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さわやか易 https://blog.goo.ne.jp/kanouyuukougoo

易は難しい、易は解らないと挫折した方に、「さわやか易・講座」で解ったと言ってもらえれば幸いです。(猶興)

さわやか易
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2024/06/17

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  • 「天沢履」(爻辞)

    「初九、素履(そり)す。往きて咎无し。」初九は身分は低いが、位置正しい陽爻。応じる爻と比する爻ともに陽爻で応じず、比せず、一人我が道を行く。「素履(そり)す。」は若者らしく率直な気持ちで、「往きて咎无し。」進んでいくので、何の咎めもない。「九二、道を履むこと坦坦(たんたん)たり。幽人(ゆうじん)は貞にして吉。」九二は陽爻ではあるが、下卦の中にいる。上の六三とは比するが、中徳があるので、惑わされない。「道を履むこと坦坦(たんたん)たり。」例え大事に向かうような時も平常心を忘れず、淡々として進んで行く。「幽人(ゆうじん)は貞にして吉。」幽人とは心静かに生活する者のこと。功名富貴を求めず、正しく、信念を曲げないので、吉である。「六三、眇(すがめ)にして能く視るとし、跛(あしなえ)にして能く履むとす。虎の尾を履む...「天沢履」(爻辞)

  • 「天沢履」(卦辞)

    「虎の尾を踏む。人を咥(くら)はず。亨る。」序卦伝では前の「風天小畜」を蓄えるとしていた。そこで、「物畜えられて然る後に礼有り、故に之を受くるに履を以てす。履は礼なり。」とある。「風天小畜」も畜えると止めるという意味があるが、「天沢履」も礼という意味と踏み行うという意味がある。この卦辞では、踏み行うの方を使っている。卦の形は、上に天であり、下に沢である。天は剛健、剛強であるので、大きな存在である。下の沢は少女であるので小さく弱い存在である。つまり、小さな存在である者が、大きな存在に従っている。近づこうとしている見える。大変緊張するし、勇気が必要である。大きな存在とは大きな人物の場合もあり、大きな事業でもあり、大きな目標の場合もあるだろう。その大きな物に向かって行こうとするのである。「虎の尾を踏む。」これか...「天沢履」(卦辞)

  • 「風天小畜」(爻辞)

    「初九、復すること道に自(よ)る。何ぞ其れ咎あらん。吉。」全体を通して、5つの陽爻たちは何か問題に直面し、陽爻らしく積極的に進んで解決しようと、立ち上がる。そこを唯一の陰・爻六四が「待って下さい。」と押し止めるという背景である。初九は若者らしく、自ら出かけようとするが、正しく応じている六四に止められ、元に戻る。それが「復すること道に自(よ)る。」それで、何の咎めもないだろう。「何ぞ其れ咎あらん。吉。」初九は「乾為天」では「潜龍、用ふる勿れ」である。「九二、牽(ひ)きて復す。吉。」九二は中徳のある陽爻であるので、自分の判断で元に戻る。それが、「牽(ひ)きて復す。吉。」「九三、「風天小畜」(爻辞)

  • 「風天小畜」(卦辞)

    「小畜は亨る。密雲、雨ふらず。我が西郊(せいこう)よりす。」序卦伝に、「比は比(したし)むなり。比めば必ず畜うる所有り、故に之を受くるに小畜を以てす。」とあった。小畜は、蓄えるという意味と、小が大を留めるという意味がある。この卦辞では、小が大を留めるという意味を使っている。この卦辞は、易を作った文王の時代を表しているので、その時代がどのような時代であったかを知らないと理解出来ない。ざっと、説明すると、殷の末期の時代である。暴君の紂王が暴虐無道の限りを尽くしており、誰もそれを止めることが出来なかった。西の郊外にいる文王は諸侯の一人に過ぎなかったが、他の諸侯たちは人望のある文王を頼り、期待していた。その期待は密雲のように沸き起こっているけれど、なかなか雨がふらない。非道な時代を終わらせてくれる恵みの雨を待ち望...「風天小畜」(卦辞)

  • 「水地比」(爻辞)

    「初六、孚(まこと)有り之に比す。咎无し。孚有り缶(ほとぎ)に盈(み)つ。終(つい)に来りて他の吉有り。」初六は身分低く、力もない。「孚(まこと)有り之に比す。咎无し。」しかし、真心から九五のリーダーを慕っている。咎无し。「孚有り缶(ほとぎ)に盈(み)つ。」その誠実は入れ物に溢れんばかりである。「終(つい)に来りて他の吉有り。」その誠実は思わぬ所で報われるだろう。「他の吉」とは、思いもよらない吉。「六二、之に比すること内よりす。貞にして吉。」六二は陰爻、陰位、中徳を備えている。そして九五とは陰陽相応じている。「之に比すること内よりす。」心から九五と親しんでいる。「貞にして吉。」正しく吉である。「六三、之に比すること人に匪ず。」六三は陰爻にして陽位におり、中徳はない。軽挙妄動の爻であるが、ここでも判断を誤っ...「水地比」(爻辞)

