと、言えなくもない。しかし、離れて楽しむ時間は持てないスケジュール。 今回、久しぶりに曲にだけ集中でき、しかし何もしない期間を設けた。この曖昧な期間が変化に乗り出せた要因かもしれないと、アイラは推測を強めた。 雪も強まり、視界はさらに悪化の一途を辿る。昔ならば日常の光景、だいぶ風が止んできたか、雪だけなら移動…
渋滞を横目に湿気を含む雪が上下に忙しない、アイラ・クズミはレコーディングスタジオを黙々と目指す。もちろん、徒歩だ。靴はハイカットのスニーカー、ずんずん足が前に出る。この都市は全国各地の労働者が集まる土地にしては、北国の出身者が少ないように思う。また人が前方で天空を見上げた。両方向、道路の数珠繋ぎは一向に変化がなくて、アイドリングストップのエンジンがかかったり、止まったり。 大雑把に地図を眺めたのが、数分前の楽屋。スタッフ、マネージャーの静止を振り切って屋外に躍り出た。目的地への方角、歩くべき大通りの名称を頭に入れて、一つ目の通りを目指し、そろそろ北に進路を変えるか、という現在地。アイラは、二車…
「寄付をするのかもしれまんせよね」新谷の回答。 「そうですね。彼女は慈善団体の設立に関わったと聞きました。動物愛護の団体だったと記憶します」 「しっかり使われるのでしょうか、そういった財源は」だれともなにし呟きをぶつける。部下の鈴木に似た問いかける態度。若い年代が多用する傾向なのかもしれない。 「要求は尽きることを知らない、規模な拡大に応じた予算の増幅は火を見るより明らか。財布の一万円と無尽蔵に思えるクレジットカードを比べれば、支払いまでの思考過程に差が生じるのと同等」 タバコをくゆらせる九円は腕時計を何気にみた。「私たちはいつごろ外に出られるのでしょうかね」 その時、新谷に本部から連絡がもた…
「はい」 室内は三人。 「タバコを吸ってもよろしいですか?」九円は背もたれにつけた背中を離す。 「私は喫煙者です」熊田が返答。 「どうぞ。お吸いになってください。あなたにはその権利がある」美弥都も言った。 マッチが擦られる、九円は器用に火を灯した細い木を一往復の風で鎮火させた。 「あなたの他、特別室に出入りする観客の中に被害者と言葉を交わした人物がいたでしょうか?」美弥都は、彫刻のように首が鋭く天井に伸びた姿勢で直立。 「私が目で追いかけた限りでは、カウンターで一人若い男とそれから小柄な男が火を借りていたのは覚えています。それから、私は開場までは居眠りをしてまして、アナウンスで目が覚めて、そこ…
「別れを告げれて以来の再会が不自然な言動、とあなた方には見えていた。いやはや、隠し事はできません」照れくさそうに、老人は皺を寄せた。 「男女の仲であったと?」 「今でははっきりと言うのでしょうね、おおっぴらに。時代でしょうか、私はあまり自分の口から直接的な言葉を述べるは、どうも気恥ずかしさが勝るようで、まあ、はい、あなたの想像でほぼ当たってます」 「被害者のバッグ」美弥都が間髪入れずに問いかけた。九円の首が動き、美弥都に照準を合わせる。「彼女の所持品のバッグ、ピンク色のクラシカルなクラッチバッグです。おそらく、チェーンでショルダーバッグにもなる。ご存知ありませんか?」 「今日持っていた物ですね…
会場を入念に調べつくす日井田美弥都、熊田、新谷の三名は捜索を切り上げる。休憩を挟むため上階へ上がった時、受付に姿を見せた古風な姿の老人が声をかけてきた。時刻は午後七時を過ぎ。 「警察の方々」老人はしわだらけの手で招く。セキュリティのドアをくぐって、新谷が前に出た。 「何か、ご用ですか?」 「特別室に戻りたい旨を受付の方にお伝えしたのですが、融通が利きませんで、あなた方を待っていたところなのですよ」 「忘れ物でもしましたか、中に」 「まあ、そんなところです」新谷は受付に小走りに駆け寄って、事情を説明。四人は開かれたドアから特別室の木目調の扉に迎えられる。 老人が室内に入るなり、一歩前に出たかと思…
「前半は多少語弊があります」種田はやんわりと訂正。「彼女は現金を持ち歩かない主義、受付に彼女の付き人が必死の形相でやってきました。約束の時間を過ぎても地下の駐車場に現れないのを不審に思ったそうです。一人が好きだったようで、行動の詮索を付き人は控えていた、と証言しています。彼女の所持品は端末とタバコとライター、それにカードのみの財布。通りすがりの強奪とはどうしても思えません。彼女の移動は車が原則、ビルには入るまでに観客の数人が彼女を目撃している、見られていたのは事実。ですが、その彼女は特別室に数十分、待機。後をつけていたにしても、受付でずっと見張るのでしょうか?あそこに椅子はありません」 「なる…
「装飾品と、後は表現が難しいなあ。雰囲気というか、オーラというか、とにかく日本に染まっていない風貌が、僕に言わせたのかもしれません」 「自分のことなのに、理解されていないみたいな言い方」 敷地は目配せ。「あなたみたいな人はごく少数。ほとんどが、さっき別れた彼女たちのように、情報過多で溢れ返ってる。僕は仕事柄、世間に感覚を取り入れるセンサーを働かせる必要があるのです。不本意ですがね」敷地誠也は、ファッションデザイナーという肩書き。彼が渡した桜色の名刺を思い出す。このビルに敷地が展開する女性向けのアパレルを展開、都内に十店舗、全国に十二の系列店を構える、アリス・アラリスという社長を務めるのが彼だ。…
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