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さわやか易 https://blog.goo.ne.jp/kanouyuukougoo

易は難しい、易は解らないと挫折した方に、「さわやか易・講座」で解ったと言ってもらえれば幸いです。(猶興)

さわやか易
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2024/06/17

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  • さわやか易・講座 目次

    1、ご挨拶2、易の成り立ち3、文王の生きた時代4、孔子と易5、安岡正篤先生の「易学入門」(易の基本は八卦です。先ず、八卦を知ろう。)6、陽と陰、そして八卦7、八卦の解説(1)乾と坤8、八卦の解説(2)震(雷)と巽(風)9、八卦の解説(3)坎(水)と離(火)10、八卦の解説(4)艮(山)と兌(沢)(易にはどんな卦があるか?序卦伝で64卦の配列を知ろう。先ず始めの30卦)11、序卦伝(1)乾為天と坤為地12、序卦伝(2)水雷屯と山水蒙13、序卦伝(3)水天需と天水訟14、序卦伝(4)地水師と水地比15、序卦伝(5)風天小畜と天沢履16、序卦伝(6)地天泰と天地否17、序卦伝(7)天火同人と火天大有18、序卦伝(8)地山謙と雷地予19、序卦伝(9)沢雷隋と山風蠱20、序卦伝(10)地沢臨と風地観21、序卦伝(1...さわやか易・講座目次

  • 「山地剝」(卦辞)

    「剝」の卦は、陽なるものが段々削りとられて、衰亡していく世界である。「剝は往く攸有るに利しからず。」序卦伝に、「賁は飾るなり。飾を致して然る後に亨れば則ち尽く、故に之を受くるに剝を以てす。」とある。飾るということが、極まるならば、中身がなくうわべばかりになるという意味である。「往く攸有るに利しからず。」であるから、何かをしようとしても、うまく行かない。ますます悪くなるということである。六十四卦の中でも最悪とでも言える程、お先が真っ暗になる状態である。月も満ちれば欠ける。欠けてきた月が最後を迎えようとしているのが、剝である。もとへ戻ることは出来ないので、完全に欠けてしまい、又次の機会を待つしかない。そんな時代にあったとすれば、天の道に順い、時世に順い、自分の道を守るべきである。決して、進んでいき、事をなそう...「山地剝」(卦辞)

  • 「さわやか易」カテゴリー・一覧

    さわやか易・講座97話(作成中)浮生は夢39話(作成中)ユダヤ人の旅44話姐さんの憲法論40話アメリカを支配する者たち31話日本経済0成長の正体27話名曲はこうして生まれた50話名僧たちの求めたもの50話名画に学ぶ世界史71話20世紀からの世界史53話南北朝鮮半島物語6話ユダヤ系金融グループの世界支配6話プーチンの挑戦8話冷戦後の米中関係と日本10話~~~~~~~~~~~~~~~~おすすめHP;世界史の窓おすすめHP:趣味の歴史年表おすすめブログ:耕助のブログおすすめYouTube:経済ひとりがたり田村秀男・再生リストおすすめYouTube:ひとりがたり馬渕睦夫・再生リストおすすめYouTube:東住吉キリスト集会おすすめYouTube:日本の未来を考える勉強会おすすめYouTube:チャンネル桜おすすめ...「さわやか易」カテゴリー・一覧

  • 「山火賁」(爻辞)

    この卦の爻辞は、初、二、三の火の部分は飾るについて、四、五、上はその飾りを減らして行くという設定になっている。「初九、其の趾(あし)を賁(かざ)る。車を舎(す)てて徒(と)す。」まるで現代人に言えることである。車に乗らずに歩くことである。初九は、身分は低いが志正しい陽爻である。身なりを飾るの最初は先ず足を飾ること。姿勢を良くして歩くことは美しい。飾るの基本は正しく歩くことである。「六二、其の須(あごひげ)を賁(かざ)る。」何故、六二が須(あごひげ)なのか、よく分からないが、一説によると、三、四、五、上で顔が出来、三が顎にあたり、その下にあるので、「あごひげ」になったという。ここの六二は正しく応じる爻がなく、九三とは正しく比している。そこで、九三の為に飾っているという。それ程、教えのある説ではないが、そんな...「山火賁」(爻辞)

  • 「山火賁」(卦辞)

    人の生活には、言語、制度、礼儀、全てに美しく飾るということが大切である。物事を飾る道について説くのが、「山火賁」である。「賁(ひ)は亨る。少しく往く攸(ところ)有るに利し。」序卦伝に、「嗑(こう)とは、合うなり。物は以て苟くも合うのみなる可からず、故に之を受くるに賁を以てす。」「賁(ひ)は亨る」とは、物事を美しく飾ることは、大いに良いことである。「少しく往く攸(ところ)有るに利し。」しかし、あまりに過ぎてはよろしくない。限度を心得て行えば、宜しい。易においては、陽を質とし、質実な誠とする。陰を文とし、美しい飾りとする。質実な誠が本であり、美しい飾りは末である。論語にも、「質、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史、文質彬彬(ひんぴん)として然る後に君子なり。」といっている。すべて美しい飾りは、陽と陰とが程...「山火賁」(卦辞)

  • 「火雷噬嗑」(爻辞)

    ここでの爻辞は、初九と上九を犯罪者として、二から五までの爻を犯罪者を裁く、裁判官と見ている。その背景から言葉がつけられている。「初九、校(こう)を履(ふ)みて跡を滅す。咎无し。」「校(こう)」とは、足かせ、手かせ、首かせ等の刑罰に使う道具のこと。「校(こう)を履(ふ)みて跡を滅す。」は、足かせをかけられ、足先が見えないこと。初九は、身分低くく犯罪といっても大きなことは出来ない。そこで、足かせ程度の軽い刑で済んでいる。反省すれば、咎めはないだろう。「六二、膚(ふ)を嚙みて鼻を滅す。咎无し。」六二は中徳を備えた陰爻で、人当たりが良く、罪人の話しをよく聞く裁判官である。「膚(ふ)」とは、豚肉の軟らかいところ。「膚(ふ)を嚙みて鼻を滅す。咎无し。」は、この罪人は相当手強い相手だと思っていたところ、思いのほかすんな...「火雷噬嗑」(爻辞)

  • 「火雷噬嗑」(卦辞)

    この「火雷噬嗑」の卦は、合同、合併をする時の決断を卦辞に表し、爻辞では、その為に犯罪を犯した者への裁判を表したとの背景がある。「噬嗑(ぜいこう)は亨る。獄を用ふるに利し。」序卦伝に、「観る可くして、而る後に合う所あり、故に之を受くるに噬嗑を以てす。噬とは合うなり。」とある。「噬嗑(ぜいこう)」とは、噬は噛む、嗑は合う。つまり、嚙合わせることである。嚙合わせるということは、上顎(あご)と下顎が合わされることであり、そこから合同するという意味になる。ところが、人と人、団体と団体が合同としようとすると、必ず邪魔が入るのが常である。その障害物を噛み砕くように処理することが肝要になる。この卦辞では、その障害物を犯罪者として、獄中に入れて処理すると言っている。そこで、「噬嗑(ぜいこう)は亨る。獄を用ふるに利し。」とな...「火雷噬嗑」(卦辞)

  • 「風地観」(爻辞)

    この「風地観」の爻辞は、初六から六四までは、九五の天子に対する観方、考え方が述べられている。九五と上九では、天子の立場からの観方を述べている。「初六、童観す。小人は咎无し。君子は吝。」初六は、身分も低く、正しく応じる爻もなく、世間知らずである。「童観」とは、子供が物を観る時の観方、考え方。初六の観方は、「童観す。小人は咎无し。君子は吝。」何も解っていない。子供が物を見るように、浅薄卑近な観方しか出来ない。子供や小人の場合は仕方ないので咎めはないだろう。しかし、少し教養のある君子がその様な観方をしたとするなら、恥ずべき残念なことである。「六二、闚観(きかん)す。女の貞に利し。」本来の六二は位正しい中徳を備えた陰爻であるが、ここでの六二は初六とそれ程変わらない身分は低い者となっている。「闚観(きかん)」とは、...「風地観」(爻辞)

  • 「風地観」(卦辞)

    「観は盥(かん)して薦(すす)めず、孚有り顒若(ぎょうじゃく)たり。」観の卦は、二つの意味がある。一つは高い所から見渡す。一つは低い所から仰ぎ見る。この卦辞は、低い所から仰ぎ見ての感想になっている。「盥(かん)」とは、神事に手を洗うこと。薦(すす)むとは、神様に供え物をすること。顒若(ぎょうじゃく)とは、厳粛な姿。つまり、「観は盥(かん)して薦(すす)めず」観は天子が神事を行う時に、手を洗い、供え物をしようとする。「孚有り顒若(ぎょうじゃく)たり。」その姿は誠心誠意の真心そのものである。卦の形は、上に風、下に地である。風は順にして巽徳ある君主、地は従順な民を表す。天下万民が徳のある聖人を仰ぎ観て、自然に心服する。孔子の解説によれば、「風、地の上を行くは観なり。先王以て方を省み民を観て教えを設く。」とある。...「風地観」(卦辞)

  • 「地沢臨」(爻辞)

    「初九、咸臨す。貞にして吉。」初九は、身分は低いが、志正しい陽爻である。六四の大臣にも正応している。「咸臨」とは、「感じて臨む」と訓読し、未知なる世界に感激をもって臨むことである。その志を良しとするのである。それが、「貞にして吉。」である。「九二、咸臨す。吉にして利しからざる无し。」九二は、中徳を備えて、九五に正応している。初九よりさらに「吉にして利しからざる无し。」と祝福している。「六三、甘臨(かんりん)す。利しき攸(ところ)无し。既に之を憂ふれば、咎无し。」六三は、位不正、中徳はない陰爻。軽挙妄動の爻である。「甘臨」とは、「甘く臨む」真剣さがたりず、のんびりと構えている。ですから、「吉にして利しからざる无し。」となる。しかし、自ら反省し、憂い畏れて、臨み直すならば、咎めはないだろう。「六四、至臨(しり...「地沢臨」(爻辞)

  • 「地沢臨」(卦辞)

    「臨は元(おおい)に亨る。貞(ただ)しきに利し。八月に至りて凶有り。」序卦伝に、「蠱は事なり。事有りて而る後に大なる可し、故に之を受くるに臨を以てす。」とある。何の事故事変もなく、泰平無事であるばかりでは、大きくなることはない。臨は大きいことである。人間も事故事変があるたびごとに、大きくなるのである。「臨は元(おおい)に亨る。貞(ただ)しきに利し。」これから大きくなろうとする者を祝福して最大限の誉め言葉が並んでいる。「八月に至りて凶有り。」とは、一年の暦の上では「地沢臨」は旧暦12月の卦である。前の月に、「地雷復」で一陽が生じ、それが二陽になったのが「地沢臨」である。陽気が伸び春の訪れが近いとされ、期待される月である。そうしてみると、八月は四陰が生ずる「風地観」となり、陽気が衰える月に当たる。そこで、「八...「地沢臨」(卦辞)

  • 「山風蠱」(爻辞)

    「初六、父の蠱に幹たり。子有り、考(ちち)、咎无し。厲(あやう)けれども終(つい)に吉。」蠱(こ)はマンネリ化した弊害。幹は改革。「父の蠱に幹たり。」とは、父親が残したマンネリ化した弊害を改革する。「子有り、考(ちち)、咎无し。厲(あやう)けれども終(つい)に吉。」少し、ややこしいが、優秀な子供がいて、亡くなった父の名誉を傷つけることなく、改革出来れば、危ういところだが、最後は咎めなく済むだろう。本来、初六は身分は低くく、才能のない者のことだが、ここでは大役を担うことになっている。そんなところから、危ういがという表現になっているのではないだろうか。「九二、母の蠱に幹たり。貞にす可からず。」九二は陰位にいるが、中徳を備えた陽爻である。六五とは正しく応じている。「母の蠱に幹たり。貞にす可からず。」とは、母親が...「山風蠱」(爻辞)

