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さわやか易 https://blog.goo.ne.jp/kanouyuukougoo

易は難しい、易は解らないと挫折した方に、「さわやか易・講座」で解ったと言ってもらえれば幸いです。(猶興)

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2024/06/17

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  • (20)ササン朝ペルシャと東ローマ帝国

    祖国から離散したユダヤ人たちは何処に身を寄せたのだろうか。その頃の周辺国はどんな状況だったのだろうか。南側のエジプトはクレオパトラとアントニウスがローマ軍に敗れて以来、ローマ帝国の支配下にあった。しかし首都のアレクサンドリアはユダヤ教とユダヤ文化の中心地であり、その後のキリスト教文化もどこより発達していた。東のシリアやメソポタミア方面はセレウコス朝を倒したパルティア王国が支配していた。遊牧民のパルティアはユーフラテス川を境として、度々攻めてくるローマ軍を退けていた。そのパルティアを224年、アケメネス朝ペルシャの故地イラン高原から起こったササン朝ペルシャが滅ぼし、隆盛を取り戻していた。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は帝国を拡大し、黒海に面するビザンティウムに都を移し、自らの名に因んで、コンスタンティ...(20)ササン朝ペルシャと東ローマ帝国

  • ユダヤ教とキリスト教

    タルムード132年からの第2次ユダヤ戦争と呼ばれるバル・コクバの反乱は、ローマ皇帝・ハドリアヌスによる徹底的な弾圧で幕を閉じた。関係者は全て処刑、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りを一切禁じた。エルサレムの名もパレスチナと変更し、2度とユダヤ人社会が復活することのないように取り締まる。しかし、どんなに迫害されても挫けないのがユダヤ人である。周辺国に離散し、新天地を求めたユダヤ人もあるが、エルサレム周辺で隙あれば戻ろうとするユダヤ人もいた。AC70年に起こった第1次ユダヤ戦争でユダヤ教のよりどころである神殿を失った。神殿が無ければ、司祭は成り立たない。そこで、ユダヤ教存続のためにユダヤ人たちは宗教指導者ラビを中心にシナゴーグと呼ばれる集会所で情報を伝えあった。ユダヤ教の聖典は聖書とは別にモーセが伝えた口伝律法として...ユダヤ教とキリスト教

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