  • 「水地比」(卦辞)

    「比は吉。原筮(げんぜい)して元永貞なれば、咎无し。寧(やす)んぜずして方(あまね)く来る。後るる夫(ふ)は凶。」序卦伝に、「師とは衆なり。衆は必ず比する所有り、故に之を受くるに比を以てす。」とあった。比とは親しみ輔(たす)くるなり。人と人とが相輔けることである。「比は吉。原筮(げんぜい)して元永貞なれば、咎无し。」比は吉である。筮竹で占うように、人々と相談して決め、それが「元」「永」「貞」ならば、咎无しである。「元」と「貞」は「元亨利貞」にあるので、省略するが、「永」は久しくという意味である。いづれも、健全、おおらかである。「寧(やす)んぜずして方(あまね)く来る。」とは、四方から諸侯たちが大急ぎで集まって来る。「後るる夫(ふ)は凶。」でも、中には抵抗して集まらず、催促されてようやく集まる諸侯もある。そ...「水地比」(卦辞)

  • 「地水師」(爻辞)

    「初六、師(いくさ)出づるに律を以てす。否(しから)ざれば臧(よ)きも凶なり。」初六は陽位置にいる陰爻なので、一般の軍人と見る。「師(いくさ)出づるに律を以てす。」軍隊に出るには、規律を厳重にすべきである。「否(しから)ざれば臧(よ)きも凶なり。」厳正な規律もなくて、たまたま結果が良かったとしても、凶である。「九二、師に在りて中す。吉にして咎无し。王三たび命を錫ふ。」九二は、この卦の主爻。中徳を得た陽爻で、九五の天子から信任を得ている。陽爻はこの九二だけであり、全体のリーダーになっている。それ故に「九二、師に在りて中す。吉にして咎无し。」となる。「王三たび命を錫ふ。」王がたびたび言葉を寄せ、褒美を与え、信頼している。「六三、師(いくさ)或は戸(しかばね)を輿(にな)ふ。凶。」六三は陰爻で陽位にいて中徳もな...「地水師」(爻辞)

  • 「地水師」(卦辞)

    「師は貞。丈人なれば吉。咎无し。」序卦伝に、「訟には必ず衆の起る有り。故に之を受くるに師を以てす。師とは衆なり。」とあった。争いが大きくなると、必ず多数の人が集まって来る。多数の人が集まることの代表が軍隊である。師は衆であり、軍隊の意味である。軍隊には優れたリーダーが必要である。「師は貞。」リーダーは先ず正しく堅いことが第一である。「丈人なれば吉。咎无し。」リーダーは有徳の大人であれば吉。咎めはないだろう。「地水師」では2番目の陽爻がそのリーダーである。六五は天子と見る。残りの陰爻は全て部下の将校、兵士である。卦の形を見ると、上に地があり、下が水である。これは地の下に地下水が集まっている象である。地下水は自然の成り行きに順って出来るものなので、軍隊も無理することなく、自然に優れたリーダーの元に集まることが...「地水師」(卦辞)

  • 「天水訟」(爻辞)

    「初六、事とする所を永くせず。少しく言有り。終に吉。」初六は身分低くして、陽爻の位置にいる陰爻である。そんな立場で争っても勝ち目はない。言いたいことはあるだろうが、さっさと止めて忘れることだ。終いには吉になる。「九二、訴ふる克(あた)はず、帰りて逋(のが)る。其(その)邑人(ゆうじん)三百戸、眚(わざわい)无し。」九二は陽爻であり、中徳がある。「邑人三百戸」邑とは村、村人300人の代表として、訴えを起こしたが、勝ち目はない。争いを止めて村に潜んでいる。300人の村人にも災いは降りかからずに済んだ。訴える相手は君主である。九二は士であり、臣下である。言い分が正しくとも、通らない。悔しいが、諦める方が村人の為でもある。「六三、舊徳(きゅうとく)を食む。貞なれども厲(あやう)し。終に吉。或は王事に従ひて成す无し...「天水訟」(爻辞)

  • 「天水訟」(卦辞)

    序卦伝に、「需は飲食の道なり。飲食には必ず訟有り。故に之を受くるに訟を以てす。」とある。飲食を始め、人々は欲しいものは争ってでも求めるものである。需があれば、必ず「訟」がある。「訟は孚(まこと)有り。窒(ふさ)がり、惕(おそ)れて中すれば吉。終(お)ふれば凶。大人を見るに利し。大川を渉るに利しからず。」下卦の坎(水)は艱難、問題、悩みの種ではある。しかし良い面から見ると、上下の陰爻の中に陽爻があり、この陽爻が孚の心を持っており、しっかりした信念になっているとも言える。それが、「訟は孚(まこと)有り。」である。「窒(ふさ)がり、惕(おそ)れて中すれば吉。」とは、この陽爻は上下の陰爻に包まれており、信念を内に秘め、戒慎恐懼しながら、中庸の徳を保っているので吉である。「終(お)ふれば凶。」しかし、どこまでも争い...「天水訟」(卦辞)