  • 「山風蠱」(卦辞)

    「蠱(こ)は元(おおい)に亨る。大川を渉るに利し。甲に先だつこと三日、甲に遅るること三日。」序卦伝に、「喜びを以て人に随う者は、必ず事有り、故に之を受くるに蠱を以てす。蠱は事なり。」とある。随うことは良いことではあるが、随うことに慣れ、随うことだけになってしまうと、マンネリ感してしまう。そうすると、腐敗が生じ、閉塞化してしまう。蠱(こ)という字は、皿の上に虫が沢山いることを表している。腐敗したものには、虫が集まる。色々な事故や事件が起きることでもある。それなのに、何故、「蠱(こ)は元(おおい)に亨る。」の言葉がつけられているのだろうか。それは、そのマンネリ化を改めるチャンスであるということで、この言葉がつけてある。「大川を渉るに利し。」であるから、思い切った改革をしたら良いということになる。「甲に先だつこ...「山風蠱」(卦辞)

  • 沢雷隨(爻辞)

    「初九、官、渝(かわ)る有り。貞にして吉。門を出でて交はれば功有り。」初九は、身分は低いが、才能ある陽爻である。応ずる爻は正しくないが、六二には正しく比している。そこで、六二に素直に随う。「官、渝(かわ)る有り。」とは、官職にある者が、転勤すると解釈して良い。馴染みのない職場に行くこと。これは、「天火同人」の初九の、「人と同じくするに門においてす」と同じで、門外に出て、人と交わることは良いことだ。「貞にして吉。」であり、「門を出でて交はれば功有り。」新しい出会いが思わぬ功績になるかも知れない。「六二、小子に係(かか)れば、丈夫を失ふ。」六二は中徳を備えた陰爻で、九五に正しく応じている。「小子に係(かか)れば、丈夫を失ふ。」とは、小子とは正しくない六三のこと。丈夫とは正しく比している初九のこと。つまり、正し...沢雷隨(爻辞)

  • 「沢雷隨」(卦辞)

    「隨は元(おおい)に亨る、貞(ただ)しきに利し。咎无し。」序卦伝に、「豫(たのし)めば必ず随う有り。故に之を受くるに随を以てす。」とある。随は人に随うことである。この卦は人に随うについての道を説くのである。卦の形を見ると、沢の下に雷である。沢は喜ぶであり少女である。雷は活動であり長男である。長男が少女に随っている象である。これは強く道徳才能のある者が、道徳才能では自分より柔弱なる者に随っているのである。「隨は元(おおい)に亨る」強なる者が、柔弱なる物に随うことは、誠に喜ばしいことである。「貞(ただ)しきに利し。咎无し。」しかし、何でもかんでも弱者に随えば良いかというとそうではない。必ず正しい道に叶う者でなければならない。そうすれば、咎めはないだろう。「沢雷隨」(卦辞)

  • 「雷地豫」(爻辞)

    「初六、鳴豫(めいよ)す。凶。」初六は、身分低く、才能もない。ただ、身分の高い九四の陽爻と正しく応じている。「鳴豫(めいよ)」とは、評判になるほど喜ぶこと。つまり、初六は応じている九四が名声を得ていることを鼻にかけ、はしゃいでいる。これでは凶である。「六二、石に介(かい)す。日を終へず。貞にして吉。」六二は、中徳を備えた陰爻であるが、正しく応じる爻もなく、正しく比する爻もない。そこで、独立独歩、我が道を行くが如く、しっかりと自分の守るべき道を守っている。「石に介(かい)す。」とは、石のように堅く守ること。「日を終へず。」とは、その日のうちに済ます。つまり、為すべきことを、ぐずぐずしないで、しっかりと、行う。心がけ正しく、吉である。楽しみの卦である「雷地豫」での爻は殆どが正しくない中で六二だけは「貞にして吉...「雷地豫」(爻辞)

  • 「雷地豫」(卦辞)

    「豫(よ)は候(きみ)を建て師(いくさ)を行(や)るに利し。」周易が作られた時代は、殷の末期であり、戦争は常に起こり、平和な時代ではなかった。六十四卦の中にも戦争や国を建てるという話は多い。ここでもそんな時代を表している。豫(よ)とは、本来は喜び、楽しむという意味ではあるが、ここでは、じっと時を待っていた国造りの時期が来たことを喜ぶ背景になっている。序卦伝に、「大有にして能く謙すれば必ず豫(たの)しむ。故に之を受くるに豫を以てす。」とある。「雷地豫」(卦辞)

  • 「地山謙」(爻辞)

    「初六、謙謙す。君子用(も)って大川を渉る。吉。」初六は身分は低くく、能力もないが謙虚に徹している。「謙謙す」とは、腰の低いこと、並々ではない程、ヘリ下っている。そういう君子であれば、冒険しても良い結果になるり、吉だろう。「六二、鳴謙(めいけん)す。貞にして吉。」六二は中徳を備えた陰爻。「鳴謙(めいけん)」とは、腰の低いことが世間に鳴り渡っている。「貞にして吉。」正しいことであり、吉である。「九三、勞謙(ろうけん)す。君子、終有り。吉。」ここでの主爻。「勞謙(ろうけん)」とは、大いに勤労し、大いに功績がありながらも深く謙遜している。二爻、三爻、四爻を八卦にするのを互卦というが、「水」の卦となるが、「水」には、「労卦」という意味がある。これは流れる川を想定して、水ほど昼も夜も間断なく休むことなく、辛労難儀す...「地山謙」(爻辞)

  • 「地山謙」(卦辞)

    「謙は亨る。君子、終(おわり)有り。」序卦伝に、「大有なる者は、以て盈(み)つ可からず、故に之を受くるに謙を以てす。」とある。富めば富むほど、大きくなれば大きくなるほど、心から我が身を小さくして、よく謙遜して人にへり下らなければならない。謙遜は大有をよく保って失わないようにする道である。「謙は亨る。」自分の身を処するに謙遜であるときは、いかなるところにおっても、いかなる場合においても、必ず亨り、大いに伸び盛んになるべきである。「君子、終(おわり)有り。」君子はよく終わりを全うすることが出来る。君子と小人の違いは、「小人は欲有れば必ず競い、徳有れば必ず誇り、勉めて謙を慕わしむと雖も、亦、安んじて行いて固く守る能わず、終有ること能わざればなり。」「地山謙」は主爻である九三の一陽五陰であり、孔子の解説によれば、...「地山謙」(卦辞)

  • 「火天大有」(爻辞)

    「火天大有」という理想的な社会を実現するには、全階級が一丸となって努力する必要がある。その前提で読んで行くと、良く理解出来るだろう。「初九、害に交はる无し。咎あるに匪(あら)ず。艱(なや)めば則ち咎无し。」初九は身分は低いが陽爻として正しい位置にある。しかし、「火天大有」の時代は景気が良く、身の周りは誘惑が一杯である。そんな状況の中で、害毒になるような誘惑に交わらない。艱難を忘れず、常に戒慎恐懼するならば、咎められることはない。「九二、大車以て載(の)す。往く攸有り。咎无し。」九二は天子の六五と正しく応じており、六五が最も信頼する賢人である。六五の頼み事や相談事を全て引き受けている。あたかも、重い荷物を載せられる大車のようである。次々と課せられる仕事をこなして、前に進んでいる。勿論、咎めはないだろう。「九...「火天大有」(爻辞)

  • 「火天大有」(卦辞)

    「大有は、元(おおい)に亨る。」大有とは、陽なるものが盛大にある。誠に景気がよく盛んであること。序卦伝に「人と同じくする者は、物必ずこれに帰す。故に之を受くるに大有を以てす。」太陽が高く天上に輝いており、地上の万物はことごとく照らされている象である。卦の特徴は、五爻が陰爻であり、他は全て陽爻である。この主爻である六五が全ての陽爻を従えている。六五は陰であり、中庸の徳はあるが、自分の能力はない。しかし、能力のある陽爻たちが能力を発揮して盛大になっている。「水地比」と比べて見ると、面白い。「水地比」は五爻が陽爻で、他は全て陰爻になっている。「火天大有」とは反対である。これも五爻の陽爻に全てが従うのであるが、従う爻は全て陰爻であり、能力はない。自分の能力が全てに優っている。卦辞には、「比は吉。原筮(げんぜい)し...「火天大有」(卦辞)

  • 「天火同人」(爻辞)

    この爻辞を読んでいくと、九三から「何だこれ!」と思わせ、繋がりが解らなくなってくる。そこで、予めそのあらすじを説明しておきます。ここでは、六二が中心の優れた人物になっています。九三も九四も争ってでも自分の味方につけようとする。しかし、最後は正しく応じている九五が味方に付けることに成功するというストーリーになります。「初九、人に同じくするに門に于(おい)てす。咎无し。」この言葉は卦辞の言葉とほぼ同じである。野(や)が門になってるが、意味はそれほど変わらず、同志を集めるのに外の者に呼びかけている。勿論、咎はないだろう。「六二、人に同じくするに宗(そう)に于(おい)てす。吝。」一陰五陽の一陰。「天火同人」の主爻である。しかし、吝となっている。「人に同じくするに宗(そう)に于(おい)てす」本来なら、卦辞にそって宗...「天火同人」(爻辞)

  • 「天火同人」(卦辞)

    「人に同じくするに野(や)に于(おい)てす。亨る。大川を渉るに利し。君子の貞に利し。」序卦伝には、「物は以て否に終る可からず、故に之を受くるに同人を以てす。」とある。乱世の時代が終われば、意思疎通が活発になる時代がやってくる。同人とは、人と協同一致することである。「人に同じくするに野(や)に于(おい)てす。」とは、同志のものと協同一致する時は広く天下のものと共に行いなさい。つまり、自分の身内だけの集まりではいけないという意味である。因みに、城の外を郭(かく)といい、郭の外を郊(こう)といい、郊の外を野(や)という。野は遠い所であり、広い天下を意味する。「亨る。大川を渉るに利し。君子の貞に利し。」大いに発展するだろう。いかなる難問題も解決出来るだろう。君子の正しさと賢明さがものをいうだろう。「大川を渉るに利...「天火同人」(卦辞)

  • 「天地否」(爻辞)

    「初六、茅(ちがや)を抜くに茹(じょ)たり。其の彙(たぐい)を以てす。貞なれば吉にして亨る。」この言葉は「地天泰」の初九とほぼ同じである。ただし、初九と初六の違いがある。初六は能力のない低い身分であるから、連れてくる仲間も同じく能力のない者たちである。ただし、正しい態度であれば、吉であろう。「六二、包承(ほうしょう)す。小人は吉。大人は否(ふさ)がりて亨る。」六二は、能力はないが、中徳を備えており、九五とは正しく応じている。「包承(ほうしょう)す。」とは人の命令に従順に従うこと。九五からの指示に素直に従っている。「小人は吉。大人は否(ふさ)がりて亨る。」能力のない者はそれで良いのだが、能力のある者にとっては閉じ塞がることに我慢出来ないこともあろうが、仕方ない。「六三、包羞(ほうしゅう)す。」六三は、位も不...「天地否」(爻辞)

  • 「天地否」(卦辞)

    「之を否(ふさ)ぐは人に匪(あら)ず。君子の貞に利しからず。大往き小来(きた)る。」前回の「地天泰」の正反対であり、「通じる」の反対で「閉塞」を表している。序卦伝に、「泰とは通ずるなり。物は以て通ずるに終る可からず、故に之を受くるに否を以てす。」とある。「之を否(ふさ)ぐは人に匪(あら)ず。」君臣上下の意思疎通を閉ざす者は人間ではない。昔、中国の朝廷には宦官(かんがん)制度があった。時に人間味のない姦佞邪智なる宦官が君と臣の間にいて、上下の意思疎通を完全に塞いでいた。そんな情景を想像すると「天地否」が解るだろう。「君子の貞に利しからず。」どんな正しい考えを持った君子といえども、どうすることもできないのである。「大往き小来(きた)る。」これも「地天泰」の反対である。君子が全て外に去って行き、小人が内に蔓延る...「天地否」(卦辞)

  • 「地天泰」(爻辞)

    「地天泰」の特徴は「泰は通ずるなり」で上下の意思疎通が良いことでもある。各爻について言えば、初九と六四、九二と六五、九三と上六が全て正しく応じている。その意思疎通がより解るように、今回は初九と六四、九二と六五、九三と上六の順に説明することにする。「初九、茅(ちがや)を抜くに茹(じょ)たり。其の彙(たぐい)を以てす。征きて吉。」茅(ちがや)は草の一種。茹(じょ)は根が繋がっている様子。彙(たぐい)は同類。初九は下位にいる若く、有能な人材である。六四と意思疎通があり、何でも意見を聞いて貰える関係にあるので、有能な人材があたかも茅(ちがや)を抜いた時に、後から後から続く様に集まって来る。「征きて吉。」どんどん前に進んで吉である。「六四、翩翩(へんぺん)たり。富めりとせずして其の隣(となり)を以てす。戒めずして以...「地天泰」(爻辞)

  • 「地天泰」(卦辞)

    「泰は、小往き大来(きた)る。吉にして亨る。」序卦伝に、「履ありて然る後に安し、故に之を受くるに泰を以てす。泰は通ずるなり。」とある。人々が礼儀をわきまえるようになると、世の中の秩序が定まり、安泰になる。という意味であるが、泰とは泰平であり、安定である。「小往き大来(きた)る。」とは、小は陰、大は陽のこと。すなわち、陰爻は外に行き、陽爻は内に来る。ここでは上と下を外と内としている。「吉にして亨る。」吉よりもさらに良いとして、亨がついている。言うことなしである。序卦伝の「通ずるなり。」であるが、上にある坤(地)は下に向かう性質がり、下にある乾(天)は上に向かう性質がありので、相交わり、意思の疎通が通い合う。それで通ずるなりである。これは、応用して考えると、色んな場面を想像出来る。例えば、上は国で言えば、政府...「地天泰」(卦辞)

  • 「天沢履」(爻辞)

    「初九、素履(そり)す。往きて咎无し。」初九は身分は低いが、位置正しい陽爻。応じる爻と比する爻ともに陽爻で応じず、比せず、一人我が道を行く。「素履(そり)す。」は若者らしく率直な気持ちで、「往きて咎无し。」進んでいくので、何の咎めもない。「九二、道を履むこと坦坦(たんたん)たり。幽人(ゆうじん)は貞にして吉。」九二は陽爻ではあるが、下卦の中にいる。上の六三とは比するが、中徳があるので、惑わされない。「道を履むこと坦坦(たんたん)たり。」例え大事に向かうような時も平常心を忘れず、淡々として進んで行く。「幽人(ゆうじん)は貞にして吉。」幽人とは心静かに生活する者のこと。功名富貴を求めず、正しく、信念を曲げないので、吉である。「六三、眇(すがめ)にして能く視るとし、跛(あしなえ)にして能く履むとす。虎の尾を履む...「天沢履」(爻辞)

  • 「天沢履」(卦辞)

    「虎の尾を踏む。人を咥(くら)はず。亨る。」序卦伝では前の「風天小畜」を蓄えるとしていた。そこで、「物畜えられて然る後に礼有り、故に之を受くるに履を以てす。履は礼なり。」とある。「風天小畜」も畜えると止めるという意味があるが、「天沢履」も礼という意味と踏み行うという意味がある。この卦辞では、踏み行うの方を使っている。卦の形は、上に天であり、下に沢である。天は剛健、剛強であるので、大きな存在である。下の沢は少女であるので小さく弱い存在である。つまり、小さな存在である者が、大きな存在に従っている。近づこうとしている見える。大変緊張するし、勇気が必要である。大きな存在とは大きな人物の場合もあり、大きな事業でもあり、大きな目標の場合もあるだろう。その大きな物に向かって行こうとするのである。「虎の尾を踏む。」これか...「天沢履」(卦辞)

  • 「風天小畜」(爻辞)

    「初九、復すること道に自(よ)る。何ぞ其れ咎あらん。吉。」全体を通して、5つの陽爻たちは何か問題に直面し、陽爻らしく積極的に進んで解決しようと、立ち上がる。そこを唯一の陰・爻六四が「待って下さい。」と押し止めるという背景である。初九は若者らしく、自ら出かけようとするが、正しく応じている六四に止められ、元に戻る。それが「復すること道に自(よ)る。」それで、何の咎めもないだろう。「何ぞ其れ咎あらん。吉。」初九は「乾為天」では「潜龍、用ふる勿れ」である。「九二、牽(ひ)きて復す。吉。」九二は中徳のある陽爻であるので、自分の判断で元に戻る。それが、「牽(ひ)きて復す。吉。」「九三、「風天小畜」(爻辞)

  • 「風天小畜」(卦辞)

    「小畜は亨る。密雲、雨ふらず。我が西郊(せいこう)よりす。」序卦伝に、「比は比(したし)むなり。比めば必ず畜うる所有り、故に之を受くるに小畜を以てす。」とあった。小畜は、蓄えるという意味と、小が大を留めるという意味がある。この卦辞では、小が大を留めるという意味を使っている。この卦辞は、易を作った文王の時代を表しているので、その時代がどのような時代であったかを知らないと理解出来ない。ざっと、説明すると、殷の末期の時代である。暴君の紂王が暴虐無道の限りを尽くしており、誰もそれを止めることが出来なかった。西の郊外にいる文王は諸侯の一人に過ぎなかったが、他の諸侯たちは人望のある文王を頼り、期待していた。その期待は密雲のように沸き起こっているけれど、なかなか雨がふらない。非道な時代を終わらせてくれる恵みの雨を待ち望...「風天小畜」(卦辞)

  • 「水地比」(爻辞)

    「初六、孚(まこと)有り之に比す。咎无し。孚有り缶(ほとぎ)に盈(み)つ。終(つい)に来りて他の吉有り。」初六は身分低く、力もない。「孚(まこと)有り之に比す。咎无し。」しかし、真心から九五のリーダーを慕っている。咎无し。「孚有り缶(ほとぎ)に盈(み)つ。」その誠実は入れ物に溢れんばかりである。「終(つい)に来りて他の吉有り。」その誠実は思わぬ所で報われるだろう。「他の吉」とは、思いもよらない吉。「六二、之に比すること内よりす。貞にして吉。」六二は陰爻、陰位、中徳を備えている。そして九五とは陰陽相応じている。「之に比すること内よりす。」心から九五と親しんでいる。「貞にして吉。」正しく吉である。「六三、之に比すること人に匪ず。」六三は陰爻にして陽位におり、中徳はない。軽挙妄動の爻であるが、ここでも判断を誤っ...「水地比」(爻辞)

  • 「水地比」(卦辞)

    「比は吉。原筮(げんぜい)して元永貞なれば、咎无し。寧(やす)んぜずして方(あまね)く来る。後るる夫(ふ)は凶。」序卦伝に、「師とは衆なり。衆は必ず比する所有り、故に之を受くるに比を以てす。」とあった。比とは親しみ輔(たす)くるなり。人と人とが相輔けることである。「比は吉。原筮(げんぜい)して元永貞なれば、咎无し。」比は吉である。筮竹で占うように、人々と相談して決め、それが「元」「永」「貞」ならば、咎无しである。「元」と「貞」は「元亨利貞」にあるので、省略するが、「永」は久しくという意味である。いづれも、健全、おおらかである。「寧(やす)んぜずして方(あまね)く来る。」とは、四方から諸侯たちが大急ぎで集まって来る。「後るる夫(ふ)は凶。」でも、中には抵抗して集まらず、催促されてようやく集まる諸侯もある。そ...「水地比」(卦辞)

  • 「地水師」(爻辞)

    「初六、師(いくさ)出づるに律を以てす。否(しから)ざれば臧(よ)きも凶なり。」初六は陽位置にいる陰爻なので、一般の軍人と見る。「師(いくさ)出づるに律を以てす。」軍隊に出るには、規律を厳重にすべきである。「否(しから)ざれば臧(よ)きも凶なり。」厳正な規律もなくて、たまたま結果が良かったとしても、凶である。「九二、師に在りて中す。吉にして咎无し。王三たび命を錫ふ。」九二は、この卦の主爻。中徳を得た陽爻で、九五の天子から信任を得ている。陽爻はこの九二だけであり、全体のリーダーになっている。それ故に「九二、師に在りて中す。吉にして咎无し。」となる。「王三たび命を錫ふ。」王がたびたび言葉を寄せ、褒美を与え、信頼している。「六三、師(いくさ)或は戸(しかばね)を輿(にな)ふ。凶。」六三は陰爻で陽位にいて中徳もな...「地水師」(爻辞)

  • 「地水師」(卦辞)

    「師は貞。丈人なれば吉。咎无し。」序卦伝に、「訟には必ず衆の起る有り。故に之を受くるに師を以てす。師とは衆なり。」とあった。争いが大きくなると、必ず多数の人が集まって来る。多数の人が集まることの代表が軍隊である。師は衆であり、軍隊の意味である。軍隊には優れたリーダーが必要である。「師は貞。」リーダーは先ず正しく堅いことが第一である。「丈人なれば吉。咎无し。」リーダーは有徳の大人であれば吉。咎めはないだろう。「地水師」では2番目の陽爻がそのリーダーである。六五は天子と見る。残りの陰爻は全て部下の将校、兵士である。卦の形を見ると、上に地があり、下が水である。これは地の下に地下水が集まっている象である。地下水は自然の成り行きに順って出来るものなので、軍隊も無理することなく、自然に優れたリーダーの元に集まることが...「地水師」(卦辞)

  • 「天水訟」(爻辞)

    「初六、事とする所を永くせず。少しく言有り。終に吉。」初六は身分低くして、陽爻の位置にいる陰爻である。そんな立場で争っても勝ち目はない。言いたいことはあるだろうが、さっさと止めて忘れることだ。終いには吉になる。「九二、訴ふる克(あた)はず、帰りて逋(のが)る。其(その)邑人(ゆうじん)三百戸、眚(わざわい)无し。」九二は陽爻であり、中徳がある。「邑人三百戸」邑とは村、村人300人の代表として、訴えを起こしたが、勝ち目はない。争いを止めて村に潜んでいる。300人の村人にも災いは降りかからずに済んだ。訴える相手は君主である。九二は士であり、臣下である。言い分が正しくとも、通らない。悔しいが、諦める方が村人の為でもある。「六三、舊徳(きゅうとく)を食む。貞なれども厲(あやう)し。終に吉。或は王事に従ひて成す无し...「天水訟」(爻辞)

  • 「天水訟」(卦辞)

    序卦伝に、「需は飲食の道なり。飲食には必ず訟有り。故に之を受くるに訟を以てす。」とある。飲食を始め、人々は欲しいものは争ってでも求めるものである。需があれば、必ず「訟」がある。「訟は孚(まこと)有り。窒(ふさ)がり、惕(おそ)れて中すれば吉。終(お)ふれば凶。大人を見るに利し。大川を渉るに利しからず。」下卦の坎(水)は艱難、問題、悩みの種ではある。しかし良い面から見ると、上下の陰爻の中に陽爻があり、この陽爻が孚の心を持っており、しっかりした信念になっているとも言える。それが、「訟は孚(まこと)有り。」である。「窒(ふさ)がり、惕(おそ)れて中すれば吉。」とは、この陽爻は上下の陰爻に包まれており、信念を内に秘め、戒慎恐懼しながら、中庸の徳を保っているので吉である。「終(お)ふれば凶。」しかし、どこまでも争い...「天水訟」(卦辞)