  • 「水天需」(爻辞)

    「初九、郊(こう)に需つ。恒を用ふるに利し。咎无し。」初九は未だ身分も低く、要職にはついていない。険難からは遠ざかっている立場である。そういう者は平常心を忘れずにいることである。そうすれば、何の咎めはないだろう。孔子の解説によれば、「難を犯して行かざるなり。」とある。わざわざ、険難の中に入っていこうとしないことだ。「九二、沙(すな)に需つ。小しく言有り。終に吉。」九二は武士の立場で中を得た陽爻である。険難(水)には少し近いが、じっと需つべきである。少し非難されることはあっても、事なきを得るだろう。「沙(すな)に需つ。」とは河の砂地という意味だが、現場にいるという意味である。「九三、泥に需つ。寇の至るを致す。」九三は「泥に需つ。」険難(水)の間近にいる。位置は危険な位で陽爻であるので、つい行動に出てしまう。...「水天需」(爻辞)

  • 「水天需」(その1)

    「需は孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。貞にして吉。大川を渉(わた)るに利し。」序卦伝には、「蒙は物の稚きなり。物稚きは養わざる可からざるなり。故に之を受くるに需を以てす。」とある。稚き者は精神的には教育が必要だが、物質的には飲食が必要である。「需は孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。貞にして吉。」需は待つということである。待つということは、行動することと同じく重要なことである。そこで、「孚(まこと)有り。光(おおい)に亨る。」という言葉がかけられている。物事が重大であればあるほど、その時期を待つことは重要になる。軽挙妄動する人間には正しく待つということが出来ない。必ず、時期の未だ至らないのに動き出し、失敗するものである。場合によっては、事業に失敗し、身を亡ぼし、家を亡ぼし、国を亡ぼすこともある。「...「水天需」(その1)

  • 「山水蒙」(その2)

    「山水蒙」の卦は、九二と上九の陽爻は、童蒙を教える師匠として、初六、六三、六四、六五の4つの陰爻は、教えを受ける童蒙として言葉がかけてある。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」この初六は年若く、身分低い子供と考えて、教育には規律を重んずべきことを説いている。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。」とは、子供の教育は規律をしっかり身に着けさせることである。「用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」しっかりとしつける必要があり、寛大にしてしまうと、後で恥をかくようになる。桎梏(しっこく)とは、桎は足かせ、梏は手かせであるが、悪いことをした時の、刑罰である。「九二、蒙を包む、吉。婦を納(い)る、吉。子(し)、家を克(よ)くす。」九二の陽爻は中...「山水蒙」(その2)

  • 「山水蒙」(その1)

    「蒙は亨る。我、童蒙(どうもう)に求むるに匪ず、童蒙、我に求む。初噬(しょぜい)は告ぐ。再三すれば瀆(けが)る。瀆るれば則ち告げず。貞しきに利し。」序卦伝に「屯とは盈(み)つるなり、物の始めて生ずるなり。物生ずれば必ず蒙なり。故に之を受くるに蒙を以てす。蒙とは蒙(くら)きなり、物の稚きなり。」とある。生まれる困難を示したものが、屯であったが、生まれた赤ちゃんは目が見えない。蒙昧である。目が見えるようになり、一人で歩けるように成るまでは面倒を見、そして独り立ちするまでは教育をしなければならない。その蒙昧を開く道を説くのが、蒙の卦の趣意である。蒙という字はつる草が覆い隠して樹が見えなくなっていることである。卦のかたちは、山の下に水で沼が広がっているとも言えるが、水を雲とすれば、雲が取り巻いて、山が見えない象と...「山水蒙」(その1)

  • 「水雷屯」(その2)

    「乾為天」と「坤為地」の次に来る六十二卦の始めであるので、説明するが、爻にかけられた言葉・爻辞はその卦の世界、時代に各爻がどの様に処すべきかを示すものである。「初九、磐桓(はんかん)す。貞に居(お)るに利し。侯を建つるに利し。」ここでの初九はこの卦の主爻である。最も重要な爻である。「磐桓(はんかん)す」とは磐は大きい石、桓は大きい柱で磐桓とはどっしりとしていることである。初九はどっしりと動かずに、正しさを守り、将来の国造りに備えている。私はこの初九を若き日の西郷隆盛を連想している。「六二、屯如(ちゅんじょ)たり、邅如(てんじょ)たり。馬に乗りて班如(はんじょ)たり。寇(あだ)するに匪(あら)ず、婚媾(こんこう)するなり。女子貞にして字(あざな)せず、十年にして乃ち字(あざな)す。」六二は下卦の中にいて陰爻...「水雷屯」(その2)

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