  • 「水天需」(爻辞)

    「初九、郊(こう)に需つ。恒を用ふるに利し。咎无し。」初九は未だ身分も低く、要職にはついていない。険難からは遠ざかっている立場である。そういう者は平常心を忘れずにいることである。そうすれば、何の咎めはないだろう。孔子の解説によれば、「難を犯して行かざるなり。」とある。わざわざ、険難の中に入っていこうとしないことだ。「九二、沙(すな)に需つ。小しく言有り。終に吉。」九二は武士の立場で中を得た陽爻である。険難(水)には少し近いが、じっと需つべきである。少し非難されることはあっても、事なきを得るだろう。「沙(すな)に需つ。」とは河の砂地という意味だが、現場にいるという意味である。「九三、泥に需つ。寇の至るを致す。」九三は「泥に需つ。」険難(水)の間近にいる。位置は危険な位で陽爻であるので、つい行動に出てしまう。...「水天需」(爻辞)

  • 「水天需」(その1)

    「需は孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。貞にして吉。大川を渉(わた)るに利し。」序卦伝には、「蒙は物の稚きなり。物稚きは養わざる可からざるなり。故に之を受くるに需を以てす。」とある。稚き者は精神的には教育が必要だが、物質的には飲食が必要である。「需は孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。貞にして吉。」需は待つということである。待つということは、行動することと同じく重要なことである。そこで、「孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。」という言葉がかけられている。物事が重大であればあるほど、その時期を待つことは重要になる。軽挙妄動する人間には正しく待つということが出来ない。必ず、時期の未だ至らないのに動き出し、失敗するものである。場合によっては、事業に失敗し、身を亡ぼし、家を亡ぼし、国を亡ぼすこともある。「...「水天需」(その1)

  • 「山水蒙」(その2)

    「山水蒙」の卦は、九二と上九の陽爻は、童蒙を教える師匠として、初六、六三、六四、六五の4つの陰爻は、教えを受ける童蒙として言葉がかけてある。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」この初六は年若く、身分低い子供と考えて、教育には規律を重んずべきことを説いている。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。」とは、子供の教育は規律をしっかり身に着けさせることである。「用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」しっかりとしつける必要があり、寛大にしてしまうと、後で恥をかくようになる。桎梏(しっこく)とは、桎は足かせ、梏は手かせであるが、悪いことをした時の、刑罰である。「九二、蒙を包む、吉。婦を納(い)る、吉。子(し)、家を克(よ)くす。」九二の陽爻は中...「山水蒙」(その2)

  • 「山水蒙」(その1)

    「蒙は亨る。我、童蒙(どうもう)に求むるに匪ず、童蒙、我に求む。初噬(しょぜい)は告ぐ。再三すれば瀆(けが)る。瀆るれば則ち告げず。貞しきに利し。」序卦伝に「屯とは盈(み)つるなり、物の始めて生ずるなり。物生ずれば必ず蒙なり。故に之を受くるに蒙を以てす。蒙とは蒙(くら)きなり、物の稚きなり。」とある。生まれる困難を示したものが、屯であったが、生まれた赤ちゃんは目が見えない。蒙昧である。目が見えるようになり、一人で歩けるように成るまでは面倒を見、そして独り立ちするまでは教育をしなければならない。その蒙昧を開く道を説くのが、蒙の卦の趣意である。蒙という字はつる草が覆い隠して樹が見えなくなっていることである。卦のかたちは、山の下に水で沼が広がっているとも言えるが、水を雲とすれば、雲が取り巻いて、山が見えない象と...「山水蒙」(その1)

  • 「水雷屯」(その2)

    「乾為天」と「坤為地」の次に来る六十二卦の始めであるので、説明するが、爻にかけられた言葉・爻辞はその卦の世界、時代に各爻がどの様に処すべきかを示すものである。「初九、磐桓(はんかん)す。貞に居(お)るに利し。侯を建つるに利し。」ここでの初九はこの卦の主爻である。最も重要な爻である。「磐桓(はんかん)す」とは磐は大きい石、桓は大きい柱で磐桓とはどっしりとしていることである。初九はどっしりと動かずに、正しさを守り、将来の国造りに備えている。私はこの初九を若き日の西郷隆盛を連想している。「六二、屯如(ちゅんじょ)たり、邅如(てんじょ)たり。馬に乗りて班如(はんじょ)たり。寇(あだ)するに匪(あら)ず、婚媾(こんこう)するなり。女子貞にして字(あざな)せず、十年にして乃ち字(あざな)す。」六二は下卦の中にいて陰爻...「水雷屯」(その2)

  • 「水雷屯」(その1)

    「屯は元亨利貞。往く攸(ところ)有るに用ふる勿れ。侯(きみ)を建つるに利し。」序卦伝の始めに、「天地有りて然る後に万物生ず。天地の間に盈つるは、唯だ万物なり。故に之を受くるに屯を以てす。屯は物の始めて生ずるなり。」とあった。屯は難きなり。すべて物の始めて生ずるとき、事の始めて起こるとき、創業の際には、必ず屯難がある。「水雷屯」の象は上の水は陥る、困難、悩みの種であり、下の雷は行動、創造である。つまり、行動しようとする者が、行く手に困難が待ち受けており、進むに進めない状態を表している。又、屯という字は、草木の芽生えを表しており、地中にある芽が地上に出ようとするが、中々出られないという形である。行き悩んでいる姿である。ここから、全ての事業、大は大なりに、小は小なりに、事を始めるものには、屯難があるのである。屯...「水雷屯」(その1)

  • 六十二卦に取り組む前に

    ここまで、「八卦の解説」、「序卦伝」、「特別な卦、乾為天と坤為地」と進んで来た。これからは残りの六十二卦ということになる。最初にも述べたが、易の理解には順序が大切であり、やみくもに取り組んでいけば、必ず途中で挫折する。今までの部分は易の基礎であり、原理原則を説いているものなので、解らなくなったら、何度でも繰り返して読んで頂きたい。さて、これからの六十二卦であるが、おそらく「何だこれは」とか「つじつまが合わない」と感じるだろうと思う。何故なら、この易は3000年前に出来上がったものであるので、時代や風習が今とは大きく違っている。そして、易は元々占いのために使われていたものと考えられるからである。とは言うものの、なかなか理解できないことがある。それは易の言葉は短い。簡潔に過ぎる。もっと解りやすくと思うのだが。...六十二卦に取り組む前に

  • 「坤為地」(その4)六五、上六、用六

    「六五、黄裳(こうしょう)、元吉なり。」六五は下から5番目の陰爻である。天子の位とされるが、「坤為地」の場合は皇后または天子に代わる摂政と考える。奇数の位置ではあるが、上卦の中央にあり、正位置にも優先する中の徳を備えている。「黄裳(こうしょう)」とは黄色の衣裳ということだが、黄色は天使の位を表す中央の色である。「元吉なり」はそのまま大いに吉だということ。ここまで来ると、「牝馬の貞」は顔を出さないが、貞であることは、自然に身に付いている。静かにであるが、堂々と振舞い、天使について行動している。最も優美で、威厳のある姿である。「上六、龍(りょう)、野(や)に戦ふ。其血玄黄(げんおう)なり。」上六は一番上の位にある陰爻。この位置も要注意の位である。六五の「黄裳元吉」から一転して戦うという言葉が入る。いったい、何...「坤為地」(その4)六五、上六、用六

  • 「坤為地」(その3)六三、六四

    「六三、章(しょう)を含みて貞にす可し。或は王事に従ひ、成す无くして終る有り。」六三は下から3番目の陰爻。3番目と4番目の爻は危険な位置とされている。特に陰陽が正しくない位置にある時は危険である。3番目は陽爻の位置なので、六三は正しい位置ではない。易が作られたのは周の時代であるから、3番目、4番目は王朝に仕える官僚や女官を指して言葉が付けられたと思われる。「章(しょう)を含みて貞にす可し。」の章は文章、美しい色彩である。美しい才能をも意味する。つまり、美しい才能を表に出すことなく、内に秘めて、貞を守りなさいである。「或は王事に従ひ、成す无くして終る有り。」の意味は、例えば、宮中で天子に仕える時は、常に自分を表に出さず、最後まで何事も天子さまに従っていれば良い。ということになる。「坤為地」の道は自分が首唱者...「坤為地」(その3)六三、六四

  • 「坤為地」(その2)初六、六二

    「初六、霜を履みて堅氷至る。」「坤為地」は全部が陰爻で出来ており、一番下にある爻を初六という。初六は未だ微弱なる陰と見る。霜を履むという微弱なる陰から、漸次に進んで、堅氷という強く盛んなる陰に至るというのである。陰の微弱なる時に注意しなくてはならないと戒めている。孔子の残した文言伝にはこの爻を解説した有名な文章がある。紹介すると。「積善の家には、必ず余慶(よけい)あり。積不善の家には、必ず余殃(よおう)有り。臣、其の君を弑し、子、其の父を弑するは、一朝一夕の故に非ず、其の由って来る所の者、漸なり。~」とある。もう少し続くのだが、意味は良い行いをする家には良いことがあり、悪い行いをする家には悪いことが起こる。家来が主君を殺したり、子が親を殺したりするような大事件は、一朝一夕に起こるものではなく、少しづつ積も...「坤為地」(その2)初六、六二

  • ブログ開設18周年を迎えて

    残暑お見舞い申し上げます。パリ・オリンピックも終わり、その余韻と猛暑だけが残されました。早いもので、「さわやか易」のブログをスタートして、18年の月日が流れました。61歳の時でしたが、始めた動機は、その頃夢中になるほどはまっていた易の魅力を誰にでも解るように伝えることでした。ところが、易の魅力を伝えることは容易な事ではありませんでした。ブログの内容は次第に易から離れた内容になってしまいました。私にとっては、それはそれで有意義でした。世界史を始め、知ってるようで知らなかったことが沢山あり、良い勉強になりました。「さわやか易」からすると、随分道草ばかりしていたことにはなりましたが。ところが、今年の5月頃に、ふと、もう一度易をやってみようと思い立ちました。タイトルを、「さわやか易・講座」としました。長い道草にな...ブログ開設18周年を迎えて

  • 「坤為地」(その1)牝馬の貞

    もう一つの特別は卦、「坤為地」に進みます。三十二の陰卦を代表する卦です。ですから、例えば一番下の爻は初六ですが、全ての初六はこの性質を含んでいると考えて良いのです。陰の性質は柔でもあり、柔の代表でもあります。乾為天が天ですから、坤為地は地です。地は天にも負けない偉大な存在です。地はあらゆるものを蓄えています。あらゆる資源、動物、植物、鉱物、全て地が保有しています。聖徳ある皇帝の道を説いたのが「乾為天」であるならば、「坤為地」は皇后になる女性の道を説いたものでもあります。又、臣下の道を説いたものとも言えます。「坤は元亨利、牝馬の貞。君子、往く攸(ところ)有り、先んずれば迷い、後(おく)るれば主を得。西南に朋を得、東北に朋を喪ふに利し。貞に安んずれば吉。」「乾為天」の卦辞は「元亨利貞」でした。「坤為地」は「元...「坤為地」(その1)牝馬の貞

  • 「乾為天」(その4)九五、上九、用九

    「九五、飛龍、天に在り、大人を見るに利し。」九五の位は天子の位。上卦の中央にあり、中の徳を得ている。陽爻を以て陽の位にある。「乾為天」の主爻である。「飛龍、天に在り、大人を見るに利し。」とはどんな意味ですか?と問われて、孔子は「大徳ある聖人が位を得るときは、万民皆これを仰ぐ」とを説いている。あたかも、龍が起これば雲が従って起こる。虎が嘯けば烈しい風が起こる。同気相求めるのである。それと同じく、大徳ある聖人が作(おこ)って天子の位に即かれると、万物すなわち万民は、皆、その徳を仰ぎ見るのである。「上九、亢龍、悔在り。」昇り過ぎた龍が後悔している。上九の位は天子の上にあり、引退した天子又は聖人の位である。しかし、龍があまりに高く昇り過ぎたのである。雲のないところまで昇ってしまったのである。盈つることは久しくすべ...「乾為天」(その4)九五、上九、用九

  • 「乾為天」(その3)九三、九四

    「九三、君子終日乾乾、夕(ゆうべ)に掦若(てきじゃく)たり、厲(あやう)けれども咎(とが)无し。」九三の位は働き盛りの位置。朝から勤め励み、怠ることなく、疲れることもない。一日中働いた後、夕方には深く恐れ、深く憂いて、自ら警める。危険な地位ではあるが、咎めはないだろう。六爻の中では、三爻と四爻は危険な位置とされる。地位では三爻は課長、部長にあたり、建設会社であれば現場監督、銀行なら支店長というところ。終日忙しく、責任は重い。部下にも気を使い、上の役員にも忖度せねばならず、ミスは許されない。「終日乾乾」乾為天の乾の字を使っている。それ程、「乾為天」を象徴するほど、働きぶりを期待されている。「夕に掦若」とは働いた後に、深く反省し、明日の糧にしなくてはいけない。仕事と同時に道徳的完成を目指して、修養を続けねばな...「乾為天」(その3)九三、九四

  • 「乾為天」(その2)初九、九二

    「初九、潜龍、用(もち)ふる勿れ。」修養中の龍である。未だ世に出てはいけない。(今回から、爻辞に入る。下から、初九、九二、九三、九四、九五、一番上は上九である。)初九の龍は千年の間、地の底に潜んでいて、徳を養い力を養っているのである。帝王に成ろうとする王子は未だ幼少であり、師匠について学び、道徳の修養に努めている。地下にいる間は陽気がまだ弱く、成長を待たねばならない。孔子の解説書(象伝)によれば、「龍徳にして、隠るる者なり。世を易(か)へず、名を成さず、世を遯(のが)るれども悶ゆる无く、是とせられざるとも悶ゆる无く、楽しめば則ち之を行ひ、憂(うれ)ふれば則ち之を違(さ)り、確呼として其れ抜く可(べ)からざるは、潜龍なり。」とある。これを読むと、潜龍は帝王の子とは限らない。世に出る前に学んでいる者も、世に出...「乾為天」(その2)初九、九二

  • 「乾為天」と「坤為地」(その2)元亨利貞とは

    「乾は元亨利貞」「乾為天」の卦辞である。たった、これだけの文章である。陽の卦三十二を代表する卦の言葉は「乾は元亨利貞」である。「何だ、それだけか」そう思われる方もいるのではないでしょうか。しかし、これが十分に理解出来たなら、易の半分は理解出来たことになります。元は始まるという意味です。春夏秋冬に例えれば、春に当たります。儒教の仁義礼智に例えば、仁に当たります。亨は通じる、伸びるです。四季に例えば、萬物が成長する夏です。仁義礼智の中では礼に当たります。利は物事がよろしきを得ることです。四季では萬物が実る秋です。仁義礼智の中では義に当たります。貞は正しく、固いです。四季では冬です。実ったものが種となって翌年の春をじっと待ちます。仁義礼智の中では智に当たります。是非善悪を間違いなく判断し、正しい道を堅固に守りま...「乾為天」と「坤為地」(その2)元亨利貞とは

  • 「乾為天」と「坤為地」の解説

    「乾為天」と「坤為地」の解説

  • 易の決まり事と呼び方

    易には決まり事やルールがあり、独特の呼び方がありますので最初に押さえて下さい。易の六十四卦には卦全体を表す言葉「卦辞」と六つ爻それぞれに付けられた言葉「爻辞」があります。爻は合計すると、64×6=384爻あることになります。その内の半数192が陽爻で、もう半分の192が陰爻になります。一番下の爻を初爻と呼びます。そして、二、三、四、五と続き、一番上の爻を上爻と呼びます。陽爻を九、陰爻を六で表します。ですから、初九と言えば、一番下にある陽爻になります。陽爻と陰爻はそれぞれ正しい位置があります。陽爻は奇数の位置、すなわち、初、三、五が正しい位置です。反対に陰爻は偶数の位置、すなわち、二、四、上が正しい位置になります。上の卦「水火既済」は全ての爻が正しい位置にあります。次に、中心になる爻を覚えて下さい。それは下...易の決まり事と呼び方

  • ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦(その3)

    亨と利子は娘の結婚相手に求めるものは何よりも人柄だった。国際結婚は問題にはしなかった。「雷火豊」娘の結婚相手は洗練された人柄であり、家は元貴族の大富豪だった。結婚生活は順調だったが、娘の夫はあっさりと外交官を辞めてしまう。子供の頃からやりたかった職業であるマジシャンになりたいとのことだった。マジシャンを日本でやりたいと、娘と共に日本にやって来た。「火山旅」何処に行けば、マジシャンになれるのか全く解らなかった。夫のマジシャンとしての腕は相当なものだが、その世界で受け入れてもらうまでは大変だった。娘はマネージャーとして、あちこちと駆け回り売り込みを続ける。「巽為風」2年間かかったが、やっと仕事が入るようになる。夫のハンサムで洗練された身のこなしが評判になり、テレビ出演も多くなった。「兌為沢」娘夫婦の喜びは天に...ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦(その3)

  • ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦(その2)

    一方、怪我も回復し、会社に復帰していた亨は、文化部に所属し、忙しい毎日を送っていた。仕事が拡張し、飽和状態になっていた。「沢天夬」である。上層部と相談の上、一部の事業を独立させることになり、「スポーツ・サロン」を立ち上げ、亨は責任者になった。「天風姤」女優のA子さんがコマーシャルに起用され、話題になった。「沢地萃」予想以上に人が集まる新しい社交の場として定着する。芸能人や財界人などが会員になる。「地風升」次第に会員も増え、事業としても順調に進展する。亨は役員に昇格し、主な都市に支店を設けるようになった。裕福な会員が多かったため、秘かに会員を狙ってスポーツ賭博の勧誘をする者が出てきた。「沢水困」徐々にスポーツ賭博が浸透し始め、困った問題になった。スポーツ賭博は違法行為である。責任者の亨は日々対策に悩むことに...ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦(その2)

  • ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦

    序卦伝・上経と同様に下経の三十四卦もドラマで振り返ってみよう。下経の方が少し長く、複雑でもあるので、3回に分けてドラマにしてみようと思う。今回の主人公は夫婦となる亨(とおる)と利子の男女である。「沢山咸」は男女恋愛の卦。イギリスに留学中の利子は日本の大学とのラグビーの親善試合に来ていた亨と出会う。亨の一目惚れだった。2年後に、二人は結婚する。「雷風恒」の結婚生活は順調で、2人の子供にも恵まれる。商社に務める亨は30歳の時、単身でアフリカのザンビアへ長期出張をする。滞在は1年に及んだが、期待以上の成果を納める。亨にとっては異国での生活が、「天山遯」であり、「雷天大壮」新たな気力と自信に満ちて帰国する。それからの亨は会社からの期待にも応え、スピード出世、「火地晋」一躍注目される社員になった。ところが、ある日搭...ドラマで振り返る序卦伝・下経三十四卦

  • 序卦伝(32)水火既済と火水未済

    「物に過ぐる有る者は必ず済(な)る、故に之を受くるに既済を以てす。」既済とは既に成る。なそうとすることが成就することである。人よりも少し過ぎた才能や能力を発揮して取り組んだ仕事が完成したのである。誠にめでたい卦と言える。相撲取りであれば、横綱になった。サラリーマンなら社長になった。それ以上、上はないトップに上り詰めたとも言える。卦の形は、上に水、下に火。うまく調和している。この卦は、陽爻は奇数の位置、陰爻は偶数の位置にあり、全てが正しい位置にある。会社で言えば、全ての社員が適材適所に配置されている完璧な人事とも言える。家庭であれば、父、母、兄弟姉妹、それぞれの役割を見事に受け持ちバランスが取れ、理想的な家庭を表す。「物は極(きわ)まる可からざるなり、故に之を受くるに未済を以てして終(お)ふ。」未済は未完成...序卦伝(32)水火既済と火水未済

  • 序卦伝(31)風沢中孚と雷山小過

    「節して而して之を信ず、故に之を受くるに中孚(ちゅうふ)を以てす。」中孚とは誠心誠意という意味である。波乱万丈の人生を送った者が、最後に悟ったことは、誠実に生きることが一番であるということだった。大成功も経験し、大失敗も経験して、ようやくにしてたどり着いた結論である。誠実に生きるならば、人も信頼を寄せてくれる。それ以上の生き方はない。卦の形は、真ん中が陰爻であり、上下の外側が陽爻になっている。そこで、鳥が一心に卵を温めている姿とも見る。両手を合わせている形とも見る。いづれにしても、心一つを信じ、心のままに生きることである。「其(その)信有る者は必ず之を行ふ、故に之を受くるに小過を以てす。」誠実な生き方をする者は、人からも信頼される。商売をする者であれば、大儲けはしなくとも、ほどほどには儲けることが出来る。...序卦伝(31)風沢中孚と雷山小過

  • 序卦伝(30)風水渙と水沢節

    「説(よろこ)びて而して後に之を散らす、故に之を受くるに渙を以てす。渙とは離るるなり。」大いに喜ぶ時は、何もかも忘れる。過去に嫌なことがあったとしても、すっかり忘れ、気を晴らすことが出来る。「渙とは離るるなり。」大いに散ずること、飛び散ることでもある。散財するということもあるだろう。時にはケチケチせず、思い切って、散財したいものである。良いことでもあるが、気を散らして大事なことを失うことにも繋がる。そうなっては、困ったことである。思い切って、散財したのは良いが、後で頭を抱えるほど後悔することもあるだろう。ギャンブルでそれこそ、人生を棒に振る人もいるだろう。「物は以て離るるに終る可からず、故に之を受くるに節を以てす。」気が緩んで、散財し過ぎた人、うっかり失言してしまった人、守るべき規則を破ってしまった人、飲...序卦伝(30)風水渙と水沢節

  • 序卦伝(29)巽為風と兌為沢

    序卦伝は六十四卦の配列を説いているものだが、下経は実に現実的なドラマのような配列になっている。特に「雷火豊」、「火山旅」、「巽為風」あたりは、実に面白いし、頭が下がる。「旅にして容(い)るる所無し、故に之を受くるに巽(そん)を以てす。巽とは入るなり。」国を追われ、家を追われて、放浪の旅に出た者は、どこか自分を受け入れてくれる場所を求めて歩く。以前のように、威張っていられる立場ではない。そこで、放浪の旅人は、身を低くして、ヘリ下った態度で頭を下げている。そうすると、同情を寄せてくれる人もいて、どうにか受け入れて貰えた。卦の形は、巽(風)が上下に重なったもので、巽(風)の性質がそのまま発揮されている。巽(風)は従順、素直、ヘリ下るである。「郷に入っては郷に従え」が最も出来るのは、巽(風)である。風は、ちょっと...序卦伝(29)巽為風と兌為沢

  • 序卦伝(28)雷火豊と火山旅

    「其の帰(き)する所を得る者は必ず大なり。故に之を受くるに豊を以てす。豊とは大なるなり。」落ち着く所に落ち着くのが、「雷沢帰妹」であった。人は落ち着く所に落ち着くと、運が向いて来る。実力が発揮できる。そうすると、段々と盛んになり、大きく羽ばたくことになる。豊かにして大きい卦が「雷火豊」である。卦の形は、上が活動の雷、下が燃え上がる火である。大変景気よく盛大な様を表している。確かに「豊」は盛大である。しかし、活動と燃える火では、長くは続かないだろうという心配も起きて来る。物は燃えれば、やがて燃え尽きるものだからである。人生も盛大な時代がいつまでも続くものではない。「大を窮(きわ)むる物は必ず其の居る所を失ふ、故に之を受くるに旅を以てす。」盛んなる者は、必ず衰える。豊かさの頂点にいる者は、やがてその場所を追わ...序卦伝(28)雷火豊と火山旅

  • 序卦伝(27)風山漸と雷沢帰妹

    「物は以て止(とど)まるに終る可からず、故に之を受くるに漸を以てす。漸とは進むなり。」進んだり止まったりしながらも進んでいくのが私たちの世界である。漸は進むではあるが、漸次に進む。つまり、ゆっくりと前に進むことである。卦の形は、山の上に木があることであるが、山の上は気が育つには条件が良くはない。だから、ゆっくりと着実に大きくなるのである。又、この卦は、男女関係にも例えられている。上は長女、下は少男であるが、男が結婚を申し込む時に、順序を踏んで、ゆっくりと着実に進むことを表している。両親との顔合わせ、結納、親族への挨拶、などと男女が結婚するには様々な手続きがある。焦ることなく、着実にそれらの手続きをして、結婚に至ることを意味している。易ではスピードよりも、「漸」であることが尊ばれている。「進めば必ず帰(き)...序卦伝(27)風山漸と雷沢帰妹

  • 序卦伝(26)震為雷と艮為山

    「器を主(つかさど)る者は長子に若(し)くは莫(な)し、故に之を受くるに震を以てす。震とは動くなり。」王位の象徴である鼎を受け継ぐものは王の長男である皇太子であるべきである。長男は易では震(雷)であるので、ここに震(雷)が来る。震(雷)の性質は動く、活動である。革命の後は、年老いた王ではなく、新しい天下は若く新しい王が活動を始めるのに相応しい。活動に次ぐ活動で、新時代を築いてもらいたい。「物は以て動くに終る可からず、之に止(とど)まる、故に之を受くるに艮を以てす。艮とは止まるなり。」活動に次ぐ活動も、あるところで止まることが肝心である。そこで、活動の震(雷)のあとに、艮(山)がある。艮(山)の性質は止まるである。「動かざること山の如し」である。「大学」の三綱領の三つ目に「至善に止まる」がある。これは、単に...序卦伝(26)震為雷と艮為山

  • 序卦伝(25)沢火革と火風鼎

    「水風井」は内面にじっとエネルギーを蓄えていることでもある。蓄えられたエネルギーはやがて動き出すだろう。「井道は革(あらた)めざる可からず、故に之を受くるに革を以てす。」井戸というものは、何もしないと土が崩れたり、塵がたまったりするものである。そこで、時々大掃除をする必要がある。オーバーホールである。老朽化した井戸は思い切って、井戸替えをしなくてはいけない。人間の心もそうである。ストレスや悩みを抱えていると、次第に清新さがなくなる。そこで、人は悩みを忘れ、清新さを取り戻すために、気分転換が必要となる。国家や社会にとっても、長い間、同じ体制、同じ制度の中にあると、制度は腐敗し貧富の差が生じて来る。フランス革命は何故起こったのか?王様に権力が集中し、貴族と僧侶たちが民衆の上に君臨し続けた結果、民衆は食べること...序卦伝(25)沢火革と火風鼎

  • 序卦伝(24)沢水困と水風井

    人と人が集まることによって、人は成長する。しかし、成長するばかりではなく、困難な目にもあう。「升(のぼ)りて已まざれば、必ず困(くるし)む、故に之を受くるに困を以てす。」上を目指す者は、競争相手との戦いもあり、ストレスもある。順調な時ばかりではない。行き詰まることもあるだろう。困難を感じることが必ずある。卦の形は、沢の下に水があるということは、水が沢より下がってしまうことを表し、沢には水がなくなってしまうという象である。これでは、困窮してしまう。困の卦は、困窮したことを表している。「上に困(くるし)む者は、必ず下に反(かえ)る、故に之を受くるに井(せい)を以てす。」上を目指して行き詰まり、困窮した者は、必ず下に引っ返す。井戸には常に水がある。絶え間なく湧き出る無尽蔵の水がある。そこにしばらく身を置くことで...序卦伝(24)沢水困と水風井

  • 序卦伝(23)沢地萃と地風升

    「天風姤」は悪いこととは限らない。人と人が遇うというのが、「天風姤」であるから、当然素晴らしい出会いもあるはずだ。「物相遇うて、而して後に聚(あつ)まる、故に之を受くるに萃を以てす。萃とは聚まるなり。」人と人が遇う。それが、集まるに繋がる。卦の形は、地の上に沢がある。これは地上のオアシスである。水を求めてあらゆる動物たちが集まって来る。オアシスは動物たちにとっては、生きるために必要不可欠だろう。しかし、集まることによって、様々なドラマがあり、様々な問題もある。「聚まりて上(のぼ)る者は、之を升と謂ふ、故に之を受くるに升を以てす。」人と人が集まると、何かに向かって成長しようとする。成長を表す卦が「地風升」である。成長や進歩を表す卦には、他にも「火地晋」、「風山漸」がある。「火地晋」は快進撃をするが、その後に...序卦伝(23)沢地萃と地風升

  • 序卦伝(22)沢天夬と天風姤

    「風雷益」は儲かることである。今度は儲かり過ぎた場合はどうなるか。「益して已まざれば、必ず決す、故に之を受くるに夬(かい)を以てす。夬とは決するなり。」河の水がどんどん増してくれば、堤防が決壊する。同じように経済も膨張し豊かになり過ぎれば、決壊する。バブルの崩壊である。経済だけではなく、人の集団や団体でも同じで、人が増え過ぎると、内部崩壊が始まる。個人に於いても同じで、実力以上に大金持ちになれば、やがて崩壊する。外から壊される場合もあれば。自ら崩壊作用を起こすこともある。人は豊かさを求める。お金は誰でも欲しい。しかし、本人の持てる範囲というものがある。欲の力で範囲を超えた財を得ても、それは険悪であり、醜悪である。それに気がつかない人もいる。そこには貧しい以上の虚しさがある。「決すれば必ず遇(あ)ふ所有り、...序卦伝(22)沢天夬と天風姤

  • 序卦伝(21)山沢損と風雷益

    「雷水解ようやく難問が解決した。安心して、そこに気の緩みが生じてしまった。「緩(ゆるや)かなれば必ず失ふ所有り、故に之を受くるに損を以てす。」心が緩やかになる時は、とかく油断してしまうものである。油断すれば、必ず間違い、失敗をしてしまう。大事なものを失うこともある。そこで、「雷水解」の次に「山沢損」が置いてある。損は失うことである。気を付けねばならない。しかし、この「山沢損」は単に損をするという意味だけではなく、損得を忘れて、何かに奉仕するという意味もある。卦の形は、上の山は少男、下の沢は少女であり、少女が少男に尽くしている象である。人に限らず、何かその人にとって重要なものに尽くすこと、奉仕することである。「損して已(や)まざれば、必ず益す、故に之を受くるに益を以てす。」「損して得取れ」損をすると、これは...序卦伝(21)山沢損と風雷益

  • 序卦伝(20)水山蹇(けん)と雷水解

    「火沢睽」はそむくことで、いがみ合う、互いに反発している状態であった。なるべく早く仲直りした方が良いが、このままこじれてしまうと厄介なことになる。「乖(そむ)けば必ず難あり、故に之を受くるに蹇を以てす。蹇とは難なり。」いつまでも和合しないでいると、話はこじれ行き詰ってしまう。問題の卦、坎(水)の登場となる。水は困難、険難、悩みの種である。卦の形は、困難を前に少男が身動き出来ずにいる象である。蹇の字は、寒いの下に足と書く。これは足なえ、不自由な足のことである。充分に前に進めないことでもある。六十四卦の中に、4大難卦と言われるのが、「水雷屯」、「坎為水」、「沢水困」そして「水山蹇」である。いづれも困難を表しているが、全てに共通するのは坎(水)の卦があることである。困難にも色々あるだろうが、この蹇の最も厄介なと...序卦伝(20)水山蹇(けん)と雷水解

  • 序卦伝(19)風火家人と火沢睽

    「地火明夷」は傷つき破れることである。順調に快進撃を続けていた頃は、家庭のことは振り向いてもいられなかっただろう。しかし、傷つき挫折すると、とにかく家に帰ってくる。「外に傷(やぶ)るる者は、必ず其(その)家に反(かえ)る、故に之を受くるに家人を以てす。」家には家族がいる。家族はいつでも味方である。傷つき挫折した時に、最も心配し慰めてくれるのは家族である。しばらくは家族の中にいて、傷を直すのである。卦の形は、上の風は長女であり面倒見がよく、下の火は中女で長女に従っている。争いはなく、安定している。家族のにも上下があり、礼節も必要、「風火家人」は理想的な配置になっている。「家道窮すれば必ず乖(そむ)く、故に之を受くるに睽を以てす。睽とは乖くなり。」家族の中もいつも安泰とは限らない。父子、兄弟、夫婦などの間に、...序卦伝(19)風火家人と火沢睽

  • 序卦伝(18)火地晋と地火明夷

    「物は以て壮(さかん)なるに終る可からず、故に之を受くるに晋を以てす。晋とは進むなり。」「雷天大壮」は気力満々である。その気力満々で職場に戻って来た。太陽がぐんぐんと天を目指す如く、快進撃が始まる。昇天旭日である。サラリーマンならスピード出世。何をやっても上手くいく。そんな絶好調である。昨日まで不振であったことが信じられない。卦の形は、火は太陽を表すので、太陽が地上に昇る様を表している。歴史上で最もこの卦を実現した英雄はアレクサンドル(アレキサンダー大王)だろう。20歳からわずか10年で、当時世界に君臨していたアケメネス朝ペルシャを破り、エジプトを征服し、オリエントの覇者になった。「進めば必ず傷(やぶ)るる所有り、故に之を受くるに明夷を以てす。夷(い)とは傷(やぶ)るるなり。」快進撃はいつまでも続くものじ...序卦伝(18)火地晋と地火明夷

  • 序卦伝(17)天山遯と雷天大壮

    「雷風恒」は久しく変わらない安定である。しかし、安定はいつまでも続かない。「物は以て久しく其の所に居る可からず、故に之を受くるに遯を以てす。遯とは退くなり。」いつまでも同じ環境にいれば、「井の中の蛙」になり、マンネリ化することになる。そこで、思い切って環境を変える必要もある。「遯とは退くなり。」定年を迎えたサラリーマンが現役を退くことも遯ではあるが、若くても気分転換に新しい世界に身を置くことも遯である。下経の配列から考えて、まだ始まったばかりであるので、若者が新世界に身を置くことの方がぴったりだと思う。卦の形は、山(少男)が偉大な天の下にあり、じっと身構えているところである。天はあくまでも高く、広いので、小男はその偉大さに感激し、自分の小ささを思い知らされているところでもある。スランプに陥ったスポーツ選手...序卦伝(17)天山遯と雷天大壮

  • 序卦伝(16)沢山咸と雷風恒

    これより下経三十四卦に入る。上経と下経の内容の違いは、上経は自然や社会の変化を、下経は人間の変化だという説もあるが、そうとも言えない部分もあり、確かなことは解らない。恐らく六十四卦のままだと、余りにも長すぎるので、二つに分けたのではないだろうか。私は下経の方が人間ドラマとしては、より現実的で面白いと思っている。「天地有りて、然る後に萬物有り。萬物有りて、然る後に男女有り。男女有りて、然る後に夫婦有り。夫婦有りて、然る後に父子有り。父子有りて、然る後に君臣有り。君臣有りて、然る後に上下有り。上下有りて、然る後に礼儀、錯(お)く所有り。」少し回りくどい説明で、面白くないが、下経は「沢山咸」から始まる。父子、君臣、上下の礼の始まりは夫婦の道であり、男女相感じ、相愛する道を説くものである。卦の形は、沢は少女であり...序卦伝(16)沢山咸と雷風恒

  • ドラマで振り返る序卦伝上経三十卦

    特別な卦である「乾」と「坤」から始まる上経の配列は人間や企業の栄枯盛衰を表している。一連の配列をある事業を起こしたA君のドラマとして再現してみよう。A君が生れて来るときの母親の苦しみは「水雷屯」であった。未だ幼く蒙昧を表すA君を「山水蒙」両親は厳しく育ててくれた。生活は厳しく、育てるのに必要になるのが飲食で「水天需」両親は一生懸命育ててくれた。時には飲食を巡って争いが始まった。「天水訟」である。ここで、もう争いがあるというのが易の教えである。人間に限らず生き物はすべて争いをしながら生きるものだと知らされる。争いの為に家族は団結する。「地水師」である。そして親しいものが寄り添う「水地比」がくる。親しみ協力すれば、「風天小畜」少し蓄えが出来る。蓄えが出来ると「衣食足りて礼節を知る」で、「天沢履」となる。こうし...ドラマで振り返る序卦伝上経三十卦

  • 序卦伝(15)坎為水と離為火

    「沢風大過」は大いに過ぎるだった。過ぎることが続けば、必ず弊害が出てくるだろう。「物は以て過ぐるに終る可からず、故に之を受くるに坎(かん)を以てす。坎とは陥るなり。」過ぎるほど、何かに夢中になっていると、正常ではなくなる。坎(かん)とは、陥ることである。深い穴に落ちてしまうのである。一般的には良いことよりも悪いことのケースが多いだろう。酒、ギャンブル、薬物依存、様々な落とし穴がある。社会で言えば、日本経済もバブルが崩壊し、深刻なデフレスパイラルに落ち込んでしまった。しかも、たっぷりと長期間に渡って抜け出せないほどに。坎(水)は問題、艱難、悩みの種、陥るなどの意味がある。その坎(水)が上下に重なっているので、一難去ってまた一難という意味にもとれる。陥るは何かに溺れるでもある。以前、「笑点」で聴いたことがある...序卦伝(15)坎為水と離為火

  • 序卦伝(14)山雷頤(い)と沢風大過

    「山天大畜」は大いに蓄えるだった。蓄えることが出来れば、大いに養うことが出来る。「物蓄へられて然る後に養う序卦伝(14)山雷頤(い)と沢風大過

  • 序卦伝(13)天雷无妄と山天大畜

    「地雷復」は一陽来復で新しい時代の到来である。新しい時代を開く志士たちの志は、一点の妄念邪念もなく、至誠真実である。「復すれば則(すなわ)ち妄(ぼう)ならず、故に之を受くるに无妄(むぼう)を以てす。」上に天があり、下に雷がある。天も雷も上を目指すもの。しかも雷は活動である。この卦は一面、青天の霹靂を表す卦でもある。思いがけないことが起こる。天からの計りごとは実に見事な結果に導くもので、人の考えや計画など及びもつかない。結婚もそんなことがある。気が付いて見たら、この人と結婚していた。そんな「天雷无妄」もあるかも知れない。「无妄有りて、然る後に蓄(たくわ)ふ可し、故に之を受くるに大畜を以てす。」至誠真実の志をもって事に当たれば、大なるものを蓄えることが出来るだろう。大なるものとは、大なる財産だけではなく、大な...序卦伝(13)天雷无妄と山天大畜

  • 序卦伝(12)山地剝と地雷復

    「山火賁」は飾るである。飾るは行き過ぎると中身のないものになってしまう。中身がなく、うわべだけを取りつくすようになっては、もう頼りにならない。「飾りを致して然る後に亨(とお)れば則ち盡(つ)く、故に之を受くるに剝を以てす。剝とは剝(つ)くるなり。」人にしても企業にしても、外観ばかりにエネルギーを注ぐようになれば、実力は益々低下してしまう。人はうわべの礼儀だけになり、心の誠実は失われていく。企業も実績を隠し通すようになり、粉飾決算するようなる。それが、「山地剝」である。剝は剝ぎ取られて尽きてしまうこと。剝は剝製の剝であるから、外側だけ立派に見えるが中身はない。卦の形は、一番上にある陽爻が最後の砦で頑張っている形である。下からの陰の力が強く、ついに陽は追いつめられている。時代の終わりを意味することもある。「物...序卦伝(12)山地剝と地雷復

  • 序卦伝(11)火雷噬嗑(ぜいこう)と山火賁

    「風地観」は人々が見上げるだった。企業でも業界で見上げるように大きくなると、必ず外からの合併話が起きて来るものだ。「観る可くして而して後に合ふ所有り、故に之を受くるに噬嗑(ぜいこう)を以てす。嗑とは合ふなり。」噬(ぜい)は噛む、嗑(こう)は合う。嚙合わせることである。事業や人も大きく立派になると、さらに大きくなるために合同しようとする動きが出てくる。そうすると、必ず反対するもの、障害物が出てくるものだ。その障害物を嚙み砕いて進まなくてはいけない。それが「火雷噬嗑」の卦である。人の場合それは結婚話かも知れない。結婚話もそうそう簡単には済まない。やはり反対する者が出てくる。それはどちらかの親である場合もあるだろう。その反対を粘り強く、説得し、噛み砕いて先に進むことである。「物は以て苟くも合うて已む可からず、故...序卦伝(11)火雷噬嗑(ぜいこう)と山火賁

  • 序卦伝(10)地沢臨と風地観

    「山風蠱」は事故、事変だった。人の成長も社会の発展も、大きく前進するためには、難問題を解決した時ではないだろうか。人はしばしば挫折の後に飛躍するものである。「事有りて而して後に大なる可し、故に之を受くるに臨を以てす。臨とは大なるなり。」「山風蠱」の次に「地沢臨」があるのは、「天地否」の次に「天火同人」があるようなものだ。人間にしても、社会にしても、大きく飛躍するのは難問題を抱えた時なのかも知れない。スランプの後に好記録が出るようなものだ。人間も尺取虫のように、伸びたり縮んだりしながら前に進むようなものなのか。明治を迎えた日本を象徴する出来事として、勝海舟を艦長とする「咸臨丸」が始めてアメリカに渡った。この咸臨とはこの卦から名付けられたものである。「物大にして然る後に観る可し、故に之を受くるに観を以てす。」...序卦伝(10)地沢臨と風地観

  • 序卦伝(9)沢雷隋と山風蠱

    「雷地予」は楽しむだった。自分が楽しめば、必ず人が集まって来る。「予(たのし)めば必ず随う有り、故に之を受くるに隋を以てす。」「笑う門には福来る」楽しい人には友達が随ってくる。上に楽しむを表す兌(沢)があり、その下に行動を表す震(雷)が来ている。人間に配当すると、沢は少女、雷は長男にあたる。ちょうど、舞台で華やかな歌やダンスを披露する少女に大の男が追っかけをしているようなものか。追っかけも度が過ぎるとストーカーになってしまうので気を付けてもらいたい。隋には活動後の一休みという意味もある。雷は活動、沢は喜ぶだから、活動した後にゆっくりと寛ぎ、喜び楽しむのである。そんな時に親しい友人がやって来て、さらに喜びは増す。「笑う門には福来る」そうなれば、最も望ましい光景となる。「喜びを以て人に隋ふ者は、必ず事有り、故...序卦伝(9)沢雷隋と山風蠱

  • 序卦伝(8)地山謙と雷地豫

    「火天大有」という富裕の卦に続くものは、おごり高ぶるかと思いきや、意外に謙虚だった。この辺が、孔子を喜ばせ易に夢中にさせた由縁だろうか。易の配列には実に頭が下がる。「有(たも)つこと大なる者は、以て盈(み)つ可からず、故に之を受くるに謙を以てす。」財産もあり、人材も多く、国が豊かになっても、得意になってはいけない。富めば富むほど、大きくなれば大きくなるほど、謙虚でなければいけない。豊かな人がヘリ下り、謙虚であると、その豊かさは帰って輝きを放つものである。この卦の形は、高い山が地の下にあるというのだが、ここに意味がある。そもそも山と言っても、大地の一部である。高い高いと言っても偉大な大地には敵わない。そこで、自分がいくら高い山になったとしても、市民の一人、国民の一人と考えれば威張ることは出来なくなる。そう教...序卦伝(8)地山謙と雷地豫

  • 序卦伝(6)天火同人と火天大有

    泰平が長引いて、ついに乱世になった。乱世を終わらせ、新しい時代を切り開こうとする動きは始まる。志あるものの結束である。「物は以て否(ふさ)がるに終る可からず、故に之を受くるに同人を以てす。」乱世を終わらせ、新時代を開くには、一人や二人の力ではどうにもならない。多くの人が心を一つにして協同する必要がある。同人とは、同人誌などに使われるが、同じ趣味や志を持つ人同士が集まることである。この卦の形は、天は上を目指す。火もまた上を目指すものであることから、同じ志を持つものと表している。序卦伝(6)天火同人と火天大有

  • 序卦伝(6)地天泰と天地否

    「天沢履」は礼を守る卦であった。親子、兄弟、友人、職場でも、皆が礼儀を守れば、世界は安泰である。そこで、次にくるのは、「地天泰」である。「履ありて然る後に安し、故に之を受くるに泰を以てす。泰とは通ずるなり。」泰とは通ずる。上下の意思が通ずることである。卦の形をみると、地が上にあり、天が下にある。一見すると、逆さまのようであるが、ここに意味がある。すなわち、地はあくまで下を目指し、天はあくまで上を目指すものである。上にあるものが、下を目指し、下にあるものが上を目指すということは、上下の意思が通じ合うということになる。この卦は安泰を表し、易の卦の中でも最も安定した理想的な卦であるとする。易者の店ではこの卦が看板になっている。家庭内では親が子の意見に耳を傾け、職場内では経営者が社員の意見に耳を傾ける。意思の疎通...序卦伝(6)地天泰と天地否

  • 序卦伝(5)風天小畜と天沢履

    「水地比」は相親しむの卦であった。争いを止めて、人々が親しみあえば良いことが起こる。すなわち、蓄えが出来るようになる。次は畜えをを意味する「風天小畜」の卦となる。「比すれば必ず畜ふる所有り、故に之を受くるに小畜を以てす。」畜の意味は留める、貯える、養うである。一家よく和合し、一国よく和合するときは、貯蓄ができ、財政が豊かになるものである。それ故に、「水地比」の次に「風天小畜」が置いてある。「風天」といっても「フーテンの寅さん」とは関係ありません。「フーテン」は瘋癲と書いて、少し頭がおかしくなった人のことをいいます。易の「風天」は風(長女)が天(陽の男たち)を相手に慕われている様子を表しています。相撲部屋の女将さんと言ったところでしょうか。「物畜へられて然る後に禮(れい)有り。故に之を受くるに履(り)を以て...序卦伝(5)風天小畜と天沢履

  • 序卦伝(4)地水師と水地比

    「天水訟」は争いの卦であった。争いを起こすには、味方同士が団結する必要がある。そこで、次にくる卦は「地水師」である。「訟には必ず衆の起こること有り。故に之を受くるに師を以てす。師とは衆なり。」軍隊では独立して作戦を立てる戦略単位を師団という。師は衆であり、戦争である。訴訟、争いがエスカレートすると次第に規模が大きくなる。人と人の争いがが村と村との争いになり、団体と団体の争いが国と国、民族と民族の争いにまで発展する。それが戦争である。それゆえに、「天水訟」の次に「地水師」が置いてある。卦の形は目に見えないところ(地)に問題(水)が潜んでいる象である。「衆は必ず比する所有り。之を受くるに比を以てす。比とは比するなり。」比するということは親しむということである。大勢の人が集まる時には、必ずその中にリーダーがいる...序卦伝(4)地水師と水地比

  • 序卦伝(3)水天需と天水訟

    序卦伝の配列は、人間の成長過程を示すものでもあります。産みの苦しみを経て生まれ、蒙昧である赤ちゃんとなり、今度は養わなくてはなりません。そこで、次に来る卦は「水天需」となります。「物の穉(おさな)きは養はざる可(べ)からざるなり、故に之を受くるに需を以てす。需とは飲食の道なり。」需には「待つ」とか「求める」という意味もある。需は需要でもあり、人間の需要とするものは全てこの中に含まれている。肉体を養うばかりではなく、心を養うことも含まれている。心を養うには愛情をそそぐことである。卦の形は天の上に水があることから、人々が天からの雨を待っている象とみる。「飲食には必ず訟(うったえ)有り、故に之を受くるに訟(しょう)を以てす。」人間ばかりでなく生き物に共通するのは食べ物を求めての争いである。争いは生まれて、成長す...序卦伝(3)水天需と天水訟

  • 序卦伝(2)

    ☰(乾)と☷(坤)は万物の父と母ですので、易の配列は実質的には「水雷屯」から始まります。「天智有り、然る後に萬物生ず。天地の間に盈つる者は唯だ萬物なり。之を受くるに屯を以てす。屯とは盈つるなり。屯とは物の始めて生ずるなり。」屯という文字は、草が始めて地上に出ようとして苦しんでいる様を表しています。地上に芽を出した植物が全て成長することはありません。朝顔を種から育ててみると解りますが、いっせいに芽をだした朝顔の殆どは育ちません。何分の一しか育たないのです。それ程、生まれたものが順調に成長することは大変なことなのです。易の配列の始めに屯があることは、意味があることなのです。人間を含めて、動物や植物が生を得て、成長することは困難が伴うことを表しています。生命の成長と同じく、物事は全てがそうです。何か事業を始めよ...序卦伝(2)

  • 序卦伝(1)

    八卦を理解出来ましたら、次に六十四卦に進みます。八卦をそれぞれ上下に重ねると、8×8=64ですから、六十四卦となります。六十四卦の本文には、その卦の卦辞(かじ・卦の言葉)と6個の爻(こう)に対して爻辞(こうじ)が述べられています。爻辞は占いに使うために作られた言葉もあるので、ピンとこない言葉も多いのです。そうすると、いつの間にか意味不明で解らないということになりがちなのです。そこで、私がお勧めするのが、その前に、「序卦伝」を学ぶことです。「序卦伝」は孔子が作った易の参考書・十翼の一つで六十四卦の配列を説いてあるものです。安岡正篤先生も絶賛していますが、この配列が頭が下がるほど良く出来ているものなのです。配列を知ると同時に、易全体の輪郭のようなものが解ってきます。この配列と輪郭が解って、次に本文に進みますと...序卦伝(1)

  • 八卦の解説(4)艮(山)と兌(沢)

    最後は☶艮(ごん・山)と☱兌(だ・沢)になります。☰(乾)と☷(坤)の少男と少女です。☶艮(山)と☱兌(沢)も対をなすもので、二つの卦の相性は良く、互いに助け合う関係です。山のイメージは動かない、固い、山登りには努力、頑張りが必要です。一方の沢は楽しく、開放的です。川下りを想像すると、ワーワー、キャーキャーの歓声が聞こえそうです。☶☱艮(ごん・山)と兌(だ・沢)「艮は止(とど)まるなり。」(説卦伝)、自然では山、家族では少男、身体では手、動物では犬です。卦の形を見ると、陽爻が上でふさいでいるようにも見えます。そこから止める、抑える、守るというイメージになります。謹厳実直、頑固な人のイメージも湧いてきます。一方の兌(沢)は「説(よろこ)ぶなり。」(説卦伝)、自然では沢、家族では少女、身体では口、動物では羊で...八卦の解説(4)艮(山)と兌(沢)

  • 八卦の解説(3)坎(かん)と離(り)

    今回は坎(かん・水)と離(り・火)について説明いたします。乾(天)と坤(地)の中男と中女です。☵(坎・水)はが上下のの間にあり、☲(離・火)は反対にが上下のの間にあります。☵(坎・水)の特徴は上下の陰に中に陥っていると考えます。ちょうど水の中に陥ったと想像して下さい。そこから、困難に陥るという意味になり、坎は水の卦、困難の卦となります。☲(離・火)は上下が陽で発散していると考えます。発散するものは火です。そこから離の卦は火の卦となります。火は明るいものなので、文化、文明を表します。離婚や離別の離が何故火なのかと疑問に思う方もあるでしょう。(始め私も思いました。)この離は辞書を調べると解りますが、付くという意味があります。「離は麗(つ)くなり。」火は何かに付いて燃えるものから、そう呼ぶようになったようです。...八卦の解説(3)坎(かん)と離(り)

  • 八卦の解説(2)震(雷)と巽(風)

    今回は☳(震しん・雷)と☴(巽そん・風)について説明いたします。乾が父、母が坤であれば、☳(震しん・雷)は長男、☴(巽そん・風)は長女にあたります。三つの陽と陰は陽爻、陰爻と呼びますが、震(しん・雷)は下に陽爻が、巽(そん・風)は下に陰爻があるのが特徴で、その意味を表しています。☳☴震(しん・雷)と巽(そん・風)「震は動くなり」、下にある陽爻が上に昇ろうとして活動しているのです。自然では雷で、陽の気を盛んに発動するのです。家族では長男、動物では竜、身体では足にあたります。「極まりては健と為す。」ともあります。時には「乾」にも勝る勢いを表します。新しい世界を開く、始める、そのエネルギーを感ずるのは震(しん・雷)でしょう。「巽は入るなり」、一方の巽(そん・風)は自然では風で、風の如くどこにでも入ってきます。家...八卦の解説(2)震(雷)と巽(風)

  • 八卦の解説(1)

    易の基本は八卦(はっか)です。一般的に「はっけ」と呼ばれますが、正しい呼び方「はっか」です。この八卦をしっかり覚え、イメージすることが肝心です。ここを曖昧なままに先に進むと、いつの間にか何が何だか解らなくなってしまうので、「易は難しい」ということになります。八卦は、☰(乾)、☱(兌)、☲(離)、☳(震)、☴(巽)、☵(坎)、☶(艮)、☷(坤)ですが、この順番は陽に近い順になっています。しかし、八卦をより理解するために、私は始めに☰(乾)と☷(坤)、次に☳(震)と☴(巽)、そして次に☵(坎)と☲(離)、最後に☶(艮)と☱(兌)の順に覚えることをお勧めいたします。何故かと申しますと、孔子の作りました解説書(説卦伝)に述べていますが、☰(乾)と☷(坤)は人に配当すると父と母、☳(震)と☴(巽)は長男と長女、☵(...八卦の解説(1)

  • 陽と陰

    易は陽と陰の組み合わせだと言われます。では陽とは何か?陰とは何か?考えてみたい。陽気のイメージは明るく元気に溢れている。陰気のイメージは暗い、元気がないイメージである。又、男性的、女性的という分け方もある。しかし、陽が男性的で、陰が女性的かというとそうでもない。女性が陰というと、怒られるかも知れない。事実、女性の方が、明るく、陽気な人が多いようにも思われる。考えてみると、我々は物事を二つに分けて考える習慣があるようだ。左右に分けるという考えもある。大きいと小さい、高いと低い、固いと柔らかい、富めると貧しい、明るいと暗い、積極的と消極的、強いと弱い、表と裏、動物的と植物的、良いと悪い、酸性とアルカリ性、プラスとマイナスといった具合だ。二つに分けることによって、ある者がどちらに属するか、あるいはその中間にある...陽と陰

  • 安岡正篤先生の「易学入門」

    挫折の連続だった私の易の体験をお話します。私は42歳の時に安岡正篤先生の存在を知りました。安岡先生は「歴代総理の指南役」「政、財界のリーダー達の先生」とも評される人物でした。でも、私がその存在を知った時は既に他界されて2年程経っていました。あるきっかけがあり、私は東京にある「安岡学研究会」の門をたたきました。安岡正篤先生(1898~1983)儒教、仏教、老荘思想など東洋思想を中心とする安岡学はかなり難解でしたが、私は先生への魅力に惹かれて主だった書籍は読破しました。その中にあったのが「易学入門」でした。私はその序文に魅せられました。その始めの部分にはこうあります。「多少とも東洋の思想学問に志ある人々ならば、「易経」を読みたいと思わぬ者は無いであろう。儒教・仏教・道教・神道等、いずれの道を進んでも、必ず易に...安岡正篤先生の「易学入門」

  • 孔子と易

    儒教の聖典は五経と言われる。すなわち「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」である。五経は孔子及びその弟子たちによって選ばれたものと考えられるが、その1番目にくるのが「易経」である。それ程、儒教では易は欠かせないものである。孔子(BC552~BC479)孔子は「五十以て易を学べば、以て大過なかるべし」と言っている。つまり50歳を過ぎたなら、易を学べ、そうすれば大きな過ちは犯さないだろう。又、孔子の易に対する勉強ぶりは韋編三絶(いへんさんぜつ)という。紙が無かった時代、書物は竹で出来た竹簡をなめした革で綴ったものを韋編だった。その韋編がばらばらになる程夢中になったということだ。孔子は易で占いをしたのだろうか?論語には「怪力乱神を語らず」ともある。孔子は神秘的な現象や、霊界については語らなかったというから、易...孔子と易

  • 文王の生きた時代

    六十四卦の易を作った文王はどんな時代に生きた人だったろうか。「文王」というのは死後に付けられたおくり名であり、性は姫(き)、名は昌(しょう)である。在世時の爵位から「西伯昌」とも呼ばれています。時代は殷の末期に当たるが、特筆すべきことは、その最後の殷王が暴君の代名詞として知られる紂王(ちゅうおう)だったことである。紂王(~BC1046)ある時、姫昌と同じ地位にあった者たちが、紂王の不興を買って獄刑に処される。「あぁ、なんということだ。」と嘆息したことが、讒言にあい姫昌も牢獄に幽閉されてしまう。幽閉中に一説によれば、人質だった長男の伯邑考が煮殺され、その死肉を入れたスープを食事に出されたという。優秀な側近たちが、財宝と領地を献上することによって姫昌は何とか釈放されました。紂王は美貌に恵まれ、弁舌に優れ、力は...文王の生きた時代

  • 易の成り立ち

    何時、誰が易を作ったのか?漢書(かんじょ:後漢時代につくられた歴史書)の芸文志(げいもんし:古代からの図書目録が記されている)に、易の成り立ちに関して、「人は三聖を更え、世は三古を歴たり。」とあるそうです。三つの時代を経て、三人の聖人によって作られたというのです。ではその三人の聖人とは?最初の聖人は紀元前2700年頃の伏羲(ふっき)という中国の皇帝です。歴史的には伝説時代の人ですから、確実なことではありませんが、易の八卦を発明したと伝えられています。他にも魚取の網を発明し、魚釣りを教え、文字を開発したり、婚姻の制度を定めた皇帝とも伝えられています。易に似たようなものは他にもいろいろあったようですが、今日普及している易は紀元前1000年頃に2番目の聖人である周の文王によって作られました。八卦をさらに発展させ...易の成り立ち

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